マイスタージンガー職匠歌人


マイニンゲン宮廷劇場
Meininger Hoftheater

 19世紀後半のドイツ中部マイニンゲンにおいて、斬新な演出で一斉を風靡した演劇アンサンブル。その創立は1776年に遡るが、1866年に、後に「劇場公」の異名を取るゲオルクⅡ世がザクセン=マイニンゲン公に即位すると、公の指導の下、宮廷劇場はそれまで手がけていたオペラやバレエのレパートリーを捨て、演劇専門劇場に特化した。公は団員との協議の上に民主的な劇場運営を心がけ、レパートリーとしてはシェイクスピア、モリエール、ゲーテ、シラー、レッシングなどを重視。従来のヨーロッパの劇場では、古代ギリシア悲劇を上演する際も、フランス古典劇風の衣装を用いるなど、演出に時代的な歪曲がつきものだったが、マイニンゲンは作品の時代に応じた衣装、舞台、小道具など、徹底して作品に忠実な演出を心がけ、上演ごとに舞台装置を新作した。(通常の劇場では舞台装置は複数の作品で使い回されていた。)同時に優秀な劇場監督(ルートヴィヒ・クローネク)や女優・俳優(エレン・フランツ[後にゲオルクⅡ世の妻となる]、カール・A.・デヴリエント、ルートヴィヒ・デソワールなど)が招聘され、劇場の評価は次第に高まり、1874年から90年にかけて行われたヨーロッパ巡業での大成功でマイニンゲン宮廷劇場は、その名声を不動のものにした。
 劇場の基本理念は、上記の方針に加え、「演出方針の徹底した一貫性」、「統率されたアンサンブル(端役といえど作品に忠実に演技する。また主役といえど演出の統一性を乱してはならない)」、「対照的な舞台、人物配置を極力避ける」、「群集にも主要人物同様の演出指導を徹底する」などといった「マイニンゲン原則(Meininger Prinzipien)」にまとめられ、コンスタンティン・S.・スタニスラフスキー、マックス・ラインハルト、オットー・ブラームなど後の著名な演出家たちに多大な影響を与えた。また、これらの人物からも分かるとおり、マイニンゲン宮廷劇場は自然主義の成立にも寄与しており、その起爆剤となったイプセン『幽霊』(1881)の北欧以外でのヨーロッパ初演(1886)も成し遂げている。「マイニンゲン劇場」と名を変えた劇場は、現在もドイツ有数の芸術劇場として活動を続けている。
 

幕間劇(伊:Intermedio / Entr'acte / 仏:Entracte / 独:Zwischenspiel

 演劇(主に悲劇)の幕間に披露される劇。もともとは、幕間に客を退屈させず、同時に次幕への集中力を蓄えるため、或いは幕間の舞台転換と役者の疲労回復の時間を稼ぐために行われる軽い内容の余興だった。古代ギリシア劇に幕間劇は存在せず、朗詠や合唱が幕間の埋め草役を果たした。軽い余興が始まるのは古代ローマ劇からのことである。
 ローマ時代には人や動物を滑稽に物まねする「ミーモス」や現在のパントマイムの原型である「パントミーモス」が幕間に演じられた。中世になると宗教劇などの幕間に短い笑劇が演じられるようになり、16世紀にイタリア(「インテルメディオ[インテルメッツォ]」)やフランス(「アントラクト[アントルメ]」)やイギリス(「インタールード」)やドイツ(「ツヴィッシェンシュピール」)などで幕間劇は大きく発展した。主役となる演劇は高尚な言語であるラテン語(後にはイタリア語やフランス語)で上演される一方、幕間劇は方言も交えた地元の言語で上演される卑俗な喜劇で、多くは仮面劇の体裁を取り、音楽やダンスも伴った。
 こうした幕間劇の典型的な例を、シェイクスピア『真夏の夜の夢』(1595 or 96)に現れる劇中劇「ピュラモスとティスベ」に見ることができる。イタリアの幕間劇からは18世紀以降オペラ・ブッファ(コミック・オペラ)が生まれ、フランスのそれからは宮廷バレエが誕生したとされる。オペラ・ブッファの基礎を築いたペルゴレージの歌劇『奥様女中』(1733: La serva padrona)は、もともとは3幕もののオペラ・セリア(悲劇オペラ)に挟まれた2編のインテルメデイオが結合した作品である。宮廷劇場での演劇の幕間に上演された幕間劇がこのように独立することは、同時に民衆劇場の成立も意味していた。幕間劇は演劇よりオペラの世界でより長く命脈を保ち、現代では各国語での幕間劇に対する上記の名称は、むしろ「間奏曲」を指す場合が多い。
 

マジック・リアリズム → 魔術的リアリズム

 

魔術的リアリズム(独:Magischer Realismus / 英: Magic realism / 西:Realismo mágico

 「幻想的リアリズム」とも呼ばれる。現実世界(リアリズム)と非現実世界(魔術:夢や空想など)の融合した描写を目指す文学様式。もともとは1924年のマンハイムでの美術展を評してドイツ人美術評論家フランツ・ローが創作した用語だが、現在は文学様式を指す名称として定着している。魔術的リアリズムは20世紀初頭にドイツやイタリアで産声を上げるが、最終的には1950年代のラテン・アメリカにおいて飛躍的な発展を遂げる。合理主義が進み、民族伝承や宗教や神話といった非現実世界とは既に折り合わなくなっていたヨーロッパとは異なり、当時のラテン・アメリカではそうした世界が現実世界にまだ色濃く影を落としていたためである。その先駆者はグァテマラの作家アストゥリアス(『とうもろこしの人々』[1949])であるとされ、代表的作家にカルペンティエル(『この世の王国』[1949:この小説の前書きは、魔術的リアリズムが如何にラテン・アメリカ文学で可能となるかを述べており、魔術的リアリズムの記念碑的な宣言文となっている])、ガルシア=マルケス(『百年の孤独』[1967])ルルフォ(『族長の秋』[1975])などが挙げられる。ボルヘスや、コルタサルを同派の作家に数える向きもあるが、彼らの幻想的文学が必ずしも自国の風土に基づいたものであるとはいえないため、見解の一致を見ていない。
 「呪術的・神話的色彩を帯びた作品世界」、「西欧作品とは異なる作品内の時間的・空間的概念」、「語り手が取り続ける作品世界への一定の距離感」などが魔術的リアリズム作品の特徴であるが、神話や民話を尊重するロマン主義が栄えたドイツにおいてこの文学様式は現代も違和感がなく、ユンガー(『大理石の断崖の上で』[1939])、グラス(『ブリキの太鼓』[1959])、ジュースキント(『香水』[1985])、シュナイダー(『眠りの兄弟』[1992])など、魔術的リアリズムの名手を輩出している。
 

マドリガーレ(伊:Madrigale


 詩型の一種。もともとは1313年作より確認されている牧人たちにより歌われていた1行詩節の民衆詩。主に恋愛叙情詩として、14世紀以降、ペトラルカやボッカチオやベンボ、アリオスト、タッソらイタリア詩人たちによって、牧歌的且つ官能的で、風刺性や道徳性を有する洗練された短詩型へと発達した。詩形式は当初比較的厳格化しており、テルツァ・リーマ(三行連句)が23連の後に12連の押韻詩節(リトルネッロ:繰り返し詩節)が続く形であった。だが16世紀以降は形式もより自由になり、イアンボスの711音節からなる13行までの詩節を指すようになる。詩節が14行を超えるとマドリガロン(madrigalon)と呼ばれた。押韻も自由で、韻を踏まない行(孤韻)も許容された。16世紀末からは、形式が再び厳格化し、3連のテルツァ・リーマの後、リトルネッロ(マドリガーレでテルツァ・リーマの後につく押韻した二行連句)が付く形式(abb/cdd/eff/gg/hh)が確立した。イタリアではアルカデルト、マレンツィオ、モンテヴェルディらの作曲家により曲が付けられ伴奏付き多声歌曲として歌われたが(アルカデルトはフランドル人)。曲が付けられたマドリガーレは、16世紀後半にイギリスに輸入され流行し、英語でいう「マドリガル」は現在音楽ジャンルとして一般に認知されている。またマドリガーレは、後のバロック時代のオペラやオラトリオの主要な歌詞としても重要である。


マニエリスム(西:Manierismo / 仏:Maniérisme

 本来は造形美術用語であり、ルネサンス後期からバロックへの移行期にかけて現われた曲線やデフォルメを多用し動的でアンバランスな構図を好んだ芸術様式を指す(代表作はミケランジェロ「最後の審判」[1541]或いはティントレットやエル・グレコの作品群)。文学に関しては、文芸批評家クルティウスが、1530年から1630年にかけてのヨーロッパ文学に流行した一大流派をマニエリスム文学と規定した。従ってマニエリスム文学は、一部バロック文学(17世紀初頭から18世紀前半)に被ることとなる。美術同様文学でもマニエリスムは動的なイメージを好み、誇張や多彩な修辞を駆使した技巧的な文体形式を重視した。そこにはルネサンスから派生したものの、ルネサンスを特徴づけた自由闊達なヒューマニズムはもはや見られず、陰鬱でグロテスクな人間描写も厭いはしなかった。
 各国のマニエリスム文学としては、スペインのゴンゴリスモ、イタリアのマリニズモ、フランスのプレシオジテ、イギリスのユーフュイズム、ドイツのシュヴルストなどがあり、代表的作家にはスペイン詩人ルイス・デ・ゴンゴラ、イタリア詩人ジャンバッティスタ・マリーノ、フランス詩人モーリス・セーヴ、イギリス作家ジョン・リリーなどが挙げられる。
 
マニエリスムはややもすると空虚な形式主義に陥り勝ちで、同語源を持つ「マンネリズム(形式主義、マンネリ)」と同義に扱われる場合も多い。また、ルネサンスの模倣芸術との否定的評価も一般に広がっている。しかし現代では、当時の混沌とした時代背景を映す文学形式としてマニエリスムの再評価が進んでおり、トルクァート・タッソの『アミンタ』(1573)や『エルサレム解放』(1575)などの牧歌劇叙事詩は、その文学性が高く評価されている。
 

マニフェスト(仏:Manifeste / 独:Manifest

  本来は政治の世界において、個人あるいは政治団体が、民衆に対して自らの政治的主張や方針を公に伝える「宣言文」の意であるが、文学にあっては、ある文学思潮の主張や目的を公的に宣言する文章を指す。「クレド(Credo)」(信条告白)と称される場合もある。既存の潮流に対する批判から始まり、それを刷新する自らの文学観とその実践プランを開陳した後、このプランが成功した暁のバラ色の文学的将来に言及して文章を締め括ることが一般的である。
 文学におけるマニフェストの嚆矢は、フランスにおける古典主義からロマン主義への脱却を宣言したユゴーの『クロムウェル』序文(1827)であるとされるが、当時は自作の序文でマニフェスト的な文章を発表することがしばしば行われた(ゴーチェ『モーパン嬢』[1835]序文、ゴンクール兄弟『ジェルミニー・ラセルトゥー』[1865]序文など)。19世紀後半には、フランス・ドイツの文学界で新聞や雑誌なども通じて数々のマニフェストが発表され、以降の自然主義(コンラーディ『我がクレド』[1885])、象徴主義(モレアス『象徴主義宣言』[1886])、未来派(マリネッティ『未来派宣言』[1909])、ダダイズム(ツァラ『7つのダダ宣言』[1924])、シュルレアリスム(ブルトン『シュルレアリスム宣言』[1924-42])など、様々なモダニズム文学の勃興期には必ずといっていいほどマニフェストが書かれている。

魔法劇(独:Zauberstück / Zauberspiel

 バロック演劇の影響を受け、18世紀から19世紀にかけて、ドイツ語圏、特にヴィーンにおいて発達した演劇ジャンル。その原型は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』(1595 or 96)や『テンペスト』(1612)、或いはカルデロンの『驚異の魔術師』(1663)に認めることができ、(せり)や吊るし籠や短時間での場面転換といった斬新な舞台装置を駆使して、魔法使い精霊などが登場する超自然的な世界を表現する。
 魔法劇の成立には、魔術がこの時期に、中世キリスト教社会の陰鬱で否定的なイメージから脱し、現代にまで通じる幻想的・魅力的なイメージを有し始めた点が大きい。ドイツ語圏で発達した原因としては、ファウスト伝説を始めとして、魔術的モティーフを扱う伝承が数多く存在したことによる。登場人物には、そうした伝説上の人物の他、コンメディア・デッラルテの影響を受けた
や、フランスの「妖精劇」、或いは神話からの人物も使用された。
 魔法劇はヴィーン民衆劇において、18世紀後半のハーフナーによりその基礎が形作られ、1800年頃に最盛期を迎えた。そのメッカとも呼べるヴィーン郊外のレオポルドシュタット劇場では、マリネリやヘンスラーやグライヒらが座付き作家として活躍したが、特にライムントはロマン主義的特長を存分に打ち出した数々の魔法劇でその名を不動のものにした。現在もこのジャンルで尚絶大な人気を保ち続ける作品に、シカネーダー作モーツァルト作曲の歌入り芝居(ジングシュピール)『魔笛』(1791)がある。



マリヴォダージュ(仏:Marivaudage

 ボーマルシェと並び、18世紀フランスを代表する劇作家であるP.C.d.マリヴォー(Marivaux)が用いた文体の呼称。ウィットに富む気取った言い回しを特徴としており、『恋の不意打ち』(1722)、『愛と偶然の戯れ』(1730)、『偽りの告白』(1737)といった現代にも連なるロマンチック・コメディに用いられ、マリヴォーを特徴付ける文体として一世を風靡した。マリヴォダージュは、前世紀に流行したプレシオジテとも共通性を有するが、庶民性や心理描写の繊細さにおいて勝っている。その文体は、ヴォルテール(Voltaire) やラ・アルプ(La Harpe)を始めとする同時代の作家や批評家たちには、持って回った不自然なものであるとして批判されたが、18世紀後半には、当時興隆を迎えたロココに馴染む文体として広く受け入れられた。そして現代では、それまで見られなかった精緻な心理描写や庶民生活の活写を可能にする文体として、高く評価されている。また、今日、マリヴォダージュは一般名詞化しており、「マリヴォー風文体」の他に「気の利いた会話や恋愛遊戯」の意でも使用される。



マリニズモ(伊:Marinismo

 17世紀前半のバロック期に活躍したイタリア詩人ジャンバッティスタ・マリーノを模倣した文学流派。彼の代表作『アドーネ』(1623:オヴィディウス『変身物語』[1‐8?]中のアドニスとヴェヌスの物語を主題とする長編叙事詩)が示すように、過度な装飾、奇抜な発想、隠喩の多用、華麗な修辞などがその特徴であり、良きも悪しきもバロック文学の典型とされる。こうした傾向は、イタリアにおけるマリニズモ同様、16世紀から17世紀前半にかけてヨーロッパ各国でマニエリスムと呼ばれる様々な分派を生んだ。
 スペインでは詩人ルイス・デ・ゴンゴラにちなみ「ゴンゴリスモ」として一世を風靡し、イギリスではリリーが書いた教訓物語『ユーフュイーズ』(1578-80)から「ユーフュイズム」と呼ばれ、シェイクスピアにも影響を与え、フランスでは『プレシオジテ』と呼ばれる優雅さや技巧性に重きを置いた作風が流行し、ドイツでもホフマンスヴァルダウやローエンシュタイン作品の特徴とされる「シュヴルスト(比喩や教養的な示唆に富んだ陰鬱で作為的な文章)」に大きな影響を及ぼした。
 ゴンゴリスモは特に「文飾主義」とも呼ばれ、教養を前提とした、日常言語とは全く異なる用語を模索する姿勢に対して国内に論争を巻き起こしたが、マリニズモも17世紀末には詩人集団である「アカデミア・デラルカディア(アルカディア協会)」からその非自然性が痛烈に批判された。だが現在ではバロックの再評価と共に、その最盛期を示す流派として肯定的に評価されている。



ミザンセーヌ(仏:Mise en Scène

 演劇や映画で主に用いられる用語で、英語では”placing on stage”と、また日本語では「演出」と訳されることが多いが、仏語本来の意味するところは、作品の編集やカメラワークを除いて、舞台の構造、舞台上に置かれる大道具・小道具の配置、照明の工夫、衣装、俳優の動き、そして演技そのものまで、演劇なら観客、映画ならカメラの前で繰り広げられる作品本体以外の構成要素すべての構築技術を指す。この内、コンサートなども含めて、舞台を、照明共々構築する技術を「ステージング」、俳優の立つポジションを指定する技術を「ブロッキング」と呼び、特にブロッキングは作品に指示されている場合も多いが、作品を舞台化・映画化するに当たっては最も基本となるミザンセーヌである。つまりは、台詞しか描かれていない戯曲・シナリオにそれ以外のすべての味付けをして映像化する技術がミザンセーヌといえる。この点で、台詞を持たないバレエ作品は、ミザンセーヌが「振り付け」として最大限発揮される芸術作品といえよう。19世紀末の自然主義以降、有名演出を記録した「演出手帳(“livrets de mise en scène”)」が流布し、大都市の有名舞台を地方の小劇場が模倣することが可能になった。

 

ミスディレクションレッド・へリング


ミステリ(英:Mystery fiction


 犯罪や謎が解かれていく過程を描く小説。探偵(的な人物)が犯罪事件を解明するケースが最も多く、その場合は「推理小説」、「探偵小説」あるいは「犯罪小説」とも呼ばれる。(「犯罪小説」は、ニューゲート・ノヴェルのように、謎解きを伴わず、犯罪そのものを題材とする場合もある。)
 ミステリの起源としては、古くは『デカメロン』(134951)や『カンタベリー物語』(1387-1400)の挿話、近くはヴォルテールの『ザディグ』(1748)やディケンズの『バーナビー・ラッジ』(1841)、或いはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880)などがミステリ的な題材を扱っているが、一般的に認知された最初のミステリは、ポーの『モルグ街の殺人』(1841)であるとされている(E.T.A.ホフマンの『スキュデリ嬢』[1819]が最初のミステリであるとする説もあり)。
 その後ミステリは主にイギリスにおいて、ウィルキー・コリンズ(『白衣の女』
[1860]、『月長石』[1868])を経てドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズ(18871927)で絶大な人気を得、完全にジャンルとして確立した。しかしこうした探偵の魅力的な性格と波乱万丈の筋立てを重視するミステリとは袂を分かつ意味で、所謂「本格推理(探偵)小説」の方向が模索され、ヴァン・ダイン(『グリーン家殺人事件』[1928]、『僧正殺人事件[1929])、やエラリー・クイーン(フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの合同ペンネーム:『ローマ帽子の謎』[1929]、『Yの悲劇』[1932])らが秀作を次々と発表し、読者を騙さないフェアプレイのトリックを基本とする「アメリカミステリ」の流れを作った。
 アメリカではほぼ同時に、従来のミステリとは違った意味で探偵の性格を際立たせる「ハードボイルド」(非情な探偵、冷徹な文体、本格的な推理は存在せず)が誕生し、この路線はハメットやチャンドラーといった作家が現れ、パルプ・マガジンという発表母体を得ることにより、文学ジャンルとして確立した。他方、現代において最も人気のあるミステリ作家の一人であるアガサ・クリスティは、「信用できない語り手」や、「安楽椅子探偵」といった先進的ミステリ手法を用いることもあるが、作品全体の傾向としては「ホームズ」時代に立ち返った感がある。
 ミステリは、ある程度様式化された文学である以上、「法廷」、「密室」、「凶器」、「警部」、「スパイ」、「探偵」、「アリバイ」など、様々なガジェットを必要とし、特に多用されるものは、「法廷推理小説」、「密室推理小説」、「スパイ小説」などといった固有のジャンルを形成する。
 

ミッシングリンク(英:Missing Link

 ミステリ用語で、一見何の共通性も持たない人物たちが犠牲となる連続(殺人)事件において、被害者たちを結びつける人知れぬ共通点を指す。もともとは古生物学用語であり、生物進化の過程にあって、ある種族から進化した別の種族の存在が確認され、進化が余りにも劇的である際、その中間に位置する種族が存在したと仮定される場合があるが、それがミッシングリンク(失われた鎖の輪)と呼ばれる。(例:サルとヒトの進化の中間過程に位置するアウストラロピテクスなど。)同様に、言語学において、ある言語から別のある言語、また文化人類学にあっては、ある民族文化から別のある民族文化への推移が確認された際に、その中間に類推される言語や民族文化もミッシングリンクと呼ばれる場合がある。したがって、ミステリで用いられる場合ば意味がやや異なってくるが、ミッシングリンクはミステリ三大要素フーダニット・ハウダニット・ホワイダニットのうち、ホワイダニットを解明する重要な鍵となる。ミッシングリンクをテーマとする代表的な作品としては、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』(1936)が挙げられる。



ミニュイ社(仏:Les Éditions de Minuit

 我が国では「深夜叢書」と訳される場合もあるが、”Les Éditions de Minuit”は刊行物のシリーズ名ではなく、出版社名である。ミニュイ社は1941年、ドイツ占領下におけるパリで、小説家のヴェルコール(本名ジャン・ブリュレル)とピエール・ド・レスキュールにより、レジスタンス運動のパンフレットを発行する地下出版社として創立した。出版社は、パリ解放の日(1944825日)まで地下出版活動を続け、その後は通常の出版社として現在に至る。最初に刊行された小説は、ヴェルコールの『海の沈黙』(Le silence de la mer1942)で、現在もフランス・レジスタンスの象徴的な作品と見なされている。この出版社の刊行物により新たな文学ジャンル「ヌーヴォー・ロマン」が生み出され、特にサミュエル・ベケットについては、三部作(『モロイ』[1951]、『マロウン死す』[1951]、『名づけえぬもの』[1953年])以降すべての作品を刊行している。
 他にこの出版社が刊行したヌーヴォー・ロマンの作家たちとしては、アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモン、ミシェル・ビュトール、マルグリット・デュラス、ナタリー・サロート(彼女は、ゲシュタポの迫害から守るべく、ベケットを暫く自宅屋根裏にかくまっていた)などがいる。また、1950年からは、文芸・芸術誌「クリティーク」の発行元となり、ロブ=グリエは30年間にわたり文芸顧問を務めた。
 ミニュイ社は、戦後も一貫して新しい文学思潮の発表に専心し、政治的にもアルジェリア独立戦争に関して反政府的立場に立つなど、極めてリベラルな姿勢を保持している。20216月、フランス最大の出版社ガリマール社を傘下に持つ持株会社マドリガル社が、2022年からミニュイ社も参加に置くことが発表された。

 

身分規範(独:Ständeklausel

 戯曲創作上の規範のひとつ。アリストテレス『詩学』(前335)の拡大解釈により唱えられ、19世紀前半のフランス演劇まで存続した。フランス古典主義をドイツへと熱心に導入したゴットシェートの提唱で知られている。この規範によれば、悲劇は王侯・貴族の世界のみを描き、喜劇は市民生活を描くものとする。悲劇とは「名声ある人物が自らある過ちにより不幸に陥る物語」(アリストテレスの定義)であり、その代表作が、自らの無知により父を殺し、母を犯すこととなり身を亡ぼす王を描いたソポクレスの『オイディプス王』(B.C.427)とされる。偉大さと高貴さが欠ける市民の生活は、こうした悲劇的効果をもたらす「状況的落差」を生み出すことができない。すなわち、市民は「劣悪で醜い人間たちを描く喜劇」(アリストテレスの定義)のみの対象になりうるとした。18世紀半ば過ぎ、市民階級が台頭し、それに伴いドイツに「市民悲劇」が登場すると、身分規範はようやく打破され始める。
 

ミーモス(希:μμος / 羅:mimus / 独:Mimus

 古代ギリシア・ローマ時代に上演された即興喜劇。同時代の即興喜劇アテルラナとは異なり仮面は着用せず(代わりに厚化粧が施された)、プロの役者によって演じられ、女性役者も存在した。使用されるギリシア語やラテン語は極めて粗野で卑猥な方言であり、役者はオーバーな顔真似や身振りも交え、離婚、不倫、詐欺、窃盗などといった日常社会の暗部や時事トピック、或いは為政者を痛烈に笑い飛ばした(後に身振りが独立して「パントミーモス」となる)
 もともとギリシアの祭りで披露されていたパフォーマンスを、紀元前430年頃にシラクサのソフロンが喜劇に纏め上げたのがミーモスの嚆矢とされる(プラトンもミーモスの愛読者だった)。この後ミーモスは、ギリシアの牧歌詩人テオクリトスにより文学的に洗練されたが(『アドニス祭の対話劇』[3世紀前半])、大衆娯楽喜劇としてのミーモスも別に残り、ローマ皇帝時代(前27284)に入るとシールスやラベリウスにより風刺劇として完成され、アテルラナを駆逐するに至る。(カエサルが催し、両者が競った即興劇コンテスト[46:シールスが勝利]が、ミーモス躍進の契機とされる。)
 前2世紀頃からはフローラ祭の独立した喜劇として、歌や踊りも加味されたミームスが上演された。加えて女性役者は、時には観客の要望に応じてストリップまがいの所作を行ったりした。(しかし、こうした役には娼婦が使われた。従ってミームス女優の地位が市民のそれに並びようもないのは確かだが、その才能は広く世間に認められており、後にはユスチニアヌスⅠ世の妃となり政治に大きな影響力を行使した元ミーモス女優のテオド-ラ [?-548]のような女性も現れる。)
 ミーモスにはアテルラナ同様、類型化されたストック・キャラクターが登場し、代表的なものとしては、パラジートゥス(太鼓持ちのたかり屋)、シュトゥピードゥス(間抜け)、サニオ(苦虫つぶし)、スクーラ(道化者)などが挙げられ、シュトゥピードゥスやスクーラは道化のトレードマークとして禿げ頭に三角帽子、手には鞭といういでたちであった。
 人間の欲望を粗野な表現で暴き立てることを旨としたミーモスは、教父達には激しく非難され、厳格で聞こえた4世紀後半の司教クリュソストモスをして「ミーモスを見に行く者は、誰ひとりとして貞節にあらず。劇場に座りミーモス役者に見入る者は、姦通の罪を犯す」とまで言わしめたが、その人気は絶大で、悲劇も含めた全古代ローマ劇中、大衆に最も好まれた劇である。従ってローマ帝国滅亡後もミーモスは存続し続け、その演劇形式は、後にイタリアでの「コンメディア・デッラルテ」、イギリスでの「イギリス喜劇団」、ドイツでの「謝肉祭劇」や「ハンスヴルスト劇」或いはヴィーンでの「ヴィーン民衆劇」など、ヨーロッパ中の喜劇分野に大きな影響を与えたとされる(道化は中世に劇から独立し、舞台を離れ「宮廷道化」として日常的宮廷社会に組み入れられる)
 

未来派(伊:Futurismo

  20世紀初頭にイタリアを中心として流行した前衛芸術運動。未来主義とも呼ばれる。その提唱は一人の若いイタリア詩人フィリップ・トンマーゾ・マリネッティによりなされた。彼は19092月、パリの新聞「フィガロ」紙に11項からなる「未来派宣言」を発表、それまでとは全く異なる芸術観を示し、新しい芸術の創生を提唱した。それは、近代テクノロジーを機能のみならず美的にも評価し、その非人間性こそ新しい時代の人間を人間=超人たらしめるものであるとする考えである。その関連から戦争にも美しさを認めた(「銃口から撃たれたように唸りながら疾走する自動車は、サモトラケのニケよりも美しい」[「未来派宣言」第4項より])。この芸術運動は様々な分野で多くの宣言を矢継ぎ早に発表し、極めて人為的に進められたが、最も早くテクノロジーと芸術の融合を目指した点で現代芸術に大きな影響を与えた(それより以前に流行した自然主義でも、既に近代テクノロジー[工場など]は描かれていたが、それは人間性を抑圧する一種の否定的イメージを表現していた)。
 文学においても主流はイタリアで、マリネッティ自身が1912年に「文学技術宣言」を発表し、シンタックスの破壊や、形容詞・副詞・句読点の廃止や、擬声語や記号の重視などを提唱した(彼の実践として詩集『ザン・トゥム・トゥム』[1914]が挙げられる)。とりわけ活字や単語はそれぞれ統一の大きさやフォントで印刷される必要はないとしたため、作品には造形美術的要素も加わることとなった。これらの運動に参加した主な文学者は、ソッフィチ(『Bif & Zf+18 同時性:抒情的化学反応』[1915])、カルリ(『レトロスケーナ』[1915:小説])、カンジュッロ(『ピエディグロッタ』[1916]などである。未来派は、戦争礼賛の思想からもファシズムと連携したが、最終的にはイタリア政権から「退廃芸術」の烙印を押され、戦後は完全に衰退した。
 未来派はロシアにおいては象徴主義のアンチテーゼとして独特の発展をたどり、文学の占めるウエイトが増した。そのマニフェストは、フレーブニコフらが1912年に発表した『社会の趣味への平手打ち』である。マヤコフスキー(『ウラジーミル・マヤコフスキー』[1913:悲劇])、カメンスキー(『ステンカ・ラージン』[1916])、トレチャコフ(『ガスマスク』[1924:戯曲])などに主導されたロシア未来派はボリシェビキ(レーニンが率いるソ連共産党の前身)の支援を受けロシア・アヴァンギャルドの一大潮流へと成長し、またロシア・フォルマリズムの格好の実践の場となるが、スターリン独裁政権が確立すると形式主義として弾圧された。
 

見るなのタブー(独:Betrachtungstabu)

 神話や民話に見られるモティーフのひとつ。本来は我が国の神話分析のために提唱された用語である。主人公は箱や部屋の中や、背後を決して見てはならぬと言われたために却って好奇心が募り、結局見てしまったところ、それまで順調に進んでいた事態が暗転するという筋立てが基本である。見るなのタブーは洋の東西を問わず古代の神話や民話に見られ、神権や王権の神聖さを強調するために、見ることさえ叶わない禁忌を設けたことが始まりと考えられる。我が国でも現在も尚「三種の神器」に対してはこのタブーが適用されている。
 旧約聖書にも現れる見るなのタブー(振り返ったため、塩の柱となったロトの妻[創世記第19])は特にギリシア神話で名高く、「パンドラの箱」での見てはいけない壷(世の悪徳が詰まっていた)、或いはオルフェウスが振り返ってしまったため冥府に引き戻された妻エウリュディケーなどの話は後世の様々な文学に素材を提供した。また、主人公が人ならぬ異界の住人を妻とする物語は「異類婚姻譚」と呼ばれ、東西に広く見られるものだが、見るなのタブーと結びつくと、妻が本来の姿に戻る場を夫に見るなと命じ、夫がそれに反して盗み見てしまうという展開になる。その結果婚姻は破綻し、両者に悲劇が訪れるわけだが、12世紀フランスの文献に残る「メリュジーヌ伝説」(妻が半人半蛇)は、その典型的例であり、特に「メルシナ型」と呼ばれている。我が国の「鶴の恩返し」も同様である。
 

民衆本(独:Volksbuch

 15世紀から17世紀にかけて主に散文で書かれた廉価版物語本、或いは笑話集。1808年にドイツ人ジャーナリストのゲレスによって命名された。ゲレスは中世後期出された民衆を対象とする全ての書物(暦、天気予報、農業指南書、民間医療書、宗教書など)を民衆本に加えたが、後には散文小説のみを指す呼称となった。その発祥はドイツだが、これには当地で発明された活版印刷術が密接に関連している。すなわち、それまでは高価で民衆には無縁であった書物が、15世紀なかばに開発された印刷術により、一般大衆にも入手可能なメディアとなり、同時に民衆を読者対象としたドイツ語による散文小説が生まれたのである。(それまでのヨーロッパ文学は、ラテン語による韻文が主流であった)しかし、当初は知識人の筆による貴族や富裕市民など上流階層向けの書物であったが、16世紀なかばに彼らの文学的興味が「騎士物語」へと推移していくにつれて、中流階層以下をターゲットにする本来の民衆本が現れるのである(その発展は、識字率の向上とも大いに関係している)。
 現在確認されているところ、1516世紀で75のタイトルが750の異なる版で出版されている。民衆本は結果としてロマン主義に少なからぬ影響を与えたが、何よりもまず物語的面白さを追求したため、民話や神話と異なり民族の精神が色濃く反映されているわけではない。またその題材は新たに考え出されたものではなく、それ以前の民間伝承を焼き直したものが大半である。しかし活字化されたことで伝承の人物たちは民間に定着し、後の文学で様々に活用されていくこととなった。そうした意味で代表的な作品としては、『ライネケ狐』(15世紀末)、『ティル・オイレンシュピーゲル』(16世紀始め) 『ファウスト博士』(16世紀末)、『ほら吹き男爵の冒険』(1781)などが有名であり、後のゲーテ(『ライネケ狐』[1794])、『ファウスト』[1808-33])やトーマス・マン(『ファウストゥス博士』[1947])などにも大きな影響を及ぼした。フランスでも民衆本は作られ、『麗しきマゲローネ』(15世紀後半)や『ガルガンチュワ大年代記』(1531/32)などが評判となり、前者はティークの『麗しきマゲローネとペーター・フォン・プロバンス伯爵の恋物語』(1797)、後者はラブレーによる『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(153252)の下地となった。フランスの民衆本は表紙の色から「青(表紙)本」と呼ばれた。また、18世紀イギリスにおいても行商人(チャップマン)が主に広め、バラッドやおとぎ話や騎士物語などを掲載した民衆本「チャップブック」が有名である。
 

ミンネザング(独:Minnesang

 「中世宮廷恋愛歌」と訳される。南フランス発祥であるトルバドゥールの影響を受け、12世紀半ばから14世紀半ばにかけて、ドイツ宮廷に属した歌人「ミンネゼンガー」たちが作った恋愛歌。その内容は、気高い貴婦人へ捧げる騎士たちの無私の恋慕、すなわち「ミンネ」を歌ったものである。押韻や構成に特段の注意を払う均整美が作品には求められた。代表的歌人としては、ラインマル・フォン・ハーゲナウ(1160-1205):貴婦人への無償の愛、高い叙情性など、典型的なミンネザングの作者として知られる)、ハルトマン・フォン・アウエ(1160-1210:宮廷恋愛とは別の、騎士の持つべき人間的な愛を模索)、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(1170-1220頃:前者のミンネザングを更に発展)、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170-1230頃:ラインマルの歌を風刺、ミンネザングに社会風刺の精神を導入した。ヴァルターとラインマルの間には敵対関係があったとされているが、その真偽は最近の研究により流動化している)などが名高い。13世紀前半、騎士階級が十字軍遠征により没落してくると、ミンネゼンガーは騎士ばかりではなく市民階級からも現れ、それにつれてミンネの内容も空疎化し、ナイトハルトなどミンネを茶化した歌人も現れる。ミンネは猥雑でグロテスクなパロディーの題材となり、15世紀に現れた職匠歌に完全に取って代わられた。
 

無韻詩 ブランクヴァース

 

メタファー(英:Metaphor / 仏:Métaphore / 独:Metapher

ギリシャ語の「メタフォーラ」(μεταφορά"「転用」)を語源とする修辞技法の一種。「隠喩」或いは「暗喩」と訳される。「直喩」と共に、事物を本来の単語ではなく別の単語でたとえる比喩技法を構成するが、「~のような」や「~みたいな」といった語句を使って「たとえ」であることを明示する直喩に対して、メタファーはこうした語句を用いず、指示する単語を近接した概念を持つ別の単語で暗示的に表現する。例を挙げると、「人間は考える葦のようなものだ」といえば、それは直喩になるが、「人間は考える葦である」と表現するとメタファーになる。しかしこれは最も単純な例であり、文学に限らず、芸術全般、さらに日常生活に至るまで、人間がおよそ自分を取り巻く世界を認識しようとする場合には、必然的に様々なメタファー表現が必要となってくる。
 メタファーは既にアリストテレスが「詩学」において言及しており、その最大の効果は、「文体に威厳を与えて平板さから抜け出すため」であるとするが、他にも以下の場合に日常においても用いられる。すなわち、
1.指示される事物の名称がもともとメタファーである場合(「イスの脚」、「マンガの吹き出し」など)。
2.指示される事物の直接表現が社会通念上憚られる場合(「強姦」を表現する「乱暴」、「役所・政府」を表現する「お上」など)。
3.抽象的な事象を理解しやすくしようと端的に表現する場合(「集団での個人に対する批判」を表現する「吊し上げ」、「時間の流れ」を表現する「時の歯車」、「野球で打者が三振するも、捕手が投球をノーバウンドで正規に捕球できなかった場合、打者が一塁出塁を試みるプレイ」を称する「振り逃げ」など)。
4.指示される事物の特性を殊更強調しようとする場合(「19世紀末のイギリスで発生した猟奇殺人事件の犯人」を意味する「切り裂きジャック」、「サイパン島北端の岬」に名づけられた「バンザイクリフ」、など、である。
 メタファーに類似した比喩技法としてメトニミー(換喩)が挙げられるが、R.ヤコブソンによれば、メタファーは、比喩の根拠が「概念の類似性」であるのに対して、メトニミーは、「概念の近接性」をもって比喩の根拠とする。すなわち、甲を、イメージが類似した乙になぞらえる(見立てる)比喩をメタファーとするならば、甲をイメージする際に、しばしば連想する乙を甲のたとえに用いる比喩がメトニミーである。(例:代議士の秘書をたとえる「かばん持ち」はメタファーであるが、代議士を指す「金バッジ」はメトニミーである。)したがって、メタファーが観念的・抽象的であるのに対しメトニミーは感覚に大きく依存した比喩といえる。この点から、ロマン主義や象徴主義はメタファーを好んで用い、写実主義ではメトニミーが多用されたとする。古典的言語学においては類似性がもたらす単語の意味の推移例と捉えられたが(例:コンピュータ用語における「マウス」)、認知言語学はメタファーを重要な思考形式のひとつとした。
 

メタフィクション(英:Metafiction

 フィクションについてのフィクション。言語によって現実世界を写し取ることは不可能であるという前提に基づく。実際には作中において、自らが作り物であることを隠さない小説を指していう。スターン『トリストラム・シャンディ』(1760-67:語り手が読者と対話する)や、カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人』(1979:読者が主人公。その読者が読む様々な小説で作品が構成されている)などがその例。
メタフィクションの源流は古く、『千夜一夜物語』(9世紀頃)で見られる枠物語形式も作中作として古典的メタフィクションの一例と見なすことができる。メタフィクションは特に劇中劇の形でシェイクスピアなどによって発達するが、小説の分野では特にジッドが提唱し、ヌーヴォー・ロマンに多大な影響を与えた小説内小説である「紋中紋」手法が有名である。また、虚構と現実の区分がますます流動化している現代文学において、メタフィクションは一層の多様な形式を伴って描かれている。
 

メトニミー(英:Metonymy / 仏:Métonymie / Metonymie

 比喩の一種。換喩と訳される。ある物事をたとえるのに、その物事と密接な関連性を持った別の単語をひとつの象徴として物事の表現に用いる。例:「鍋を突っつく(「鍋」=「鍋料理」の換喩、また「つっつく」は「食べる」のメトニミー)」、「白物家電(家庭生活用電気製品)」、「なでしこジャパン」など。特定の組織を換喩で表現する場合、多くはその組織が用いる(衣服も含めた)道具や居場所が用いられる。例:「霞が関(官僚)」、「永田町(代議士)」、「本郷(東大専門学部)」、「揺り籠から墓場まで(新生児と死亡者)」、「ホワイトハウス(アメリカ大統領府)」、「背広組と制服組(文民と軍人)」、「菊と葵(徳川幕府と朝廷)」、「バットマン(打者)」、「ペン(言論)は剣(武力)より強し」、「黒服(キャバレー等のボーイ)」など。とりわけ、部下が上司の権力者(層)を指す場合には、直接的な表現を憚る意味合いで場所を表すメトニミーが古来洋の東西を問わず頻繁に使われ、普通名詞化したものもある。例:「殿様」、「お館様」、「大御所様」、「御台所」など。更に特定の権力者を指すには、居場所を用いた換喩が一般的である。例:「鎌倉殿(鎌倉幕府の棟梁或いは幕府そのもの)」、「室町殿(室町幕府)」、「紀州殿(紀州徳川家)」、「プリンス・オブ・ウェールズ(イギリス皇太子)」など。そもそも姓には出身地を表すものが多いため、そうした名前そのものがメトニミーとも考えられよう。
 メトニミーは、以上の例のようにほぼ定着したものも数多くあるが、物事のひとつの特性を採り上げ臨機応変に作り上げることができる。特に「あだ名」に関してはメトニミーと見られるものが非常に多い。例:「イワン雷帝(イワン4世)」、「太陽王(ルイ14世)」、「人間機関車(ザトペック)」など。尚、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世につけられたあだ名「バルバロッサ」も同様に見えるが、これは「赤髭」を意味しており、「身体の一部」としての部分概念をたとえに用いた点で、メトニミーというよりむしろ「シネクドキ」表現と見なした方が妥当であろう。
 メトニミーはアリストテレスが「詩学(前335において既に、「種から種への転用」として指摘しているが、その比喩の根拠が「概念の近接性」であるのに対して、「メタファー(隠喩)」は、「概念の類似性」を比喩の根拠とする。(例:「公園まで足を延ばす」=「足」と「歩行」という近接した概念を利用したメトニミー/「こんなことをやっていても時間の無駄だ」=「時間」を、「使って減る」という類似性を根拠として「金」になぞらえたメタファー。)
 

メニッポス風風刺風刺文学

 

メネストレル(仏:Ménestrel

 フランス中世に活躍した吟遊詩人ジョングルールのうち、貴族に雇われ庇護された者たちを指す。「召使」を指すラテン語ministerialisを語源とする。彼らの活動は概ねジョングルールと同様だが、貴族の祝宴や日々の食事を詩の吟唱や曲の演奏で彩った。彼らは詩作を行うこともあり、その重要なレパートリーであった武勲詩では、例えば13世紀、ブラバン伯アンリ3世に仕えたアドネ・ル・ロワなどが有名である。彼らはまたジョングルールの立場に戻ることもあったし、自由を好み敢えてメネストレルへの誘いを断るジョングルールもいた。いずれにせよ、往々にしてこの両者は混同される場合も多い。
 

メロドラマ(伊:Melodramma / 仏:Mélodrame / 英:Melodrama

「メロディ」と「ドラマ」の合成語。従って音楽を伴う演劇を指す。起源はコロスの合唱を伴った古代ギリシア劇にまで遡るが、その系譜は後世イタリアにおけるバロック・オペラを経て音楽性をより重視するものとなり現代のオペラへと繋がる。他方、オペラ台本(リブレット)の分野では、文学性が追求され、アポストロ・ゼーノ(Zeno)、ピエトロ・メタスタージオ(Metastasio)、ロレンツォ・ダ・ポンテ(Da Ponte)らのオペラ台本作者が後のメロドラマの原型を創り上げたといえる。この後、ジャン=ジョルジュ・ノヴェール( Noverre)による感情表現や物語性重視のバレエ改革(「バレ・ダクシォン」[Ballet d'action])の影響も受け、18世紀後半に、演出上の効果として演奏や歌や踊りを伴う朗読劇が確立する。その先駆けには、ジャン・ジャック・ルソー(Rousseau)『ピグマリオン』(1762)が挙げられよう。この作品には、後に当時の人気作曲家ゲオルク・アントン・ベンダ(Benda)が別の曲をつけているが、彼はメロドラマの作曲家として他にも『ナクシス島のアリアドネ』(1775:脚本ヨハン・クリスティアン・ブランデス[Brandes])や『メディア』(1775:脚本フリードリヒ・ヴィルヘルム・ゴッター[Gotter])などの佳作を残し、後のモーツァルト『魔笛』(1791)に代表される「ジングシュピール(Singspiel:歌入り芝居)」の基礎を築いた。
 また、『ピグマリオン』から始まるメロドラマの流れは別の系譜も生み出す。それはイギリスで盛んとなっていた
悲喜劇18世紀後半に生まれていたパントマイムと融合し、ロマンチックで情緒に強く訴える舞台劇である。音楽付きの豪華な舞台で繰り広げられる涙あり、笑いありの勧善懲悪物語で、更にはミステリホラー小説の要素もちりばめられ、最後はハッピーエンドに終わるこの演劇形式を大成したのは、ギルベール・ド・ピクセルクール(Pixérécourt)であり、彼の『モンタルジの犬、或いはボンディの森』(1814)はヨーロッパで空前のヒットを記録した(この作品は1817年にゲーテが監督を務めるヴァイマール宮廷劇場でも宮廷の意向で上演されたが、上演に異議を唱えていたゲーテは、この上演を契機として劇場監督を辞任する)。更にはジェームズ・プランシェ(Planché)の『バンパイヤ』(1820)も名高い。この演劇形式は欧米で熱烈に歓迎され、最終的に今日のミュージカルやレヴューにまで連なるが、現代でメロドラマといえば、挿入音楽は別にして、専ら感傷的なラブロマンスという意味合いでテレビや映画界に広く浸透している。
 

黙劇(英:Dumb show

 演劇中に挿入される台詞を持たないパントマイム劇。通常は仮面を用いるため仮面劇の一種に分類され、音楽やダンスを伴うことも多い。エリザベス1世からジェームズ1世時代のイギリス(15581625)で発展を遂げた。同時期に興隆した幕間劇とは異なり喜劇的な内容は持たず、劇の進行を先取りするアレゴリー的な内容となるのが一般的である。紋中紋の技法として有名な『ハムレット』(1601)三幕二場での父親殺しを暗示した役者たちの劇は台詞がなく、典型的な黙劇でもある。その他、キッドの『スペインの悲劇』(1587)における群集場面など、多人数が台詞なしに動く場面なども黙劇の一種とみなせるが、これは動く「活人画」とも解釈できよう。
 大道芸としてのパントマイムは現在も残るが、黙劇は15世紀半ばのイギリス・ルネサンス期の終焉と共に姿を消す。ただ現代文学においても黙劇はまま見られ、ベケット『ゴドーを待ちながら』(1925)に度々現れる、人物たちが無言で演技する場面などは、多分に黙劇的要素を含んでいる。
 

モダニズム文学(英:Modernist literature

 1910年から20年にかけて現れた20世紀文学の一大潮流。未来派ダダイズム表現主義等様々な芸術運動を含み、一括して概観することは困難である。しかしこれらの運動には、都市文化を背景とした人物の没個性化、第一次世界大戦を経て相対化した既成の価値観、無秩序と空虚さに彩られた人生・社会観などといった点が共通している。無機的な都市環境にひるまぬ孤高の精神の持ち主を斬新な技法で描いたクヌート・ハムスンの『飢え』(1890)がその先駆けと見なされ、以降の代表的な作品としては、ジョイス『ユリシーズ』(1922)、T.S.エリオット『荒地』(詩集:1922)、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(1925)、プルースト(『失われた時を求めて』[19131927]、ムージル『特性のない男』(1934)マン『ファウストゥス博士』(1947)などが挙げられ、その他カフカ、コンラッド、イェイツ、フォークナー、フィッツジェラルド、ピランデッロ、パステルナークらをモダニズム文学作家と呼ぶことができよう。
 特筆すべきは、『ユリシーズ』や『荒地』や『ファウストゥス博士』のように、無秩序である社会の描写に作品としての一貫性を与えるべく、神話や古典を新たな解釈のもとに枠として用いた場合が見られることである。また、特に未来派に現れた傾向だが、モダニストたちは既成の価値観に囚われた大衆への迎合を殊の外嫌い、ためにしばしば大衆蔑視や政治的反動化に走り、ファシズムに加担することさえあった。モダニズム文学に対しては、当然のごとく批判する者も多く、そのため自らの文学・芸術理念を貫徹する目的で、マニフェストを発表することが通例だった。
 

モティーフ(仏:Motif / 英:Motive / 独:Motiv

 筋(プロット)全体を包括するわけではないが、作品の状況・設定を端的に表現する題材。「主題」と訳される。特定の名前や出来事と結びついているわけではないが、大まかには「筋の発端」の役割を果たす。例としては、「肉親殺し、間男、決闘、賭け、裏切り者、反逆者、馬鹿と賢者、帰還、友情の証、敵討ち、仲違いした兄弟・父子、近親相姦、親探し、悪魔との同盟者、貞節の誓い、三角関係、無人島での生活」など、実に様々なモティーフが文学では扱われる。
 

モデル小説(英・仏:Roman à clef / 独:Schlüsselroman

 フィクションと銘打ってはいるが、実話を題材にしたことを強く印象付ける小説。小説を読む「鍵」(どの登場人物が実際の誰をモデルとしているかの案内書)が作成可能であることから、欧米では「鍵小説」と呼ばれる。その歴史は近代小説の歴史とほぼ軌を一にし、フランス宮廷を描いたジョン・バークレーの『アルジェニス』(1621)や文学サロンに集う名士を描くマドレーヌ・ド・スキュデリーの『アルタメーヌあるいはグラン・シリュス(1649-53:全10巻。210万語以上を数え、西洋文学史上、完成した小説では最長とされる)はモデル小説の先駆けと見なし得る(後にモリエールの『滑稽な才女たち』[1659]や、E.T.A.ホフマンの『スキュデリー嬢』(1819/21)などでスキュデリーをモデルとする人物が登場する)
モデル小説が生まれるには大きな要素が3つあり、
1.社会風刺(ルイ14世の治世を風刺したフェヌロンの『テレマックの冒険』[1699]、ソビエトの指導者達を風刺したオーウェルの『アニマル・ファーム』[1945]など)
2.スキャンダル暴露(カポーティー『叶えられた祈り』[1987:アメリカ上流社会の退廃的社会を描く]
3.作者自身の体験の小説化(ケルアック『路上』(1957:自らの放浪体験を小説化)、ヘミングウェイ『日はまた昇る』[1926:作者自身のパリ生活とスペイン旅行を活写]など)
などである。
 一般的に登場人物は基本的に作者の知った人物がその原型となる場合が多いため、小説におけるモデルの存在自体は殊更珍しいわけでもなく、「モデル小説」というジャンルが特に成立する必然性もない。だが、風刺やスキャンダル暴露を旨とする小説が実在の人物・社会を彷彿とさせる場合、作品を巡る騒動がしばしば生じる。その際、「作者が有する芸術創作の自由」と「個人の尊厳の尊重」の兼ね合いが議論の中心となる。代表例に、ナチス政権下で出世を果たした俳優グスタフ・グリュントゲンスの生涯をモデルとした亡命作家クラウス・マンの小説『メフィスト』(1936)に対する発禁処分や、彼の父トーマス・マンと、その著作『魔の山』(1924)で「ペーペルコルン氏」として明白にモデル化されたハウプトマンとの軋轢などが挙げられよう。
 

モデルニスモ(西:Modernismo

 「近代主義」と訳される19世紀末のラテン・アメリカに現れた文学運動。感傷に流れるロマン主義や無機的な自然主義など既存の文学に抗し、より繊細な表現手段と新たな韻律による韻文を創造しようとした。その指導者は終始ニカラグアの詩人ルベン・ダリオ(Darío)であり続け、彼の処女詩文集『青』(1888)出版を運動の開始と定め、彼の最高傑作『俗なる詩』(1896)出版に運動の頂点を認め、彼の死(1916)をもって運動の終結とする説もあるが、実際には前後に更に幅をもって考えるべきである。彼の作品は、ヴェルレーヌやモレアスの象徴主義的作品に影響をうけているが、これは他のモデルニスモ作家たちにも当てはまる。
 また、「芸術のための芸術」やパルナス派と同様、モデルニスモは目的に囚われない芸術の自律性、崇高性、貴族性を奉じ、現世的な道徳性は否定し、象徴や隠喩の様々な可能性を模索した。その高踏性から異国情緒や空想性を好む傾向も見られ、古代や北方の伝説から題材を取る場合は、後年の魔術的リアリズムへの橋渡しを務めた面もある。韻律に関しても様々な実験が試みられ、その結果韻律法に従わぬ自由詩が生まれることとなった。モデルニスモは、それまで一貫して西欧文学の影響下にあったラテン・アメリカが、独自のスペイン語文学の発展性を周知した運動として特筆されるべきものである。(ダリオは、中央アメリカ作家として、初めてスペイン語で執筆した作家のひとりである。)
 モデルニスモ詩人としては、キューバのホセ・マルティ(『イスマエリリョ』[1882])、メキシコのグティエレス=ナヘラ(『詩集』[1896])、キューバのフリアン・デル・カサル(『風にゆれる葉』[1890])、アルゼンチンのレオポルド・ルゴネス(『庭の黄昏』[1905])、ウルグアイのデルミラ・アグスティーニ(『空の杯』[1913])、コロンビアのホセ・アスンシオン・シルバ(『夜想曲』[1894])などが挙げられ、更にはスペインのアントニオ・マチャード(『孤独、回廊』[1907])もこの系譜に連なる詩人と見なされている。モデルニスモの作家たちはスペインにおいて、98年世代の作家たちとほぼ同時期に活動している。既成の価値観に反旗を翻した点では共通しているものの、前者が芸術至上主義のもとで主に詩作を行ったことに対し、後者は社会情勢に深い興味を示し、論文や随筆など散文を中心に活動した点で、両者は完全に袂を分かつものである。
 

モンタージュ(英:Montage

 元来はフランス語で「組立て」を意味し、主に第一次世界大戦前のアメリカ映画で発達した撮影技法。短い場面を次々に繋ぎ合わせ、全体でより強烈な映像的インパクトや個々の場面では得られない総合的イメージを生み出すために用いられた。間もなくモンタージュ技法は文学にも取り入れられ、文体や内容に統一性の薄いテクストが連続して現れる作品が現れた。その後同技法は、未来派シュルレアリスムダダイズムなど実験的文学運学運動で好んで用いられるようになる。同技法が用いられた代表的な作品に、ドス・パソス『マンハッタン乗換駅』(1925)、デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』(1929)、詩集としては、ゴットフリート・ベン『死体公示所(モルグ)』(1912)などが挙げられよう。その効果はロシア・フォルマリズムが唱えた「異化」作用に通じ、ブレヒトの「異化効果」もモンタージュには期待される。ほぼ同様の技法に「コラージュ」があるが、その区別は極めて曖昧である。モンタージュ技法は、映画同様、現代文学においてもミラ・クンデラ『生は彼方に』(1978)など、その価値を今尚失ってはいない。
 

紋中紋(仏:Mise en abyme

 中心紋とも呼ばれる。西洋の紋章は、往々にして紋章の中央に更に紋章を加えたものがあるが、そうした形態を文学に応用した手法。基本的な例は、戯曲や小説の中に全く別箇の作品を挟みこむ形である。従って、枠物語中の枠内物語が独立性を強めた挿入話とも類似した手法であるが、その相違は、枠内物語が多少なりとも枠と関連性を持つのに対し(枠の語り手が過去の自らも関与した枠内物語を語る例がその典型)、紋中紋は地の物語との関連性が薄い。
 紋中紋は戯曲に利用されると劇中劇と呼ばれ、その歴史は長く、『ハムレット』(1601)第三幕第二場での父親殺しを暗示した役者たちの劇や、『真夏の夜の夢』(1595 or 96)での結婚式での劇など、シェイクスピアもしばしば利用した。近代劇においても、チェーホフ(Chekhov)の『かもめ』(1896)第一幕での文学青年コスチャによる前衛劇が有名である。理論としてはアンドレ・ジッド(Gide)が1893年に語りのヴァリエーションとして提唱したのが最初とされ、彼自身、様々な物語が時間軸に沿わない形で錯綜する小説『贋金つくり』(1925)に応用することにより、ヌーヴォー・ロマンに代表される新形式小説の先鞭をつけた。


  1801- 1837の英軍紋章
 

ヤングアダルト小説(英:Young-adult fiction

 現代において、10代の青少年を読者層に想定して書かれた小説。主人公はほとんどが青春期の青少年であり、成人や小学生低学年程度の児童が主人公となることは稀である。「青春小説」とも訳され、我が国では特に未成年者を表す英語から「ジュブナイル」と呼ばれる場合もある。児童文学の一分野と見なし得るが、童話との大きな違いは、教育性よりも娯楽性に重点が置かれていることである。即ち、大人が子供を教育する目的で執筆した童話は、『イソップ物語』(6世紀)にまで遡る長い歴史を持つが、ヤングアダルト小説が本格的に成立するのは、ティーンエイジャーが独立した読者層として明確に認知された1920年代からとされる。
 小説のテーマとしては、青少年期に特有の葛藤(恋愛・親世代とのジェネレーション・ギャップ、社会との軋轢など)、そして冒険譚が好んで取り上げられるが、その他の人物設定、ストーリー展開、文体などは一般の小説と大差はない。「ヤングアダルト」という読者世代を最初に提唱したのは、イギリスの女流作家サラ・トリマーで、彼女は1802年、14歳から21歳をヤングアダルトと規定し、ヤングアダルト小説専門誌を発行することにより、その年代に対する小説を、それ以下の子供を対象とする児童文学とは明確に区別した。ただ、この概念が定着するまでには100年以上の年月を要したが、18世紀中にも同ジャンルと見なし得る傑作が数多く書かれている(ディケンズ『オリヴァー・ツィスト』[1837-39]デュマ『三銃士』[1844]ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』[1865]、マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』[1876]、スティーブンソン『宝島』[1883]、キップリング『ジャングル・ブック』[1894]など)。
 20世紀に入ると、ケストナー(『二人のロッテ』[1949])や、エンデ(『モモ』[1973])などは、家庭問題や、仕事に忙殺される現代社会といった従来のこの種の小説では扱われなかった問題を作品に盛り込み、新たな地平を開拓した。同様に、自死(アストリッド・リンドグレーン『はるかな国の兄弟』[1973])妊娠(ジュディ・ブルーム『永遠の夏姉妹』[1975])、虐待(サラ・デッセン『夢の国』[2000] 、性 (ジョン・グリーン『アラスカを追いかけて』[2005])など、一般小説に見られる様々な深刻な問題をヤングアダルト小説は扱うようになり、現在ではローリング「ハリー・ポッター・シリーズ」(1997-2007)が世界的大ベストセラーとなるなど、一般小説との境界は益々曖昧になりつつある。
 

ユウェナリス風風刺風刺文学

 

ユーカタストロフ(英:Eucatastrophe

 物語の結末における急激な好転を指す。「奇跡的ハッピーエンド」とも訳され、その対極の悲劇的結末を指すと考えられるカタストロフにギリシア語で「善、良、幸」を表す接頭辞”eu”をつけたトールキンによる造語である。トールキンによれば、人類史における一大ユーカタストロフはキリスト降誕であり、またその復活である。急激なハッピーエンドというと、「デウス・エクス・マキナ」が想起されるが、物語の枠組みの内部で用意される奇跡的ハッピーエンドがユーカタストロフであるのに対し、枠組みとは関係ない唐突な人物や事態が登場することによる強制的な結末好転がデウス・エクス・マキナであるとされ、前者の典型例が、『指輪物語』(1954-55)における冥王サウロンが災いの象徴である「ひとつの指輪」と共に滅ぶ場面である。

 

雪どけ(露:Oттепель / 英:Khrushchev Thaw)

 1953年、ソビエト連邦においてスターリンが没すると、その後を引き継いだフルシチョフは、スターリン批判のもと、厳しい管理下にあった当時の社会統制を緩和した。これら一連の緩和政策を行ったフルシチョフ時代を、スターリン時代に弾圧された芸術家を描くイリヤ・エレンブルクの同名の小説(1954)から名を借り「雪どけ」(英語名は「フルシチョフの雪どけ」)の時代と称する。文化政策も同様に緩和され、粛清されていた多くの作家の名誉が回復された。その代表的な例に、ツヴェターエワ、ブルガーコフ、プラトーノフ、ソルジェニーツィンらがいる(前3者は53年の時点で既に他界)。また、エフトゥシェンコ、アフマドゥーリナ、アクショーノフなどの若手作家が台頭し、「ユーノスチ」や「ネヴァ」といった新たな文芸誌が創刊したのも雪どけによるといえる。ただ、統制は完全には解除されず、58年には『ドクトル・ジバゴ』(1955)の作者であるパステルナークのノーベル文学賞辞退騒動が起きた。その後も反動は次第に顕在化し、形而上的詩風のブロツキーや、ソ連社会のいびつさを幻想的に描くシニャフスキーやダニエルが裁判で有罪とされるなど、1964年のフルシチョフ失脚と時期を同じくして、こうした緊張緩和の文化政策も終焉を迎えた。



ユーゲントシュティール(独:Jugendstil

 19世紀転換期にドイツで流行した造形美術・建築様式。その命名は、1896年にミュンヘンで創刊された芸術週刊誌「ユーゲント」による(同様に、ミュンヘンの「ジンプリチシムス」やベルリンの「パン」もこの様式に大きな影響を与えた雑誌である)。同様な運動はヨーロッパに広く伝播し、フランスにおける「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」、オーストリアにおける「セセッション(分離派)」に相当する。ただこの二者と異なり、ユーゲントシュティールは文学潮流としても成立した。ユーゲントシュティールは、様式化され絡み合った蔦や植物や自然物をアラベスクのように配した曲線を主体とする装飾性の強い造形が基本的特徴だが、文学にあっては、自然主義のアンチテーゼとして様式化された自然賛美、感覚の解放、耽美主義的理念による日常生活からの逃避、色彩感溢れる描写などを特徴とする。扱う題材には、上記の自然や非日常的生活の他、死、エロス、倒錯なども好まれ、しばしば神話や伝説、中世や古代の逸話も対象となった。この意味での典型的な作品としては、ワイルドの『サロメ』(1893)が挙げられよう。ユーゲントシュティール文学の担い手には、ドイツ・オーストリアにあってはシュニッツラー、ホーフマンスタール、ビーアバウム、ヴェーデキント、ラスカー=シューラーなど、ドイツ以外ではメーテルリンク、ダンヌンツィオ、ピエール・ルイス、ローデンバッハなどが挙げられる。
 

ユートピア文学(英:Utopian literature

 「ユートピア」という名称は、トマス・モアの著した『ユートピア』(1516)からとられたもので、「どこにもない場所」という意味を持つモアの造語である。したがって「ユートピア文学」というジャンル自体は、一般的には『ユートピア』により成立したとされるが、それ以前にも理想の国家を論じたプラトンの『国家』(前4世紀前半)や、天空に築かれた鳥の楽園を描くアリストパネスの『鳥』(414)や、ホメロスやディオゲネスら詩人・哲学者たちの住む「至福の島」を描いたルキアノスの『本当の話』(167)などは一種のユートピア文学とみなせよう。また、キリスト教における「約束の地」や、マルコ・ポーロが紹介した「黄金の国ジパング」といった理想郷のイメージは、既に以前から存在していた。モアはこうした伝統を更に具体化・理論化し、『ユートピア』に結実させたといえる。このラテン語の対話形式により書かれた小説は、原始共産制とキリスト教的道徳に貫かれた「ユートピア島」の様子を描いたものだが、裏を返せば当時のイギリス政治・社会に対する強烈な風刺である。既に『鳥』においてもそうであったが、ユートピア文学は従って一種の風刺文学ともいえよう。その典型的な例が、社会を嘲笑し辛辣に風刺するラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-52)に描かれたユートピア「テレームの僧院」である。ただ、ユートピア思想が哲学の形で表された場合(カンパネッラ『太陽の都』[1602]、ベイコン『ニュー・アトランティス』[1627]など)はひとつのマニフェストと考えられる。
 ユートピア文学は以降、ルソーやヴォルテールらに影響を与え、未来のパリを夢想したメルシエの小説『2440年、またとなき夢』(1771)は、近代ユートピア文学の先駆とも目し得る。だがユートピア文学は、以降、風刺性を失い、牧人たちの理想郷であるアルカディアを謳う「牧歌」へ移行したり、実際に近代において社会主義国家が誕生すると国家・思想礼賛のために利用されたり、或いはその風刺性を更に強め倒錯した極限世界(逆理想郷=ディストピア)を描く作品を生み出した(ハックスレー『すばらしい新世界』[1932]、オーウェル『1984[1949])。『ガリヴァー旅行記』1726)は後半で、理性的な馬「フウイヌム」が支配し、家畜人間「ヤフー」が住む島を描くことにより、ユートピアとディストピアを対峙させた。
 近現代においてユートピア文学は、ウィリアム・モリス『ユートピアだより』(1891)など若干の例を除いて衰退したが、西欧文化に対する固有文化のコンプレックスに苦しんだロシアではオドエフスキーの『4338年』(1840 :ロシアSFの元祖とされる)や、ロシア革命に際してプラトン『国家』にも比較されるフレーブニコフの「超国家」論 (1918)など、ロシア・アヴァンギャルドとも結びついて生き残り続けた。




ユナニミスム(仏:Unanimisme

 1900年代初頭にフランスで台頭した芸術思想。「一体主義」と訳される。ホイットマン(Whitman)や、ベルハーレン(Verhaeren)や、ランボー(Rimbaud)らを範とし、全体や集団の中に、個々人を超えた神秘的精神を見出し、表現しようとする創作態度で、ジュール.ロマン(Jules Romains)により提唱された。ロマンは、G.デュアメル(Duhamel)Ch.ヴィルドラック(Vildrac)R.アルコス(Arcos)A.グレーズ(Gleizes:画家)ら、パリ郊外の修道院跡で、「アベイ派」と呼ばれるユートピア的な共同生活を送った芸術家たちと親交を結び、人間の連帯を唱える彼のユナニミスムは、同派にも影響を与えた。その名称は、ロマンの詩集『一体的生活』(“La Vie unanime”:1908) に由来するが、時代を彩る社会精神を表現しようとするロマンの芸術的企図は、小説『善意の人々』(193246)に結実する。R.ロラン(Rolland)の『ジャン・クリストフ』(1904-1912)や、プルースト(Proust)の『失われた時を求めて』(1913-1927)や、R.M.・デュ・ガール(du Gard)の『チボー家の人々』(1922-1940)と並び、全27巻に渡るこのフランス屈指の大河小説は、1908年から33年までのフランスを描き、様々な筋に属する1000人以上の人物を登場させることによって、第一次世界大戦から第二次世界大戦へと揺れ動くフランス社会の多様な集団意識が描かれ、時代そのものを表現しようとしたユナニミスム文学の集大成と見なされている。


ユーフュイズム(英:Euphuism

 ジョン・リリーの恋愛小説『ユーフュイーズ』(1部:1578、第2部:1580)によって確立された英語文体。「華麗体」と訳され、対句や頭韻、比喩や知的な謎かけや警句といった極めて洗練され、装飾の限りを尽くした技巧的な文体で知られる。大きな特徴としては、1.均整の取れた文章(均一の長さ、動詞の均等な配置など)、2.音韻のリズミカルな反復、などが挙げられる。ユーフュイズムに対しては、フィリップ・シドニーやガブリエル・ハーベイら当時の作家たちからの批判もあったが、グリーンやロッジを始めとするエリザベス朝時代の「大学才人」たちから広く受け入れられ、初期シェイクスピア作品や、フランス古典主義にも大きな影響を与えたとされる。
 ユーフュイズムはヨーロッパ文学全体の流れの中では、後期バロック文学に位置づけられる。同様の文体はマニエリスムと呼ばれ、フランスにおいてはプレシオジテ、イタリアにおいてはマリニズモ、スペインにおいてはゴンゴリスモそしてドイツにあってはシュヴルストと称する同様の流派が生まれ、それぞれ批判や風刺に遭いながらも広く流行した。(フランスやイタリアやスペインでは、イギリスとほぼ同時期にこれらの文体が流行するが、ドイツに伝播するのは1世紀ほど遅れた17世紀後半のことである。)

夢オチ

 作品で語られた物語は、主人公の見た夢だったと最後に判明するオー・ヘンリー・ツイストの亜種。現代のテレビドラマや漫画などでは、収集のつかなくなった筋を強制的に終了するために、安易にこの手法が使われる場合も多いが、キャロル『不思議の国のアリス』(1865)やメーテルリンク『青い鳥』(1908)などでは、作品の持つ幻想性を更に強調する効果を生み出している。
 

妖精物語(仏:Contes des fées / 独:Feengeschichten / 英:Fairytale fantasy

 妖精や空想の動物や魔女、神々などが登場し、人間と交流する物語。主に神話や民話を題材に取る点を特徴としている。ケルトやゲルマンの神話、或いは中近東の民話(『千夜一夜物語』[9世紀頃])がその起源と考えられるが、神秘的な美女が騎士と恋に落ちるマリー・ド・フランス(フランス初の女性詩人)のレー(ケルトに伝わる騎士道恋愛短編詩)が最初期の妖精物語といえよう(『ランヴァルのレー』、『ギジュマールのレー』など[12世紀後半])。12世紀には、この他にも十字軍遠征により異国情緒が中世ヨーロッパにもたらされ、武勲詩に謳われたユオン・ド・ボルドーや妖精王オーベロン、アーサー王(特に彼の妹の魔女フェイモルガン)伝説、或いは十字軍騎士を救う魔女アルミーダなどの物語が以降再三に渡り取り上げられた。(ハルトマン・フォン・アウエ『イーヴァイン』[1200頃]、アリオスト『狂えるオルランド』[1532]、シェイクスピア『真夏の世の夢』[1595 or 96]、スペンサー『妖精の女王』[1590-1609]、ドーノワ夫人『妖精物語』[1697/98]、ヴィーラント『オーベロン』[1780]など。特にアルミーダは、ロッシーニやハイドン作品を始めとして多くのオペラに取り上げられている。)更にフランスでは、『眠れる森の美女』、『長靴をはいた猫』等ペローの童話集(1695)が妖精物語のみならずフランス文学の古典として高い評価を受けている。
 
1704年には、ガランが『千夜一夜物語』をフランスに紹介したことにより、異国への憧憬が一層高まり、後の魔法劇へと繋がる「妖精劇」(Féerie)が特にフランスで18世紀以降に流行した。この劇は、大掛かりな舞台装置や華麗な衣装で空想世界を描こうとしたもので、バロック演劇までギリシア・ローマ神話的人物が大勢を占めた舞台上の空想世界を、妖精物語の人物たちへと転換させた。妖精劇の著名な作家には、ボーモン夫人(『子供の雑誌』[1757]、本書収録「美女と野獣」が特に有名)、カルロ・ゴッヅィ(『トゥーランドット』[1762)アドルフ・ダナリー(『もし僕が王様なら』[1852:オペラ])が挙げられよう。妖精劇は歌や踊りも交え、ヴィーン民衆劇メロドラマやオペレッタ、後のレヴュー、或いはアメリカでの大型娯楽ショー「エクストラヴァガンツァ」に少なからぬ影響をを与え、現代のファンタジーの一源流となっている。
 

余計者(露:Ли́шний челове́к/ 英:Superfluous man

 19世紀前半のロシアにおいて、バイロン作品が熱狂的に受容された結果、その特徴的主人公(バイロン的人物:上流階級に属し、教養も品位も備わってはいるが、自分を絶対視し周囲を暗愚な群集と見下す)の影響を受け生み出された登場人物。やはり高い教養や品性を持ちながら、周囲の社会に馴染めず、優越感を守りながらも日常生活への倦怠感や不信感に裏打ちされたペシミズムを抱き続け、怠惰で破滅的な人生を送る。
 当時のロシア社会を覆っていた専制政治や農奴制の閉塞感を象徴した人物であるこの「余計者」は、プーシキン『エヴゲニー・オネーギン』(1833)のオネーギンに初めて登場する。続くレールモントフ『現代の英雄』(1840)のペチョーリンや、ゲルツェン『誰の罪か?』(1847)のベリトフなども同様の人物に属すると見なせよう。しかし余計者をロシア文学独特の人物像へと高めた少なからぬ功績は、ゴンチャロフとツルゲーネフに帰するべきである。
 ゴンチャロフ『オブローモフ』(1859)の主人公は、裕福ではあるが無気力で、自堕落な生活にまみれ落ちぶれていく青年貴族であり、そうした生活態度を表す「オブローモフ主義」という用語を生み出した。ツルゲーネフは一連の「余計者小説」で一世を風靡し、特に『父と子』(1862)のバザーロフは、社会変革を徒に求める新たな余計者像を提示したが、「余計者」という用語自体は、ツルゲーネフの小説『余計者の日記』(1850)から取られた。
 

ライトノベル(英:Light novel

 日本発祥の文学ジャンル。従って、厳密には西洋文学用語の範疇には入らないが、近年は欧米でも通用する用語となっている。「ラノベ」と略されることも多い。若年層(中学・高校生)向けの、アニメ調のイラストを表紙や本文中に多用した小説を指すが、大衆受けを何より重視するため、内容は会話文主体で構成され、卑近かつ極めて平易で、読み易い構成となっている。この点で、長い歴史を持ち、文学性も評価されてきたヤングアダルト小説(ジュブナイル)とは一線を画する。
 しかし、何をもってライトノベルとジャンル分けするかは、明確な判断基準がないため、出版社や収録文庫で判断する場合も多い。代表的な文庫シリーズとしては、1970年代後半より朝日ソノラマから発行された「ソノラマ文庫」や、やはり同時期から発刊を開始した集英社の「コバルト文庫」が挙げられる。出版社では、角川書店やアスキー・メディアワークスや富士見書房などがライトノベル出版社として有名である。
 ライトノベルの欧米展開に関しては、日本のマンガを翻訳・出版している「TOKYOPOP」(本社は東京だが、実態はアメリカ・ロサンゼルスを拠点とする出版社)がライトノベルの翻訳も行い、欧米に輸出している。

ライトモティーフ(独:Leitmotiv

 一見非芸術的な内容と結びつきながら、作品中に何度も繰り返し登場する事物。もともとは音楽用語であり、楽曲中に何度も演奏される短い旋律を指したが、文学においては人物、色、物、出来事、言い回しなどが該当し、すべて作品本体の展開にはさして重要ではない小道具が用いられる。しかし、ライトモティーフは、同じ形で再三登場することにより、作品の推移・展開とのコントラストを際立たせ、作品内世界の変化をより効果的に読者に印象付けるという機能を持つ。典型的なライトモティーフとしては、マン『ブッデンブローク家の人々』(1901)中で没落してゆく主人公が再三抱える「歯の悩み」が挙げられる。また、コメディーの世界では、繰り返される決まった言い回しや動作が強い笑いを引き起こす場合があり、こうした手法を「ランニング・ギャグ」という。代表的な例としては、ドイツのテレビ・コント”Dinner for One”がある。(宴席で老女主人を給仕する執事が、物故した出席者たちの身代わりをしながら乾杯を繰り返すことによって、次第に酩酊していく。)

                                    

            ライム・ロイヤル スタンザ



ラオコーン問題(独:Laokoon-Problem

 造形芸術と文学の相違に関し、ドイツの作家G.E.レッシングが『絵画と詩歌の限界について』(1766)で提唱した問題。美術史家のヴィンケルマンは『ギリシア美術模倣論』(1755)において、古代ローマの「ラオコーン像」の表情にはヴェルギリウスの『アエネイス』(29-前19)に登場するラオコーンほどの断末魔の苦痛が見られないことを、(古代ギリシアの司祭である)ラオコーンの魂の崇高さによるものであり、ここに古代ギリシア美術の神髄である「気品ある単純と静穏なる威厳」(Eine edle Einfalt und eine stille Größe)が現れているとするそれに対しレッシングは、造形美術とは、色や形を用い、描写対象を空間的に最も効果的な一瞬の「並列」(”Nebeneinander”)によって捉え永遠化する営みであるとし、そのため、創造力の入る余地がなくなる感情の最高潮の場面を切り取ることは避けねばならないとした。一方詩歌は、言葉を用い、描写対象を時間的な「縦列」(“Nacheinander”)によって、すなわち進行する「行為=筋」によって捉える芸術である。従って、絵画は並列に配置された「事物」を描写し、詩歌は縦列に配置された筋を描く芸術なのである。ホメロスは、ヘレネの美しさを表現するため、絵画のようにその肉体的特徴をいちいち挙げつらうようなことはせず、彼女の美貌のため、トロイヤの長老たちでさえ、戦争を止める気になったという、時間的因果関係を描写することにより、詩歌の表現力を存分に発揮した。
 レッシングはこの主張により、それまで支配的であったホラティウスによる文芸論「ウト・ピクトゥラ・ポエシス(詩は絵の如く)」から導かれていた両芸術の類似性を否定し、造形芸術を「空間(視覚)芸術(Raumkunst)」、詩歌を「時間(言語)芸術(Zeitkunst)」と定義した。

 

ラファエル前派(英:Pre-Raphaelite Brotherhood

 1848年にロセッティ、ハント、ミレイを中心にイギリスで結成された芸術集団。当時支配的だったアカデミーによる古典主義的な絵画を否定し、ラファエルやボッチチェリらイタリア・ルネサンス前期の芸術が持つ素朴さ、純粋さ、宗教性、深淵性そして豊かな表現力などを標榜した。集団には文学者も多く参画し、キーツやバイロンに代表されるロマン主義を継承しながら、厳密な言語彫琢を施し美的要素を追求した絵画的な文学を目指した。作家としての代表的人物には、ロセッテイ3兄妹(ダンテ・ガブリエル[詩人]、ウィリアム・マイケル[芸術批評家]、クリスティーナ[女流詩人])の他、ラスキン(『近代絵画論』[184346])、スウィンバーン(『詩とバラッド』[1866])、パトモア(『家の中の天使』[185463])、などが挙げられる。機関誌としては1950年に創刊した「ジャーム(萌芽)」がその機能を果たし、ポーの紹介や、『ルバイヤート』の再評価などにもラファエル前派は寄与している。彼らの活動は明確な理論的背景を持ったものではなかったため長続きはしなかったが(1850年代中頃には消滅)、後のドイツ語圏での「ユーゲントシュティール」や、「耽美主義」へと連なる近代ヨーロッパ芸術思潮における重要な一派である。
 

ラプソドス(ギリシア:Ραψωδός / 英:Rhapsode

 ギリシア語で「口誦者」を意味し、アオイドスの後継として、ホメロス以降、主に叙事詩を吟唱した吟遊詩人。彼らの吟ずる詩はラプソディアと呼ばれ、主な作品としてはホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』(前8世紀以降)やヘシオドスの『仕事と日』、『神統記』(700)などが吟唱された。彼らはきらびやかな外套をまとい、竪琴を手に詠じたが、彼らの装束で特徴的だったのは、旅回りの詩人を象徴する杖を携えていたことである。アオイドスの吟唱が即興的な演出を多く含んでいたのに対し、ラプソドスは書かれたテクストを詠じていたと推定されている。アオイドス同様、職業詩人であった彼らは、時には祝祭の場で歌合戦を行い、3世紀ごろまで活躍した。



ラフ・トラック クラック


ランニング・ギャグ(英:Running gag)< ライトモティーフ

 

ランブイエ館(仏:Hôtel de Rambouillet

 1607年より、ランブイエ侯爵夫人がパリの私邸に開いたサロン。当初私邸はルーブル宮北側のサントノレ通りにあったが、リシュリュー邸(後のパレ・ロワイヤル)建設のため取り壊しとなり、1916年より数百メートル南下したサン・トマス・ド・ルーブル通りに移転した。館はサロンを中心に設計されており、彼女が客をもてなす広間は「青い部屋」と呼ばれたが、客同士が親密に交歓できるよう、他にも多くの小部屋が設けられた。ここにはマレルブ、コルネイユを始めとして著名な文学者たちが集ったが、他にもリシュリューやルイ2など貴族や軍人が出入りしていたため、純粋な文芸サロンとは一線を画している。また、侯爵夫人はサロンが男性に占領されることを好まず、女性も招いたため、ラ・ファイエット夫人セヴィニエ夫人ら女性知識人層の育成にも寄与した。特に兄ジュルジュと共に参加していたマドレーヌ・ド・スキュデリーは、旺盛な著作活動の傍ら1652年よりサロンを開き、ランブイエ館の後継として本格的な文芸サロンの幕開けを告げた。彼女は、後のE.T.A.ホフマンの小説『スキュデリー嬢』(1821)のモデルとしても有名である。
 

リアリズム 写実主義

 

リドルストーリー(英:Riddlestory

 ミステリにおける物語形式のひとつ。「リドル(riddle)」は謎を意味し、リドルストーリーとは謎の結末を意図的に明示せず、読者の判断に委ねる物語を指す。代表的な作品にフランク・R・ストックトン(Stockton)の『女か虎か?』(1882)が挙げられるが、物語の内容は以下のとおり:ある国の王女が、貧しい若者と恋仲であることが発覚し、父たる王は若者を裁判にかける。裁判とは闘技場にしつらえた二つの扉の後ろには、それぞれ美女と虎が用意され、若者はいずれかの扉を選ばなければならないというものだった。虎の扉を開ければ猛獣に噛み殺され、美女の扉を選べば彼女を花嫁にできる。王女は必死になって調べ、事前に扉の内容を知ることができたが、恋人が虎に殺されるのも、美女に奪われるのも嫌である。さて、彼女は若者にどちらの扉を開けるように指示するのだろうか:ここで作品は終わる。この話は一種の寓話であり、リドルストーリーは謎解きの結末を伏せるミステリというより、様々なジレンマを扱った物語の遊びといった方が妥当であろう。したがって、その結末も第三者から提示されることが多い。この他に代表的なリドルストーリーの作品として、クリーブランド・モフェット(Moffett)の『謎のカード』(1895)及びマーク・トウェイン(Twain)『恐ろしき、悲惨きわまる中世のロマンス』(1871:)が挙げられ、これら3作品は「3大リドルストーリー」と称される。
 

リトルネッロ(伊:Litornello) < マドリガーレ

リポグラム(仏:
Lipogramme)→ ウリポ

 

リュトリ派(独:Rütli

 1852129日に、既に結成されていた「シュプレー川に架かるトンネル」(以降「トンネル」と表記)メンバーの一部によって立ち上げられた文学・芸術サークル。「トンネル」が有していた儀式ばった堅苦しさを払拭し、外部への意見表明も自由なサークルとして、会員のF.フォンターネ(Fontane)からは「ある種第二のトンネル」と形容され、毎週会員の自宅で研究会を催した。当時のサークルには付き物だった「会員名」を用いなかった点にこの会のフランクさが表れているが、研究会後、会員は各自の妻も交えて懇親会を開いていたことも当時としては珍しかった。(飲食の用意のためもあった。一方、会の文学的方針は定まっておらず、芸術家たちの親睦に重きを置いたサークルともいえる。会は45年間ほど存続するが、前期と後期に分けられ、前期にはフォンターネを始めとして、P.ハイゼ(Heyse)、画家A.メンツェル(Menzel)、美術史家F.Th.クーグラー(Kugler)及びF.エッガース(Eggers)など、また後期にはエッガースの弟カール、建築家R.ルカエ(Lucae)、心理学者M.ラーツァルス(Lazarus)O.ロケッテ(Roquette)などが属し、その大部分が「トンネル」の会員でもあった。会は「トンネル」同様ゲストを呼ぶこともあり、ベルトルト・アウエルバッハ(Auerbach)、フリードリヒ・フォン・ボーデンシュテット(Bodenstedt)或いは俳優エデュアルド・デヴリエント(Devrient)などが招かれた。会は共同出版物として、芸術・文学アルバム“Argo“或いは「文学草紙」(„Literatur-Blatt des Deutschen Kunstblattes.“)を発行し、確認できる範囲においては1897年まで存続した。

 

旅行文学(英:Travel literature / Reisebericht

 旅行することが困難だった近代以前、見知らぬ世界を紹介する書物はいつの時代も読者に歓迎されてきた。それらの内には現代の旅行ガイドやルポルタージュ、或いは学術的な調査報告書につながる実用的なものもあるが、フィクションであれノンフィクションであれ、文学的にも洗練された作品も現れ、「旅行文学」のジャンルを形成していく。
 旅行文学的要素は既に古代ギリシア文学を代表するホメロス『オデュッセイア』(8世紀頃)やカエサル『ガリア戦記』(前1世紀)、或いはアッリアノス『アレクサンドロス東征記』(1世紀前半)などに含まれているといえるが、その直接の原型はパウサニアス『ギリシア案内記』(2世紀後半)に求められよう。この全10巻に及ぶ広範な旅行案内記は実用書として書かれているが、各地域の縁起・風俗・宗教面の記述にも紙面を費やした文学的側面を有している。旅行文学はその後、キリスト教の流布と共に巡礼や布教活動の記録としても発展を遂げる。その例として、前者としては聖地エルサレムへの旅を記した尼僧エゲリアの巡礼記(3世紀後半)や約束の地を求めて旅をした聖ブレンダヌスの航海記(8世紀中盤)、後者ではウェールズの修道士ギラルドゥス・カンブレンシスの『ウェールズ紀行記』や『アイルランド地誌』(12-13世紀)、あるいはルイス・フロイスの『日本記』(1549-1593)などが挙げられる。
 また、宗教的起源は持たないが、フロイス以前に東洋への興味を著しく喚起した旅行記として特筆されねばならないのが、マルコ・ポーロ『東方見聞録』(13世紀末)である。この作品は、後の大航海時代の呼び水となるなど、当時のヨーロッパ人の東方世界観に大きな影響を与えたが、特に日本に関する記述など誇張に過ぎる点も多く、後のフィクション小説的要素も多分に持ち合わせている。近代以降の旅行文学はフィクション系作品とノンフィクション系作品とに分類され、フィクション系では風刺文学に連なるスウィフトの『ガリヴァー旅行記』1726)や、「うそ物語」の典型であるミュンヒハウゼン男爵のほら話(初出は1781年)、そして「ロビンゾナーデ」という文学ジャンルを創設したデフォー『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719)といった作品が生まれ、更に空想は地球という空間性や現在という時間性をも飛び越え、シラノ・ド・ベルジュラック『月世界王国滑稽譚』(1657)を嚆矢としてヴェルヌ『月世界旅行』(1865)H.G.ウェルズ『タイム・マシーン』(1896)などを生み出したSF文学へと発展する。
 ノンフィクション系としては、イタリアを旅したモンテーニュの日記『旅日記』(1774)や、スモレットの『フランス・イタリア紀行』(1766)や『ハンフリー・クリンカーの旅(1771)、或いはサミュエル・ジョンソンの『スコットランド西域諸島への旅』(1775 )などが著され、未知世界の紹介に留まらぬ風景や心理描写に重きを置いた純文学性も追求するようになった。(ジョンソンの旅行に同行した31歳年下のボズウェルも、ジョンソン作品を補完する意味で後に『ヘブリディーズ諸島周遊記』[1786]を著し、この2作品は同一旅行の異なったアプローチを示す旅行記の例として1巻本で出版されることも多い)。デフォーの『大ブリテン島旅行記』(1724-26)などもあり、18世紀までのノンフィクション系旅行文学はイギリスが主導していた(イギリスの貴族や上流階級が子弟の教育の一環として行った「グランド・ツァー」[修学旅行]の影響があるものと思われる)。
 特筆すべきはスターンの『フランスとイタリアを巡るセンチメンタル・ジャーニー』(1768)であるが、この小説は一見ノンフィクション旅行文学の体裁を取っているが、旅行地を紹介する意図はまるでなく、表題にあるイタリアも訪れてはおらず、そもそも作品は「触れたのは女中の-」という、実に中途半端な形で終了する。筋そのものもノンフィクションとは言い切れず、「意識の流れ」に従った描写手法は、当時の旅行文学の範疇を完全に逸脱した近代的なものである。
 19世紀以降の旅行文学はイギリス文学以外からも旺盛に生み出され、旅行範囲も広まった。その範囲は、地中海やパレスチナ地域(ゲーテ『イタリア紀行』(1816-17)、マーク・トウェイン『赤毛布外遊記』[1869])、アジア・アフリカ地域(ラフカディオ・ハーン『東の国から』[1895]、ボンゼルス『インド紀行』[1916]、ジッド『コンゴ紀行』[1927]及び『ソビエト旅行記』[1936])、更には当時の未開地域も対象となった(ゴーガン『ノア・ノア[タヒチ紀行][1891-93])、チェーホフ『サハリン島』[1895])。イギリス文学においても、スティーブンソン『旅は驢馬をつれて』(1879)やシング『アラン島』(1907)などの秀作が生まれる。20世紀以降はダウティ、チャトウィン、オハンロンなど「旅行記作家」も登場するが、映像メディアの発達により世界の津々浦々が紹介されるようになる中、旅行文学も「未知世界の紹介」というかつての使命は薄れつつある。
 


リヨン派(仏:École de Lyon

 ルネサンス後期の1550年頃に、フランス南東部リヨンにおいて、主に抒情詩の分野で活躍した詩人集団。正式なものではなく、たまたま有力な詩人が当時のリヨンに集っていたという実態であったため、彼らに派閥意識があったかどうかは議論の余地があるものの、彼らの文学には、イタリア・ルネサンスから輸入された新プラトン主義による恋愛観(所謂プラトニック・ラブ)という共通項があった。同派詩人としては、モーリス・セーヴ(Scève)、ルイーズ・ラベ(Labé)、トーマス・セビエ(Sébillet)、ペルネット・ド・ジレ(Guillet:セーヴと恋愛関係にあり、彼女の死後、セーブは彼女への愛のオマージュとして代表作『デリー』[Délie :1544]を書きあげた)などが挙げられるが、ポンチュス・ド・チヤール(Tyard)は、後にプレイヤッド派に加わった。リヨンは地理的にイタリアと最も近い都市であったため、その富や文化の恩恵を真っ先に受け、一時はパリに劣らぬ繁栄を誇ったが、その文化面での象徴が彼らである。

 

ルーゴン・マッカール叢書(仏:Les Rougon-Macquart

 バルザックの「人間喜劇」に範を取り、「第二帝政下における一家族の自然的・社会的歴史」という副題のもと、19世紀後半のフランス社会全体を壮大なスケールで描いた、エミール・ゾラによる連作小説。1871年に出された第一作『ルーゴン家の誕生』から最終作『パスカル博士』(1893)まで、23年間に亙り計20作が書かれた。アデライート・フークなる女性が神経質な農民ルーゴンと結婚して生んだ子供と、その後愛人となったアルコール中毒者マッカールとの間に設けた子供が発端となり、それぞれルーゴン家とマッカール家を形成、前者には神経症の、後者にはアルコール依存症の性向が遺伝され、そこに社会的環境が加味されて人物たちは様々な生涯を送る。両家系には政治家や実業家や医者から炭鉱夫や洗濯女に至るまで、極めて多彩な人物が輩出し、政治から恋愛まで、また社会運動から哲学的省察まで、ミクロ的にもマクロ的にもこの上なく広範な人間活動が描き上げられた。
 ゾラは、クロード・ベルナールの『実験医学序説』(1860)の理論を文学にまで広げた自著『実験小説論』(1879)で、人間の行動を規定する二大要素は遺伝と環境であり、小説家は実験を行う科学者の如く、外部要素に規定される人間の活動を客観的に「観察」しなければならないと主張したが、この自然主義理論を実行に移したのが、まさに本叢書であるといえる。初期の作品群はしかし、自然主義的手法があまり前面に押し出されておらず、世間の関心を引くことも少なかった。ところがパリの下層社会の悲惨さを冷徹に描いた第7作『居酒屋』(1877)で人気が沸騰、2年後に出された娼婦を主人公とする『ナナ』と共にベストセラーとなり、ゾラをヨーロッパ自然主義文学の第一人者の地位に押し上げた。他方、政治小説であるウージェーヌ・ルーゴン閣下(1876)や、哲学的な雰囲気が漂う『生きる喜び』(1884)などは最近まで邦訳もされておらず、人気の高い作品は、先述した2作の他に『ジェルミナール』(1885)や『獣人』(1890)など、いずれもマッカール家を中心に据えて下層社会を描いた作品である。すなわち、図らずも自然主義は、社会の醜悪な部分を描く際に最大の効果を生み出すことが本叢書により証された形となっているが、またそれが自然主義に対する最大の批判ともなっていく。バルザックが創案した「人物再登場法」が本叢書でも必然的に試みられているが、「人間喜劇」ほど多用されてはいない。イタリアのヴェリズモ作家ジョヴァンニ・ヴェルガ(Verga)は、1880年代より本叢書にならった5連作小説『敗者』執筆を目論んだが、生前に完成したのは2作のみだった。
 

ル・シッド論争Querelle du Cid

 コルネイユ(Corneille)の戯曲『ル・シッド』を巡る文学論争。当時のフランス古典主義の文学観を知る上で極めて示唆に富む事件である。『ル・シッド』は「悲喜劇」の副題を持ち、従来の悲劇・喜劇の垣根を打ち破る革新作として1637年1月パリで初演された。劇は大変な人気を博し、コルネイユは一流作家の仲間入りを果たすが、続いて同戯曲が出版されると、作品の文学性に疑義が唱えられ出す。それに対し作者が自らの正当性と類稀な文才を誇る詩を発表すると、373月、悲劇作家ジャン・メレJean Mairetが、『ル・シッド』はスペイン作家ギリェン・デ・カストロ(de Castro)『シッドの青春時代』(160515)の盗作であると告発した。この告発にジュルジュ・ド・スキュデリー(de Scudéry著名な文芸サロンを主催したスキュデリー嬢の兄)も加担し、『ル・シッドの考察』(1637)の中で古典劇における「礼節(ビアンセアンス)」と「真実らしさ(ブレサンブランス)」及び「三一致の法則」が遵守されていないと非難した。コルネイユが再び『弁明の書』(1637)でこれらの批判を故なき言いがかりと退けるに至って、スキュデリーはアカデミー・フランセーズに最終判断を仰いだのである。アカデミー・フランセーズは会員ジャン・チャプラン(Chapelain)が意見書の作成を担当し、3712月『悲喜劇シッドについてなされた考察に関するアカデミー・フランセーズの意見』を発表した。そこでは作品の盗作疑惑については否定されたものの、「礼節」、「真実らしさ」、「三一致の法則」はややないがしろにされていると断じられており、作品の成功は偶然に拠る面(当時三十年戦争に参戦していたフランスは、スペインと戦争中だった)もあると結論づけられた。これにコルネイユは敢えて反論はせず、古典主義の導入を指導しコルネイユを庇護していた当時の宰相リシュリューもこれをもって騒動を終結させた。『ル・シッド』に対する批判は、その大成功への嫉妬心からなされたものが多く、概ね恣意的で正当性に欠くといえよう(「三一致の法則」も守られているが「一日に起きる出来事が多すぎる」などと批判された)。しかし、厳格な古典主義的規律が確立し、以降200年に亙り古典主義が一定の文学的規範となり続けるフランス文学界の特殊事情も、この論争が契機となったことは否定できない。




ルドラムの洞窟(独:Ludlamshöhle

 1817年に劇作家I.F.カステリ(Castelli)が、A.v.ギムニッヒ(Gymnich)と共にウィーンに結成した作家、役者、音楽家による芸術サークル。名前の由来は、同年にウィーンで初演されたデンマーク詩人アダム・エーレンシュレーガー(Oehlenschläger:デンマーク国家の作詞者として有名)作の同名の演劇(Ludlam’s Höhle)による。本作が不評に終わったため、観劇した芸術家たちが行きつけの居酒屋で劇評を論じるうちに、これを機にサークルを設立しようということになり、その機会を与えてくれた当該作品と詩人を応援する意味でカステリがこの名称を提案した(エーレンシュレーガーも会員となった)。参加者たちは以降、毎晩のようにこの居酒屋(Haidvogels Gasthaus)に集い、内部にだけ通用する会員名を名乗った。著名な参加者として、J.Ch.ツェドリッツ(Zedlitz)K.v.ホルタイ、E.v.バウアンフェルト(Bauernfeld)F.グリルパルツァー(Grillparzer)など、音楽家としてはA.サリエリ(Salieri)C.M.v.ウェーバー(Weber)M.ジュリアーニ(Giuliani:ギター曲作家として有名)などが挙げられる。
 本サークルは、極めて規律の緩い集団で、政治目的はおろか、共通した明確な芸術目的も有してはいなかった。会員たちは、夜な夜な行きつけの酒場で単に交友を重ね、その実態は、正に当時のウィーンが迎えていたビーダーマイヤー時代そのままの、小市民的な安寧を求めるごく私的なサークルといえるものだった。ただ、(非常に緩くはあったが)入会考査があったり、独自の会員名を付けられたりするなど、外面的には結社的性格も示す部分もあり、国家反逆の恐れありとして、1826418日深夜に官憲が居酒屋に踏み込み、参加者の逮捕と家宅捜査、そして会の解散命令へと至った。その後は会員たちに尾行がつくなど、官憲による隠微な弾圧が続いたが、この事態が本サークルに神秘性を付与する結果になったことも否めない。しかし会の本質は、芸術家たちの純粋な親睦会であり、当時の芸術思潮に大きな影響を与えた集団とはいえない存在である。
 第二次世界大戦後の1948年に起きた会の再興運動は不首尾に終わったものの、翌年にF.K.フランキー(Franchy)Th.H.マイヤー(Mayer)F.シュライフォーゲル(Schreyvogl)といった作家たちが「新ルドラムの洞窟(Neue Ludlamshöhle)」を結成し、会は1972年まで継続した。

 

 

ルネサンスRinascimento / 仏・英Renaissance

 「文芸復興」とも訳される14世紀イタリアに始まる文化運動。人文主義と表裏一体の関係にあり、中世キリスト教の硬直した世界観から身を放ち、古代文化を見直すことにより、人間中心の自由な世界観・芸術観構築を目指した。ヨーロッパ文化が中世において停滞期を迎えた中、原点回帰を目指す主体的な「リセット」と考えられる。ルネサンスの規定には諸説あり、その明確な存在さえ疑う説もあるが、従来のルネサンス観はイタリア美術をその中心に据えるものである。
 文学に関してルネサンス文学は、その先駆者ダンテはさておき、ペトラルカ、ボッカチオ、フィチーノ、ポリツァーノ、マキアベッリ、エラスムス、ラブレー、モンテーニュ、トマス・モアなど、人文主義文学とかなりの部分が重複することになるが、イタリア以外の文学では「革新的な文学」を創始した文学者たちが、人文主義精神にはとらわれず、おしなべてルネサンス期の文学者と呼ばれる傾向にある。その代表的な例が、フランス詩の改革を目指したロンサールを中心とするプレイヤッド派、「エリザベス朝演劇」時代(15581603)を代表するリリー、マーロウ、ベン・ジョンソン、シェイクスピアなどのイギリスの劇作家、或いはスペインのセルバンテスらであり、彼らの文学は殊更古典文学を模範として生み出されたわけではなく、自由な人間精神の謳歌というゆるやかな枠でのみ括ることが可能である。16世紀まで隆盛を誇ったルネサンスは、絶対王政が確立する17世紀には宮廷文化を背景とする→バロック文学にとって代わられた。(近代小説の雛形と見なされるセルバンテス『ドン・キホーテ』[1605-1615]が完成した時点で、ヨーロッパにおけるルネサンス文学はほぼ終息していたと考えてよい。)
 

歴史小説(英:Historical novel / 仏:Roman historique / 独:Historischer Roman

 歴史的過去を舞台とした小説。歴史小説は、原則として作者の体験しない過去を扱った小説であり、人物が実在するか否かは関係ない。ただ、過去を舞台としていても、歴史的状況の影響を感じさせない作品は、歴史小説とは呼びがたい。また、超自然的な題材を扱う場合には、「ファンタジー」に分類されることも多い。同様に、説話、神話、伝説等をモティーフとした小説も歴史小説には属さない。
 一般的に歴史小説の先駆けは、ウォルター・スコットの作品群(『ウェイヴァリー』[1814]、『ロブ・ロイ』[1816]『アイヴァンホー』[1820]など)とされるが、彼の前にドイツの女流作家ベネディクテ・ナウベルト(Naubert)が多数の歴史小説(『ヴァルター・フォン・モンバリー』[1789]『コンラーディン・フォン・シュヴァーベン』[1790]、『ウルリヒ・ホルツァー』[1793]など)を匿名で発表し、その英訳をスコットも読んでいたことは余り知られていない。
 ロマン主義の台頭と共に歴史への興味も高まり、歴史小説は大きく発展し、アメリカではクーパー(『モヒカン族の最後』[1826])、イタリアではマンゾーニ(『いいなづけ』[1827])、ロシアではプーシキン(『大尉の娘』[1836])やトルストイ(『戦争と平和』[1864])、ドイツではシュティフター(『ヴィーティコー』[186567])、ポーランドではシェンキェビチ(Sienkiewicz)(『クオ・ヴァディス』[1896])などが傑作を残した。特にフランスでは歴史小説が独自の発展を見せ、社会小説ゴシック小説的境地にも踏み込んだユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』(1831)、スコット流の「歴史に翻弄される脇役たち」という手法から脱却し、「歴史の本流を形成した主役たち」を描いたヴィニー(Vigny)の『サン・マール』(1826)などが現れた。ユゴーやヴィニーは、フランス革命に代表される歴史的事件の新たな解釈を提示した作家として、このジャンルにあっては特筆されよう。
 叙事詩の伝統を持つヨーロッパでは、歴史的事実の文学的再検討や新側面からの解釈は20世紀に入っても衰えはせず、ヴェルフェル(Werfel)『ムーサ・ダグの40日』(1933)、マン『ヴァイマールのロッテ』(1939)、ミカ・ワルタリ(Waltari)『エジプト人シヌーエ』(1949)、ウンベルト・エーコ(Eco)『薔薇の名前』(1980)などが書かれた。我が国にあっては、特に江戸時代を背景とし、歴史的事件とは一線を画する市民生活を微視的に扱った「時代小説」が現代でも盛んに執筆されているが、これらの小説は過去を舞台としたサスペンス、或いは恋愛小説と形容するべきであり、歴史小説とは根本的に異なる文学作品である。
 


歴史的現在Historical present / Présent historique / 独:Historisches Präsens

 「史的現在」とも訳される。小説や歴史書において、過去の出来事を描写する際、過去形ではなく意図的に現在形を用い、時間的障壁を取り除き同時性を演出することにより、読者が受ける臨場感を高め、強い感興を生み出す効果を生み出す手法を指す。小説において、歴史的現在は、通常過去形と混在して使用されるが、過去形で語られる状況の中に、歴史的現在で描く出来事を挿入することにより、その出来事を前景化することができる。また、現在形を使うことにより、描写の担い手が語り手から主人公へと移り、主人公への読者の共感をより高める効果も有する。この状況が先鋭化し、語り手が全く介在しなくなり、主人公が現在形の直接話法で自らの心情を吐露する手法が「内的独白」である。歴史的現在は日本文学でも盛んに使用される。以下は芥川龍之介『羅生門』(1915)の冒頭部であるが、現在形と過去形を組み合わせることにより、語りの視点を動かし、文章に躍動感を生み出している。

「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀(きりぎりす)が一 匹とまっている。」

年表表記においても現在形が使われるが、これは歴史上の不変の事実を表現する意味合いであり、歴史的現在と直接の関係はない。




レクラム文庫(独:Reclam Universal-Bibliothek

 ドイツの代表的な出版社であるレクラム社が1867年に創刊した小型版文芸学術叢書。正確な訳は「百科文庫」であるが、我が国では「レクラム文庫」と通称されている。世界文学・思想の古典的名作をすべて収録することを目的としており、19世紀中頃にドイツで起きた廉価版シェークスピア全集出版ブームを終結させる形で発刊された。(従って初期ラインナップ100冊中、シェークスピア作品が24編を数える)総作品数は現在まで優に2000点を超えるが、第二次世界大戦前は絶版になるのも早い娯楽作品を数多く刊行していた時期もある。レクラム文庫には他の叢書には見られぬ幾つかの特徴がある。その詳細としては:
1)         全巻に通し番号を打っている。文庫の各巻は、発行順に通し番号が打たれているが、1冊にひとつの番号が打たれるわけではない。文庫の決まったページ数(約80ページ)を一単位として、厚い巻は相応の数の番号(連番)が割り振られる。例えば最初の連番となったジャン・パウルの『ドクトル・カッツェンベルガーの湯治旅行』には「1819」の番号が打たれた。ちなみに、現在も変わらぬ通し番号1番を背負う作品は、ゲーテ『ファウスト』第一部である。 
2)         文庫に定価は記載されず、星(後期は■)が背表紙に印刷され、その数が定価を表した。(現在は定価明示)
3)         収録したジャンルは、表紙の色によって示された。(黄色:ドイツ語版/赤:外国語版/オレンジ:2ヶ国語版/青:教材用解説書/緑:一般解説書など)
などである。
 我が国ではレクラム文庫に遅れること60年、岩波書店がこの文庫を模して「岩波文庫」を創刊したことは有名であり、その際岩波文庫は2)と3)の特徴を取り入れている。(3に関して岩波文庫は表紙ではなく「帯」の色を区分した)
 レクラム文庫は現在も学校の教材として指定されたり、劇場窓口で上演演目の鑑賞資料として販売されたりすることも多く、世界有数のスタンダードな古典叢書の地位を確立している。
 

レシ(仏:Récit

 フランス語で「物語」の意味。単に短編小説を指す場合もあるが、この用語に特別な意味を付与したのはジッドであった。ジッドは自作のうち、単一の人物に焦点をしぼった単線的な形を持つ物語を「レシ」(物語)、焦点が複数の人物に分散され、(紋中紋など)複数の→プロットが交錯し合い、多層的な視点を有する物語を「ロマン」(純粋小説と分類したのである。(もうひとつ、風刺的でユーモラスな物語を「ソチ[茶番劇]」に分類している)ジッドは自作でいえば、『狭き門』(1909) は典型的レシそして『贋金つくり』(1925) のみをロマンと呼んだ。彼のレシは伝統的な物語形式であるのに対して、ロマンはメタフィクション構造へと繋がり、20世紀半ばにフランスで流行するヌーヴォー・ロマンに大きな影響を与えた。また、ナラトロジーにおいては、ジュネットが定義したところによると、物語の内容(物語の中で生じている出来事)である「イストワール(物語内容)」に対して、それを語った結果であるテクストそのものを「レシ(物語言説)」と称し、レシとイストワールの関係が、ナラトロジーの重要な研究対象となる。
 

レーゼドラマ(独:Lesedrama / 英:Closet drama)

 読者によって読まれることを第一義に想定して書かれた戯曲。「書斎劇」とも訳される。舞台での上演を想定していないため、上演困難な設定となっている場合が多いが、上演不可能というわけではない。例えば、この種の戯曲とみなされるゲーテ『ファウスト第二部』[1831]では、舞台が世界各地にめまぐるしく変転し、長らく上演不可能なレーゼドラマという位置づけがなされていたが、現代では実際に上演されている。
 レーゼドラマの歴史は古代ローマ文学(セネカ)から始まるとする説もあるが、明確な作品が現れるのは、シェイクスピア時代のイギリスからで、同地では特に「クローゼット(私室)ドラマ」と呼ばれた。他方フランスでは、自身の前作が舞台で不評だったせいか、戯れに恋はすまじ』(1834)を始めとする一連のレーゼドラマを書き始めたミュッセがその嚆矢とされる。続いて18世紀末から19世紀前半のイギリスにおいて、バイロン『マンフレッド』(1817)、シェリー『鎖を解かれたプロメテウス(1820)、或いはジョアンナ・ベイリーの一連の戯曲など、特に詩人たちがレーゼドラマ形式の作品を好んで執筆した(ただ、ベイリーは自作をクローゼットドラマと評されることを好まなかった)。



レッド・へリング(英:Red herring

 「燻製した鰊」(燻製する鰊の身は濃い塩水に漬けられるが、その際に身が赤くなる)は、ミステリで用いられる用語であり、無実の登場人物が犯人であるかのような状況を敢えて提示することによって、真犯人を推理しにくくする手法。作中で真犯人が設定する場合もあるが、真犯人の計略とは別に作者が事件を取り巻く状況に仕込んでおく場合も多い。
 この語の由来は、従来は狩りに反対する人々が猟犬の嗅覚を攪乱するために、或いは逆に、猟師が嗅覚の攪乱に惑わされぬよう犬を訓練するために燻製鰊を用いたことからとされていた。しかし実際にこのような事実は存在せず、その真相は、1807年にナポレオン軍が辛勝した対英会戦(アイラウの戦い)を、イギリスの新聞がイギリス軍勝利と誤報したことに端を発する。この誤報に対して、イギリスのジャーナリスト、ウィリアム・コベットは、自らが発行する週刊新聞紙上で、燻製鰊を使ってウサギ狩りをしている猟犬の鼻を攪乱した自身の体験を引き合いに出しながら、今回の誤報を燻製鰊に例えた。彼が実際にそのような体験をしたかどうかは定かではないが、その後、燻製鰊(red herring)が「目くらまし」の意で、辞書にも載るようになっている。
 同様の意味を持つ用語に、手品の基本技術とされる「ミスディレクション」がある(例えば、右手でトリックを仕込む最中に、左手で目立つ手振りを行い観客の注意を左手に集中させる手法)。レッド・へリングは、ミステリでは必須のものとされているが、通常の会話や議論でも、所謂「論点のすり替え」という形で普通に行われているものである。

 

レトリスム(仏:Lettrisme

 1945年にパリにおいて、ルーマニア出身の詩人イジドール・イズーにより提唱された文学運動。「文字主義」と訳される。単語をその意味から解放し、構成要素である文字にまで分解し、詩を文字或いは音声の連続と捉える未来派ダダイズムを受け継ぎ、更なる体系化を目指した。すなわち、言語は、従来の使用方法では、もはや芸術的な創造性が枯渇しているとし、その最小単位である文字にまで分解した上で、その文字を新たに再構成することにより、レトリストたちは新たな詩的創造性を模索したわけである。造形芸術では、この思想により絵文字を多用した絵画が生まれたが、これをイズーは「ハイパーグラフィー」と呼んだ。(レトリストたちは、自らの衣服を文字やスローガンで装飾したことでも異彩を放った。)「我々は、数百年来その硬直化した24文字の中に閉じこもっているアルファベットを切り裂き、その腹へと19の新しい文字(息を吸う、息を吐く、囁く、喘ぐ、愚痴る、嘆息する、鼾をかく、ゲップする、咳をする、くしゃみをする、キスする、口笛を吹く…)を打ち込むのだ。」(イズー)
 レトリスムにとりアルファベットは単に音声的な構成要素に過ぎない。この文学運動は、その後すぐに勃興する「具体詩」の運動と連動することになり、生み出された作品は、具体詩における「聴覚詩」とほぼ同傾向を示した。ただ、レトリスムは、創作面では造形芸術や映像芸術で大きな成果を残したが、詩作においてはほぼイズーのみが代表的作家として特筆されるのみである。
 レトリストたちの中には、しばしば過激な行動に走る者たちがおり、特に
195049日に起きた事件は有名である。この日に行われたパリ・ノートルダム大聖堂での復活祭ミサで、一部のレトリストたちは司祭を拉致し、代わりに自らの同士(ミシェル・ムール)を説教壇に建たせ、「神は死んだ」と宣言させた。その後堂内はパニック状態となり、レトリストたちは命からがら逃げだしたが、この事件を契機にイズーはレトリストたちから距離を置くようになる。これらの者たちは、その後(1957年)分派し、マルクス主義的社会変革思想を下地とし、1970年代のパンクにまで連なる芸術家集団「シチュアシオニスト・インターナショナル」を結成した。

 

レトロ・フューチャー(英:Retro-futurism

 SFの用語。「懐古的未来」を意味し、19世紀から20世紀にかけて人々が想像した未来社会を指す。そこでの未来(多くは20世紀以降)とは、科学技術の進歩により、当時は不可能であった様々なことが可能となる世界であった(宇宙旅行、時間旅行、高度な人型ロボットなど)。人々の日常生活も、服装を始めとしてそのスタイルは当時とは一新するものと想像されており、そうしたバラ色の世界をSFは描き続けたのである。その源流はヴェルヌ(『月世界旅行』[1865]、『海底2万里』[1870])やウェルズ(『タイム・マシーン』[1896])などに求めることができる。ところが21世紀の現在になってみると、人類の生活はバラ色とはとても呼べるものではなく、極めて便利ではあるが見た目は地味な電子技術革新に支えられた生活である。こうした現実の未来世界とレトロ・フューチャーは全く別箇の存在であり、ガジェットに対する価値観も全く異なる(例えば、原子力エネルギーに対するレトロ・フューチャー:夢の動力/現代社会:環境汚染の危険を孕んだ動力、の違いなど)。だが、そこを逆手に取り、現代では敢えてレトロ・フューチャーを舞台としたSF(スチーム・パンク)も現れている。
 

レヴュー(英:Revue)→ ヴォードヴィル

 

ロークス・アモーエヌス(羅:locus amoenus

 文学上のトポスであり、安楽で理想的な自然風景。「愛らしい場所」の意。森、草原、花畑、小鳥、小川、泉などといったステレオタイプ的な要素を備えることが多い。例えば、ボッカチオ『デカメロン』(1349-51)において登場人物たちが物語を語る館の庭や、シェイクスピア『真夏の世の夢』(1595 or 96)における森などが、ロークス・アモーエヌスの好例である。その起源はホメロスにまで遡ることができるが、古代ギリシアのテオクリトスや古代ローマのウェルギリウスの牧歌に典型的な例が見られる。中世にはドイツのミンネザングやスペインやフランスの牧人小説における重要なトポスとなり、その後バロックではとりわけアナクレオン様式によって多用され、ロマン主義においてもしばしば用いられた。反対語として、これも往々にして森を舞台とするが、「恐ろしい場所」を意味する「ロークス・テリビリス」(locus terribilis)がある。
 

6単語小説(英:Six-word story

 西洋文学で最も短いと考えられる小説形式。6単語で構成される。ただ、文学形式として確立しているわけではなく、文学界のひとつのエピソードとして伝えられる。
 ある時、アメリカのとあるレストランでヘミングウェイが友人の作家たちと賭けをした。その賭けとは、6個の単語を用いるだけで一つの物語を作れるかどうか、だった。その後彼はナプキンにこう記した: For sale: baby shoes, never worn.”(「売ります:赤ん坊の靴、未使用。」)この文章からは、若夫婦が、授かった赤ん坊をまもなく失った悲しみ等が推察され、完結した物語と認められ、彼は掛け金の10ドルを獲得したという。しかし、この話は、既に作家が没して30年経った1991年から1992年にかけて流布したものであり、場所や時期も全く不明であるため、その真偽の程は定かではない。それ以前から、赤ん坊を失った母親というモティーフは存在していたが、ハード・ボイルドを旨とするヘミングウェイの作風にいかにも似つかわしいエピソードとして伝えられ、1996年にはJ.デグルート作の一人芝居『パパ』において、この文章がヘミングウェイ作と紹介されるに至ってイメージが定着した。2008年には、オンライン雑誌である「スミス・マガジン」が6単語小説のアンソロジーを出版し、同時に Six-Word Memoirs”と銘打ったプロジェクトのもと、ホームページも開設して6単語文学の表現世界を拡大している。6単語で多彩な日常生活を表現しようとするこの試みは、「物語」や「小説」というよりも我が国の「俳句」に近い文学形態であると考えられよう。

 6単語小説に次いで短い小説形式は、「掌編小説」とも訳される「フラッシュ・フィクション」である。

 

ロココ(仏・英:Rococo / 独:Rokoko

 ルイ15世下のフランス宮廷に始まり、18世紀前半から後半にかけてヨーロッパ全域に流行した芸術様式。時代区分的にはバロックの後を継ぎ、啓蒙主義と時代的に重複する様式であると考えられる(後期バロックの一亜流とする見解もある)。ロココという名称はフランス語のロカイユrocaille:岩)に由来し、もともとはイタリアの貝殻細工を応用しながらも庭園洞窟の岩組を想起させる流麗、繊細な室内装飾が「ロカイユ装飾」と呼ばれ、ロココ装飾の基調となったのである。ロココは、バロックの重厚・華麗さに比較して、優美、可憐、そして華やかさを最たる特徴とし、文学ではここに享楽的な人生観が追加される。また、主観的な感情表現を旨とする点から、感傷主義にも近しい。
 本国フランスでブーシェやフラゴナールらが活躍したロココは、造形美術及び建築の分野でもっとも華々しい発展を見せた様式だが、文学の分野では初期啓蒙主義に重なり、フランスにおいてはモンテスキューやヴォルテールやディドロなど啓蒙主義者たちの文学活動が、奔放な感情を露にし、精神の自由を求めた点においてロココ的と呼べるだろう。またアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』(1731)はその恋愛至上主義により、ラクロの『危険な関係』(1782)は奔放な恋愛遊戯を仮借なく描いたことにより、ロココ文学の代表作と見なしうる。
 
ドイツでは宮廷文化は未発達であったけれども、その反面ロココ的古代ギリシア詩に範を求めるアナクレオン様式が流行し、詩作ではフランスを凌ぐ活況を呈した。ゲレルト、グライム、ウーツ、ハーゲドルン、ヨハン・ゲオルク・ヤコービなどが代表的な詩人である。この他に、むしろ啓蒙主義に組み入れられるべき文学者であるが、滑稽な中にも優美な詩情を醸し出した『オーベロン』(1780)を著しドイツ・ロココ詩人の白眉とされるヴィーラントがいる。イギリスにおけるロココは伝統の諧謔性において真価を発揮し、アレグザンダー・ポープの物語詩『愛の略奪』(1714)やジェイムス・トムソンの『四季』は加えて恋愛賛美や自然賛美を盛り込んだ代表的作品である。またリチャードソンの『パミラ』(1740)、或いはスターンの『トリストラム・シャンディ』(1713-1768)など、他文学ジャンルの発展に大きく寄与した作品も、その軽妙洒脱さとユーモアでロココ的作品に数えてよいであろう。
 

ロシア・フォルマリズム(露:Русский формализм/ 英:Russian formalism

 1910年代半ばから20年代末にかけて台頭した文芸批評運動。ソシュールを始祖とする構造主義の影響を受けた最初期の運動のひとつとされる。それまでの文芸批評は、印象批評を柱とした伝記的批評やイデオロギー的批評や哲学的批評を主な手法としたが、ロシア・フォルマリズムは創作に関する副次的情報(作者、時代、社会など)を排し、文学テクストのみを批評の対象とした。その根本的課題は、「作品を文学たらしめる唯一の要素である文学性の究明」である(ヤコブソン)。そして、その文学性とは内容ではなく形式(フォルム)に存在するとした。すなわち、従来の文芸批評が重視した文学作品の「内容」や「意味」は顧慮せず、文学が成立する「過程」や「手法」を重視し、「異化」という手法こそがテクストに詩的機能を持たせるには必須であると唱えたのである(シクロフスキー)。ここからシクロフスキーやトゥイニャーノフは、文学の発展の本質は、政治や社会や人間心理の変遷などといった外的要因から生じる事象ではなく、「異化」と「自動化」の連続という、あくまで文学内部の自律的必然性によるものであるという「文学的進化」を唱えた。
 1915年に設立されたモスクワ言語サークル(ヤコブソン)、及び翌年ペテルブルクに設立を見た「オポヤーズ」(シクロフスキー、トゥイニャーノフ)の活動によりロシア・フォルマリズムは開始し、ナラトロジーへと発展するプロップの物語分析や、ヤコブソンの言語学理論の積極的な文芸批評への応用など、フランスの構造主義やアメリカのニュークリティシズム、或いはプラハ学派に多大な影響を及ぼしたが、1930年代に入ると社会主義リアリズムから反動的ブルジョア思想として攻撃され、政治的にも弾圧を受け終了した。しかし、その批評理念は、現代においても上記の思潮を通じて脈々と受け継がれている。
 

ロビンゾナーデ(英:Robinsonade

「ロビンソン漂流譚」の意。1719年に発表されたデフォー(Defoe)の『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719)に影響を受けた無人島や未開の奥地などへの類似の漂流物語群を指す。「無人島に流れ着き、そこで自給自足の生活をして生き延びる」というモティーフは、デフォー以前にもスコットランドの船乗りアレクサンダー・セルカーク(Selkirk)の同様の体験について書かれた『世界を巡る航海の旅』(1712)で描かれており、デフォーもこれを参考にしたと考えられているが、後世文学への影響力は『ロビンソン・クルーソー』の方がはるかに大きい。
 理性と教養と強い意志を持つ主人公が、無人島に人間文化を築いていく物語は、当時の硬直化した社会に対する批判でもあり、折から勃興しつつあった啓蒙主義の追い風を受け、特にドイツで歓迎された。また、イギリスにおいてロビンソン・クルーソーは、西洋文明未開の土地を切り開く植民地主義のシンボルとも見なされた。ロビンソン漂流譚の系譜は群小の模倣作に混じってゲーテ(Goethe)『タウリス島のイフィゲーニエ』(1787)、ヴェルヌ(Verne)『神秘の島』(1874)、『15少年漂流記』(原題『二年間の休暇』:1888)、オデール(O'Dell)『青いイルカの島』(1960)などの名作に連なり、現代でもテレビドラマにおいては、SFドラマ「宇宙家族ロビンソン」(1966-68)や無人島サバイバル番組などにその根強い人気が窺える。他方、漂流物語の枠組みを持ちながらも、生存者たちの仲間割れにより悲劇的な結末を迎えるゴールディング(Golding)『蠅の王』(1954)は、ロビンゾナーデのアンチテーゼと呼びうる作品である。
 

ロボット工学三原則(英:Three Laws of Robotics

 アシモフが自らのロボットSF作品の中に設定したロボットが守る三つの原則。その内容は以下のとおり:
第1条:ロボットは人間を故意に傷つけたり、人間に危害が及ぶのを故意に見過ごしたりしてはならない。
第2条:ロボットは第1条に抵触しない限りにおいて、人間から下された命令に従わなければならない。
第3条:ロボットは第1条及び第2条に抵触しない限りにおいて、自らを守らなければならない。
これらの原則は、アシモフの短編『堂々めぐり』(1942)の中で初めて提示され、短編集『われはロボット』(1950)に納められた作品群の背景を構成し、以来ロボットSFが則るべき規範として定着した。また、この三原則には様々なパラドックスが想定可能であり、例えば『2001年宇宙の旅』(1968)で殺人を犯すコンピュータHAL9000の第1条との矛盾は「故障」という事態で説明されている。現実世界ではしかし、軍事ロボットなどといった、第1条に明白に違反するロボットが出現するに至っているが、そうしたロボットの開発を拒否する研究者が現れるなど、ロボット工学三原則は文学が実社会に直接影響を与えている数少ない例のひとつといえよう。
 

ロマン主義(独:Romantik / 英:romanticism / 仏:romantisme

 18世紀末から19世紀中盤にかけてヨーロッパ全体を巻き込み流行した芸術思潮。「浪漫主義」とも訳される。啓蒙主義古典主義のアンチテーゼとして整然と様式化された芸術に反対し、理性の代わりに情熱を、秩序の代わりに混沌を、普遍性の代わりに個性を、教養の代わりに空想を芸術に追い求めた。好んで用いられるモティーフは、「青い花」(「無限」の象徴)、「旅人」、「ドッペルゲンガー」、「霊的世界」、「夜」、「中世」、「自然」などであり、愛国心の涵養も重視された。従って、自然が豊かではあるが古典主義的な芸術面では後進国であり、統一国家を模索したため愛国心が養われつつあったドイツで最も発展したわけである。逆に、隣国フランスが革命を成就させたのに対しドイツでは絶対主義体制が続き、後の3月革命(1848)も失敗したことにより、ドイツ精神は現実を逃れ、夢想に遊ぶロマン主義へと逃避したとも考えられる。更には、ロマン主義を現実社会への「風刺」と捉える見解もある(シュレーゲル)。「ロマン」という単語は「古典」の対極にあり、古代ローマにおいてラテン語で書かれた文学が正統文学(後の古典)とされたのに対し、当時の民衆語であるロマンス語で書かれた大衆向けの文学が「ロマンス」と呼ばれた。ロマン主義の本源は、従って一般大衆を対象とした規則や因習に縛られない自由闊達な文学を指したのである。啓蒙主義や古典主義が文学による民衆の教育を目指したのに対し、ロマン主義の作家たちは、詩人を伝道師にも等しいものと考え、文学による世界の一体化を目指した。
 初期ロマン主義のメッカはゲーテが高級官僚として奉職していたヴァイマール公国の大学都市イエナである。イエナ大学講師のシュレーゲル兄弟の理論的背景のもと、ティーク(『金髪のエックベルト』[1797])、ノヴァーリス(『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』[1802:邦題『青い花』])、らが現れ、シュレーゲル兄弟が主宰した文芸雑誌「アテーネウム」はロマン主義の機関紙となる(ゲーテは結局ロマン主義には批判的だった)。世紀をまたぐ頃からロマン主義は最盛期に入り、中心地はイエナからゲッティンゲンやベルリンに移動した。この頃に活躍した文学者では、ゲッティンゲン大学教授であったグリム兄弟(『子供と家庭の童話』[1812-57])、同大で学んだブレンターノとアルニム(『少年の魔法の角笛』[1806-08:両者の共編によるドイツ民謡集])、ベルリンではフーケー(『ウンディーネ』[1811])やシャミッソー(『ペーター・シュレミールの不思議な物語』[1813])やアイヒェンドルフ(『のらくら者の生活より』[1826]:彼はドイツの詩人中、もっとも多くの歌曲に採り上げられた詩人[5000曲以上]として知られている)、そしてとりわけE.T.A.ホフマン(『黄金の壷』[1814])がロマン主義的秀作を次々と発表した。ロマン主義は直前に流行したゴシック小説の流れも引き継いでいるが、ホフマン作品はその痕跡が最も色濃い。
 シュトゥルム・ウント・ドランクも、人間の奔放な感情を重視する姿勢からロマン主義に大きな影響を与え、その理論的指導者であったヘルダーの『諸国民の声』(1778)といった民族文化の評価は、『子供と家庭の童話』や『少年の魔法の角笛』へと受け継がれている。我が国でも名高いクライストとハイネはロマン主義作家として一概に区分することができない。クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』(1810)はロマン主義戯曲の傑作と目されており、ハイネについては『歌の本』(1827)などで特に我が国ではロマン主義的な詩人とされているが、前者の激烈な作品群は既にロマン主義を超克しており、後者はむしろ叙情詩才溢れたジャーナリストと見なすべきである。もっとも、彼の本質である社会批判性はロマン主義の根底にも通じていた。また、本質的にはロマン主義詩人ではないものの、人生後半の36年間を狂気のうちに過ごしたヘルダーリンは、無名時代に「シラー派くずれの若きロマン主義詩人」の烙印を押されていた(『ヒュペーリオン』[1797-99]:この書簡体小説は、ヨーロッパ抒情小説の最高峰に位置する作品のひとつであり、単一の芸術思潮で捉えきれるものではないが、自然礼賛や過去への憧憬など、ロマン主義的要素も見受けられる)。
 ロマン主義はこのようにドイツで最も栄えたが、イギリスにおいては前ロマン派によって予兆された後、ワーズワスとコールリッジ(『叙情歌謡集』[1798])に始まり、バイロン(『チャイルド・ハロルドの巡礼』[1812])、キーツ(『エンディミオン』[1817])、シェリー(『プロミーシュウスの解縛』[1820])など、抒情詩の分野では相応の繁栄を見た。しかしその他ではウォルター・スコット(『アイヴァンホー』[1820])が目に付く程度であり、確固とした思潮を形成するまでには至っていない。フランス・ロマン主義は、シャトーブリアンが『アタラ』(1801)及び『ルネ』(1802)により先鞭をつけ、スタール夫人が『ドイツ論』(1813)によりロマン主義を本格的にフランスへと導入した。ただ、フランスは古典主義の牙城であったため、他国にはない軋轢が生じ、戯曲『クロムウェル』(1827)の序文でロマン主義を宣言したユゴー作品の上演を巡る「エルナニ戦争」はフランス独自の事情を反映している。しかし芸術集団「セナークル」を結成しこの抗争に勝利したロマン派からは、ヴィニー(『古今詩集』[1826])やスタンダール(『赤と黒』[1830])、デュマ・ペール(『アンリ3世とその宮廷』[1829]:デュマの2大ヒット作『三銃士』[1844]および『モンテ・クリスト伯』[1845/46:邦題『岩窟王』]は、ロマン主義的要素が大衆文学にも馴染みやすいことを証明している)などが現れ、ドイツよりやや遅れて繁栄を迎える。ロマン主義は上記の3国以外にもヨーロッパ全域で流行し、イタリアのマンゾーニ(『いいなづけ』[1827])、スペインのソリーリャ(『ドン・ファン・テノリオ』[1844:戯曲])、ロシアのレールモントフ(『悪魔』[1838])などが秀作を残した。こうして一世を風靡したロマン主義も19世紀後半には終焉を迎え、近代写実主義に文学運動の主役を譲ることになる。 
              

ロマンス劇(英:Romance play)→ 後期ロマンス劇

ロマンセ(西:Romance

 カンティーガ12世紀から14世紀にかけて、イベリア半島で作られたポルトガル語‐ガリシア語による民衆詩歌)に代わって、15世紀より人気を博したカスティリャ語による叙事・抒情詩。多くが無韻のトロカイオス16音節からなり、カエスーラ(中間休止)を持つバラッド(物語詩)である。詩集はロマンセロ(Romancero)と呼ばれ、その内容は下記の4種類に大別される。

1. 歴史的ロマンセ:比較同時代の歴史的な出来事や、伝説を描くロマンセ。

2. カロリング・ブルターニュ伝説ロマンセ:フランク王国カロリング朝カール大帝や、イギリスのアーサー王など、外国の伝説を描くロマンセ。

3. ムーア人(イスラム教徒)とキリスト教徒の戦いを描くロマンセ:8世紀から16世紀に渡り繰り広げられたイスラム教徒とキリスト教徒の戦い、特に後半の数百年の戦いを描くロマンセ。

4. ムーア人のロマンセ:キリスト教徒の最終勝利(1492)の後のムーア人を描くロマンセ。

 この他にも、聖書のテーマや、古代ギリシア・ローマのテーマや、愛と死を扱う様々な虚構を通して人間のドラマを描くロマンセなど、内容は多岐に渡った。こうしたロマンセは印刷され、ヨーロッパ中に伝播していく。

 上記のロマンセは、「古ロマンセ」と呼ばれるが、16世紀に入ってからは、韻や詩節に技巧を凝らし芸術性を追求した「新ロマンセ」が創作されるようになり、1600年には、その集大成である『ロマンセ全集』が出版された。代表的な詩人としては、L.d.ベガ(Vega)L,d.ゴンゴラ(Góngora y Argote)が挙げられる。現代においてもこうしたロマンセは継承され、F.ガルシア・ロルカ(García Lorca)や、A.マチャードらが秀作を残している。
 このロマンセと、中世にスペインやフランスで流行した「騎士道物語(Romance de cavalleria)」を混同してはならず、また英米でRomanceといえば、専ら冒険小説SFも含んだ近現代の大衆恋愛小説を指す。


若きウィーン派(独:Jung-Wien

 1890年から1900年にかけて、ウィーンにおいてヘルマン・バールの周囲に集った新進作家集団。ファン・ド・シエクル(世紀転換期文学)におけるひとつの文学潮流であり、「ヴィーナー・モデルネ」とも、「若きオーストリア派」とも呼ばれる。彼らは1880年代から90年代にかけてドイツ・オーストリアを席巻していた自然主義のアンチテーゼとして、象徴主義印象主義新ロマン主義を標榜したが、文学的手法はまちまちであった。その機関誌は、1890年に発行された(翌年発行停止)”Moderne Dichtung”(翌年”Modern Rundschau”に改題:この雑誌は、当初自然主義的傾向を示していた)、及びバール自身が発行人を務めた”Die Zeit”(1884-1904)である。彼らは1891年頃から、所謂文学カフェとして有名だったウィーンの「カフェ・グリエンシュタイドゥル(Café Griensteidl)」に集い文学談議に興じた。その中心に位置していたのがバールであり、彼は仲間たちに外国の文学状況を伝え、出版社や新聞社への仲介役も務めていた。集団に属した著名な作家としては、フーゴー・フォン・ホフマンスタール、アルトゥール・シュニッツラー、ペーター・アルテンベルク、リヒャルト・ベーア=ホフマン、カール・クラウス(後に疎遠となる)、ヤコブ・ヴァッサーマン(ドイツ籍)などが挙げられるが、他にもロベルト・ムージル、ヨーゼフ・ロート或いはエデン・フォン・ホルヴァートなど、やや後代の20世紀文学を担うオーストリア作家たちにも大きな影響を及ぼしている。

若きドイツ派(独:Junges Deutschland

 三月革命前期中にドイツに現れた政治性の極めて高い文学運動。「青年ドイツ派」とも呼ばれる。その活躍時期は短く、1830年のフランス7月革命が直接発生契機となったが、35年にはドイツ連邦議会により発行禁止処分となった。グツコー、ラウベ、ヴィーンバルク、ベルネ、ムントらがその代表的作家である。だが、そもそも「若きドイツ派」は明確な文学サークルなどではなく、上記の作家たちもゆるやかな連絡を取っていたに留まる。当局より「若きドイツ派」の一員と目され同時に発禁処分となったハイネも、その文学の多様性、深淵性から同派に組み入れるべきではない。
 「若きドイツ派」の名称は、ヴィーンバルクが1834年に出した論集『美的出陣』の献辞に、「若きドイツたる君に本論を捧げる」と書いたところから定着した。同派の作家たちはメッテルニヒが敷いた反動体制に反対し、民主主義と人権の擁護を提唱した。古典主義ロマン主義は、非政治的で実生活から乖離した文学であるとして否定した。彼らは市民リベラリズムの文学による展開を目指したわけだが、同時代のハイネやビュヒナーなどといった政府の転覆を希望した作家たちとは異なり、サン・シモン思想の影響のもと、ユートピア的社会主義思想の実現を夢想した。彼らの残した文学的業績は文芸批評を発展させたこと以外、さして大きいものではないが、その大胆な社会描写により後の自然主義への道筋をつけた点は無視できない。発禁処分となったのも、その文学的影響力以外に、同時期に存在した同名の反政府秘密結社との関係を咎められた点が認められる。(実際に関係があったという証拠はない。)
 

枠物語(独:Rahmenerzählung / 英:Frame narrative

作中人物とは別の第三者(作中人物と縁のある人物が普通)が、「語り部」となって物語を語る物語形式。作中人物(大抵の場合「私」)は、小説の冒頭に登場し、前書き的なメッセージを述べ、最後にも登場し締めくくりとなる言葉を述べるのが通例である。更に物語中にも必要に応じて登場してくる。語り部となる人物の世界観は作者とほぼ同一であることが多いが、枠物語は作品の客観性を高め懐古感を高める効果を持つ。また、当初語られた物語は長編ではなく短いエピソードであったが、これらの物語が共通の背景のもと複数語られた作品(『千夜一夜物語』[9世紀頃]=王妃シェヘラザードが処刑を免れるため連夜王の枕辺で物語を語る、ボッカッチョ(Boccaccio)『デカメロン』[134951]=ペストを逃れて館に引きこもった人々が退屈しのぎに物語を語る、チョーサー(Chaucer)『カンタベリー物語』[1387頃‐1400]=巡礼宿で居合わせた人々が退屈しのぎに物語を語る)は、単なる短編小説の寄せ集めではなく、後の長編小説への過渡的作品となった。当初は語り手が複数おり、順番に話を披露する「デカメロン」型であったが、近代になり、単一の語り部が登場する「千夜一夜物語」型が発達した。多層的な語りを可能とする近代的枠物語は、M.シェリー(Shelley)『フランケンシュタイン』(1818)や、E.ブロンテ(Bronte)『嵐が丘』(1847)といった作品でも使用されたが、ドイツにおいて特に発達し、ゲーテ(Goethe)『ドイツ亡命者の談話』(1775)を皮切りに、ブレンターノ(Brentano)『正直なカスパールと美しいアンネルの物語』(1817)、グリルパルツァー(Grillparzer)『哀れな辻音楽師』(1847)、ケラー(Keller)『チューリヒ短編集』(1876-77)、シュトルム(Storm)『白馬の騎士』(1888)などの秀作を生み出した。「枠」となる物語がメインで「枠内物語」がサブとなると「枠内物語」は「挿入話」となる。その例としては、アミーチス(Amicis)『クオレ』(1886)に挿入話として出てくる「母を尋ねて三千里」などが有名である。「枠物語」は我が国でも利用されており、谷崎潤一郎『蘆刈』(1932)や、小川洋子『博士の愛した数式』(2003)はその典型。

sakuin1.htmlへのリンク