落葉松峠『北八ツ彷徨』

名のある山に名のある登山者あり、名文を残す。八ヶ岳、とくに北八ツには、山口耀久(あきひさ)氏の『北八ツ彷徨』がある。1950年代後半、日本が高度経済成長に入る前の時期、北八ツはまだ登山者の姿もまれだったという。氏はこの北八ツを、ある時は仲間と、ある時は単独で歩き回り、森がいまより暗く峠の草原がいまより広かった頃のこの山域のよさを文章に残した。


山口氏は1926年に生まれ、戦火のさなかの1944年に獨標登高会を設立し、初代代表を勤めた。八ヶ岳、後立山連峰、北岳、甲斐駒ヶ岳に優れた登攀記録を残したという。これだけを知れば、このかたはアルピニズムの先端を行く闘争的なクライマーだったと思えるが、『北八ツ彷徨』から受ける印象はむしろ澄んだ目で森羅万象と自らの内面を語る詩人的感性の持ち主である。いや、同一人物にその両方の側面が併存しているのだろう、激しく困難に向かう挑戦者としての個性と、心象風景を自らの言葉で定着させようとする観照者としての個性が。この本の主題となっている八ヶ岳を歩き回っていたさなかの1958年、山の文芸雑誌『アルプ』の創刊に名を連ね、串田孫一氏らとともに終刊まで編集委員を勤めたのも不思議ではない。

『北八ツ彷徨』には数多くのエピソードが語られているが、なかでも特に強く印象に残る場所と出来事がある。

まずは明るい静けさに満ちた雨池と、そこで遊ぶ著者たちの姿だ。いかにも屈託がなく楽しそうな様子が繰り広げられて、森の中の遊び上手とでも呼びたいくらいだ。気心の知れた仲間と広い池の畔に幕営しては踏み跡もないあたりの森を散策し、筏を作って浮かべては半日楽しむ。皆と焚き火を囲んで合唱し、夕闇の中に筏を漕ぎ出した友の朗々と歌い上げる声に聞き惚れる。著者も闇夜に筏を出してみる。「湖心に出ると、夜が急に大きく広がったように思える。暗い山の夜、冷たい星のひかりだ。われはひとり湖上をゆく森の精。姿なく夜にまぎれて闇から闇をわたるという----」。

もう一つは、著者が「落葉松峠」と名付けた双子池東側の小さな峠での出来事だ。ときは晩秋、雨のため下山日を一日繰り延ばした著者を含む一行は蓼科山に登ろうという朝の覇気はどこへやら、雪のちらつく中をただ何となく幕営場所の北横岳から双子池へと下ってきた。両側に落葉松の木々が立ち並ぶこの峠にさしかかったところ、それまでの安穏とした山中の光景は一変し、風が吹き荒れ、降り注ぐ粉雪とともに黄葉した落葉松の落ち葉が激しく渦を巻いて舞い散る狂乱の世界となる。乱れ飛ぶ色彩と木々の咆哮。激烈なまでの季節の移り変わりは見るものを打ちのめした。「秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はひとり取り残されたような気がした。帰るべき日に帰らなかった自分たちの旅のおわりがひどくぶざまなものに思われた。」


ある年の夏、この本に誘われて北八ツを訪れ、あちこちに点在する池を巡って歩いた。山口氏が歩き回った頃に比べれば汀の線など変わってしまっているかもしれないが、それでも雨池は開放的でありながら俗化していない静謐さがあった。湖水を取り巻く低い山稜の上には空が大きい。「落葉松峠」のほうは、双子池ヒュッテに続く林道が開けていて当時とは面影が違うだろうし、このときは風もなく落ち着いた眺めである。もちろん季節も異なる。それでもサルオガセが枝から下がる灰緑色のカラマツの林は、人影まばらな半世紀前の山の姿を彷彿とさせるのだった。このときは双子池に幕営し、亀甲池を経て蓼科山に登って帰った。
雨池
雨池
その翌年、今度は山々の頂を踏むことを目的に再訪した。このときは北横岳に登って幕営地の双子池への途中にある大岳で、かつての北八ツと思えるものを見つけた思いがした。北横岳を背負って見渡す森の広がりは清浄なもので、緩やかなわりには人手の跡の少ない山襞が続き、そのなかに雨池が控えめに湖面をみせている。かつて山口氏の一行が落葉松峠に下る前にここで昼寝をして時を過ごし、予定していた蓼科山をとりやめたのも納得できる。訪れたのが夕方の4時で誰も来ない時間帯だったというのも幸いして、開放的なのにひっそりとした山の空気にひとりで長いこと浸ることができた。
この二度目の山行では、大岳を下って双子池に泊まった翌日、横岳を回り込んで雨池峠まで行き、縞枯山と茶臼山を越えて麦草峠に下り、丸山と中山を経て黒百合平に幕営した。三日目に天狗岳を往復して渋ノ湯に下ったが、何年かぶりに再訪の天狗岳は八ヶ岳南方の眺めがよかったものの、早朝だというのにあたりに沸き上がるガスで南アルプスや北アルプスはまったく見えず、朝日が当たり始めた頃には天狗岳そのものまでがガスに覆われてしまった。この最終日は梅雨の合間の平日で、さしもの人気コースも閑静なものだった。


残念ながら、『北八ッ彷徨』に書かれた魅力的な山中遍歴の数々は、かなりの部分が先行者特権と言うべきものとなっている。林道が通ってしまった今、氏が見た落葉松峠の光景をそのまま目にできる可能性はない。雨池には筏を浮かべることはもちろん、池の畔に幕営する事も焚き火の炎を立てることも、登山道を外れて苔に覆われた森の中を彷徨うこともしてはならない。八ヶ岳は国定公園とされ法的に規制されていることはもとより、この登山ブームの昨今、みながみな好きなところにテントを立てたり歩き回ったりしたら、デリケートな山の自然はすぐさま壊滅し、あとには裸地化した山の砂漠が残るだけだろう。往時の楽しみをそのまま再現しようとすることは今ではただ無神経なだけの行為だ。
しかし氏の書いた八ヶ岳へのいざないは、現在でも心に届く。岩の頂稜、高嶺の花、「針葉樹林帯のみごとさ」、「裾野に広がる高原の雄大さ」を語る氏の言葉はそのままいまの八ヶ岳、北八ツの魅力そのままだ。たとえ稜線に小屋がひしめき合おうと麦草峠に観光客が溢れようと白駒池にボートが浮かぼうと、変わるものではない。氏の著書を読んで往時に思いを馳せるひとは、人のあふれていない頃合いをねらって現地に出かけていっては昔の面影を探し、いまに残る豊かさに感謝し、これを傷つけないようにしよう。そうすることで、同じく山口氏の世界にあこがれて、八ヶ岳を、北八ツを訪れる人々へ、親愛なる挨拶を送ることができると思うのだ。
2000/7/1-2、2001/7/7-9

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