何 を 話 そ う か

第2回


神社合祀


 明治政府は、西洋列強に伍するため近代化を効率的に進めようと、急激な中央集権化をおしすすめました。

その一つに神社合祀があります。

「市町村合併はその行政的側面であり、神社合祀は国民教化の側面であった」とされています。

市町村合併に関しては、明治政府が徳川幕府から政権奪取した直後に、78千強あったものが15年ほどで16千弱にまで統合を推し進めました。

 一方の神社合祀については、1906年(明治39年)に天皇の名で勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地の譲与に関する件」が発せられました。

 太平洋戦争での敗北後に国教分離がなされ、それが私たちには当たり前のことなのですが、それ以前は天皇制の支配基盤としての神社神道が「国教」でした。それはいわゆる絶対天皇制と深く関わることです。

国民を精神的に天皇制にまとめあげるための道具として、神社をまつることが国家ですすめている宗教として、一村に一社とし、神社の氏子区域を行政区画とし、政治的にも思想・宗教的にも統一的に国民を支配するシステム作りの一環として発せられたものです。

「国家の宗祀」として、神職のいないところや、継続的な経営が望めない廃社同然のところ、小祠や「一時流行、運命不定の淫祠」を廃して神社を純化、寡占化することにより、公費を供進して神社を国家の統治機関の一部に取り込むことが狙いだったのです。

 しかし、実際に神社をまつる人たちの住む区域と行政区域とは一致するものではありませんので、人々の暮らしの現実とは大きくかけ離れたものになります。それに、信仰する神がその神社にまつられているとは限りません。そこで、一つの神社にいくつもの神を一緒くたにまつってしまえという乱暴な考えが、「合祀」です。

 この政策により当初19万社あった神社のうち、わずか3年ほどで4万3千社が廃止されました。実施の権限は知事に大きく任されたために府県によって温度差が大きく、いちばん積極的に推進された三重県では、驚くべきことに約9割の神社が統廃合されたのです。

 このような強引な合祀政策の推進により、古くからの人々の絆のあり方としての民俗・習俗が失われました。独特の祭礼などを伝えてきたものも、その多くが途絶えてっしまったのです。

そして、いつの時代にも共通することですが、新しい政策が打ち出されると、それによって利益を得ようとする人たちが、蜜に吸い寄せられてきます。

多くの神社は、古くから人々が大切に守り育ててきた豊かな神林を擁していましたから、その材木を伐採して売ることによって利益を得ようとする人たちが、当然のように現れます。それにより貴重な森が、国策に則って乱暴に開発され、売りさばかれて、そこに棲むたくさんの動植物が絶滅しました。それらの動植物の中には、きわめて貴重なものも多く含まれていたのです。

 南方熊楠の住む和歌山県も、三重県に次いで大きな影響を受けたところです。長いこと自然を相手に学問研究を続けてきた熊楠にとって、このような事態は由々しきことでした。熊楠はすぐに合祀反対の旗色を鮮明にし、運動の先頭に立ちました。大酒のみの彼は、酔った勢いで賛成派の集会に乗り込み、狼藉を働いた廉で入牢することもありました。