ダイイング・メッセージ(英:Dying message

 ミステリにおいて、殺害された被害者が死ぬ直前に残した犯人を示唆するサイン。作品中の理屈としては「犯人に悟られぬよう」暗号めいた記号や図を残す例が一般的だが、事切れる間際に発した一言や、身体的アクションもこうしたメッセージのひとつといえよう。これらのサインを探偵らが解読して犯罪解明の一助とするプロセスが、多くのミステリでは重要な演出となっている。ただ、犯人が捜査を混乱させるために虚偽のダイイング・メッセージを残す場合も考えられるため、犯罪解明の決定的証拠とはならない。この小道具を特に積極的に利用し定着させた作家がエラリー・クイーンであるが、現代においても「名探偵コナン」などで盛んに用いられている。ただ、実際の殺人事件でこの手のメッセージが残される例は稀であるため、多用すると作品に現実味が薄れ、ミステリの論理性が損なわれる危険が生じる。



大押韻派Grands rhétoriqueurs

 15世紀中盤から16世紀前半にかけてフランドル地方やブルゴーニュ地方で活躍した宮廷詩人たち。当時は、詩作の教本に「修辞学」の題が付けられていたため、彼らには「修辞学者」という名称が付けられた(その際、散文[主にラテン語]作法が「第一修辞学」、韻文作法が「第二修辞学」とされた)。彼らの詩は、その内容よりも様々な押韻等にこだわった非常に技巧的・装飾的なものであったため、「大押韻派」と訳されている。代表的な詩人としては、ギヨーム・ド・マショー(Machaut)14世紀後半に活躍したランスの宮廷詩人だが、その詩の技巧性から同派の先駆者とされる)、オリヴィエ・ド・ラ・マルシェ(Marche)、ジョルジュ・シャストラン(Chastellain)、ジャン・モリネ(Molinet)、ジャン・マロ(Marot:息子のクレマン・マロは、フランス・ルネサンスの最盛期である16世紀前半フランソワ1世期最大の詩人)、ジャン・ブシェ(Bouche :最後の大押韻派詩人と目される)などが挙げられる。ルメール・ド・ベルジュ(Belge)も彼らの内に数えられるが、ベルジュはペトラルカを最初に紹介し、フランス語をイタリア語に比肩する言語と主張するなど、フランス・ルネサンスの興隆に貢献し、後のプレイヤッド派への橋渡しを務めた。
  40名以上いるとされる大押韻派は、月並みな主題をただ技巧を弄して謡うだけの詩人として、直後のプレイヤッド派を始めとして、最近まで専ら否定的な評価を下され続けてきた。しかし、20世紀後半に入り、文学の形式もまだ未発達な時代に、修辞学を駆使してその形式を定めようとした彼らの姿勢に対しては、ポール・ズムトール(Zumthor)など評価する動きも認められる。

 

大学才人(英:University Wits

 1580年代から90年代にかけてイギリス文壇で活躍したオックスフォード大学やケンブリッジ大学卒の作家たち。オックスフォード出身者としてはジョン・リリー、トーマス・ロッジ、ジョージ・ピール、ケンブリッジ出身者ではクリストファー・マーロウ、ロバート・グリーン、トーマス・ナッシュらが名高い。彼らは大学卒業後ロンドンに移り、豊かな古典的教養を有しながら職業的な劇作家として庶民を対象にした戯曲を創作した。当時の文学的エリートを自認し、シェイクスピアら大学を出ていない作家を見下した(グリーンがシェイクスピアを『三文の知恵』[1592: “Groats-worth of Witte”]の中で、「我々の羽根を纏った成り上がり者の烏」と嘲ったのは有名である)。彼らはリリーが確立したユーフュイズムを広め、ギリシア悲劇の再生を目指し、シェイクスピア登場直前のエリザベス朝演劇を支えたが、マーロウやグリーンに代表されるように無頼漢も多く、シェイクスピアやベン・ジョンソンらが1590年代に登場すると、文壇の主役を彼らに完全に譲り渡した。しかし、ロッジの『ロザリンデ』(1590)が『お気に召すまま』(1623)、リリーの『ガラシア』(1592)が『夏の夜の夢』(1596)などのシェイクスピア作品に題材を提供し、マーロウが文学史上初めて「ファウスト伝説」を取り上げる(『フォースタス博士』[1592]など、大学才人たちはエリザベス朝演劇に明確な足跡を残している。
 

体験話法(独:Erlebte Rede

 ドイツ小説に特有の、直接話法にも間接話法にも属さぬ中間的話法。イギリス・フランス小説における自由間接話法にあたり、作品に登場する語り手とは別の三人称人物の思考内容を「彼は~と思った」などという伝達句を省いて表現する。思考内容の主語は間接話法同様三人称なので、体験話法を正確に和訳することは不可能に近い。自由間接話法との違いは、間接話法で用いる動詞活用を、体験話法では用いないことである。すなわち、ドイツ語における間接話法では接続法が用いられるが、体験話法の動詞活用は直説法となる。しかしこの相違は文法の違いからくるものであって、表現される内容に大差はない。たとえば『ボヴァリー夫人』(1857)に現れる自由間接話法部分をドイツ語に翻訳した場合は、体験話法が用いられる。体験話法を語り手が語る地の描写と区別する指標としては、疑問符や感嘆符や間投詞などの口語的な要素、或いは過去の描写であるのに、「今」を示唆する単語が入っていることなどである。体験話法は自由間接話法同様、中間存在としての語り手の存在感を消し、人物の内面をより直接的且つ客観的に描く効果を持つが、文章が長くなったり、幾つも連なったりした場合、主語が誰なのか判別しにくくなる弊害がある。

 
以下に、体験話法の例として、F.カフカ(Kafka)『変身』(1915)の文章を挙げる。
(朝起きると、自分が巨大な虫に変身していた主人公ザムザが、目覚まし時計が鳴ったにも関わらず寝過ごしてしまったことを振り返る場面)    
 
„Ja, aber war es möglich, dieses möbelerschutternde Läuten ruhig zu verschlafen? Nun, ruhig hatte er ja nicht geschlafen, aber wahrscheinlich desto fester.“ 
(そうだ、しかしこの家具を揺るがすような音にも構わず平然と寝過ごすことなんてできるんだろうか?まあ、確かに落ち着いて寝てなんていなかったけど、それだけにたぶん深く寝入ってしまったんだろう。)

体験話法は近代に入り、シュニッツラー(Schnitzler)『死人に口なし』
(1896)Th.マン『ブッデンブローク家の人々』1901)、デーブリーン(Döblin)『ベルリン・アレクサンダー広場』(1929)ケストナー(Kästner)『飛ぶ教室』(1933)などで効果的に用いられ、「内的独白」と共に「意識の流れ」の表現にも利用された。
 

大都市文学Großstadtdichtung

  都市を舞台とし、不安、焦燥、疎外感などといった大都市特有の感覚を背景とした人間生活を描き出そうとする文学作品。それらの要素に滑稽性を付与する場合は風刺文学となる場合もある。各国の作家は、当然自国の大都市生活を描き、このジャンルを発展させていくが、その嚆矢は、18世紀前半、パリを舞台とした数多くの風刺喜劇で一世を風靡したアラン・ルネ・ルサージュであるとされる。(彼はまた、フランス最初の職業作家であるともされている。)以降、パリに関しては、ユゴー、ゾラ、シューなどが再三取り上げ、ロンドンの描写に関してはディケンズが名高い。とりわけアンドレイ・ベールイの『ペテルブルク』(1913/14)は後の大都市文学の指針となり、ドス・パソス『マンハッタン』(1925)、やデープリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』(1929)などの秀作が生まれた。
 

ダイム・ノヴェル(英:Dime novel

1ダイム(10セント)で購入できる廉価版大衆小説。アン・S.ステファンス()1860年ビードル&アダム社刊「ビードルス・ダイム・ノヴェル・シリーズ」第1号として発表した『マリースカ。白人猟師のインド人妻』により誕生した。この小説ジャンルは「ペニー・ドレッドフル」としてイギリスでも同時期には定着していた。(ドイツではダイム・ノヴェル登場のはるか以前に類似の「フォルクスビューヒャー」、後の「グロッシェン・ロマーン」が出現している)100ページほどの中篇で、丁度勃発した南北戦争に関連した開拓者もの、西部英雄ものを好んでテーマに取り上げ、たちまち大人気を博した。内容はオリジナルに加え、焼き直しも多く、複数の出版社が競合して発行したが、当初大人向けだったものが後には子供向けに移行し、1920代に「パルプ・マガジン」が出現すると、役割を終え姿を消した。
 

鷹の理論(独:Falkentheorie

 ドイツの小説家パウル・ハイゼ(Paul Heyse)が1871年『ドイツ小説名作集』の前書きで開陳した小説理論。ハイゼはボッカチオ『デカメロン』の第5日目第9話を例に引き、そこに登場する鷹の如き存在が小説には必要であると唱えた(愛する貴婦人の一人息子が重い病に罹り、病床で主人公自慢の鷹を所望する。しかし、貧しい主人公は、息子の望みを伝えに来た貴婦人を饗応するためにその鷹を料理してしまう。この事実を知り心打たれた貴婦人は、主人公の妻となる)。すなわち、繰り返し登場し、キーポイントとなる簡潔なライトモティーフである。この理論はしかし、特別斬新な主張を行っているわけではなく、後に規範となることもなかったが、その名称の奇抜さから文学史に足跡を留めている。
 

多感主義    感傷主義

 

ダクテュロス(希:δάκτυλος / 羅:dactylicus / 英:Dactyl / 独:Daktylus

 英語名ダクティル。詩において、アクセントを持つ長音節(揚格)の後にアクセントのない短音節(抑格)がふたつ置かれた形の詩脚。「長短短格」とも訳され、アナパイストスの丁度逆の形である。長短短ごとの音節を一単位とし、これらの単位が6つ集まる「6歩格(ヘクサメトロス)」で使用されるのが一般的である。この「ダクテュロス・ヘクサメトロス」で書かれた最古の作品はホメロス『イリアス』(8世紀頃)であり、以降「ダクテュロス・ヘクサメトロス」は英雄叙事詩に向く詩脚として『オデュッセイア』(8世紀頃)、エンニウス『年代記』(2世紀中頃)ウェルギリウス『アエネイス』(29-19)などの雄大な作品に用いられた。他方それとは正反対の牧歌においても好まれた詩脚である。一方、英文学では余り使用されなかった。以下にゲーテ『ライネケ狐』(1794)よりその例を挙げる。

Pfingsten, das liebliche Fest, war gekommen; es grünten und blühten

(太字が長音節:最終音節は不完全)

 

ダダイズム(独:Dadaismus / 仏:Dadaïsme / Dadaism

20世紀前半に欧米に流行した前衛芸術運動。1916年、前衛詩人トリスタン・ツァラは作家フーゴー・バル、詩人リヒャルト・ヒュルゼンベック、作家マルセル・ヤンコ、造形作家ハンス・アルプらとチューリヒに芸術家クラブ「キャバレー・ヴォルテール」を開店し、毎晩ここに集った前衛芸術家たちにより、詩の朗読会や仮面舞踏会や即興演奏の音楽会が賑やかに開かれた。運動の本質は伝統芸術、及び市民社会的価値の否定と破壊であり、第一次世界大戦下のニヒリズム的雰囲気が色濃く漂っている。こうして始まった「チューリヒ・ダダ」とほぼ時を同じくして、ニューヨークでも独自に「ニューヨーク・ダダ」が美術家デュシャン、マン・レイ、ピカビアらの手で開始された。この他にもダダイズムはヨーロッパ各都市に飛び火し、「ベルリン・ダダ」、「ケルン・ダダ」、「ハノーファー・ダダ」などが有名であるが、ピカビアやツァラがブルトンと協力して1919年より始めた「パリ・ダダ」は、ニューヨークとチューリヒが融合した形において、また既成の芸術を全否定しなかった点において、また詩のウエイトを高めたことにより、文学的ダダの最高潮を示した。しかしツァラとブルトンはほどなく決別し、ブルトンらが否定一辺倒には走らぬより洗練化された前衛芸術「シュルレアリスム」へと進むと、ダダイズムも20年代半ばにはその中へと発展的に解消されていった。ダダイズムの信奉者たち(ダダイスト)は、自らの運動を理念とは考えず、その本質はひたすら理想と規範への懐疑とその破壊という革命的行為にあると考えた。従って理念を表現する「イスム」を彼らは自らの運動につけることはなく、ダダイストたちは自分たちの運動を単に「ダダ」と呼んでいた。ダダイズムは確かに定まった形式・様式も確立することはできず56年で消滅した刹那的な運動であるが、現代芸術への扉を開いた運動として無視できないものがある。その文学的業績は豊富とはいえないが、意味伝達を度外視して芸術的音響の形成のみを目指した「音響詩」(独:Lautgedicht:意味不明の擬声語や擬態語などで構成された詩)の創出が挙げられる。
 

ダンディズム(英:Dandysm / 仏:Dandysme

  洒落た服装や立ち振る舞いで他の人々とは差別化を図ろうとした(若い)男性たちの美学の総称。18世紀後半から19世紀前半のイギリスやフランスに現れ、貴族出身ではないが貴族的立ち振る舞いを理想とした一種の「スノッブ(俗物)」である。外見上は真の上品さを身に付けようとしたため、同時代のイギリスのマカロニ、フランスのボー、あるいはドイツのシュトゥッツァーなどといった奇を衒った「伊達男」とは異なり、派手な服装や振る舞いや物言いは好まない。服装の色合いも白黒を基調とする控えめな色使いを優先した。その典型として評判となったのは摂政皇太子(後のジョージ4)の友人であったジョージ(ボー)・ブランメルである。彼はそれまでフランス宮廷に追随していたイギリスのファッションを乗馬服を応用した独自なものに変え、その服装は一分の隙もないがあくまで慎ましく、香水も用いず、冷静な物腰や人を食ったような物言いは社交界の注目の的だった。フランスにおいても、ナポレオン後の王政復古時に亡命から帰国した貴族たちによってダンディズムが伝わり、シャトーブリアンやミュッセやボードレールなどが実践し、後の象徴主義にも影響を及ぼした。ダンディの存在は考察の対象ともなり、バルべー・ドールヴィイの『ダンディズムとG.ブランメル氏について』(1845)やボードレール『現代生活の画家』(1863)でダンディは没個性化や功利主義化に対する一つの抵抗運動であると位置づけられている。ワイルドやビアズリーなど、耽美主義を奉じた芸術家たちもダンディたらんとし、独自の服装を心がけた。
 

耽美主義(英:Aestheticism

19世紀後半のイギリスに起こった芸術運動。フランスのパルナス派デカダンスの影響を受け、とりわけ「芸術のための芸術」運動とは軌を一にする。耽美主義の源流は、杓子定規な宗教的規範や親方を中心とした工房仕事から芸術作品を解放したルネサンスに見られるが、近代では1835年にフランスの詩人テオフィル・ゴーチェが書簡体小説『モーパン嬢』の序文で「真に美しいものは、何の役にも立たないものに限られる」と述べ、「芸術のための芸術」を宣言し、耽美主義への下地が整えられた。そして、1868年に評論家ウォルター・ピーターが『ルネサンス』の中で「心象の受け取る美がもたらす恍惚感の維持こそ人生の目的である」と唱えたことにより、耽美主義が正式に提唱されたとされる。後に出る彼の評論集『ルネサンス史研究』(1873)は耽美主義を奉じる芸術家たちの聖典となった。彼らによれば、芸術は純粋に感覚的な快楽を提供するものであって、因習による道徳や感傷的なメッセージを伝える媒体ではない。また、啓蒙的な機能も持ち合わせない。必要なものは、ただ「美」のみである。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』(1891)序文で耽美主義のマニフェストを宣し、続く1894年から97まで発行された文芸誌「イエロー・ブック」が機関紙の役割を果たした。更に耽美主義は実生活を敵対視するのみならず、生活を芸術化する動きへも発展し、イギリスでは「ダンディ」という一種の生活様式とも関わってくる。耽美主義は19世紀後半のヨーロッパを席巻する写実主義自然主義のアンチテーゼとして、印象主義や象徴主義に影響を与えた。代表的作家としては上記の他に、ジョン・ラスキン(『近代絵画論』[1843-1860])、マラルメ(『ディヴァガシヨン』[1897])、ゲオルゲ(「芸術草紙」:雑誌[1892-1919])、ガブリエレ・ダンヌンツィオ(『快楽』[1889])などがいる。またアルジャーノン・スウィンバーンは、ある絵を評して「この絵の意味は美そのものだ。存在することだけが、この絵の存在理由なのだ」と言ったが、この言葉こそ、耽美主義と「芸術のための芸術」が表裏一体であることを示すものである。



知恵文学(英:Wisdom literature / 仏:Littérature sapientiale / Weisheitsliteratur

 古代エジプトやシュメールやバビロニアなど、古代オリエントで記された、宗教的・道徳的・処世的に正しい生き方についての「知恵の教え」をまとめ上げた文学ジャンル。「教訓文学」とも訳される。文献的に確認されるその最古の例は、紀元前24世紀頃にエジプトの高官ケゲムニ(Kagemni)及びプタホテプ(Ptahhotep)が書いたとされる「ケゲムニの教え」並びに「プタホテプの教え」である(両者共、仏国立図書館蔵「プリス・パピルス」に収録)。ここでは、彼等が息子に教え諭す形で、日々を如何に暮らすべきか(特に謙虚な態度)が記されている。こうした文学は後世に大きな影響を与え、特に旧約聖書において、「ヨブ記」、「詩編」、「箴言」、「コヘレトの言葉」、「雅歌」(以上正典)、「知恵の書」、「シラ書」、「マナセの祈り」(以上外典)がこの文学ジャンルに含まれるとされる。(これらの書は、主に一般的な格言から構成されているが、「ヨブ記」と「コヘレトの言葉」では、言葉を発する人物が描かれ、彼等の神や人生や生活に対する姿勢が思弁的に開陳される。)北欧神話にも知恵文学は存在し、代表的なものは神話集『古エッダ』(10世紀頃)に収録された歌謡集「ハヴァマール」である。

 

血と土文学(独:Blut-und-Boden-Literatur

 1930年代以降のナチス時代に台頭した文学運動。血統を象徴する「血」は「民族」を、国土を象徴する「土」は「祖国」を意味し、ドイツ国民・国家礼賛を基本とする極めて保守的・国粋主義的なな文学運動である。国土に根付いた国民性格-即ち農民生活-が賛美され、機械化された大都会から美しき自然への回帰が唱えられた。国家社会主義が浸透した、のどかでありながら逞しい農民の集う農村が血と土文学の描く理想郷であり、民族の純血性も強調された(当然のごとく、ユダヤ人排斥思想も色濃く持ち合わせた)。「血と土」という表現は、既に19世紀後半には生まれていたが、本運動の直接の源流は40年ほど遡る「郷土芸術」に認められる。ただ、基本的に政治性を持たなかった郷土芸術に対して、血と土文学はナチス礼賛という点で政治性も有し、より先鋭化・純粋化された文学運動である。『サガ』(1214世紀)や『ニーベルンゲンの歌』(13世紀初頭)を理想とし、ゲルマン民族の卓越性、純粋性を本運動は描き続けた。現在は名を残さぬ幾多の作家(H.アナッカーF.グリーゼH.F.ブルンクなど)が、この運動に沿った小説や詩や戯曲を著したが、ナチスも「帝国文書局」などを通じて彼らの活動を支援した。
 

チャップブック(英:Chapbook

 16世紀から19世紀にかけてイギリスで流通した大衆向け小冊子、或いはパンフレット。その多くは40ページ弱のページ数に留まり、バラッド(物語詩)やおとぎ話や童話、恋愛物語や犯罪物語やユーモア話や奇譚や暦など、大衆受けするものならジャンルを選ばない内容で、挿絵(版画)も多用された。題材としては、「ファウスト博士」、「ロビンソン・クルーソー」、「ウィリアム・ウォレス」、「ロビン・フッド」、「青ひげ」などの物語が特に好まれた。その名の由来は、チャップマン(Chapman:行商人)によって売り歩かれた実態から取られている。最盛期の17世紀半ばには、様々なチャップブックがイギリス国内で計40万部以上発行されたが、19世紀半ばの新聞の大衆化により衰退した。チャップブックは18世紀半ばにはアメリカにも広がったが、19世紀半ばに登場した廉価版大衆小説のダイム・ノヴェルに取って代わられた。粗悪で安価な紙を使用し、もともと図書館に所蔵される類の書籍でもないため、現代まで保存されている個体は非常に少ない。


町民劇(仏:Drame bourgeois

 18世紀後半にフランスに現れた演劇ジャンル。「市民劇」とも呼ばれる。従来の古典主義では悲劇は王侯貴族を描く劇、喜劇は一般市民を描く劇とされていたが、ディドロ(『私生児』[1757]、『一家の父』[1758]やメルシエ(『酢売りの手押し車』[1775])らの創作により、悲劇と喜劇の中間に位置する「真面目な劇(正劇=町民劇)」の構想が生まれた。これらの作品では、身の丈に合った常識を推奨する啓蒙主義に基づいて、一般市民の誠実な生活が称揚され、古典主義がなしえなかった彼らの道徳的教育に貢献した。町民劇にさしたる傑作は生まれず、後世に名を残しはしなかったが、ほぼ同時にドイツへと渡り誕生した「市民悲劇」は、大きく発展した。
 

チョーサー連 スタンザ


直喩(英:Simile / 仏:Comparaison / Vergleich

 比喩の一種であり、同じく比喩ある隠喩に較べて明快で単純な修辞技法。「明喩」とも呼ばれる。「~のような」、「~みたいな」、「~ほど」、「~のごとく」、「~のふう」、「~に似た」といった語句を伴い、もののたとえであることを明確に表現する。例:「リンゴのような赤いほっぺ」、「死ぬほど退屈」、「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し」など。ただ、上記の語句がつけば必ず直喩と見なされるわけではない。例えば、「これでよろしいでしょうか?」-「そのようにして下さい。」などという会話で、「そのようにして」とは「そうして」と同義であり、比喩とまでは言い切れないほどのストレートな表現である(この文章での「言い切れないほど」も同様である)。



勅許劇場(英:Patent theatre

 イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ2世による1660年の王政復古から1843年にかけて、本格的な演劇上演が許可された劇場。ただし、メロドラマやバーレスク等の大衆演劇を上演する劇場は規制の埒外だった。エリザベス1世の時代には、厳格な検閲の下ながらも本格演劇が少なからず上演されていたが、清教徒革命以降、クロムウェル政権下の共和国イングランドにおける演劇上演はほぼ禁止されていた。その後の王政復古で即位したチャールズ2世は亡命中のフランスで目の当たりにした旺盛な演劇活動に感銘を受けており、2つの劇団に勅許を与え、イギリス演劇の復興を図る。ひとつはトーマス・キリグルー(Thomas Killigrew)が率い1663年より「王立劇場(Theatre Royal)」(1672年の火災消失後、「ドルリー・レーン劇場[Theatre Royal, Drury Lane]」として再建)で興行を打った「キングス・カンパニー」であり、もうひとつはチャールズ・ダヴナント(William Davenant)が率い、1661年からリンカーンズ・イン・フィールズ劇場(Lincoln’s Inn Fields Theatre1671年にドーセット・ガーデン劇場[Dorset Garden Theatre]に移る)を本拠地とした「デュークス・カンパニー」である。

キングス・カンパニーは、キリグルーの息子トーマスの代で運営が困難となり、1682年デュークス・カンパニーに併合され、1695年までは一つの劇団のもと、ドルリー・レーン劇場とドーセット・ガーデン劇場が勅許劇場であり続ける。その後、新たな勅許のもとに、再びリンカーンズ・イン・フィールズ劇場が勅許劇場となり、1732年には、勅許が「コヴェント・ガーデン王立劇場(Theatre Royal Covent Garden:現在のコヴェント・ガーデン王立歌劇場)に移された。この他に、1766年には、サミュエル・フット(Samuel Foote)率いる「ヘイマーケット劇場(Haymarket Theatre)が、他の勅許劇場が閉じている夏季(ヨーロッパの劇場は、夏場は通常シーズン・オフとなる)に限り、演劇上演の勅許を得ている。この後には、「バース王立劇場」(1768)、「リバプール王立劇場」(1772)、「ブリストル王立劇場」(1778)などに次々と勅許が下された。

演劇上演の勅許制度は、1843年の「劇場規制法案(Theatre Regulation Act)」により廃止されたが、上演の検閲制度は1968年まで存続し、特に18世紀前半から20世紀前半までの約200年間の間、演劇は王室侍従長(Lord Chamberlain)による厳しい検閲を受け続けた。

 

チンクエチェント ドゥエチェント


ツイスト オー・ヘンリー・ツイスト

 

通時的(仏:diachronique / diachronic / diachronisch

 歴史言語学の研究手法を指してソシュールが提唱した用語。特定言語の起源や伝播・変遷といった、時代にまたがった歴史的事項を分析・検討する研究態度を指す。これに対して同じ時代の一つ乃至複数言語を比較分析する研究態度を「共時的」と呼ぶ。この用語はソシュール以降、他分野にも応用されるようになり、文学においても、メルヘン・神話・民話研究で一般的な、あるモティーフの各国への伝播を探る研究などは典型的な通時的文学研究と見なせよう。
 

ディスクール(仏:Discours

 「言葉で言われたこと」や「言葉で書かれたこと」の総体のこと。フランス語で「演説」を意味する用語だが、文学用語としては「言説」と訳される。もともとは言語学用語であったのだが、1960年代に入りミシェル・フーコーが厳密に定義することにより現代哲学に応用され、文学批評でも盛んに用いられるようになった。意味を持った言語の最小単位は単語であるが、それが複数集まり「エノンセ(言表)」を形成する(それが語句でも単一の文章でも複数の文章でも構わない)。エノンセまでは比較的純粋で中立的な意味伝達媒体であるが、これが集合し、ディスクールという総体となると、必然的にその成立背景である社会の影響を受け、社会の持つ制度や権力、差別・排他意識を内包してしまう。社会は家族から国家まで様々だが、これら社会集団の中で形成されるディスクールは(例えば官僚用語や関西弁など)は、必然的に当該社会の上記の意識を反映したものとなる訳である。エノンセが理想的に集合すれば表現しえたことを、敢えてディスクールは表現しない部分があり(例えば性に関する地域地域での表現様式の差異など)、これが或るディスクールを他のディスクールから区分させる本質となる。この用語は、フーコー以前にも「論述」や「序説」といった学術用語として普通に使用されていたが、1900年代半ばにジャック・ラカンが精神分析療法に用いる4種類のディスクール(分析家、ヒステリー、大学人、主人)を提唱し、続いて1972年に発表されたナラトロジーの画期的研究書であるジェラール・ジュネットの『物語のディスクール』により文学批評用語として定着した。ただ、文学批評では、フーコーの定義程厳密ではなく、書き表された文章として、無味乾燥な響きを持つ「テクスト」に替わり用いられる場合も少ないない。
 

ディストピア文学(英:Dystopian literature

 理想郷(ユートピア)とは反対の世界を描く文学。ディストピアは「カコトピア(Cacotopia)」や「アンチ・ユートピア」とも呼ばれる。ユートピア文学同様、架空の世界を描くが、ユートピア文学が人間の理想が実現した幸福な社会を描くのに対し、ディストピア文学は人間社会の発展がもたらす負の側面を強調し、特に機械文明の発達を悲観的に描く場合が多い。既にスウィフト(Swift)『ガリヴァー旅行記』(1726)において、主人公のたどり着く島は家畜人間「ヤフー」が住む一種のディストピアであるが、ここでは理性的な馬「フウイヌム」がまだユートピア的存在として描かれている。この後現れるディストピア文学は、SFの一分野とも見なしえよう。従ってその萌芽は、シェリー『フランケンシュタイン』(1818)に早くも認められるが、本格的な成立は18世紀中盤のイギリス産業革命が大きな契機になったと考えられ、1868年にジョン・スチュアート・ミル(Mill)が「ディストピア」という単語を初めて使用したとされる(ミルはこの単語を「ユートピア」の反対語ではなく、単に「うまく機能していない社会」の意で用いたらしい)。ディストピア文学が好んで描く世界とは、おおまかに、「貧富の格差が大きく、階層が固定され、非民主的、全体主義的な統制に支配され、プロパガンダにより住民は洗脳され、個人崇拝が高まり、発達した機械文明のもとに個性が抑圧された世界」となる。ただ、ユートピア文学で描かれる社会も往々にして全体主義的な管理社会であることが多く、現代では両者の明確な線引きは困難となっている。ディストピア文学の先駆けは、文明の発達を痛烈に批判したヴェルヌのSF20世紀のパリ』(1863)であるとされ(そのためこの作品は出版社の理解を得られず、作者の生前には出版されなかった)、その後ディストピア文学は、産業の発展と共に自由と人権意識の発達した英米社会で話題作が次々と生まれ、H.G.ウェルズ(Wells)の『タイム・マシーン』(1896)以降、現在に至るまでSFの重要なジャンルとなっている。著名な作品としては、ハクスリー(Huxley)『すばらしい新世界』(1932)、オーウェル(Orwell)1984(1949)、ブラッドベリ(Bradbury)『華氏451度』(1953)、ブール(Boulle)『猿の惑星』(1963)、ハーバート(Herbert)『デューン/砂の惑星』(1965)、フィリップ・K・ディック(Dick)『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)、ギブスン(Gibson)『ニューロマンサー』(1984)、アトウッド(Atwood)『侍女の物語』(1985)などが挙げられる。
 

ディスティヒョン(羅・独:Distichon

 詩形のひとつ。主にダクテュロスからなるヘクサメトロスペンタメトロスが連結したカプレット(二行連)である。古代ギリシア・ローマ文学ではエピグラム風刺詩、墓碑銘などに使用された。最も有名な作例としては、テルモピュライ(BC480)の戦いに敗れたスパルタ兵を弔い当地に置かれた墓碑銘(伝ヘロドトス)が挙げられる。

Ō xein', angellein Lakedaimoniois hoti tēide

    keimetha tois keinōn rhēmasi peithomenoi.

(「旅人よ、スパルタに行き伝えよ。彼らの掟に従い、我らここに眠ると。」:ディスティヒョンでは、強制ではないものの、2行目はインデント(字下げ)を行うのが通例である。
 この墓碑銘は、キケロがラテン語に、シラーがドイツ語に、それぞれ同じ詩形で翻訳し、ディスティヒョンの標準と目された。
ディスティヒョンは、中世では啓蒙主義時代のドイツ文学中、二行詩のエピグラムエレジーにおいて復活した。特にクロプシュトック以降、ゲーテやシラーやヘルダーリンなどによりディスティヒョンは「古典主義的詩形」として愛好された。ゲーテの『ローマ風エレジー』(1795)がその代表例である。シラーはこの詩形を用いた二行詩「ディスティヒョン」(1796)で、詩形の特徴を以下のように描いている。(一行目は5つのダクテュロスの後、二音節[ここではトロカイオス]、二行目は2つのダクテュロスがひとつの強音節で連結され、最後に一音節が追加される。)

Im Hexameter steigt des Springquells flussige Saeule.
 Im Pentameter drauf faellt sie melodisch herab. (太字は強音節)
(ヘクサメトロスでは噴水の水柱が吹き上がり
続くペンタメトロスでは音曲を奏でつつ崩れ落ちる。)
 

ディヴェルティスマン(仏:Divertissement

 フランス語で「気晴らし」の意味で、演劇やオペラの幕間や最後に披露されるダンス。1718世紀のフランス演劇界に広まっていた風習である。ダンスは作品内容に関連付ける場合が多く、時には踊り手が歌うこともあった。短い筋を持ったディヴェルティスマンは、後に独立して上演されるバレエのひとつの原型とも見なしうる。現在この用語は、ダンスの伴奏に用いられた優美で軽快な音楽を指すが、その場合はイタリア語訳である「ディヴェルティメント」の方がより一般的に用いられている。
 


ディテュランボス(希:διθύραμβος / 羅:dithýrambos / 英:dithyramb

 古代ギリシアにおけるディオニュソス神を讃える合唱賛歌。ディオニューシア祭やレーナイア祭で、笛の伴奏を受け、前唱者と50名の合唱隊(コロス)の掛け合いにより、時には踊りながら披露された。伝わる文献が極めて少ないため、二次文献から類推する他ないが、その起源はディオニューシア祭同様ギリシア発祥ではなく、小アジアから由来し、もともとは神への即興的な呼びかけから発達した形式と考えられる。ギリシア最古のディテュランボスは、詩人アルキロコス(Archilochos)の証言により、前7世紀頃のアテナイとされ、同時代でコリントの独裁者ぺリアンドロス(Periandros)に仕えていた(レスボス島の)詩人アリオン(Arion)が形式上の発案者と目される。6世紀には完成を見るが、アリストテレスはここからギリシア悲劇の原型が誕生したとする(『詩学』第41449a)。また、ディオニューシア祭での悲劇の奉納上演に先立ち、ディテュランボスの競演も都市では行われていたとする説がある。全盛期は前5世紀に活躍したピンダロス(Pindaros)やバッキュリデス(Bakkhylides:彼らはアポロン賛歌であるパイアン創作においても名声を博した)によりもたらされたが、翌世紀には早くも衰退した。
 中世に入り、ディテュランボスは再評価され、合唱や厳格な韻律からは離れ、陰鬱な言葉や比喩を多用した詩歌として重用された。フランスではプレイヤッド派のP.d.ロンサール(Ronsard)J.-A.d.バイフ(Baïf)、或いはJ.ドリル(Delille)が秀作を残し、イギリスではJ.ドライデン(Dryden)『アレクサンダーの饗宴』(1697)が名高い。とりわけドイツにおいては、F.G.クロプシュトック(Klopstock)J.G.ヘルダー(Herder)を経て、ゲーテ(Goethe)が彼自身のシュトゥルム・ウント・ドランク時代を告げたといわれる『旅人の嵐の歌(Wandrers Sturmlied)(1771)で頂点に達し、シラー(Schiller)やヘルダーリン(Hörderlin)も詩作を残している(ヘルダーリンは自作を「ディテュランボス」とは呼ばなかった)。そして、現在恐らく最も有名なディテュランボスは、ニーチェ(Nietzsche)が『ツァラトゥストラはかく語れり』(1883-1885)の第4部付録として書いた『ディオニュソス‐ディテュランボス』(1891)であろう。
 ディテュランボスは今日にも言語的な痕跡を残しており、陶酔の神であるディオニュソスのイメージより、「熱狂的な」或いは「褒めまくりの」を表す単語として、英:dithyrambic、独:dithyrambisch、仏:dithyrambiqueといった形容詞が現存している。

 

提喩 シネクドキ

 

デウス・エクス・マキナ(羅:deus ex machine

 「機械仕掛けの神」の意で、劇が最終段階で膠着状態に陥った際、あたかも場面の打開を計るべく天から降りてくる神の如き人物や状況を指す。ギリシア悲劇では実際にこうした神役の役者がクレーンによって舞台に降りてきた。特にエウリピデスはこの手法を好んだが(前19編中9編に使用)、劇を締めくくる手法としてはやはり安易に過ぎる印象はぬぐえず、アリストテレスを始め、キケロ、ホラティウスなど既に同時代人たちから批判を浴びていた。しかしデウス・エクス・マキナは、その後も姿を消すことはなく、フランス古典劇以降も予期せぬ状況の急展開が作品を大団円で終わらせる例は数多く見受けられる。現代においても大衆向けの小説・演劇ではこの手法が多用される。ブレヒトは『三文オペラ』(1928)で、処刑直前の主人公の前に女王の恩赦を携えた使者が現れるという典型的なデウス・エクス・マキナを登場させ、資本主義社会の掟を破った犯罪者の処刑という「ブルジョア文学的結末」を痛烈に揶揄した。
 

デカダンス(仏:Décadence

 19世紀転換期ファン・ド・シエクルにフランスで生じた文学潮流。明確な文学運動ではないが、自然主義を対極となし、美的、主観的芸術観を極度に洗練化した文学観を指す。当初この呼称は侮蔑的に用いられたが、後に詩人たち自らが名乗るようになった。その内容としては、耽美主義や「芸術のための芸術」と共通した芸術至上主義のもとに、反ブルジョア、反写実、反科学万能主義、反道徳的世界観などを特徴とする。デカダンスは、一般的にロマン主義からモダニズム文学への過渡期の形態と見なされ、ランボーやヴェルレーヌに代表される象徴主義や、ホーフマンスタールやリルケに見られる印象主義との境界も曖昧である。デカダンスでは、ボードレールなどの崇高、陶酔、病的なものなどへの研ぎ澄まされた感受性がもてはやされる一方、ニーチェは『ヴァーグナーの場合』(1888)において、こうした傾向を疲弊した神経症の芸術であるとして批判した。その代表的詩人たちは、モレアス(『浮き州』[1884])、ラフォルグ(『なげきぶし』[1885])などだが、とりわけジョリス=カルル・ユイスマンスの『さかしま』(1884)はこの傾向における古典的小説と見なされる。デカダンスは、1910年頃より、表現主義に交代していった。
 

デノテーション(英:Denotation

 言語表現の普遍的・客観的意味。辞書に記載される単語の意味がこれにあたり、社会的・個人的状況に左右されることはない。「明示」、「共示」と訳され、反対語は、社会的規範の影響を受けたある表現の副次的意味、即ち「含意」である「コノテーション」となる。例えば、「月」のデノテーションは、「太陽の光を反射して夜に輝く地球の衛星」ということになるが、そのコノテーションは「風流」、「女性」、「平安」、「静謐」、「狂気」など社会や時代によって様々な意味を持つ。


テーバイ圏 < 叙事詩環


テルツァ・リーマスタンザ



テルトゥーリア(西:Tertulia)

 19世紀後半から20世紀前半にかけて、スペイン語圏(イベリア半島及び南アメリカ)のカフェやレストランにおいて開かれていた文化人常連客の定例集会。その名称は、論争を好んだ2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスに由来する。17世紀以降のフランスで発達した文芸サロンと類似しているが、参加者は、あくまで男性主体であった。彼らはここで朗読会や、文学談議、政治談議を楽しんだ。セルバンテスに象徴される「シグロ・デ・オーロ」(スペイン黄金世紀:16世紀から17世紀前半に隆盛を迎えたスペイン文化)における文学刷新の再来を理想とし、とりわけ20世紀初頭から第二次世界大戦勃発までの期間がその最盛期であった。会場となるカフェは、「文学カフェ」として名を馳せ、著名なものにマドリードのカフェ・デ・レバンテ、エル・ガト・ネグロ、カフェ・デ・フォルノス、カフェ・デル・プラド、ビルバオのカフェ・ラ・グランハなどが挙げられる。また、サマランカのカフェ・ノヴェルティは、大学町にあったことから、オルテガ・イ・ガセットやミゲル・デ・ウナムーノやゴンサロ・トレンテ・バジェステルらが集う国内有数のテルトゥーリアを形成した。その後テルトゥーリアは衰退するが、スペイン内戦後まで、カフェ・ヒホンにおいては継続された。



テレームの僧院(仏:Abbaye de Thélème

 F.ラブレー(Rabelais)の小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(153252) の中で、隣国との戦争に勝利した褒美としてガルガンチュアが友人に授けた僧院。当時の僧院の概念とは真逆のもので、痛烈な風刺を含みながらもルネサンス精神における理想郷と解釈される。そこには空間的制約(塀)も、時間的制約(時計)もなく、男女は平等で、皆好きな時に出入りし、好きなように起床し、食事をし、娯楽に興じ、就寝する。ただ、この僧院に入るには、外見は麗しく、家柄も由緒正しく、なにより正統な教養を積んだ人間でなければならない。その教養とは、自由7科に代表される「リベラルアーツ」を下地としたもので、それにより僧院の入居者たちはあらゆる偏見から解き放たれた「自由」な存在となり、彼らは僧院唯一の規範、即ち「汝の欲することを行え」(“Fais ce que tu voudras”)を守るだけでいい。ここに、自由な人間精神を至高の価値と考えるルネサンス精神のユートピアが、僧院の形で結実したと見なし得る。
 
20世期初頭には、この僧院をモデルとして、パリ郊外のクレティーユ修道院跡に、アベイ(修道院)派」と呼ばれる原始共産主義的芸術家コミューンが形成され、ユナニミスムを信奉しながら自給自足生活を送った。

ドゥエチェント(伊:Duecento

 イタリア語で「200」の意。歴史家や音楽・文学・美術評論家間では、13世紀イタリアを指す。この時代のイタリア文学を代表する存在は、シチリア派清新体派である。これに続くイタリアの時代区分用語及び時代、代表的文学者は以下の通り:トレチェント(Trecento14世紀:ゴシックからルネサンス黎明期:ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ)、クワトロチェント(Quattrocento15世紀:ルネサンス前期:ポリツィアーノ)、チンクエチェント(Cinquecento16世紀:ルネサンス全盛期:ベルニ、アリオスト、タッソ)、セイチェント(Seicento17世紀:バロック期:マリーノ)となる。


道化(英・仏・独:Clown

 滑稽な言動をして観客を笑わせることを仕事とする役者。道化の起源は古代エジプト時代にまで遡り、貴人の宴席で座を盛り上げる役割を担い、中世では宮廷に専属する身分となった(宮廷道化師)。演劇での道化は、古代ローマ時代のアテルラナを嚆矢とするが、本格的な役者として登場するのは、16世紀のイギリス・エリザベス朝演劇からである。更に同世紀にイタリアで成立したコンメディア・デッラルテがヨーロッパ中に広まり、アルレッキーノやプルチネッラ(イタリア)、アルルカン(フランス)、ハーレクイン(イギリス)などといった道化が人気を博した。ドイツ語圏でも、ヴィーン民衆劇の道化ハンスヴルストが同様の例にあたるが、14世紀に実在したティル・オイレンシュピーゲルに関しては、そのスカトロじみたいたずら話やとんち話が民衆本に取り上げられ(『ティル・オイレンシュピーゲル』[1510-11])、ドイツ独特の道化の伝統を形成している。道化は身体的に欠陥を持つ者が多く、知的障害を抱える場合も稀ではなかったが、中には常人以上の知能を有する者もおり、その存在のグロテスクな非日常性は社会風刺性を伴い、しばしば文学の題材ともなっている(ブラント『阿呆船』[1494]、エラスムス『痴愚神礼讃』[1511:ここに登場する痴愚の女神モリアが一種の道化と見なし得る]、シェイクスピア『十二夜』[1601]、ヘンリー・ミラー(Miller)梯子の下の微笑』[1948]、ベル『道化師の告白』[1963]など)。
 

同語反復・同義語反復トートロジー


同時代小説(独:Zeitroman

 19世紀に発達したドイツの小説形式で、社会小説の発展形式とも捉えうる。即ち、人間社会の描写に特化された社会小説に対し、同時代小説は当該時代の精神的、文化的、政治的状況を重層的に描写することを旨とする。従って、様々な社会問題を取り上げる点から傾向文学的特徴も備え、題材には実際の事件を多く採用する点から→モデル小説となる場合も多い。主人公の生涯に時代をオーバーラップさせる場合には教養小説の一種とも解釈され、また、時代に対して批判的視点から描かれた作品は、風刺文学、あるいはユートピア文学の様相も呈する。同時代小説は、作品の同時代性から一過性の文学となる危険性も孕んでいるが、「同時描写法(複数の事象を、十分な解説を加えず短時間で連続的に描写する技法)」や「→モンタージュ」などといった様々な語りの手法を導入し、現代文学の発展に寄与してきた。「同時代小説」という用語は、アルニムの『ドローレス伯爵夫人』(1809)に対してブレンターノがつけた名称より定着し、代表作としては、イマーマンの『エピゴーネン』(1836)若きドイツ派の諸作品(グツコー『ローマの魔術師』[1861]、ラウベ『若きヨーロッパ』[1837]など)、フォンターネ『イルンゲン、ヴィルンゲン』(1888)、トーマス・マン『魔の山』(1924)、ムージル『特性のない男』(1934)、グラス『ブリキの太鼓』(1959)などが挙げられる。
 また、「ツァイトロマーン」の訳語に「時間小説」を当てる場合もあり、その場合は、語られる出来事の時間と語る時間(行数)が応分に対応しておらず、出来事が圧縮されたり、拡張されたりするといった、→ナラトロジーの手法が駆使された小説を指す。登場人物自身の時間間隔と作品内での客観的経過時間がずれる作品も「時間小説」と呼ぶことができ、『魔の山』は、このふたつの側面からも代表的なツァイトロマーンといえよう。
 

同時並列舞台Simultanbühne

 中世宗教劇で一般的に用いられた舞台形式。教会を中心とした広場で劇が上演された際、「大祭司カイアファの屋敷」や「ヘロデ王の宮殿」や「ゴルゴダの丘」など、あらかじめ劇に必要な場面の数だけ舞台を作っておき、役者たちは舞台転換を待たずに舞台を移動することによってひとまとまりの劇を演じる。「天国」と「地獄」は大抵舞台群の両端に置かれた。劇中では複数舞台で同時に演じられる場合もあり、この技法が19世紀以降発展し、舞台上に複数階建ての家屋断面が建設され、その複数の部屋でそれぞれ劇が演じられるという近代版の同時並列舞台が形成された。これを用いた秀作が、ネストロイの『一階と二階』(1835)である。ここでは一階に住む貧乏人と二階の金持ちの生活が同時並行で描かれ、作品の社会風刺性が明瞭に視覚化された。同時並列舞台は現代演劇でも活用され、とりわけ叙事的演劇の先駆的演出家エルヴィン・ピスカートルが1927年から31年にかけて率いた「ピスカートル劇場」では、円形舞台や半円形舞台や額縁舞台が機械仕掛けで出現し、また同時に演じられもする極めて前衛的な同時並列舞台が構想された。
 

倒叙(英:Inverted detective story

 近代のミステリで用いられる叙述手法のひとつ。普通のミステリは事件が発生し、その真相は読者にも登場人物にも明らかにされぬまま、探偵による事件解決まで小説は進行するが、倒叙の場合、犯人が事件を起こす様子を小説冒頭で明らかにしてしまう。探偵が、読者のみに明らかにされた犯人を、彼の犯行プログラムのささいなミスを突いて追い詰めていくところにこの手法の面白さがあり、「シャーロック・ホームズ」など古典的なミステリでは不明瞭であった探偵の推理過程(ホームズが捜査中に行った一連の不可解な行動は、事件解決の後理由付けがされる)が、倒叙によるミステリでは読者にも分かりやすくなる利点がある。また、犯人は追い詰められることにより、新たな行動を起こす場合もままあるが、それを見越して探偵が逆に罠を仕掛けるなど、従来のミステリでは複雑に過ぎたトリックも、比較的明瞭に描くことが可能である。更には、犯人の心理を克明に描くことにより、ミステリに心理描写の面からも新たな境地を拓いた。通常のミステリであれば、作品の主眼となるポイントは、「フーダニット(犯人)」=誰が、「ハウダニット(犯行方法)」=どのように、「ホワイダニット(犯行動機)」=どうして、犯罪を起こしたか、の3点となるが、倒叙ミステリにおいては「ハウキャッチェム(Howcatchem:捜査方法)=どうやって彼らを捕まえるか、が作品の最大のポイントとなる。
 倒叙の嚆矢は、オースティン・フリーマン
(Austin Freeman)の短編集『歌う白骨』収録『オスカー・ブロズキー事件』(1912)であるといわれ、イーデン・フィルポッツ(Eden Phillpotts)の『闇からの声」(1925)やアントニー・バークリー・コックス(Anthony Berkeley Cox)の『殺意』(1931)や、リチャード・ハル(Richard Hull)の『伯母殺人事件』(1934)や、F.W.クロフツ(Crofts)の『クロイドン発1230分』(1934)などが名高い(上記最後の三作は、倒叙三大傑作と呼ばれる)。しかし、倒叙が我が国に広く知られる契機となったのは、アメリカと日本のテレビ刑事ドラマ『刑事コロンボ』並びに『警部補古畑任三郎』のヒットが大きい。また、テレビドラマの場合、倒叙は有名俳優を犯人役に登用できるというメリットがある。(通常のミステリ・ドラマを見慣れた者にとっては、往々にしてキャストから犯人の見当がついてしまう場合が見受けられる。)
 冒頭で述べた通り、倒叙は主にミステリの分野で発展してきた手法ではあるが、一般小説でも用いられることがあり、主人公の死から始まり彼の生涯を描くトルストイ(Tolstoy)の『イワン・イリイチの死』(1886)はその好例である。(この作品の手法とモティーフを参考に、映画監督黒澤明は『生きる』を製作した。)
 


撞着語法(英:Oxymoron

修辞技法の一種で、論理的に同時には成立しない概念を一つの熟語に結合する技法。「矛盾語法」や「対義結合」とも呼ばれる。表現したいニュアンスを、対立概念を同時に盛り込むことにより、より鮮烈に訴える効果を持つ。英語名は古代ギリシア語の”oxys”(明敏な)と “moros”(愚鈍な)の複合語であり、用語自体が撞着語法で作られている。

例:優しい悪魔、無知の知、生ける屍、小さな巨人、慇懃無礼、有難迷惑、静かなブーム、遠い接近、悲しいほどお天気、Mr.Children、など。

文学でも頻繁に用いられるが、最も有名な例のひとつが、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(1597)でロミオが第1幕で愛について口走る台詞 「おお、騒々しい愛! おお、恋する憎しみ!/無から生じた有!/おお、重い軽さ!真剣な空虚!/見目麗しい出来損ないの混沌/鉛の羽、明るい煙、冷たい炎、病んだ健康」である。
 
撞着語法と対となる修辞技法は、同義語や類語を反復する「同義語反復」(トートロジー)である。


道徳劇(英:Morality / 仏:Moralité

 ヨーロッパ中世において流行した道徳的、或いは訓話的な内容の宗教劇の一種。「悪徳」と「美徳」を表現する様々な抽象概念(「慈愛」、「勇気」、「嫉妬」、「快楽」、「吝嗇」など)が擬人化して登場するアレゴリー劇の形式を取り、イギリスとフランスで特に好まれた。道徳劇はしかし教訓ばかりの堅苦しい劇ではなく、娯楽性も豊富で、「悪徳」を象徴する人物たちは喜劇的人物として描かれ、様々な災難に遭った後、「美徳」的人物の勝利に終わる。最も有名な道徳劇の筋は、突然「死」の前に立たされた裕福な主人公が「友情」や「金」にすがるが助けてもらえず、結局「信仰」と「善行」に助けられるというものである。イギリスでこの筋の道徳劇は、印刷された最古の道徳劇である『エブリマン』(16世紀)として今日に伝えられ、ドイツでも同意義の『イェーダーマン』として伝わるが、後者をオーストリアの作家ホーフマンスタールはリメイクし(1911)、以来この作品はザルツブルク音楽祭で上演されるのが恒例となっている。
 

ドゥルヒ(独:Verein Durch

 1886年にベルリンに結成された最初の若手自然主義作家サークル。実質的な発起人は、レオ・ベルク(Leo Berg)とオイゲン・ヴォルフ(Eugen Wolff)であるが、彼らは当時既に著名な医師で文筆家であったコンラート・キュスター(Konrad Küster)「名誉会長」に据えた(サークルの名称「貫徹」は彼が発案した)。主なメンバーとしては、ハルト(Hart)兄弟、B.ヴィレ(Wille)W.ベルシェ(Bölsche)A.ホルツ(Holz)J.シュラーフ(Schlaf)J.H.マッケイ(Mackay)K.ヘンケル(Henckell)H.コンラーディ(Conradi)P.エルンスト(Ernst)A.v.ハンシュタイン(Hanstein)らが挙げられ、G.ハウプトマン(Hauptmann)も駆け出しの新進作家として時折参加した。彼らは定期的に居酒屋等で例会を開き、ハルト兄弟が先鞭をつけたドイツ自然主義文学の論理的な基礎付けを行い、理想主義や権威主義を排し、現実を見据えながら社会に深く関与しつつ、自然科学における「観察」や「実験」という要素を大胆に取り入れた新しい文学(自然主義)の確立に大きな役割を果たした。ヴィレやベルシェはこの後、フリードリヒスハーゲン詩人サークルを結成し、文学のみならず生活そのものの刷新(ボヘミアン生活)を図る。



トートゥム・プロ・パルテtotum pro parte

 比喩の一種である提喩において、全体(上位)概念が部分(下位)概念をたとえる手法。例は以下の通り:
「日本、アメリカにPK戦で勝利。」=「日本」と「アメリカ」はそれぞれ同国の代表チームのたとえ。
「国民は民主党政権を選択。」=「国民」とは選挙権を行使した日本国民の多数のたとえ。
「飲む、打つ、買うの三拍子」=「飲む」とは「酒を飲む」、「打つ」とは「博打を打つ」、「買う」とは「娼婦を買う」のたとえ。
「伯父から車をもらった」=車は自動車を比喩。
「インターネットで見つけました。」=「インターネット」とはインターネット上で提供されるハイパーテキストシステムのワールド・ワイド・ウェッブのたとえ。
この逆の例として、部分(下位)概念が全体(上位)概念をたとえる手法をパルス・プロ・トトと呼ぶ。
 

トートロジー(英:Tautologie

 同義の単語や句を繰り返し並べること。「同語反復」と訳される。

例:規則は規則。よそはよそ、うちはうち。私は私。必要不可欠。忘却とは、忘れ去ることなり(「君の名は」)。ならぬことはならぬものです(会津藩「什の掟」)。

主語と述語で結果的に同様の内容を表現する場合も、トートロジーと見なし得るが、「同義語反復」と訳される。

例:100メートルは、10メートルの10倍である。犬が西向きゃ尾は東。彼が浪人しているのは、大学に落ちたからだ。自衛隊は、戦闘地域には派遣されない、なぜなら自衛隊の派遣される地域は非戦闘地域だからだ。

 トートロジーは、同義の語句を重ねることにより、他の概念との一層の差別化を図ろうとするものだが、一般的には必要以上に同義の語句を用いる修辞上の誤用と捉えられる場合が多い。この場合は「冗語」(Pleonasm)と呼ばれる。

例:頭痛が痛い。馬から落馬する。後で後悔する。最強のチャンピオン。Mt.FujiyamaHIVウィルス。JIS規格。

トートロジーの逆は、対義である語句を用いて文章や熟語を構成する「撞着語法」である。

 


読者の権利10ヵ条(仏:Les droits imprescriptibles du lecteur

 フランスの小説家ダニエル・ぺナックが1992年に出したエッセイ『小説のように』(邦訳:『奔放な読書』)の中で唱えた読者に与えられた侵すべからざる権利。全部で10箇条あり、それらは以下のとおりである。
1)      読まない権利。 
2)飛ばし読みする権利。 
3)最後まで読まない権利。 
4)読み返す権利。 
5)手当たり次第に何でも読む権利。 
6)
ボヴァリスム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)の権利。 
7)どこでも読んでいい権利。 
8)あちこち拾い読みする権利。 
9)声を出して読む権利。 
10)(何を読んだか)黙っている権利。
 これらの権利は、肩の凝らぬ自由で楽しい読書を推奨したものであり、エッセイがベスト・セラーになると共にフランスの読書界で知名度を増した。
 

読者反応批評(英:Reader-response criticism)→ 受容美学

 


ドッペルゲンガー(独:Doppelgänger)

 ある人物に瓜二つの別な人物を指す。文学においては、既にローマの喜劇作家プラウトゥスが書いた『二人のメナエクムス』(206)にこのモティーフが扱われているが、シェイクスピアの『間違いの喜劇』(1589-93)はプラウトゥスのこの喜劇を下敷きとしたものである。名称からも分かるとおり、このモティーフが盛んに取り上げられたのはドイツにおいてであり、とりわけゲーテ()『ヴィルヘルム・マイスターの修養時代』( 1795-9619)での、伯爵が(周囲の悪戯とはいえ)自らのドッペルゲンガーに出会い衝撃を受ける場面は有名である(第3巻第10章)。「ドッペルゲンガー」という言葉を最初に作品で言及したのはジャン・パウル()であるが、彼は『貧民弁護士ジーベンケースの結婚生活と死と婚礼』(1796-97)の中で「ドッペルゲンガーとは、自分自身を見る人間のことである」と規定した。続く19世紀にこのモティーフは文学でしばしば扱われ、ポー()の『ウィリアム・ウィルソン』(1839)、ワイルド()の『ドリアン・グレイの肖像』(1891)、スティーブンソン()の『ジキル博士とハイド氏』(1886)などが有名だが、特にE.T.A.ホフマン()はモティーフそのものを題名とした小説『ドッペルゲンガー』(1812)を始めとして、ドッペルゲンガーモティーフの様々なヴァリエーションを駆使した作家として特筆に価する。
 

トポス(希:τόπος / 英:Topos

 「共通の場」を意味するギリシア語であり、現代的な意味ではステレオタイプ化された常套句や、特定の人物にあらかじめ植えつけられたイメージ、頻繁に引き合いに出される例や作品内に頻繁に登場する場所などを指す。例えば「腹黒い継母」や「古き良き過去の時代」などといった人物や事物に対する類型的評価、或いは文学で再三描かれる「愛らしい場所としてのロークス・アモーエヌス」などが挙げられる。短歌での枕詞や俳句での季語もひとつのトポスと捉えることができよう。ただ、現代では特に場所としてのトポスについて言及される場合が多い。古代の修辞学におけるトポスとは、議論を組み立てることのできる共通の視点を意味し、類型化された語句、弁論テーマ、弁論そのものが様々に考案された。古代の弁論家はこうしたトポスを縦横に組み合わせて演説したわけである。アリストテレスはこれとは別に『弁論術』の中で、未整理ながらも「比較からの議論」や「類似からの議論」や「反対からの議論」など、議論の形として28のスタイルをトポスと呼んだ。バロック時代にトポスはその最盛期を迎えるが、同時に著しく陳腐化し、そのため後の啓蒙主義では論理学が嫌悪される原因となった。倫理学や文学でトポスを扱う分野は「トピック」と呼ばれ、その創始者はドイツの文学研究家クルティウスとされる。




トラヴェスティ(英:Travesty / 仏:Travesti / 独:Travestie

 パロディ文学の一種。権威ある名作が扱った荘厳なテーマを、世俗じみた表現で風刺する文学。バーレスクとも共通するが、テーマの内容をほぼ踏襲することにより、内容と表現様式の乖離を醍醐味とする点に特徴がある。オリジナル作品をあらかじめ知っておくことが、トラヴェスティを楽しむ前提になるので、古典作品や大文豪の作品を下地にする場合が多く、バーレスクなどよりもソフトで辛辣性は薄い。代表的な作品を挙げると、17世紀中盤に活躍したフランスの作家P.スカロン(Scarron)の「変装したヴェルギリウス」(“Le Virgile travesty”164852) は、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』のトラヴェスティであり(当時はラテン語授業の教材になるほど有名な作品だった)、セルバンテス(Cervantes)の『ドン・キホーテ』(1605) は、騎士道物語の、またJ.ジョイス(Joyce) の『ユリシーズ』(192022)は、題名が示すとおり『オデュッセイア』(8世紀頃)のトラヴェスティと見なすことができる。
 トラべスティは、文学ジャンルの他にも、劇場用語としても用いられ、その場合は、役柄の性別とは異なる性別の役者が演じる演出を指す。古代ギリシア劇では、演じる役者は全て男性で、仮面によってその性別を表現した。女優が登場するのは、古代ローマ劇からであるが、当時の女優は娼婦にも比し得るほど社会的地位が低かった(ただ、男優の地位も決して高いものではなかった)。その後はキリスト教の影響のため、宗教劇以外の民衆演劇は、茶番劇的なものに限定されていたが、ようやく16世紀イギリスに花開いたエリザベス朝演劇において、常設劇場を本拠としたプロ劇団による大衆演劇が誕生する。しかし、当時も女性が職業役者となることが禁じられていたため、女性役は少年が演じ、これがヨーロッパ演劇史上正式なトラべスティと見なし得るものである。その後の大空位時代(16491660)を経て女性にも職業役者の道が開かれ、男装した女優(ズボン役)が登場する演劇が17世期後半には大流行した。その後は、特にオペラにおいてズボン役は貴重な登場人物となり、W.A.モーツァルト(Mozart)『フィガロの結婚』(1786) のケルビーノ、L.v.ベートーヴェン(Beethoven)『フィデリオ』(1805) のフィデリオ、R.シュトラウス(Strauss)『薔薇の騎士』(1911) のオクタヴィアンなどが有名である。

 

 

ドラマトゥルギー(独・仏:Dramaturgie / 英:Dramaturgy

 演劇論と訳されるが、演劇、ひいては小説も含めた実際の物語文学を制作する技法・理論を指し、演出理論もその中に含まれる。従って、今日映画やテレビドラマ、更にはコンピュータゲーム制作にまでこの用語は用いられる。ドラマトゥルギーを最初に考察したのはアリストテレスであり、『詩学(335)において理想的な悲劇の構造を分析した。そこで提唱された筋の3要素(ペリペティアアナグノリシスパトス)や、カタルシス論などが、従って西洋文学最古のドラマトゥルギーと見なしうる。以降中世に至るまで西洋演劇は長らく彼のドラマトゥルギーの影響下にあったが、古典主義バロック期を経て杓子定規な三一致の法則の厳守などへと形骸化する。そうした中、ドイツにおいてハンブルク国民劇場付劇作家であったレッシングが『ハンブルク演劇論』(1767)を発表し、アリストテレスのドラマトゥルギーを原点に立ち返って解釈し直し、王侯貴族の間でしか生まれなかった悲劇の舞台を市民社会へと発展させ、市民悲劇が誕生したのである。ドラマトゥルギーの構築に関しては、とりわけ演劇では後発国であるドイツにおいて盛んであり、それに伴い演出が持つ独自の価値も19世紀末より認められ始めた。更にブレヒトが提唱した叙事的な演劇論と客観的な演出法は、現代演劇に大きな影響を与えたドラマトゥルギーである。
 

トルヴェール(仏:Trouvère

 トルバドゥールを源流とし、12世紀から13世紀にかけて北フランスで活躍した吟遊詩人。名称の語源はトルバドゥールと同じである。ジョングルールが民衆を対象とした旅回りの音楽師であったのに対し、トルヴェールはトルバドゥール同様、貴族階級を相手にし、彼らの庇護を受け、時にはクレティアン・ド・トロワやクーシー城代のように自らが貴族である場合も多かった。彼らの吟唱する詩も従って、トルバドゥール伝来の「宮廷における純粋な愛」を謳い上げるものが多かったが、情熱性と官能性は若干減じている。先の2名の他の著名なトルヴェールとしては、コノン・ド・ベチュール、ガース・ブリュレ、チボー・ド・シャンパーニュらが挙げられる。トルヴェールまでの詩は当然のごとく旋律を伴う「詠われる詩」であったが、14世紀中頃にはギヨーム・ド・マシュー(彼を最後のトルヴェールと見なす意見もある)の例に見られるように詩は必ずしも旋律を伴わず、「読まれる詩」へと変遷していった。すなわち、トルヴェール以降、音楽と文学は分化していったのである。
 

トルバドゥール(仏:Troubadour

  広義には、ヨーロッパ中世の歌謡作家・歌手の総称としても用いられるが、厳密には南フランスで11世紀末から13世紀末にかけて活躍した、オック語(南ケルトのロマンス語)を用いて作歌した詩人たちを指し、”trobar”の語源はオック語で「見つける」、更にラテン語では「詩作する」意であるといわれている。後のドイツに波及したミンネゼンガー同様、彼らの歌は、初期ミンネザングとは異なり、恋愛抒情詩に特化されてはおらず、時に風刺的内容や扇情的内容も盛り込まれたが、形式は多岐に渡っている(カンソ=恋愛詩、後のカンツォーネに繋がる。/ シルヴェンテス=風刺詩 / ダンサあるいはバラーダ=舞踊詩 / テンツォーネあるいはデバ=論争詩 / パストレール=牧歌など)最初のトルバドゥールはアキテーヌ公ギョーム9(ギョーム・ダキテーヌ)とされ、その後ジョフレ・リュデル・ド・ブレ、アルノー・ダニエルなどが現れた。トルバドゥールは、12世紀以降、イベリア半島、イタリア、ドイツに伝播していくが、とりわけギョーム9世の孫娘アリエノールがフランス王ルイ7世と結婚したことにより(1137)、北フランスにも広がり、「トルヴェール」と呼ばれた。
 

トレチェント ドゥエチェント



トロイア圏 → 叙事詩環


トロカイオス(希:τροχαος / 羅:trochaeus / 英:Trochee / 独:Trochäus

 英語名トロキー。詩において、アクセントを持つ長音節の後にアクセントのない短音節が置かれた形の詩脚。「長短格」とも訳され、イアンボスの丁度逆の形である。古代ギリシア劇のコロスが詠じる合唱(コーラス)でも多用されたため、”Choreus”とも呼ばれる。古代ギリシア・ラテン詩においてイアンボスと共に基本的な詩脚として用いられ始めたが、中世から現代に至ってもやはり使用され続けている。音楽のアウフタクト(弱起)に相当し、やや複雑なイアンボスに比べ、トロカイオスは崇高さこそイアンボスに若干劣るものの、より単純な詩脚と見なされた。そのため、韻律の単純さがまた滑稽さを表現するのには好適とされ、トロカイオスは童話や絵本にも多用された詩脚である。
Peter, Peter pumpkin-eater,
Had a wife and couldn't keep her,
(『マザーグース』より:
太字が長音節:トロカイオス・テトラメトロス
Wer die Schönheit angeschaut mit Augen,
Ist dem Tode schon anheimgegeben,
A.v.プラーテン:ロマン詩『トリスタン』より:トロカイオス・ペンタメトロス)
また、トロカイオスがシンプルな力強さを生み出す例は、ベートーベン第九交響曲『合唱』の歌詞として余りにも有名なシラーの詩『歓喜に寄す』(1785)に見ることができる。
Freude, schöner Götterfunken,
Toch
ter aus Elisium,
(トロカイオス・テトラメトロス[4歩格])
 

ドン・キホーテ型(英:Don Quijote type

 セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』(1605-1615)の主人公の如く、理想(夢想)を追い求め、周囲を冷静に省みることができず、とにかく行動に走ってしまう性格。猪突猛進型。対立するタイプに優柔不断のハムレット型があり、ツルゲーネフが1860年に行った講演『ハムレットとドン・キホーテ』の中で、人間の代表的な2タイプとして提唱した。
 

内的独白(仏:Monologue intérieur / 独:Innerer Monolog / 英:Interior monologue

 主人公の心の中での発言を直接話法で描写する語りの手法。「こいつは一体まだどの位続くんだ?時計を見なきゃ。…こんな真面目なコンサートにゃ多分合わないか。でも誰がそんなの見てるんだ?誰か見てたって俺みたいに注意なんかしちゃいないさ。そんな奴の前で格好つけることもないな。」(A.シュニッツラー:『グストル少尉』[1900]冒頭)といった具合に独白で小説が進行する。「意識の流れ」を表現するひとつの方法であるが、内的独白での発話は自分に対する問いかけ、叱責、激励などの形で行われることが多い。(前者は特に相手のいない発話であることが一般的である。)この「話し相手である自分自身も発話を始めると「内的対話」という非常に特殊な形式となる(トールキン『指輪物語』[1954/55]中のゴクリとスメアゴルの人格分離)。内的独白は18世紀以来のオペラ・アリアがそうであるとも考えられ、新しい手法ではないが、デュジャルダンが1887年に発表した『月桂樹は切られた』で近代的な様相を帯び、『グストル少尉』(作品全体が内的独白で構成)を経てプルースト『失われた時を求めて』(1913-27)及びジョイス『ユリシーズ』(1917)で完成を見た。



ナイトハルト劇(独:Neidhartspiel

現存するドイツ語最古の世俗劇。14世紀中盤以降からが確認されており、オーストリア領内で成立したと見なされている。13世紀前半のドイツでは、ナイトハルト・フォン・ロイエンタール〈Neidhart von Reuentalというミンネザング(宮廷恋愛歌)詩人が活躍するが、彼は騎士道を皮肉り、粗野な農民を描く詩を書いた。彼にまつわるエピソードを元とする滑稽劇がナイトハルト劇である。その主な内容は以下のとおり。
 「ナイトハルトは春に草原で一輪のスミレを見つけ、オーストリア公爵夫人に披露しようと帽子を被せ立ち去る。すると農民たちが現れ、帽子の中のスミレを糞と置き換える。ナイトハルトは公爵夫人や廷臣たちと戻り、彼らは帽子の周りで春のダンスを踊り楽しむ。座が最高潮に盛り上がったところで、ナイトハルトが帽子をよけると糞が現れ、公爵夫人は彼を叱りつける。怒り狂ったナイトハルトは、農民に残虐な報復をする。」
 この内容に基づいたナイトハルト劇は、4種類ほど伝わっており(ザンクト・パウル劇:14世紀中盤、ザンクト・パウル・ベネディクト修道院写本/シュテルツィンク劇:15世紀、シュテルツィンク写本/大ナイトハルト劇:15世紀、ボルフェンビュッテル写本/小ナイトハルト劇:15世紀末、ボルフェンビュッテル写本)、最終的には謝肉祭劇に吸収された。
 


ナポレオン劇場令(仏:Décret sur les théâtres

 劇場の過当競争を防ぎ、演劇・オペラを保護するために、1807729日に皇帝ナポレオン1世が発したパリの劇場に関する政令。それまで多数あった劇場を8館に絞り、それぞれの劇場が上演できる演目のジャンルを限定した。8館は主劇場(Grands théâtres)4館と副劇場(Théâtres secondaires)4館からなり、上演ジャンルは以下のとおりである。
(主劇場)○コメディー・フランセーズ:フランス古典主義悲劇・喜劇用皇帝劇場。○皇后劇場(現在のオデオン座):コメディー・フランセーズの別館。○オペラ座:全編が歌われる大規模オペラ(グランド・オペラ)兼バレエ劇場。○オペラ・コミック:歌と台詞が混在する芝居(現在のオペレッタ)用の劇場。
(副劇場)○ヴォードヴィル座:流行歌(現在のシャンソンの原型)を織り交ぜた小演劇(ヴォードヴィル)用劇場。○ヴァリエテ座:現在のミュージカルやキャバレーに繋がる歌あり踊りありの華やかな大衆娯楽劇(ヴァリエテ)用劇場。○ポルト・サン・マルタン座:メロドラマ用劇場。○デ・ラ・ゲテ座:パントマイムを中心とした小喜劇劇場。バレエは演じられない。
 この8館以外は閉館とされ、新たな劇場の建設や劇団の移転は許されなかった。地方の劇場もこの政令に準じ大都市は2館まで劇場が許された。政令自体は1815年のナポレオン失脚により無効となったが、各劇場の社会的観劇層は以降も固定化し、上演作品のジャンル分け(悲劇、喜劇、グランド・オペラ、コミック・オペラ、ヴォードヴィル、ヴァリエテ、メロドラマ、パントマイム)は一定の文学ジャンルとして確立する。

ナラトロジー(仏:Narratologie / Narratology / 独:Erzähltheorie

 物語の内容や物語る方法を客観的に分析する文学研究。「物語論」と訳される。物語る方法についての研究は、既にアリストテレスが『詩学』(前335)の中で試みているが、ナラトロジーという研究分野が本格的に誕生するのは、物語の内容に関する研究からであり、昔話の内容を31の形態に分類したウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』(1928)以降からとされる。この方法を1960年代にはレヴィ・ストロースが神話の構造分析へと大きく発展させ、構造主義の成立へと繋がり、ツヴェタン・トドロフ『デカメロンの文法』(1969)や、 ロラン・バルト『S/Z─バルザック「サラジーヌ」の構造分析』(1970)などの成果を生み出した。プロップに発する物語の類型分析は以降盛んに行われ、アールネ/トンプソンによる昔話の類型分類(AT分類)や、我が国での関啓吾『日本昔話集成』(1950-58)といった画期的な分類研究を生み出している。しかし、1970年代に物語る方法にも脚光を当て、総合的な学問分野としてのナラトロジーの成立に貢献したのは、ジェラール・ジュネットである。彼は『物語のディスクール』(1972)において、物語の内容(物語の中で生じている出来事)を「イストワール(物語内容)」、それを語った結果であるテクストそのものを「レシ(物語言説)」、そして語るという行為を「ナラシオン(物語行為)」と規定し、ナラトロジーは本来レシを中心にして分析すべきものとした。こうしたナラトロジーの研究対象分野は多岐に渡るが、代表的なものとして、語り手の分析(一人称、三人称、全知の語り手、信用できない語り手といった分類、また、語り手と登場人物は同レベルの世界に存在するか否か、など)、レシがイストワールにどのように対応しているかの分析(起きた事件をテクスト内のどこで物語るか、起きた事件の所要時間と物語る時間の所要時間の対比など)、物語る視点の分析(物語る対象人物を誰にして、その人物のどこまで物語るか、など)、物語の枠組みの分析(語り手は語るだけなのか、それとも物語にも登場するのか[枠物語]、物語の中に更に別の物語が組み込まれているのか[紋中紋]、など)などが挙げられる。すなわちナラトロジーは、物語の類型分析を別にすれば、作品中での「語り」のあり方についての分析を柱に据える研究分野であるといえよう。ナラトロジーはプロップが属するロシア・フォルマリズムの所産でもあり、構造主義的文学研究の代表的分野として20世紀の文学研究・批評に大きな影響を与えた。
 


27年世代(西:Generación del 27

 1920年代前半に創作活動を開始し、内戦が勃発する1936年まで文壇を主導したスペインの詩人グループ。グループは、「ゴンゴリスモ」の生みの親であるスペイン・バロック詩人ゴンゴラの没後300周年にあたる1927年に、詩人を偲んで結成された。中心メンバーとして、F.ガルシア・ロルカ(García Lorca)R.アルベルティ(Alberti)J.ギーエン(Guillén)P.サリーナス(Salinas)G.ディエゴ(Diego)L.セルヌーダ(Cernuda)D.アロンソ(Alonso)それにV.アレイクサンドレ(Aleixandre)が挙げられるが、更に会の機関紙ともいえる文芸雑誌「リトラール」(Litoral)の編集者であるM.アルトラギーレ(Altolaguirre)E.プラドス(Prados)も加わった。他に若手作家としてM.エルナンデス(Hernández)や女流詩人アウグスティーナ・ゴンザレス・ロペス(Agustina González López)も著名なメンバーとされる。各々一流の詩人がこれだけ結集したグループは他国に比較しても珍しく、スペインに限らず20世紀におけるヨーロッパ最高の詩人集団と見なされる(グループからはセルバンテス賞受賞者を3人[ギーエン、アロンソ、アルベルティ]、ノーベル文学賞受賞者を1人[アレイクサンドレ]輩出している)。彼らは自然主義や印象主義を排し、理性的で深層心理に根差した文学を標榜し、その模範は、モデルニスモを代表するR.ダリオ(Darío)と、韻律を持たない「純粋詩」(poesía pura)を生み出したJ.R.ヒメネス(Jiménez)であった。更に彼らは98年世代の文学に漂うペシミズムを克服するべく、シュールレアリスムの影響を受け、社会性・政治性に富む作品を生み出した。彼らが「98年世代の孫たち」と呼ばれる所以である。そして、彼らの詩作の根底には、中世スペイン民衆詩集「ロマンセーロ」の精神が認められる。スペイン内戦により彼らは四散したが、アロンソはその社会の不条理に際して実存主義的な内的葛藤を謡い、アレイクサンドレは友情や共感を中心に据えたヒューマニズムを謡い上げた。



ニュー・クリティシズム(英:New Criticism

1920年代から70年代にかけて、アメリカ全般において(そして部分的にはイギリスにおいても)主流となった文芸批評手法。この名称は、1941年にジョン・クロウ・ランサムが発表した文芸批評論集”The New Criticism”から取られ、「新批評」とも訳される。
 ニュー・クリティシズムは、それまでの文芸批評では支配的であった文献考証を柱とした作品分析(伝統批評)や、批評者本人の主観に基づいた解釈(印象批評)を否定し、作品を成立時の歴史的・社会的背景から切り離した。更には作者自身の制作意図も作品の批評では勘案せず、作品を一個の完全に独立した有機的な統一体と捉える。それまでの文芸批評は、言わば歴史的・社会的に規定された作者が、作品を通じて何を訴えようとしているのかを探る作業であったのに対し、ニュー・クリティシズムは作品そのものと向き合い、その構造や技法を分析し、作品が何を表現しているのか、その芸術性はどこに存在するのかを探る作業であるといえよう。
 代表的批評家・詩人としては、アメリカでは上記のランサムに加え、彼と共に文芸サークル”The Fugitives”(「逃亡者」)を結成し、同名の雑誌を発行したアレン・テイトやロバート・ペン・ウォーレン及びコア・メンバーではないが交友のあったクリアンス・ブルックスなど、イギリスでは東京文理科大学でも教鞭を執ったウィリアム・エンプソンやアイヴァー・A.・リチャーズがいる。更にその理論的支柱として、従来の批評が招く作者の意図を重視することによりもたらされる「意図の誤謬」と、読者の感想を重視することによりもたらされる「感情の誤謬」を指摘したウィリアム・K.・ウィムサットとマンロー・ビアズリーが挙げられる。発表媒体としては、やはりランサムが1939年より発行を始め、米国で最も重要な文芸誌のひとつとなる「ケニヨン・レビュー」が、その代表的な機関誌である。このようなニュー・クリティシズムの主張は、後のロラン・バルトが提唱した「作者の死」など、ポスト構造主義文芸批評に大きな影響を与えた。
 

ニューゲート・ノヴェル(英:Newgate novel

1820年代末から40年代にかけてイギリスにおいて人気を博した犯罪小説。ロンドンのニューゲート監獄での処刑記録である『ニューゲート・カレンダー』に登場する犯罪者を専ら扱ったことから、この名が付けられた。代表的作家としては、エドワード・ブルワー=リットン(『ポール・クリフォード』[1830])やウィリアム・ハリソン・エインズワース(『ロックウッド』[1834])が挙げられ、特に18世紀初頭の大泥棒であり脱獄王を扱ったエインズワースの『ジャック・シェパード』(1839)がその最高作とされる。これらの小説は、極悪犯罪者をある意味で英雄視するもので、批判も多く、ディケンスやサッカレーはそのアンチテーゼとして、『オリバー・ツィスト』(1838)や『キャサリン』(1839)の中で、犯罪者のリアルな姿を冷徹に描き上げた。
 


人形劇(英:Puppet show / 仏:Théâtre de marionettes / 独:Puppentehater

 人形を用いた演劇。その起源は古く、有史以前に遡ることができる。最も古い形態として、手にはめる指人形は古代ペルシャに認めることができるが、人形に糸を取り付け上から操るマリオネット(糸繰り人形)も前2000年代の古代エジプトの墳墓に残され、古代ギリシア時代には、アリストテレスは手足や目玉が動く人形に言及し、プラトンは『国家』の中の「洞窟の比喩」で、人形を映し出す影絵を実体と感じている人間の蒙昧ぶりを論じている。『イリアス』(前8世紀頃)と『オデュッセイア』(同左)はしばしば人形劇として演じられた。
 これら古代ギリシア・ローマ時代の人形劇の伝統を受け継いだのは、中世を経たルネサンス期のヨーロッパである。(人形劇の中世における最も古い記述は、アルザス地方の女子修道院長であったヘラート・フォン・ランツベルクが著した百科事典「ホルトゥス・デリチァルム(Hortus Deliciarum:11251130)」に見られる。)16世紀に入ると、人形劇はコンメディア・デッラルテの影響を受けたストック・キャラクターが織りなす物語が主となり、天国や地獄、善と悪など、アレゴリー的なテーマを扱った。人形劇団が演劇の代わりに巡業の旅に出ることも一般的であった。そのため、残酷性も備えた荒唐無稽のドタバタ劇であるイギリスの「パンチとジュディ」、ドイツの「カスパールとグレーテ」、或いは道化役のプルチネッラやハンスヴルストなどといったストック・キャラクターたちは、演劇以上に人形劇に色濃く残ることとなる。18世紀以降は、グルックやハイドンやレスピーギや、マヌエル・デ・ファリャらが人形劇用のオペラを作曲し、こうした人形が歌うオペラは現代も尚上演されている。
 フランスでは、1808年頃にリヨンで始められた指人形芝居が「ギニョール」として定着し、マリオネットの故郷ともいえるイタリアでは、19世紀中盤にヴェニスで活躍した人形師ピエトロ・ラディロが、従来の2本線のマリオネットを8本線に改良し、より緻密な動きを再現した。ドイツでは、「ファウスト博士伝説」などで、人形劇が大きく発達したが、「アウグスブルガー・プッペンキステ」劇場は、そのレパートリーである「ジムボタンの冒険」が1961年から映画、テレビ、ミュージカルへのアレンジにより映像化され、世界的な知名度を得た。
 イギリスでは、20世紀に入り、ジェリー・アンダーソンが操り人形に革命的な改良を加え、「スーパーマリオネーション」(人形の唇が台詞に反応して作動するギミックや特撮を導入した舞台道具)と呼ばれる分野を開拓し、「サンダーバード」(1965)で現在も衰えない世界的な人気を博している。

 

人間喜劇La Comédie humaine

 オノレ・ド・バルザックによる小説、物語、分析的エッセイからなる連作群の総称。従って「人間喜劇」という題の作品は存在しない。1842年から48年まで刊行され続け、当初の構想では137編が予定されていたが、最終的に91(分類により異説あり)を発表したところで作者が亡くなり未完となった。全作品は「風俗研究」、「哲学研究」、「分析研究」の3部に体系化され、「風俗研究」は更に「私生活情景」など6種類に分類されている。収録作品の執筆年代としては1829(『ふくろう党』)から1848年(『現代史の裏面』)までに亙り、バルザックが執筆した小説の大半が含まれている(ただ、「喜劇」といいながら戯曲は含まれていない)。未完だった『アルシの代議士』と『プチ・ブルジョワ』は作家の死後、友人の作家兼ジャーナリストであるシャルル・ラブー〈Charles Rabouの手により完成され(1854-56)、連作群に組み入れられた。バルザックは、動物学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール〈Étienne Geoffroy Saint-Hilaireが唱えた動物界における「単一構造」論に影響を受け、動物の根源的な単一構造が環境により後世で様々に変化した形で現れるように、人間にも単一の根源的な種があり、社会的環境の違いで様々な人間へと変化すると考えた。動物界にライオンや、鹿や、狼や、烏が生まれたように、人間社会にも兵士や、労働者や、商人や、詩人が生まれたというわけである。そのあらゆる人間の種の変化を19世紀前半のフランスを舞台に描き切ろうとした壮大な試みが「人間喜劇」である。それゆえ人物は様々な方向から描写される必要が生じたが、そのためにバルザックが開発した独特な技法が「人物再登場法」であった。すなわち、同一の人物が複数の作品に登場する小説技法である。それもある作品では主役となり、またある作品では端役で登場するなど、作品によって同一人物の扱いが異なるため、作品群全体がひとつの世界を多方面から描くという、それまでにはない人間社会の包括的・有機的描写が可能となった。各小説では人物の外観や行動、周囲の様子が克明に描かれ、写実主義のひとつの完成形を示したが、『谷間のゆり』(1836)など崇高なキリスト教精神を表現する作品が散見される中、作品群全体は「喜劇」とは名ばかりのペシミズムに貫かれ、様々な人物が己の情念の故に身を滅ぼしていく。とりわけ、社会と個人との相克を描いた『ゴリオ爺さん』((1835)は、「人間喜劇」を代表する傑作と目されているが、過酷な近代社会に敗北する老主人公の姿に、自然主義の萌芽を認めることもできよう。
 

ヌーヴォー・ロマン(仏:Nouveau roman

 「新しい小説」の意。1950年代から70年代にかけてフランスで発表された従来の小説の枠組みを打破するべく執筆された実験小説群。フランスの文芸評論家エミール・エンリオの命名による。バルザックやフロベールにより完成を見た小説形式を否定し、時間的流れに沿った描写、登場人物の個別的性格付け、作品世界に対する作者の主観などを忌避した。その結果、作品は極めて客観的な描写から成り立ち、物事の表層面を描くに留まる。深層の解釈は全て読者に委ねられるわけである。直系の先駆者は、サミュエル・ベケットとされ、代表的作家としては、ロブ=グリエ(『消しゴム』[1954]:思想家バルトはこの作品を激賞し、以降もヌーヴォー・ロマンを擁護した)、サロート(『見知らぬ男の肖像』[1948])、シモン(『フランドルへの道』[1959])、ビュウトール(『時間割』[1956]、『心変わり』[1957])らが挙げられ、彼らに影響を与えた作家には、プルースト、ジッド、フォークナー、カフカ、ジョイスらがいる。ヌーヴォー・ロマンに属する作品の多くはミニュイ社から出版されたため、「ミニュイ派」とも呼ばれたが、サルトルは「小説に異議を申し立てる小説」という意味で「アンチ・ロマン」と呼んだ。
 

ネメシス(希:Νέμεσις / 英:Nemesis

 本来はギリシア神話における「義憤」の女神。傲慢や偽りの愛を罰する神であるため、「正義の女神」にも位置づけられている。古代ギリシア神話では、人間の思い上がった行為である「ヒュブリス」に天罰を下す神がこのネメシスである。翻って、古代ギリシア悲劇においても、増長した主人公に下される天罰はネメシスの仕業とされる。
 

農村派散文Деревенская проза / 英:Village Prose

 1950年代から70年代にかけて、ソ連に台頭した文学潮流。当時のソビエト社会主義が信奉した科学技術や社会の近代化や、その結果として人間性を欠いた社会を批判し、ロシア本来の構成社会である農村を、キリスト教的倫理観や自然描写を交えながら温かく描写した。必然的に、その背景には保守主義的、愛国主義的精神性が認められる。短編が多く、写実的に描かれはするが、その大部分はフィクションである。代表的な作家としては、フョードル・アブラーモフ(『兄弟姉妹』[1958])、ワシーリー・ベローフ(『いつものことさ』[1966])、ラスプーチン(『マリヤのための金』[1967])が挙げられるが、アレクサンドル・ヤーシン(『アリョーナ・フォミナー』[1949])やウラジーミル・ソロウーヒン(『大地に生きる』[1965])などの詩集も農村派と呼ばれる。アレクサンドル・ソルジェニーツィンも、その短編『マトリョーナの家』(1963)により農村派散文作家と目される場合がある。
 

ノックスの十戒(英:Knox's Ten Commandments

 イギリスの聖職者・ミステリ作家ロナルド・ノックスが1928年発表したミステリフェアプレイを守るための10の原則。実例を交えたウィットの効いた文章になっているが、その主旨は以下のとおり
1)   犯人は物語の始めのほうで登場している人物でなければならないが、が、読者がその思考を追うことを許され  た人物であってはならない
2)探偵方法に超自然の能力を用いてはいけない。
3)犯行現場に秘密の抜け穴や通路を使ってはいけない。
4)未発見の毒薬や難しい科学上の説明を要する装置を犯行に使ってはならない。
5)中国人を登場させてはいけない。
6)偶然や説明のつかない直感で探偵は事件を解決してはいけない。
7).探偵自身が犯人であってはいけない。但し犯人が探偵に変装して、作中の登場人物を騙す場合はよい。
8)探偵は読者に提出しない手がかりで解決してはいけない。
9)探偵のワトソン役(物語の記述者:サイドキック)は自分の考えを読者に隠してはならない。彼の知性は、一  般的な読者よりもわずかに低くなければならない。
10)双生児や替え玉は、あらかじめ読者に知らせておく以外は、登場させてはならない。
これらの原則は、同年に発表されたヴァン・ダインの20と並んで、ミステリ作法の基本を規定した初めてのものだが、5)や10)など、不可解なものも見受けられ、現在は説得力をほぼ失っている。そもそも、ノックス自身後にこの原則を破った作品を発表するなど、真剣に唱えられたものであるかも疑わしい。
 

ノワール小説(仏:Roman noir→ 暗黒小説