何 を 話 そ う か

第4回


松村任三とは誰か





 松村任三は「はじめに」でも触れましたが、1856(安政3)という江戸時代末期に現在の茨城県高萩市松岡で、水戸藩中山氏の家老の家に長男として生まれました。15歳のときに、松岡藩の貢進生として、大学南校(東京帝国大学の前身)に入学しました。やがて、東京大学の助教授、さらには第2代植物学教授となり、日本の植物学の黎明期を担う業績を上げたのです。
 江戸時代までの日本の植物学は、主に薬種として有益な植物を研究する本草学が中心でした。中国から伝わった李時珍の『本草綱目』や貝原益軒の『大和本草』、小野嵐山の『本草綱目啓蒙』などが代表的な研究書でした。植物学者(本草家)はそれらの文献を渉猟して、植物や鉱物、動物の薬効に精通することが求められたのです。
 幕末期には多くの外国人が来日し、学問としては日本人とかかわりなく日本の植物を採集し、研究対象にしました。
 シーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)も、ドイツの博物学者で植物学を深く学び、日本の地理や気候などと共に植物や天文も調査したようです。天文では、事件で連座した江戸天文方の高橋景保と交流がありました。
 とくに幕末から明治初期にかけては、列強各国から植物学者、園芸家が相次いで来日し、日本の植物の学名が確定されていきます。しかしそのことは、それらのタイプ標本(学名をつける際に基準として指定した標本のこと)が日本に存在しないということを意味します。学名と日本植物が同定されない状況が生じたのです。
 日本の植物学は、学名と実物との同定という地道で困難な基礎作業から始まりました。この基礎的な事業に最初の大きな貢献をしたのは、小野嵐山に学んだ最後の本草家伊藤圭介(1803〜1901)でした。伊藤は、シーボルトについて西洋の植物学、特にリンネの植物分類学を学び深く理解しました。そして、それを基に日本本草学と近代植物学の橋渡しをしました。
 当時の東京大学には伊藤圭介だけでなく、コーネル大学留学から西欧仕込の植物学を携えて帰国した矢田部良吉(1851〜1899)がいました。松村任三は矢田部に師事しながら、伊藤らの本草学の成果をも援用しつつ、学名と和名(日本に植生している植物)との照合というこの困難に立ち向かいました。矢田部と共に植物採集に日本各地を飛び回り、標本作製に努力したのです。
 その中で、まだ正式に学名が付されていなかった「ソメイヨシノ」や「ワサビ」などを命名したことはよく知られていることです。
 松村任三が目指したものは、まずは一日も早く最新の植物分類学の知見に基づいた図鑑を完成させることでした。その成果が、松村任三の『日本植物名彙』、『帝国植物名鑑』などに結実します。『日本植物名彙』は熊楠も所持していて、盛んに引用しているものです。