カーニバル性(英:Carnivalesque

 ロシアの文芸理論家ミハイル・バフチン(Mikhail Mikhailovich Bakhtin)が提唱したヨーロッパ中世文学の一特性。カーニバル((謝肉祭)は、規範と因習に束縛されたヨーロッパ中世社会における「ガス抜き」であり、身分や職種や性や聖俗の違いを超えて混沌とした社会の一体感を人々が楽しんだ時期であった。そしてこの社会(カーニバル空間)の根底に横たわるものはあらゆる価値を相対化する「笑い」である。文学にもこうした空間を生み出す作品があり、ルキアノス(Lucianus)の諸作品、ラブレー(Rabelais)『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-52)、セルバンテス(Cervantes)『ドン・キホーテ』(1605-1615)などは、社会的に神聖で権威とみなされる存在を揶揄し嘲笑するカーニバル的要素に満ち溢れている。そしてバフチンは、ドストエフスキー作品を近代文学における最高のカーニバル文学に位置づけた。



皆伐文学Kahlschlagliteratur

 ヴォルフガング・ヴァイラウフ(Wolfgang Weyrauch)が、自ら編集した戦中戦後の(兵士も含めた)国民生活をテーマとする短編集『1000グラム』(1949)のあとがきで述べた戦後望まれるべき文学潮流。彼の言によれば、戦後文学は過去の克服と未来の創造に寄与しなければならない。すなわち、ナチスに悪用され、けばけばしく飾り立てられ、はびこった言語の茂みを「皆伐(完全に刈り込むこと)」によって浄化しなければならないのである。そうしてナチスによって汚された言語を、一語一語打診しながら再生した結果生まれた言葉は、無駄を一切省いた簡素なものとなる。そして文学は、詩情を犠牲にしても真実を描かなければならない。美を伴わぬ真実は必要だが、真実を伴わぬ美は不可能である。その結果、文学は荒涼とした外観を呈するに至る。海外の文学者は、既にこの混沌とした戦後文学に対する指標を示しているが、ドイツの作家たちは、そうした海外からの指標から解放され、ドイツ独自の指標を示さなければならない。何故なら、文学とは「土着」の文化だからである。彼の標榜した文学は、アルフレート・アンデルシュ(Alfred Andersch)などから「極めて平板な写実主義」であるなどとして否定され、広範な支持を得ることはできなかったが、戦後の荒廃したドイツの生活を主に描く上で、「廃墟文学」の一分野と見なされている。


隔行対話(希:Στιχομυθίαstichomythía / 仏・独:Stichomythie

 複数の登場人物が一行ずつ、交互に短い韻文の台詞をやり取りする形式。めまぐるしい会話のやり取りにより、アナグノリシスなど緊迫した場面を表現することが可能となる。隔行対話は主に古代ギリシア悲劇で用いられ、ソフォクレスやエウリピデスなどが得意としたが、とりわけセネカは後世に影響を与えた。ゲーテ(『ファウスト第一部』[1808]、シラー(『メッシーナの花嫁』[1804])やボーマルシェ(『フィガロの結婚』[1784])もこの形式を利用している。
 

ガジェット(英:Gadget

 文学や演劇や映画における道具立て、或いは仕掛けのこと。文学においては主にSFミステリの分野で定着している用語である。SFの代表的なガジェットは、「宇宙船、光線銃、宇宙人、タイム・マシーン、ロボット」など、ミステリでは「密室、ダイイング・メッセージ、目撃者、警部、探偵」などであり、ここに個別の作家による独自のガジェットが追加される。
 

カセット効果

 翻訳論研究家柳父章が『翻訳語成立事情』(1982)で提唱した翻訳の際見られる意味上の効果。他言語からの翻訳とは、取りも直さず異文化の輸入を意味するが、その際自国語では表現し切れない意味を有する単語を翻訳する困難が付きまとう。古来、中国文化を「漢字」で輸入してきた我が国は、明治維新後西洋の文献を翻訳するにあたって、やはり漢字熟語を創作し、この困難を切り抜けようとした。こうして生み出された単語は、我が国固有の言葉が持つ固定した意味から解放され、西洋の新しい概念を表現するには適当とされたが、その実ほとんどの者が単語自身の意味を解せず、当該単語は不可解ながら新しい文化を表現する新語となり多用され、何やら深い意義を持つ言葉として多くの者を魅了したのである。柳父は、このような「中身はよく分からないが人を魅惑する言葉」の効果を、「宝石箱(cassette)」になぞらえ、「カセット効果」と名付け、明治期における「社会(society)」や「自由(liberty)」や「個人(individual)」をその例に挙げた。カセット効果は現代でもまま生じているが、それはもはや翻訳におけるよりも、新たな思想や主義が提唱される場で生み出される用語に見受けられる。
 

カタストロフ(希:καταστροφή / 英:Catastrophe

 一般には「災害」を意味する語だが、文学用語としては、戯曲の結末部分において葛藤が解消される状態を指す。古くはアリストテレス『詩学(前335)第10章に見られるが、セネカやホラティウスやドナトゥスの文学論によると、登場人物の感情のままに高まり、展開してきた劇が、(しばしばアナグノリシスを伴う)ペリペティアを経た後、急激に結末を迎える劇的転換とされた。この意味では、カタストロフには悲劇における「破局」のみならず、喜劇におけるハッピーエンドも含まれる(しかしいずれにせよ、感情の爆発を伴う「混乱」が必須となる)。しかし、現代では、対立概念であるユーカタストロフが唱えられるなど、専ら悲劇的破局のみの意味で用いられている。
 

カタルシス(希:κάθαρσις / 英:Catharsis

 アリストテレスは、その著書『詩学(前3356章の中で、悲劇に一種の「浄化」つまり「カタルシス」作用が備わっていると主張した。しかしこの「カタルシス」について、アリストテレスは『詩学』では他に何一つ説明を加えていない。そこで後代の研究者たちはいろいろとその意味を解釈することとなったが、鍵として、『政治学』の中で、同じく「カタルシス」という単語が使われていることが注目される。ここでは音楽の「カタルシス」作用について言及されているのだが、実際の例が挙げられており、それを見ると、アリストテレスが「カタルシス」をどういう意味で用いていたかが、おおよそ明らかになる。つまり、現代でも音楽は「ミュージック・セラピー」など、精神療法に利用されているのだが、古代ギリシアでも、憑き物がついたような状態になり暴れる人間に対して、音楽による治療が施されていた。しかし、その音楽とは、心を癒す静かな落ち着いた音楽というよりも、憑き物に負けないようなけたたましい、賑やかな音楽であり、これは、今でも心霊師や祈祷師が、霊にとりつかれたなどという人間のお祓いをする時には、けたたましく鐘や太鼓を鳴らして祈るのと共通している。こうすることにより、人間の心に宿った大きな迷いや不安や恐怖を、更に大きな刺激で洗い落とすという、いわば「毒をもって毒を制す」という考え方である。
 同様に文学を考えれば、悲劇のカタルシス作用も理解されよう。人間の心の中に巣食う悲しみや、悪意や、嫉妬や、怒りなどを和らげるためには、道徳的で善人ばかりが登場し、人々が皆幸せになってしまう物語では大概役に立たない。そうではなく、登場人物が邪悪な行い、たとえば、たくらみや、背徳や、誹謗中傷や、殺人を犯し、それにより人物達が悲しみのどん底に突き落とされ破滅していく物語の方が、それを観る人々はより共感を覚え、自らの心の中の悲しみや邪悪なものを拭い去ることができるとも考えられる。「カタルシス」とは、もともと古代ギリシアの医学用語であり、現代でも「腸カタル」、「胃カタル」などの例で使われている。つまり、「下痢」のことなのだが、体内に腐ったものとか異物が入り込んだ場合、消化器官は痛みを伴う下痢を起こしてそうした危険なものを速やかに体外に排泄しようとする、すなわち「浄化」しようとするのである。同様に、人の心の邪悪な因子を、悲劇はその悲劇的内容によって洗い流してしまおうとするわけである。こうした「悲劇のカタルシス作用」は、悲劇という対象物を観ることで生じる現象だが、同じような効果は、自己卑下や、懺悔という行為にも現れる。自己卑下や懺悔は、悲劇を観ることより更に積極的なカタルシスを目指した行為であるともいえ、自分の劣るところ、罪深いところを自ら白状することによって、劣等感、罪悪感をよりストレートに軽減しようとしているわけである。(しかしこの場合、懺悔する相手に慰めてもらったり、許してもらったりすることを期待するという、更に積極的な意味合いを含む場合が多い)
 いずれにせよ、醜悪な場面を描く悲劇の効果をプラトンはまるで認めはしなかったが、弟子のアリストテレスは現代にまで通用する文学観を既に確立していたわけである。
 

活人画(仏:Tableaux vivants / 英:Living picture / 独:Lebendes Bild

 絵画や彫像のような芸術的表現を、実際の人間を用いて行う表現方法。人物は動かず、台詞を喋ることもない。その源流は中世の宮廷での祝祭時に行われたパレード(特に「トリオンフォ[王侯が都市に入城する際の凱旋行進]」)に遡る。パレードでは、移動する山車上に衣装を着た人物たちが配置され、様々な歴史上或いは伝説上の場面を描き上げた。その後活人画は、18世紀に絵画を直に再現する手法としてフランスで復活し、18世紀末ネルソン提督の愛人であるエマ・ハミルトンが古代の彫像を模倣した姿で舞台に立つことで人気を博した(彼女は絵画のモデルとしても有名であり、ポーズの技法を舞台に取り入れ、そこに古代風の衣装やダンスも組み込み、「アティテュード」と命名した)。この伝統は近代のヌードショーに引き継がれ、我が国の終戦直後のストリップ劇場で流行した「額縁ショー」(ストリップ嬢が額縁の中で次々に名画のポーズを取る出し物)も活人画の一種といえる(我が国でも西洋でも、20世紀前半には裸体の女性が「動く」ことは猥褻であると法的に禁じられていたため、活人画が必然的に導入されたのである)。
 我が国の歌舞伎における「見得」も広義の活人画といえよう。しかし狭義の活人画は演劇中での複数人により構成されるものであり、
18世紀以降オーバーアマガウの「受難劇」で群集による活人画が先例となってヨーロッパ中に広まった。19世紀に入ると、特に祝典劇において活人画は好んで導入され、終幕の群集によるフィナーレがそのまま静止し活人画となって幕が降りる手法は祝典劇における常套手段となった。登場人物が静止するこの手法は、必ずしも群集によるものでなくとも、現代演劇の演出法にも踏襲されている。それ以外にも、活人画的要素は写真のポーズを始めとして、群集による器械体操やマスゲーム、単独ではパフォーマンスとしての「リビング・スタチュー」(通りで銅像のように長時間不動の姿勢を取る大道芸)など、現代社会の至るところに認めることができる。
 

カデンツ(独:Kadenz / 伊:Cadenza / 英:Cadence

 韻文詩の終止形。新高ドイツ語(現代の標準ドイツ語に繋がる中世以降の高地[=ドイツ中南部]ドイツ語)詩では、終止形の音節数により3種類のカデンツに分類される。即ち、

「アクセントのある1音節で終了」=「1音節終止形或いは男性終止形(männlicher Versschluss)Steht die Form, aus Lehm gebrannt
「アクセントのない1音節で終了」2音節終止形或いは女性終止形(weiblicher Versschluss) Fest gemauert in der Erden
そして「アクセントのない2音節で終了」3音節終止形或いは豊かな終止形(reicher Versschluss) schmerzliche, märzliche, singende
(下線部がアクセントのある音節)
である。
 「男性」、「女性」、「豊かな」といった形容は、「押韻」の分類から借用してきているが、韻(脚韻)に直結したものではなく、韻を踏まない詩行においてもカデンツは認められる。
 英詩では、独詩ほど厳密な規定がなく、詩の朗読や演説における文末の抑揚、とりわけ、厳格な韻律を持たない自由詩での朗読アクセントを「
ケイダンス(cadence)」と呼ぶが、一般的には、器楽曲中での演奏者の即興的演奏を指す場合が多い。


カプレット(英:Couplet

韻文詩において、主に同じ脚韻を踏む2行からなる連。「二行連」或いは「二行対句」と訳される。韻文の最小単位であり、同じ押韻が連続して行われるため、詩全体に適度な緊張感を生む効果がある。そのため、短い詩句で核心を突こうとするエピグラムでも多用された。
 一方、イアンボス(弱強格)によるペンタメトロスからなる二行連は、17世紀末から18世紀にかけてのイギリスの英雄劇で多用されたことから、「英雄対句(ヒロイック・カプレット)」と呼ばれる。
 また、脚韻を踏まないカプレットも存在し、ダクテュロス(長短短格)によるヘクサメトロスとペンタメトロスからなる二行連は「ディスティヒョン」と呼ばれ、古代ギリシア・ローマ文学から近代に至るまで、「古典主義的詩形」として広く愛好された。


        

仮面劇(英:Masque

 仮面をつけて演じられる演劇。多くは音楽を伴い、登場人物は衣装も含めて変装し、パントマイムやダンスも折り込まれた大衆娯楽的な趣向を持つ。その一源流はカーニバルでの仮装行列や、変装した一団が祝祭時に家々を巡り、玄関先で双六やパフォーマンスを行う「マミング」といった中世の風習に求められる。この風習は1416世紀のイタリア・ルネサンス期に宮廷社会で洗練化され、ヴェネチアではとりわけ有名になる「仮面舞踏会(マスカレード)」が催され、王侯が都市を訪れる際に行われる「凱旋式(トリオンフォ)」では、軍隊の行進に続いて様々な仮装(女神、牧人、一角獣、ニンフ、竜などありとあらゆるアレゴリー)を凝らした一大パレードが繰り広げられた(神聖ローマ帝国は首都を置かず、皇帝の所在地が首都となったため、皇帝は度々帝国内を移動し、その都度凱旋式が執り行われた)。演劇としては、古代ギリシアで既に通常の演劇にも「ペルソナ(仮面)」が広く用いられ、古代ローマの道化劇「アテルラナ」も役者は仮面を着用したが、近代仮面劇に関しては、16世紀中頃のフィレンツェで上演された仮面幕間劇である「インテルメディオ(インテルメッツォ)」が直接の原型といえる。また、ほぼ同時期のフランスでは「アントラクト(アントルメ)」と呼ばれる同様の仮面幕間劇が上演され、それぞれ後のイタリア・オペラや宮廷バレエの源流となる。その後、仮装の風習は16世紀から17世紀前半にかけてイギリス宮廷においても盛んとなり、クリスマスや結婚式、来賓の歓迎会の余興として先述した仮面劇が上演され、貴族たち自身も主に神話をテーマとする寸劇を演じ、エリザベス朝演劇での興隆へと繋がる。また、16世紀中頃の北イタリアで生まれた喜劇コンメディア・デッラルテは、登場する人物の殆どがストック・キャラクターとしての特徴を象徴する仮面をつけており。高度に洗練された仮面劇に分類することが可能である。仮面劇の最盛期はエリザベス朝演劇時代のイギリスであり、この時代の3大演劇ジャンル(悲劇・喜劇・歴史劇)に次ぐジャンルとしてシェイクスピアが『テンペスト』(1612)や『ヘンリー8世』(1613)に仮面劇を挿入したりしたが、『妖精の王子、オーベロン』(1616)など、宮廷の求めに応じ多数の作品を残し、仮面劇で後世に最大の影響を与えた作家はベン・ジョンソンである。現代においては仮面劇はほとんど執筆されないが、その影響は、18世紀から19世紀に書かれたオペラの中で、喜劇にせよ悲劇にせよ、仮面をかぶり正体を偽る場面が頻繁に登場することから窺い知ることができよう。



カロカガティア(希:καλοκἀγαθία / 英:Kalokagathia

 ギリシア語の「カロス(kalós):美しい」と「アガトス(agathós):善い」の合成語で、「善美」と訳される。ギリシア哲学において、一人の人間において精神的・肉体的に秀逸な状態が総合的に顕れた状態を指す。こうした徳性を、紀元前5世紀頃のアテナイでは「アレテー(arete)」とも呼び、それまで「武力」や「出自」や「財力」であった徳の価値基準を個人の本質的な力量へと捉え直した。ただ、前5世紀まではこの特性を有する人物は、貴族のみとされていたが、前4世紀以降は平民にも認められるようになった。カロカガティアは、プラトンの対話編や、クセノポンの『メモラビリア(BC385頃:邦題:ソクラテスの思い出)』の中で重要なテーマとなっており、文学においても、ドイツ啓蒙主義の作家ヴィーラント(Wieland)はカロカガティアを追求する人物を描く『アーガトン物語』(1766:初めての「教養小説」と目される)を書き、ドイツ詩人ヘルダーリン(Hölderlin)は、詩作においても現実生活においてもこの徳性を求め続けた。


カルペ・ディーエム(羅:carpe diem

 「一日を摘み取れ=今日を楽しめ」を意味するラテン語の詩句。ホラティウス(Horatius)の『歌集(Carmina)』(23)1巻第11篇の末尾に現れる。詩の中でも今日という限られた時間を利用し尽くし、明日以降をあてにしてはならないと歌われる。この享楽的な思想はバロック時代に殊の外受け入れられた。17世紀前半に勃発した30年戦争により、ヨーロッパには強い厭世観と虚無感が生まれ、その結果として今を何より重要視し、物事の良い面を殊更に注目する態度が広まったのである。この思想は特にドイツとイギリスで流行し、ドイツ作家オーピッツ(Opitz)の同名の詩(1624)などに足跡を残しているが、現代では格言として文学以外の場でも使用されている。

 

カルメン・エト・エロール(羅:carmen et error

 紀元前から紀元後に亙り活躍した帝政ローマ初期のエレゲイア詩人プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso)が、時の皇帝アゥグストゥスの命により、紀元8年、ローマ帝国の辺境の地であった黒海沿岸の港町トミス(現在のルーマニア・コンスタンツァ)に追放された原因を、詩人自身が著作内で記した言葉。「詩歌と過ち」と訳される。彼の追放は、西洋文学最大のミステリーのひとつとして謎に包まれており、後世の研究者は、この言葉の意味するところを様々に考察した。「詩歌」を重視する場合、恋愛を扱った一連の彼の著作、特に『色道教本』(”Ars Amatoria”A.D.2)が、その20年前に皇帝により制定された風紀紊乱を粛清する法律に触れたとする可能性が指摘された。しかし、作品発表からかなりの年月を経ての追放や、同様の詩歌を著した同時期の詩人たちに対して何の刑罰も下されなかったのは不自然であるとされた。他に、皇帝の孫娘の夫が謀反を企てたとして、孫娘は追放、夫は殺されているが、その謀議をオヴィディウスも知っていたのではないかという意見もある。また近年では、オウィディウスの追放について、同時代の記述は、少数のごく曖昧なものを除いて、詩人自身の著述に留まるため、追放そのものが、後年の作品『哀しみの歌』(“Tristia”A.D.812)や『黒海からの手紙』(“Epistulae ex Ponto”A.D.1217)を書き上げるための、詩人の自作フィクションだったのではないかとする見解が注目を浴びた。ただ、この説に対しては、詩人の重要作品であった筈の『祭暦』(“Fasti”)も追放と時期を同じくして執筆が中断されているため、現在のところ大きな支持は得られていない。

 

 

華麗体 ユーフュイズム

 

カンシオネーロ(西:Cancionero

 13世紀から16世紀にかけて、イベリア半島全域で編まれた複数または個人の詩人によるスペイン語‐ポルトガル語系の詩歌集。フランスの「シャンソニエ」、またイタリアの「カンツォニエーレ」に相当する(ただし音符は伴わない)。トルヴァドゥールからトルヴェールの系譜に連なり、歌われるテーマは、ミンネザングにおけるミンネと同類の、貴婦人に捧げられた犠牲的な騎士の愛情が主であるが、教訓や寓意的なものも含まれた。めぼしいものは以下の通り。

〇カンシオネーロ・デ・バエーナ(Cancionero de Baena;1426-1430)1415世紀のカスティリャ地方の詩歌を385篇収録。フランス国立図書館所蔵(写本)。

〇カンシオネイロ・ダ・ビブリオテカ・ナシオナール(Cancioneiro da Biblioteca Nacional):15世紀後半にイタリアで筆写された手稿集。ガリシア‐ポルトガル語での最も重要な詩歌集と見なされ、1647篇を収録。ポルトガル国立図書館所蔵。

〇カンシオネイロ・ダ・ヴァティカーナ(Cancioneiro da Vaticana)15世紀末イタリアにて集成。1840年に再発見。バチカン図書館所蔵。

〇カンシオネーロ・デ・ストゥーニガ(Cancionero de Stúñiga):約300名の主に1314世紀のガリシア‐ポルトガルのトルヴァドゥール詩人の作品を2000篇収録。ベネツィア・マルチャーナ図書館所蔵。

〇カンシオネイロ・ダ・アジュダ(Cancioneiro da Ajuda)13世紀後半にポルトガルで成立。1189年の記述のあるカンティーガを含む310篇を収録。リサボン・アジュダ図書館所蔵。

〇カンシオネーロ・ジェネラール(Cancionero general:1511):エルナンド・デル・カスティーリョ編。この時代から手稿ではなく印刷となる。239名の有名・無名詩人の1056篇を収録。

〇カンシオネイロ・ジェラール(Cancioneiro Geral:1516):ガルシア・デ・レゼンデ編。ポルトガル最初の印刷版詩歌集。1449年から1516年にかけての289名の詩人による約1000の詩歌を収録。

 カンシオネーロを所蔵することは、当時の貴族にとってはひとつのたしなみであったため、この他にも多数の詩歌集が現存する。
 
ここで、「カンシオネーロ」と「カンシオネイロ」を強いて区別するならば、後者は12世紀後半から成立するガリシア‐ポルトガル語による詩歌集と定義し得る。その際の各詩歌は「カンティーガ」(Cantiga)と呼ばれる。対して前者は1360年から1520年にかけてカスティリャ語で編まれた詩歌集であり、著名な詩人としては、ホルヘ・マンリーケ(Jorge Manrique)、ファン・デ・メナ(Juan de Mena)、イニゴ・ロペス・デ・メンドーサ(Íñigo López de Mendoza)らが挙げられる。

 

感傷主義(英:Sentimentalism / 独:Empfindsamkeit

 「多感主義」とも呼ばれる。18世紀中盤から後半にかけ流行した文芸思潮で、その少し前に盛んであった感情を抑圧する合理主義のアンチテーゼとして、浅薄な感受性を前面に押し出した文学を指す。その感傷性は宗教的色彩も色濃く持ち合わせていた。感傷主義的側面は、自然に共感を覚えるルソーの作品にも見受けられるが、その主流はイギリス文学であり、読者に情緒的共感を強く促すリチャードソン(Richardson)『パミラ』(1740)は、その先駆けと見なされる。その後イギリスでは、「センチメンタル・ノヴェル」と呼ばれる作品が相次いで書かれ、ゴールドスミス(Goldsmith)『ウェイクフィールドの牧師』(1766)や、スターン(Sterne)『センチメンタル・ジャーニー』(1768)などは、典型的な感傷主義文学と呼べる。ドイツ文学では、クロプシュトックやゲレルトがその嚆矢とされるが、著名な文学サロンを主催した女流作家ラ・ロシュ(La Roche)による、リチャードソンの影響が顕著に認められる書簡体小説『シュテルンハイム嬢の物語』(1771)が感傷主義的作品としてとりわけ名高い。感傷主義は演劇にも影響を与え、18世紀フランスに生まれたコメディー・ラルモワィヤーントは感傷主義的要素が付加された涙を誘う喜劇である。
 

感情の誤謬 < 意図の誤謬


完全数(英:Perfect number

 西欧文学において、10という数字は中世からルネサンス期にかけて「完全な数」として尊重されており、その二乗である100や、三位一体説により聖なる数とみなされた1や3とともに文学作品の構成面でしばしば利用された(数学における「完全数」とは別である)。ダンテ(Dante)『神曲』(1307-21)は、序文1編、地獄編33編、煉獄編33編、天国編33編を合わせて100編の歌で構成され、ボッカチオ(Boccaccio)『デカメロン』(134951)10人の語り手が各10話ずつ話し、合計100話となる。フランス・ルネサンス期の女流作家マルグリット・ド・ ナヴァール(Marguerite de Navarre)の著作には、『デカメロン』に模して100話からなる小話集を目指したが、作者の死により72話で中断した『エプタメロン』(『七日物語』:1540-1549)がある。さらには、イタリア最初の俗語短編集『ノッヴェリーノ』(13世紀後半)あるいはフランス・ブルゴーニュ地方の短編集『サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル』(15世紀半ば)などの例のように、短いエピソードや詩を100編集めた小話集やバラード集は、当時は一般的なものだった。日本にも「百物語」と呼ばれる風習があるが、これは各々の話者が100の怪談を語り終えると本物の物の怪が現れるという集いであり、西欧との共通点はない。

カンツォーネ(伊:Canzone

 イタリア文学において、13世紀(ドゥエチェント)から14世紀(トレチェント)にかけて、最も高い格式を有した詩形。12世紀の北フランスや、プロヴァンスのトルバドゥールより発祥し、ドイツのミンネザングやマイスターザングで様々なバリエーションが生まれたが、特にペトラルカにより高度に洗練された完成形が生み出されるに至った。カンツォーネのスタンザfronte chiave sirimaと3つに分割され、frontesirimaはそれぞれ3行からなる2連(fronteではpiedesirimaではvolta)に分割される。連の中では韻が踏まれる。当初は720行からなる詩形だったが、こうして、中間のchiave1行を加えて各詩行7或いは11の音節を持つ13行の詩形が標準となった。(清新体派では、更に短い1行[commiato]が最後に付け加えられた。)13世紀には、シチリア派がカンツォーネを土台としてソネットを生み出し、以降、ソネットが詩作の主流へと発展していく。また、中高ドイツ抒情詩においてもカンツォーネ形式が用いられた。スタンザは同様に三分割され、最初の連はStollen、次の連はGegenstollen、これらの2連はAufgesang(前節)と呼ばれ同じ韻律を持った。3番目に置かれる連は、前節とは全く違う韻律を持ち、Abgesang(後節)と呼ばれた。このA-A-Bからなる詩形を特に「バール形式」と呼ぶ。

 



カンツォニエーレ(伊:Canzoniere

イタリアの人文主義者であり、且つ桂冠詩人であるペトラルカ(Petrarca)が生涯に渡り作り続けた恋愛抒情詩群。132746日、22歳の青年ペトラルカはアヴィニョンの聖クレール教会において「ラウラ」というフランス女性に一目ぼれし、彼女と恋仲になることもない中、1360年代後半まで、生涯この女性に捧げた詩を作り続けた。特に初めて会ってから21年後にラウラの死を人づてに聞いてからの恋愛詩は精神性・官能性を更に高め、ラウラはダンテ(Dante)のベアトリーチェ同様、現世では得ることのできない理想の女性として崇拝されるに至る。しかし、ラウラ自身について、詩人はその世俗的な詳細を一切語ってはおらず、彼女が何者であったのかは現在に至るまで謎である。ペトラルカを桂冠詩人たらしめているのは、そのラテン語作品であり、彼のイタリア語作品は、この『カンツォニエーレ』と、『トリオンフィ(凱旋行列)』の2作しか確認されていない。従って、詩人自身、この抒情詩集は個人的・趣味的な詩作として、世に問う意志を余り持ち合わせなかった様子があり、その正式題名(自筆本につけられた表題)も「桂冠詩人フランチェスコ・ペトラルカの俗語詩断片集」である。しかし、彼の名を不朽にした作品は一も二もなく『カンツォニエーレ』であることは論を俟たない。366篇の詩から成り、その大部分がソネットであるが、他にカンツォーネ、セスティーネ(6行詩)、バラータ(4行詩もしくはそれ以下)、マドリガーレ(3行詩+2行詩)が混じる。『カンツォニエーレ』は、100年以上経った後にヨーロッパ中の詩人たちに大きな影響を与え、「ペトラルキズム」という作風を生み出し、ラウラのみならず、ペトラルカ自身もその人となり、その生き様が崇拝されるに至った。現代においてもなお、定型詩の代表としてソネットが最重要視されるのは、ペトラルキズムにより、『カンツォニエーレ』が詩歌の最高の手本として模倣された事実によると言っても過言ではない。




カンティーガ(西:Cantiga

 12世紀から14世紀にかけて、イベリア半島で作られたポルトガル語‐ガリシア語による民衆詩歌、特にカンシオネイロに採録された約2000の詩歌を指す。カンティーガはその主題により大まかには以下のジャンルに分類される。

〇カンティーガス・デ・アミーゴ(Cantigas de amigo):歌い手は女性で、愛する者が不在である嘆きと憧れを歌う。

〇カンティーガス・デ・アモール(Cantigas de amor):歌い手は男性で、手の届かぬ女性への憧れとその苦しみを歌う。

〇カンティーガス・デ・エスカルニオ(Cantigas de escárnio):人物を匿名で揶揄する風刺詩。

〇カンティーガス・デ・マルディセ(Cantigas de maldizer):同上だが、より直接的で辛辣。

〇カンティーガス・デ・サンタ・マリア(Cantigas de Santa Maria):聖母を讃える歌。とりわけ、13世紀のアルフォンソ10世(賢王)によるカンティーガ集が名高い。

 

換喩 メトニミー

気質喜劇(英:Comedy of humours

 16世紀末から17世紀前半のエリザベス朝演劇において創案された喜劇。背景には古代ギリシアのヒポクラテス(Hippocrates)が唱えた「四体液説」があり、人間は4種類の体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)から構成されており、これらの体液の多寡に人間の気質(楽天的、怠惰、気難し屋、憂鬱癖)は影響されるとする説である。テレンティウス(Terentius)やプラウトゥス(Plautus)の古代ギリシア喜劇にもこの説に影響されたかのような類型的人物が登場するが、両古典作家に詳しかったベン・ジョンソン(Ben Jonson)はこれらの気質を登場人物たちに明確に当てはめ、喜劇『十人十色』(1598: Every Man in His Humour)を創作した。翌年書かれた『皆不機嫌』(1599: Every Man Out of His Humour)も含めて彼は気質喜劇の代表的作家と目されている。他にホメロス訳で現代にも名を残すジョージ・チャップマン(George Chapman)も気質喜劇の先駆けとして『気まぐれ浮かれ遊び』(1597:Humorous Day's Mirth)を書いている。気質喜劇は以降のイギリス喜劇の人物造形に少なからぬ影響を与えるが、台頭してきた清教徒勢力による1642年の演劇上演禁止令の結果途絶する。しかし1660年の王政復古による上演再開の際に書かれ始めた「風俗喜劇」にその精神が受け継がれた。
 

騎士道物語(仏:Roman de chevalerie / 西:Romance de cavalleria

 騎士を主人公とし、その冒険と遍歴を通じて騎士がどのように生きるべきかを示した物語。日本の武士と異なり、西欧の騎士道における徳目には「高貴な婦人に対する献身的な愛」(「ミンネ[宮廷愛]」)があった。騎士道物語の原型は、騎士の冒険譚中にこの宮廷愛を織り込み、遍歴の旅に出た騎士が、恋い慕う貴婦人のために住民を苦しめる怪物(竜や巨人であることが多い)を退治し、騎士としての教養と品格を向上させ、貴婦人の愛を得るというスタイルである。騎士道物語の源流は12世紀後半から13世紀にかけてアイルランドの伝説をフランス語で綴った一連の「ブルターニュ物語」であり、特にアングロ・ノルマン人詩人ヴァース(Wace)によるブリテンの歴史を描いた『ブリュ物語』(1155)によってアーサー王と円卓の騎士伝説と融合する。更に、フランス人詩人クレティアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)『ランスロあるいは荷車の騎士』(1177-81)や『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』(1185頃、未完)によって、先述の騎士道物語の典型的スタイルが確立した。特に後者は、騎士道物語に「聖杯伝説」エピソードを付与した作品として、後世に多大な影響を与え、後の騎士作家マロリー(Malory)の長編散文小説『アーサー王の死』(1470)に結実する。また、14世紀から16世紀にかけてのスペインでは、こうしたイギリスやフランスの騎士道物語を翻案した物語が流行したが、それらをガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボ(Garci Rodríguez de Montalvo)1508年、4巻本の『アマディス・デ・ガウラ』として纏め上げた。ブルターニュ王女とフランス王の不義の子ガウラの宮廷愛と冒険を描くこの作品は、スペインのみならずフランスでも大評判となったが、セルバンテス(Cervantes)が『ドン・キホーテ』(1605-1615)で、騎士道物語を読みすぎて頭のおかしくなった主人公を描き、この『アマディス』を痛烈に風刺したことで(ドン・キホーテの理想はアマディスである)、騎士道物語の隆盛は終結することとなった。そして同時に近代小説の時代が始まるのである。
 

貴種流離譚

もともとは折口信夫が日本における物語文学の原型に見られる特徴として唱えた用語。それによると、「高貴な生まれながらか弱い主人公が、遠い地を流浪する」意味であるが、現在では、「高貴な生まれの主人公が、その身分を隠して活躍する」物語の総称として呼ばれ、西洋文学にもあてはめることができる。代表的な作品としては、ホメロスの『オデュッセィア』(8世紀頃)、マーク・トウェインの『王子と乞食』(1881)、バーネットの『小公子』(1886)、『小公女』(1888)、或いは現代における「ハリー・ポッター・シリーズ」(1997-2007)などが挙げられる。貴種流離譚の主人公は、高貴な生まれにふさわしい徳を持ち合わせることにより、襲い掛かる災厄から逃れ、その出自が明らかになるところで大団円を迎えるのが一般的なパターンである。
 

奇想 コンシート

 

狐物語Roman de Renart

 フランス北部において、1170年代から1250年代頃まで書き継がれていた狐(ルナール)を主人公とする物語群。その原話は、仏詩人ピエール・ド・サンクルー(Pierre de Saint-Cloud)が、フランドル詩人ヘントのニヴァルドゥス(Nivardus Gandavensis)が著したとされる中世ラテン語による叙事詩「イセングリムス(Ysengrimus :1148-49 ?)(聖職者の比喩である狼が、庶民の比喩である狐に苛め抜かれる)を主に下地にして1174年から1177年にかけて書き上げたと伝えられる。以降、原話は名の知れぬ20人程の手により、様々なバージョンに加筆修正された結果、現代には計2500行ほどの詩句が、約20の写本によって伝わっている。
 狐物語は、一遍の物語ではなく、数々の小話(枝編[Branche)のアンソロジーである。主人公は等しく利己的な狐であり、己の欲得のために他の動物や、場合によっては人間を利用する。その中でも有名なエピソードとして、イソップ物語から、カラスを騙してチーズを取り上げる狐の話(枝編Ⅱ)や、イセングリムスから、狼(イザングラン)を騙して尻尾で釣りをさせる話(枝編Ⅲ)などが挙げられる。他の動物たちもそれぞれ名前を持っており(ルナールの妻:エルムリーヌ/イザングランの妻:エルサン/ヤマネコ:ティベール/熊:ブラン/獅子王:ノーブル/穴熊:グランベールなど)、各々が固有の性格を持ち、ルナールと知恵比べを演ずる。
 狐物語はその後、「狐物語群」として英語やオランダ語に翻訳・翻案されたが、とりわけ15世紀末にドイツで編まれた低地ドイツ語(ドイツ語の北方方言)寓話詩「ラインケ狐(Reynke de vos)」は、バロック期の作家ゴットシェート(Gottsched)による『ライネケ狐(Reineke der Fuchs)(1752)の原案となり、その後ゲーテの韻文による寓話詩 Reineke Fuchs“ (1793)に結実する。
 狐物語は、宮廷社会のパロデイであり、ほぼ同時期に成立した「騎士道物語」のアンチテーゼと捉え得るが、当初想定していた宮廷内の読者層が拡大し、当時形成され始めていたフランス市民階層から好評をもって広く迎えられたため、それまで「狐」を意味していた名詞は „goupil“ から “renart“ に取って代わることになる。




義務的場面Scène à faire / 英:Obligatory scene

 演劇や小説において、観客や読者が必ず期待するであろう場面。所謂「お約束の場面」の一種。作品によりその設定は様々だが、多くの場合、主人公(プロタゴニスト)と、それに対峙する重要な登場人物(アンタゴニスト)の対面(対決)が当てはまる。必然的にその場面は作品のクライマックスを形成し、感情的にも高ぶるが、この場面をどう形作るかが、また作者の腕の見せ所ともいえる。従って、強大と思っていたアンタゴニストの前に行き着いてみれば、それは単なる年老いた詐欺師であった(L.F.ボーム:『オズの魔法使い』[1900])とか、そもそもアンタゴニストが最後まで作品に登場しない(D.d.モーリエ:『レベッカ』[1938])などといった、義務的場面の扱いそのものを大きな特徴とした作品も少なからず存在する。




客間喜劇(英:drawing-room comedy)< 風俗喜劇




キャンパス・ノヴェル(英:Campus novel

 英米で20世紀半ばに発祥した小説の一分野。『アカデミック・ノヴェル(学術小説)』とも呼ばれる。作品世界として、大学とその周辺が設定され、ユーモラスな中にも(特にスノッブな大学文化を揶揄する)風刺性を交え、大学生活を送る人々の喜怒哀楽を軸に作品が展開する。キャンパス・ノヴェルの先駆けは、一般的にM.マカーシー(McCarthy)の『大学の木立(The Groves of Academe)(1952)や、K.エイムス(Amis)の『ラッキー・ジム』(1954)とされる。それ以前にも、W.キャザー(Cather)の『教授の家』(1925)や、D.セイヤーズの『派手な夜(Gaudy Night)(1935)など、大学を舞台とする小説は存在するが、『派手な夜』はミステリであるように、大学の存在そのものに焦点を当ててはいない。その後このジャンルは、J.バース(Barth)『ヤギ少年ジャイルズ(Giles Goat-Boy)(1966)や、D.ロッジ(Lodge)『交換教授(Changing Place)(1975)や、R.ディヴィス(Davies)の「コーニッシュ三部作」(『反乱の天使たち』[The Rebel Angels:1981]、『骨の種』[What's Bred in the Bone:1985]、『オルフェウスの竪琴』[1988)や、F.ロス『ヒューマン・ステイン』(2000)などの発展を見た。上記の作品群は主に大学の教職員の視点から描かれたキャンパス・ノヴェルであるが、大学生を主人公とする作品群も当然存在する。E.ウォー(Waugh)『ブライズヘッド再訪』(1945)T.シャープ(Sharpe)『ポーターハウス・ブルー』(1974)、フライ(Fry)『嘘つき』(1991) D.タルト(Tartt)『秘密の歴史』(1992)などがその類に入るが、青春小説を除き、学生が主人公の場合は舞台が学外に広がる場合も多く、これらの小説は特に「ヴァーシティ(varsity:「大学」の気取った口語的表現)小説」と呼ばれることもある。

 


九英傑Les Neuf Preux / 英:Nine Worthies / 独:Neun Helden

 中世からルネサンス期にかけて、騎士道を象徴する人物として列挙された9人の武人。ロレーヌ地方の詩人ジャック・ド・ロンギオンの叙事詩『孔雀の誓い』(Les Vœux du Paon“ :1312)で初めて扱われた。9人は以下の如く3人ずつに分けられる:

〇キリスト生誕以前の異教徒:
トロイアのヘクトール/カエサル/アレクサンドロス大王(彼の数奇な生涯についての物語は、地中海からインド、中国に至るまで、「アレクサンドロス・ロマンス」と称され、様々なヴァリエーションに変容しながら伝わっている。)
〇キリスト誕生以前の『旧約聖書』に登場するユダヤ人:
 ヨシュア(「ヨシュア記」に登場するモーセの後継者)/ダビデ王/ユダス・マカバイオス(続編[アポクリフ ァ]「マカバイ記」に登場するユダヤ民族の英雄)

〇キリスト教徒:
 アーサー王/カール大帝/ゴドフロワ・ド・ブイヨン(第1回十字軍[1096]の指導者)

 九英傑は、その提唱以来、ルネサンス期の仮面劇を始めとして様々な文学作品で取り上げられてきた(トマス・マロリー『アーサー王の死』[1469頃]キャクストン版序文、セルバンテス『ドン・キホーテ』[1605]、シェイクスピア『恋の骨折り損』[1596 ?]、『ヘンリー四世』[1599 ?]等)。美術史においても重要なモティーフで、タペストリーや絵画にも描かれた。特筆されるのはトランプの絵柄であり、4枚のキングについて、それぞれカール大帝(ハート)、カエサル(ダイヤ)、ダビデ王(スペード)そしてアレキサンダー大王(クラブ)をモデルとするフランス流トランプが、現在も一般的なものとなっている。また、中世では、九英傑が執り行った善政を偲ぶ目的で、市庁舎等の公共建築物に九英傑の像や壁画やステンドグラスが設えられた例も多い(ケルン市庁舎「ハンザホール」、ニュルンベルク「美しの噴水(Schöner Brunnen)」等)
 中世において九英傑を図像化する際には、しばしば各英傑のパートナーとして勇猛なる「九女傑」も描かれた。九女傑の選定はしかし、画家や彫刻家によりまちまちであり、定まったものは存在しない。ここでは14世紀から15世紀にかけて活躍したイタリア詩人サルッツォのトマソ三世が『さまよえる騎士の書』(140304)で述べ、マンタ城[カステロ・デラ・マンタ]の壁画に描かれた九女傑を挙げる:デーイピュレー(ギリシア神話におけるカリュドン王子テュデウスの妻)、シノーペー(ゼウスに対して貞節を守ったギリシア神話上の女性)、ヒッポリュテー(ヘラクレスに殺害されるアマゾン族の女王)、メラニッペー(ヒッポリュテーの妹)、セミラミス(アッシリアの女王、「バビロンの空中庭園」を建造させた)、ランペートー(アマゾン族の女王)、トミュリス(中央アジア、マッサゲタイ族の女王)、テウタ(バルカン半島イリュリア王国の女王)、ペンテシレイア(アキレウスと戦い、敗れたアマゾン族の伝説的女王)

 



98年世代(西:Generación del 98

米西戦争(1898)に大敗を喫したスペインの緊迫した社会・政治状況を象徴するスペインの作家世代。作家アソリンが1913年に発表した論文「1898年世代」から命名された。98年世代の特徴は、同年代(1864年から75年生まれ)、同経歴(独学)、地方出身、哲学(とりわけニーチェとショーペンハウアー)への深い関心、青年期における同様の政治志向(無政府主義)などである。彼らは1898年に決定的となったスペインの没落の背景と共にスペインそのもののアイデンティティーを明らかにしようと務め、スペインのヨーロッパにおける新たな方向性を模索した。代表的作家として、アソリン(本名ホセ・マルチネス・ルイス:『カスティリャ』[1912])、ラミーロ・デ・マエストゥ(『イスパニア性の擁護』[1934])、ピオ・バローハ(『ある活動家の回想記』[1913-35])、ミゲル・デ・ウナムノ(『生の悲劇的感情』[1913])、アントニオ・マチャード(『カスティリャの野』[1912])、ラモン・デル・バリェ=インクラン(『暴君バンデラス』[1926])などが挙げられる。彼らの上記活動は1905年頃に最高潮に達したが、以降反動的行動に走る者たちも少なくなかった。
 

キュンストラーロマーン(独:Künstlerroman 芸術家小説


教育小説(独:Erziehungsroman)< 教養小説

 

教訓詩(英:Didactic poetry

教育や啓蒙を主目的として創作された詩。文学の目的としては、神々や英雄の賛美、数奇な歴史の記述、美の追求、人間性の描写などさまざまなものが考えられるが、教訓詩は自然とその中での生活を賞賛することによる道徳性の発露を最重要視した点に特徴がある。しかし、純粋に独立したジャンルではなく、作品の付随的性質として語られる場合が多い。古代ギリシアの叙事詩は多かれ少なかれ教訓詩的要素を有していたが、正統教訓詩の系譜における最古の作品は、質素な農民生活を讃えたヘシオドスの『仕事と日』(700)であるとされる。その後、ローマ時代には、自然哲学詩人エンペドクレスあるいは哲学者エピクロスの影響を受け原子論的世界観に基づく雄大な自然を謳い上げたルクレティウスの『事物の本性について』(前1世紀中頃)、更には農耕の意義を讃えたウェルギリウスの『農耕詩』(前29)や、占星術を詳述したマニリウスの『アストロノミカ』(1世紀前半)などが現れた。これらの教訓詩はヘクサメトロス6歩格)で書かれるのが常である。その後の教訓詩は、18世紀以降のイギリスでロマン主義へ受け継がれる要素として発展し、J.トムソンの『四季』(1730)や、W.クーパーの『課題』(1785)など、前ロマン派詩人の自然賞賛詩を生み出した。また、家庭や学校では子供の教育に道徳的教訓詩が用いられ、それらの作品の大半が現代に痕跡を残してはいないが、「イギリス聖歌の父」アイザック・ワッツの一連の聖歌は現代まで受け継がれ、キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)などはこうした教訓詩の一種のパロディーと考えられる。
 

共時的(仏:synchronique / synchronic / synchronisch

 構造主義言語学の研究手法を指してソシュールが提唱した用語。同一時代の言語を採り上げ分析検討する研究態度を指す。これに対して特定言語の起源や伝播・変遷といった、時代にまたがった歴史的事項を考察する研究態度を「通時的」と呼ぶ。それまでの言語学は、基本的に通時的研究であったのだが、共時的研究の提唱は、構造主義の一大成果と見なしうる。この用語とそれに伴う構造主義的手法はソシュール以降、他分野にも応用されるようになり、通時的研究である文献学を本流にしていた文学研究においても、作品の構造分析研究などといった、共時的文学研究をもたらすことになった。
 

郷土芸術(独:Heimatkunst

 1890年から1910年にかけてドイツで台頭した文学運動。直前に流行した自然主義のアンチテーゼとして、大都市文化や近代科学の文学への導入を批判し、農村や小都市を舞台として人間本来の素朴な生活を描こうとした。1898年に文学史家のアドルフ・バルテルス(Bartels)が提唱し、フリードリヒ・リーンハルト(Lienhard)の小説群が代表的な郷土芸術小説として人気を博したが、そもそも郷土芸術は、ユリウス・ラングベーン(Langbehn)が匿名で著した『教育者としてのレンブラント』(Rembrandt als Erzieher:1890)によって広く知られるところとなる。この中でラングベーンは、都市化や啓蒙化がもたらしたリベラリズムや合理主義や則物主義やコスモポリタニズムや自然科学重視といった近代文化の特質を、民独精神を失わせる弊害であると断じ、神秘的、ロマン主義的精神こそが民族再生には枢要であると説いた。そしてこの偉業を芸術により達成した象徴的人物としてレンブラントを挙げたのである。ここから理想的ドイツ人を「レンブラント的ドイツ人」("Rembrandtdeutsche")と呼ぶ風潮も広まった(ラングベーン自らもこう呼ばれた)。郷土芸術は、以上のように極めて保守的な文学運動であり、都会化を促進したとしてユダヤ人を敵対視したことから(郷土芸術は、社会民主主義にも資本主義にも与しなかった)、ユダヤ人排斥運動にも精神的に加担し、後のナチス時代に生まれる「血と土文学」に連なる運動であるといえる。また、農業生活を基本とした自然に生きる人々の暮らしを描いた点では、現代のエコロジーにまで連なる要素を先取りしていたともいえよう。
 

教養小説(独:Bildungsroman

 主人公が社会の様々な人物と交流し、様々な状況を経験することにより、内面に秘められていた自己が啓発され、独立した人格へと大成していく過程を描いた長編小説。ドイツの文芸評論家カール・モルゲンシュテルン(Morgenstern)が、叙事詩に対して小説が有する最も核心的な特徴として19世紀初頭に命名し、その後同国の哲学者ヴィルヘルム・デュルタイ(Dilthey)によって広められた。戯曲はその物理的制約により長時間を絶え間なく描くことができないため、小説が最も得意とするジャンルのひとつである。主人公が均整のとれた人格へと成長していく様子を描くことから、シュトゥルム・オント・ドランクとは正反対の古典主義の産物とも考えられるが、物語が波乱万丈の人生を描くことから、ロマン主義的な要素も見て取れる。しかし、特にドイツ文学でこの小説形式が発展したのは、外面的に大きな事件が連続せずとも、主人公の内面的な成長を描くことをドイツ文学が好んだせいであり、ドイツ文学の持つ内省的な特徴、哲学的傾向が教養小説発展に拍車をかけたともいえる。
 教養小説の最初の作品は、クリストフ・マルティン・ヴィーラントWieland『アーガトン物語』
(1766)とされ、その他の代表作としては、ゲーテ(Goethe)『ヴィルヘルム・マイスターの修養時代』(1795/96)、「ゲーテの弟」と称されたカール・フィリップ・モーリッツMoritzの『アントン・ライザー』(1785:この作品は成長に失敗した主人公を描いており、「負の教養小説」と呼ばれる)、G.ケラー(Keller)『緑のハインリヒ』(1855)、H.ヘッセ(Hesse)『デーミアン』(1919)、などが挙げられる。
 教養小説で主人公の精神的発展に殊更焦点を絞って描写したものを「発展小説」
(独:Entwicklungsroman:ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハEschenbach『パルチファル』[13世紀]/グリンメルスハウゼン[Grimmelshausenn『ジンプリチシムス・トイチュの冒険[阿呆物語][1668] など)と呼んだり、啓蒙主義時代に流行した特に主人公への教育的効果を重んじる作品を「教育小説」(独:Erziehungsroman:S.リチャードソンRichardson『パミラ』[1740]/J.-J.ルソーRousseau『エミール』[1762]/J.H.ベスタロッチPestalozzi『リーンハルトとゲルトルート』[1781-89]など)と呼んだり、芸術を通して成長していく芸術家を描く作品を「芸術家小説」と読んだりする場合もあるが、その境界は極めて曖昧である。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』がTh.カーライル(Carlyle)により英訳された(1824)ことで、教養小説はイギリスに紹介され、”Coming-of-age novel”(「青春小説」)として発展し、主人公である若者の成長のみならず、恋愛や友情など、青春時代ならではのテーマを取り上げた文学ジャンルとして現代に至っている(Ch.ディケンズ[Dickens『オリヴァー・ツイスト』(1837-39)『デイヴィッド・コパフィールド』[1849-50]、M. トウェイン(Twain)『トム・ソーヤーの冒険』(1876)D.H.ロレンス[Lawrence]『息子と恋人』[1913]など)。(端的な例として、『デミアン』は、教養小説の金字塔であるのに対し、同作家の『車輪の下』[1906]は、主人公の没落を描く点で、著名な青春小説ではあるが教養小説ではない。)この小説形式が主人公のみならず、周囲の人物の発展、社会の変化を同時に描き始めると、ついにトルストイやドフトエフスキーが完成した「本格小説」が出現するが、ドイツ文学はそのレベルまでには達しなかった。
 また、日本文学も『源氏物語』から既に、主人公の内面性を描くことにかけては、世界有数の実力を示していたが、主人公を取り巻く社会のダイナミズム、有機的関連性を描くことは全くの不得手だった。そのため、「私小説」という、内省的な主人公が社会に背を向けてどんどん堕落していく、いわば「反教養小説」を世界で唯一生み出し得たが、社会的連関の中で様々な人間がいろいろなドラマを作り出すといった「本格小説」的作品はついに生み出し得なかった。谷崎潤一郎の『細雪』
(1948)がいい例である。現代文学においては、五木寛之の『青春の門』(1969-)などといった「大河小説」は現代版教養小説ともいえ、もっと卑近な例を挙げれば、「NHK朝の連続テレビ小説」も教養小説の一形式と見なすことが可能かもしれない。本国ドイツでは、現代文学において、マンが教養小説のパロディーとして「まったく成長しない長編小説の主人公」を描いた『魔の山』(1924)が有名である。また、ロマン主義的現代教養小説の典型として、J.K.ローリング(Rowling)「ハリー・ポッター・シリーズ」も挙げられるだろう。
 


金メッキ時代(英:Gilded Age

 1870年代から80年代、厳密には南北戦争が終結した1865年から恐慌の始まる93年までの期間で、アメリカが好景気に沸き、資本主義が一気に発展した時代を指す。命名は、マーク・トウェイン(Twain)と、チャールズ・D.・ウォーナー(Warner)の合作による小説『The Gilded Age(1873) に由来し、「金ぴか時代」とも訳される。この時期には大陸間横断鉄道が開通し、後世に名を遺す富豪たちが現れ(ロックフェラー、カーネギー、モルガン、グッゲンハイム等)、社会は一見潤ったかに見えたが、政治は腐敗し、拝金主義が横行し、宗教に代わり経済感覚が国民の行動規範となった。人種差別も解消はされず、西部開拓に伴い、先住アメリカ人に対する差別も加わった。文学においては「アメリカン・ドリーム」を背景とした立身出世物語がもてはやされ、貧困の身から艱難辛苦し、やがて成功者となる人物を描いた複数の小説で、ホレイショ・アルジャー(Alger)Jr.は、当時のベストセラー作家となった。同様に、ウィリアム・D・ハウエルズ(Howells)の代表作『サイラス・ラパムの向上』(1885)も、立身出世する主人公を描くが、その後、不正取引を拒むことで没落する彼の姿を描くことにより、同時代への警鐘を鳴らした(従って、題名における「向上」は、主人公の社会的成功ではなく、最後に描かれる彼のピューリタン的倫理観上の向上を指す)。また、同時代は、こうした社会の暗部を専らの描写対象としたアメリカ自然主義が誕生する契機ともなり、スティーヴン・クレイン(Crane)と共にそのパイオニアと目されたフランク・ノリス(Norris) の代表作『マクティーグ』(1899) は、本家ヨーロッパ自然主義以上の醜悪且つ卑猥な描写を厭わなかったため刊行直後に改作を強要され、完全なオリジナルが再刊されるのは、1941年まで待たなければならなかった。

 

吟遊詩人(英:Minstrel / 仏・独:Ménestrel

 中世ヨーロッパにおいて、各地を遍歴しながら詩や楽曲を披露した詩人・歌手の総称。その起源は、既に古代ギリシアのアオイドスに始まり、ホメロスやヘシオドスも革新的なアオイドスであった。吟遊詩人の個別的な名称は地域によりそれぞれ異なるが、とりわけフランスには多彩な吟遊詩人が存在した(トルバドゥールトルヴァールジョングルールメネストレルなど)。その外、イギリスではスコプ、ドイツではミンネゼンガー、イタリアではカンティンパンカと呼ばれる吟遊詩人たちが活躍した。彼らは貴族階級(トルバドゥール、トルヴァール、ミンネゼンガー)から賤民階級(ジョングルール、メネストレル)まで多彩な社会層に属し、11世紀から13世紀にかけて全盛期を迎え、印刷技術のない時代における文学の主たる伝承者であったが、書籍が普及し始め、専門の詩人が登場する15世紀以降、次第に衰退した。
 

寓意 アレゴリー

 

空間芸術ラオコーン問題


寓話(羅:fabula / 仏:Fable / 独:Fabel

 動物や植物、あるいはそれらが折衷した空想の生き物、時には無生物が擬人化して登場し、平易な筋を展開する物語。結末には道徳的な教訓を示す「落ち」が用意されている。最初の寓話はヘシオドス(Hesiod)の『仕事と日』(700)で語られる「鷹とナイチンゲール」の話であるとされる。当時の寓話はまだ文学とは認められておらず、弁論の一技法として下層階級に聞かせる道徳話と目されていたが、前7世紀後半の古代ギリシアに現れたアイソポス(イソップ:Aesop)により大きく発展を遂げた。(彼は天賦の機知の才により奴隷の身分から解放され、政府の高官にまで出世したと、彼の伝記『アイソポス伝』[1,2世紀頃?]は伝えているが、確証はない。)「アリとキリギリス」、「北風と太陽」、「ウサギとカメ」などに代表される彼の寓話は民衆の絶大な人気を博し、前300年頃パレロンのデメトリオス(Demetrius)が彼の最初の『寓話集』を出版した。当時はアイソポスの寓話の他にも「アイソポス風」の寓話が流布し、現在の『イソップ物語』にもアイソポス作ではないものが含まれる。彼の寓話はローマ時代にも好まれ、パエドルスは韻文による『アイソポス風寓話集』を1世紀前半に著してラテン文学における寓話のジャンルを確立した。
 寓話の人気はまた、先述したように、弁論術を習得する上で寓話を知っておく必要があったことも大きい。その後、
400年頃にパエドルス(Phaedrus)の寓話集を散文に改めた『ロムルス寓話集』が出されるが、この頃から寓話の物語性が重視されるようになり、後のファブリヨー笑劇にも繋がる娯楽性が備わった。アイソポスの寓話は更に人文主義時代の新ラテン語ブームの際にもウルムの著作家シュタインへーヴェルによる包括的な『ウルム版アエソポス寓話集』(1476)が出され、印刷術の開発とも相俟って当時のベストセラーとなり、類似の出版物の呼び水となった。一方12世紀中頃に、フランドル地方で『イセングリムス』(“Ysengrimus”)が書かれ、既に『イソップ物語』に登場する狐と狼の対峙を集中的に扱うことにより、後の『狐物語』(12世紀~13世紀)やゲーテ(Goethe)の『ライネケ狐』(1793)などといった狐が狼をこらしめる動物寓話が成立する。ドイツではこの後もルターが自らの宗教改革の教訓浸透のために寓話を利用し、18世紀後半にはレッシング(Lessing)が啓蒙主義精神のもと、民衆の啓発のために寓話を執筆した。また、人間をほとんど登場させないため、寓話はたとえ社会風刺的内容を描いても一般の風刺文学に較べ、当局の弾圧を受けにくいというメリットもあった。そしてこの分野において特筆すべき作家は、フランスのラ・フォンテーヌ(la Fontaine)であるといえよう。彼の『寓話詩』はアエソポスを下地とはするが、他の様々な地域からの話も織り交ぜ、登場人物たちの群を抜く生命感と格調高い韻文は、寓話に高い文学性を与えたのである。19世紀前半に活躍したロシアの作家クルィロフ(Крыло́в)の『寓話』(1809-1834)もラ・フォンテーヌの影響下にある。現代において、寓話というジャンルは、例えば「ショート・ショート」というジャンルに取って代わられた観もあるが、ジェームズ・サーバー(James Thurber)などはこの分野の可能性を依然として模索している。
 



クセジュ文庫(仏:Que sais-je ?

1941年にフランス大学出版局により刊行が開始された廉価版叢書。シリーズ名は、哲学者モンテーニュが『エセー』の中で述べた「私は何を知っているのか」という意のフランス語に由来する。ドイツの「レクラム文庫」、イギリスの「ペンギン・ブックス」と並び、フランスを代表する叢書だが、前二者が文学を主要コンテンツとするのに対し、クセジュ文庫はフランスが誇りとする『百科全書』の精神を受け継ぎ、文学ではなく一般教養全般を対象とする。サイズも新書版に近いが、全て同ページ数(128ページ)に収められており、価格を抑えるために、画像を用いない表紙デザインも統一している。現在までの刊行点数は4000点を超え、大百科全書シリーズの様相を呈しており、我が国でも1951年から白水社より「文庫クセジュ」と銘打たれ刊行された同シリーズは現在1000点を超えている。このようにフランスの学術レベルを象徴する同シリーズだが、「クセジュ文庫」はほぼ全てがフランス人有識者による著作であるため、外国語に翻訳された場合、フランス以外の国を対象とする巻は、当該国人や自国人により表された同様の解説書に較べ、やや隔靴掻痒の感を与えることも否めない。(例えば「英文学史」についてであれば、フランス人以外は、同シリーズよりも、イギリス人か自国人の書いた解説書を繙くであろう。)





具体詩(独:Konkrete Poesie / 英:Concrete poetry

 言語を事物の状況や、思考や、感情を表現する道具とは見なさず、文法からも解放し、言語そのものの音響的・形状的要素を強調して構成された詩。詩作には文字や単語や句読点が使用されるが、それらは決して文章を構成して「意味」を読者に伝えようとするものではなく、単語を構成要素として、あたかも絵画のように作品の感興を直感的・「具体的」に読者(或いはむしろ鑑賞者)に伝えようとするものである。
 具体詩は、1950年代から国際的に台頭してくるが、その源泉は、未来派のマリネッティやダダイズムのフーゴー・バルやクルト・シュヴィッタース、或いはクリスティアン・モルゲンシュテルンに見受けられる。また、”concret”という用語を初めて用いたのは、オランダの芸術家テオ・ファン・ドゥースブルフが創刊した抽象芸術雑誌”Art concret”(「具体芸術」:1929)であったとされる。その理論は、オイゲン・ゴムリンガーが195481日付「新チューリヒ新聞」に掲載したマニフェスト「詩節から星座へ」(“ vom vers zur konstellation”:ゴムリンガーは、その前年に具体詩による詩集『星座』を発表していた。)によって宣言されたが、彼の直前には、スウェーデンの芸術家オイヴィント・ファールストロームが同様の思想に到達していたと見られる。その後フランスのレトリスムと融合し(ブラジルのノイガンドレス派は、独自に同様の芸術論を生み出した)、日本やアメリカでも流行した。
 
具体詩は2種類に大別でき、文字を具体的な視覚的要素と見なす「視覚詩(visuelle Dichtung)」と、文字の発音を具体的要素として詩作する「聴覚詩(akustische Dichtung)」である。視覚詩の代表的な例を、以下に2作挙げ、その後に聴覚詩の代表例を1作挙げる。

         wolke     wolke

          wolkewolkewolkewolke

        wolkewolkewolkewolke         

           wolkewolkewolkewolke

            wolke     wolke

              B        B

             L          Lb

              I         I  l  i  t z

             T           T   i

              Z         Z     tz

  Max Bense“wolke“()“BLITZ“(雷光)を組み合わせて「雷雲」を表現。

   Doehl apfel.jpg

Reinhard DöhlApfel“ Apfel“ (リンゴ)の中に“ Wurm“ ()が隠れている。

schtzngrmm

  schtzngrmm

t-t-t-t

  t-t-t-t

  grrmnunmm

  t-t-t-t

  s------c------h

  tzngrmm

  tzngrmm

  tzngrmm

  grrmmmmm

  schtzn

  schtzn

  t-t-t-t

  t-t-t-t

  schtzngrmm

  schtzngrmm

  tssssssssssssss

  grrt

  grrrrt

  grrrrrrrrt

  scht

  scht

  t-t-t-t-t-t-t-t-t-t-t

  scht

  tzngrmm

  tzngrmmm

  t-t-t-t-t-t-t-t-t-t-t

  scht

scht
scht

scht

scht

grrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

t-t t

  Ernst Jandlschtzngrmm:「シュッツングルム」という意味を持たない音から始まる純粋に音声を鑑賞する詩。作者による朗読の音声が残されている。

 具体詩は、20世紀後半に迎えた隆盛からは衰退したものの、現在も具体芸術の一分野として制作され続けている。


クニッテル詩句(独:Knittelvers

2行を一組として行末に韻を踏んだ対韻の一種。非常に自由な詩形であり、15世紀から17世紀初頭にかけてのドイツで標準的な詩形として広く使用された。当時のドイツ文学の地位の低さもあり、規律の厳しくないこの詩形は、「棍棒(Knüttel)詩形」などとも呼ばれた。18世紀に入り、ゲーテ、シラーらの使用により再び脚光を浴びたが、その際一行に4つの揚格が置かれ(Vierheber)、それに対して抑格はいくつ置かれても構わない形(Füllungsfreiheit)がクニッテル詩句の最大の特徴となった。クニッテル詩句は、厳密には1行が8乃至9の音節からなる「厳正クニッテル詩句」(strenger Knittelvers)と、音節数には拘らない「自由クニッテル詩句」(freier Knittelvers)に分類される。

クニッテル詩句は、17世紀初頭まで謝肉祭劇職匠歌などで盛んに使用されたが、その後のバロック期には無粋な詩句として蔑まれ、通俗的な作品や喜劇的作品で使用されるに過ぎなかった。しかしシュトゥルム・ウント・ドランク時代に入ると状況は一変し、ドイツの精神文化の再認識と共にクニッテル詩句が再評価されるようになる。その金字塔ともいえる作品が、ドイツ古来のファウスト伝説を扱うゲーテの悲劇『ファウスト』(18081833)である。19世紀後半に入るとクニッテル詩句は、喜劇的作品を除いて再び使用されなくなるが、そうした中でも、ザルツブルク音楽祭での恒例上演演目となっているホーフマンスタール『イェーダーマン』(1912)とドイツ解放戦争100周年記念作品としてブレスラウで初演されたハウプトマン『ドイツ韻律による祝典劇』(1913:「ドイツ韻律」とは、クニッテル詩句を指す) はこの詩句による作品として特筆される。
例:

Nur selten tret’ ich selber auf die Bretter

des Welttheaters, das ich dirigiere.

  Ich mache gutes,mache schlimmes Wetter,    

 gewiß, daß mich's persönlich nicht geniere.
(ハウプトマン:『ドイツ韻律による祝典劇』)
(下線部が揚格)


句またぎ 英・仏・独:Enjambement

 詩歌では、ひとまとまりの意味を持った文や句は行末で終わること(エンドストッピング)が基本だが、例外的に文や句を、行を「またいで」表記すること。例外的とはいえ、ヴィヨンやロンサールなど、中世フランス詩から句またぎは広く用いられ、シェイクスピアも後半にはこの技法を多用した。ただ、技法として認識されたのは1680年に出されたリシュレの『フランス語辞典』に収録されてからである。句またぎには、読者の次行への期待感や不安感をより高め、作品全体の奥行きや躍動感を増加する効果がある。以下にその例を挙げる。
„ Et je ne hais rien tant que les contorsions
De tous ces grands faiseurs de protestations, 
モリエール『人間嫌い』(1666)1
「そして、何より私が嫌なのは、この大したおべんちゃら使いどもの気取った様子なのだ」)
上記の詩行は完全な一文がアレクサンドラン2行に分割されており、contorsionsの後にはコンマも入りはしない。句またぎは先述のように作品の動的な印象を強めるが、反面作品に不安定感が生じるのも否定できない。この点が均整の取れた作品を何より重視する古典主義には相容れぬものであった。コルネイユ『ル・シッド』(1637)では作品の冒頭から以下の句またぎが現れ、
„ C’est bien à l’escalier
  Dérobé.
      (「確かに忍び
 階段のところだね。」) 
更に一文であるC’est bien à l’escalier Dérobé.は、別の行どころか別のアレクサンドラン詩行にも組み入れられている。この点などが当時の古典派から激しく非難され、有名な文学論争(「ル・シッド論争」)に発展したのである。
 

クラークの三法則(英:Clarke's three laws

 アメリカのSF作家アーサー・C・クラークが提唱した三つの格言。その内容は以下のとおり。
一.もし高名な、年老いた科学者が何かを可能であると言った時は、ほとんどの場合彼は正しい。もし彼が何かを不可能であると言った時は、誤りであることが非常に多い。
二.可能性の限界を知る唯一の方法は、可能な領域からほんの少しばかり不可能な領域に踏み込む(不可能なことをやってみる)ことである。
三.十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。
 第一法則は、1962年に出されたエッセイ集『未来のプロフィール』で唱えられ、第二、第三法則は同書を72年に改訂した折に追加された。クラークはその際、「ニュートンは三つの法則(慣性の法則、運動方程式の法則、作用・反作用の法則)で満足したのだから、憚りながら私も三つにしておいた」と述べている。これらの法則のうち、第三法則はSFにとり特に重要なもので、SFを「ファンタジー」に大きく接近させたことで後の文学界に及ぼした影響力は計り知れない。


クラック(仏:Claque

 演劇やオペラなどを劇場で上演する際、劇場支配人や作者や役者の依頼により、報酬や無料券や飲食等の対価を受け、率先して拍手喝采する所謂「サクラ」の集団。個々のメンバーは”Claqueur”と呼ばれる。全く逆の目的で、ブーイングにより作品を失敗させるために雇われる場合もある。古代ギリシア演劇時代を嚆矢とし、中世やルネサンス期やエリザベス朝演劇時代にも同様のプロ集団は存在したが、とりわけ19世紀初頭のパリにおいてクラックは流行した。当時は「演劇成功請負会社」として、クラック専門の会社が存在したほどである。
 その際、集団は分業制を取るようになり、「広告の前で一日中作品を宣伝する者」、「公演前や休憩時にロビーで作品を褒める者」、「上演中に拍手喝采する者」、「喜劇で率先して笑う者」、「悲劇で率先して泣く者(主に女性)」、「アンコールを叫ぶ者」などに分かれて作品を盛り立てた(彼らの段取りを示す「脚本」も存在した)。クラックはパリを起点として全欧米に拡散するが、その影響力を逆手に取って、歌手や役者を恐喝する集団も現れるなどした後、
20世紀前半には衰退する。クラックが文学史上最も脚光を浴びた例は、1830225日、コメディー・フランセーズにおいて初演されたユゴーの戯曲『エルナニ』を、当時クラックとしても有名だったゴーチェらのロマン派集団「セナクル」が、ロマン主義反対派を、喝采により鎮圧して上演成功に至らしめた「エルナニ戦争」であろう。
 クラックはしかし、現代においても尚存在している。代表的なものは、テレビ業界が開発した「シチュエーション・コメディー(ドラマの舞台と登場人物がほぼ固定され、毎回一話完結形式で放映されるコメディー。別名シットコム)」での常套演出手段とされる「ラフトラック(Laugh track:笑い声の挿入)」である。戦後のアメリカホームドラム「アイ・ラブ・ルーシー」や「奥様は魔女」などでラフトラックはシットコムの定番となり、その後は日米を問わず視聴者参加型のバラエティー番組にも取り入れられ、現代では撮影スタッフも一種のクラックとして番組に笑い声を提供している。

 

クラリズム(独:Klarismus)→ アクメイズム

 

グラン・ギニョール(仏:Grand Guignol)

 「ギニョール」とは、1808年頃にフランス・リヨンでローラン・ムルゲが始めた指人形芝居の主人公である。当初は労働者向けの滑稽な人形芝居であったが、その後パリに伝わり、子供向けの勧善懲悪を基本とする人形劇となる。(リヨンは、現在ではフランスにおける人形劇の聖地となっている。)
 だが、このギニョールを生身の俳優が演じ、残酷な場面をふんだんにちりばめた恐怖劇を上演した劇場が、1897年から1962年までパリの歓楽街に存在した「グラン・ギニョール劇場」であり、この劇場で上演された猟奇的な演劇ジャンルを「グラン・ギニョール」と呼ぶ。「狂気」を背景とする一連のこうした作品には、鮮血が飛び散る殺人場面や四肢や生首がはねられる残酷シーンがつきもので、現代のホラー作品の先駆けといえるが、もともと革命下の殺伐とした雰囲気のもとで暗黒小説を醸成してきたフランスには、こうした演劇ジャンルにとって馴染みやすい下地があったといえよう。劇場の創設者オスカル・ムトニエは検閲による修正を再三受けていた自然主義作家であり、人間の恥部を赤裸々に抉り出す自然主義が、猟奇的な方向へと向かったと考えられる。20世紀前半に座付き作家として活躍したアンドレ・ド・ロルドの時代に劇場は最盛期を迎え、彼は「恐怖のプリンス」の異名を取った。戦後、グラン・ギニョール劇場は、後発のホラー映画との競合に敗れ閉鎖するが、その遠因として、劇場のフィクションを遥かに越えたナチスの大量虐殺行為という容赦ない現実に観客が気づいてしまったため、という解釈も存在する。


 

クリシェ(仏・英:Cliché / 独:Klischee

 決まり文句、常套句、或いは固定化された概念。もともとはフランス語で活字用の鉛版を意味することから、「使い回しの効く定型表現」を指すようになった。「薄幸の佳人」や「悪徳商人」などがその典型である。文学においてクリシェは、個々の表現から、人物造形、シチュエーション設定、ストーリー展開、結末提示に至るまで、様々なレベルや箇所で用いられ、それらは時代によっても大きく異なる。クリシェを多用することは、作者の芸術的創造性の欠如を意味するが、反面娯楽文学は一定のクリシェなくしては成り立たない。我が国ではこうしたクリシェを近年特に「お約束」と呼んだりする。クリシェ的特徴が最も先鋭化した例は、完全に類型化された人物として登場するストック・キャラクターである。童話もクリシェ的な人物たちがクリシェ的なストーリーを展開する文学ジャンルであり、喜劇も、例えばシェイクスピア『ヴェニスの商人』(15941597)の「吝嗇なユダヤ人金貸しシャイロック」という定型的人物に象徴されるように、クリシェを逆手に取って笑いとする手法が好んで用いられる。
 

クリフハンガー(英:Cliffhanger

 物語が最高潮に達し、主人公が絶体絶命に至ったところで話が一旦終結し、結末を次回に引き継ぐ作劇方法。雑誌連載小説や連続テレビドラマなどに、現在も尚頻繁に利用されている。この技法は、古くは『千夜一夜物語』(9世紀頃)で、王の歓心を買い続けるため夜な夜な御伽話を語り、佳境に入ったところで「続きはまた明日」と話を打ち切った娘シェヘラザードに認めることができる。用語の由来は、トマス・ハーディーが発表した雑誌連載小説『青い瞳』(1872-73)で、崖際にしがみ付く人物の場面で次号に続くとした事実から来ている。以来大衆小説において、読者の興味を繋ぎとめるために、クリフハンガーは盛んに利用された。特に1930年代のアメリカ映画では、「フラッシュ・ゴードン」や「バック・ロジャース」など、毎週公開される短編映画シリーズでこの手法が常態化していた。現在では、民放バラエティー番組において、コーナーのクライマックスをコマーシャルの直後に置く手法が「CM挟み」と呼ばれ、一番組中に何度も繰り返されるが、これもクリフハンガーの一亜種と見なすことが可能である。ただ、クリフハンガーの過度な使用は、逆に読者や視聴者の反感を招く場合も多い。
 この手法は、今野緒雪著ライトノベル「マリア様がみてる』シリーズ第10巻『レイニーブルー』(2002)で用いられ、次作に大きな関心が寄せられたため、我が国の若年層では「レイニー止め」とも呼ばれている。
 

クルスカ学会(伊:Accademia della Crusca) 国語協会


グルッペ47(独:Gruppe 47

 1947年から1967年にかけて開催されたドイツ新進作家集会の参加者を指す呼称。集会は、作家ハンス・ヴェルナー・リヒターの呼びかけにより招集された。(彼は自らの作品より、グルッペ47の主催者としてドイツ文学史にその名を残している。)会は作品の相互批評を軸とした新進・無名作家たちの集まりで、メンバーリストも会則も会の目標もない極めて緩やかでリベラルな運営を旨とした。会には後に著名な作家や文芸評論家も参画し、戦後のドイツ文学はもとより、ドイツ文化ひいてはドイツ国内の言論全体に対して大きな影響力を持つに至る。
 同会は、戦争直後のアメリカ・ロードアイランドのドイツ兵捕虜収容所にその端を発する。ここで1945年より発行された雑誌”Der Ruf”(「叫び」)の発行人に、リヒターと、戦後ドイツ文学を代表する作家のひとりであるアルフレート・アンデルシュも名を連ねていた。彼らは、翌年の帰国後に後継誌「叫び:若者世代の独立誌」をミュンヘンで発行する。同誌は文学作品も掲載したものの、リヒターとアンデルシュは、基本的に同誌を東西世界の架け橋となる左翼的政治誌と捉え、誌上でアメリカの占領政策批判を展開した。そのため1967年同誌はアメリカ情報管理局(ICD)により発行禁止処分となった。両発行人の辞任により同誌は政治姿勢を改め再発行されるが、もはや同一の雑誌と見なされてはいない。一方、リヒターは「スコルピオン」と題する後継誌の発行を企画し、その編集者会議の名目で、16名の作家たち(内、1名は出版業者)を194796日、ドイツ南端フュッセンのイルゼ・シュナイダー=レンギエル(女流写真家)宅に招集した。この会が、グルッペ47である。リヒターによれば、会を創ったのは文学者集団ではなく、あくまで、「政治と関わりが深いものの文芸志向も持ち合わせた出版人たち」であった。一方、本来の目的であった「スコルピオン」の発行は、試行版が出たのみで、正式発行には至らなかった。
 このグルッペ471回会議で朗読・批評された作品が、ヴォルディートリヒ・シュヌールの短編『埋葬』(”Das Begräbnis“)である。「神」の埋葬式を比喩的に描く『埋葬』は、「廃墟文学」や「魔術的リアリズム」の典型的小説とされるが、グルッペ47の幕開けを告げた作品として名高い。また、シュヌールは1977年、既にほとんど活動していなかったメンバーが再結集し、グルッペ47の終了が正式に宣言された集会の最後に、再び同作を朗読した。これにより、リヒターの言を借りると、「会の始まりと終わりをシュヌールは自作で告げた」ことになった。
 年に
12度開かれる会では朗読者がリヒターの横の席(「電気椅子」と呼ばれた)に座り、自作を朗読した後は、参加者たちから容赦ない批評が浴びせられるが、朗読者が自己弁護することは許されなかった。しかし、会の決定的な分裂を防ぐ意味で、リヒターは参加者たちに、文学的・思想的・政治的主義主張の根本的な議論を禁じていた。従って、会は文学的に、また政治的に如何なる方向性も持たず、ただ、ファシズムと軍国主義を否定する態度だけを共有するのみであった。このように、リヒターはあらゆる規範や強制や主義を会に持ち込むことを拒否していたため、会の名に「協会、クラブ、連盟、アカデミー」等を用いることを避け、スペインの「98年世代Generación del 98)」を援用し会の名称とした(命名者はH.G.ブレナー)。
 程なく会はドイツ文壇の主流派を形成するが、明確な主義主張を持たないが故に、個々の非民主的政治事件(ハンガリー動乱鎮圧[
1956]、ベトナム戦争[1965]等)に抗議声明を出すことはあっても、政治的に会の方向性を示すことはできず、海外で開いた集会(シグトゥーナ[スウェーデン:1964]、プリンストン[アメリカ:1966])が文学的に大成功を収めても、集会をあくまで自らの私的な集まりと見なすリヒターの態度に、ペーター・ハントケなど、会の内部からも改革要求が上がるようになった。会はもともとアデナウアー首相率いるキリスト教民主同盟の保守的政治姿勢には批判的であったが、さりとて社会民主主義に肩入れするわけでもなく、その広範な文化的影響力にも関わらず、公的な態度表明を避け続けたため、会内外から批判が沸き起こった。そのような中、1967年に開かれた集会で、社会民主党の学生党員たちから会の非政治的姿勢が「張り子の虎」と誹謗されたことを契機に、会の内部でもイデオロギーを巡る激論となり、リヒターは1968年にプラハ近郊のドブリーシュ城で開く集会を最後に会を閉じる決断を下す。しかし、この計画も直後に起きた「プラハの春」により実現しなかった。以降、リヒターは会を招集しなくなり、実質的に会は終了した格好となったが、前述したとおり、1977年には会の終結が確認されている。因みに、実現しなかったドブリーシュ城集会は、19905月、政治体制の変わったチェコにおいて、ハベル大統領がリヒターたち参加者を招待する形で開催された。
 会は出入り自由の緩やかな集会であったため、正式な会員は存在しない。リヒターが開催の都度作家たちを招待しただけである。参加者の中でも、朗読する者、批評する者、そして傍聴するだけの者と役割が異なり、朗読した作家だけでも
200名以上に上る。従って、戦後ドイツ文学を牽引した作家たちの過半が、会と関わりを一度でも持ったことがあるといえよう。著名な参加者としては、ハインリッヒ・ベル、ギュンター・グラス、ペーター・ハントケらのノーベル文学賞受賞者、ギュンター・アイヒ、インゲボルク・バハマン、マルティン・ヴァルザー、パウル・ツェラン、ペーター・ヴァイスなどといったビュヒナー賞受賞者、或いは、ヨアヒム・カイザー、ハンス・マイヤー、マルチェル・ライヒ・ラニッキらの文芸評論家・研究者が挙げるられる。また、短期間(19501967)ではあったが10回に渡り、会員の投票により「グルッペ47賞」が新進作家に贈呈され、ベルやグラスやバハマンやアイヒが受賞したことから、同賞は高い名誉を現在も保持している。
 ギュンター・グラスは2005年、リューベックにある自らを記念した文学館「ギュンター・グラス・ハウス」で集会を開くべく作家たちを招待し、会をグルッペ47にあやかり「リューベック05」と名付けた。しかしこの会をグルッペ47の後継集団とは位置付けず、「我々にはリヒターはいない。40年代や50年代にドイツを支配していた状況に、今は較べるべくもない。」と述べている。


クルテラニスモ(西:Culteranismo ゴンゴリスモ

 

クルヒト(蘭:Klucht

 オランダにおいて、中世後期(14世紀)から近世にかけて人気を博した笑劇。世俗劇であるアべーレシュペーレンの後に上演されたため、”Nachspiel”(幕切れ後の小演劇)の一種でもある。好んで取り上げられた題材は、「ずる賢い女」や「寝取られた夫」や「間抜けな農夫」などであり、こうした題材を、猥雑さも交えた平易な言葉で自由に風刺した。1516世紀には、オランダやフランドルの作家ギルド(「レーデリカース」(Rederijkers)が「エスバテメント(Esbatement)」として広め、後のスペインの「エントレメス」、フランスの「ソチ」そしてドイツの「謝肉祭劇」の原型となった。




クロコディーレ(独:Die Krokodile

 19世紀後半のミュンヘンに結成された詩人サークル。19世紀に入り、バイエルン王国首都であったミュンヘンは国王ルートヴィヒⅠ世の方針により、芸術都市へと衣替えを図っていたが、その子マクシミリアンⅡ世により、北ドイツの著名な文化人が当地に招聘された。当地には既に紳士社交クラブ「ミュンヘン無制約会(Zwanglose Gesellschaft München)が存在し、作家のE.ガイベル(Geibel)P.ハイゼ(Heyse)が相次いでミュンヘンに移住し、このクラブに入会した。会員たちは王命による「シンポジウム」と呼ばれる公式な芸術集会を持ったが、ハイゼやガイベルは、自らがベルリンで属していた文芸サークル「シュプレー川に架かるトンネル(Tunnel über der Spree)」のミュンヘン版を目指し、別に詩人だけの文芸サークル「クロコディーレ」を1856年に立ち上げる。会の名称は、同じく創立メンバーであったH.リンク(Lingg)の詩「シンガポールのワニ」で歌われる年老いたワニの枯淡の風情にあやかったものである。他の著名なメンバーとしては、F.ボーデンシュテット(Bodenstedt)F.ダーン(Dahn)J.グロッセ(Grosse)A.F.v.シャック(Schack)W.ヘルツ(Hertz)H.ロイトホルト(Leuthold)J.V.v.シェッフェル(Scheffel)らが挙げられる。
 
会では、(ガイベルは「古代ワニ」、ハイゼは「トカゲ」など)動物に由来する会員名を名乗るメンバーたちにより、文学談議や、新作の発表が行われたが、メンバーたちに共通する文学観は、ゲーテやホメロスに象徴される古典主義的・保守的な文学像であり、詩人を崇高な芸術を生み出す俗世から超越した至高の存在と自任し、形式を重視し、台頭著しい写実主義の政治性や、時には醜悪さも厭わないその描写態度を否定した。そのため、彼らの創作は、後世では一種のエピゴーネンと見なされ、ガイベルやハイゼの作品を除いて、現在はほぼ忘れられた存在となっているが、彼らによる東洋や中世のモティーフの翻案や、翻訳作品の中には(ボーデンシュテットやヘルツなど)、今日でも一定の評価を得ているものがある。大パトロンであるマクシミリアンⅡ世の死(1862)と共に会はその存在意義を大きく失い、その後は一部の有志により縮小した形で1882年まで存続した。

 

クローズド・サークル(英:Closed circle

 ミステリ用語のひとつで、事件(多くは殺人事件)の起きた空間が外界と完全に遮断された状態であることを指す。クローズド・サークルを扱う作品は、」所謂「密室もの」に属するが、「人里離れた別荘」とか「絶海の孤島」といった孤立空間の持つ恐怖感を高めた作品を特にこう呼ぶ。容疑者全員もこの空間の外には出られず、結末では探偵が容疑者全員の前で謎解きをするパターンが多い。代表的な作品にアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』(1939)やエラリー・クイーン『シャム双生児の謎』(1933)などがある。
 

クローゼット・ドラマ(英:Closet drama)→ レーゼドラマ

 

グロテスク(伊:Grottesco / 英:Grotesque

 15世紀末にその壁面装飾が発見され、ラファエロがバチカン宮殿の装飾に取り入れたため有名となったローマ市内の古代宮殿地下遺構「グロット」(宮殿名「ドムス・アウレア」)を語源とする。したがって、もともとは美術・グラフィック用語であるが、ロマン主義以降特定の文学ジャンルに対しても用いられるようになった。下劣な滑稽さ、無能ぶり、おぞましさ、不条理さなどを諧謔やユーモア(ブラック・ユーモア)や風刺を交えて描き上げる文学を指し、人間理性を謳い上げる文学の対極に置かれる。グロテスク文学は中世から現れていたと考えられるが(シェイクスピア『テンペスト』[1612])、シュトゥルム・ウント・ドランク時代を経てロマン主義に全盛期を迎え、その代表的作家としてはE.T.A.ホフマン、マーク・トウェイン、ポー、キャロルなどが挙げられる。
 グロテスクはまた、作品以外にも作中人物を指す場合もあり、典型的なグロテスク人物としてはカジモド
(ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』[1831])やフランケンシュタイン(シェリー(『フランケンシュタイン』[1818])、或いはアリスが迷い込んだ不思議の国の住人たち(キャロル『不思議の国のアリス』[1865])などが挙げられよう。20世紀に入ってもグロテスクは衰退することなく、カフカ(『変身』[1915])やオコナー(『善人はなかなかいない』[1955])などの作品にその傾向が顕著に見られる。現代ポーランドにおいては不条理前衛文学の一ジャンルとしてグロテスクが復活し、ブルーノ・シュルツやヴィトルド・ゴンブローヴィチなどが有名である。
 

グロテスク・リアリズム(英:Grotesque realism

 ロシアの文芸理論家バフチンが『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(1965)で指摘した中世民衆文学の一特徴。ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-52)やセルバンテス『ドン・キホーテ』(1605-1615)全編を覆う「笑い」は、束縛の多い中世社会において、「ガス抜き」としてのカーニバル性を有する笑いだが、その本質は近代社会以降の笑いで扱われる「風刺」や「皮肉」といった意味合いを含むものではない。そこでの笑いは、高貴なもの、精神的なもの、抽象的なものが、低俗で、則物的で、具象的なものへと「格下げ」されることにより生じる笑いなのであって、具体的にはスカトロジーや卑猥な表現、或いは罵詈雑言などが挙げられる(いわば「下らない笑い」とも呼べよう)。こうしたおおらかな笑いに中世民衆社会は満たされており、ここから豊かな中世文化が生み出されていったとバフチンは説き、このような笑いに裏打ちされた文学をグロテスク・リアリズムと名付けた。従って一般に用いられる19世紀後半に全盛期を迎えた「写実主義」と関連する用語ではない。我が国でも、『古事記』(712)や各『風土記』(8世紀前半)に描かれる神々のユーモラスな立ち振る舞いには、グロテスク・リアリズム的な側面が見て取れる。
 

グローブ座(英:Globe Theatre

 シェイクスピアの本拠地劇場。1598/99年、シェイクスピアの所属する劇団「国王一座」により、テムズ川南岸のサザック地区に建設された。円形の劇場は、舞台と周囲の桟敷席上にのみ天井を有する半野外劇場である。2本の柱で支えられた舞台天井には「グローブ(地球)」の名にふさわしく天球図が描かれていた。舞台前の半円形野外観客席は入場料が最も安く、中流以下の市民が立ち見で観劇した。劇場全体の収容人数は約3000人である。建設以来、シェイクスピア劇の多くを初演したが藁葺き屋根であったため、1613年、『ヘンリー八世』上演中に火事となり焼失した。翌年再建されるものの、1642年奢侈を禁じた「清教徒革命」のあおりを受け閉鎖、44年には取り壊される。以来劇場は忘れられ、その正確な立地場所も現代に至るまで不明だったが、アメリカの俳優サム・ワナメーカーの主導により1989年立地場所が判明、1997年、そこから60メートル離れた場所に3代目のグローブ座が当時の構造を忠実に模して再建された(もとの場所には既に歴史的建造物が建っていたため)。したがって、現在のグローブ座は、1666年のロンドン大火以降初めて建設された藁葺き屋根の建築物になる。ロンドン以外にもこの劇場を模した劇場は世界中に建設され、アメリカ(サンディエゴ、オデッサ、アシュランド、ダラス、ウィリアムスバーグなど)、ドイツ(ノイス、シュベービッシュ・ハル)、イタリア(ローマ)、チェコ(プラハ)、スウェーデン(キルナ)そして東京(「東京グローブ座」)などに存在する。
 

クワトロチェント ドゥエチェント

桂冠詩人(羅:poeta laureatus / 英:Poet Laureate/ 独:Dichterkrönung

文芸の神アポロが水の精ダフネから愛に代わって月桂樹を受け取ったという神話に端を発する詩人への桂冠授与は、古代ローマ時代より皇帝の名において執り行われ、一旦衰退したものの、中世ヨーロッパで復活した。その際には桂冠授与権は皇帝のみならず、大学にも拡大された。『桂冠詩人』は„Poeta Caesareus laureatus“(『皇帝桂冠詩人』)の称号を名乗ることが許され、あらゆる大学で文学・弁論術の講義を担当する資格を有し、最高の名誉と君主による庇護、並びに自由が保障された。中世に入るとイタリアにおいて詩人への桂冠授与は稀となるが(1341年のローマ元老院によるペトラルカへの授与は有名)、古代ローマ皇帝の後継者を任じる神聖ローマ皇帝は、この桂冠授与に執着し、人文主義時代後半から桂冠詩人の数は増加し始める。C.ツェルティス(Celtis)は1487年にドイツ人として初の桂冠を受けたが、この後J.ロッヒャー(Locher:1497)やフッテン(Hutten:1517)にも授与された。更に皇帝の代官(Pfalzgraf)に桂冠授与権が認められると、桂冠授与は一定のラテン語著作業績を前提とする事務的な応募制となったため、桂冠が乱発される結果となり、称号の権威は16世紀以降著しく失墜した。その頃の桂冠詩人で現在もその名を残す者は、僅かにマルティン・オーピッツ (Opitz:1625年授与)とヨハン・リスト(Rist:1644年同)程度に過ぎない。しかし、ドイツにおいてこの制度自体は19世紀まで存続し、最後の桂冠詩人は1804年に授与されたカール・ラインハルト (Reinhard:G.A.ビュルガー全集の発行人)である。
 ただし、イギリスに限り、桂冠詩人は単独終身制を取ったためにその権威を失うことがなく、第2代ベン・ジョンソン
(Jonson:1616年授与:初代桂冠詩人バーナード・アンドレ(André)は僧であり、形式的な称号授与)からドライデン(Dryden:1688年同:宗教上の理由ではあるが、彼は英文学史上桂冠詩人を剥奪された唯一の詩人である)やワーズワース(Wordsworth:1843年同)やテニスン(Tennyson:1850を経て、現在はS.アーミテージ(Armitage:2019年)が在位している。一方アメリカでは、1937年からアメリカ議会図書館により桂冠詩人が年ごとに選出され、図書館のコンサルタント的な存在として報酬付き(年間35,000ドル)で詩の普及活動に努めている。近年になり、1962年に、ラテン語詩の創作で著名であったテュービンゲン大学教授ヨーゼフ・エベルレ(Eberle)に同大学から桂冠が授与されたが、皇帝のいない現代ドイツにおいては、ひとつの文学的アトラクションと理解するべきであろう。
 


敬虔主義Pietismus / Pietism

 ルターによる宗教改革から150年ほど経た後、硬直化した教理主義や儀礼主義に陥ったプロテスタントの正統神学を批判する立場で、17世紀後半から18世紀にかけてのドイツで勢力を得たプロテスタントの一派。キリスト教本来の信仰に根差した宗教的日常生活の遂行を目指し、教理により外的に規定されることのない、主体的な敬虔性を重視した。敬虔主義の先駆者としては、『真のキリスト教精神の4冊の書』(Vier Bücher vom wahren Christentum:1605-09)を著したJ.アルント(Arndt)が挙げられるが、その実質的な始祖はルター派牧師のF.シュペーナー(Spener)であるとされる。彼は著作『敬虔な願い』(“Pia desideria”:1675)で、ルター派の原点である「万人祭司主義」(信者全員が祭礼を司る「祭司」と成り得、特別な聖職者はいないとする教理)への回帰を説き、信者たちに禁欲的な生活と積極的な教会との関わりを勧め、自宅での集会(Collegium pietatis[信心の時間])を定期的に開き、敬虔主義思想を広めていった。その後、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの前身となる教育・文化施設「フランケ財団」を設立したA.H.フランケ(Francke)により、敬虔主義は教育界へと拡大された。更にはJ.A.ベンゲル(Bengel)や、F.C.エティンガー(Oetinger)らがヴィッテンベルクで信者集会を盛んに催したが、シュレジエンのツィンゼンドルフ伯爵領に移り住んだヘルンフート派の「モラヴィア兄弟団」(Herrnhuter Brüdergemeine)がハレ敬虔主義の牙城となり、本質的には芸術を礼賛しはしなかったものの、その主体的、内省的信仰態度より、自らを深く見つめ直す心理描写を旨とする新時代の文学創出に影響を与えた。ここから告白調の自伝や、日記小説・書簡体小説の発展を見ることになる。その影響はシュトゥルム・ウント・ドランクを経て啓蒙主義、ロマン主義、そして現代にまで及び、J.C.ラーヴァター(Lavater)F.G.クロプシュトック(Klopstock)G.E.レッシング(Lessing)C.M.ヴィーラント(Wieland)F.シラー(Schiller)J.M.R.レンツ(Lenz)J.C.F.ヘルダーリン(Höldelin)、或いはゲッティンゲンの森の詩社や、Th.マン(Mann)の『ブッデンブローク家の人々』(1901)にも影響が認められる。

 敬虔主義がとりわけ大きな影響を与えた作品としては、K.Ph.モーリッツ(Moritz)の自伝的小説『アントン・ライザー』(1785-90)が名高い。従来にはない、主人公の内面的心理描写に重点を置いた本作は、「教養小説」の初期タイプにも分類されるが、主人公は成長に失敗するため、「負の教養小説」と見なされる。また、モラヴィア兄弟団に深く関わり、母方の身内であった宗教家ズザンナ・フォン・クレッテンベルク(Klettenberg)を青年期に知ったゲーテは、『ヴィルヘルム・マイスターの就業時代』(1795-96)の第6巻に、彼女をモデルとする自伝的エピソードを「美しき魂の告白」と題して挿入している。「美しき魂」(schöne Seele)とは、ツィンゼンドルフが用いてから敬虔主義の常套句となった表現で、「就業時代」と全く関係のないこの話が、何の脈絡もなくここに挟まれること自体、ゲーテも敬虔主義の影響を深く受けていたことを物語るものである。

 

傾向文学(独:Tendenzdichtung

広義の「傾向文学」とは、社会における様々な問題を個別に取り上げ、文学作品の中でそれらに対し明確な意見を主張することであるが、その意味では芸術のための芸術l’art pour l’art)」に属さない一般の文学作品を、すべて広義の「傾向文学」と見なすことも可能である。だが、狭義においては、特定の政治的・宗教的・社会的思想を大衆に宣伝するために執筆された文学作品を指し、代表的なジャンルとしては「風刺文学」、「政治小説」、「ユートピア文学」、「プロレタリア文学」などが挙げられる。作品が有する傾向性と文学性は元来別個のものであるため、傾向文学が他文学に較べ文学性に劣るとは決して断定できないが、特にソビエトのプロレタリア文学など、メッセージ性を文学性に優先させた例も数多く見られる。他方、伝統のある風刺文学などでは執筆当時の批判性が社会の変化した現在では薄れ、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726)やゴーゴリの『検察官』(1836)のように、その文学性により高く評価されている作品もある。
 

形而上派詩人(英:Metaphysical poets

 17世紀のイギリス・バロック文学期に登場した詩人集団。主に恋愛や宗教を、コンシートと呼ばれる突飛な比喩や飛躍した論理を用いて謳い上げた彼らの詩は、その奇抜さで注目を浴びた。(多くの詩は、愛や不貞や死などといったアレゴリーたちの繰り広げる対話で構成された。)したがって、「形而上学」に彼らの詩が直接関係するわけではなく、「抽象的な絵空事をいたずらに謳い上げる詩人」として、後のサミュエル・ジョンソンが『英国詩人伝』(1781)で彼らを批判的に形而上派と呼んだのが始まりである。同時期のイギリス内戦時及びそれに続く「空位時代」(1642-1660)に現れた王党派詩人たちの、軽妙洒脱な優雅さを旨とする世俗歌とは好対照を成す。形而上派詩人たちは、ジョン・ダンを始祖として、ジョージ・ハーバート、アンドルー・マーヴェル(Marvell)、リチャード・クラショー(Crashaw)エイブラハム・カウリー(Cowley)、ヘンリー・ヴォーン(Vaughan)らがそれまでの伝統的な言い回しや韻律を打破するべく活躍したが、ダンと同年のベン・ジョンソンには、その革新的な韻律が批判され、先のサミュエル・ジョンソン同様、ドライデンにも「形而上学や哲学気取り」と攻撃され、17世紀末には衰退した。しかし、近代になりエリオットの『形而上詩人論』(1921)を契機として、モダニズム文学の遠い源流として再評価されるに至っている。
 

芸術家小説(独:Künstlerroman

 ドイツにおける小説ジャンルとして、教養小説の一分野を形成するジャンル。天才の出現を待望したシュトゥルム・ウント・ドランクに端を発し、芸術家を人間本来の姿として礼賛したドイツ・ロマン主義において発展した。従って、そのまま「キュンストラーロマーン」と表記される場合も多い。ある芸術家(大抵天才的芸術家)の創作活動と私的生活、社会的交流などが描かれ、芸術家の芸術的使命と社会的義務の内面的葛藤にスポットが当てられる場合が多い。その際当該芸術家が実在の人物であるかどうかは余り重要ではない。ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』(1776)、メーリケ『画家ノルテン』(1832)、ジョイス『若き芸術家の肖像』(1916)、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』(1904-12)、トーマス・マン『ヴェニスに死す』(1912)、モーム『月と六ペンス』(1919)、『ファウストゥス博士』(1947)、ロベルト・シュナイダー『眠りの兄弟』(1992)などが有名である。また、戯曲においても同様の「芸術家劇」(Künstlerdrama)が現れ、ゲーテ『トルクヴァート・タッソー』(1790)、グリルパルツァー『サッフォー』(1818)、アルフレッド・ド・ミュッセ『ロレンザッシオ』(1834)ゲルハルト・ハウプトマン『ミヒャエル・クラーマー』(1900)などが名高い。
 

芸術のための芸術(仏:L’art pour l’art

 1804年にコンスタンにより規定され、1818年にヴィクトール・クザンにより再び注目され、テオフィル・ゴーチェが1835年に自らの小説の序で言及した芸術の自律性に対するスローガン。社会的実利性や外的な美的判断を超越し、外部からの要因には影響を受けず、ひとえに制作者の美的感性のみを頼みとして(自らのみを目的として)生み出される芸術を指す。すなわち、芸術は芸術であるがゆえに充足しており、他の如何なる目的も必要ないのである。文学に関していえば、傾向文学」のアンチテーゼといえる。「芸術のための芸術」はパルナス派耽美主義、あるいは象徴主義に特徴的な芸術観であり、芸術家を「象牙の塔」に象徴される孤高の存在に囲い込む基本理念となった。しかし、フロベールやボードレール、オスカー・ワイルド、シュテファン・ゲオルゲらは耽美主義にも通じるこの理念を奉じて成功した詩人たちである。このスローガンは、時に「役立たず」の意味で否定的にも使われる。大衆向き娯楽映画製作会社であるアメリカのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作映画のオープニングに吼えるライオンが登場することは有名だが、奇妙なことに、このスローガンのラテン語訳ARS GRATIA ARTIS“が、ライオンを取り囲む金色のフィルムの上部に刻印されている。
 

啓蒙主義(英:Enlightenment / 仏:Lumières / 独:Aufklärung

 啓蒙思想を背景として17世紀から18世紀にかけて流行した文学運動。従って、他の多くの文芸思潮と比較して思想性の強い啓蒙主義は、造形美術や音楽などといった芸術分野には殆ど影響を与えることはなく、それが文学思潮の変遷が他の芸術思潮の変遷と同調しない一因となっている(啓蒙主義文学が興隆する間、絵画ではバロックやロココや新古典主義が流行した)。啓蒙思想とは、ライプニッツやデカルトの合理主義、ロックやヒュームの経験主義、あるいは三権分立を唱えるモンテスキューの法哲学、ルソーの社会契約論、カントの観念論、更には人間中心主義を唱えるルネサンス精神など、極めて多様な思想を内包する総合的な思想体系であるが、その本質は、理性的精神をもって人間を蒙昧(特に教会によって形成される偏見)から解き放とうとする点にある。そして文学は、啓蒙思想を民衆に広める「教育の道具」とされた。啓蒙主義文学においては「解放」がひとつの合言葉とされ、特に演劇に関しては、それまで専ら貴族階級のための娯楽となっていたものが、フランスにおける「町民劇」や、ドイツにおける「市民悲劇」の創出など、その観客対象を市民階級にまで拡大してくる。作家も主に貴族からなる執筆依頼者層から解放され、市民も含めた広範な読者層の需要に応じて執筆する形態となった(18世紀前半には、文芸雑誌も発行され始める)。啓蒙主義時代には、他にも数多くの文学ジャンルが創出された。教育的効果を強調した形態としては、「寓話」が注目され、ゲレルトの作品群(174648)が人気を博した。書簡体小説」も再評価され、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(1721)は、当時のフランス社会を外国人の目から見た形で風刺している。書簡体小説は、以降リチャードソンの『パミラ』1740でも効果的に利用されるが、ゲーテ『若きヴェルターの悩み』(1774)では、啓蒙主義からの脱却のために利用されることとなる。また、伝記文学もルソーの『告白』(176570)により近代へとつながる新時代を迎えた。近代ユートピア文学の先駆ともみなすべき作品も啓蒙主義のもとに書かれており、それは、ルイ・セバスチャン・メルシエの小説『2440年、またとなき夢』(1771)である。他の散文作品においてもこの時代は極めて多用な作品群を生み出した。デフォー『ロビンソン・クルーソー』(1719)に始まるロビンソナーデ」、スウィフト『ガリヴァー旅行記』1726)に代表される近代旅行文学、フィールディング『トム・ジョーンズ』(1749)を生み出した社会小説、メタフィクション作品の走りであり、その語りの技法においては現代文学さえも先取りするスターンの『トリストラム・シャンディ』(1760-67)、そして最初の教養小説とされるヴィーラントの『アーガトン物語』(1766)とそれに続くカール・フィリップ・モーリッツの『アントン・ライザー』(1785)などがその例である。
 啓蒙主義において散文作品の中心地がイギリスであったのに対し、戯曲の中心地は町民劇」を生み出したフランスであった。ただ、当時の作品は大部分が忘れられ、現在も尚上演される作品はボーマルシェ『フィガロの結婚』(1778のみである。この作品は平民を主人公とし、貴族社会を茶化した喜劇だが、ドイツでは啓蒙思想を奉じるゴットシェートが市民階級への文学的啓蒙を唱え、市民悲劇」誕生の下地を準備した。その代表作であるレッシング『エミーリア・ガロッティ』(1772)、やシラー『たくらみと恋』(1784)は貴族の横暴を描いた悲劇であり、市民階級と貴族階級の相克が啓蒙主義文学の重要なテーマのひとつといえよう。更にレッシングは『賢者ナータン』(1779)で宗教的寛容性を訴え、理想的な啓蒙主義作品を生み出した。また、ディドロは、雑誌『文芸通信』にパリの美術展についての評論(「サロン評」)を連載した(175981)が、これが近代美術批評の始まりとされている。そして文学とは一線を画するが、啓蒙主義最大の知的遺産は、上述のディドロやダランベールが中心となり、ルソーやモンテスキューやヴォルテールを始めとして200名以上の知識人が参画して編まれた大百科事典『百科全書』(正式名称『百科全書、あるいは科学・芸術・技術の理論的辞典』:1751-1772)であることが衆目の一致するところである。



ゲオルゲ・クライス(独:George-Kreis

 ファン・ド・シエクルのミュンヘンにおいて、詩人シュテファン・ゲオルゲを中心として形成された詩人・芸術家・研究者集団。1890年頃の結成当初は素朴な詩人サークルであったものが、ゲオルゲが機関誌ともいえる耽美主義的文芸誌「芸術草紙(Blätter für die Kunst)」を創刊(1892)すると共に、次第に彼を「マイスター」と呼び、カリスマ的指導者として崇拝する秘密結社的集団へと変貌していった。初期の会員には、P.ジェラディ、C.フォン・フランケンシュタイン、K.バウアー(画家)、C.A.クライン、K.ヴォルフスケール、R.ペルルス等が挙げられる。更に世紀転換期には「ミュンヘン宇宙論サークル」で有名なA.シューラーとR.クラーゲスが加わった。サークルは、ゲオルゲが1889年に知己を得たマラルメに代表される象徴主義を信奉し、文体に極度にこだわった耽美的で高踏的な作品を「芸術草紙」に発表した。1899年には、後にドイツ最高の権威の一人となる若き文学研究家F.グンドルフ(当時19)も加わるが、彼とゲオルゲは同性愛関係にあった。
 ゲオルゲは、グンドルフに限らず、才能豊かな青年に取り囲まれることを好んだが、1905年頃には、そうした若者としてE.モルヴィッツ(法律家)R.ベーリンガー(後のゲオルゲの遺品管理者)が参加した。1910年頃にはP.ゴテインが、1923年頃にはW.フロメルが重要メンバーとなるが、とりわけゲオルゲの寵愛を受けた青年は、16歳で夭折した詩人マクシミリアン・クロンベルガーであり、彼はゲオルゲにより神話的存在にまで昇華された。この他に、同じく著名な歴史学者として後に名を馳せるエルンスト・カントロヴィッツもゲオルゲのお気に入りであった。彼の主著は、ゲオルゲに触発されて著した『フリードリヒ2世』である(1927:後述)。尚、1991年末に当時23歳のゲオルゲは、18歳のホーフマンスタールとカフェ・グリーンシュタイドゥルで知り合い、彼をクライスに執拗に誘うが、最終的に彼からは断られている。当然のごとく女性はほぼ排除されていたが、そうした点も含めてゲオルゲ・クライスは世間からの批判も絶えず、会員に個人崇拝を求めるゲオルゲは、“Weihenstefan“(「聖別」を意味する“Weihe“を用いた合成語だが、実際にはビールの商標名:「シュヴァービングの伯爵夫人」との異名を取ったF.z.レベントローによる綽名)と揶揄されたりもした。しかしクライスは、ドイツ文学に確たる足跡も残しており、3巻からなるアンソロジー『ドイツ文学』(Deutsche Dichtung1900-1903)により、ジャン・パウルやゲーテの新解釈を試み、特にヘルダーリンを再発見した功績は大きい。
 ゲオルゲ・クライスが重視した言葉に、「秘めたるドイツ」(„Geheimes Deutschland“)があり、ゲオルゲ最後の詩集『新しい国』(1928)にも同名の詩が収録されている。「秘めたるドイツ」とは、通常は現実のドイツに隠れて姿を現さないが、然るべき審美眼を備えた限られた者だけが感得し、視覚化できるとし、その「限られた者」こそゲオルゲ・クライスであるとした。「秘めたるドイツ」が一種のドイツ精神であることは明らかであり、カントロヴィッツによれば、ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世より連綿と密かに受け継がれてきたという。しかし、この精神が、何を具体的に表すのかは極めて曖昧である。こうした「真の」ドイツ精神の発揚という目的や、色濃く打ち出されている選民思想という点において、ゲオルゲ・クライスはナチス思想への先導者であったという指摘が、W.ベンヤミンやテオドール・W.アドルノやTh.マンらによってなされている。
 ただ、ゲオルゲ自身は、権力を掌握したナチスが詩人への接近を図るものの、政権に協力する態度を見せたわけではない。また1944720日のヒトラー暗殺未遂事件の首謀者であったクラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクはクライスの有力メンバーであり、事件の前には何度もゲオルゲの詩集『7番目の輪』(1907)中の詩「反キリスト」を朗読したという。(「反キリスト」は、この世に「悪魔の王」が降臨し、騙され従った民が、世の終末を迎える際で初めてその恐ろしさに気付く様を描く。)


劇中劇 紋中紋


結句反復(英:Epistrophe / 仏:Épiphore / 独:Epiphora

 文や句の末尾において、同じ語や句を繰り返すことにより、印象を高めようとする修辞技法。韻文、散文、詩歌、戯曲、小説、演説等を問わず、古来より極めて多種多様に用いられてきた技法だが、特に聖書を始めとした宗教文で多用される傾向がある。この反対が、同様の先頭語を反復する「首句反復」である。

例:When I was a child, I talked like a child, I thought like a child, I reasoned like a child. ( the Bible: 1 Corinthians 13:11)

government of the people, by the people, for the people  (Abraham Lincoln: Gettysburg Address[1863])

  ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ/わたしにつながる にんげんをかえせ/にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを/へいわをかえせ (峠三吉:『原爆詩集』)

 

結実協会独:Fruchtbringende Gesellschaft)< 国語協会




ゲッティンゲンの森の詩社Göttinger Hainbund

 1772912日ゲッティンゲンに設立された文学者集団。主なメンバーはヨハン・ハインリヒ・フォス〈Johann Heinrich Voß〉(『イリアス』や『オデッセイア』やシェイクスピア劇の翻訳で有名)、ルートヴィヒ・ヘルティ〈Ludwig Hölty〉やヨハン・マルティン・ミラー〈Johann Martin Miller〉、フリードリヒ・ツー・シュトルベルク=シュトルベルク〈Friedrich zu Stolberg-Stolberg〉、ハインリヒ・クリスティアン・ボイエ〈Heinrich Christian Boie〉らで、会に賛同する人物にゴットフリート・アウグスト・ビュルガー〈Gottfried August Bürger〉やフリードリヒ・フーケ〈Friedrich de la Motte Fouqué〉(ロマン主義小説『ウンディーネ』[1911]で有名)らがいた。彼らはゲッティンゲン大学の学生であるか、ボイエが発行した文芸誌『ゲッティンゲン文芸年鑑』(“Göttinger Musenalmanach“)への寄稿が縁で知り合った若い文学者たちである。彼らは当時のドイツ文学に支配的だった外国文学(特にフランス文学)の模倣や啓蒙主義的な創作態度を批判し、その代表的作家と看做されたヴィーラントを糾弾し、対して愛国的且つ感傷主義的で高邁な理想を掲げる詩人クロプシュトックを礼賛した。(会の名称“Hainbund“とは、クロプシュトックのオードの題名Der Hügel und der Hain“[「丘と森」]から取っている。)会は1773年のクロプシュトックの誕生日(72日)に詩人を賛美する式典を開き、同時にヴィーラントの著作や肖像を焼き捨てるなど過激なデモンストレーションを行うなど、新たなドイツ独自の文学を模索した。その反合理主義、自然崇拝、激情性は、直後にゲーテ・シラーらにより勃興した「シュトゥルム・ウント・ドランク」に直結するものだが、会員たちがこの文学運動と積極的に連携した形跡はなく、会は1775年、会員の学生達が大学を卒業してゲッティンゲンを離れると消滅してしまう。結局会が残した最大の業績はヘルティとビュルガーが創始した、トマス・パーシー『古英詩拾遺集』(1765)を範とする伝承によらない「芸術バラッド」(„Kunstballade“)であり、このバラッド形式は「シュトゥルム・ウント・ドランク」以降も創作される。つまるところ、会は時代の精神を忠実に反映した若者たちによる、ひとつの「現象」であったともいえよう。

 

孤韻(独:Waise

 韻文詩中に現れる、韻を踏まない詩行。韻を表わす記号では、”x”或いは”w”で表記される。12世紀ドイツのミンネゼンガーたちによって使用され始め、職匠歌人たちによって歌われた15世紀の職匠歌でも盛んに利用された。三行連句(テルツァ・リーマ)の2行目で使われる例が代表的なものである。

例:

Under der linden  (菩提樹の下)

an der heide (茂みのきわに) 

dâ unser zweier bette was (私たち二人のベッドがあった)

dâ mugt ir vinden (するとあなたも見ることでしょう)

schône beide (美しい二人が)

gebrochen bluomen unde gras (花や草を押し倒す様を)

vor dem walde in einem tal! (谷間の森のはずれで)

Tandaradei  (タンダラダイ)

schône sanc diu nahtegal.  (ナイチンゲールが美しく鳴いていた。)

ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ”Unter der linden”[13世紀初頭]

上の例は、テルツァ・リーマが3連続き、最後の連の2行目に孤韻が現れる。この詩の押韻を記号化すると、abc/abc/dwdとなる。


高貴な野蛮人Noble savage

 古代ギリシア・ローマ時代における「野蛮人」とは、例えばアルプス以北に住むケルト人やゲルマン人や東方のペルシア人など、自民族以外の民族を指したが、中世以降のヨーロッパではアフリカ・アメリカ先住民など、ヨーロッパが認識し始めた地域の住民を指すようになる。近代になり、モンテーニュやルソーなど西欧文明への批判、自然への回帰を模索する思想が生まれると、文明に毒されておらず自然と同化した状態の「野蛮人」に高貴なイメージを付与する動きが現れてくる(同様の思想的背景のもと、別方向に発露した文学ジャンルに「牧歌」が挙げられる)。「高貴な野蛮人」という名称は、ドライデンの戯曲『グラナダの征服』(1670)に初めて現れるが、その先駆けを扱った作品としては、アフリカの王族でありながらイギリス植民地で奴隷となった主人公と美しい娘の悲恋を描くベインの『オルノーコ』(1688)が挙げられよう。高貴な野蛮人の概念はロマン主義の台頭と共に注目を浴びるが、この分野で特に成功した作家といえばジェームズ・F・クーパーとカール・マイといえる。クーパーは『モヒカン族の最後』(1826)が有名な「レーザーストッキング(革脚絆)物語」5部作により、後の西部劇の原型を作り出し、西部劇に登場するインディアンも、「インディアン嘘つかない」の台詞で知られるように常に高貴な野蛮人として描かれる。マイのアメリカ西部や東方を舞台とする冒険小説には、アパッチ族の首領ヴィネトゥを始めとする高貴な野蛮人たちが数多く登場するが(『ヴィネトゥ』[1878])、また同時に当時のヨーロッパで支配的だった未開民族蔑視の思想も否定できない。
 

後期ロマンス劇(英:Late romances

 17世紀初頭に書かれたシェイクスピア晩年の戯曲群の総称。一般的に『ペリクリーズ』(1608)、『シンベリン』(1610)、『冬物語』(1611)、『テンペスト(あらし)』(1612)の4作品を指すが、ジョン・フレッチャーとの合作と看做されている『二人のいとこの貴公子』(1614)をここに含める場合もある。当時台頭してきた悲喜劇の一種で、○主要人物の流浪や冒険、○家族の別離の後の再会、○許されぬ恋とその成就、などといったテーマが魔術的・幻想的世界を背景に描かれ、様々な悲劇的事件の後に大団円を迎えるのが特徴である。ロマン主義的色彩は、『夏の夜の夢』(1596)や『十二夜』(1600)など前期や中期のシェイクスピア喜劇も色濃く有しているが、後期ロマンス劇は悲劇的要素や宗教性、更には親子を柱とする道徳性も加わることによって作品に独特な味わいが生まれている。これらの作品は長年、荒唐無稽な夢物語としてシェイクスピア作品中で軽視される傾向にあったが、近代以降再評価が進んでいる。
 


交錯配列法(英:Chiasmus

 修辞技法の一種で、表現したい概念の印象をより深め、ダイナミックに表現するために、同類の語群(文法上の同類の品詞群、或いは意味上で同様の意味を表す語群)を文中で反転・対称的に配置する技法。「交差配列法」、「交差並行法」或いは「交差対句法」などとも呼ばれる。2行に分ければ、語群がクロスする形で現れるため「交錯配列」と呼ばれ、古代ギリシア文字のΧ”に対応するラテン文字”ch”から標記の名称となった。単純な配列は「ABBA法」と呼ばれ、例えば名詞と形容詞を用いた交錯配列法であれば、”Eng ist die Welt und das Gehirn ist weit.”(「世の中は狭く、頭脳は広い。」:シラー『ヴァレンシュタイン』[1799])/”By day the frolic, and the dance by night.”(昼間はどんちゃん騒ぎ、夜はダンス」:S.ジョンソン『欲望の虚しさ』[1749]) Le matin est neuf, neuf est le soir.”(「朝は新しく、新しいのは夜」:デスノス『ドゥマン』[1942)など数多い。ここに動詞など他の語群が入り、ABCCBAなど、複雑化していく場合もあり、特に古代ローマ文学や旧約聖書では、高度な交錯配列法が用いられた。この配列法が、語間に留まらず、文章間、更には作品のモティーフ間において用いられることもあり、そのような技法を特に「交錯配列構造」(“Chiastic structure”) と呼ぶ。以下は、旧約聖書「創世記」に現れる交錯配列構造 (ABCDED’C’B’A’) の例である。

A: 神は7日待って、地上に雨を降らすと告げる。(7:4)

B: 7日待った後、洪水が起こる。 (7:10) 

C: 水は40日間地上を覆う。 (7:17) 

D: 150日間水が引かない。(7:24) 

E:  神はノアを御心に留めている。(8:1) 

D’': 150日の後、水が減る。(8:3) 

C’':  40日後、ノアは箱舟の窓を開き、鳩を放つ。 (8:6) 

B’': 鳩が帰ってきたので、7日待って再び鳩を放つ。(8:10) 

A’': 鳩はまた帰ってきたので、7日待ってまた放つ。 (8:12) 

 


構造主義(仏:Structuralisme / Structuralism / 独:Strukturalismus

 1950年代から70年代にかけてフランスを中心に全ヨーロッパに広がり、人文科学及び社会科学に大きな影響を与えた哲学思想。その始祖は、「一般言語学講義」(ジュネーブ大での講義名、19061911開講、1916弟子により刊行)を講義したフェルディナン・ド・ソシュールであるとされ、その影響を受けたロシア・フォルマリズムやプラハ学派を経てレヴィ・ストロースの構造主義人類学(『悲しき熱帯』[1955])により一大分析批評・認識手法として確立した。その後は精神分析学(ラカン)、マルクス主義哲学(アルチュセール)、文芸批評(バルト)、歴史学(フーコー)など、多分野において応用され、各分野でフランスに綺羅星のごとく優秀な研究者が現われた。発生こそ他地域ながら、これほど重大な思想潮流を唯一国が独占的に主導した例は他に類を見ない。
 ソシュールが唱えた構造主義の本質は、「単語の音声(記号表現:シニフィアン)と意味(記号内容:シニフィエ)の関係は、擬音語など特例を除いて恣意的なものであり、椅子を意味する単語が日本語で『イス』と発声されるのに必然的な理由はない。ただ、『イス』が椅子として認識されるのは、それが『イヌ』とも『行く』とも発音が違うからであって、他の単語群(記号体系)が存在するが故に『イス』は椅子として認識されるのである。」という考えである。すなわち、個は体系(=構造)の認識なくして認識し得ない。個が認識されるのは、他の個との「差異」の認識によるものだ、とする思想である。そしてソシュールは、各言語を一つの記号体系(ラング)と捉え、個人個人が実際に話す会話(パロール)と区別し、ラングを言語学の研究対象にするべきと唱えた。そして、こうした言語の記号体系、つまり言語の構造を研究する言語学は、現在用いられる言語を研究する意味で「共時言語学」とされ、従来の言語の歴史的な変遷を探る「通時言語学」とは一線を画されたのである。従来の人文科学は、高度な知能を有する人間の築き上げた業績を、創造した人間を主体として通時的に探求する学問であったが、構造主義はその概念を根底から覆し、未開社会や、無意識世界や、歴史の中などにも人間が意識的に創り上げたものではない体系=構造を見出した。(従って現実の人間存在を重視する実存主義と構造主義は全く相容れない思想であり、この点を争ったサルトルとレヴィ・ストロースの1962年の論争は有名である。)文学における構造主義は物語の類型分析より始まり、ロシア・フォルマリズムに属したウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』(1928)がその先駆とされる。それまで研究対象として常に組み込まれていた「作者」が、ここでは対象から外され、作品は独立したテクストとしてその構造が分析されたのである。こうして物語の内容や語りの方法を研究するナラトロジーが、トドロフやバルトを経て、ジュネットにより大成された。構造主義は、人類が有する様々な制度・文化・思想の構造を解明しようとした。ただ、それらは西欧社会に綿々と存在し続けた伝統的構造であり、それらの構造に支配された人間では価値の多様化する現代に対応し切れず、事実現代にあってはそうした構造も流動化する(例えばシニフィアンとシニフィエの関係は固定化してはいない)と主張するポスト構造主義が20世紀に入り誕生する。
 

降誕劇(独:Krippenspiel / 英:Nativity play

 宗教劇の一種。キリストの誕生を描く。降誕劇は復活祭劇と同様の経緯で、同劇にやや遅れて10世紀頃、ミサでの掛け合いの歌詞(交誦:トロープス)から発生したと考えられている。伝承によると1223年のクリスマスに、中部イタリアのグレッチオで、アッシジのフランチェスコ(フランシスコ会の創設者)が実際の人間や家畜やまぐさ桶を用いてミサに寸劇を執り行い、これが確認し得る降誕劇の直接の原型と見なされている。(フランチェスコの降誕劇は、同時にキリスト生誕の活人画[厩の中でマリアとヨゼフに見守られ、まぐさ桶に横たわる幼子イエス、三博士の訪問、夜空に煌く導きの星など]の創始ともされ、「クリブ(英)」、「クレシュ(仏)」、「クリッペ(独)」などと呼ばれるこのジオラマは、現在もクリスマスの飾りとして一般的である。)以降フランシスコ会を中心に降誕劇はヨーロッパ中に広がり、イギリスに残る神秘劇集「ヨーク・サイクル」にもキリスト生誕を描いた劇があることから、14世紀にはイギリスでも演じられていたことが分かる。キリストの各場面を描く劇は、最終的に受難劇に包括されていくが、他の宗教劇がルネサンス期を境に衰退する中、降誕劇はクリスマスを彩る格好の寸劇としてその後も存続し続け、現在でもクリスマス前夜に行われるミサで、子供たちにより降誕劇が演じられる場合は少なくない。
 

高踏派 パルナス派

 


古喜劇(希:αρχαία κωμωδία / 英:Old Comedy)

 古代ギリシアにおいて、喜劇が悲劇同様「古代ディオニューシア祭」での奉納上演を許されたのは紀元前487年であり、この年以降、ギリシア喜劇は公に認知され「古喜劇」(アッティカ古喜劇とも呼ばれる)の時代を迎える。この時代は紀元前400年頃まで続いた。祭礼における正に「無礼講」をこの古喜劇は体現しており、自由奔放な作風を旨とし、コロスは作品のテーマに応じて「鳥」や「蛙」といった変装も厭わず、政治や権力者に対する辛辣極まりない風刺や罵詈雑言や、時には破廉恥と隣り合わせになるほどの猥雑さも持ち合わせた。
 古喜劇での著名な作家としては、古喜劇を大成したとされるクラティーノス(『酒瓶』[
423BC]など、ディオニューシア祭優勝6回、レーナイア祭[ディオニューシア祭の一種だが、それに準じた格式の演劇祭]優勝3回)、早世の天才詩人で、時の政治家を揶揄しまくり、アリストパネスの好敵手となったエウポリス(『市区』[412BC]など、ディオニューシア祭優勝4回、レーナイア祭優勝3回)などが挙げられるが、彼らの作品で完全なものは何一つ伝えられていない。対して11篇を現代に残す作家がアリストパネス(ディオニューシア祭優勝最低2回、レーナイア祭優勝最低4回)であり、そのためもあり、彼は古喜劇の代表的作家と見なされている。彼の活動時期は、ペロポネソス戦争の時期(431404BC)とほぼ重なり、そのため戦争をテーマにした「平和3大作」(『アカルナイの人々』[425BC]、『平和』[421BC]、『女の平和』[411BC])などで、戦争を主導したクレオーンら時のデマゴーグ(扇動政治家)を手厳しく風刺した。また、『雲』(423BC)では、ソクラテスを「ソフィスト」(詭弁家)と見なして嘲笑し、『女だけの祭り』(411BC)では、当時の大悲劇詩人エウリピデスを痛快に嘲っている。特に『女の平和』は、「女物三大作」(他は『女だけの祭り』と『女の議会』[393BC])のひとつであり、男たちが繰り広げる戦争を止めさせるために女たちがセックス・ストライキを行うという、極めて自由奔放な発想に基づいた喜劇であり、現代でもそのモティーフは新鮮である。古喜劇は、アリストパネス以降、権力者に向けられたその豪快な風刺性を潜め、一般市民生活を微笑を込めた皮肉と共に描き出す新喜劇(323BC260BC) へと移行していく。古喜劇と新喜劇の間に「中期喜劇」を認める場合もあるが、完全に伝承されている作品は一作もない。



国王一座(英:The King's Men

 エリザベス朝演劇時代(1558-1603)において最も成功を収めたロンドンの劇団。1594年設立。1603年に新国王ジェームズ1世が即位するまでは当時の式部長の名をとり「チェンバレン一座」(Lord Chamberlain's Men)と称した。この劇団が現在にもその名を残しているのは、ひとえにシェイクスピアが劇団の俳優・脚本家・共同所有者であったためである(彼自身が演じた役は、『ハムレット』の亡霊役など専ら端役だった)。国王の庇護を受けた劇団は劇場「グローブ座」を有し(ロンドン中心部の上流階層向け劇場「ブラックフライヤーズ座」も所有)、バーベッジ〈Richard Burbage〉(シェイクスピア劇の多くの初演で主役を演じた最初の著名なシェイクスピア俳優)を始めとする優秀な役者陣を擁し大いに栄えたが、1642年清教徒革命の影響により解散した。
 

国語協会Sprachgesellschaft

 国語の浄化と洗練化を目的として結成された団体。その原型は、フランス文学に古代ギリシア・ローマ文学に負けぬ言語的崇高性を付与するべく1549年に始動したプレイヤッド派に見られ、続いて1635年に設立された「アカデミー・フランセーズ」もフランス語の純化を最大の使命とした。だが、純然たる国語協会の最古のものは、イタリア・フィレンツェに1583年に設立され、初めて国語辞書編纂を行った「クルスカ学会(Accademia della Crusca)」であるとされる(現在も存続)。特に中世まで正書法が確立していなかったドイツにおいてドイツ語浄化の要求は高く、このクルスカ学会を模範に取り、アラモード文学が台頭し始めた1617年に、その対抗勢力として、「結実協会(Furchtbringende Gesellschaft)」がヴァイマールで結成された(その紋章が椰子であったため、「椰子の木会[Palmenorden]」とも呼ばれる)「結実協会」は「クルスカ学会」より一段階手前の目標である標準ドイツ語とドイツ語正書法の確立に大きく寄与したが、名称 人間社会にドイツ語の大きな実をもたらす木 からして「クルスカ学会」の影響が強く認められる(クルスカとは「麦かす」のことでイタリア語から「かす」を除くという喩え)
 同学会に倣い、結実協会会員(貴族及び富裕市民からなり、最盛期には
500人を数えた)は各々「牧人名(Schäfername)」と呼ばれた呼称と象徴紋、それに標語を持った。例えば創始者であるヴァイマール公爵ルートヴィヒ・フォン・アンハルト=ケーテン(Anhalt-Köthen彼はクルスカ学会の会員でもあった)の牧人名は「養育者」( „Der Nährende“)、象徴紋は「こんがりと焼けた小麦パン」、標語は「最上無比」(„Nichts Besseres“)といった具合である。これらは原則として、会員の特徴から採られたが、バロック詩人マルティン・オーピッツ(Opitz)は桂冠詩人であることから「戴冠者」(„Der Gekrönte“)と呼ばれた。この後も同様の様々な国語協会がドイツには結成され、著名なものとしては、1644年にニュルンベルクに設立された「ペグニッツ花の会(Pegnesischer Blumenorden)」、1656 或いは1658年にエルベ川下流のヴェンデルにおいてヨハン・リスト(Rist)が設立した「エルプシュヴァーネン会(Elbschwanenorden)」が挙げられる(リストは「ペグニッツ花の会」及び「結実協会」の会員でもあり、牧人名を「ベグニッツ花の会」では「キンブリ[古代北欧ペ一部族]のダフニス[Daphnis aus Cimbrien]」、「結実協会」では「壮健者[Der Rüstige]」と名乗ったこうした協会には統一ドイツ語による統一ドイツへの願望も明らかに存在しており、自国の安寧しか念頭になかった当時の封建領主に較べ、はるかに巨視的な愛国心を内包していた。ただ、まもなく正規の事業 外国文献の翻訳 において必要以上に外来語のドイツ語化を行い(„Fieber“ „Zitterweh“„Grotte“ „Lusthöhle“など)、ロマンス語に対するドイツ語の優越性を探ろうとするなど、こうした協会には近代的愛国心に常に伴う「ドイツ至上主義」の萌芽が見て取れる。
 

国民文学(独:Nationalliteratur

 18世紀後半、ヘルダーやヴィーラントにより導入を推奨され、直後のドイツ・ロマン主義がひとつの目標に定めた文学。それまでは自分の居住する領邦を「国家」と見なしていたドイツ人の中に、ナポレオンの侵攻により初めて包括的な「ドイツ国民意識」が目覚め、ドイツ国民固有の文学を模索する動きが強まった。それは、ドイツ文学のフランス文学やイギリス文学からの解放も意味しており、国民文学は国民的伝統を踏襲しながらその精神を反映し、国民文化の根幹を形成しなければならないとされた。また、国民文学の提唱と共に、その発表の場として、国民劇場」の設立も要請され、ハンブルク(1767)、ウィーン(1776)、マンハイム(1779)などに国民劇場が次々と設立された。しかし、本質的に統一国家が成立していなかった当時のドイツにおいては、国民文学の提唱は時期尚早であり、19世紀前半まではゲーテが提唱した世界文学」構想が優性であった。その後高まる国民文学創造の要請の中で、レクラム文庫」も創立され、最大の国民文学とされたのは、やや皮肉なことだがゲーテの『ファウスト』(1808-33)である。「国民文学」も「世界文学」も現在では議論の対象となる概念ではないが、現代において「ドイツ文学」と「オーストリア文学」、あるいは「イギリス文学」と「アメリカ文学」は国民文学の観点から明確に区別される一方、世界中の文学がマス・メディアやコンピュータ・ネットワークの発達により影響を及ぼし合うことで、本格的な世界文学時代が到来したということもできる。
 

国民劇場(独:Nationaltheater

 18世紀後半ドイツに生じた国民文学」創造の気運と連動して誕生した劇場。それまでの本格劇場の主流であった「宮廷劇場」や「王立劇場」に対して、「一般国民を対象とし、国民固有の芸術文化を保護し芸術教育を推進する機関」となるべき使命を負うとされる。また、国民文学を育成する目的から、国民劇場ではフランス演劇からの脱却も目指した。最初の国民劇場はレッシングが1767年にハンブルクに設立した劇場であるが、完全な民間運営であったため、早くも翌年には閉鎖されている。その後、国家の代表的劇場であるウィーンのブルク劇場(1776)や、マンハイム宮廷劇場(1779)が、次々と「国民劇場」の名称を追加した。(この意味での最初の国民劇場をフランスのコメディー・フランセーズ」とする説もある。)ただ、ドイツ演劇の中心地であるベルリンは、当時の国王フリードリヒⅡ世(大王)が大のフランス文学贔屓であったため、王立劇場であったジェンダルメン劇場が国民劇場の名を冠するには、王が没するまで(1786)待たなければならなかった。これらの劇場の中でゲーテ・シラーの作品を数多く初演し、「国民劇場」として最も名高いのは「ヴァイマール・ドイツ国民劇場」であるが、宮廷劇場であったこの劇場が「国民劇場」の名を冠したのは意外と最近で、1919年のことである。
 

古今論争 → 新旧論争

 

ゴシック小説(英:Gothic fictionGothic romanceGothic novel

  鬱蒼とした古城、僧院、廃墟、館などを背景とし、超自然的な現象を描写して読者に戦慄や恐怖を与える小説。ホラー小説の一分野と見なされる。創始者はイギリスの作家ホラス・ウォルポールであり、彼の『オトアルト城』がゴシック小説と呼ばれた初めての作品である。著名な政治家の息子であったウォルポールは、金持ちの道楽として1747年ロンドン郊外ストロベリー・ヒルにゴシック風別荘を建設したが、そこで見たという夢をもとに中世イタリアを舞台とした『オトアルト城』を執筆し、1764年に発表した。この作品は架空イタリア作家の翻訳ものとして発表されたが評判を呼び、再販時に真の作者名と「ゴシック物語」という副題がつけられた。ゴシック小説が当時のイギリスで人気を呼んだ背景としては、歴史的文化に富んだイタリアや、峻厳なアルプス山脈を当時のイギリス上流階層は初めて知ることになり、自国になかった自然・文化の崇高性に強い憧れを抱いたせいであると考えられる。彼らの理想的文化はライバルであったフランスが築いてきた均整のとれたそれではなく、アンバランスな中にも威厳を秘めた「ピクチャレスク」(不規則性の集合としての美)的なゴシック様式の中に求められたのである。
 ゴシック小説は、その完全な虚構性から、当時は男性ほどに社会性を持たない女性読者の人気を特に集めた。そうした中で、クレアラ・リーブ(『美徳の戦士』
[1777])、アン・ラドクリフ(『ユードルフォの謎』[1794])といった女流ゴシック小説作家が登場し、以降文学に女性も積極的に関わっていくこととなる。(1847年に出たブロンテ姉妹の名作『ジェイン・エア』[シャーロット]、及び『嵐が丘』[エミリー・ジェイン]もゴシック小説的要素を多分に含んだ作品である。)ゴシック小説の系譜はその後イギリスのみならず各国に広がり、サド侯爵(『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』[1791])、マシュー・グレゴリー・ルイス(『修道僧』[1796])、E.T.A.ホフマン(『悪魔の霊薬』[1815])、メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』[1818])、エドガー・アラン・ポー(『アッシャー家の崩壊』[1839])(米文学が実質的な発展を見せ始めるのは、ゴシック小説を契機とするといっても過言ではない)、ロバート・ルイス・スティーブンソン(『ジキル博士とハイド氏』[1886])、ガストン・ルルー(『オペラ座の怪人』[1910])など、20世紀前半にまで繋がっている。また、21世紀初頭の我が国でオタク系ファッションとして流行した「ゴシック・ロリータ(ゴスロリ)」は、ゴシック小説中に登場するメイドの衣装にロリータ趣味を加味したものとされる。
 

古典主義(英:Classicism / 仏:Classicisme / Klassik

 古代ギリシア・ローマ時代を範に取り、調和・均整を旨とする芸術思潮。「古典主義」は芸術全般を最も広範に覆った思潮ということができ、文学を始めとして造形美術、音楽に亙り大きな影響を及ぼした。ただ、ヨーロッパにおける伝播は一様ではなく、各国では異なる時代にそれぞれの古典主義が繁栄した。用語の混乱も見られ、英語のclassicism”に対応するドイツ語のKlassizismus“は、“Klassik“とほぼ同時期に流行した主に造形美術(絵画、彫刻、建築)での「新古典主義」を指すか、文学においては啓蒙主義時代に流行した「古典の模倣」文学を指す。逆に英語、フランス語での“classic / classique“はそのまま「古典」を指す場合が多い。
 ラテン語の“classicus“(「最上の」)を語源とする古典主義は、古典作品の自由闊達な精神に立ち戻ろうとしたイタリア・ルネサンス人文主義にその萌芽を認めることができるが(ただ、後に文学規範に縛られ偏狭の代名詞ともなる古典主義を鑑みれば、こうした「原古典主義」の精神は全く別物と断ずるべきであろう)、古典主義が早期に意識され、且つ最も緻密な発達を見せた地域はフランスである。フランス古典主義全盛期は、ルイ14世が親政を始めた1661年から約20年間(それ以降は国の軍事費増大に伴い、王も芸術を全面的に庇護できなくなった)とされているが、1635年に公的な国語協会として保守的なアカデミー・フランセーズが設立されてから、ルイ14世の治世が終了する1715年までを広義のフランス古典主義時代と見なす事が可能であろう(1637年に起きた「ル・シッド論争」では、このコルネイユ作品について「三一致の法則」等、古典主義的文学規範が問題にされており、当時の文壇が既に古典主義の影響下にあったことが窺える)。この間フランス古典主義を育成した中心的な機関は、先述のアカデミー・フランセーズや、パリ・オペラ座(1671創立)及びコメディー・フランセーズ(1680創立)などである。古典主義時代には三大劇作家として讃えられるモリエール、ラシーヌ、コルネイユを始めとして、『箴言集』(1665)のラ・ロシュフコー、随想集『パンセ』(1670)のパスカル、『寓話詩』(166878)のラ・フォンテーヌ、心理分析小説『クレーヴの奥方』(1678)のラ・ファイエット夫人、『カラクテール(人さまざま)-当世風俗誌』(1688)のラ・ブリュイエールなど、後世のフランス文学を代表する作家が綺羅星の如く輩出し、さながらフランス文学全体の黄金期の様相を呈した。フランス古典主義は、明確な文学理論が土台となった最初の文学思潮であり、アリストテレスの『詩学(前335)を金科玉条と奉じ、文学に美的な享楽作用と同時に、道徳的な教育作用を強く求めた。特に演劇においては様々な規範が定められ、その代表的なものとしては、「三一致の法則」、「身分規範(悲劇は王侯・貴族社会、喜劇は平民社会を描く)」、「ブレサンブランス(真実らしさ)」(これらの規範は『詩学』の拡大解釈による)それに「プレシオジテ(礼節)」(この規範は当時流行の緒にあった文芸サロンからの影響)などが挙げられる。フランス古典主義は、絶対王政の確立とも密接な関連があり、政治同様、芸術にも安定を求めた(その象徴として、人工的な均整美を追求したフランス式庭園が挙げられよう)。そして文学においては、標準フランス語の確立と並んで、文学作品の「完成形」を模索した運動であるともいえる。その副作用として、18世紀に入ると文学作品は規範に縛られ硬直化し、一種の真空状態に陥った。そのような停滞感を打ち破るのは、1830年の「エルナニ戦争」によるロマン主義の台頭を待たねばならない。したがってフランスにおいては、「ル・シッド論争」から「エルナニ戦争」に至るまで200年間に亙り古典主義が一定の文学的な影響力を保ち続けていたのである。
 隣国ドイツは、17世紀には土着性の強いバロック文学が最盛期を迎えており、古典主義がフランスより輸入されるのは18世紀前半になってからのことである。その立役者はゴットシェートであるが、彼は「シュヴルスト」に代表されるような陰鬱さや誇張や装飾に溢れた後期バロック文学を批判し、標準ドイツ語の確立やプレシオジテも提唱しながら、模範をコルネイユやラシーヌ作品やボワローの『詩学』(1674)に求めた。ゴットシェートは、こうして18世紀前半にはフランス古典主義の輸入によりドイツ演劇の刷新や地位向上に貢献し、絶大な影響力を誇ったが、その余りに杓子定規なフランスへの追随ぶりや、英文学の否定により、18世紀中頃には頑迷な俗物文学者として文壇からは糾弾され、彼の主張は古典主義ならぬ「フランス古典主義」を模倣した「擬古典主義」と呼ばれる。ドイツに真の古典主義が生まれるのは19世紀転換期のヴァイマールにおいてであり、ゲーテがイタリアに旅行し古典の真価に目覚めた1786年から、盟友シラーが亡くなる1805年までが「ヴァイマール・クラシック」と呼ばれる。この時期のヴァイマールには、アンナ・アマーリア大公妃の招きでヴィーラントやヘルダーなども居を定め、「シュトゥルム・ウント・ドランク」から脱却し均整の取れた文学による「美的教育」を標榜したからである。ゲーテ・シラーの共同作業時代のみ(17941805)を「クラシック」と呼ぶ説もあるが、いずれにせよ、ドイツにおける古典主義は少人数によるごく短期間の思潮であった。
 また既に自国の文学スタイルを確立していたイギリスは、ドイツと異なり無批判に古典主義を輸入することにはならなかった(逆に、「プレシオジテ」は、リリーの小説『ユーフュイーズ』[157880]から生まれた優雅な文体「ユーフュイズム[華麗体]の影響を大きく受けている)。特に演劇にはシェイクスピアという偉大な規範が既に存在しており、フランス古典主義劇が入り込む余地はなかった(シェイクスピア劇は三一致の法則を完全に無視している)。イギリスに古典主義が芽生えるのは、王政復古の1660年以降の詩の分野とされているが、その先鞭をつけたのは、ウェルギリウスら古代ギリシア・ローマ詩人の翻訳を手がけたドライデンであり、更に彼の影響を受け「英雄対句」を発展させたポープによりイギリス古典主義は完成した。この後1770年頃まで古典主義は継続するが、ドライデンやポープから窺えるように、端正なウィットに富んだ風刺精神を背景にしている点が、イギリス古典主義の大きな特徴である。その点でデフォーやスウィフトを古典主義に加える向きもある。古典主義が明確に認められる他の地域としては、1730年から70年頃にかけてのロシアが挙げられよう。この時期のロシアには、ピョートル大帝の西欧化政策の流れを汲み、ロシア文章語の改革を提唱した「ロシア文学のピョートル大帝」ミハイル・ワシリエヴィチ・ロモノーソフや、フランス古典主義に則った劇『ホレフ』(1750)を書き「北方のラシーヌ」と讃えられたアレクサンドル・ペトロヴィチ・スマローホフなどが現れた。
 

五人組宣言(仏:Manifeste des cinq

 エミール・ゾラが1887年に発表した『大地』に対して、同年818日付「フィガロ」紙に掲載された公開書簡。ポール・ボンヌタン、J.H.ロニー、リュシアン・デカーヴ、ポール・マルグリット、グスターヴ・ギッシュの5名の作家の連名によるため、「5人組宣言」と呼ばれるが、「J.H.ロニー」はボエックス兄弟の共同ペンネームであるため、実際には6人の賛同によるものである。1860年前後に生まれた6人は、ゴンクール兄弟世代、ゾラ世代に続く「自然主義の第三世代」とも称され、ゾラを師と仰ぐ若手作家たちであるが、ゾラの文学的才能を高く評価するものの、ゾラ作品に描かれる退廃性と拝金主義が作品の価値を損ねていると批判した。この宣言で6人はゾラ流の社会と人間の醜悪な部分を抉り出す自然主義的手法と訣別しようとしたわけで、自然主義自体を否定したわけではない。しかし、アナトール・フランスなどもこの批判に同調したため、フランスにおける自然主義文学はこの事件を機に衰退の道を歩むこととなった。
 

コネチカット才人ハートフォード才人


コノテーション(英:Connotation

 「含意」、「判示」と訳され、ある表現が有する明示的な意味の他に、その表現に社会規範上付与された副次的な意味を指す(例えば「政治家」という単語が持つ「不実な人間」という否定的な意味など)。反対語は「明示的な意味」を表す「デノテーション」(”Denotation”)。単語単位で用いられることが多いが、複数文章単位にも用いられ、その場合にはサブテクスト」との境界が曖昧になる。コノテーションは詩歌を主体とした文学作品に頻繁に利用され、翻訳やパラフレーズにおいて失われる傾向にある。(対してサブテクストはこれらの作業では失われない。)
 

コミックリリーフ(英:Comic relief )

喜劇以外のシリアスな作品において、深刻な場面が余りに長く続くと、観客や読者も疲れてしまうため、時折場の雰囲気を和ませ、観る者に「息抜き」を与えるために設定された滑稽な人物や場面や会話。古代ギリシア演劇においては、コミックリリーフは「サテュロス劇」という形で独立しており、悲劇の後の「口直し」として上演された。即ち、ホラティウスが『詩論』(BC19頃)の中でも主張したように、悲劇と喜劇は古来より別個に上演されるのが常で、悲劇中に喜劇的場面を挿入する行為はタブーとされていたが、イギリス・ルネサンス期大学才人の一人であるクリストファー・マーロウが、『フォースタス博士』(1592)に喜劇的要素をふんだんに取り込んだことにより、この伝統を打破するに至る。その後はシェイクスピアが彼の四大悲劇にことごとくコミックリリーフを盛り込むなど、この手法はごく一般的なものとして、現代の文学や演劇や映画などで頻繁に利用されている。代表的なものを以下に挙げる。

『ハムレット』(1601)での墓堀りの場面(第5幕第1場)、『マクベス』(1606)での門番の場面(2幕第3)、『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル:1871) のトゥイードルダムとトゥイードルディー、『ハリー・ポッター』(ローリング:1999)のフレッドとジョージ・ウィーズリーの双子兄弟など。この他にも映画では『アナと雪の女王』(ディズニー:2013)の雪だるまのオラフや『スター・ウォーズ』(ルーカス:1977)のロボットC-3POR2-D2、オペラでは『ドン・ジョバンニ』(モーツァルト:1787)の従者レポレロや『トゥーランドット』(プッチーニ:1926)の臣下ピン、パン、ポンなど、枚挙に暇がない。



コメディー・フランセーズ(仏:
ComédieFrançaise

 フランス・パリに拠点を置く国立劇場。フランスで「国立劇場」(Théâtre national)の称号を持つ5つの劇場のうち、唯一固定したアンサンブルを擁する。(「コメディ-」とは喜劇ではなく、「演劇」の意味であり、本劇場は、演劇全般を上演する劇場である。)1680年、それまでパリにあった二つの劇団(ゲネゴー一座、ブルゴーニュ一座)を統合するべくフランス国王ルイ14世の勅命により設立された。モリエール(Molière)、ラシーヌ(Racine)、コルネイユ(Corneille)、スカロン(Scarron)、ロトルー(Rotrou)といったフランス劇作家らの作品を主なレパートリーとするが、特にモリエール作品を十八番としたことで「モリエールの家」とさえ呼ばれ、フランス古典主義の形成に大きく寄与した。フランス革命後の1793年には閉鎖され、役者たちは逮捕されるが、99年にパレ・ロワイヤル横リシュリュー・ホールで再開された。1830225日にここを舞台に起きた『エルナニ戦争』は、ロマン主義の到来を世間に知らしめた文学事件である。コメディー・フランセーズは以降もフランス演劇界をリードし続け、現在は3つの劇場を有し(リシュリュー・ホール、ヴュウ・コロンビエ劇場、スタジオ劇場)3000以上のレパートリーを誇る。
 

コメディー・ラルモワィヤーント(仏:Comédielarmoyante

 「お涙頂戴喜劇」の意。18世紀半ばのフランスに生まれた喜劇の一ジャンル。ドイツで直後に生まれた市民悲劇」同様、古典主義の一大原則であった、悲劇=王侯貴族社会を舞台とした深刻な物語、喜劇=市民社会を舞台とした軽妙な物語、という不文律の打破を目指す。すなわち、市民悲劇が市民社会を舞台とした悲劇を描いたのに対し、コメディー・ラルモワィヤーントは当時のヨーロッパ文学に流行した感傷主義の影響のもと、喜劇に深刻な物語性を付与し、勧善懲悪のハッピーエンドにはなるが、親子の愛情など涙を誘う感動的な状況を殊更に強調した。その代表的作家は、マリボーやデストゥーシュなどであるが、とりわけピエール・クロード・ニヴェール・ド・ラ・ショーセーはこの喜劇ジャンルのパイオニアと目されている。我が国の現代演劇における「松竹新喜劇」なども日本版コメディー・ラルモワィヤーントといえよう。悲劇的側面も含むコメディー・ラルモワィヤーントは、程なく市民悲劇誕生の呼び水となる。

暦物語Kalendergeschichte

 中世ドイツで民間に流布した「民間暦」(Volkskalender)から派生した短編小説。民間暦は、1718世紀ドイツにおいては、聖書と聖歌集以外では唯一ともいえる無学な民衆のための読み物であって、そこには暦以外に星占いや、健康への助言や、生活の知恵や、料理レシピなどが記載されており、更には娯楽に供するべく、短い物語(逸話、寓話、伝説、滑稽話など)も併載された。この物語は、民衆生活の中で繰り広げられる奇妙な出来事を主に扱ったが、最後に「落ち」が付けられるのが約束である。17世紀のH.J.Ch.v.グリンメルスハウゼン(Grimmelshausen)に代表されるように、物語は民衆の娯楽と共に、道徳の普及や迷信払拭といった民衆教育の役割も担ったが、次第に洗練され、19世紀初頭に現れたヨハン・ペーター・へーベル(Hebel)により完成する。1811年に刊行された『ラインの家庭の友の玉手箱』(„Schatzkästlein des rheinischen Hausfreundes“)は、彼が民間暦『ラインの家庭の友』に書き続けた物語のアンソロジーであり、平易な語り口でありながら巧妙な構成からなるこれらの短編小説群により、暦物語は民衆暦から独立した短編小説ジャンルとして成立するに至った。収録作品『思いがけぬ再会』(“Unverhofftes Wiedersehen“)は、現在でも最も有名なドイツ短編小説のひとつである。その後も、J.ゴットヘルフ(Gotthelf)、B.アウエルバッハ(Auerbach)、G.ケラー(Keller)、L.アンツェングルーバー(Anzengruber)ら民衆生活描写を得意とする作家たちが秀作を残すが、20世紀に入り、B.ブレヒト(Brecht)が、単なる平穏な道徳譚に留まらない『暦物語』(1949)を書き、戦後世界への期待を表明したことが特筆される。


コラージュ(仏:Collage)< モンタージュ

コロス
(希:
χορός / 英:Chorus

 古代ギリシア劇に欠かせない「合唱」を詠じ踊るための合唱隊。当初は彼らが登場し、歌い踊る舞台を指したが、後にそうした彼らの群舞を指す語となり、最終的に彼ら自身の名称へと変遷し、舞台は「オルケストラ」と呼ばれるようになった。コロスは神々を讃える詩を歌い踊り、そこから「劇」が発生したと見られている。従って初期ギリシア劇には登場人物が一人しかおらず、劇の主な情報(背景、人物の秘密、テーマ、注釈など)はコロスが歌いながら提供した。つまり初期ギリシア劇は対話によるというより、独白が連続する詩に近いものだったといえよう。この構造を初めて改革し、二人目の登場人物を創作したのが前5世紀のアイスキュロス(『テーバイ攻めの七将』[467]など)である。彼以降、劇の中心的構成要素は対話となっていった。コロスも「全知の語り手」としての地位を前5世紀以降徐々に下げ、登場人物と観客の仲介者の立場に収まり、前4世紀の新喜劇を代表する作家メナンドロスなどは、コロスを極力目立たぬように創作している。古代ギリシア劇場は屋外の広大な円形劇場であるため、コロスの動きも大仰であり、ユニゾンの合唱形式を取った。隊員は悲劇では12人から15人登場し素顔だったが、喜劇の場合は24人用意され、登場人物同様仮面をつけた。コロスは現代舞台において見直されており、特にミュージカルやオペラの中にそのまま合唱隊として取り入れられる場合が多い。また、20世紀初頭ドイツの表現主義演劇(トラー)で導入され、我が国でも流行した「シュプレヒコール」(合唱形式の台詞)にもコロスの影響が認められる。
 

ゴンゴリスモ(西:Gongorismo

 16世紀後半から17世紀前半に活躍したバロック期のスペイン詩人ルイス・デ・ゴンゴラ(Góngora)の文体を模倣した文学流派。技巧を凝らし比喩や修辞的技法をちりばめ、ラテン語も交えて造語した華麗な詩句を用い、単純な事柄でも極めて回りくどく表現することを好んだ。それゆえ、「ひけらかしの教養主義」の意である「クルテラニスモ(Culteranismo:文飾主義」と呼ばれる場合もある。ただ鬱蒼とした神秘的・高踏的なその文体はバロック期にヨーロッパ中で共感され、イタリアのマリニズモ、イギリスのユーフュイズムフランスのプレシオジテドイツのシュヴルストなど所謂マニエリスム文学に大きな影響を与えた。だが、スペインにおいてはゴンゴリスモへの批判も16世紀後半には既に巻き起こり、切れのいいリズム、短い言い回しでの直接的な表現、機転の利いた比喩・言葉遊び(コンシート)を多用した「コンセプティスモ(Conceptismo:既知主義)」が生まれ、その代表作家であるフランシスコ・デ・ケベードは、ゴンゴラを激しく攻撃した。ゴンゴリスモは17世紀後半には廃れるが、ゴンゴラの作品は、『孤独』(1614)を始めとして前世紀に入り再評価が進んでいる。

コンシート(伊:Concetto / 西:Concepto / 英:Conceit

 和訳名「奇想」。通常の文学的発想の範疇を逸脱した奇抜な連想、特に比喩(メタファー)。アリストテレスは詩学(前335の中で、比喩について、たとえられる物とたとえる物には概念的な開きがあり過ぎてはいけないと諭しているが、コンシートはぎりぎりの限界まで比喩を乖離させる。こうして文章に、宗教的、霊的、或いはエロティックな領域などでのより深い表現性を与え、更には気の利いた風刺性まで付与するのである。(例えば、「愛する君と僕は、二人の血を吸った蚤の体内で結ばれたんだ」と詠うジョン・ダンの詩『蚤』[1635]など。)コンシートは既にペトラルカの恋愛詩に認められる場合もあるが、本格的に台頭するのは16世紀後半のことである。すなわち、マニエリスムの残るイタリアやスペインでコンシートは発達し、17世紀に全ヨーロッパへと広まった(ここでのコンシート[奇想]をペトラルカのそれと区別して「形而上的奇想」とも呼ぶ)。その結果この技法は、マリニズモゴンゴリスモなどバロック文学を特徴づける重要な表現技法となり、この技法を多用する流派はイタリアではコンツェッティスモ(Concettismo)スペインではコンセプティスモ(Conceptismo)、ドイツではコンツェプティスムス(Konzeptismus)と呼ばれた。こうした流派の代表的作家としては、イタリアのエマニュエル・テサウロ(彼は、「文学の目的は読者を驚かせることにある」という言葉を残している)スペインのバルタサール・グラシアン、或いはイギリスのジョン・ダンなどが挙げられる。特にイギリスにおいては、ダンを始めとしてコンシートを駆使したウィットや衒学、あるいは宇宙論にまで発展する壮大な「けれんみ」を特徴とする詩人たちが17世紀に現れ、彼らは後に「形而上派詩人」(絵空事をふりかざす詩人)と呼ばれ批判された。
 


コンスタンツ学派(独:Konstanzer Schule)→ 受容美学




コンツェッティ(伊:concetti

17世紀イタリア文学に現れた巧妙な比喩や、語呂合わせや、撞着語法を始めとする奇抜な言い回し等の総称。17世紀前半に活躍した詩人ジャンバッティスタ・マリーノが多用し、彼の名を冠した文学流派「マリニズモ」を特徴づける修辞技法である。その例を以下に挙げる

口が口とぶつかりに行き、口づけが口づけと互いに打ち合いに行く時、魂は深遠な悦びにとらわれ、あたかも飛び去るかのように、翼を広げる。魂に降り注ぐ甘美さを、狭い胸は小さな壺のように収めきれないので、唇に注ぐのだ。そして、魂自体が喘あえ ぎながら唇に死ににゆく。」(マリーノ:『アドーネ』[1623]第八歌)

コンツェッティは、イタリア文学のみならず、ヨーロッパ・バロック文学全体に影響を与えた。




コンフレリ・ド・ラ・パッシオン(仏:Confrérie de la Passion

 1398年に結成されたパリ市民からなる受難劇劇団。1402年にシャルル6世から勅許状を得、受難劇の上演を許された。「受難劇組合」と訳される。その後、ソチ(茶番劇)を上演する「アンファン・サン・スーシ”Enfants sans souci”)、並びに宗教劇上演の勅許を受けた宮廷法務官からなる演劇ギルド「バゾッシュ」(”Basoche”)と大衆人気を競い、世俗的要素も取り入れた受難劇を上演するプロ演劇集団へと発展した。神秘劇との融合を目指した大規模受難劇を得意とし、神秘劇では一般的な3分割舞台を用いて上演した。当初はパリ郊外のサン・モールで、その後の1539年からは文芸ホテルとして有名なパリの「オテル・ド・フランドル」(現「オテル・デ・トロワ・コレージュ」)を、そして1548年からはブルゴーニュ公の館を改築した「オテル・ド・ブルゴーニュ劇場」(パリ最初の常設劇場)を本拠地としたが、その受難劇が余りに下卑ていたため、同年上演禁止命令を受ける。その後も度々議会の弾圧を受けたが、劇団は1615年まで存続した。




コンメディア・デッラルテ(伊:Commedia dell'arte

古代ローマ喜劇(一説には道化喜劇「アテルラナ)に起源を持ち、ミーモスパントミーモス、或いは笑劇の流れを汲むファルサを経てルネサンス期( 16世紀中頃)の北イタリアで発祥した喜劇様式。「デッラルテ」とは「同業者組合の」という意であり、したがってこの用語は「職業俳優による喜劇」を指す。コンメディア・デッラルテは17世紀には全ヨーロッパに広がり、とりわけフランスでは人気を博した。この喜劇の最大の特徴は、登場人物が「ストック・キャラクター」と呼ばれる役に類型化されている点である。主なキャラクターは仮面を付けており、そのタイプは以下のとおりである。
以下に紹介する人物たちを「ザンニ」といい、召使や女中といった下層階級に属する人物たちで、性格も様々である。
○アルレッキーノ:観客に人気の道化役。お調子者だが、性悪ではない。他の登場人物を打ち据えるための棒(「バトン」)を持っている。猫の面を被り、赤・緑・青のまだら模様の衣装を着ている。フランスではアルルカン、イギリスではハーレクインと呼ばれる。
○プルチネッラ:同じく道化役であるが、だまされやすい性格である。鷲鼻の黒いマスクを被り、白い外套を着ている姿で現れることが多い
○コロンビーナ:下層社会出身の娘、大抵女中か料理女を演じる。 気取りがなく、快活で享楽的な女性である。その愛くるしさにしばしばブリゲラなどが魅了される。彼女は仮面を被らないことも多い。
○ブリゲラ:狡猾で策略に長け、利己的な若い男。他人を自らのために働かせるのを好む。
○パリアッチオ:白い仮面をつけるか、白く顔を塗るなどして登場。白く大きすぎるガウンを着ており、後のピエロの原型とされる。ずけずけとものを言うが、実は気が小さく、最後によくお仕置きされる。
以下に挙げる人物たちは「ベッチィ」と呼ばれ、裕福な上流階級に属する者たちである。彼らには皆高慢であることが共通している。
○パンタローネ:金持ちだが強欲な老人。男らしさと精力の象徴として大きな股袋(コドピース)を股間に付けている。差し出がましく、若い女性には目がない。ドットーレを目の仇にしている。
○ドットーレ:教養ある法律家、或いは学者・医者。何かにつけ、自分の知識をひけらかすが、それは皆耳学問に過ぎない。
○カピターノ:元兵士。自らの手柄を折に触れて自慢するが、実は臆病。軍服を着て現れる。
これらの人物たちが恋愛・詐欺・不倫・嫉妬などの類型化された状況(ストック・シチュエーション)を即興的に演じていく。コンメディア・デッラルテは、職業役者の発展に大きく貢献し、シェイクスピアやモリエールの喜劇にも大きな影響を与えたが、型にはまった筋書きがしまいには飽きられ、18世紀後半には人気を失った。コンメディア・デッラルテは即興劇であるため、戯曲としての完成作品は殆ど残っていない。そうした中でも最後期に登場したカルロ・ゴルドーニ(Goldoni)やカルロ・ゴッヅィ(Gozzi)は『二人の主人を一度に持つと』(1745)や『トゥーランドット』(1762)など、現在も尚上演され続ける秀作を残している。