中白根の登りから北岳

白峰三山(一)

白峰三山(しらねさんざん)に行く二日前から喉が痛かった。どうも扁桃腺が腫れていたらしい。だが三山縦走は一年前から考えていた予定で、ここでやめたらかなり後悔することはわかっていた。多少の体調不良は登っているうちに直るだろうと考えて家を出た。
当初は一日目の行程を広河原から白根御池小屋までとしていたが、前日に昼まで寝ていたせいで夜に寝つけず、しかたなく初日の朝はゆっくりすることにして、甲府からのバスが停まる大樺沢出会すぐそばの広河原山荘のキャンプ場泊まりに変更する。いずれにせよ幕営だから、テントさえ張れれば場所はどこでもいい。これが単独行の気楽さである。問題は二日目の行程の長さで、次に止まる予定は北岳の向こう側にある北岳山荘のテント場である。白根御池からなら五時間半だが、下から北岳を全部登って下るので七時間を超えることになった。三日目の行程は北岳山荘から間ノ岳(あいのだけ)・農鳥岳(のうとりだけ)を越えて大門沢小屋のテント場を予定しており、こちらも七時間強かかる。二日続けて少々たいへんな行程となったが、致し方ない。最終日には大門沢小屋から短時間で奈良田に出て、そこにある奈良田温泉で一浴して帰るつもりでいる。


広河原の朝は早く、小屋泊まりもテント泊まりも関係なく五時前にはすでにみな起き出している。さすがにいちばん混むと言われている七月下旬の連休だ。早朝から小屋周辺はどこを見ても人だらけである。甲府からバスで来た昨日の夕方、駐車場が見える遥か前から林道の路肩に車が何台も停められていたくらいだから、その混雑たるや推して知るべし。山梨日日新聞社から出ている『山梨百名山』という本によれば、広河原に来る人たちの七割が北岳に登るという。今日はディズニーランド状態の山を歩くことになるが、わかって来ているのだから我慢するしかない。
(おそらく)シモツケソウ
(おそらく)シモツケソウ
とりあえず朝のうちは体調もよい。朝食を少々摂ってお茶を二杯ほど飲み、テントを撤収して小屋の前で水筒に水を詰め、まずは樹林のなかに向かって歩き出す。シモツケソウだろうか、霞のかかったようなピンクの花房が林のなかで暗い山道のそこここに甘く浮かんでいる。瑞々しい赤紫のホタルブクロも目を惹く。やや白っぽいクガイソウが誘うように細長い花の穂を揺らし、白いナデシコの仲間−たぶんセンジュガンピだろう−が草葉のなかに埋もれるようにひっそりと咲いている。紫色した横向きの筒状の花弁から白い舌をちょこっと出したような花もあって、ミソガワソウというらしい。
こういった花々を眺めながら行くと河原に近くなり見晴らしがよくなってきて、見上げる先には北岳バットレスが朝日を浴びて輝いている。その左手下に雪渓が見えてくると二俣もすぐだ。五弁の薄紫の花びらの中に黄色い雄しべの先が目立つのが日差しのなかに揺れている。あとで調べたらミヤマハナシノブといって、ここと白馬岳にしかないものだそうだ。二俣まででけっこう疲れたのでかなり休憩する。どちらかというと雪渓を上がる人の方が多そうだが、こちらは予定通り草すべり方面に向かうことにする。二俣から沢を離れて稜線へ上がる斜面は地図を見て予想した通り急で、ジグザグを切りながら高度を稼ぐ。だがここも花が多い。昨年の鳳凰三山は地蔵岳近くで出会ったタカネグンナイフウロに再会し嬉しくなる。無数の細くて白く短い花弁を持つモミジカラマツ、黄色い五弁のよく目立つミヤマキンポウゲ、密集して咲く花弁の先が棘のように尖る赤紫のハクサンチドリなど、ひとつひとつ名を調べていくとなかなか歩みが捗らないが、実は休憩も兼ねているので呼吸を整えるにはちょうどよい言い訳になるのだった。斜面のせいか徐々にお花畑が目立つよ うになる。何度も同じ種類の花が出てきて見飽きるほどだ。
大樺沢より北岳を望む
大樺沢より北岳を望む
さらに汗水垂らしながら登っていくと白根御池からの道と合流する。意外と早く稜線直下まで来たことに気づくが、とにかく疲れた。荷物を投げ出し身体のほうも投げ出して休憩かたがたあたりを見渡す。このあたりも見事なお花畑だ。クルマユリの強烈なオレンジ色が夏を感じさせる。ハクサンイチゲも咲いている。白い六弁の花の中央に緑の焦点を持ち、そのまわりに並ぶ雄しべの先が正面から見ると黄色いリングのように見える。女優の市毛良枝さんがどこかの山でこの自分の名の入った花に出会って感激したという。清楚な感じの花だ。
小太郎尾根に乗るとようやく視界が開け、目の前の堂々たる仙丈ヶ岳とご対面だ。山頂から左手に仙塩尾根が延びているのがかなり低く見える。あれはあれで二千三百メートル以上はある尾根なのだが北岳や仙丈ヶ岳が大きすぎて貧弱にしか見えない。この尾根の彼方には中央アルプスが見えるはずなのだが、朝もかなり経っているのでガスが立ちこめ真っ白な空間が広がっているだけだ。ここまでで登りの大半はこなしたことになるので、正面の仙丈ヶ岳を眺めながら道ばたに腰を下ろして休憩するうちに半時ばかり昼寝してしまう。体力的にこれはこれでよかったのだが、おそらく風邪の方も悪化させたらしい。短パンのまま風に吹かれていたので目覚めたときには下半身がかなり寒く感じていたのだった。
白根御池からのコースの合流点にて
白根御池からのコースの合流点にて
そこから肩の小屋まではすぐだったが、小屋前の小平坦地は昼時だからか人だかりがすごく、まっすぐ歩けない。小屋にカレーライスを頼んでいる登山者もいる。なぜか近くのベンチで花札をしている四人組もいる。今日はここまでなのだろう。売店で牛乳を頼んで飲み、朝食時に食べきらず昼用に残しておいた赤飯を少し食べて北岳に向かう。
小屋のすぐ上には紫色の背の低いミヤマシオガマ、草食動物の群のように丸く固まり黄色や赤茶色の花を咲かせるイワベンケイがあった。ミヤマオダマキがかたまって咲いている斜面で花を眺めて休憩していると、ほかの登山者がこれは何?と言いながら寄ってくる。それほどきれいな藍色の花だ。下向きの花を上向かせてみると中は白い。藍染めの浴衣から覗く首筋の白さといったところだ。 このあたりで仙丈ヶ岳がほとんどガスに覆われてしまい、周囲に見える山がなくなってしまった。しかもここから北岳の山頂まで、記憶の方もない。おそらく足下の花々だけを見ながら辛抱強く登っていったのだろう。
人だかりのしている高みに出るとそこが山頂だった。周囲は岩だらけであちこちにいままで見てきたような花がとりどりに咲いている。同じくらいに多いのは人間で、休み場所を探すのに苦労する。バットレスを登ってきたとおぼしきクライミングギアをぶら下げたクライマーを手始めに、テント縦走派もいれば小屋泊まりの人たちもいる。広河原から手ぶらで登ってきた中年男性までいる。日帰り山頂往復だとしても雨具くらいは持ってくるべきだろう。こんな感じで日本第二の高峰にはあらゆる形態の登山者がひしめいていた。もちろん標柱をバックにした記念写真の撮影待ち行列もできている。
ふだん歩いている静かな山とは全く違うところに来てしまって落ち着かない。ガスで遠望もほとんど利かない。苦労したわりには感激も中途半端なままで、久恋の山に登ったという実感が今一つ湧いてこない。
山頂にて
山頂にて
少し外れたところに腰を下ろし、ペットボトルのお茶を飲みながら足下から急角度に落ち込む谷間を眺める。かなり下までお花畑のスロープが続いている。どこからか、今日撮ったのを現像すると北岳の花という本ができそうだと話している声がする。花はいいのだが眺めは相変わらずない。北岳山荘とその背後の中白根だけがガスのなかに切れ切れに見えている。山荘周辺にはもうテント村ができているのがわかる。しばらく山頂でねばってみたが、眺望が得られそうにもないので諦めて下ることにする。あいかわらず肩すかしを食らったような気分は晴れず、やはり山は眺望と静けさが必要だと深く納得した。


ここから北岳山荘への下りはかなり急だ。こちら側を登ってくる人たちも多いがたいへんなことと思う。高山植物の群落があちこちにあってそれはそれで楽しいところだが、足下に注意が必要なのでそうそうよそ見もできない。荷も重いのでゆっくり下る。なかなか北岳山荘が近づかない。斜度がゆるみ出す頃、ようやく八本歯のコルへの分岐を越す。ここから左手下にコルから山荘への登山路を見下ろしながら行くが、なかなかこれに合流せず、一緒になったのは山荘に着いたときだった。ここまで山頂から一時間ほどしかかからないのだが、広河原から歩きづめなので気分上はもっと長くかかった気がする。
幕営料を払い、ビールやらジュースやらを買い込んでテントを張る場所を探しに行く。北岳を下っているあいだというもの、小屋の裏手にかなり広く空いている場所があるから場所選定には苦労しないだろうと思っていたが、そこに近寄ってみるとヘリポートで、もちろん設営できない。その近くのハイマツを切り開いた空き地の一つを泊場と決める。天気が良ければ鳳凰三山や甲府盆地が見えるはずの場所だが、よくなるどころか雨が降りだし、設営してなかに逃げ込み横になるとす ぐに寝てしまった。行動パターンが昨年の平ヶ岳と全く同じでわれながらおかしく思う。
辻山と雲に覆われる夜叉神峠(北岳山荘キャンプ場から)
辻山と雲に覆われる夜叉神峠(北岳山荘キャンプ場から)
雨はかなり強く何度も降ったようだ。何度か目が醒めては眠るを繰り返してようやく夕方になる。周囲の山座同定の声にテントから首を出してみると、あいかわらず大気は不安定だが雨は止み見晴らしがよくなっていて、下ってきた北岳と明日辿る予定の間ノ岳方面、それに鳳凰三山と彼方の富士山が見えている。これを撮ろうと三脚を構える人たちもいた。あちこちから聞こえてくる会話からすると、この雨の中を間ノ岳や、あまつさえ農鳥岳まで往復した猛者もいるようだ。雨具を着てテントの外で食事会や飲み会をしている面々もいる。食事と言えば、先日二泊三日で北八ツに行ったときもそうだったが、山行二日目の夕方は疲労のせいか食欲がない。朝作った赤飯の残りがまだ残っているがもうさすがに食べる気がしない。栄養だけは摂らないと明日に差し支えるので、家から持参した小魚の"いりこ"をちまちまと食べるだけで夕食とする。
北岳山荘キャンプ場より夕暮れの富士山
北岳山荘キャンプ場より夕暮れの富士山
日中寝過ぎたので夜は何度も目が醒めた。そのたびに喉を潤そうと小屋で買ったポカリスエットを飲むのだが、これの成分が腫れた喉にはよくないらしく、ぎりぎりと痛くなってまた目が醒める。二度ばかりこれを繰り返してようやく逆効果だということに気づく。しかも鼻水は出るわ咳も出るわで、気分は暗澹としてくる。持参の鼻炎カプセルに加えて市販の風邪薬まで飲み、喉の痛みは飴を舐めながら寝ることでごまかした。明日はどうしようかと思い悩むうち、いつしか熟睡していた。
(つづく)

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