何 を 話 そ う か

第1回


知の巨人と天文


南方熊楠は、1867年(慶応3)に和歌山県和歌山市に生まれました。博物学者、また民俗学者として有名ですが、熊楠の学問的業績は多岐にわたり、粘菌に熊楠の名前がつくほどの業績もあります。

 さらに、熊楠は天文学に関しても決して無縁ではありませんでした。イギリスに留学して『ネイチャー』誌に発表した彼の最初の論文は、1893年に英文で書かれた「TheConstellations ofthe FarEast」(「極東の星座」)でした。全集には英文しか採録されていませんが、日本語訳は現在入手しやすいものとして津本陽著『巨人伝』(文芸春秋社)と松井竜吾著『南方熊楠一切知の夢』(朝日選書)があり、松井竜吾氏のほうにはこの論文に関する論究が載っています。

 この論文は、1893年科学誌『ネイチャー』(105日号)に寄せられた、MABと署名された読者の質問に答えたものです。MAB氏の質問は5項目ありますが、熊楠は最後の二条(2項目)への回答ということになっています。

その質問内容は次のようなものです。

 「4 現在、中国、ポリネシア、インド、アフリカ、アメリカなどの民族は、それぞれ固有の星座構成を用いているか。

  5 もしそれぞれの民族が固有の星座を用いているとするならば、それらを各民族の近親関係を判断するために使えないものか。」(松井氏の訳による)

 熊楠は、この二つの質問への回答として、次のような論理構成で臨んでいます。まず最初に、中国の星座構成の分析。これには、熊楠が10歳のときから5年の歳月をかけて全105巻を筆写した『和漢三才図会』の知識が総動員されて、中国の星座構成を詳細に解説しています。

 そして、このような中国の星座構成は中国独自のものであり、朝鮮や日本は近世に至るまで中国の星座構成に拠っていたとして、「独特の神話にみちた国(日本)が、自前の星座をほとんど持たないのは奇妙なことである」とも述べています。

 

 結論としては、冒頭に熊楠は言います。「私は、それぞれの民族が必ずしも独自の星座構成を持つものだとは考えていない。」

 言い替えるならば、星座構成は民族個々に創生されるのではなく、むしろ文化圏という考え方に依拠することになります。

独自の星座構成を創生するには、非常に根気のいるシステムとして天文を観察・観測する体制が必要になります。それにはある程度文化の成熟が求められます。

 独自の文化を形成するほどに国家が成熟する前に、古代の日本、朝鮮は中国の文化的影響下におかれたため、固有の星座構成を持つことができなかったものと考えられるのではないでしょうか。

 そして、MAB氏の第5の質問に対する回答は、中国とインドの星座構成の相違を比較検討した結果として、次のように述べています。

少し長くなりますが、松井氏の訳文を引用します。

 「星座を民族の近親性を確認するために使うことの意義という点については、私の意見はどうも否定的なものにならざるを得ない。つまり、中国とインドのような非常に異なる民族の星座の間にさえ、前述したような著しい類似が見られる、という事例にこと欠かない一方この問題は明らかにある社会から別の社会に伝わっていくという伝達性の高いものであり、現在の世界の星座の状況は、民族の近親性というよりは、各国間の交流による結果によるものだからである。」

 この問題も、つまるところは熊楠が言うように伝播性(伝達性)の高いものであることから、やはり文化圏に関わってくるものだと思われます。

たとえば、古代の日本に即していうなら、日本にもある程度の原始的な天文知識はあったはずです。沖縄地方に星見石があるように、一定の星ぼしの出現で季節の巡りを計るということは当然したでしょう。

 しかし、残念ながら古代の日本人は文字を持っていなかったため、体系化し広域化・普遍化することが難しかった。そのような天文知識が固定されないうちに、中国文化の影響が朝鮮半島を通して押し寄せてきたために、それらは表面から駆逐されていった。

 天智天皇が、日本で初めて中国の天文学を本格的に導入したのには、時代の要請がありました。当時の大和朝廷は、各地の豪族を平定して、稲作に基づく安定した富の蓄積が実現していました。 

そのころ、朝鮮半島では大和朝廷が支援していた百済が唐・新羅の連合軍に滅ばされ、半島からの撤退を余儀なくされました。それだけでなく、今度は大和が唐と新羅の連合軍の脅威にさらされることになったのです。

 この危機に臨んで、朝廷の権力を強化し軍備を増強することが図られました。それには中国式の中央集権的な政治制度と、それを支える学問体系が優れたお手本として、目の前にありました。 

当時の最新学問の一つであり、国家の吉凶を占う天文学もそのような歴史的要請によって、日本に導入されてきたのでした。

 このように、星座構成を含む天文学(というよりも天文に関する知識体系そのもの)は文化圏という範疇で捉えたほうが良いということになります。そう考えるならば、熊楠の結論はそれなりに肯けるものでしょう。