西洋文学用語辞典
                                


                                
                   
                                

アーサー王伝説(英:Arthurian Legend

 6世紀頃のケルト人の武将で侵入してきたサクソン人をしばしば撃退したと伝えられるブリテンの王アーサーを扱う伝説。この伝説の骨格は、ブリテン王の子アーサーが、宝剣エクスキャリバーを得、諸国を平定、キャメロット王国の王となる。貴族の娘グィネヴィアと結婚し、彼女を甥のモルドレッドに委ねローマ遠征に旅立つが、モルドレットが謀反を起こし王位を簒奪、后も奪う。急ぎ取って返したアーサーは甥を討つが自らも傷を負い、妖精の島アヴァロンに運ばれる、というものである。この伝説は1136年頃、イギリスの年代記作家ジェフリー・オブ・モンマスが著した『ブリテン列王伝』にその原型が現れる。フランスの詩人ヴァースはモンマスの著作を『ブリュ物語』(1155)としてフランス語叙事詩に翻案、「円卓の騎士」というモティーフを初めて導入する。その後様々なヴァリエーションが登場するが、とりわけ聖杯伝説」あるいは「トリスタンとイゾルデ物語」の追加は重要である。
 フランスのクレティアン・ド・トロワは、『ランスロあるいは荷車の騎士』
(1177-81)や『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』(1185頃、未完)で、「円卓の騎士」であるランスロットとペルスヴァルや、グィネヴィアとランスロットの禁断の愛などのエピソードを付け加えた。続いてドイツの遍歴詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが『パルチヴァール』(1212)によってアーサー王伝説を「聖杯物語」へと洗練化した。そして、伝説の集大成と目されるのがイギリスの騎士作家マロリーが1469年頃に著した散文物語『アーサー王の死』であり、アーサーが王となる経緯、ランスロットがグィネヴィアを救う物語、聖杯探求物語、円卓の騎士同士の戦いなどを詳細に描いたこの大作が後世に与えた影響は少なくない。クレティアン・ド・トロワやヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハでもそうだが、ここでもアーサー王自身は後半、円卓の騎士の背景に引いた存在となる。極めて多彩な人物とエピソードが登場するこの伝説は、スペンサー『妖精の女王』(1590-96)、テニスン『国王の牧歌』(1856-85)といった作品でも扱われ、ヴァーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルデ』(1857-59)、『パルジファル』(1882)(ただ、これらの2歌劇にアーサー王は登場しない)にもモティーフを提供している。また、現代とみに隆盛を見ているファンタジーにおいてもその影響は計り知れない。

                   

             アイアンブ イアンボス


アイソコロンパラレリズム


アオイドス(希:οιδός /英:Aoidos

 ギリシア語で「歌手」を意味し、古代ギリシアにおいて貴族の饗宴や民衆の集会に招かれ、口承の叙事詩を吟唱した吟遊詩人。アオイドスは、『イリアス』と『オデュッセイア』(前8世紀以降)が成文化される以前、約5世紀もの間この叙事詩を口承でその都度即興的な演出を加えながら伝え、その後優秀なアオイドスのひとりであるホメロスがこの2作品を成文化したと考えられている。アオイドスは『オデュッセイア』にもしばしば登場するが、ホメロス以降はより専門化されたラプソドスが取って代わった。
 

アカデミー(伊:Accademia / 仏:Académie / 英:Academy

 ルネサンス以降、作家や芸術家や学者が文芸・学術の保護と育成を目的として各国に設立した協会。プラトンが前4世紀アテネに開いた学園アカデメイアを語源とする。その嚆矢は15世紀半ば、ルネサンス期のフィレンツェにおいて、メディチ家の支援のもと人文学者フィチーノを中心にして結成されたアカデーミア・ネオプラトーニカである。その後程なく(1583)、同地に「クルスカ学会」が結成され、国語協会の先駆けとなる。しかしアカデミーが最も発達したのはフランスであった。特に1635年に設立されたアカデミー・フランセーズは、クルスカ学会が先鞭をつけた国語浄化運動をフランス語において積極的に推進し、現在にいたるまで9版を重ねるそのフランス語辞典は絶対的な権威を有する。
 アカデミー・フランセーズは決して文芸の保護のみを目指した組織ではなく、
40人からなる終身会員は実業界を除く国家の名士たちで占められたが、コルネイユやラシーヌ、あるいはユゴーなど、数々の高名な作家たちが会員となることにより、文学的な香りも色濃く伴い、フランス古典主義の発展に大きく寄与した。他国でもフランスの例に倣い、国営機関としての文学アカデミーが設立された。イギリスでは1660年に「王立協会」が生まれていたが、その下部団体として「王立文学協会(Royal Society of Literature)」が1820年に設立され、ドイツでは1694年に創立した「プロイセン芸術アカデミー」を母体として、その下に1926年文芸部門が設立された。ただ、現在「アカデミー」というと、一般的には造形芸術を中心とした美術アカデミーを指す場合が多い。我が国のアカデミーは文芸・美術部門である「日本芸術院」と学術部門である「日本学士院」がそれぞれ独立して存在し、上部組織も違うため(芸術院:文化庁/学士院:文部科学省)それらを包括する団体はない。
 

アカデミー・ゴンクール仏:Académie Goncourt

 パリに本部を置くフランスの文学協会。正式名は「ゴンクール文学協会(Société littéraire des Goncourt)」。19世紀後半に活躍した作家ゴンクール兄弟の兄エドモン・ド・ゴンクールの遺言により、その遺産を基金として1900年に設立された。会の目的はフランス文学の振興であるが、保守的・権威主義的な傾向を持つアカデミー・フランセーズとは別路線を標榜する。10名の終身会員で会は構成され、会員の条件はフランス語の作品を発表する作家であり(非フランス国民も可)、アカデミー・フランセーズに入会していないこととなっている。「les dix(10)」と呼ばれるこの10名の会員の選考により、1903年より毎年優秀な散文文作品に贈呈されている「ゴンクール賞」は、フランス最高の文学賞と目されている。
 

アカデミック・ノヴェルキャンパス・ノヴェル

アクメイズム(露:Aкмеизм / 英:Acmeism

 1910年代から20年代にかけてロシアで流行したモダニズム運動。その名はギリシア語の「アクメ(頂点)」から由来し、自らの運動を文学の頂点と自任した。その文学の際立った個性や男性的な力強さを人類の祖アダムに例え、「アダミズム」と、或いはその明晰さ(ドイツ語で”Klarheit”)から「クラリズム」と呼ばれる場合もある。象徴主義のアンチテーゼとして、象徴主義やデカダンスの持つ観念性や神秘性や多義性を否定し、具象性と描写の明晰さに基づいた新たな美学を模索した。象徴主義の批判運動としては、同時期のロシアでは未来派も台頭したが、アクメイズムは詩句の破壊的な改革には興味を示さず、むしろ日常用語の詩歌への明解な使用に意を尽くした。アクメイズムの先駆けは、詩集『糸杉の飾り箱』(1910)を出したアンネンスキーやエッセイ『美しい明晰さについて』(1910)のクズミーンと見なされているが、理論的指導者はニコライ・グミリョーフであり、1911年に彼を中心にアフマートワ(『夕べ』[1912])、マンデリシュターム(『石』[1913]、ゴロデツキー(『柳』[1913])などが集まり、設立した詩人グループ「詩人工房」が文芸誌「アポロン(この名称は、運動の目指したアポロ的明晰さを表現している)」を拠点に作品を発表してから運動が本格化した。特にグミリョーフが1913年に著した『象徴主義の遺産とアクメイズム』は運動の理論的支柱を形成した。象徴主義が「象徴による暗示」を旨とするのに対し、アクメイズムは「イメージによる直接的な表現」を標榜する。強烈な個性的感情の表現や男性的文学の復権も目指されたが、運動には社会性が欠如しており、ロシア革命後にはデカダンスの一派として排斥され衰退した。しかし、個々の詩人たちの20世紀ロシア詩への影響は無視できない。→「雪どけ」の後は再評価の動きもある。
 
 

アダミズム(独:Adamismus)→ アクメイズム

アティテュード 活人画


アテルラナ(羅:Atellanae / 伊:Atellana

 ミーモスと並ぶ古代ローマ時代の道化喜劇。イタリア南部の町アテルラで発祥し、農民生活や神話などを茶化した市民用の即興劇である。登場人物は類型化されたストック・キャラクターからなり、仮面を着用する。その内容は、マックス(好色でのろまな大男)、ブッコ(大飲み食いのほら吹き男)、パップス(吝嗇家の老人)、ドセヌス(別名マンドゥクス、ずる賢いせむしの詐欺師)の4種類である。特にドセヌスはエセ学者や哲学者のカリカチュア人物として活躍した。これらの人物は、後のイタリアの即興喜劇コンメディア・デッラルテにも引き継がれた(マックス=プルチネッラ、ブッコ=ブリゲラ、パップス=パンタローネ、ドセヌス=ドットーレ)。同時期の喜劇ミーモスとは異なり、役者は素人が務め、悲劇の後に「口直し」として上演された。使用言語はラテン語だが、非常に粗野で下品な農民ことばが使われ、同時にオーバーな身振りも交えて、観客の笑いを誘った。紀元前100年から80年頃にアテルラナは全盛期を迎え、ポンポニウス(pomponius)やノヴィウス(Novius)らが現われたが、以降はミーモスに人気を奪われる。しかし、古代ローマが皇帝時代(前27284)に入ると復活し、更に豊かなストック・キャラクターが登場するコンメディア・デッラルテに移行した。
 

悪漢小説 ピカレスク小説

 

アナグラム(英:Anagram / 仏:Anagramme / 独:Anagramm

 単語の文字や音節を入れ替えて別の単語を作る言語的遊戯。起源は前3世紀のギリシア詩人カルキスのリュコフロンが、時の国王プトレマイオスⅡ世のスペルΠτολεμαίος““απο μελίτος“(「蜜の如き」)と並べ替え、王に媚びた史実にまで遡る。以来、様々な文書に用いられてきたが(現在尚、もともとの単語[]が判明しないアナグラムも存在する)、文学においては特にミステリなどで好まれる他、作家のペンネームや登場人物名・作品名にもしばしば用いられる。ペンネームとしては、フランソワ・ラブレー(Francois Rabelais)『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-52)を発表した際に用いた作者名 Alcofribas Nasier“フランソワ=マリー・アルエ(Arouet)がその姓のラテン語標記(arovet li)をもとにペンネームとして用いた「ヴォルテール(Voltaire)」、パウル・アンツェル(Paul Ancel)のペンネーム「パウル・ツェラン(Paul Celan)」、クレイヤンクール(Crayencour)のペンネーム「ユルスナール(Yourcenar)」、作品名としてはサミュエル・バトラーのユートピア小説『エレホン』(1872:理想郷「エレホン[Erewhon]」は、「どこにもない[nowhere]」のアナグラム)などがよく知られている。
 

アナクレオン様式(独:Anakreontik

 18世紀に主にドイツで流行した、古代ギリシア詩人アナクレオンを模倣した詩の様式。アナクレオンと同様、愛や友情、自然や酒、ヴィーナスやエロスなどのテーマを軽妙に洒落ながら歌い上げた。その源流は、紀元前2世紀から6世紀頃までの60編に及ぶアナクレオン風抒情詩を集成した詩集『アナクレオン風歌謡集』(成立年不詳)にあるとされる。こうした古代アナクレオン風抒情詩を1733年、ゴットシェートがドイツ語に翻訳し、この業績を元にグライムの『諧謔詩の試み』(1744)、ウーツとゲッツの『無脚韻詩によるアナクレオン頌歌』(1746)が現れ、アナクレオン様式は広く認知されることとなった。その後アナクレオン様式は盛んに模倣され、ロココ時代を代表する詩様式となる。アナクレオン様式が表現しようとするものは、カルぺ・ディーエム(今日を楽しめ)という標語に凝縮される人生と生活の喜びであり、そのために愛や友情や社交、酒や自然が高らかに賛美された。自然は牧歌的な優美さに溢れ、ディオニソスやバッカスを始めとする古代ギリシアの神々も好んで描かれた。アナクレオン様式の韻律は主に3歩格(トリメトロス:アクセントのある音節[揚格]が3箇所)か4歩格のイアンボスで書かれ、バロック時代のアレクサンドランと比較すると、この韻律は軽やかで戯れるような印象を与える。代表的詩人にグライム、ウーツ、ハーゲドルン、ヨハン・ゲオルク・ヤコービらがいるが、ゲーテ、シラーやレッシングも一時期手を染めたほど当時の影響力は大きかった。
 

アナグノリシス(希:ναγνώρισις / 英:Anagnorisis

 「認知」や「発見」と訳される古代ギリシア文学での用語。アリストテレスは『詩学』(前335中で、アナグノリシスをペリペティア」(どんでん返し)や「パトス」(苦難)と並んで悲劇の基本的な3大要素と位置づけている(第11章)。近親者や友人同士がハマルティア(誤解による誤った行い)を犯した後、アナグノリシス、即ち主人公が真実を認識する場面が到来し、決定的な破滅が回避されるか、更なる悲劇がもたらされる。最も有名なアナグノリシスの場面は、ソポクレス『オイディプス王』(前427頃)でのオイディプスが、追い求めていた父殺しの犯人は自分であり、自分の妃が実の母であったことを知る場面であろう。この直後にオイディプスは我が目を突いて盲目になるが、こうした決定的なアナグノリシスとペリペティアのほぼ同時の到来が、この作品にギリシア悲劇における最高傑作との名声を与えているといっても過言ではない。アナグノリシスはエウリピデスなどのギリシア悲劇では好んで用いられたが、既に『オデュッセイア』(8世紀頃)での浮浪者に扮したオデュッセウスの正体を下女エウリュクレイアや妻ペネロペイアが知る場面などでも用いられ、現代においても物語に新展開をもたらす貴重な手法であり続けている。
 

アナパイストス(希:ανάπαιστοςanápaistos/ 羅:anapaestus / 英:Anapaest / 独:Anapäst

 英語名アナペスト。詩において、アクセントのない短音節(抑格)がふたつ連なった後にアクセントを持つ長音節(揚格)が置かれた形の詩脚。「短短長格」とも訳され、ダクテュロスの丁度逆の形である。「タンタターン」という語の響きが躍動感を生み出すため、アナパイストスは古代ではしばしば行進や戦闘を詠う詩に用いられた。近代以降では英語詩でもっぱら用いられ、同様の「短長格」であるイアンボスと組み合わされる場合も多い。バイロン、イェイツなども用いたが、ルイス・キャロル『スナーク狩り』(1876)やエリオットポッサムおじさんの猫とつき合う法』(1939)のように、諧謔性を打ち出した作品にも応用されたのが特徴的である。一例として、バイロン「センナケリブの破壊」(『ヘブライの韻律』の一部:1815)からの一節を以下に挙げる。

The Assyrian came down like a wolf on the fold

And his cohorts were gleaming in purple and gold
(太字が長音節)

「アナペスト」という単語自体の詩脚がアナペストである。
 

アナペスト アナパイストス


アベイ派(仏:L'Abbaye de Créteil

 190610月にパリ郊外マルヌ川河畔のクレティーユ修道院跡に結成された芸術・文化ユートピア共同生活集団。G.デュアメル(Duhamel)Ch.ヴィルドラック(Vildrac)R.アルコス(Arcos)A.グレーズ(Gleizes:画家)らによって、F.ラブレー(Rabelais)の小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(153252) で描かれる理想郷「テレーム修道院」をモデルとして結成された。彼らはあたかも画家ゴーギャンの如く、腐敗した西洋文明から逃避し、自由と友情によって結ばれた芸術コミュニティを作り上げようとしたのである。その収入源として、彼らは独自の出版社を立ち上げ、1907年から08年にかけてメンバーの著作を30冊程発行した。また、画家メンバーによる展覧会も開催した。
 コミュニティには、P.J.ジューブ(Jouve)H.L.ドゥセ(Doucet:画家)ウナニミスムの創始者であるJ.ロマン(Romains)など、多くの芸術家や作家が訪れた。彼らの目的は、コミュニティの設立により、現代生活に直結し、曖昧な装飾を排した叙事詩的で英雄的な芸術を創出するというもので、とりわけ象徴主義詩人たちの支持を受けたが、結局は現実逃避的な傾向から抜け切れず、出版による収入も殆ど得ることができず、コミュニティは19081月末に閉鎖された。(その後も出版社は暫く残り、若手メンバーたちは月例の夕食会” dîner des copains”[仲間たちの夕食会]を開催していた。)

阿呆劇 ソチ

 

アポロン的とディオニソス的(独:apollinisch-dionysisch

 芸術が内包する2つの性質。両者の対比性は、もともとはドイツの哲学者シェリングが提起した概念だが、ニーチェがその著書『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(1872)で芸術全般に体系的に応用し理論を確立させた。本質的な対立項として、芸術はこの2性質のいずれかを有するとされる。アポロン的とは、太陽の神、ひるがえって創造の神アポロンになぞらえて、理知的・合理的で、秩序だっており、建設的・創造的な性質である。対してディオニソス的とは、ぶどう酒の神・酩酊の神ディオニソスになぞらえて、感情的・陶酔的・非合理で、破壊的性質を有する。一見アポロン的な性質の方が優れているように見えるが、芸術に関しては、ディオニソス的性向がないと、成立しないものが多々ある。古代ギリシアでは、ディオニソスを祝うお祭り「ディオニューシア祭」が毎年開かれ、その際には音楽や踊りなどが情熱的に繰り広げられたからである。そしてニーチェは、古代ギリシア悲劇が、これら二つの性質が微妙にバランスを保った最高の芸術形式であると結論付けている。
 しかし、これら二つの性質は、芸術のみにとどまらず、芸術家、ひいては人間一般にもあてはめることができよう。バッハとベートーヴェン、杜甫と李白、志賀直哉と太宰治、ひいては徳川家康と織田信長の対比などは、典型的なアポロン-ディオニソスの構図を示している。
 

アラモード文学(独:Alamode-Literatur

 「アラモード」とは、もともとは「流行の」を意味するフランス語(à la mode)だが、ドイツ文学においては、17世紀の宮廷・娯楽文学に流行した様式を指す。30年戦争により、文化的にも疲弊した当時の神聖ローマ帝国(現在のドイツ・オーストリア)では、外国、特にフランスとイタリアへの憧憬から、フランス語やイタリア語の外来語や外来の言い回しを多用したアラモード文学が現れた。その傾向は翻訳文学やオペラや当時台頭してきた新聞に殊の外強く認められる。一方、リストやグリンメルスハウゼンやグリューフィウスなど、これらの過度な外国模倣に警鐘を鳴らす者たちもおり、彼らが中心となり、ドイツにもドイツ語浄化を推進する国語協会が結成された。だが、ドイツ文学が最終的にアラモード文学から脱却するのは、レッシングやゲーテなどにより、啓蒙主義シュトゥルム・ウント・ドランクなどドイツ固有の文学スタイルが確立される18世紀中盤以降のことである。
 

アルカディア(希: Αρκαδία / 羅・英:Arcadia

 ギリシア南部のペロポネソス半島中東部に位置する山岳地帯。古代ギリシア時代には人里離れた未開の地とされたが、自然を背景に牧人たちが暮らすそののどかな風情が、古代ローマ時代には、喧騒に包まれた都市文化の対極にある人間本来の理想的環境として、特に牧歌の世界で注目を浴びた。既に古代ギリシア時代のテオクリトスによって創始されていた牧歌に、理想郷としてのアルカディアを導入したのはウェルギリウスの『牧歌』(前37頃)である。以来アルカディアは忘れられた存在だったが、16世紀のイタリア・ルネサンス期に牧歌が復興すると再び脚光を浴び、サンナザーロの『アルカディア』(1504)や、モンテマヨルの『ディアナ』(1558)ロペ・デ・ベガの『アルカディア』(1598)更にスペインではセルバンテスの『ガラテア』(1585)、イギリスではシドニー・フィリップの『アーケイディア』(1590)などといった牧人小説の舞台となった。
 牧歌劇においても、トルクァート・タッソ
の『アミンタ』(1573)や、バッティスタ・グァリーニの『忠実なる牧人』(1590)で取り上げられ、トポスとしてのロークス・アモーエヌス(愛らしい場所)」の地位を確固たるものにした。アルカディアを現代に最も広く伝える作品は、文学ならぬニコラ・プッサンの絵画『アルカディアの牧人たち』(163840)であろうが、ここには「死」の存在も暗示されており、「理想郷に忍び寄る現実」という牧歌に秘められたテーマも垣間見られる。西洋文学にはもうひとつの理想郷として「ユートピア」が存在するが、人間の積極的な社会的努力によって建設され、原始共産主義にまで連なるユートピアに対して、アルカディアは無為自然という人間の社会的には消極的な態度を前提とする点が異なっており、理想郷としてはむしろ中国文学に見られる「桃源郷」に近い部分がある。
 


アルカディア協会(伊:Accademia dell’Arcadia

 17世紀末のイタリア・ローマに発足した文学者集団。17世紀前半のイタリアでは、詩人ジャンバッティスタ・マリーノの影響により、内容が空疎でありながら過度な装飾や修辞に走るマニエリスムの一派として「マリニズモ」が流行していた。こうした作風を、退位後の晩年をローマで過ごすべくイタリアに移住したスウェーデン女王クリスチーナが見とがめ、理想郷アルカディアの牧人たちが営んだと言われる素朴で自然な姿を文学に取り戻す目的で、文芸サロンを主催した。彼女が没した翌年の1690年、サロンに集った文学者たちがアルカディア協会を結成する。その主導的役割は、初代会長のジョバンニ・マリオ・クレシンベーニ(Crescimbeni)と、ジャン・ヴィンセンツォ・グラヴィーナ(Gravina)が務めた。古典に見られる均整の取れた美しさを文学に求めた両者だったが、グラヴィーナの周囲に集った作家たちは、ダンテやホメロスの厳格な踏襲を要求したのに対し、クレシンベーニを中心とするグループは、ペトラルカを模範と仰ぐが、やや深みに欠ける穏健派であった。グラヴィーナは、自らが見出したピエトロ・メタスタージオ(Metastasio)を、18世紀イタリアの代表的オペラ台本作家へと育て上げた功績もあるが、その不寛容性のためクレシンベーニとは相いれなくなり、1711年には弟子たちをつれてアルカディア協会を脱退し、「クイリーニ協会(Accademia dei Quirini)」を結成した。だが、こうした内輪揉めにも関わらず、アルカディア協会は、18世紀前半には反マリニズモ運動を旨とする協会として、イタリア全土に支部を広げていく。しかし、古典を目標にするとしても、クレシンベーニとグラヴィーナの意見の相違の如く、具体的な手段が定まっているわけではなく、古典美そのものが会員個人の解釈に任されていたため、会員相互が「牧人名」で呼び合うなど、協会は「アルカディア好き作家集団」の域を出ることもなく、メタスタージオを除いて著名な作家を生み出すには至らなかった。
 ゲーテは、17881月にローマを訪れた際、本協会に(友人の勧めによって不承不承)入会し、牧人名「メガリオ・メルポメ二オ(Megalio Melpomenio)」を授けられている。(『イタリア紀行』1816-29])
 
本協会の系譜は今尚途絶えておらず、1925年からは「イタリア文学アカデミー(Accademia letteraria italiana)」と改名し、1940年からは、ローマにある人文系研究図書館「アンゲリカ図書館」の傘下となっている。

 

アレクサンドラン(仏:Alexandrin / 英:Alexandrine / 独:Alexandriner

 フランス発祥のイアンボス型詩句形式のひとつ。一行がアクセントの弱強で並ぶ12音節からなり、中間(6音節と7音節の間)に「カエスーラ」と呼ばれる意味上の区切れが入るのが一般的である。すなわち図式化すると
 ××××××’//××××××(×)  (×はアクセントを持たない音節[抑格]、×はアクセントを持つ音節[揚格]//はカエスーラ。最後に一音節だけ抑格が追加される場合あり)
となる。実際例は、ボードレールの「アホウドリ」より:
Souvent, pour s’amuser,/ les hommes d'équipage
Prennent des albatros,/ vastes oiseaux des mers.
波路遙けき徒然の慰草と船人は、
八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生擒りぬ、)(上田敏訳「信天翁(おきのたいふ)」より)
 アレクサンドランは12世紀にフランスで集成されたアレクサンドロス大王伝説に使用された12音節詩句を発祥とするが、16世紀フランス・ルネサンス文学及び古典主義文学では支配的な詩句形式となり、17世紀ドイツ・バロック文学でも盛んに使用された。イギリス文学では、スペンサーやポープがアレクサンドランをヴァリエーションとして用いていたが、ブランクヴァースが主流となったシェイクスピア以降は余り使用されなくなった。1011音節イアンボス詩句が主流であったスペイン文学とイタリア文学にはアレクサンドランは浸透しなかった。更に近現代のフランス語詩でもアレクサンドランは復権している。ゴッシニィ/ユデルゾの人気漫画「アステリックス」では、ガリア人祭司のパノラミックスがアレクサンドリア建築家のヌメロービスから
« Je suis, mon cher ami, très heureux de te voir. » (太字が強音節)
(お目にかかれてうれしいです。)
と挨拶され、友人に
「こりゃアレクサンドランだ。」と解説する場面がある。(『アステリックスとクレオパトラ』[1968]
 

アレクサンドリア学派 < ホメロス問題


アレクサンドロス・ロマンス九英傑

アレゴリーAllegory Allégorie/独:Allegorie

 「寓意」又は「寓喩」と訳す。抽象的な概念を具象的な物になぞらえる表現手法。「比喩」の一種といえるが、文学作品や芸術作品中では人物や小道具として比喩以上に重く扱われる。「シンボル(象徴)」とも類似しているが、シンボルは対象とする事物を、それに関連深いイメージを用いて直感的に図像化するのに対し(「皇室」→「菊」、「江戸幕府」→「葵」、この用法は「換喩」ともいえる)、アレゴリーは直感的な連想が下地とはなっておらず、多分に観念的な比喩である。したがってアレゴリーには教訓性や風刺性が伴う場合が多い。例として、国家を表現するアレゴリー(イギリス→ブリタニア、フランス→マリアンヌ、ドイツ→ゲルマニア、スイス→ヘルヴェチア、アメリカ→自由の女神又はアンクル・サムなど)、「死」→「大鎌を持った骸骨」、「正義」→「目隠しをし、一方の手に天秤、もう一方の手に剣を持った女性」など。我が国でも日光東照宮で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿などは典型的なアレゴリー像といえよう。もともとは既に古代ギリシア文学において登場し、アイソポスの作った寓話文学(『イソップ物語』)は、アレゴリーを駆使した教訓話として現代でも広く読まれている。また、古代からホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』(前8世紀以降)やヘシオドスの『神統記』(700)における神々の姿がアレゴリー的に解釈された。
 アレゴリーは古代ローマ時代にはルカヌスやウェルギリウスやオウィディウスらにより更に発展し、中世時代後期には全盛期を迎える。特に名高い作品は、ギヨーム・ド・ロリスの『薔薇物語』(
1235-:中世フランス文学中最も有名な作品だが、一人称小説のフランス文学における嚆矢としても知られている)、ダンテ『神曲』(1307-21)、バニヤン『天路歴程』(1678-84)などであり、どれも宗教的・世俗的徳に対する教訓性に富んだ作品である。また、道徳劇ソチ聖餐神秘劇などいった中世大衆劇にもアレゴリーは多用された。しかし以降は、むしろ風刺・社会批判のために用いられるケースが増え、スウィフト『ガリヴァー旅行記』1726:特に第4編に登場する馬の姿をした種族フウイヌムと蛮族ヤフーは典型的なアレゴリー的人物と目される)、カフカ『変身』(1915)、オーウェル『動物農場』(1944)などの作品を生み出し、現代では不条理劇ヌーヴォー・ロマンなどのジャンルで利用され続けている。
 

アンガージュマン(仏:Engagement

 サルトルが提唱した、哲学者や芸術家が社会に積極的に係わっていく態度。「約束」や「参加表明」を意味するフランス語だが、特に文化人の政治参加を指す場合が多い。実存主義では、人間は与えられた状況=社会の中でのみ(自由に)自己実現し得るため、芸術家といえども社会に背を向けてはならないとした。サルトルは1945年に創刊した雑誌「レ・タン・モデルヌ(現代:Les Temps modernes)」や評論『文学とは何か』(1948)アンガージュマンを提唱し、自身もアルジェリア戦争やキューバ革命に際し積極的に発言した。戦後の作家(特に左翼系作家)にとり、アンガージュマンは実存主義とは関係なく何ら特別な概念ではなくなったが、遡れば1898年に発表されたゾラによるドレフュス事件への論評「我弾劾す」は、アンガージュマンの先駆けといえよう。
 

アンカット装フランス装

 

暗黒小説(仏:Roman noir

 18世紀末から19世紀前半にかけて現れた、中世の城や館、廃墟や森などを舞台に、残虐且つ怪奇幻想的な物語を展開する小説。ホラー小説の一分野と見なされる。直前に流行したゴシック小説を直接の母体とし、ロマン主義的要素も多分に含む。イギリスにおける代表的作家は、アン・ラドクリフ(Ann Radcliffe)『ユードルフォの秘密』(1794)やマシュー・グレゴリー・ルイス(Matthew Gregory Lewis)『修道僧』(1796)などゴシック小説作家とほぼ重なるが、暗黒小説は血なまぐさい犯罪を多く描くことで、革命下のフランスにおける殺伐とした世情によくマッチし、フランスにおいてイギリス以上の興隆を見た。その代表的作家は、サド侯爵(Marquis de Sade)『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』(1791)、ジャンリス夫人(Madame de Genlis)『白鳥の騎士』(1795)、ピクセレクール(Pixérécourt)『ヴィクトール、または森の子』(1798)、『ケリナ、または神秘の子』(1800)などであるが、初期のユゴーやネルヴァル、更には(ペンネームを用いていた頃の)バルザックにも暗黒小説の影響が垣間見られる。この小説ジャンルの系譜はロマン主義からモダニズム文学を経て現代に至るが、ミステリの成立にも影響を及ぼした。特に現代では、ジャン=パトリック・マンシェット(Jean-Patrick Manchette)やジェイムズ・エルロイ(James Ellroy)らの犯罪者の視点に立ち、過激な暴力を盛り込んだリアルな小説が「ロマン・ノワール」(ノワール小説)と呼ばれ、我が国のハードボイルド文学に多大な影響を与えている。
 

アンソロジー(英:Anthology

 様々な作家のテクストから抜粋して出来上がった集成。ギリシア語の「アントロギア(花束)」を語源とし、「詩華集」と訳される。元来詩を対象とするものが主だったが、音楽や書画を集めたものも同様にアンソロジーと呼ばれ、現代では戯曲や随筆などの集成にもこの名称が用いられる。従って、啓蒙的目的のもとに散文を集成した「読本」も一種のアンソロジーと考えられる。アンソロジーの集成基準としては、詩、エピグラム、小説、旅行文学SFなどといった文学ジャンル、啓蒙主義ロマン主義シュルレアリスムなどの文学潮流、作家たちの出身地域、或いは鉄道、食べ物、復活祭、クリスマスなどといった特定のモティーフが選ばれたりする。
 アンソロジーの歴史は遠くギリシア・ヘレニズム時代にまで遡り、詩人メレアグロスの詩選集『花束』(前70頃)をその嚆矢とする。その後ピリッポスの同名詩選集を経て560年頃にはアガティアスが『環』を編纂、900年ころにはこれらを基礎として更に拡充を図り、ビザンティン帝国の神学者コンスタンティノス・ケファラスが一大詩選集『パラティン詩華集』を纏め上げた。この詩華集を追補したものが、紀元前7世紀より紀元10世紀に亙り、約300名の詩人の4500に及ぶ詩を集め現在に伝わる『ギリシア詞華集』である。ギリシア語以外では、11世紀から12世紀にかけて成立したと見られる中世ラテン語、中高ドイツ語、古フランス語などで書かれた世俗詩歌集『カルミナ・ブラーナ(ボイレンの歌)』や、啓蒙的意味も含めて4000以上の諺や金言を集成して出版されたエラスムスの『アダジア』(1500)、イギリスの出版業者トトルによる『唄とソネット集(通称トトル雑詩集)』(1557)、フランスの出版業者ルメールによる37名の詩人の唄を収めた『現代パルナス派詩集(現代高踏派詩集)』(1866,1871,1876)、あるいはオクスフォード大学出版局の出した「オクスフォード英詩選」(1900)などが名高い。中にはシラー(『詩集』[1781])やマスターズ(『スプーンリヴァー詞華集』[1915])のように、自らの詩集を「アンソロジー」と銘打つ詩人もいた。アンソロジーは現代でも様々な分野で開拓され続けており、更なる集成基準によるアンソロジーが今後も生み出されていくことだろう。
 

アンタゴニスト(希:ανταγωνιστής / 英:Antagonist

 「敵対者」と訳され、戯曲や散文において主役であるプロタゴニストに対抗し、その計画を邪魔し主役に損害を与えるために登場する役柄。アイスキュロスやソフォクレスの時代(前5世紀頃)の古代ギリシア演劇に登場する人物は2名に過ぎず、彼らが様々な役柄をこなし、それに合唱(コロス)が注釈をつけていた。この2名、すなわちプロタゴニストとアンタゴニストは当然のごとく緊張関係に置かれることとなる。中世後期の演劇におけるアンタゴニストは悪魔や非キリスト教信者であり、プロタゴニストである聖人やキリストと対立する。更には生や美徳というプロタゴニストには死や悪徳というアンタゴニストも登場する。彼らを区別する要素は、倫理観であることが多いが、外見的にも、性別や年齢や身なりで区別される場合がある。また、アンタゴニストは人物である必要もなく、荒涼たる自然や時代精神や過酷な政治状況など、プロタゴニストの意図を阻む抽象的事項であっても構わない。神話においてアンタゴニストはしばしば見張りや試験者の姿を取り、プロタゴニストは彼らによって直接の損害は蒙らないが、自らの道を進むためには彼らの課す試練を乗り越えなければならない状況となる。


アンティスパストス詩脚 

アンティバッキオス詩脚

 

アンチヒーロー(英:Antihero

 文学において、主人公(ヒーロー)の主たる属性とされた「正義感、高潔性、気品、強さ」などを持つ「優れた人物」の概念から逸脱した主人公。英雄的な資質を持たず、出来事に対して常に無力で受動的であり、時には諦めや無関心さえ示す主人公を指す。そうした人間的な属性を持つ主人公は、既にアポロニオス『アルゴナウティカ』(前3世紀)のイアーソーンに認められるが、文学が本格的にアンチヒーローを生み出し始めるのは、エリザベス朝演劇からバロックにかけてであり、マーロウ『フォースタス博士』(1592)でのフォースタス、シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』(1602)でのフォルスタッフ、セルバンテス『ドン・キホーテ』(1605-1615)でのドン・キホーテなどは、強烈な個性を有したアンチヒーローである。また、バイロン作品(『マンフレッド』[1817]での城主など)に現れる、高貴な風貌で教養溢れ、行動力に優れるが、社会ではなく自分自身のために戦い、大衆を軽蔑する主人公は、バイロン的人物という新たなアンチヒーローを作り上げた。近代に入ると、完全無欠な主人公は既に娯楽文学だけの人物となり、フロベール『ボヴァリー夫人』(1857)や、ゴンチャロフ『オブローモフ』(1859)など、写実主義文学は主人公の弱点を客観的に描き、ゾラ「ルーゴン・マッカール叢書」(1871-93)ハウプトマン『線路番ティール』(1887)などの自然主義文学には、環境のなすがままにされ破滅していくアンチヒーローを冷徹に観察したものも多い。ヌーヴォー・ロマンアンチ・ロマンの主人公もそのほとんどがアンチヒーローである。更に、16世紀スペインで発展したピカレスク小説は、悪漢ながら英雄的資質を持ち、積極的に社会と係わる独特のアンチヒーローを生み出した。総じて近現代文学の主人公の多数はアンチヒーローと呼べよう。
 

アンチ・ロマン(仏:Anti-Roman

 伝統的な小説形式(=特定の主役・脇役が登場し、理性・感性的に理解し得る空間配置と物語展開を伴う、完結した筋を持った小説)を無視した小説。「反小説」と訳される。実験小説的な試みは、20世紀に入りシュルレアリスムスダダイズム、あるいは未来派などでも行われたが、第二次世界大戦以降、娯楽小説の台頭から芸術としての伝統的小説形式への不信が高まり、アンチ・ロマンの誕生に繋がった。直接には、サルトルがナタリー・サロート(Sarraute)の『見知らぬ男の肖像』(1948)序文において、ナボコフやイーヴリン・ウォー(Waugh)の諸作品、或いはジッドの『贋金つかい』(1926)、そして特にサロートの諸作品をこう呼んだことが始まりである。アンチ・ロマンは、とりわけフランスでは直後に流行したヌーヴォー・ロマンと同調しながら盛んに執筆されたが、20世紀に入り、ジョイスやカール・アインシュタインやベケットらが新たな「語り」を模索して生み出した作品群も、こうした小説の一例とみなすことができよう。それは勿論スターン『トリストラム・シャンディ』(1713-1768)にまで遡ることが可能である。ただ、既存の小説形式から脱却しようとするアンチ・ロマンは、自らが打ち立てた形式さえも否定しようとする自己撞着性を常に孕んでいる。


アンファン・サン・スーシ(仏:Enfants sans souci

 14世紀末から15世紀前半にかけて、シャルル6世治下のパリで主にソチ(茶番劇)の上演を許された半職業人劇団。名称は「のんきな子供たち」を意味し、「無憂児組劇団」とも訳される。元々「阿呆祭」(11世紀北フランス発祥の教会関係者たちによる卑俗な祝祭)で上演された茶番劇で「阿呆」を演じていた者たち(旅回りの芸人、学生、下級役人など)により結成され、座長は「阿呆の帝王」(Prince des sots)、副座長は「阿呆の母」(Mère-Sotte)、その他の劇団員は「阿呆連中」(“Sotte commune”)と呼ばれた。無数の茶番劇を上演したが、中でも座付き劇作家ピエール・グランゴール(Gringore)が、時の国王ルイ12世の命を受け、教皇ユリウス2世を揶揄するために書き下ろした『阿呆国の殿様』(“Le jeu du prince des sotz et de mère sotte“1512) は、中世の茶番劇を政治風刺詩劇へと昇華させた画期的な作品である。16世紀前半フランソワ1世時代最大の詩人であるクレマン・マロ(Marot)も、ここに属していた時期がある。アンファン・サン・スーシは、やがて「コンフレリ・ド・ラ・パッシオン(“Confrérie de la Passion”:「受難劇組合」)や、「バゾッシュ」(”Basoche”:宗教劇を上演した宮廷法務官のギルド)と大衆の人気を競ったが、劇の余りの放埓ぶりに度々規制を受け、1659年に解散した。

 

 アンフィビュラクス詩脚


アンフィマクロス詩脚


安楽椅子探偵(英:Armchair Detective

 ミステリ用語で、自らは現場に行かず、資料(報道、調査書、証言など)のみで事件を解決する探偵のこと。こうした状況を更に進め、怪我などでベッドから離れられないにも関わらず事件を解決する探偵を、「ベッド探偵(ベッド・デテクティブ)」と呼ぶ。普通の探偵以上に、安楽椅子探偵には、情報捜索や推理の検証を本人に代わって行う助手役がつく場合が多い。最初の安楽椅子探偵は、ポーの『マリー・ロジェの謎』(1842/43)でのオーギュスト・デュパンとする説もあるが、安楽椅子探偵専門の人物はマシュー・フィリップ・シールが『プリンス・ ザレスキーの事件簿』(1895)で登場させたザレスキーである。その後オルツィ男爵夫人が『フェンチャーチ街の謎』(1901)で創出した喫茶店の片隅にいつも座り、事件を聞いただけで解決する「隅の老人」がヒットした。「シャーロック・ホームズ」シリーズにおけるホームズの兄マイクロフトや、クリスティの『火曜クラブ』[1932]などでのミス・マープルも安楽椅子探偵として登場する。現代でもアシモフ『黒後家蜘蛛の会』シリーズ(1972-)における給仕ヘンリーは、典型的な安楽椅子探偵と見なすことができる。
 

イアンボス(希:αμβος / 羅:iambus / 英:Iamb / 独:Jambus

 英語名アイアンブ。詩において、アクセントのない単音節(抑格)の後にアクセントを持つ長音節(揚格)が置かれた形の詩脚。「短長格」とも訳される。短長ひとつずつの音節を一韻脚とし、これらの韻脚が3つ集まる「トリメトロス(3歩格)」から「ヘプタメトロス(7歩格)」まである。例えば:
A horse! A horse! My kingdom for a horse!(シェイクスピア『リチャード三世』:太字が長音節。)
はイアンボスの「ペンタメトロス」(5歩格:揚格が5箇所)である。
イアンボスは古代ギリシア・ラテン文学で既に使用されていた。そこでの「イアンボス詩」はトリメトロス(3歩格)であり、長短構わぬ音節(x)を先頭に置いた後に短音節(u)と長音節()を組み合わせた単位(x u -)を3回繰り返す。ペンタメトロスは英語詩やドイツ語詩でもっとも一般的に使われた詩句であり、ヘクサメトロス(6歩格)がふたつ重なるとアレクサンドラン」となる。イアンボスはその起源が古代ギリシアでの粗野な風刺詩にあると見られ、卑近な日常生活を歌うことに適しており、崇高な叙事詩に向くとされるダクテュロスのヘクサメトロス(6歩格:長短短の3音節を1セットとして6度繰り返す。ホメロスの二大叙事詩もこの詩脚で書かれている)とは対極に置かれた。従って古代よりイアンボスは風刺劇や風刺詩に用いられてきたが、近代ヨーロッパ詩歌では最もポピュラーな詩脚としてそれ以外の詩にも広く使用された。その反対詩脚(長短音節)は「トロカイオス」であるが、「イアンボス」という単語の韻脚は奇妙なことにトロカイオスであり、「トロカイオス」(英:trochee)はイアンボス的な響きを持っている。
 

イエロー・ブック(英:The Yellow Book

 1894年から97年にかけて出版されたイギリスの文芸誌。雑誌名はオスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』(1890)に登場する破滅的な効果を持った書物(しばしばデカダン派詩人ユイスマンスの小説『さかしま』[1884]を暗示するといわれる)から採られた。ワイルドによって創始された耽美主義の機関紙的役割を果たし、多彩な芸術分野(小説、詞、随筆、イラスト、絵画)を扱った。特にイラスト、絵画部門の編集を請け負い、自らも表紙イラストを担当した美術主幹オーブリー・ビアズリーは、ワイルドと共に雑誌の性格形成に大きく寄与した。(ワイルドは本誌に寄稿はしなかったが、ビアズリーが彼の戯曲『サロメ』英語版[1894]につけた挿絵が余りに評判となったため、両者は芸術的に同イメージで見られる傾向があった。)寄稿者陣にはマックス・ビアボウム、アーサー・シモンズ、W・B・イェイツ、アナトール・フランスなど、象徴主義デカダンスや神秘主義的傾向の強い作家に加えて、ヘンリー・ジェイムズ、ジョージ・ギッシング、H・G・ウェルズなど、当時の新進気鋭の作家たちが幅広く参加し、世紀末文学の第一線を形成した。1895年、ビアズリーがワイルドの男色スキャンダルの巻き添えを食った形で糾弾され、第5巻以降編集から身を引いて後は耽美的色彩を弱め、部数も伸び悩み、第13巻を発行した後廃刊となった。



イオニコス詩脚

 

異化(露:Остранение / 独:Verfremdung

 描写対象を見慣れぬ様相に描き、もって文学を文学たらしめる根本的な手法。ソ連の文学研究者ヴィクトル・シクロフスキーが『手法としての芸術』(1917)の中で提唱し、ロシア・フォルマリズムの先駆けとなった。古来文学では描写する事象・事物を日常的な言い回しや描写法で描かぬことを旨とした。そのため、近代まで文学の真髄は、日常言語ではまず用いられることのない韻文詩とされ、演劇もその台詞は日常会話とは程遠い韻文で構成されていた。こうして「異化」され新奇で異様な「詩的言語」を前にすると人間は不安を覚え、慣れ親しんだ(すなわち「自動化」した)日常言語より、その理解に時間がかかる。しかし文学にあっては、描写する文章の内容よりも、文章の内容を理解するプロセスこそが重要である、言い換えれば、文章を理解することよりも、文章を鑑賞することが重要であるため、「異化」(そして異化を強調する前景化こそが文学的感興を喚起するために必須の要因であるとした。つまり、「飛び出すな 車は急に止まれない。」は自動化されたスローガンであって、文学たる俳句にはなり得ないということである。特定の異化が繰り返されると奇異感が薄れ慣れが生じ、自動化してしまい、新たな異化が必要となる。文学の歴史的営みは、この「自動化」と「異化」の連続であるともいえる。
 

異化効果(独:Verfremdungseffekt

 ブレヒトが提唱する叙事的演劇の中心的な演出手法。ロシア・フォルマリズムの異化から発想を得たとされる。演劇の筋は異化効果により分断され、それまでの(ブレヒト曰く)「アリストテレス的演劇」が目的としていた美的錯覚を観客に与えることはない。そうして作品への「共感」を阻むことにより、観客は舞台上で表現される世界から身を離し、批判的な態度で鑑賞することが可能となる。具体的な異化効果の例として:

○役者が役を離れ、観客に演じている劇について語りかける。
○物語の別バージョンが提示され、舞台上の世界が不変の宿命的なものでは決してないことを強調する。
○幕の内容が、前もって字幕などで提示される。
○大道具・小道具・舞台衣装の撤廃(この手法は現代劇では最早一般的なものとなっている)。
○歌の挿入。
○近代的映像メディア(映画、スライドなど)の併用。
開かれた結末(結末が曖昧、或いは結末がない)

など。代表的な例はブレヒト『セチュアンの善人』
(1939)であり、作品の筋は劇中劇や歌や役者の物語に対する辛辣なコメントなどで再三中断され、現実社会で物質的に窮することなく善人でいることは不可能であるとの認識を提示したまま、作品の結末は描かれていない(マルクス主義社会への変革が必要であるとの暗示と解釈しうる)。
 

イギリス喜劇団(英:English dramatic companies / 独:Englische Komödianten

 16世紀後半から17世紀中頃にかけてオランダ、デンマーク、ドイツなどを巡業したイギリスの劇団。16世紀中頃のイギリスでは、エリザベス朝演劇時代に入り150余りのプロ劇団が活動していたが、劇団の数余りに加えて、当時勢いを増してきた清教徒に演劇が忌み嫌われたことから、演劇の「後進地」である上記の国々に遠征する劇団が現われた(当時の上記の国々では、演劇は素人によるラテン語劇が一般的だった)。記録に現われる最初の大陸客演は、1586年のドレスデン宮廷での公演だが、1592年にフランクフルトで公演したロバート・ブラウンの劇団以来、恒常的に大陸で興業するようになった。各劇団は専ら宮廷と契約を結び、そこを本拠地として各地に26週間の日程で遠征した。座長はドイツ語を解する道化役が務めたが、最初英語で行われていた上演も、1605年頃からはドイツ語で行われるようになった。公演は祭りなど祝祭時に合わせて、宮殿や市庁舎の広間などに組み上げられた簡素な舞台で行われた。団員は通常20人もいなかったため、群集場面は描かれず、市民からのエキストラも利用された。女性役者はエリザベス朝演劇同様、最終時期を除いて存在しない。上演作品は、シェイクスピア(『ハムレット』、『リア王』、『ヴェニスの商人』)やマーロウ(『フォースタス博士』)といったエリザベス朝演劇の人気作、或いは聖書からの題材(『聖スザンナ』)を、滑稽さを強調した大衆向け演劇に自由に改作したものである。後にはグリューフィウス、ローエンシュタインなどのドイツ人作家の作品もレパートリーに加えられた。代表的な興業主に、トーマス・ザックヴィル、ジョン・スペンサー、ジョン・グリーンなどが挙げられる。イギリス喜劇団は、1648年まで興業したジョリフスの劇団で文献的には幕を閉じるが、彼らの喜劇は、テクストよりも格闘場面やダンスなど、ミーモスの要素も取り入れた派手な身振りの立ち回りに特徴がある。テクスト自身も日常語を元にした散文であり、ドイツの散文劇はイギリス喜劇団によりもたらされたとも考えられよう。また、「道化」という粗野で卑猥な即興劇の定番的人物は、イギリス喜劇団の劇に登場した道化者「ピッケルへリング」で本格的にドイツ演劇へと導入された。このピッケルヘリングとコンメディア・デッラルテにおけるアルレッキーノが融合し、ドイツ版道化「ハンスヴルスト」が誕生する。
 

意識の流れ(英:Stream of consciousness

もともとはアメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムスが1890年代に唱えた用語。彼によると、人間の意識は、静的な部分から成り立つのではなく、想起・思考・判断・認知など、絶えず連続的に変化するイメージや観念から成り立っているとされる。この理論を文学に応用し、人間の意識の動きを、注釈を加えず客観的に描写する手法が「意識の流れ」と呼ばれる手法である。19世紀に流行した写実主義は、作家という絶対的な観察者の客観的視点を前提としたが、19世紀末から20世紀にかけて絶対的な客観性に疑問が持たれ、むしろ外面的事実の客観的描写よりも主観=人物の内面における心理描写が重視され始めた。その表れが「意識の流れ」である。デュジャルダンの『月桂樹は切られた』(1887)が心理学を意識した直接的な先駆とされるが、類似した描写はかなり早期から用いられており、例えばスターン『トリストラム・シャンディ』(1713-1768)で語られるウォルターの妻エリザベスが柱時計のねじの巻かれる音を聞くと、あらぬことを連想してしまう話などは、典型的な「意識の流れ」手法の応用とされる。この手法は、20世紀に入り大きく発展し、ジョイス(『ユリシーズ』[1922]、『フィネガンズ・ウェイク』[1939])、ドロシー・リチャードソン(『巡礼』[1938])、ヴァージニア・ウルフ(『ダロウェイ夫人』[1925]、『波』[1931])、など外的にはたいした事件も起きないものの、激しく揺れ動く人物の心理を描き切った作品が現れた。「意識の流れ」の分野では、イギリス文学が牽引役を務めたが、アメリカのフォークナー(『響きと怒り』[1929])、やフランスのプルースト(『失われた時を求めて』[19131927] :特に主人公が紅茶に浸したマドレーヌの香りから幼少期を思い出す場面は有名)などもこの手法を駆使した作家として知られている。「意識の流れ」は描写内容に関する手法であるが、この手法には、自分に向かった語りで作品が構成される内的独白」と呼ばれる語りの手法や、その前段階として三人称で語りながら一人称的な内面描写を目指す「自由間接話法」や体験話法」という手法が結びつく場合が多い。ポーは「意識の流れ」を作品に意識的に取り入れるには至っていないが、彼の『モルグ街の殺人』(1841)には、「私」の意識の流れを、主人公デュパンが「私」の些細な仕草から観察するという興味深い場面が描かれている。
 

一人称小説(独:Ich-Roman

  作品中の出来事が「私」によって語られる小説。文体としては伝記と同様だが、「私」が作者本人であるとは限らない。また、内容も事実である必要は全くない。その意味で、伝記よりも日本の「私小説」に通じるものがある。一人称文体は、古代ギリシア文学に既に現れていたものの(ペトロニウス『サテュリコン』[1世紀頃]、アプレイウス『変身物語』[通称『黄金の驢馬』:170年頃]など)、中世ヨーロッパでは振るわず、16世紀に入りそのほとんどが一人称で書かれたスペインのピカレスク小説」により再び興隆を迎え(『ラサリーリョ・デ・トルメスとその幸運と逆境の生涯』(1554)、アレマン、ケベードなど)、他国に広がっていった(グリンメルスハウゼン『ジンプリチシムス・トイチュの冒険[阿呆物語] [1668]など)18世紀に入ると、そこから旅行文学」も派生し、ロビンソナーデ」や風刺小説でも使用されていくが(『ロビンソン・クルーソー』[1719]、『ガリヴァー旅行記』[1726])、18世紀中頃に書簡体小説」が現れ流行すると、一人称は必須の文体として歓迎された(リチャードソン、ルソー、ゲーテ)。その後も一人称小説は主人公の内的心理を描写するに長けた手法として教養小説でも使用された(ヘッセ『デーミアン』[1919]、ディケンズ『デビット・コパフィールド』[1849/50])。また一人称文体と三人称文体が交錯する例としてケラー『緑のハインリヒ』(1855)がある。現代では内的独白」なども含めて一人称であっても信用できない語り手」という概念が生まれ、語り手に対する信用は以前より薄らいでいる。(ベル、グラス、ノサックなど)
 

移轍(独:Übergleisung

 独語学者関口存男が唱えた修辞的な用法の混同例。「乗り換え」と呼ばれる場合もある。用語上は純粋な「誤用」と考えられるが、頻繁に用いられた結果、市民権を得てしまった場合もある。例:「全然OKです。」:「全然」は、本来否定表現を修飾する副詞である。従ってこの文章は、「全然問題ありません。」と「完全にOKです。」といった2種類の文章が、前半と後半で混合(移轍)してしまった例である。「的を得た答え」という語句も、辞書的には、「的を射た」と「当を得た」といふたつの慣用句が移轍した誤用と考えられる。ただ、この2例は現在頻繁に用いられており、誤用としない説もある。このような慣用句的な移轍の他に、一般の文章では、必ずしも過ちとはいえない拙劣な文章表現としての移轍がまま見られる。特に「冗語」(余計な語)として認められている否定詞も、移轍の一種といえよう。例:「暗くならない前に戻ろう。」、「I wouldn’t be surprised if he didn’t pass the examination.(彼が試験に通っても驚かないよ。)
 


イドゥナ(独:Iduna

 1891年から1904年にかけて、自然主義若きウィーン派に対抗するべくウィーンで結成された文学者集団。カトリックを信奉する保守的な文学観を特徴とし、会の名称は北方神話における詩の神ブラギの妻であり、若さと不死の女神であるイドゥナから取られた。会の機関誌は、1892年から93年にかけて7度しか発行されなかった文芸誌 Iduna - Zeitschrift für Dichtung und Kritik”であり、中心的な文学者はJ.F.v.シュタインヴァント(Steinwand)、R.v.クラリク(Kralik)、R.シュタイナー(Steiner)、F.レーマーマイヤー(Lemmermayer)A.ヒュルトゥル(Hyrtl)、M.E.デレ‐グラツィー(Delle Grazie)E.マリオット(Marriot)、J.v.クノール(Knorr)らであった(女性会員が多いのも特徴で、後者名は皆女性作家である)。しかし1896年にクラリクが同志らと脱会し、1904年に残りの会員の多くも脱会して会は解散した。結局、規約もなく、保守カトリック系文学者集団として緩やかな連携を維持したこの会は、オーストリア文学にさほど大きな影響力を与えたわけではなかった。



意図の誤謬(英:Intentional Fallacy

 ウィリアム・K.・ウィムサットとマンロー・ビアズリーが1946年に発表した論文で提唱した用語。同時に提唱された「感情の誤謬」(Affective fallacy)とセットで用いられる。彼らは論文中で、作者の生い立ちや執筆当時の社会的背景などを実証的に詳しく分析し、作品に込められた作者の執筆意図を追い求めることを主目的とした伝統的な文芸批評がもたらす誤り(意図の誤謬)や、作品が読者や聴衆に与える感興を分析することにより作品を評価する印象批評がもたらす誤り(感情の誤謬)を指摘した。彼らの主張は、作品を作者から切り離されたひとつの独立的存在と見なす「ニュー・クリティシズム」の理論的支柱となる。ウィムサットの主張は過激であり、少なからぬ軋轢ももたらしたが、文芸批評に厳密な客観性を導入しようとするその姿勢は一定の評価を得た。しかし現代では、社会的背景や作者、そして読者の存在さえ批評の要素から除外しようとするその批評態度はほぼ克服されている。



イマジズム(英:Imagism

 1910年代の英米に起こった詩を中心とする文学運動。「写象主義」と訳される。詩人が受容した内的感興を表現しようとする印象主義に対して、事物そのものの明確なイメージを捉えるべく、自由韻律のもとに、簡潔で直截的な表現を旨とした。イマジズム的な詩は、20世紀初頭から既にT.E.ヒューム(Hulme)F.S.フリント(Flint)や運動の中心的詩人となるエズラ・パウンド(Pound)R.オールディントン(Aldington)らにより書かれていたが、運動が広範に知られるのは、女流詩人ヒルダ・ドゥリトル(H.D.:パウンドにより、イマジズムの簡潔性の象徴としてイニシャルのみで紹介された)が新興の詩の雑誌「ポエトリー」の19131月号に「イマジスト」とパウンドにより併記された自署名のもとに3篇の詩(「方法のヘルメス」、「果樹園」、「警句」)を発表してからである。それに続く同誌3月号に、パウンドとフリントが「イマジズム」と題した宣言文を発表し、イマジストが尊重すべき創作態度を以下の3点とした。

1.主観的・客観的を問わず、事物は直接的に扱うこと

2.表現に寄与しない言葉は使わず、事物それ自体を明確に表現すること

3.韻律については、メトロノームのような単一なものではなく、フレーズの流れに従って自由に書くこと

 従って、イマジストたちはロマン主義ヴィクトリア朝文学の感傷性や技巧性を嫌い、それに続く「ジョージ5世時代詩人(Georgian Poets)」の簡素ながら形式性を重視した抒情性にも与せず、韻律法や修辞法は一顧だにせず、日常語の使用による鋭く的確な表現を目指した。この点において、イマジズムはフランス象徴主義や、とりわけその簡潔性において日本の俳句からも少なからぬ影響を受けている。中心地はロンドンであり、当地にはアイルランドやアメリカからもイマジストたちが集った。また、女性詩人の参加者が多かったのも当時としては極めて異色である。
 イマジズムの機関誌としては、上述の「ポエトリー」の他、やはりロンドンで1914年に発刊された「エゴイスト」が挙げられ、同年にはオールディントン、パウンド、フリント、H.D.らを始めとしたイマジストたちの詩からなるアンソロジー『イマジストたち(Des Imagistes)』が発行され、英詩界に多大な影響を与えた。その後パウンドの独裁的な編集手法に反発したアメリカの女流イマジストA.ローウェル(Lowell)のプロデュースによるアンソロジー『イマジスト詩人選(Some Imagist Poets)』が1915年から17年にかけて年1回のペースで3冊発行されたが(他の寄稿者は、H.D.、オールディントン、H.D.ロレンス[Lawrence]J.G.フレッチャー[Fletcher])、パウンドの運動からの離脱もあり、この時期をもってイマジズムは終焉を迎える。このように、同運動は実質10年にも満たない活動であったが、後年の近代英語詩、とりわけ自由韻律詩に計り知れない影響を与えたといえる。

 

印象主義(独:Impressionismus

 1890年代から1920年代にかけて、フランス絵画の影響を受けドイツで出現した文学潮流。絵画における印象主義が源流であるが、絵画同様、瞬間の印象を言語により捉えようと務めた。現実をありのままに描こうとした自然主義と、非現実の世界の描写を試みた象徴主義シュルレアリスムの過渡期に現れたスタイルといえる。絵画では微妙な色彩の濃淡により移ろいゆく瞬間をカンバスに定着しようとしたが、文学でも同じく光の陰影や色彩の描写が重要な役割を演じる。物事の現実の描写ではなく、現実認識の描写が肝要なのである。好例がリルケの『マルテの手記』(1910)であり、この日記体小説は作品世界を体系化するようなまとまった筋を持たず、断片的印象で毎日が物語られる。それでいて、主人公の内面世界の日々の拡大が克明に察知されるのである。印象主義を明確に標榜した作家はいないが、リーリエンクローン(『副官騎行とその他の詩』[1983])やシュニッツラー(『輪舞』[1900])やホーフマンスタール(『詩集』[1907])らがその代表的作家に数えられる。リーリエンクローンの上掲作品は、理念的に全く相容れない筈である自然主義作家たちからも評価されたが、瞬間における些細な事物の描写に意を尽くす印象主義は、あらゆる事物を仔細に描こうとする自然主義と、奇妙なことに文体が類似してくる場合があり、世界観も同じく厭世的になる傾向が見られたのである。
 

印象批評(英:Impressive Criticism / 仏:Critique impressionniste

 文芸批評の伝統的一手法。広義には、従来からの美学批評の流れを汲み、一定の文学理論に則らず、批評家が自らの美的・文芸的印象を主な評価基準として行う文学作品の批評を指す。その内容は当然ながら批評家の主観に左右されるため、近代以降アカデミズムの世界で盛んとなった文学理論に基づく客観的・分析的文学研究からは「非学問的」、或いは「高級な感想文」であるなどと批判される傾向にある。だが、文学を芸術の一分野と見なす限り、美術批評の基本的手法である印象批評は、現在も尚その根本的価値を失ってはいない。すなわち、文芸批評をひとつの文学ジャンルと見なすならば、その主体は紛れもなく印象批評が担っているといえよう。現在においても、各メディアでの書評や文学賞選考過程で使用される批評手法は、印象批評が主なものとなっている。
 狭義には、19世紀後半に文学を科学的学問と見なす傾向がヨーロッパに広まった結果、文学に実証主義的客観性を付与しようとする自然主義が台頭してくるが、そのアンチテーゼとしてフランスで唱えられた批評家の印象を重視する批評態度を指す。アナトール・フランスやジュール・ルメートル、或いはマシュー・アーノルドらがこうした印象批評による文学論を著し、更にボードレールやT.S.エリオットやプルーストらの印象批評的エッセイで、文芸評論は文学におけるひとつの確固としたジャンルとして認知されたのである。
 


イン・メディアス・レス(羅:in medias res

 「物語の中途へ」を意味し、ホラティウスが『詩論(18 BC)で提唱した物語技法で、「非線形の語り口」の一種。物語を最初から語ることはせず、中途の核心部分から語り始め、それ以前の物語はフラッシュバック等の技法を使って紹介していく。ホメロス『イーリアス』、『オデュッセィア』(紀元前8世紀中盤)で既に使用され、叙事詩では慣例となり、ダンテ『神曲』(1308?)、ミルトン『失楽園』(1667)といった中世作品を経て、スターン『トリストラム・シャンディ』(175967)E.ブロンテ『嵐が丘』(1847)、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(1939等の近現代文学においても頻繁に使用されているが、特に映画・テレビドラマにおいては、限られた時間内で物語全体を描くには好適で、映像を用いることにより視聴者も理解しやすいこの技法は多用される傾向がある。


隠喩 メタファー

 

韻律mετρική / metrum / 英:Meter / 仏:Métrique / Versmaß

 詩や劇などで用いられる韻文が持つ一定のリズム。語の強弱や長短によって形成される。母音を核とする音節(単語内で聞き取れるひとまとまりの音)が複数個集まり「詩脚」を形成するが、主に使用された詩脚は、イアンボス(短長格)トロカイオス(長短格)アナパイストス(短短長格)ダクテュロス(長短短格)4種である。韻律は、この詩脚の数に応じて「~歩格」と呼ばれる。歩格は1歩格(モノメトロス)から8歩格(オクタメトロス)まで存在するが、特に5歩格(ペンタメトロス)並びに6歩格(ヘクサメトロス)は古今広範に使用された。また、フランス詩歌で特に愛用されたアレクサンドランは、イアンボス・ヘクサメトロスを繰り返す(2連)形式である。西洋詩歌では、韻律の付加的な存在として、「韻(英:rhyme / 仏:rime / 独:Reim)」があり、とりわけ行末を同様の音節で締め括る「脚韻」が重視された(韻を踏むことを「押韻」という)。従ってほとんどの韻文に脚韻は導入されたが、イギリス発祥で、シェイクスピア作品の主要韻律となったブランクヴァースは、押韻をしない数少ない韻律詩形のひとつである。
 

ヴァン・ダインの20(英:Van Dine's Commandments

  アメリカのミステリ作家ヴァン・ダインがノックスの十戒」と同年の1928年に発表したミステリのフェアプレイを守るための20の原則。内容は以下のとおり:
1)事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。
2)作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
3)不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリーの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くことではない。
4)探偵自身、あるいは捜査員の一人が突然犯人に急変してはいけない。これは恥知らずのペテンである。
5)論理的な推理によって犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自供によって事件を解決してはいけない。
6)探偵小説には、必ず探偵役が登場して、その人物の捜査と一貫した推理によって事件を解決しなければならない。
7)長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。
8)占いとか心霊術、読心術などで犯罪の真相を告げてはならない。
9)探偵役は一人が望ましい。ひとつの事件に複数の探偵が協力し合って解決するのは推理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に対して公平を欠く。それはまるで読者をリレーチームと競争させるようなものである。
10
)犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは。その作者の無能を告白するようなものである。
11)端役の使用人等を犯人にするのは安易な解決策である。その程度の人物が犯す犯罪ならわざわざ本に書くほどの事はない。
12)いくつ殺人事件があっても、真の犯人は一人でなければならない。但し端役の共犯者がいてもよい。
13)冒険小説やスパイ小説なら構わないが、探偵小説では秘密結社やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしてはいけない。彼らは非合法な組織の保護を受けられるのでアンフェアである。
14
)殺人の方法と、それを探偵する手段は合理的で、しかも科学的であること。空想科学的であってはいけない。例えば毒殺の場合なら、未知の毒物を使ってはいけない。
15
)事件の真相を説く手がかりは、最後の章で探偵が犯人を指摘する前に、作者がスポーツマンシップと誠実さをもって、全て読者に提示しておかなければならない。
16)よけいな情景描写や、わき道にそれた文学的な饒舌は省くべきである。
17)プロの犯罪者を犯人にするのは避けること。それらは警察が日ごろ取り扱う仕事である。真に魅力ある犯罪はアマチュアによって行われる。
18)事件の結末を事故死とか自殺で片付けてはいけない。こんな竜頭蛇尾は読者をペテンにかけるものだ。
19)犯罪の動機は個人的なものがよい。国際的な陰謀とか政治的な動機はスパイ小説に属する。
20
)自尊心(プライド)のある作家なら、次のような手法は避けるべきである。これらは既に使い古された陳腐なものである。A.犯行現場に残されたタバコの吸殻と、容疑者が吸っているタバコを比べて犯人を決める方法。B.インチキな降霊術で犯人を脅して自供させる。C.指紋の偽造トリック。D.替え玉によるアリバイ工作 E.番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだったとわかる。F.双子の替え玉トリック。G.皮下注射や即死する毒薬の使用。H.警官が踏み込んだ後での密室殺人。I.言葉の連想テストで犯人を指摘すること。J.土壇場で探偵があっさり暗号を解読して、事件の謎を解く方法。                   
 「ヴァン・ダインの20則」は、「ノックスの十戒」と比較するとより綿密で真剣に構想された執筆手法であるが、やはり現在では無視されている原則も多い。



ヴィクトリア朝文学(英:Victorian literature

 ヴィクトリア女王(18371901)の治世下における英文学。産業が発展し、資本主義社会が確立すると共に国家が大いに繁栄した時代背景を受け、文学も楽観主義や夢想性を特徴としたロマン主義から、現実を直視した社会性の強い作風へと推移し、大陸同様写実主義が台頭してくる。そのため、英文学においてはこの時代から、その主流が詩から小説を中心とする散文へと移行することになる。
 散文の世界では、批評家・歴史家として活躍したトーマス・カーライルや、「真善美」を軸として芸術の道徳性を重視した美術評論家ジョン・ラスキンや、逆に「芸術のための芸術」を標榜し耽美主義的評論を展開したウォルター・ペイターなどが著名である。小説では、圧倒的な大衆的人気を獲得し、現代でも尚広く愛読されている(ただ、その作品群の芸術性に関してはいささか疑問符もつく)ディケンズ、ディケンズが下層社会を活写したのに対し、上流社会を風刺も交えた観察眼で生き生きと描き上げたサッカレー、『ジェイン・エア』(1847)、『嵐が丘』(同年)という、英文学史上不朽の小説(ゴシック小説)を残したシャーロット並びにエミリーの「ブロンテ姉妹」(正式には、『アグネス・グレイ』[同年]を書いた末妹アンを加えた3姉妹)、『サイラス・マーナー』(1861)や『ミドルマーチ』(187172)など、自由主義的で思索性や心理描写に富んだ骨太の作品を残したジョージ・エリオット(本名メアリー・アン・エヴァンズ)、人間の奥底から暴き出したエゴイズムを笑いと憐憫の対象とする『ザ・エゴイスト』(1879)を書き、夏目漱石にも影響を与えたジョージ・メレディス、『不思議の国のアリス』(1865)により、近代ファンタジーの先鞭をつけた数学者ルイス・キャロルらが同時代におけるイギリス小説の隆盛を築き上げた。
 ヴィクトリア朝時代は帝国主義の最盛期であり、文学も、そうした時代がもたらす社会的なひずみや精神的な苦悩に直面せざるを得なかったが、例外的に楽天的で、帝国主義の正の側面である国際性豊かな作品を生み出した小説家も現れた、『宝島』(1883)や『ジキル博士とハイド氏』(1886)で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソン、『ジャングル・ブック』(1894)でベストセラー作家となり、後にノーベル文学賞を受賞(1907)したラドヤード・キップリングは、その例外的作家といえよう。
 また、この時代にあっても、ラファエロ以前のイタリア・ルネサンスを理想とし、ロマン主義を継承する耽美主義的芸術集団が「ラファエル前派」として特筆される。この集団は絵画美術を主要領域としたが、文学においてもダンテ・ガブリエル・ロセッテイ、ウィリアム・モリス、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンらが活躍し、ヴィクトリア朝文学の例外ならぬアンチテーゼとも呼べる芸術集団となった。こうした芸術潮流は、世紀末においてオスカー・ワイルドの悪魔的耽美主義作品とも呼びうる『ドリアン・グレイの肖像』
(1891)に結実する。
 文学の主流を散文に譲りはしたが、この時代は英詩を代表する詩人も輩出している。桂冠詩人や男爵に叙され、物語詩『イノック・アーデン』
(1864)で我が国にも名高いアルフレッド・テニスンや、上田敏が訳詩集『海潮音』(1905)で「春の朝(あした)」と題して紹介した劇詩『ピッパが通る』(1841)を書いたロバート・ブラウニングがそれにあたるだろう。
 また、文学とは直接関係はないが、イザベラ・メアリー・ビートンによる、料理レシピを中心として保育や衣料や家庭の医学など家政全般を指南した案内書『家政読本』
(1861)は、1000ページ以上の浩瀚な書物であるにも関わらず200万部以上の売り上げを記録し、所謂ノウハウ本の嚆矢とも呼べる存在となった。

 

ヴィーン民衆劇(独:Alt-Wiener Volkstheater

 近世のドイツ語圏では、宮廷演劇のアンチテーゼとして、謝肉祭劇や宗教劇など素人により上演される演劇が存在していたが、18世紀よりプロの役者により都会で上演される民衆喜劇が台頭した。コンメディア・デッラルテの影響を受けたこの劇は、日常の小市民的生活から題材を取り、方言を交えた粗野な日常ドイツ語で演じられ、滑稽な中にもシリアスな側面を失わず、演奏や歌やパントマイムといった脚色も交えた娯楽作品として一世を風靡した。ベルリンやハンブルクでもこうした劇は上演されたが、ヴィーンで殊の外発展を遂げたために、ヴィーン民衆劇と呼ばれている。ヴィーン民衆劇は、シュトラニツキー(Josef Anton Stranitzky)が道化のハンスヴルストを主人公とした「ハンスヴルスト劇」を18世紀前半に大成したことによりバロック演劇から独立し、フィリップ・ハフナー(Hafner)により全くの即興劇から脱し、ドイツ流に洗練化されたロマンチックな「魔法劇」が創始され、19世紀前半の三月革命前期におけるライムントの魔法劇(『精霊王のダイヤモンド』[1824])やネストロイの「笑劇」(『お守り』[1840])で文学的最高潮を迎えた。19世紀後半にはヴィーン社会も産業化が進み、この時期のアンツェングルーバーが最後の耀きを放った後(『第四の戒め』[1878])、素朴な民衆性・宗教性を基盤としたヴィーン民衆劇は衰退するが、以降も現在まで、オーストリア文学に一定の影響を与え続けている。ヴィーン民衆劇の典型として、現在も尚高い人気を保ち続ける作品に、シカネーダーの『魔笛』(1791)がある。この作品はモーツァルト作曲の歌入り芝居(ジングシュピール)として名高いが、鳥刺しパパゲーノは道化ハンスヴルストの類型であるし、作品そのものが魔法劇の体裁を有している。ヴィーン民衆劇の作家は、シカネーダーのように、作者、役者、演出家、興業主などをすべて一人でこなすのが通例だった。
 

ヴェリズモ(伊:Verismo

 19世紀末にイタリアで流行した文学運動。「真実主義」と訳される。直接的な影響は、直前にヨーロッパ文学を席巻した自然主義から受けているが、その勃興の契機は、1861年のイタリア統一に求められる。統一国家成立により、北イタリア語を基本とする共通イタリア語が提唱される反面、シチリアやナポリといったイタリア南部の方言や風習を文学に取り入れる動きも高まり、特に南部貧困層(彼らは統一以前から封建制大領主の搾取にあっていた)の日常生活を自然主義的に描写する作品が、「ヴェリズモ小説」として脚光を浴びたのである。代表的作家にジョバンニ・ヴェルガがおり、シチリア島を舞台にした彼の短編集『田舎の生活』(1880)は、その一編『カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の騎士道)』が後に戯曲化、更にオペラ化もされ、ヴェリズモの名をヨーロッパ中に知らしめた。他に、ヴェルガと同郷のルイージ・カプアーナ(『ロッカヴェルディーナ侯爵』[1901]や、サルデーニャ島の民衆生活を描き、1926年にノーベル賞を受賞したグラツィア・デレッダ(『エリアス・ポルトルー』[1903)などが名高い。ヴェルガが、ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」を範に取り、5連作小説『敗者』執筆(未完)を計画したことからも、ヴェリズモへの特にフランス自然主義の影響を推し量ることができよう。ただ、ゾラが唱える自然主義は、描写するに当たり徹頭徹尾作者の主観を排したのに対し、多くのヴェリズモ作品の根底には、語られる地域住民に対する愛着や共感が認められる。
 

ヴェルター効果(独:Werther-Effekt / 英: Copycat suicide

 メディアで広範に周知された自殺が時として連鎖的な模倣自殺を引き起こす現象。「連鎖自殺」ともいう。1774年に発表されたゲーテの処女小説『若きヴェルターの悩み』は、他人の婚約者への恋に敗れた主人公がピストル自殺する物語だが、発表後ヴェルター同様の服装(青い上着に黄色いチョッキと長靴)をしてピストル自殺を遂げる青年が続出した。この騒動はライプチヒでの小説発禁処分にまで発展するが、当時のドイツではこうした現象に学術的用語はつけられていなかった。ヴェルター効果を初めて学術的に確認・規定したのはアメリカの社会学者デヴィット・フィリップである(1974)。彼はニューヨーク・タイムス一面で報道された著名人の自殺事件を1947年から67年まで調査し、報道後の国内での自殺数の増減を調べた。その結果、報道と自殺数には明らかに相関関係が認められたのである。最も多数の自殺を引き起こした事件は、62年のマリリン・モンロー自殺事件であった。我が国でもヴェルター効果は古くより確認されており、江戸時代の浄瑠璃や浮世草紙や落語で扱われた「心中物」、1903年華厳の滝に投身自殺した一高生藤村操、1986年に飛び降り自殺したアイドルタレント岡田有希子などが、この効果を引き起こしている。
 


ウェル・メイド・プレイ(英:Well-made play / 仏:Pièce bien faite

 もともとは、綿密に練られたプロットのもと、観客の満足を得るべく周到に構成された戯曲を意味する。19世紀中頃に活躍したフランスの劇作家且つオペラ台本作家でもあったウジェーヌ・スクリーブの作品を形容する用語として生まれた。その後、その手法は、フランスではデュマ・フィス、ヴィクトリアン・サルドゥ、エミール・オージェ、イギリスではウィリアム・S・ギルバート、オスカー・ワイルドなどに受け継がれたが、バーナード・ショウやイプセンもウェル・メイド・プレイの継承者といえる。スクリーブの作品は、存命当時から迎合的な文学と見なされていたが、アカデミー・フランセーズ会員に迎えられなど、彼の文学は一定の評価もなされていた。しかし、すべての謎が明らかになるクライマックスや、ハッピーエンドなど、卑俗な言い回しを使えば「お約束」を多用するウェル・メイド・プレイの作風は、その後の自然主義の勃興と共に否定的な見方をされるようになり、現代では、「大衆受けする娯楽性や技巧性を持ち、分かり易いものの、内容の掘り下げが不十分で芸術性に乏しい作品」を形容する、否定的な用語として用いられる場合が多い。



ヴォードヴィル(仏:Vaudeville

 歌や踊りや曲芸や手品やコントで構成される大衆娯楽劇。もともとは15世紀のフランスに生まれ、シャンソンの一源流ともなる風刺的流行歌を指したが、そうした歌が挿入された舞台演劇もこの名で呼ばれるようになり、19世紀前半のフランスや、後半のアメリカで最盛期を迎えた。19世紀初頭までは、オペラのフィナーレで登場人物全員が歌う曲もヴォードヴィルと呼ばれた。)ヴォードヴィルに出演する芸人を「ヴォードヴィリアン」と呼ぶ。ヴォードヴィルはその後アメリカにおいて、フランスのキャバレー文化と融合し、寸劇や曲芸やダンスなどを取り入れた大規模な「レヴュー」へと発展する。そして1920年代にはラインダンスで一世を風靡したブロードウェイの大規模レヴュー「ジークフェルト・フォリーズ(ジークフェルトの馬鹿騒ぎ:アメリカの演出家フローレンツ・ジークフェルト・Jr.がプロデュースしたブロードウェイの豪華レビュー)」に結実した。レヴューはトーキー映画やテレビの出現により廃れたが、商業ベースに乗り初めて大規模化した劇場娯楽がヴォードヴィルであったといえよう。ここからチャップリンやキートンなど、後の世界的喜劇スターが輩出した。(ヴォードヴィリアンであった彼らが以降の喜劇役者と決定的に違う点は、楽器演奏など、他の芸にも達者だったことである。)
 

うそ物語(独:Lügendichtung

 読者が信じることをはなから期待してはいないように、出来事を極度に誇張して描いた物語。大ぼら吹きである主人公が登場し、自分の冒険譚を吹聴するパターンが多い。茶番劇やおとぎ話や悪漢小説に通じる点も多く、特に旅行文学と結びつき数々の傑作を生み出した。その起源は、古代ローマの喜劇作家プラウトゥス(『ほら吹き兵士』[204 ?]や古代ギリシアの風刺作家ルキアノス(『ほんとうの話』[2世紀後半])にまで遡る、その後うそ物語はバロック時代のドイツにおいて再興し、グリューフィウス(『ホリビリクリブリファクス』[1663])などの作品を生んだが、民衆本の分野で特に好まれた(『ティル・オイレンシュピーゲル』[15世紀]、『フィンケンリッター』(16世紀))ドイツでは、更に18世紀、「ほら吹き男爵」として名高いミュンヒハウゼン男爵が現れ、彼の冒険譚が様々な作家により『ほら男爵の冒険』として出版された(初出は1781年)。その他、うそ物語の代表的作者としては、ラブレー(『ガルガンチュワとパンタグリュエル』[153252])、フィッシャルト(『翻案ガルガンチュア』[1575])、グリンメルスハウゼン(『ジンプリチシムス・トイチュの冒険[阿呆物語][1668]。この作品は、代表的な「悪漢小説」でもある)などが挙げられようが、これらは皆、優れた風刺文学でもあり、その典型的傑作と呼びうる作品がスウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726)である。また、シラノ・ド・ベルジュラックは風刺文学ではないが空想性に特に富む作品群(『月世界王国滑稽譚』[1657]、『太陽王国滑稽譚』[1662])を著し、これらは後のSFの先駆けをなす作品として注目される。
 

ウト・ピクトゥラ・ポエシス 詩論



ウビ・スント(羅:Ubi sunt

 この問いの全文は、” ubi sunt qui ante nos fuerunt ?”(「私たちの前にいた人たちはどこにいるの?」)であり、中世の教会説教や文学でしばしば用いられたトポス(常套句)であった。その目的とするところは、読者や聴衆に、この世の権力や美の移ろいやすさや儚さ、即ち「諸行無常」を訴え、地上の欲を超越した彼岸へといざなうためであった。元々の出典は、旧約聖書続編バルク書の「今どこにいるのか、諸国の民の指導者たちは、」(3:16)で始まり、「こういう人々は消え去って、陰府[よみ]に下り、代わって他の者たちが現れた。」(3:19)と締め括られ、世の無常を訴える4節とされる。このトポスは、中世文学で広く用いられたが、特に虚無感を重要なテーマとするバロック期の文学において重用された。最も有名な例は、中世最大の詩人とも称されるフランソワ・ヴィヨン(Villon)の『遺言詩集』(1461/62)に収められた「古の貴女を讃えるバラード」(“Ballade des dames du temps jadis”)に現れるリフレイン「さりとても、こぞ(去年)の雪今いずこ」(“Mais où sont les neiges d’antan ?”)で、現在は広く人口に膾炙している。
 また現代においても、例えば1955年にアメリカのフォーク歌手ピート・シーガー(Seeger)がミハイル・ショーロホフの長編小説『静かなドン』(1926-1940)に出てくるコサック民謡にヒントを得て作詞・作曲した「花はどこへ行った」(“Where have all the flowers gone?”)は、ウビ・スントの無常観を用いて戦争の虚しさを表現した反戦歌として有名である。



ウリポOulipo

1960年、数学者フランソワ・ル・リヨネ(François Le Lionnais)を会長としてパリに設立された実験的文学者グループ。Oulipoとは、正式名称 Ouvroir de littérature potentielle”(ポテンシャル文学工房)の略である。文学に数学的要素も取り入れた言語遊戯的な実験を行い、パタフィジックから受け継いだユーモアやパロディーの精神も兼ね備えた洒脱な集団である。主なメンバーはレーモン・クノー、ジャック・バンス、ジャン・クヴァル、ノエル・アルノー、ジョルジュ・ペレックなど。後にマルセル・デュシャン、イタロ・カルヴァーノらも海外より参加し、我が国ではラブレー研究家の渡辺一夫も会員であった。ウリポの文学的実験は、例えば、回文で作品を作り上げる、完全韻(オロリーム:ディスティヒョンであるが、2連目の単語の韻が1連目と完全に一致する。同音意義的遊戯)、単語を、国語辞典の中で一定の順番で後出する別の単語に置き換える(S+7法)、マス目に単語を当てはめ、列に並んだ単語から小説プロットを自動的に作成する、平凡な出来事を様々な文体で書き分ける(クノーの『文体練習』[1947])、14行からなるソネット10編をばらばらに分解し、そこから読者が勝手にソネットを創り上げる(100兆通りのソネットが可能。これもクノーが『百兆の詩編』[1961]で実験した)、同じ単語を二度と使わない、など多岐に渡っているが、中でも有名なものは、リポグラム(欠字体法)と呼ばれる技法である。これは特定の文字を使わず作品を執筆する技法だが、ペレックは、フランス語で最も頻繁に使用される”e”を用いずに短編『失踪』(1969)を書き上げてみせた。リポグラム小説は従って、完全な邦訳はほぼ不可能だが、英訳や独訳などは同様の技法を用いることにより可能である。リポグラムの対極にある技法が、アルファベットを全て使用して作文するパングラムである。
 

エアポート・ノヴェル(英:Airport novel / 仏:Littérature de gare

 空港(フランスでは駅)の待合室での退屈しのぎとして読まれるような娯楽小説。ミステリ歴史小説やスリラー小説の類が多く、その特徴として、文章が読み易く、ストーリーのテンポがよく、そしてなにより長編であることが挙げられる(短編では充分な時間の暇つぶしとならないため)。本のサイズはペーパーバックに準ずるが、装丁や紙質は更に粗悪で「読み捨てられる」ことを前提とした作りである。一般書店では販売されておらず、駅や空港の売店で他の雑貨と共に販売されることが多い。エアポート・ノヴェルは、恐らくアーサー・ヘイリーの『大空港』(1968:この小説は、正に空港で起こるパニックが題材となっていた)のヒットにより、広範に認知されたが、1950年代まで人気を博していたパルプ・マガジンの掲載小説であるパルプ・フィクションが発展した分野であるとも捉えられよう。ただ、マイケル・クライトンやダン・ブラウンなどといった人気作家も、その作品の娯楽性からエアポート・ノヴェル作家と呼ばれる場合がある。


英雄詩形 ヘクサメトロス

英雄対句Heroic couplet

 イギリス文学で発達した詩形のひとつ。原名ヒロイック・カプレット。「英雄対韻句」、「英雄詩体二行連句」、「英雄二行詩」などとも訳される。17世紀末から18世紀にかけてのイギリス文学で流行した英雄劇で主に使用されたことからこのように呼ばれた。イアンボス(弱強格)ペンタメトロス(5歩格)を二行重ねるのが特徴でaa, bb, ccと規律正しく脚韻を踏んでいく。英雄対句を創案したのはチョーサーとされ、物語詩『善女物語』(1372-86)で初めて試みられた後、『カンタベリー物語』(1387頃‐1400)で全面的に使用された。以降、物語詩以外にも二行だけで完結する二行連で広く使われ、ベン・ジョンソンがエピグラムに、ジョン・ダンが風刺詩に使用した後、ドライデンやポープによりほぼ完成を見た。現代では、全盛期へのオマージュとして英雄対句が使用される場合がある(ナボコフの小説『青白い炎』[1962]など)。
 

エクストラヴァガンツァ(英:Extravaganza

 19世紀半ば以降、主にアメリカ・ブロードウェーを中心にして発達した大衆娯楽ショー。レヴューやバレーやミュージカルの大規模融合舞台であり、サーカスの要素も含む。その創始者の一人は、レヴュー同様、19世紀転換期にイギリス大衆娯楽演劇の礎を築いたジェームス・プランシェ(Planché)とされる。題材としては妖精物語伝来のおとぎ話や、エキゾチックな話が好まれ、最初期の代表作としては最初のブロードウェー・ミュージカルとされるバラス(Charles M. Barras)『ザ・ブラック・クルーク(The Black Crook)(1866)が挙げられよう。エクストラヴァガンツァは、従って大規模ファンタジー・ミュージカルと定義することが可能で、その意味では現代においても、ハマースタイン2世『王様と私』(1951)やライス『ライオン・キング』(1997)などの作品は、一種のエクストラヴァガンツァ作品である。
 

SF(英:Science Fiction

 「空想科学小説」と訳され、主に小説形式で書かれる架空の物語。その嚆矢としては広義では古代ギリシア文学にまで遡り、ルキアノスの『本当の話』(167頃:月旅行譚)や『イカロ・メニッパス』(2世紀半ば:主人公がイカロスのように腕に翼をつけ、月世界まで飛んでいく)やダンテ『神曲』(1307-21)、或いは我が国の『竹取物語』(9-10世紀?)などがSF的要素を孕んだ古典と考えられよう。更にシラノ・ド・ベルジュラックの(『月世界王国滑稽譚』[1657]、『太陽王国滑稽譚』[1662])は、ロケットや宇宙船のアイディアが描かれるなど、後のSFに直結する先駆的作品と見なしうる。これらの作品は、旅行文学」(特に月世界への旅行)やうそ物語」の系譜にも連なるが、SF独自の特徴、すなわち科学的背景に立脚した作品構成を備えた作品の先駆けは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)である。この小説も当初怪奇趣味のゴシック小説として書かれたのだが、フランケンシュタイン博士が実験室で電気の力を借りて人造人間を作り出すという筋は、それ以前にも存在した「ホムンクルス・モティーフ」と一線を画したSF的風土を作り出した。その後、ポー(『大渦に呑まれて』[1841])からヴェルヌ(『地底探検』[1864]、『月世界旅行』[1865]、『海底2万里』[1870])を経て、H.G.ウェルズ(『タイム・マシーン』[1896]、『透明人間』[1897]、『宇宙戦争』[1898])に至りSFは文学ジャンルとして完全に成立した。ただ、名称としてのSFは、1926年に創刊されたSF専門誌『アメージング・ストーリーズ』の編集長であるヒューゴー・ガーンズバックにより命名されたものである。以降SFは同誌などパルプ・マガジンの興隆と共に発展していく。その中でも30年創刊の「アスタウンディング」(後に「アナログ」と誌名変更)は、37年から編集長にジョン・W. キャンベルを迎え、アシモフ、ハインライン、アーサー・C. クラーク、A. E. ヴァン・ヴォークトといったSF黄金時代を担う作家たちを育て上げた代表的なSF誌である。この時期までのSFの最大のテーマは、科学技術の進歩に伴う未来社会の描写であったが、これ以降、SFは様々なジャンルへと分化していく。その主なものを以下に挙げる。
ヒロイック・ファンタジー:いわゆる英雄もの。エドガー・ライス・バローズの「火星シリーズ」(1912-43)を雛形とするが、ロバート・E.ハワードの「英雄コナンシリーズ」(1932-36)によりこの名称が生まれた。この種のSFで、最も長大なものは、1961年にドイツ(当時は西ドイツ)で刊行を開始し、異なる作者がリレー形式で今尚執筆し続けている「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズである(現在までシリーズは3200話以上を刊行)。
スペース・オペラ:宇宙劇。西部劇(ホース・オペラ)の舞台を宇宙に移した活劇といえる。すなわち、馬の代わりに宇宙船に乗り、一匹狼でレーザー銃の達人である主人公が荒廃した星に現れ、そこで悪玉宇宙人を退治し美女を救うという基本的構成である。このような低俗な作品がパルプ・マガジンを賑わせ、現在でもドイツの「宇宙英雄ローダンシリーズ」(1961-:作者多数:世界最長のシリーズ小説)などは絶大な人気を誇る。ただ、E.E.スミスの「レンズマンシリーズ」(1937-60)や「宇宙のスカイラークシリーズ」(1915-65)など、質的に高い評価を受けるものもあり、『ローマ帝国興亡史』を参考にした壮大な未来史であるアシモフの「銀河帝国興亡史シリーズ」(1951-53)やクラークの『2001年宇宙への旅』(1968)などは、スペース・オペラの枠を超えたハードSFともいえよう。ただ、やはりこれらの作品も「宇宙劇」に分類されることは確かである。
ハードSF: 科学性の極めて高いSF。前述の『2001年宇宙への旅』やハインラインの『宇宙の戦士』(1959:この作品に登場する「パワードスーツ」は、「ガンダム・シリーズ」で登場する「モビルスーツ」の原案であることは余りにも有名で、現在では実用化に向けて研究もされている「ロボットSF」もこのジャンルの一亜種と考えられる。
ニューウェーブSF:従来の無機的なSFのイメージに囚われず、哲学的・内省的・前衛的なテーマを扱う作品。アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ』(1956)、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(1959)、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)、レイ・ブラッドベリの叙情的短編SFなど、人物の心理描写に重点を置き、SFの文学的側面を追求した点に特徴がある。
サイバーパンク:電脳世界と人間世界の融合をテーマにする作品群。パターンとしては、人体器官を電子部品に入れ替えサイボーグ化した人物や、コンピュータ・ネットワーク世界(「サイバー・スペース」:ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』[1981]に初めて登場する)へ出入りすることができる人物を扱う作品が一般的である。大きな影響を与えた作品としては、「サイバー・スペース」という用語を初めて使用したウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』(1984)が挙げられる。
ディストピア文学:人間の夢が実現した理想的社会を描くユートピア文学とは逆に、科学文明が発達した末に現出する、非人間的、全体主義的社会を描くSF代表作にジョージ・オーウェル『1984(1949)が挙げられる。

ロボットSF人造人間をテーマとしたSF。ユダヤ教社会の伝説に登場する泥人形「ゴーレム」に人造人間の源を辿ることができるが、中世においては、錬金術が作り上げるとされた「ホムンクルス」も人造人間である。これを扱ったゲーテ『ファウスト第二部』(1832)は、SFとは定義できないが、人造人間を扱った最初期の文学といえよう。現代のイメージでのロボットを描いた文学の嚆矢は、チェコの作家カレル・チャペックの戯曲『R.U.R』(ロッサム万能ロボット商会:邦題『ロボット』:1920)であり、ここで初めて「ロボット」(チェコ語での「強制労働」[robota]からの派生語)という用語が用いられた。この後、文学における人造人間は、『R.U.R』や、シェリー『フランケンシュタイン』(1818)でイメージ付けられた「人間に危害を加える不気味な存在」か、アシモフの短編集『われはロボット』(1950)が描いた「人間を補佐するパートナー的存在」に二分されていく。(彼は、ロボットSFの定番となるロボット工学三原則を規定した点でも名高い。)現代では更に、ルーディ・ラッカーが「ウェア四部作」(1982-2000)などで、新たなロボットの解釈を試みている。
 この他に、サイバーパンクが描く電脳空想社会の別次元の社会として、高度に発達した蒸気機械文明を描くスチームパンク」もSFの一ジャンルである。SFは時代の未来イメージを映す鏡といえるが、機械文明が極度に進歩した現代にあって、ニューウェーブやサイバーパンクといった、未来に光明を見出さず、文明の発達により逆にカオス化した社会を描こうとする作品が主流となっている。また、フランク・ハーバート『デューン・砂の惑星』(1965:「ソフトSF」あるいは「エコロジーSF」と評される)のように、文学的に高く評価される作品も現れた。


エピオニコス詩脚



エピグラフ(英・独:Epigraph / 仏: Épigraphe

 元々の意味は、「碑文研究(英:Epigrapy)」(我が国では「金石学」とも呼ばれる)において、解読・研究対象となる金属や石に掘られた碑文を指す。それが18世紀頃から英文学や仏文学に転用され、詩集や小説や戯曲といった文学作品の冒頭(或いは各章冒頭)に置かれる短い詩や句を指す用語となった。そのような詩句は、通常は過去の文学作品や金言・諺から取られるが、作者が創作する場合もある。エピグラフを置く目的は、一般的には直後に始まる作品の主題への導入のためとされているが、一見したところ何の関わりもない詩句が置かれ、作者の意図を計りかねる例もあり、その形態や目的は作者個人の嗜好に完全に委ねられているため、極めて多様であるといえる(単にカセット効果を狙い置かれたのではないかと判断されうるものもある)。次項のエピグラムも、エピグラフとして利用される場合が少なくない。

 

エピグラム(希:eπίγραμμα / 羅:epigramma / Epigram

 「寸鉄詩」或いは「警句」と訳される、簡潔でひねりを利かせた短詩。基本的には2行詩のエレゲイア(エレジー)で書かれるが、それほど厳密ではない。本来は古代ギリシアにおいて、墓石や奉納品や彫刻作品などに、対象物を解説する目的で付けられたものである。後のヘレニズム時代になると、こうした碑銘は独自の文学形式として確立し、カッリマコスやメレアグロスらが活躍した。その集大成は紀元前7世紀から起源10世紀までに亙る、約300名の詩人の手になる約4500のエピグラムを集めたヨーロッパ最大の詩文学アンソロジー『ギリシア詞華集』である。ローマ時代に入るとエピグラムは更に風刺性を増し、マルティアリスやエンニウスらの名手を生み出した。近世におけるエピグラムはイギリスやドイツでも作られたが、特にそのエスプリを好むフランスで継承され、サン=ジュレやクレマン・マロ、或いはロンサールやボワローらが秀作を残した。
 



エピゴーネン(独:Epigonen

 主に芸術、特に文学において、独自性を持たず、先人の偉大な作品の作風を模倣しただけの作品。往々にして前時代を脱却していない同時代の社会層で一時的に人気を博する場合もあるが、自らの芸術観を確立できないために、芸術思潮の発展の中で独自の時代を画することは結局できず、後世に影響を与えることも少ないため、否定的な価値観を伴う名称である。
 名称は、古代ギリシア神話における「テーバイ攻めの七将」に由来し、テーバイ攻めの際に討ち死にした七将(アドラートスのみ生還)の遺恨を晴らすべく、10年後に再びテーバイを攻めた彼らの子供たちを「エピゴノイ(遺腹の子の意)」と呼んだ故事から取られた。この名称が定着したのは、独作家K.インマーマン(Immermann)による世相を描いた同時代小説『エピゴーネン』(1836) によるところが大きい。
 エピゴーネンは、時代全体を覆うこともあり、特に古代ギリシア・ローマ文化を模範とする後世の古典主義は、とりわけフランスにおいて高度に発展し、エピゴーネンとは捉え切れぬ独立した一大文学思潮を確立した(ドイツでは、古典主義に先立つシュトルム・ウント・ドランク時代にはとりわけ独自性が重視されたため、フランス程に古典主義が文学界に根付くことはなかった)。そして、この古典主義の作風が後世のエピゴーネンの恰好の模範となり、19世紀後半に結成されたミュンヘンの文学者サークル「クロコディール」(E.ガイベル[Geibel]、P.ハイゼ[Heyse])或いは、ドイツ偽古典主義詩人A.v.プラーテン(Platen)F.リュッケルト(Rückert)などがその典型と見なされている(ただ、後二者は、後世でも肯定的に評価されている)。イギリス文学においてはJ.ドライデン(Dryden)A.ポープ(Pope)を除いて古典主義的有力詩人は現れず、また、風刺性を文学的特徴としていたため、独仏のようにそのエピゴーネン文学も大きく流行することはなかった。

 

エピトゥリトス詩脚



エピローグ(英・仏:Epilogue / 独:Epilog

 戯曲や小説において、作品を締めくくる台詞や文章。対概念は作品冒頭に置かれるプロローグであるが、プロローグ同様、古代ギリシア劇で既に使用されていた。古代ギリシア劇の場合は、コロスが劇を締めくくる通常2行の道徳的な台詞をもってエピローグとしたが、エウリピデスの悲劇に特徴的であるデウス・エクス・マキナも、典型的なエピローグである。
 
エリザベス朝演劇において、エピローグはその形式を確立し、一般的に役者の一人が作品を総括する台詞を述べる。シェイクスピアはエピローグの名手でもあり、『ロミオとジュリエット』(1597)でのヴェローナ太守の台詞「朝と共に陰鬱な安らぎが訪れる。太陽も悲しみ、顔を見せようとしない。」、『真夏の世の夢』(1595 or 96)でのパックの台詞「もし私たち影法師がお気に召さなければ、こうお考え下さい、そうすればすべて円く納まりましょう--皆様方は今までずっと居眠りをされ、その間にいろいろな幻をご覧になったのだ、と。」、『お気に召すまま』(1599)でのロザリンドの台詞「ああ、女たちよ、あなた方が男に寄せる愛にかけて、このお芝居がお気に召しますよう、ご満足いただけますよう。」などが有名である。(『お気に召すまま』では、エピローグにおいて初めて題名の由来が明かされる点が斬新である。ただ、悲惨な結末を道徳的教訓に生かすためにも、悲劇にはエピローグがつきものであったが、シェイクスピア4大悲劇『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロ』には、エピローグがない。)
 この他、ドライデンやデヴィッド・ギャリックの機智溢れるエピローグも特筆される(ギャリックはプロローグでも有名)が、18世紀以降にはほとんど用いられなくなり、小説にその姿を留めるのみとなった。枠物語では、長い本編を挟んで、作品末尾で外枠の人物たちが再登場するが、そこではもはや物語の発展を見ず、そのままエピローグとなる場合が多い。時には一幕や一章を形成するプロローグに較べ、エピローグは概して短く、現代では省略される場合も少なくない。


エリザベス朝演劇(英:Elizabethan theatre

 イギリスにおいて、エリザベス1世時代(15581603)に興隆を迎えた演劇活動を指す。後に続くジェームズ1世時代(16031625)やチャールズ1世時代(162542)も含めてイギリス・ルネサンス演劇を形成するが、エリザベス朝演劇時代にイギリス演劇文化が一気に花開いた。その頂点に位置するのがシェイクスピアである。この時代には古代ギリシア時代以来の専業作家が復活し(大学卒である「大学才人」のような教養ある作家もいたが、多くの作家は無学であり、平民からの叩き上げであった。また、シェイクスピアのように役者を兼業する作家もいた)、劇場に関しては、それまで臨時の舞台となっていた教会や大学や中央広場に取って代わり、「シアター座」(1576年建設)や「ローズ座」(1587)や「グローブ座(1599)といったロンドンの常設劇場が活動の拠点となり、市民たちの恒常的な社交の場ともなった。そして常設劇場の誕生と共に、「国王一座」など巡業を主な活動とはしないプロの劇団が貴族の庇護を受け登場する。戯曲そのものも多様性を一気に増すが、この時代を代表する主な戯曲ジャンルは、悲劇・喜劇・歴史劇に分類される。悲劇に関しては、はシェイクスピア四大悲劇(『ハムレット』[1601]、『オセロー』[1604]、『リア王』[1605]、『マクベス』[1606])は現代でも頻繁に上演される傑作だが、当時はマーロウの『フォースタス博士』(1592)も高い人気を博した。またトーマス・キッドの『スペインの悲劇』(1587)は「復讐悲劇」というジャンルを生み出した新傾向の悲劇だが、民衆の人気はその凄惨さの故もあり非常に高いものだった。
 喜劇では、ロンドンの市民生活をユーモラスに描く「市民喜劇」が生まれ、トマス・デッカーの『靴屋の休日』
(1599)や、ミドルトンの『チープサイドの貞淑な乙女』(1613)などの秀作が書かれた。特筆すべきはベン・ジョンソンの喜劇群である。彼は古代からの「四体液気質説」を盛り込んだ『十人十色』(1598:Every Man in His Humour)で気質に支配される人間の滑稽さを描き、所謂「気質喜劇」の金字塔を打ち立てた。更に当時の市民社会を痛烈に風刺した『錬金術師』(1610)は、現在も上演される数少ないエリザベス朝演劇のひとつである。
 イングランド国民の自国意識の高まりと共に登場した
歴史劇は、マーロウの凄惨な悲劇『エドワード2世』(1592)が先鞭をつけるが、全体としてシェイクスピア作品が主流であり、歴代のイングランド国王を描いた『リチャード2世』(1595)、『ヘンリー4世』(1598)或いは『ヘンリー5世』(1599)などは、その壮大な視野や人物造形の巧みさなどから、ヨーロッパ文学中最高の歴史劇に数えられよう。エリザベス朝時代の劇作家は、経済的な理由から、シェイクスピアやベン・ジョンソンなどを除いて単独執筆する者は少なく、合作を主な執筆スタイルとしていた。従って、当時は4・5人の作家が手分けをして作品を短期間に仕上げる方法が一般的であり、「著作権」などは一切存在しない時代だったため、とにかく作品の質より量が重視された時代だったといえる。エリザベス朝演劇は、エリザベス1世没後も17世紀半ばまでイギリス・ルネサンス演劇として命脈を保つが、1642年に清教徒革命が勃発すると、卑俗な娯楽として演劇は清教徒から忌み嫌われ、上演は禁止されるに至り、イギリス・ルネサンス演劇はついにその終焉を迎えることとなった。
 

エルナニ戦争(仏:La bataille d'Hernani

 「エルナニ事件」とも呼ばれる。1830225日、コメディー・フランセーズにおいてユゴーの戯曲『エルナニ』が初演された。観客席には、ヴィニー、大デュマ、シャトーブリアン、作曲家ベルリオーズ、画家セレスタン・ナントゥイユなど、初期ロマン派の文学者、芸術家たちがいた。元貴族の山賊エルナニの恋と冒険を描いたこのロマン主義的作品は、それまでのフランス古典主義が標榜していた「三一致の法則」や「句またぎのタブー」や「身分規範」などを無視しており、古典主義信奉者たちの激しい反感を買っていた。そうした勢力による上演妨害を警戒したロマン主義信奉者たちは、初演当日、劇場の各所に陣取り沸きあがる野次や暴言を盛大な喝采で制し、上演を成功に導いた。(当日最も目立っていたのは、挑発的な「赤いチョッキ」を身に付け、若手ロマン主義作家グループ「セナクル」の中心的メンバーであったテオフィル・ゴーチェである。彼は日頃からロマン主義を奉じる情熱的なクラックとして名を馳せていた。)エルナニ戦争は、新興文学勢力であるロマン主義がフランス演劇界での台頭を告げることとなった象徴的な事件である。
 

エレジーελεγεία / Élégie / Elegy / Elegie

 「哀歌」、「非歌」又は「挽歌」と訳される詩の一種。古代ギリシアの「エレゲイア」を源とするが、エレゲイアは詩形を指す用語で、ダクテュロス6歩格(ヘクサメトロス)に同じく5歩格(ペンタメトロス)が結合したディスティヒョンと呼ばれる二行連を形成する。既に前8世紀末にはほぼ完成していたとみられるが、宴会用の詩や軍歌や墓碑銘と並んでこの詩形で歌われた恋愛詩が、プロペルティウスPropertius(『詩集』[1世紀末])、ティブッルスTibullus(『詩集』[1世紀末])、オヴィディウス(Ovidius)(『哀しみの歌』[1世紀初頭])など、所謂「エレゲイア詩人」たちにより洗練化された結果、後のエレジーの原型となった。(短詩として教訓、格言もこの詩形で歌われたが、これが独立して後のエピグラムに発達する。)
 ルネサンス期以降、エレジーは再興するが、それはもはや詩形ではなく、亡き恋人や失われた恋を切々と歌い上げる抒情詩を意味した。イタリアでは
16世紀前半アリオスト(Ariosto)、後半にタッソ(Tasso)が優れたエレジーを残し、タッソと同時代のデュ・ベレー(du Bellay)やロンサール(Ronsard)もフランスでのエレジー復興に寄与する。しかし、エレジーが真の復興を遂げるのは18世紀イギリスにおいてであり、エドワード・ヤング(Edward Young)(『不満、別名夜想』[174245])やトマス・グレイ(Thomas Gray)(『墓畔の哀歌』[1751])などといった「墓地派」詩人たちが死者や死そのものを哀悼したことにより、エレジーが挽歌的性格を色濃く帯びるようになった。この傾向は彼らが属した前ロマン派にも馴染むものである。こうした近代エレジーは、18世紀末のフランスに現れ断頭台の露と消えたアンドレ・シェニエ(André Marie Chénier)の諸作品にひとつの到達点を見ることができよう。この後、エレジーは重要な詩のジャンルとして定着し、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)(『アドネイス』[1821]:キーツへ捧げられたエレジー)、テニスン(Tennyson)(『イン・メモリアル』[1849]:友人ハラムへのエレジー)、ホイットマン(Whitman )(『前庭に最後のライラックが咲く時』[1865]:リンカーンへのエレジー。イギリス文学のエレジーは、以上の如く特定の死者に捧げられたものが多い)、リルケ(Rilke)(『ドゥイノの悲歌』[1923])などの作品を生み出した。


 

円卓の騎士(英:Knights of the Round Table

フランスの詩人ヴァースが書いたアーサー王伝説を扱う韻文小説『ブリュ物語』(1155)に初めて現れる王配下の騎士たち。身分の上下を争わぬよう、円卓に座ったことから彼らはこのように呼ばれた。その後、古フランス語、中英語、中高ドイツ語で書かれたアーサー王伝説が西ヨーロッパに広がるにつれ、円卓の騎士がその中心的登場人物となった。騎士の人数は特定されておらず、150(古フランス語での文献)300(トマス・マロリーアーサー王の死[1469頃])1600(レイヤモン『ブルート』[1200])などとされたこともある。近代イギリスでは、ドライデンやウォルター・スコットの影響で12(席の数はイエスの弟子の数にならって13用意されているが、ユダの席にあたる13番目は空席)乃至16人に集約されてくるが、いずれにせよ、文献の如何を問わず登場する重要な騎士が存在し、それらは以下の者たちである:
○ガウェイン:別名ガーヴァン、アーサー王の義理の弟ロット王の息子でランスロットと並び円卓の騎士において中心的な騎士。聡明で礼儀に篤い。
○ランスロット:アーサー王の同盟者フランス領主ヴァン王の息子。湖に住む妖精ヴィヴィアンに育てられ「湖のランスロット」と呼ばれる。アーサー王の妃ギィネヴィアと恋に陥る。
○トリスタン:別名トリストラム。コーンウォールの主君マーク王の妃に選ばれたイゾルデを迎えにいく際誤って共に媚薬を飲み、愛し合うようになる。遠地の戦いで負った致命傷を癒してもらうべく、イゾルデを呼びにやるが、妻としていた「白き手のイゾルデ」の嫉妬により王妃到着の印「船の白い帆」が王妃同行拒否の印「船の黒い帆」と報告され、失望の余り息絶える。ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの叙事詩『トリスタンとイゾルデ』(1210)更にはヴァーグナーの同名楽劇(1857-59)によって余りにも有名。
○ガラハッド:ランスロットの息子、聖杯を発見する3人の騎士の一人。
○ケイ:アーサー王の義兄、内膳の正(宮廷での祝宴をとりしきる高官)
○ユーウェイン:失った名誉を取り戻すべく、「獅子の騎士」とし遍歴する。ハルトマン・フォン・アウエの『イーヴァイン』(1202)が有名。
○モルドレッド:アーサー王の息子。王の不在中に王を裏切り王位に就き王妃ギィネヴィアを奪うが、帰還した王に討たれる。
○ボース:ガリアのガンヌ王の息子。聖杯を発見する騎士の一人。
○パーシヴァル:母の手のみで育てられた純朴な若者であった騎士の遍歴の旅に出、様々な失敗(その最大は、聖杯城を守る「漁夫王」アンフォルタスに彼が負った傷について尋ねなかったこと。-選ばれし者の問い掛けにより漁夫王の傷は癒える定めになっていた)を経た後に円卓の騎士に加わり、ボース、ガラハッドと共に聖杯を発見する。クレティアン・ド・トロワの教養小説風叙事詩『ペルスヴァル、あるいは聖杯の物語』(1190)で有名。
など。円卓の騎士は、現代のファンタジーにおいても度々扱われる。


エンドストッピング 句またぎ


押韻(英:Rhyme / Rime / 独:Reim

 同様の発音部分を持った単語を、文中で規則的に配置すること。西洋の詩作においては、最も基本的な技法であり、この技法を用いた文 (韻文)は、古代ギリシア・ローマ文学から小説が台頭する近代まで、西洋文学の根幹を成していた。同様の発音部分を「韻」と呼び、韻を規則的に配列することを「押韻する」もしくは「韻を踏む」と呼ぶ。

 韻は、大まかに4つの観点、即ち、1.押韻する音節数を含めた押韻形態、2.押韻する場所、3.押韻する音声、4.押韻形式から分類することが可能である。以下に、それらの観点に沿って韻のバリエーションを解説する。ただ、以下の分類は、無数に存在する韻を明確に分別するものではなく、実際には、複数の分類にまたがる韻も珍しくない。

【押韻する音節数を含めた押韻形態】

〇男性韻masculine rhyme):

 アクセントのある単語末尾の1音節(強音節)で韻を踏む。最も一般的な押韻。韻が強音で終わるため、歯切れのいい明快な印象を与える。

(例)If this be error and upon me proved,

I never writ, nor no man ever loved. (シェイクスピア『ソネット集』116

〇女性韻feminine rhyme):

 単語末尾の強音節と弱音節(アクセントのない音節)の2音節をセットで韻を踏む。韻が弱音で終わるため、余韻を伴うソフトな印象を与える。

A woman’s face with nature’s own hand painted,

Hast thou, the master mistress of my passion;

A woman’s gentle heart, but not acquainted

With shifting change, as is false women’s fashion...

(シェイクスピア『ソネット集』20

paintedacquaintedababpassionfashioncdcdの女性韻。

〇ダクテュロス韻(dactylic rhyme):

 長短短格であるダクテュロス3音節をセットで韻を踏む。別名三重韻。

tenderly slenderly / klingen singen

〇モザイク韻(mosaic rhyme:

 女性韻かダクテュロス韻で、2語以上を用いて韻を踏む。3音節に渡る場合は下の「拡張韻」にも分類される。

famous shame us

〇拡張韻extended rhyme):

 2個以上の強音節を含む3音節以上の語を用いて韻を踏む。複数語に渡ることも珍しくない。

(例)Sonne scheinen Nonne weinen

〇完全韻perfect rhyme / full rhyme):

  語中のアクセントのある母音から語末の子音までの発音が同じとなる韻。上に挙げた男性韻、女性韻、ダクテュロス韻、モザイク韻、拡張韻は皆完全韻である。

〇不完全韻(imperfect rhyme / near rhyme / slant rhyme):

  完全韻の条件に当てはまらない韻。

〇半韻half rhyme / slant rhyme:

 不完全韻の一種。単語末尾の子音のみ韻を踏む。他の押韻形式と併用されることが多い。(例:onmoon / soul all

〇同語韻identical rhyme):

 同一語を用いて韻を踏む。

〇同一韻同音韻identical rhyme):

 強音節の始まりの子音も含めて、同音となる韻。

gun begun  erlaubt belaubt

〇類韻assonance:

 アクセントのある母音のみ韻を踏む。1行内でも複数行内でも行われ、英詩で特に用いられる。

His tender heir might bear his memory. (シェイクスピア『ソネット集』1)

〇子音韻(consonance):

 類韻の逆で、子音のみ韻を踏む。1行内でも複数行内でも行われ、英詩で特に用いられる。子音を用いるため、頭韻と同様の効果を持ち、現代でもヒップホップで使用される。

And the silken sad uncertain rustling of each purple curtain.

   (E.A.ポー『大鴉』[1845]

〇ホロライム(holorhyme):

 文中で使用される単語すべての音節について押韻されているが、同一文ではなく、同音異義語や語句間の句切れが異なるため、全く違う文意が並んでいるもの。同音異義語が多いフランス語文学において発達した。このレベルになると、言葉遊びの一種ともいえる。

(例)Par les bois du djinn où s’entasse de l’effroi,

Parle et bois du gin ou cent tasses de lait froid.(アルフォンス・アレー)

〇貧韻・十分韻・豊韻rime pauvre / rime suffisante / rime riche):

 フランス詩で主に使われる韻の分類。「貧しい韻」は、語末の母音のみの押韻(例:peu – Dieu)。「十分な韻」は、語末の母音を中心とした一音節(シラブル:母音と子音のワンセット)の押韻(例:cheval – fatal / Banquise – brise)。「豊かな韻」は、母音を中心とした2音節以上の押韻(例:ensemble – ressemble)を指す。(ドイツ詩では、“Reicher Reim“と呼ばれるが、3音節以上の押韻となる。[例:Sterblichen – verderblichen])

【押韻する場所】

〇脚韻(end rhyme):

 行末で韻を踏む。古来より大半の韻が脚韻である。

〇中間韻(internal rhyme):

 広義では、行の中間部で押韻する、狭義では、韻文の一行の中で、複数単語において韻を踏む。行の中間部で押韻する場合、脚韻等も交えて複雑な押韻が行われる場合もある。

(例)Hey Jude, don't make it bad

Take a sad song and make it better

Remember to let her into your heart

Then you can start to make it better

P.マッカートニー『ヘイ・ジュード』:先行の脚韻が、次行の中間韻となる)

Die Welt versöhnt und übertönt der Geist.T.ドイプラー『北極光』)

 また、1行の韻文中の中間音節(多くはカエスーラ[語の切れ目]の前)と、最終音節で踏む韻を特別に「ライオン韻(leonine rhyme)」と呼ぶ。中世ラテン語文学において、ヘクサメトロス(稀にペンタメトロス)での詩作において多用された。その語源は明らかではないが、12世紀の音楽理論家レオニヌスや、5世紀のローマ教皇レオ1世に由来するという説がある。

Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary.

   (E.A.ポー『大鴉』[1845]

特にドイツ詩では、1行内で連続する2語において踏む韻を「行内連韻(Schlagreim)」と呼ぶ。

(例)Als ob es tausend Stäbe gäbe.R.M.リルケ『豹』1903])

〇頭韻(alliteration):

 行頭で韻を踏む。語調が印象深くなるため、詩以外にも、散文や早口言葉や広告文(キャッチコピー)などで使用される例が多い。

(例)Fischers Fritz fischt frische Fische.「漁師のフリッツは新鮮な魚を釣る。」:ドイツ語早口言葉)

   Publish or perish(「出版か死か」:研究者を襲う論文執筆プレッシャーを指す)

      Intel Inside(インテル社のキャッチコピー、和文では「インテル、入ってる」と訳され、逆に脚韻となっている。)

〇休憩韻(独:Pausenreim

 2行連句に用いられる韻で、1行目の行頭と、2行目の行末で韻を踏む、その間は、押韻を「休憩」するわけである。主にドイツのミンネザング職匠歌で使用された。また、1行目末で押韻し、2行目は孤韻とし、3行目行頭で押韻する形もある。

(例)wol vierzec jar hab ich gesungen oder me

von minnen und als iemen sol. 

(ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ)

押韻する音声】

〇純粋韻(pure rhyme):

 押韻する音節の音声が同一である韻。spent – went / pleasuretreasure

〇不純粋韻impure rhyme):

 押韻する音節の音声が類似してはいるが、同一ではない韻。

(例:Wagen Wogen / BlickGlück

  もともとは同一音であったものが、時代の推移と共に発音が異なってしまった韻(         

歴史韻 : historic rhyme)や、同一音ではあるがアクセントが異なる韻も不純粋韻と呼ばれる。(例:ZeitEwigkeit

〇視覚韻eye rhyme

 音声による押韻(聴覚韻)ではなく、単語表記上の綴りが同一なだけで、発音が異なる韻。この韻は、厳密な意味で韻とはいえないが、中世には同一音声だったものが、時代の推移により発音が変化してしまったもの(歴史韻)が主である。

(例:fined – friend / prove – love / Schlange – Orange

【押韻形式】

〇交()韻(cross rhyme):

 主に4行連句で、2行連句の押韻を1行ずつ互い違いに組み合わせる。即ち、行末をababと押韻し、スタンザが連なると更にbcbc dedeと押韻していく。6行連句の場合はabababとなる。古今を通じて最も多く見られる押韻だが、他に偶数行のみ押韻する場合(半交差韻 [half cross thyme])もあり、xaxa xbxb xcxc(奇数行は、韻を踏まない孤韻)と韻を踏む。

〇対韻(rhyming couplet

 主に4行連句で、2行連句の押韻を連続する。即ち、行末をaabbと押韻し、スタンザが連なると更にccdd eeffと押韻していく。6行連句の場合はaabbccとなる。

〇抱擁韻(embracing rhyme):

 主に4行連句で、2行連句の押韻の間に別の2行連句の押韻を挟む。即ち、行末をabbaと押韻し、スタンザが連なると更にcddc effeと押韻していく。

〇尾韻tale rhyme):

  「尾韻」は「脚韻」を指す場合もあるが、ここでの尾韻は、押韻する2行連句に1行の「尾」を付け、「尾」は次の2行連句の後にも付けられて先の尾と韻を踏む。即ち、aabccb6行連句を構成する押韻である。中世イギリス詩では、更に3行連句に尾をつけaaabcccbとし、8行連句にした詩が流行した。

〇句またぎ韻(broken ryhme):

  行末を句またぎとし、行末に残された単語の前半部分で韻を踏む。あくまでアクロバティックな韻であるため、コミカルな詩や漫画内で用いられることが多い。

Jeder weiß, was so ein Mai-

käfer für ein Vogel sei. (W.ブッシュ『マックスとモーリッツ』)

〇交換韻spoonerisms / 独:Schüttelreim):

 2行連句の文末2箇所で押韻し、語頭の子音を交代させる。13世紀頃からドイツ語圏で使用され出し、近代では文学というよりドイツ・ジャーナリズムにおいて、奇をてらった韻として用いられる。

Es klapperten die Klapperschlangen,

bis ihre Klappern schlapper klangen.

〇重韻(独:Haufenreim

  3行以上の連句で、同じ脚韻を踏み続ける押韻。


王党派詩人Cavalier poets

 17世紀前半のチャールズ1世の統治下におけるイギリス内戦(1642-1651)及びそれに続く「空位時代」(1649-1660)に、アナクレオンやホラティウス風の抒情詩を書いた宮廷詩人たちの総称。その名称は、内戦時にチャールズ1世を支持した「王党派(Cavalier)」に由来する。作風は、王が好んだ自由で軽妙洒脱な優雅さを特徴としており、主に世俗から題材を採った恋愛歌や宮廷歌を得意としたため、同時代のもう一つの詩人集団である形而上派詩人の宗教性や思弁性の強い作風と好対照を成した。直近の詩人であるベン・ジョンソンから最も大きな影響を受けた彼らのうち、主な者としては、R.へリック(Herrick)、サー・J.サクリング(Suckling)R.ラヴレイス(Lovelace)W.ハビントン(Habington)Th.ランドルフ(Randolph)J.グラハム、E.ウォラー(Waller)らが挙げられる(彼らはほとんどが廷臣であったが、へリックのみが聖職者であった)。Th.カルー(Carew)も代表的な王党派詩人に数えられるが、彼はジョン・ダンの影響を受けた形而上的で思弁的な作品も残しており、実質的には王党派詩人と形而上派詩人の中間に位置する詩人と見なすべきである。


オクターブ スタンザ

オッターヴァ・リーマ スタンザ

オード(希:δή  / 英・仏:Ode / 独:Ode

 「頌歌」或いは「頌詩」と訳され、戦勝や恋愛や神々を称えるために作られ、荘厳さと崇高さに秀でた抒情詩のこと。もともとは古代ギリシア語で「歌」を意味し、同じ詩節が繰り返され歌われるための詩であったが、古代ギリシア詩人のアルカイオスやサッポーにより抒情詩として基礎付けられた。ピンダロスはストロペ、アンティストロペ、エポードスの3詩節部分からなる長編詩を駆使して数々のオリンピック祝勝歌を作り、オードの発展に寄与したが、ホラティウスは『歌集』(前28)で政治を含めて人生の様々な局面を省察、回想、賛美することにより、オードの可能性を飛躍的に高めた。オードは普通脚韻を持たず、厳格な韻律を保持する必要もないが、歌い回しはオードの性格上、気高く情熱的でなければならない。古代ギリシアにおいて、音楽の伴奏を伴う抒情詩は、おしなべてオードと呼ばれていた。近世以降もヨーロッパにおけるオードの伝統は途絶えず、イタリアのタッソやフランスのプレイヤッド派、あるいはイギリスのカウリーなどのオード集が知られているが、特に著名な作品としては、シラー『歓喜に寄す』(ベートーベン交響曲第九番合唱部:1785)、ヘルダーリン『パトモス』(1803)、キーツ『ナイチンゲールによせるオード』(1819)、シェリー『西風によせるオード』(1819)、ミツキェヴィチ『青春によせるオード』(1820)、ユゴー『オードとバラード集』(1826)などがある。


オーバーアマガウ 活人画 / 受難劇


オブローモフ主義(露:Обломовщина / 英:Oblomovism

 イワン・ゴンチャロフの小説『オブローモフ』(1859)に登場する同名の主人公から取られた人物像又は人生観。上流階級に属し、教養や品性を身に付け、善良ではありながらも万事に無気力で受動的な人生を送る態度を指す。先行するロシア文学(プーシキン『エヴゲニー・オネーギン』[1833]、レールモントフ『現代の英雄』[1840])に登場した「余計者」の伝統を完全に受け継ぐ人物である。地方貴族階級に支配された当時のロシア専制社会の歪みを象徴する人物として、批評家ニコライ・ドブリューボフ(Добролюбов)が論文「オブローモフ主義(気質)とは何か」(1859)の中で指摘し注目を集めた(この指摘で作品は更に評価される)。以降、「オブローモフ」という名称は、無気力、無感動なモラトリアム的状態を指す場合にも用いられることがある。
 

オペラ(伊・英:Opera / 独:Oper / 仏:Opéra

 音楽と文学が全面的に融合し、作品によっては舞踊や造形美術等も加わる総合芸術。時には数百人が制作・上演に係わる場合もあり、最も大規模な芸術形式といえる。ラテン語でオペラは「作品」を意味することからも、あらゆる芸術領域にまたがる分野といえよう。その起源は合唱を伴う古代ギリシア劇に求めることができるが、中世の間も、宗教劇や世俗劇では音楽を伴う作品が一般的であった。現代に伝わるオペラの直接の原型は、ルネサンス後期の16世紀末イタリア・フィレンツェにおいて古代ギリシア劇を復興するべく生み出された。最初のオペラ作品と看做されているのは同地の作曲家ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(1597)である(現存せず。同『エウリディーチェ』[1600]は現存する最古のオペラ作品)。続いて現れたクラウディオ・モンテヴェルディの『オルフェオ』(1607)により、オペラはそのジャンルを完全に確立する。
 
18世紀に入るとオペラの分化が本格化し、悲劇を描く「オペラ・セリア」、喜劇を描く「オペラ・ブッファ」が、それぞれスカルラッティ、ヘンデル、グルック、及びピッチンニ、チマローザ、サリエリらにより生み出され、両者はモーツァルトの手により高度に洗練されるに至る。18世紀には、それまでイタリア一辺倒だったオペラの世界から(外国人であってもイタリア語オペラを作曲した)、豊富な教会・世俗カンタータの伝統を持つドイツが一線を画し始める。それはテレマンによるドイツ語オペラに始まり、歌いながらの台詞(レチタティーヴォ)に替わって普通の台詞を使う「ジングシュピール」が創案され、モーツァルトにより、幻想性に富むドイツ・オペラの系譜が明確な成立を見る。同時にフランスでも、リュリの後継者たるラモーにより諧謔性に溢れたフランス・オペラの基礎が築かれた。 
 さて、オペラにおける文学の位置づけは、当初音楽部分と同格であり、特に黎明期から
17世紀後半までのバロック・オペラ時代は音楽部分が技巧に走り未発達だったせいもあって台本(リブレット)が重視された。18世紀に入るとアポストロ・ゼーノが、それまで荒唐無稽でご都合主義的な展開の目立ったリブレットの改革に着手し、その後を継いだピエトロ・メタスタージオは、『アルタセルセ』(1730)など単独でも鑑賞に十分堪えるほどの高い文学性を有する台本を著し、バッハを始めとして100人以上の作曲家が曲をつけるなど、当代一流の劇作家の名を恣にした。更にモーツァルトの『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コジ・ファン・トゥッテ』(1890)に台本を提供したロレンツォ・ダ・ポンテの業績も無視できない。彼らは、音楽が副次的に用いられる演劇「メロドラマ」の成立にも影響を与えた。
 しかし、
19世紀に入りロッシーニ、ベルディ、ビゼー、グノーなど巨大なオペラ作曲家が登場してくるとリブレットは作品中の脇役に回る。特に原作として『ウィリアム・テル』、『オセロ』、『マクベス』、『ファウスト』など過去の名作が次々にオペラ化されると、リブレットは原作のオペラ用脚本の地位に甘んじることとなった。そうした中で、リブレットを自ら創作したヴァーグナーは、オペラを文学により近づけた功労者といえる。ヴァーグナーはオペラの芸術的総合力を究極にまで高めようと務め、自らの芸術思想に基いたリブレット、音楽、舞台、更には劇場そのものまでを自分ひとりの力で創り上げようとした。その集大成である7作の「楽劇」は音楽的にも後のオペラに大きな影響を与えたが、古代の神話世界やドイツの中世社会に題材を取ったリブレットは、時代を超えた人間性そのものを扱っており、現代においても様々な解釈が可能である。ヴァーグナー以降は、ホーフマンスタールがリヒャルト・シュトラウスと組み『エレクトラ』(1909)、『薔薇の騎士』(1911)、『ナクシス島のアリアドネ』(1916)など非常に文学性の高いオペラを創り上げるが、現代に至るまでオペラは総じて作曲に脚光が当たっている。ただ、ブレヒト/ワイル『三文オペラ』(1928)やビュヒナー/ベルク『ヴォツェック』(1924)などは、文学と音楽の新たな融合性が模索された革新作といえよう。


オー・ヘンリー・ツイスト(英:O. Henry twist

 「どんでん返し」と訳される。物語の最後に用意される予期せぬ展開のこと。単に「ツイスト」或いは「エンディング・ツイスト」と呼ばれる場合もある。同じどんでん返しであっても、作品中間部に設定される「→ペリペティア」とは根本的に異なる。アメリカの短編小説家オー・ヘンリーがこの手法の名手であったためこう呼ばれる。デウス・エクス・マキナが最後に登場してくる場合もこの手法の一つと見なしうる。オー・ヘンリー・ツイストは大衆向け文学に多用され、特に推理小説では好まれた。その際、一旦意外な犯人が明らかになったと思った後に、更に驚くべき真犯人が現れるなどといった2重のオー・ヘンリー・ツイストが仕込まれる場合もある。物語全体が主人公の見た夢だったという「→夢オチ」もこの手法の亜流である。



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