サイバーパンク (英:Cyberpunk)< SF

 

作者の死(仏:La mort de l’auteur

ロラン・バルトが1968年(英訳版はその前年)に発表した論文の題名から名づけられた文芸理論。その翌年にミシェル・フーコーも講演録「作者とは何か」を発表し、理論を深化させた。従来から行われてきた、作者の執筆意図を社会的、伝記的分析から追い求める伝統批評、印象批評に対して、作者の作品に対する絶対的立場を真っ向から否定し、執筆された後の作品は作者から完全に独立した存在として、作者の意図しない意味も包含し得ると主張した。その主張は「ニュー・クリティシズムの流れを汲むもので、ポスト構造主義を代表する文芸理論となった。同時に、作品の意味は作者ならぬ読者が創造していくものだという、「受容美学にも相通じるものである。バルトは自らのこうした主張を、端的に「『作者の死』によって、初めて『読者の誕生』が可能になる。」と述べている。
 

サテュロス劇(希:Σατυρικό δράμα / 英:Satyr play

 古代ギリシア演劇において、悲劇の後に上演された”Nachspiel”(幕切れ後の小演劇)。アテーナイで毎年開催されるディオニューシア祭では、前534年より悲劇の上演が始まったが、その際、3日間に渡り、3人の悲劇作家がそれぞれ毎日3篇の新作悲劇を上演し、その優劣を競い合った。そして悲劇上演の後、「口直し」として上演されたのが、神話上のエピソードを、シーレーノス(酒好きで、予知能力に長けた半人半馬の精)に率いられた半獣半身のサテュロスたちからなるコロスが面白おかしく披露する小劇である。前502/501からディオニューシア祭で悲劇作家プラティナス(Pratinas)により上演されたものが嚆矢とされ、悲劇同様大いに人気を博したが、300篇ほど上演されたと推定される作品のうち、現在まで完全な姿で伝わるものは、エウリピデスによる『キュクプロス』(408BC)のみである。


サブテクスト(英:Subtext

 文学や演劇や映画や音楽などにおいて、はっきりと明示された表現に内包された付加的な意味。文学では文章本来の意味と混同されがちだが、厳密には、当該テクストが表現する普遍的な意味の他に、特定の情報を有する読者や聴衆のみが理解しうる意味を指す。サブテクストを理解するという作業は、「解釈」の領域に属し、「行間を読む」とも表現される。例として、妻が夫に「寒いわ。」と言った場合を考える。この発言のサブテクストを、夫は状況により、「窓を閉めてよ。」という依頼と解釈することが考えられる。こうしたまとまった文章単位を対象として(或いは作品全体を対象として)、作者の恣意によりサブテクストは仕込まれるが、単語単位を対象とし、表現が社会規範上有する副次的な意味(例えば「念仏→空虚な繰言」など)を「コノテーション」(含意)と呼ぶ。
 

サボイ・オペラ(英:Savoy opera

 19世紀後半のイギリスにおいて流行したコミック・オペラ。一種のエクストラヴァガンツァであり、大陸でのオペレッタに当たるが、差別化を図る意味で、ロンドンのサボイ劇場で主に上演されたことから当時のメディアは標記の名称で呼んだ。1870年代から1910年頃まで30作以上作られたが、中でもギルバート台本、サリヴァン作曲の作品は人気を呼び、そもそもサボイ劇場は両者の作品を上演するために建設された劇場である。現在の劇場からはほとんど姿を消したサボイ・オペラだが、ギルバート/サリヴァン作品には、『ペイシェンス』(1881)や『ミカド』(1885)など、今日も尚上演されるものが含まれている。そして、少なくともサボイ・オペラがレヴューやミュージカルの誕生に寄与したことは疑う余地がない。
 

三一致の法則(仏:Règle des trois unitès

 「三単一の法則」ともいう。17世紀後半に確立したフランス古典主義演劇における劇作上の規範であり、「ひとつの戯曲は、一日の間に(時の単一)、同じ場所で繰り広げられた(場所の単一)、ひとつの行為(筋の単一)を描かなければならない」というもの。すなわち、時間や場所の飛躍や伏線的な筋は否定される。この法則はアリストテレスの『詩学』(335BC)での提唱によるとされたが、戯曲と叙事詩を区別しようとしたアリストテレスが前者に求めたものは、筋の単一のみである(第8章)。また、第7章において、彼は劇の長さを「適当な長さ」と規定してはいるが「一日」とは言っていない。ましてや、場所の単一については一切言及していない。アリストテレス以前のギリシア悲劇に関しても、例えばアイスキュロスの初期戯曲などはこの法則に依拠していない。アリストテレスの主張を拡大解釈した三一致の法則がことさらやかましく唱えられるようになるのは、16世紀から17世紀にかけてのバロックルネサンス期になってからである。特にフランス古典劇では遵守が厳しく求められ、その意味でモリエールやラシーヌの戯曲が絶対的な模範となり、この法則を守らぬシェイクスピア劇は軽視された。コルネイユの人気戯曲『ル・シッド』(1637)を巡る文学論争(「ル・シッド論争」)も、この法則の遵守が重要な争点となっている。三一致の法則はフランス古典主義演劇の真髄であり、19世紀後半のヨーロッパ演劇にまで影響を及ぼした。
 

三月革命前期(独:Vormärz

 3月革命(1848)以前にドイツやオーストリアで生じた文学運動。19世紀初頭以降反動政治体制が復活したことに対して、政治・社会性の強い文学を生み出した。その開始は諸説あり、ウィーン会議の開かれた1915年を起点とする説や、19(自由主義運動の抑圧を図った「カールスバート決議」出された)30年(フランス7月革命)を開始年とする説もある。時代的には完全にオーバーラップするものの、当時の政治・社会から目を背けた逃避的な文学風潮として「ビーダーマイヤー」がある。三月革命前期で最も急進的な活動を展開したのは、「若きドイツ派」の青年文学者たちである。この集団に属したラウベ(『若きヨーロッパ』[1833-37])やベルネ(『パリ便り』[1832-34])やグツコー(『辮髪と剣』[1844])などの社会問題を正面から取り上げた作品は世間の注目を浴び、1835年には彼らの著作が発禁処分となった。ただ、彼らの作品は当時を描くジャーナリズム性に過ぎたため、現在ではそれほどの重きを置かれてはいない。一方、三月革命前期で社会に背は向けてはいないものの「若きドイツ派」と一線を画していた作家たちに現在でも高い文名を有するものが複数存在する。その代表的な存在がハイネである。ハイネは35年に若きドイツ派と共に発禁処分に遭っているため、この集団に属する作家と見なされる向きもあり、事実彼の作品は時事性も有し「若きドイツ派」に大きな影響を与えたのだが、「若きドイツ派」の作品がえてして「傾向文学」に走ったのに対し、当時の世相が忘れつつあった文学本来の叙情性を決して放棄しようとしなかった点は「若きドイツ派」の範疇に留まるものではない。事実彼は「若きドイツ派」の詩人たちが登場した際には、彼らを「傾向詩人」として批判している。更にハイネの政治的長編叙事詩『ドイツ・冬物語』は、成立当時からナチス時代にかけて「非愛国的作品」として蔑まれたが、現代では亡命者が示す母国への複雑な心情を表現した作品として高く評価されるなど、「若きドイツ派」以上の政治的文学をもハイネは確立したといえよう。彼の他にもビュヒナー(『レンツ』[1835]、『ボイツェック』[1837])、グラッベ(『ナポレオン、あるいは百日天下』[1831])、ベティーナ・フォン・アルニム(『ゲーテとある子供の往復書簡』[1835])、アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ(『ユダヤ人のブナ』[1842]:この時代には女性の社会進出が進み、女流作家も多数登場した )ら、心理・社会描写や政治性や民族性の文学への導入において、従来の古典主義ロマン主義を逸脱した作品を残した作家たちが現れ写実主義自然主義への橋渡し役をつとめるが、そうした彼らの文学を総称するにあたっては、ただ成立時期に関して「三月革命前期」と呼びうるだけである。
 

三博士礼拝劇(独:Dreikönigsspiel / 西:Auto de los Reyes Magos

 宗教劇の一種。「三王礼拝劇」とも訳される。キリスト誕生の際に、東方より星に導かれて来訪してきた三人の賢者が、幼子イエスに礼拝する様子を描く。11世紀頃にドイツやフランスで成立し、12世紀にはスペインに広がった。ドイツでの最古の劇はフライジングに伝わる11世紀の礼拝劇(ラテン語)で、スペイン・トレドに残る12世紀末の礼拝劇はスペイン語で書かれた最古の劇と見なされている。本来三博士の礼拝を祝う公現祭(エピファニー[英・仏]16日)のミサの前に演じられる劇であった。もともとの劇の形式としては、王冠を戴いた三博士が教会内の別々の廊から現れ、教会中央で合流し、導きの星を頼りに祭壇前にしつらえられたまぐさ桶に横たわるイエスの元へと進み、乳香、没薬、黄金の贈り物を捧げ、再び帰途に就く、というものであった。後にはヘロデ王の幼児虐殺や母親たちの嘆きの場面も取り入れられ、より劇的な内容となるが、逆にその娯楽性が批判される面もあり、13世紀の降誕劇の成立により、降誕劇の一場面として吸収され、最終的には受難劇に統合された。
 


サンフランシスコ・ルネサンス(英:San Francisco Renaissance

 第二次世界大戦後のサンフランシスコに生まれた文学運動。様々な様式が混在しており、その影響は広範な芸術分野や哲学にまで及んだ。本運動を代表する作家は「ビート・ゼネレーション育ての親」と呼ばれるケネス・レックスロス(Rexroth)と女流詩人のマデリーン・グリーソン(Gleason)であり、彼らはそれぞれルネサンスの「父」並びに「母」と称された。本運動は形式的・因習的な頸木に繋がれたアメリカ詩に反旗を翻し、大戦後のアメリカを覆う抑圧的な雰囲気も打開すべく、ホイットマンに代表される古典的アメリカ詩や、ヨーロッパのシュルレアリスムやアヴァンギャルドに活路を見出そうとした。
 
19474月に、グリーソンは当地で「現代詩の祭典(Festival of Modern Poetry)」を開催し、そこでレックスロスやR.ダンカン(Duncan)J.スパイサー(Spicer)の詩が披露され大きな反響を呼んだが、実質的にはこの祭典が本運動の嚆矢とされる。(ダンカン、スパイサー、それにやはり彼らと交流したR.ブレイザー[Blaser]はバークレーで学生生活を送り、レックスロスは49年に設立された当地のラジオ局(Radio KPFA)で、文学番組の司会を務めたこともあり、本運動は「バークレー・ルネサンス」とも呼ばれる。)
 ダンカンは、ノースカロライナ州に設立された著名な芸術学校であるブラック・マウンテン・カレッジで、当地の詩人ロバート・クリーリー(Creeley)と共に長年教鞭を執り、当地の前衛芸術とサンフランシスコ・ルネサンスの橋渡し役を務めた。この他、当カレッジの校長も務めた詩人C.オルソン(Olson)や、サンフランシスコ州立大で教鞭を執ったスパイサーも運動の拡大に大きく寄与した。更には平和主義的無政府主義者であり、後にドメニコ会に入会した教師兼詩人のウィリアム・エヴァーソン(Everson:別名アントニウス修道士)も本運動の重要なメンバーである。
 
本運動はその後、ビート・ゼネレーションに吸収される形で姿を消していくが、やや異質な存在として、東洋文化、特に禅仏教に魅せられ日本に移住する自然派詩人ゲーリー・スナイダー(Snyder)が特筆される。

 

詩学(希:Περποιητικς / 羅:De Poetica

 狭義としては、アリストテレスが著した文学理論書(前335)を指す。彼は詩作をひとつの「技術」と捉え、その方法論を展開した。その最大の特徴は、文学の虚構性を認めた点にある。プラトンが文学の本質を「ミメーシス(模倣)」と見なして理想(イデア)から離れた劣等存在と位置づけたのに対し、アリストテレスは、文学は起こるかもしれないことを語る点でより普遍的な存在として評価した。『詩学』では、劇を喜劇と悲劇に分類し、とりわけ悲劇についてはその構造を分析し、構成要素として「ミュートス」(筋)、「エートス」(人物のキャラクター)、「ディアノイア」(作品の主題)、「レクシス」(人物の言葉遣い)、「メロス」(コロスやダンスが生み出すメロディー)、「オプシス」(舞台装置)の6種類を揚げた。中でもミュートスを重視して3要素(ペリペティアアナグノリシスパトス)に分類し、特に悲劇が「浄化」をもたらすというそのカタルシス論は後世において盛んに研究された。また、これらの観点からソポクレスの『オイディプス王』(前427頃)を最高傑作と讃えたため、現代に至るまで同作は文学理論研究にとり特別な地位を保ち続けている。こうして文学理論研究はアリストテレスが先鞭をつけたわけだが、中世での理論研究は詩作における韻律法など、もっぱら技術的なレベルに留まっていた。その後、文芸復興を唱えるルネサンス期にアリストテレスが再評価されるようになり、17世紀前半のフランスにおいて古典主義が台頭すると、三一致の法則の遵守など、『詩学』が劇作のバイブルとしてもてはやされることになる。その傾向に最も棹差したのが、古代の模倣を説いたニコラ・ボワローの『詩法』(1674)であった。現代では、「詩学」とは文芸批評とは一線を画した、文学の構造・機能全般を解明する文学理論も指す用語である。
 

時間芸術ラオコーン問題


詩脚(羅:pes / 英:Foot / 仏:Pied / 独:Fuss

 韻文において、長音・単音の音節が組み合わされた基本となる単位。韻脚とも呼ばれる。2音節詩脚から5音節詩脚まで数多く存在するが、主に使用されたものは、イアンボス(短長格)トロカイオス(長短格)アナパイストス(短短長格)ダクテュロス(長短短格)4種である。古代ギリシア・ローマ文学では長短が音節の基本要素であったが、中世以降のイギリス文学やドイツ文学やスカンジナビア文学では、基本要素がアクセントの強弱となった。英単語で例を挙げれば以下の単語がそれぞれ括弧内の詩脚となる。
attempt(イアンボス)、double(トロカイオス)Galilee(アナパイストス)mockingbird(ダクテュロス)。(太字が強音節)
この他の詩脚は以下のとおりであるが、上記4種以外は補完的に、或いは稀に使用されたに過ぎない。

2音節詩脚(ディシラブル):イアンボス/トロカイオス/ピュリキオス(υυ:短短格 pyrrhichios)/スポンディオス(--:長長格 : spondeios

3音節詩脚(トリシラブル):アナパイストス/ダクテュロス/トリブラキュス(υυυ:短短短格 : tribrachys)/アンフィビュラクス(υυ:短長短格 : amphibrachys)/バッキオス(υ--:短長長格 : bacchius)/アンフィマクロス(υ:長短長格 : amphimacrus)/アンティバッキオス(--υ:長長短格 : antibacchius)/モロソス(---:長長長格 : molossos

4音節詩脚(テトラシラブル):プロケレウスマティクス(υυυυ: 短短短短格:prokeleusmatikos)/ペオン(υυυ/υυυ/υυυ/υυυ: paiōn:短格3つに長格が一つ置かれる。長格が置かれる順番に、「ペオンプリムス」、「同セコンドゥス)、「同テルティウス」、「同クァルトゥス」と呼ばれる」/エピオニコス(--υυ: 長長短短格:epionikos)/アンティスパストス(υ--υ: 短長長短格 : antispastos)/イオニコス(υυ--:短短長長格:ionikos)/コリアンボスυυ:長短短長格: choriambos)/ディトロカイオス(υυ:長短長短格 : ditrochaios)/ディイアンボス(υυ:短長短長格:diiambos)/エピトゥリトス(υ---/υ--/--υ/---υ: epitritos長格3つに短格が1つ置かれる。短格が置かれる順番に、「エピトゥリトスプリムス」、「同セコンドゥス)、「同テルティウス」、「同クァルトゥス」と呼ばれる。/ディスポンディオス(----:短短短短格: dispondeios

 詩脚が連なり詩形(詩句)を形成するが、それぞれ詩脚の数に応じて~歩格と称し、1歩格(モノメトロス)2歩格(ディメトロス)3歩格(トリメトロス)4歩格(テトラメトロス)5歩格(ペンタメトロス)6歩格(ヘクサメトロス)7歩格(ヘプタメトロス)8歩格(オクタメトロス)までが存在する。ダクテュロスからなる6歩格は、「英雄詩形」と呼ばれ叙事詩等で盛んに用いられ、特にダクテュロスの6歩格と5歩格2行で構成される詩形はディスティヒョンと呼ばれ、古代ギリシア・ローマ文学で愛好された後、近世ドイツ文学で復活した。また、イアンボス6歩格が二つ重なるとアレクサンドラン という中世フランス発祥のヨーロッパ中で愛好された詩形となる。

イアンボス・ペンタメトロスの例:(太字が強音節)
To swell the gourd, and plump the hazel shells. (キーツ:『秋に寄せて』[1820])
トロカイオス・テトラメトロスの例:
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.シラー『歓喜に寄す』1808

 

自然主義(仏:Naturalisme / 独:Naturalismus

 19世紀後半、フランスを発祥として流行した文学運動。既に18世紀において、ルソーが「自然に帰れ」と唱えて文明に毒されない素朴な「自然主義」を提唱したが、近代自然主義は全く趣が異なる。それは写実主義の流れを継承し、更に先鋭化したもので、社会の産業化、都市化、貧富の格差拡大という変化を受けて、その問題点を冷徹に抉り出そうとする文学的態度である。その際、それまで文学とは無縁であったコントの実証主義やテーヌの科学的批評やダーウィンの進化論などが大きな影響を及ぼした。その兆しはゴンクール兄弟の小説『ジェルミニー・ラセルトゥー』(1865)での科学的な心理描写に現れている。その後、クロード・ベルナールの『実験医学序説』(1865)の影響を受け成立したゾラの『実験小説論』(1879)において自然主義的手法が本格的に提唱された。そこで主張された理論は、書斎における文学の執筆とは実験室における実験と同様であり、作者は作品における人物や環境を設定すれば、作品はフラスコの中での化学反応のごとく自ら展開していく筈であるため、作者はその様子を観察し記録していけばよいというものである。作者は科学者である以上、如何なる事象からも目を背けてはならず、従って自然主義にあっては(特に下層社会における)極めて醜悪且つ不快なものも克明に描かなければならない。(自然主義が批判される際には、この描写態度が殊更攻撃された。)ゾラはこの持論に従い、人間の獣性を暴いた『テレーズ・ラカン』(1867)で文壇を震撼させ、更には独自の環境とその環境に影響を受け続ける家系を描きながらフランス社会全体のあらましを表現しようと試みた大作『ルーゴン・マッカール叢書』(1871-93)を書き上げた。他にゾラの別荘メダンに集った若手作家たちの中短編を載せた『メダンの夕べ』(1880:ユイスマンス『ヴァタール姉妹』[1879]やモーパッサン『脂肪の塊』[1880]を所収)も自然主義作品のアンソロジーとして名高い。
 フランスにおいて自然主義は主に小説の分野で成功し、演劇ではアントワーヌにより1887年に設立された「自由劇場」が無名作家や外国人作家の作品を上演して評判を取った以外、さしたる成果を残してはいない。ロシアやイギリスも同様で、モスクワでスタニスラフスキーにより1888年に設立された「芸術文学協会」や、グライン(Jacob Thomas (J. T.) Grein)1891年ロンドンに設立した「独立劇場」などにより、自然主義演劇は全ヨーロッパに広がった。対してドイツの自然主義はより総合的に展開され、ハルト兄弟の文学パンフレット『批評闘争』(1882-84)によりその理論が導入された後、アルノー・ホルツとヨハネス・シュラーフが「徹底自然主義」を提唱、彼らの合作による小説『パパ・ハムレット』(1889)は、時間推移と共に刻々と変化する状況を、「秒刻体」と呼ばれる短文形式により逐一記録した。更に、ゲルハルト・ハウプトマンの『日の出前』がブラーム主宰の「自由舞台」初演時(1889)のスキャンダル(アルコール中毒、近親相姦、出産シーンなどに賛否両論が巻き起こった)で文学界を驚かせ、その後同作家の『職工』(1892)により自然主義は明確な文学的地位を確立した。また、自然主義では北欧作家が潮流の一翼を担い、ノルウェーのイプセン(『人形の家』[1979])、ビヨルンソン(『破産者』[1875])やスウェーデンのストリンドベリ(『令嬢ジュリー』[1888])などの作品が劇場の演目を賑わせた。こうして北欧やフランスからロシア・イギリスを巻き込みドイツに受け継がれた形となった自然主義であるが、もともと理論が先行した独特の文学運動であり、その期間は決して長期に亙るものではない。
 フランスでは、
1887年に若手作家たち(デカーヴ、ボンヌタン、ロニー兄弟、マルグリット)が、ゾラの自然主義的小説『大地』(1887)の退廃性を批判した(「5人組宣言」)ことにより、自然主義の衰退が始まったとされ、ドイツでは1891年にオーストリア作家ヘルマン・バールが『自然主義の克服』を発表した段階で、運動は実質的に終結したと見なされている。自然主義以降、ヨーロッパ文学はモダニズム文学へと拡散していくことになるが、当時高い経済成長を背景に国際進出を始めていたアメリカでは、遅れて独自の自然主義が発達する。すなわち、国家の成長に伴う個人的な挫折や内乱や戦争など、社会的なひずみを冷徹な目で描き切る作風が自然主義的と称されたのである。もともと古典主義的美意識の伝統を持たないアメリカ文学では、後のハードボイルドに見られるように即物的な描写態度に抵抗が少なく、自然主義を受け入れやすい土壌があったともいえよう。こうしたアメリカ自然主義を代表する作家は、スティーヴン・クレイン〈Stephen Crane〉(『赤い武功章』[1895])、フランク・ノリス〈Franklin Norris〉(『マクティーグ』[1899])などであり、特にセオドア・ドライサー〈Theodore Dreiser〉はアメリカ自然主義の完成者といわれ、長編小説『アメリカの悲劇』(1925)は今日20世紀アメリカ文学を代表する作品のひとつと目されている。
 

シチリア派(伊:Scuola siciliana

 1220年から1250年にかけて、シチリアに結成された文学者集団。約30名の参加者たちは、シチリア王を兼務し、詩作も嗜んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ(フェデリコ)2世の宮廷に所属し、南仏トルバドゥールやアラビア・イスラム文学や古代ギリシア・ローマ文学などの影響を受け、崇高化された女性への、成就されることのない宮廷恋愛を歌い上げた。彼らはフリードリヒ2世の文教政策に惹かれイタリア各地や南仏プロヴァンスから集まった詩人たちであるが、その功績として2点挙げることができる。ひとつは、カンツォーネを発展させ、その後主流となるソネットを生み出したことである。ソネットについては、この集団の指導的立場にあったジャコモ・ダ・レンティーニが創始したとされる。もうひとつは、トスカナ地方やシチリア地方の要素を取り込んだ共通イタリア語で詩作した点である。それまでイタリアの詩人たちは、ラテン語や古フランス語やプロヴァンス語で詩作を行っていたため、厳密な意味での「イタリア文学」はシチリア派から開始されるという意見もある(ダンテ:『俗語論』[1304-1307])。レンティーニの他、著名な詩人としては、ピエル・デッラ・ビーニャ、グィード・デッレ・コロンネなどが挙げられる、またフリードリヒ2世の二人の息子(エンツォ、マンフレーディ)や義父ジャン・ド・ブリエンヌもメンバーを庇護した。シチリア派は後世のイタリア叙情詩に大きな影響を与え、「清新体派(Dolce Stil Novo)」の先駆けともなった。

 

実存主義(仏:Existentialisme

 キルケゴールを源流とする近代哲学・文芸思潮。彼は、当時主流であったヘーゲル哲学が人間の本質を理性的に説明することに異議を唱え、理性では捉えきれない在るがままの人間を「実存」と呼び人間存在の根本とした。この思想は特に第一次世界大戦により荒廃したドイツにおいて、科学的・理性的に構築されつつあった人間観が崩壊することで広がり、ハイデガーやヤスパースにより更に推し進められた。そして第二次世界大戦後には、フランスで文学へと導入され、ハイデガーが唱える「今われわれがここにいること=現存在(Dasein)」に関する根拠の無さがもたらす「不安」を表現する作品が、「実存主義的作品」として注目を集めた。その最初の例が、上述の不安から来る突然の「吐き気」に襲われる主人公を描いたサルトル(Sartre)『嘔吐』(1938)である。彼は実存主義の大成者であり、その主張は、「実存は本質に先立つ」という彼の言葉に凝縮されている。更に彼の友人カミュ(Camus)は実存主義を文学的により洗練し、『異邦人』(1942)で「太陽のせいで」人殺しをした後、超然として斬首刑に臨む主人公に人間存在の無根拠性を暗示し、当時の文学界に衝撃を与えた。同様の解釈を許す点で、ドストエフスキー(Достое́вский)やカフカ(Kafka)の作品も実存主義文学の先駆と見なされる場合がある。この他、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉で有名な『第二の性』(1949)を著し、女性の実存を喝破しつつ、社会的性別(ジェンダー)規範からの女性の解放を唱えたボーヴォワール(Beauvoir)も実存主義の発展に寄与した。実存主義文学は、定められた状況下における人間存在の自由を訴える意味で、前世紀の自然主義と相反するものである。だが、哲学性の強いこの実存主義文学は、実質的には上述した親しい3人のフランス人文学者以外に話題作を提供することはなく、60年代に入り新たな文芸思潮として構造主義が流行すると、人間存在を偏重する思想であるとしてレヴィ・ストロース(Lévi-Strauss)らから批判を受け、自然消滅する形で文学界の表舞台からはしりぞいた。


疾風怒濤 シュトゥルム・ウント・ドランク

 

詩的リアリズム(独:Poetischer Realismus)→ 市民的リアリズム

 

自動記述(仏:Écriture automatique

 アンドレ・ブルトンが提唱したシュルレアリスムにおける実験的な詩作方法。英訳で「オートマティスム」とも呼ばれる。フロイトが精神分析法として提唱した「自由連想法」に着想を得ており、作者は論理的・文学的思考を停止し、脳裏に浮かんだ言葉を無秩序に書きとめていく。作品としての体裁は一切気にかけない。言葉を選ばず、一気呵成に書きとめる。「超現実主義」とも訳されるシュルレアリスムであるが、自動記述はこの「超現実」を表現するべく、こうして美的・文学的先入観のない真の心的状況を筆記しようとしたのである。シュルレアリスム絵画が夢や幻想の世界を表現しようとしたのと同様である(作家は夢うつつの状態で自動記述を行う場合もあった)。ブルトンは自動記述の文章の集成を『磁場』〈Les Champs magnétiques(1920:スーポーと共著)と題して発表し、一定の反響を得たが、あくまでも実験的詩作に留まり、一定の詩作法として確立するには至らなかった。我が国では17世紀後半に、一昼夜に膨大な句を詠む「矢数俳諧」という俳諧形式が井原西鶴により創設されるが、1684年に開かれた「大矢数俳諧」では西鶴が一日に23500句を吟じた記録が残っている。句は残っていないが、こうした行為そのものが、ブルトンを遡ること2世紀以上前に極東に存在した自動記述の一例であるといえるかもしれない。
 

児童文学(英:Children's literature / Littérature d'enfance et de jeunesse / 独:Kinder- und Jugendliteratur

 子供を読者層に想定して創作された文学。童話が主体だが、高年齢の児童向けに書かれた児童小説も重要な構成部分である。当初大人を読者対象に書かれたものの、後には児童文学の傑作と称されたもの(マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』[1884])や、児童文学として書かれたにも拘わらず広く一般文学として高い評価を受けた作品(プルマン『ライラの冒険』[1995-2000])も多数存在する。平易な言葉遣いをすることは勿論だが、教育性が一般文学に比べて高い。その始まりは古代ギリシア文学のアイソポスの作った寓話集(イソップ物語:前6世紀)にまで遡る。ただ、この寓話集が児童文学として読まれたのは中世からであり、それまで子供に特化された書物は確認されていない。15世紀半ばの印刷術の発明と共に、書物は一般大衆に広まり、それと共に純粋な児童文学の誕生する余地も生まれた。そうした中、15世紀後半に印刷業者ウィリアム・カックストンが営利目的で一連の児童書を出版している。16世紀には行商人の売り歩く廉価な民衆本が普及し、その一ジャンルとして児童文学も普及した。中でも1658年にラテン語の教科書として出版されたコメニウスの『世界図絵』は、初の子供向け絵本とされている。また、17世紀から18世紀にかけて、イギリスとアメリカの清教徒はプロテスタント精神に基づき、平穏な死への心構えと地獄の恐怖を教え諭した児童書を発行した(当時は子供の2人に1人が成人できぬほど死亡率が高かったためである)。
 18世紀からは、ロックやルソーの唱えた合理主義的な道徳観が台頭し、児童文学から宗教性が駆逐されるにつれて、1740年代に印刷業者ジョン・ニューベリーが道徳性に娯楽性も加味した初の児童書群を出し評判となる(彼は1751年に初めての児童雑誌も出版した)。他方、デフォー『ロビンソン・クルーソー』(1719)やスウィフト『ガリヴァー旅行記』1726)やクーパー「レーザーストッキング(革脚絆)物語」(1826)あるいはメルヴィル『白鯨』(1851)などの冒険小説が平易に書き直され、純然たる児童文学として広く読まれた。18世紀末より始まったロマン主義の時代にあっては、民間伝承の児童文学的価値が見直され、それらの果実であるグリム兄弟による『子供と家庭のための童話集』(1812-57)は児童文学の白眉である。そしてやや遅れて現れたアンデルセンは、民間伝承とは別個の叙情性溢れる作品により、芸術性をより高めた創作童話の基礎を築いた。19世紀半ばより、児童文学は道徳性に代わり冒険小説やファンタジー的要素を更に強め、特に1865年はこのジャンルにとり重要な年となる。何故ならこの年にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とヴィルヘルム・ブッシュの『マックスとモーリッツ』が出版されるからである。前者は児童文学を道徳性から解放した最初の作品と目され、後者はそもそも児童文学の道徳性を風刺し、子供向け絵本から漫画への橋渡しを行った記念碑的作品とされている。
 20世紀以降の現代において児童文学と一般文学との境界はますます曖昧化しているが、SF同様、児童文学もシリーズ化された著名作品が多い(モンゴメリー「赤毛のアン」シリーズ、ロフティング「ドリトル先生」シリーズ、ミルン「クマのプーさん」シリーズ、リンドグレーン「長くつ下のピッピ」シリーズ、ヤンソン「ムーミン」シリーズ、ポッター「ピーターラビット」シリーズ、ローリングス「ハリー・ポッター」シリーズなど)。近現代では、児童文学も一般文学同様、様々なジャンルを扱うが、子供を主人公にしたものが一般的である。その代表的なものとしては、SF(ヴェルヌの諸作品など)、ファンタジー(ボーム『オズの魔法使い』[1900]、ラーゲルレーヴ[1907]など)、家庭小説(オルコット『若草物語』[1868]、ワイルダー『インガルス一家の物語』シリーズ[1932-74]など)、絵本、ミステリ(ブライトン「5人と一匹」シリーズ[1942-74]、ケストナー『エーミールと探偵たち』[1928]など)、恋愛小説(初々しいプラトニックな初恋を扱う。フンケ『野生のニワトリと恋』[2003]、マイヤー『夜が明けるまで』[2005]など)などであり、当然冒険的要素が盛り込まれことが多い。尚、コミックスが児童文学と見なしうるかどうかについては議論の余地がある。

シニフィアン(仏:Signifiant/ シニフィエ(仏:Signifié

 ソシュールが「一般言語学講義」(ジュネーブ大での講義名、19061911開講、1916弟子により刊行)で唱えた記号に関する言語学用語。シニフィアンは「記号表現」或いは「能記」と訳され、シニフィエは「記号内容」或いは「所記」と訳される。両者は記号(シーニュ[signe])を構成する要素で、代表的な記号である言語においては、例えば日本語会話であれば「イス」という音声、或いは、文書であれば紙などの上にインクや鉛筆などで描かれた「椅子」という形の筆跡がシニフィアンにあたる。シニフィアンを聞いたり見たりした人間は、頭の中に「その上に人が座る道具」という内容=シニフィエを思い浮かべ、初めてイスという記号は機能する。シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的であり、なぜ座る道具を日本語で「イス」と呼び、英語で「チェア」と呼ぶのか、その必然性は存在しない。すなわち、「イス」は「イヌ」とも「行く」とも発音が異なるから「座る道具」として認識されるのであり、この差異が言語という記号を認識する重要なカギなのである。こうした差異を基本とする該当言語の体系=構造においてのみ言語認識は成り立つのであり、この考え方が構造主義の基本理念となった。構造主義文学批評ではこの理論が敷衍され、シニフィアンである文学テクストの解釈(シニフィエ)を、社会的構造の影響の中に求めようとした。
 

シネクドキ(英:Synecdoche / 仏:Synecdoque / Synekdoche

 比喩の一種。提喩と訳される。ある物事をたとえるのに、その物事の全体概念(上位概念)、或いは部分概念(下位概念)を指す別の単語を表現に用いる。全体・部分とは別であり、関連した概念を持つ単語を用いるメトニミーとは、この点で異なる。但し、シネクドキとメトニミーの境界は、しばしば曖昧である。(例えば、「今年のお盆は帰省するよ。」という文の場合、「お盆」が「815日近辺」のたとえであるのは明らかだが、これを「近接概念」と捕えるとメトニミー、「お盆」を「日時」や「行事」を包括する上位概念と捕えるとシネクドキといえよう。)全体概念が部分概念をたとえる例は以下のとおり:「日本柔道惨敗!(惨敗したのは日本の柔道選手)」、「警察は自殺と断定(断定したのは数人の警察官)」など。このように全体が部分を表す場合を「トートゥム・プロ・パルテ」と呼ぶ。一方、部分概念が全体概念をたとえる例は以下のとおりである:「同じ釜の飯を食った仲(同居生活のたとえ)」、「グレートブリテン・北アイルランド連合王国の略称としての『イングランド』」(欧米語の例)など。このように部分が全体を表す場合を「パルス・プロ・トト」と称する。シネクドキはアリストテレスが「詩学(前335において既に、「類から種への転用」及び「種から類への転用」として指摘している。
 

詩のボクシング < ポエトリー・スラム

 

市民的リアリズム(独:Bürgerlicher Realismus

 1848年から1890年頃までドイツ文壇の主流を占めた文学潮流。48年の三月革命勃発までは、文学による社会改革を目指す三月革命前期と、ひたすら社会に背を向ける小市民的なビーダーマイヤーという対照的な文学潮流が存在したが、革命の失敗によりドイツ文学はビーダーマイヤー的な流れを受け継ぎ、非政治的で個人主義的な色彩を帯びた。しかし、ビーダーマイヤー時代とは異なり、産業革命期の只中にあったドイツでは、市民階級の発展と、資本者階級と労働者階級の出現が見られ、人口増大による街のスラム化や貧富の差の拡大や失業問題など、社会的な歪みが急速に拡大していた。市民的リアリズムはこうした問題を真正面から取り上げることはせず、あくまで社会の中における個人のアイデンティティーを扱う作品を世に問い続けた。そしてたとえ歪んだ社会に滅ばされる一個人を描いたとしても、そこには若干のユーモアを含んだ人間味の描写が加味され、社会そのものを糾弾する態度は取らなかった。市民的リアリズムを形成した主な文学ジャンルは小説であり、ドイツ小説はこの時期に飛躍的な発展を遂げる。代表的な作家としては、フロベール『ボヴァリー夫人』(1857)と比肩される傑作『エフィ・ブリースト』(1894/95)を著し市民的リアリズムから社会小説の新境地を開いたフォンターネが挙げられるが、この時期はスイス文学が殊更の輝きを放った時代としても知られている。ドイツ語文学有数の教養小説『緑のハインリヒ』(1855)や、シェイクスピア作品を農民社会を舞台に翻案した『村のロメオとユリア』などで市民的リアリズム最大の小説家と讃えられるケラー、『聖者』(1879)、『僧の婚礼』(1884)など精密な構成と文体からなる枠物語小説を残したC.F.マイヤー(枠物語はこの時代のスイス人作家が多用した)、農民生活の深い心理描写に長け、方言使用のためもあり世界的な人気を得るには至らなかったが、神秘性に溢れたその骨太の小説群はホメロスにも喩えられるゴットヘルフ(『黒い蜘蛛』[1842])らが近代スイス文学の礎を築いた。戯曲では、個人は社会全体の必然的な犠牲になるという「汎悲劇主義」に貫かれた悲劇(『ユーディット』[1840]、『マリア・マクダレーネ』[1844]など)を発表したヘッベルが、ドイツ写実主義演劇の掉尾を飾った(彼の没後、四半世紀程ドイツ演劇は軽い低迷期に陥る)。しかし、市民的リアリズムの別名「詩的リアリズム」を最もよく体現した作家はシュトルムであるといえよう。死の直前に完成した『白馬の騎手』(1888)はドイツ写実主義小説の最高傑作のひとつに数えられるが、彼の詩情豊かな小説群(『みずうみ』[1849]、『人形遣いのポーレ』[1874]、『溺死』[1876]など)は、現在も根強い人気を有している。
 

市民悲劇(独:Bürgerliches Trauerspiel

 18世紀半ばのドイツで成立した悲劇の一ジャンル。成立当時は「市民悲劇」という名称そのものが矛盾したものだった。なぜなら、前世紀に支配的であった古典主義には「身分規範(„Ständeklausel“)と呼ばれる不文律が存在し、それによれば、悲劇とはひとえに王侯貴族など高貴な人物によって繰り広げられる劇であり、対して喜劇には市民階級のみが登場するものとされた。市民階級は存在自体に高尚な悲劇性などないというのがその理由である。こうした規範は、もともとはアリストテレスが『詩学』(前335の中で唱えた悲劇に必要な状況設定=名声を得た人物(高貴な人物)が過ちのために不幸に陥る=の影響を受けたものである。これに対して18世紀には、フランスに生まれたコメディー・ラルモワィヤーントの影響で喜劇に悲劇的要素が加わるようになり、イギリスの劇作家リローによる徒弟を主人公にした悲劇『イギリスの商人』のドイツ語訳(1752)を機に、経済的に台頭してきた市民を描く悲劇誕生の気運は高まりをみせる。そして、1755年に発表されたレッシングの『サラ・サンプソン嬢』により、市民(しかしながら富裕層市民)を主人公にした市民悲劇は正式に産声を上げたとされる。そして、その直後、ディドロの論文『戯曲文学について』(1758)により市民悲劇は理論的支柱を得たのである。従来の悲劇に対する市民悲劇の特徴は、散文作品である点、政治性は薄く、家庭関係から生じる不幸や、貴族の横暴によりもたらされた不幸を描いた点、あるいは主人公の倫理性をより強調する点が挙げられよう。(この点においてはヘッベルの『マリア・マクダレーネ』[1844]も、市民悲劇的作品と見なしうる。)以降、レッシング『エミーリア・ガロッティ』(1772)や、ヴァーグナー『嬰児殺し』(1776)、シラー『たくらみと恋』(1784)といった傑作が生まれるに従い、市民悲劇は次第に社会批判性を強め、後のイプセン(『人形の家』[1879])やハウプトマン(『ローゼ・ベルント』[1903])らが生み出す「社会劇」の下地を形成した。
 

社会小説(英:Social novel / Gesellschaftsroman

 19世紀写実主義における重要な小説ジャンル。複層的な構成を小説に与え、社会全体の構造や、社会と人物との相互作用を包括的に描くことを目的とする。歴史小説との違いは、描く社会が同時代に限られていることで、同時代の問題性(社会の急速な産業化や労働者階級の搾取など)を指摘することにより風刺小説的要素も有するようになる。社会の推移・発展の描写を殊更重視するが、教養小説同時代小説ほど、人物の内面的発展には関心を払わず、人物の発展に社会の影響を積極的に認める点において、自然主義を始めとする近代文学への橋渡しとなった。社会小説の始まりは18世紀前半のイギリスとされ、1830年代に高まった労働者による政治参画運動「チャーティズム(チャーティスト運動)」が直接の契機と考えられる。そうした流れの中でデフォー(『ロビンソン・クルーソー』[1719])、リチャードソン(『パミラ-報われた美徳-』[1740])、フィールディング(『トム・ジョーンズ』[1749])などがイギリス社会を写実的に描き、その先駆者であると見なされた。とりわけ、ギャスケルの『メアリー・バートン』(1848)やキングズリーの『オールトン・ロック』(1850)はチャーティズムを背景として評判を呼んだ典型的な社会小説である。また、首相となるディズレイリも、政治家の体験を創作に生かした社会小説家として名を馳せた。19世紀中盤に社会小説は黄金時代を迎え、英、独、仏などで傑作が生み出された。フランスにおいては、スタンダール『赤と黒』(1830)、『パルムの僧院』(1839)、バルザック『人間喜劇』(182954)、フロベール『ボヴァリー夫人』(1857)、イギリスにおいては、ディケンズ『オリバー・ツイスト』(1937/38)、『デビット・コパフィールド』(1849/50)、エリオット『アダム・ビード』(1859)、メレディス『エゴイスト』(1879)、ドイツでは、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1821)、フォンターネ『エフィ・ブリースト』(1894/95)、などが有名だが、とりわけ19世紀後半のロシアにおいてこの小説ジャンルは成熟した。ツルゲーネフ『父と子』(1862)、ドストエフスキー『罪と罰』(1866)、トルストイ『戦争と平和』(1864)、『アンナ・カレーニナ』(1873)、など、このジャンルにおけるロシア文学はその作品規模、内容共に他国の追随を許さない(もっとも、これらの作品は「社会小説」と一概に分類し切れぬほど、人物たちの心理描写にも長けている)。20世紀に入ると、社会小説はTh.マン(『ブッデンブローク家の人々』[1901])、やロート(『ラデツキー行進曲』[1932]などで旧体制の崩壊といった新たなテーマを獲得し、更にアンドレイ・ベールイ『ペテルブルク』(1913/14)などの影響により、「大都市文学」といったジャンルも派生してくる。
 

社会主義リアリズム(露:Социалистический реализм / 英:Socialist realism

 1932年にソ連共産党中央委員会において決定されたソ連の文学・美術・音楽の基本創作方針。その最盛期は第二次世界大戦後の「ジダーノフ批判」(党活動家ジダーノフが1946年、反社会主義リアリズム的な作家ゾーシチェンコや詩人アフマートワを糾弾した事件)からスターリン死亡時(1953)までとされる。1917年の革命以降、20年代のソ連芸術は、帝政時代の検閲や貴族趣味から解放され、「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる前衛芸術花盛りの状態となっており、また文芸批評では、印象批評やイデオロギー的批評から身を離し、文学テクストのみを対象とするロシア・フォルマリズムが全盛期を迎えていた。しかしそのような状況に危機感を感じた政府は32年、全ての前衛芸術・文学集団に解散を命じ、その2年後にはソ連作家同盟が結成される。その第1回大会において規約に書き込まれた社会主義リアリズムの原則とは、文学は真実に即し、革命的発展において歴史的に具体的な描写であり、社会主義精神における勤労者の教育とイデオロギー形成に資さねばならないという規範であった。その先駆はゴーリキー(『母』[1907])とされ、オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932)やショーロホフの『開かれた処女地』(1932-60)などが典型的な傑作とされた。すなわち、工場労務者や農民など一般労働者にも分かりやすい写実的な文体で、ロシアの伝統的精神を偉大に描くことが理想とされたのである。こうしてソビエト文学では、労働の勝利をテーマに、英雄的な労働者が主人公として描かれる作品が盛んに書かれることになるが、このような創作原理が写実主義ならぬ教条主義に陥ることは自明である。社会主義リアリズムは、従って1980年代、特に85年からのゴルバチョフ時代以降には殆ど実効力を失ったが、国家の公式芸術としてソ連が崩壊する1991年まで表面的には存続し続けた。
 

写実主義(仏:Rèalisme / Realism / Realismus

 現実を忠実(リアル)に描写しようとする文芸思潮。リアリスティックな創作スタイルは、エウリピデスの悲劇やアリストパネスの喜劇やホメロスの叙事詩など、既に古代ギリシア文学に見られ、ラ・ファイエット夫人やリチャードソンなどもその写実的な心理分析小説で有名である。しかし、文学ジャンルとしての写実主義は、ロマン主義の後を受けて、1848年革命時あたりから1890年頃までヨーロッパ全体を支配した文学潮流を指す(これを「19世紀リアリズム」とも称する)。ドイツ文学では特にロマン主義後半から小市民的傾向の強いビーダーマイヤーの成立を見ており、その後に現れた写実主義を「市民的リアリズム」または「詩的リアリズム」と呼んでいる。ロマン主義の持つ幻想性に対して、事物の客観的描写を旨とし、描く対象は古典主義のように王侯貴族は避け、平凡な一般市民を採り上げることが多い。それまでの倫理規範を規定していたキリスト教の権威がゆらぎ、科学的、実証主義的行動規範を有するブルジョワジー(市民階級)とプロレタリアート(労働者階級)の台頭が、彼らを描く文学的手段として、写実主義の成立を促したといえよう。それまでの文学の担い手が貴族であったことを鑑みても、写実主義は文学を貴族の手から解き放った潮流であるといえる。事実、作家を見てもロマン主義までの作家は自身が貴族である場合が多かったのだが、写実主義作家の多くが一般市民出身である。採り上げる題材としては、労働運動や、歴史的事件、個人と社会の葛藤などが好まれ、特に包括的な社会描写を背景に、個人内の心理的動きを克明に描き出そうとする「心理的リアリズム」という下位ジャンルも生まれた。写実主義は、ディケンズの社会小説『オリバー・ツイスト』1937/38をもって先駆とされ、スタンダール『パルムの僧院』(1839)を経て、あらゆる階層が交わるあらゆる社会局面を壮大に描こうとしたバルザックの小説群「人間喜劇」(1842-50)により本格的な開始を見た。その完成形は、舞台となったルーアンを綿密に描写したフロベールの『ボヴァリー夫人』(1857)によりもたらされるが、更にドイツのヘッベル(『マリア・マグダレーナ』[1848])、シュトルム(『白馬の騎手』[1888])、フォンターネ(『エフィ・ブリースト』[1895])、オーストリアのシュティフター(『水晶』[1853])、スイスのケラー(『緑のハインリヒ』[1879-80])、マイアー(『聖者』[1880])、アメリカのハウエルズ(『サイラス・ラパムの向上』[1885])、イギリスのエリオット(『ミドルマーチ』[1872])など欧米全体に写実主義の流れは広がった。とりわけロシアにおける写実主義は、プーシキン(『大尉の娘』[1836])に始まり、ゴーゴリ(『死せる魂』[1842-52])やツルゲーネフ(『父と子』[1862])が心理的リアリズムやニヒリズムの深化を見せ、トルストイ(『戦争と平和』[1865-69])やドストエフスキー(『罪と罰』[1866])に至って人間の本質や社会全体を描き切ろうという壮大な大河小説へと発展し、「ロシア・リアリズム」の黄金時代を確立した。その後チェーホフ(『三人姉妹』[1901])やゴーリキー(『どん底』[1902])などによりロシアの写実主義は象徴主義が台頭した20世紀初頭においても新たな文学を創造したのである。ロシア文学は写実主義時代において西欧文学と一気に肩を並べたといっても過言ではない。また、ロシア写実主義小説と「人間喜劇」を対比すると明らかになるように、演劇が社会の一局面を劇的に描く文学形式であるのに対して、小説は社会全体を客観的に描くことが可能であることから、写実主義時代に小説はその地位を大幅に向上させ、現在に至っている。写実主義の後に現れた自然主義は写実主義が先鋭化した一面を持つが、その分岐点に立つ作家がエミール・ゾラである。第二帝政時代の二家系を追跡したゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」(1870-93)は写実主義文学の集大成ともいえるが、同時に彼の『実験小説論』(1879)や、『自然主義作家論』(1881)は、後に勃興する自然主義にとり有力な理論的支柱となり、「ルーゴン・マッカール叢書」も自然主義文学の傑作に数えられる。20世紀に入り、社会にはファシズムの台頭や経済の飛躍的成長などそれまでには見られなかった急激な変化が現れ、それらを描く文学にもとりわけ社会主義圏において資本主義的な現実を直視し批判する「批判的リアリズム」や社会主義社会を美化する「社会主義リアリズム」など政治的に偏向した概念が登場してきた。複雑化した現代を写実主義的に描く試みは、以前よりも遥かに困難を伴うが、写実主義という文学的態度は、以降も絶えることはあるまい。
 

写象主義 イマジズム

 

謝肉祭劇(独:Fastnachtsspiel

  15世紀から16世紀にかけてドイツの各都市で流行した劇。謝肉祭の仮装行列や仮装ダンスパーティーが発達したものと考えられ、間抜けな百姓、浮気性の女房、不道徳者の司祭などが登場する謝肉祭の饗宴の最中の余興として主に職人たちにより演じられた。その起源は古代ギリシア喜劇や宗教劇に連なるものではなく、フランスの笑劇も含めて15世紀中頃に市民階級が確立し始めた都市における世俗劇のひとつと見なされている。謝肉祭劇は特にニュルンベルクで栄え、初期は話者が順番に登場し冗談(特に性的なものが多い)を述べる形式(順番劇)であったが、フォルツやローゼンプリュートら職匠歌人たちによって次第に物語を持つ一貫した劇が演じられるようになり(物語劇)性的な冗談も影を潜めた。物語劇を完成したのはハンス・ザックスである。ザックスの後に出たアイラーの謝肉祭劇は滑稽さを捨て、より長いものとなったが、その後は衰退した。
 

自由間接話法(仏:Style indirect libre /英:Free indirect speech

直接話法にも間接話法にも属さぬ中間的話法。人物内面での思考や感情、すなわち独白的な内容を描写しながらも、その人物を三人称で描き、「彼は~と思った」などという伝達句は使用しない。「彼女は部屋に戻ってくると、『私の指輪をどこに置いたのだろう』と思った。」という直接話法の例を挙げると、この文章を間接話法に直すと、「彼女は部屋に戻ってきて、彼女の指輪をどこに置いたのだろう、と思った。」となるが、自由間接話法では、「彼女は部屋に戻ってきた。私の指輪をどこにおいたのだろう。」となる。だが、ここで「私」と訳した欧米語原文は、「彼女」と三人称で描かれ、また、間接話法文では「置いたのだろう」の動詞が直接話法文(現在形)とは異なる変化(過去形)をするが、自由間接話法文では間接話法文の動詞変化がそのまま用いられる。従って、この三つの話法の具体例を英文で示すと:

直接話法:He said, “I’ll come back here to see you again tomorrow.”

     (彼は言った。「ここに戻って明日また君に会うよ。」)

間接話法:He said that he would return there to see her again the following day.

     (彼はあそこに戻って翌日また彼女に会うと言った。)

自由間接話法:He would come back here to see her again tomorrow.

     (ここに戻って明日また君に会うよ。)

となり、自由間接話法は、伝達句(He said)が存在せず、人称と時制(He/would)は間接話法に準じ、その他の指示語(here/tomorrow)は直接話法に準じることとなる。また、疑問・命令・感嘆文の語順は直接話法と同様になる。

上記の如く、自由間接話法は、間接話法と同じ時制を用い、人物の状況をリアルタイムに表現する話法であるため、正確に和訳することは不可能に近い。本話法は「内的独白」と同様の効果を狙った語りの手法であるが、「自由直接話法」とも呼ばれる内的独白が常に一人称で語られ、時制も現在形であるのに対し、三人称を用いる本話法は、基調となる語りが過去形であった場合、話法中でも過去形を使用する。その結果として、人物の心理をストレートに表現する内的独白に較べて、より第三者的、叙事的、客観的な印象を生み出すことになるが、両者とも「意識の流れ」を描くのに適した手法といえる。12世紀のフランス叙事詩で用いられた本話法は、17世紀のデンマーク女流作家レオノーラ・クリスティーナ・ウルフェルト(Leonora Christina Ulfeldt)の自伝『苦難の思い出』(17世紀後半)にも認められるが、近代文学において本格的に使用され始めたのは、J.オースティン(Austen)(『高慢と偏見』[1813])からとされる(本話法が正式に定義されるのは19世紀末である)。その後自由間接話法はG.フロベール(Flaubert)『ボヴァリー夫人』(1857)を経て、K. マンスフィールド(Mansfield)『プレリュード』(1918)や、V.ウルフ(Woolf)『ダロウェイ夫人』(1925)/『灯台へ』(1927)などにより洗練化し、「意識の流れ」と緊密に結びついた手法として定着した。ドイツでは、Th.マン(Mann)『ブッデンブローク家の人々』(1901)などに現れる伝達句を省いた話法「体験話法」を自由間接話法に分類する場合もあるが、間接話法と異なる時制を使用する(間接話法接続法、体験話法直説法)ため、厳密には別の話法と見なし得る。

 

宗教劇(独:Geistliches Drama / Drame liturgique / 英:Liturgical drama

 宗教的典礼の際に演じられる宗教的内容を持つ劇。「典礼劇」とも呼ばれる。ここでは特にキリスト教に関するものを扱う。文学、特に詩や演劇はホメロスの古代より神に捧げられた起源を持ち、宗教典礼を彩る芸能の一環としても発展してきた。だがそうした宗教典礼の際の歌や詠唱を伴う芸能的所作が劇の形式を取り始めたのは10世紀のこととされる。すなわち、通常のミサで歌われていた聖歌(特にグレゴリオ聖歌)で頻繁に唱えられる「キリエ エレイソン」(ギリシア語で「主よ哀れみたまえ」の意)の間に補足説明の歌詞(交誦:トロープス)が歌われるようになり、10世紀にはそれが寸劇へと発展し、宗教劇の原型になったと考えられるのである。スイスのザンクト・ガレン或いはフランスのリーモージュあたりが交誦集発祥の地と推測されている。宗教劇最古の例として、キリスト復活後の墓でイエスを探すマリアたちと天使の問答を描いた『誰を探しているのか(クエム・クエリティス)』( ”Quem quaeritis”)が有名だが、ここから「復活祭劇」や「神秘劇」が誕生した。復活祭劇は人気を集め、ヨーロッパ各地で上演されると、当初のラテン語から現地語にも書き改められ、13世紀に全盛期を迎える。同時期には、復活祭と並ぶ重要な典礼であるクリスマスを彩る「降誕劇」も成立した(「降誕劇」に重要な登場人物となる「東方の三博士」は、聖書には詳細な記述がないにも係わらず、11世紀頃には独立して取り扱われ、「三博士礼拝劇」が現れる)。またもうひとつ忘れてはならないのが、やはり同じ頃にキリストの受難を扱う「受難劇」も成立したことである。これらの宗教劇は地元民による素人劇だったが、それぞれ関連のある祝祭日にヨーロッパ中の市町村で上演され、場所も教会や修道院のみならず、町の中央広場での野外上演も通例となり、14世紀から16世紀にかけて市民の数少ない娯楽のひとつとなった。その間、宗教劇は国ごとに独特の発展を見せ、イギリス・フランスでは道徳劇や神秘劇、ドイツでは受難劇、或いはスペインの聖餐神秘劇などが興隆した。ルネサンス以降のヨーロッパにエリザベス朝演劇を始めとする世俗演劇が開花するにあたって、古代ギリシア・ローマ劇がひとつの模範となったのは確かだが、成立の実際的な下地として宗教劇が果たした役割は極めて大きい。ルネサンス以降、基本的に素人劇である宗教劇は、市民の娯楽としての役割を専門役者が演じる世俗劇に譲った。だが特に受難劇は、受難をクライマックスとする「キリスト一代記」を描く演劇として、他の宗教劇のあらかたを包括する総合的宗教劇へと発展し、現在も尚地元民の手で上演され続けている例が多い。現代における最大規模の宗教劇は、1634年より10年ごとに上演される南ドイツ・オーバーアマガウの受難劇で、その存在そのものがドイツ有数の無形文化遺産であり、内容は既に芸術的領域に達しているが、クリスマスにおける教会ミサでの子供たちによる降誕劇など、今尚ヨーロッパでは質素で身近な宗教劇が上演され続けている。
 

自由劇場(仏:Théâtre Libre

 会員制度により、当局の検閲を回避する目的で、1887年にアンドレ・アントワーヌがパリに設立した演劇鑑賞会。主に当時の無名作家や外国人作家(イプセン、トルストイ、ツルゲーネフ、ストリンドベリ、ハウプトマン等)の社会批判的作品を無検閲で上演した。その演出は当時の自然主義理論を踏襲し、朗詠調の台詞回し、現実的ではない大げさな身振りなどを回避し、写実的な舞台設計を重視した。そのために伝統的演劇での経験を積んだプロの役者よりも素人役者が重用された。自由劇場は写実主義自然主義の橋渡し役を務め、その演劇的試みは大いに注目を浴び、例えばイギリスのグラインによる「独立劇場協会」やドイツのブラームによる「自由舞台」など、以降の実験劇場設立に大きな影響を与えたが、1914年に財政的問題により閉鎖された。
 

自由舞台(独:Freie Bühne

 フランスの「自由劇場」を範に取り、閉鎖された会員制により、当局の検閲を回避する目的で、1889年にベルリンに設立された演劇鑑賞会。設立メンバーは、ブラーム、ハルデン、ハルト兄弟、シュレンターらであり、オットー・ブラームが会長として上演作品の決定と演出を一手に担った。会は第一の目的であったイプセンの『幽霊』上演会で幕を開け(当時のベルリンにおいてイプセンの一般上演は禁止されていた)、第2回上映会のハウプトマン『日の出前』に際し、アルコール中毒、近親相姦、出産シーンなどが描かれるこの作品に対して激しい賛否の渦が巻き起こった。このスキャンダルをばねとして会の運営は軌道に乗り、以降会はイプセン、トルストイ、ストリンドベリ、ビヨルンソン、ハウプトマン、ズーダーマンといった自然主義を中心とした同時代作家の作品を93年まで上演し、その演出も「自由劇場」を模範とした。特にハウプトマンの初期作品はそのほとんどが「自由舞台」で初演され、彼を世に送り出す強力なサポート役を果たすこととなる。また、設立者に名を連ねていた出版業者ザミュエル・フィッシャーの手により、設立と平行して文芸誌「自由舞台」が創刊され、劇場とメディアが協力して文学運動の振興に寄与した初めてのケースとなった。
 

シュヴルスト(独:Schwulst

 ドイツ文学において、17世紀後半より18世紀前半(1670-1720)まで流行した文学流派。マニエリスム文学の一派と見なされる。多彩な比喩や修辞的技法を用いた極めて誇張的・装飾的な文体を用い、作者の教養を誇示する作為的な表現を好んだ。後期バロック文学に位置付けられ、既に17世紀前半から現われていたスペインのゴンゴリスモやイタリアのマリニズモの影響を受けている。各国で同様の影響を受けた同様式の文学流派に、フランスのプレシオジテやイギリスのユーフュイズムが挙げられるが、ドイツに伝播したのは最も遅かった(30年戦争[1618-1648]による精神文化の荒廃がひとつの原因と考えられる)。ホフマンスヴァルダウやローエンシュタインらの技巧的で陰鬱な文体の模倣から始まったこの流派は当時のドイツ文学に広く影響を与えたが、ゴットシェートが主導するドイツ啓蒙主義において、明快性に欠けると否定的評価が下されたことにより衰退した。”schwulstig”というドイツ語の形容詞には「大げさな」という否定的な意味が現在も付与されている。ただ、現代では修辞や装飾を重視した後期バロック文学の創作手法をそのまま体現した文学流派として、シュヴルストはゴンゴリスモ同様再評価の過程にある。
 

首句反復Anaphora / Anaphore / 独:Anapher

 文や句の先頭において、同じ語や句を繰り返すことにより、印象を高めようとする修辞技法。韻文、散文、詩歌、戯曲、小説、演説等を問わず、古来より極めて多種多様に用いられてきた技法だが、近代ではディケンズやホイットマンが多用したことで知られている。その反対が、同様の結語を反復する「結句反復」である。

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: 'We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal.'

I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at a table of brotherhood.

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state, sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

I have a dream today. You’re particular, for a shade.’ He was going to say ‘to a shade,’ but substituted this, as more appropriate.   (Martin Luther King Jr.:1963)

Mon bras, qu'avec respect toute l'Espagne admire,

Mon bras, qui tant de fois a sauvé cet empire.  (Corneille : “Le Cid”)

But, in a larger sense, we can not dedicate—we can not consecrate—we can not hallow—this ground. (Abraham Lincoln: Gettysburg Address[1863])


シュトゥルム・ウント・ドランク(独:Sturm und Drang

 1760年代から80年代にかけてドイツを席巻した文学運動。「疾風怒濤」と訳される。クリンガーが書いた1776年に書いた同名の戯曲に由来する。18世紀前半のドイツ文学は啓蒙主義の時代であり、それによると文学は人間に行動規範を示すべく、道徳性に富む均整のとれた芸術作品であらねばならなかった。その反動として現れたシュトゥルム・ウント・ドランクは、詩人を束縛しかねない啓蒙主義的創作規範を打破し、感情の解放と強固な意志、そして民族固有の文化に根差した豊かな空想の描写に重きを置いた。模範とされた文学はそれまでのギリシア・ローマ文学ではなく、シェークスピアとされた。その背景には、ヘルダーが『言語起源論』(72)や『ドイツの本性と芸術性について』(73)などで主張した「すべての民族には独自の文化創造能力が備わっており、それらは天才の出現により一気に開花する。従ってこの開花を妨げるあらゆる規範・制度は悪とみなすべきであり、その悪を克服するために個人が破滅しても構わない。」という理論が横たわっており、作品は必然的に反社会・反権力的行為を描く傾向にあった。代表的作家・作品は初期ゲーテ『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(73)、『若きヴェルターの悩み』(74)、初期シラー『群盗』(1781:盗賊を主人公とする戯曲だが、主人公は卑劣な社会的規範になじめず止む無く盗賊となった高い志の持ち主として、「悪漢小説」とは決定的に異なっている)、『たくらみと恋』(84)、レンツ『兵士』(76)など。シュトゥルム・ウント・ドランクは、まさしく一過性の文学運動で多数の無名作家(多くが中・下層市民階級出身)が作品を残したが80年代半ばには衰退した。しかしまもなくフランス革命が勃発することにより、ドイツでも再び反体制的気運がたかまるものの今度は現実社会逃避の方向へ進む「ロマン主義」が興隆する。このロマン主義が受け継いだ自由な空想力からシュトゥルム・ウント・ドランクを「前ロマン派」とする解釈もある。
 

受難劇(独:Passionsspiel / Passion play / 仏:Passion

 宗教劇の一種。キリストの磔刑に至る受難を中心に描く。その明確な起源は不明だが、10世紀頃に現れた神秘劇復活祭劇の流れを受け、遅くとも13世紀頃には成立していたものと考えられる。『カルミナ・ブラーナ』など現存する13世紀のドイツの古文書に受難劇内容の断片が記されているからである(「ベネディクト会ボイエルン修道院受難劇」)。その後受難劇は、聖母のクローズアップや最後の晩餐、マグダラのマリアによるイエスの足への香油塗りやキレネのシモンによる十字架担ぎの助力などといった「お定まりの場面」を加え主にドイツで発達していった。そうした受難劇で今に伝わる主なものは、『ベネディクト会ボイエルン修道院受難劇』(13世紀:南ドイツ・ベネディクトボイエルン修道院に伝わる最古の受難劇)、『フランクフルト受難劇』(1350頃)、『アルスフェルト受難劇』(1501)、『ウィーン受難劇』(14世紀初頭)、『ザンクト・ガレン受難劇』(14世紀前半)、『アウグスブルク受難劇』(1460頃)『ルツェルン受難劇』(1534)などである。ウィーン以下に挙げたチロル近辺の受難劇はキリストの受難を中心にした統一的でより洗練された演劇構造を持っているが、他地方のものは描写をキリストの生涯全般に広げた劇が多い。受難劇は13世紀にはフランスやイタリアにも伝播するが、フランスでは当初劇形式ではなく、ジョングルールが詠じる詩の形で受難が語られたと想定される。その後最盛期となる1516世紀に受難劇は教会を出て中央広場で上演されるようになり、他の宗教劇も融合し、「キリスト一代記」の様相を呈し、悪魔や天使も登場する滑稽且つ醜悪な場面も盛り込まれるなどして大衆娯楽劇に変容していく。規模も大型化し、時には1000人以上の人物が登場し、上演時間も数日間に亙るなど町を挙げた一大行事となる例も現れた。しかし、こうして純粋な宗教性を失いつつあった中世受難劇は、宗教改革が始まると旧約聖書の内容も加味したより道徳的な内容へと変容し、17世紀の啓蒙主義時代には徐々に衰退し、18世紀には南ドイツでもついに上演を禁止されるに至った。しかし、現代においてはより身近な宗教劇として受難劇は復活し、聖金曜日(復活祭前の金曜日)には、バイエルン地方やオーストリアなどのカトリック地域で今日も上演されている。現代で上演されている最も古い形式の受難劇は、1721年の台本を用いて2009年にスロベニアのスコフィア・ロカで上演された受難劇であり、また最も有名なものは、南部ドイツ、オーバーアマガウで10年に一度上演される受難劇である。「オーバーアマガウ受難劇」は、1634年に村民がペスト禍を凌ぐべく受難劇上演を発願したのが発端であり、以来10年毎にイエスの最後の5日間を描く劇が専用劇場で上演されてきた。当初は15世紀後半の台本で上演されたが、途中幾度かの改変を経て、音楽も加わり、現在の様相は中世受難劇とは大きく異なったものとなっている。直近の2010年には、5ヶ月に亙り109回の公演が行われ、世界各地から515千人の観客が訪れた。
 

ジュブナイル(英:Juvenile ヤングアダルト小説

 


シュプレー川に架かるトンネル(独:Tunnel über der Spree

 1827年にウィーンの作家M.G.サフィール(Saphir)が、その10年前に故郷に結成されていた芸術家サークル「ルドラムの洞窟」を参考にしてベルリンに結成した文学者サークル。日曜日ごとにサフィールの自宅で集会が持たれた。そのため別名「日曜会(Sonntaggesellschaft)」とも称したが、当時盛名を馳せていたオペラ歌手ヘンリエッテ・ゾンターク(Sontag)とは無関係であることを示すために、会に付ける冠詞には、敢えて 女性名詞„Gesellschaft“に付く文法上の冠詞“die“を用いず、男性名詞用の冠詞“der“を用い、“der Sonntaggesellschaft“とした。会の方針は当時のビーダーマイヤーを反映した極めて小市民的・保守的なもので、外部への意見表明などは控えられ、1848年の3月革命時にはリベラル化の議論もあったが、結果的には革命前の文学観がそのまま継承された。会の名称については、当時ロンドン・テムズ川のトンネル工事が世間の注目を集めていたのに対し、ベルリンの中央を流れるシュプレー川にはまだトンネルが掘られる気配がないことを、風刺作家でもあったサフィールが揶揄して付けたものである。(川の下を通るトンネルには、“unter“という前置詞が付くが、ここでは上に架かる「橋」につく“über"が用いられている点に皮肉が込められている。)
 会には、「会長」と「会長代理」と「書記」が置かれ、その「守護聖人」は、ドイツの伝説上の奇人「ティル・オイゲンシュピーゲル」とされた。新入会員希望者は、まず
3度、会員の招待で会に「ゲスト」として呼ばれなければならず、その際、会長に紹介され、書記により来訪者録に記録された。その後、正式に会加入を認められると、出自や肩書や所属した社会階層による差別を回避するために、会にのみ通用する(文学・芸術界の著名人から取った)「トンネル名(TunnelName)」を名乗った。例えば、E.ガイベル(Geibel:彼は本サークルを「小者詩人の託児所」と形容した)は「ベルトラン・デ・ボルン」(中世フランスの有名なトルバドゥールTh.フォンターネ(Fontane)は「ラ・フォンテーヌ」(17世紀フランスの詩人)、P.ハイゼ(Heyse)は「ヘルティ」(ゲッティンゲンの森の詩社」の主要メンバー)A.メンツェル(Menzel)は「P.P.ルーベンス」、Th.シュトルムは「タンホイザー」(中世ドイツのミンネゼンガー)と命名された。会にはその他にも、F.ダーン(Dahn)Ch.F.シェーレンベルク(Scherenberg) H.ザイデル(Seidel)、美術史家F.Th.クーグラー(Kugler)、画家Th.ホーゼマンなど若手芸術家たちが名を連ね、最盛期であった50年代にはベルリン文壇に一定の影響力を保持した。会はその都度、議事録が取られたが、最後の議事録は18981030日となっている。

 

受容美学Rezeptionsästhetik

 

作品の時代的・社会的背景を勘案しながら、作者の興味や創作意図を探求し、同時に文学作品を時代や社会の産物として解釈する19世紀までの伝統的文芸批評に対し、作品(テクスト)そのものを研究対象として、作品に内在する芸術性、即ち何が作品に芸術的価値を与えているのかを「読書」という行為を鍵として探求する文芸批評論。1960年代以降に「読者反応批評」としてアメリカで提唱された理論を母体とする。さらにその前段階である「ニュー・クリティシズム」が作者を離れた作品の自立性を主張したのに対し、「読者反応批評」は作品の芸術性を、作品(テクスト)と読者の相互作用によって生み出されるものとし、フロイトの精神分析論を援用しながら、作品が読者に与える感興を解明しようとした。
 
ドイツでこの理論を更に深化させたのが、1960年代からコンスタンツ大学に奉職していたハンス‐ロベルト・ヤウスと彼の盟友ヴォルフガング・イーザーである(そのため、受容美学を提唱する彼らを「コンスタンツ学派」と呼ぶ)。彼らは、その著作(『挑発としての文学史』[ヤウス:1970]、『行為としての読書』[イーザー:1976]、)を通じて、従来重視されてきた作者に代わって読者が作品の芸術性を創造するとした。読者が作品を読む際は、あらかじめ一定の期待(「期待の地平」)を持って読書するものであり、テクストに描かれていない不確定な部分(「空所」)を読者それぞれが「補完→創造」しながら読み進めていくのが文学作品の読書である。こうして「期待の地平」に即して読者が作品の空所を創造的に補完していくのだが、優れた文学作品は、この「補完→創造」作業、即ち「期待の地平」そのものを破壊し、空所を相対化していく。この相対化を伴った読書行為こそ、作品に芸術性を与える根源であるとする。

 

シュルレアリスム(仏:Surréalisme

 20世紀前半の文学と造形美術における芸術運動。「超現実主義」と訳され、主にフランスで展開した。人間の無意識下に現実を探り、芸術的インスピレーションの根源を恍惚状態や夢の世界に求める。シュルレアリスムはしたがって意識と現実の関係を根底から見直し、あらゆる既存の価値の転覆を図るため、アナーキーで革命的な芸術運動となった。その先駆者として、コルビエール(『黄色い恋』[1873])やロートレアモン(『マルドロールの歌』[1890])などが小説家兼批評家アンドレ・ブルトンに称揚されているが、正式には、ブルトンが1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』をもって運動の開始とする。ただ、それ以前にもブルトンはスーポーと共に著した『磁場』(1920)の中で、心に浮かぶ無秩序な言葉とイメージをそのまま紙面に書き留める「自動記述」(オートマティスム)と呼ばれるシュルレアリスム特有の実験を行っていた。(『磁場』を掲載した文学誌「文学」の創刊年1919[発行者ブルトン、アラゴン、スーポーなど]をもって運動の開始とする見解もある。)いずれにせよブルトンは、フロイトの精神分析やヘーゲル観念論哲学を理論に取り込みながら終始運動をリードし続け、その周囲にはアラゴン(『永久運動』[1926]:彼は後にシュルレアリスムと絶縁し共産主義文学に進む)、デスノス(『自由か愛か!』[1927]:彼も後にこの運動と決別しレジスタンス運動に身を投じる)、エリュアール(『愛すなわち詩』[1929])、アルトー(『ジャック・リヴィエールとの往復書簡』[1924])、アルチーヌ(『徐行、工事中』[1930]:ブルトン、エリュアールと共同執筆)、プレヴェール(『パロール』[1945])などが集まった。シュルレアリスムは、当時の若手詩人であれば一度は手を染めた運動ともいえ、レーリスやクノーなど、短期間で身を離した者も少なくない。また、ブルトンとバタイユの反目は有名で、バタイユはレーリス、デスノスらシュルレアリスムス離脱組と「バタイユ・グループ」を構成していた。シュルレアリスム詩人は既存の価値脱却の意図から政治的関心も高く、第二次世界大戦中はレジスタンス運動に携わった者やマルクス主義に同調した者も少なからず見受けられる。結局のところ、シュルレアリスムはブルトンの個人的カリスマにより維持されていた感が強く、1966年彼が死ぬと、運動は必然的に衰退していった。シュルレアリスムは、一見、強烈な主観表現であるかと思われるが、その根本は「客観」であり、「自動記述」も自己の奥底で無秩序・偶発的に生じる諸現象の客観的描写に他ならない。この客観的な偶然の描写を何より重視したシュルレアリスムは、同じ夢の世界に分け入ろうとした運動でありながら、主観的必然を描こうとしたロマン主義の対極にある運動といえよう。
 

シュレジエン派(独:Schlesische Dichterschule

 17世紀のバロック期にドイツ・シュレジエン地方で活躍した詩人たちの総称。当時から存在した呼称ではなく、19世紀に命名されたものであるため、詩人たちに派閥意識は存在しない。シュレジエン派は時代と傾向により二つに分類される。マルティン・オーピッツ(Opitz)から始まり、オランダ文学の影響を受けた彼の詩論に倣った一群の詩人たち(S.ダッハ[Dach]A.チェルニンク[Tscherning]D.v.スツェプコ[Czepko]J.P.ティッツ[Titz]F.v.ロガウ[Logau]など)を「第一次シュレジエン派」と呼び、その後のシュレジエンで、イタリアやスペインの影響を受けて、多彩な比喩や修辞的技法を用いた極めて誇張的・装飾的な文体である「シュヴルスト」を生み出す源流となったD.C.ローエンシュタイン[Lohenstein]C.H.v.ホフマンスヴァルダウ[Hoffmannswaldau]らを代表とする詩人たちを「第二次シュレジエン派」と呼ぶが、第二次シュレジエン派をひとつの文学集団と見なす点については、学術的には最終的な承認を得ていない。



純粋詩Poésie pure

 思想や、物語性や、説得力など、純粋な言語芸術である詩とは無縁な要素を全てそぎ落として構成された詩。E.A.ポー(Poe) の『詩の原理』 ( The Poetic Principle:1850) で、「詩以外の何物でもない詩」として予言された後、散文小説の台頭に対する反動として、Ch,ボードレール(Baudelaire)S.マラルメ(Mallarmé)らを経て、P.ヴァレリー(Valéry)L.ファーブル(Fabre)の詩集『女神を知る』(Connaissance de la Déesse1920) に寄せた序文の中で初めてこの呼称を用い、象徴主義の代表的用語となった。純粋詩では、詩が表現する内容より、韻律を主とした形式が重要視される。その後、聖職にある文芸批評家A.ブレモン (Bremond) が、アカデミー・フランセーズでの純粋詩について行った講演(1925)で、純粋詩の音楽的、啓示的側面を強調し,形而上的存在(神)と人間を媒介する存在であるという反知性主義的解釈を提起すると、A.チボーデ(Thibaudet)が、主知主義的な立場から反論し、所謂「純粋詩論争」が引き起こされた。ヴァレリーもこの論争に間接的に参加したが、彼は純粋詩の思想を更に徹底し、純粋詩は、詩という存在を守る究極の概念として「絶対詩」(Poésie absolue) に置き換えられるべきであると唱えた。純粋詩の思想は、A.ジッド(Gide) が提唱した「純粋小説」にも少なからぬ影響を及ぼした。

 

純粋詩Poésie pure

 思想や、物語性や、説得力など、純粋な言語芸術である詩とは無縁な要素を全てそぎ落として構成された詩。E.A.ポー(Poe) の『詩の原理』 ( The Poetic Principle:1850) で、「詩以外の何物でもない詩」として予言された後、散文小説の台頭に対する反動として、Ch,ボードレール(Baudelaire)S.マラルメ(Mallarmé)らを経て、P.ヴァレリー(Valéry)L.ファーブル(Fabre)の詩集『女神を知る』(Connaissance de la Déesse1920) に寄せた序文の中で初めてこの呼称を用い、象徴主義の代表的用語となった。純粋詩では、詩が表現する内容より、韻律を主とした形式が重要視される。その後、聖職にある文芸批評家A.ブレモン (Bremond) が、アカデミー・フランセーズでの純粋詩について行った講演(1925)で、純粋詩の音楽的、啓示的側面を強調し,形而上的存在(神)と人間を媒介する存在であるという反知性主義的解釈を提起すると、A.チボーデ(Thibaudet)が、主知主義的な立場から反論し、所謂「純粋詩論争」が引き起こされた。ヴァレリーもこの論争に間接的に参加したが、彼は純粋詩の思想を更に徹底し、純粋詩は、詩という存在を守る究極の概念として「絶対詩」(Poésie absolue) に置き換えられるべきであると唱えた。純粋詩の思想は、A.ジッド(Gide) が提唱した「純粋小説」にも少なからぬ影響を及ぼした。

 

純粋小説Roman pur

 A.ジッド(Gide)が『贋金つかい』(1926) の中で提唱した究極の小説。同作そのものを彼はひとつの純粋小説と捉え、他の自作全てを「レシ」(物語)か「ソチ」(茶番劇)に自ら分類する中、同作のみを「ロマン」(小説)と呼んだ。
 彼が規定する「純粋小説」とは、小説と無縁な要素を取り除いた小説、言い換えれば、映画、漫画、絵画、音楽等、他の表現媒体では機能し得ない要素によって構成された小説のことである。例えば、群衆場面は、映像で示す方が一瞬にして状況を理解できるため、そうした状況をいちいち言葉で描写する手法は、純粋小説には馴染まない。純粋小説の代表的な手法としては、作者視点の多層化(全智の神の視点の放棄)、メタフィクション、ストーリーや人物形成の不首尾一貫性などといった、後のアンチ・ロマンヌーヴォー・ロマンへと繋がる手法が挙げられる。この思想は、もともと19世紀半ばから唱えられ、友人であるP.ヴァレリー(Valéry)により整理された「純粋詩」の理論からジッドが発想を得たものとされる。


頌歌 オード

 

浄化 カタルシス


笑劇(仏・英:Farce / 独:Posse

 茶番劇(ソチ)や独白劇(漫談風の一人芝居)道徳劇と並び、15世紀中盤から16世紀中盤にかけてフランス中世に成立した世俗劇の一ジャンル。上記の順に上演された上演会の最後に演じられるのを常とした”Nachspiel”(幕切れ後の小演劇)の一種であり、これら他ジャンルの劇と異なり、現代に至るまで演じられ続けている。元来は宗教劇の幕間で観客を楽しませるために演じられた喜劇であり、言葉遊びや時に卑猥な冗談も交えて庶民が繰り広げる騒動を描く。ソチと異なりアレゴリーは登場しない。特に夫婦間の揉め事(専制的だが妻の欲求を満たせない夫と気の多いの妻、そこに間男としてしばしば小貴族や司祭がからむ)は好んで取り上げられた。多くの笑劇は主人公が窮地に陥るクライマックスで「デウス・エクス・マキナ」的な人物や状況が現れ、ハッピーエンドに終わる。代表作として、羊飼いに騙される弁護士を描く『ピエール・パトラン先生』(1460頃:現在も”Revenons à la moutons.“[羊の話に戻ろう]という言い回しは「本題に戻ろう」という意味で使われる)が挙げられる。笑劇はやがてモリエールなどに受け継がれるが、イタリア(farsa)やドイツ(謝肉祭劇)やイギリスにも伝わり、特にチェーホフやベイダーマンなど、近代ロシア文学に与えた影響も大きい。我が国においても、狂言は能の幕間劇として一種の笑劇と見なしうる。


冗語 トートロジー

 

象徴主義(仏:Symbolisme / 英:Symbolism

 象徴的表現を有効に活用した総合的な芸術運動であるが。文学の場合は詩を中心としてフランスで興隆を見せた。1886年「フィガロ」紙にモレアスが寄稿した「象徴主義宣言」をもって運動の顕在化とするが、ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーらの象徴主義的作品は既に成立しており、そもそも19世紀前半のロマン主義も象徴的表現をしばしば利用した。従って、象徴主義の実際の開拓者は、自然世界と精神世界の対応を象徴を通して表現しようとしたボードレール(『悪の華』[1857])と見なされている(万物が理想的に対応する状態を彼は「コレスポンダンス」[照応]と呼んでいる)。また、ポーも夢と現実のグロテスクな混沌を描くことにより観念世界の深層描写に務め、象徴主義詩人たちに大きな影響を与えた。この二人を範として、様々な文学ジャンルのパロディー化を図ったロートレアモン(『マルドロールの歌』[1868])、鬱々たる自然描写を通じて魂の憂鬱を表現し、後の詩人たちに最も広範な影響を与えたヴェルレーヌ(『言葉なき恋歌』[1874])、完璧な文学を通じて、宗教に代わる人間の理想状態を模索したマラルメ(『半獣神の午後』[1876])、現実と夢想のギャップを風刺的に歌ったコルビエール(『呪われた詩人たち』[1883])、宇宙の奥底までに感覚を解放し、「解釈不可能」とさえいわれる難解な詩を残した早熟の天才ランボー(『イリュミナシオン』[1886])などが現れた。1880年台のフランスには自然主義の波が押し寄せるが、こうした文学への自然科学の導入に対し、象徴主義詩人たちは拒否反応を示し、ヴェルレーヌに心酔する若手詩人たちが「デカダン」と名乗るグループを結成するなど、詩の内向性、神秘性、革新性は更に深まった。この傾向には、神話世界を総合芸術として作品化するヴァーグナーの影響があったことも見逃せない。
 この時代に活躍した詩人としては、ラフォルグやモレアス、レニエやヴィエレ・グリファンらが挙げられよう。かれらはまた、伝統的な定型詩の枠を打ち破り、自由詩の実験も意欲的に行った。また、演劇においても、ヴァーグナーの影響のもと、現世から脱却し絶対的な永劫世界を憧憬するヴィリエ・ド・リラダン(『アクセル』
[1890])や人間の幸福や死などについて瞑想的作品を残したベルギーのメーテルリンク(『青い鳥』[1908])などが特筆されよう。フランス以外の象徴主義に関しては、イギリスではマラルメの影響下にあったシモンズ(『象徴主義の文学運動』[1899]:象徴主義を紹介したエッセイ集)、或いはラフォルグの影響が認められるT.S.エリオット(『荒地』[1922])。アイルランドではシモンズに連なるイェイツ(『葦間の風』[1899])。ドイツにあってはやはりマラルメに私淑し、詩文学の崇高性を追及したゲオルゲ(『魂の年』[1897])やその精神を更に発展させたリルケ(『ドゥイノの悲歌』[1923]、『オルフォイスに捧げるソネット』[1923])。ロシアでは「モスクワ派」のバリモント(『北国の空の下で』[1894])と「ペテルブルク派」のブリューソフ(『それは私だ』[1897])、アンネンスキー(『糸杉の飾り箱』[1910])、ベールィ(『ペテルブルク』[1911-13])、ブローク(『12人』[1915])などが名高い。象徴主義はそもそも文学の本質を問い直したことから詩や演劇以外の分野にも影響を及ぼしたことはもちろんだが(ジッドやプルーストの小説にも象徴主義的要素は見受けられる)、その難解さからシュルレアリスムなどとの境も明確ではなく、潮流全体の概観は非常に困難である。また、完全に終結したわけでもなく、現代文学にもそのまま受け継がれた部分がある。しかし、少なくともファン・ド・シエクル(世紀転換期文学)に属し、20世紀文学の扉を開いた文学潮流であったことは論を俟たない。
 

掌編小説フラッシュ・フィクション

 

書簡体小説(英:Epistolary novel / 仏:Roman épistolaire / 独:Briefroman

  作品全体が書簡の形で構成された小説。その起源は諸説あるが、書簡の形を取った韻文詩「書簡詩」(ラテン:epistula / 英:epistle)も系譜に含めるならば、オウィディウス『名婦の書簡-ヘロイーデン』(1世紀後半)がその先駆けと考えられる。12世紀初頭に出された哲学者アベラールとその弟子エロイーズの往復書簡集『アベラールとエロイーズ』は、恋愛小説としても後世に大きな影響を与えた。中世では、人文主義者たちの往復書簡が刊行されるが、16世紀ごろからは一般市民層も書簡のやり取りを行うようになり、特に17世紀フランスにおいてサロンに深く関わったセヴィニ夫人やデファン夫人、或いはヴォルテールの書簡集などは後の書簡体小説に大きな影響を与えた。題材としては恋愛を扱うものが主であり、その意味で「書簡体恋愛小説」とも呼ばれる。最初の書簡体小説はギュラーク『ポルトガル人の手紙』(1669:失恋したポルトガル尼僧の書簡集)であると見られ、アフラ・ベイン(イギリス最初の職業女流作家)『高貴な男とその妹の恋文』(1684-87)が続き、18世紀に入るとイギリスにおいてリチャードソンが『パミラ-報われた美徳-』(1740)、『クラリッサ』(1747/48)を発表、特異な状況に置かれた普通の女性の手紙が読者の共感を呼ぶという書簡体小説の効果を存分に発揮した。読者の共感を喚起しやすいという特徴が、ゲーテ『若きヴェルターの悩み』(1774)による「ウェルテル効果」を引き起こしたといえよう。その他の代表的作品としては、ルソー『ジュリもしくは新エロイーズ』(1761)、ラクロ『危険な関係』(1782)、ヘルダーリン『ヒュペーリオン』(1797-99)、フォスコロ『ヤーコポ・オルティス最後の手紙』(1798:ヴェニスのナポレオンによるオーストリアへの委譲の衝撃が執筆契機となり、恋と母国独立への夢に破れ自殺する青年を描いた作品。政治版『若きヴェルターの悩み』と呼ばれる。)、セナンクール『オーベルマン』(1804)、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846)などがある。近代においては「独白」が重要な語りの形式となったせいもあり、ウエブスターの『足長おじさん』(1912)など若干の例外を除いて、書簡体小説はその役割を終えた感がある。
 

職匠歌人(独:Meistersinger

 15世紀から16世紀ドイツにおいて、職人組合に所属しながら詩作をした詩人や歌手。彼らの詩や歌謡(「職匠歌」)は、ミンネザング(中世宮廷恋愛歌)の流れを汲むものだが、独自の内容、旋律、歌唱法が厳格に定められており、組合の歌学校に入学し、厳しい訓練と審査を経た者にのみ「マイスター(親方)」の称号が与えられた。職匠歌人の多数を占めたのは、当然のごとく手工業者であったが、他にも僧侶、法律家、教師などがいた。中心地は、ニュルンベルク、アウグスブルク、フランクフルト、ストラスブルクなどであり、特にニュルンベルクは16世紀前半に謝肉祭劇で活躍した靴職人ハンス・ザックス(1494-1576)によって職匠歌の一大メッカとなった。他の著名な職匠歌人としては、ハンス・ローゼンプリュート(鍛冶屋:1400-1460)ユェルグ・ヴィックラム(金細工師:1505-1562[?])、ハンス・フォルツ(床屋・医者:ca.1438-1513)らが挙げられる。彼らは教会や市役所で定例会を持ち、その際には各々の披露する歌を彼らの最高権威者である「審判者」(Merker)が独自の楽譜である「タブラチュア」に即して評価した。作歌上の規範は次第に厳しさを増したが、後世のヴァーグナーは、歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868)に登場する審判者ベックメッサー(15世紀に活躍した実在の職匠歌人)によってその審判の偏狭ぶりを風刺している。1500年頃の全盛期には南ドイツ全体で250名以上の職匠歌人がいたとされ、彼らの活動は特に民話・民謡伝承に貢献したが、17世紀以降は勢いを失い、1872年に最後の組合(メミンゲン)が解散した。
 

書斎劇 → レーゼドラマ


叙事詩(英:Epic / 仏:Épopée / 独:Epos/Epik

 歴史的な出来事を歌い上げる詩歌。神話や伝説を対象とする場合も多い。西洋各地域における文学は、これら叙事詩により開始されたと考えるのが妥当である(古代メソポタミア:『ギルガメシュ叙事詩』[16世紀以降]、古代ギリシア:『イリアス』、『オデュッセイア』[8世紀以降]、イギリス:『ベオウルフ』[8-9世紀]、フランス:『ローランの歌』[11世紀]、ドイツ:『ニーベルンゲンの歌』[13世紀初頭]など)。フランス文学においては、英雄とその戦いを扱った初期叙事詩を、特に「武勲詩」と呼ぶ。叙事詩はもともと口承文学であり、上記の作品群もアオイドス(古代ギリシア文学)やスコプ(イギリス文学)、或いはトルバドゥールトルヴェール(フランス文学)やミンネゼンガー(ドイツ文学)といった吟遊詩人たちが楽曲を奏でながら詩を吟唱し、後世になり文章に記述された。叙事詩は西洋文学におけるひとつの「本流」として脈々と伝統を保ち、ウェルギリウス『アエネイス』(29-19)オウィディウス『変身物語』(1-8)、フィンランドに伝わる『カレワラ』(19世紀に集成)、アイスランド叙事詩の『エッダ』(9-13世紀)、ダンテ『神曲』(1307-21)、ミルトン『失楽園』(1667)、バイロン『ドン・ジュアン』(181924)などの大作を生み出した。ゲーテは『ヘルマンとドロテア』(1797)において、卑近な一般市民の社会を扱う叙事詩を書き、ジョイスは『ユリシーズ』(1917)で、英雄とは程遠い主人公のたった1日の物語を描き上げるという、叙事詩の新境地を開拓した。現代においても歴史を扱った雄大な作品を、詩や小説、更には映画まで、著述形式には捉われず「叙事詩」と呼ぶ場合があるが、その基準はきわめて曖昧である。
 


叙事詩環(希:Επικός ΚύκλοςEpikós Kýklos / 独:Epischer Zyklus / 英:Epic Cycle

 古代ギリシアにおけるトロイア伝説全体を、一連の関連性をもって描く前78世紀成立の英雄叙事詩群の名称。「トロイア叙事詩圏」又は「トロイア圏」とも呼ばれる。全部で8篇の叙事詩が認められるが、その内の2篇は『イリアス』と『オデュッセイア』であり、この2篇を除いて称される場合も多い。その他の6篇は、早くより大部分が失われ、断片が残るに過ぎないが、2世紀のストア派哲学者プロクロス(Proklos:同名の5世紀の新プラトン派哲学者の説もあり)が書いた『文学便覧』(279篇の叙事詩の詳細な要約集)から、9世紀のコンスタンティノポリス大主教フォティオス(Photios)がその著書『ビブリオテカ(文庫)』内で行った抜粋により、現在もその概要を知ることができる。
 叙事詩環が扱う題材を、時系列的に並べると、

『キュプリア』(11巻[現存無し]:伝キュプロスのスタシノスまたはサラミスのヘゲシネス作):パリスの審判や、ヘレネの誘拐といったトロイア戦争の発端が描かれる。

『イリアス』(24巻)

『アイティオピス』(5巻現存[5行現存]:伝ミレトスのアルクティノス作):

       「アマゾノマキア」と「アイティオピス」の二部構成。ペンテシレイアに対するアキレウスの勝利と、アキレウスの死を描く。

『小イリアス』(4巻[30行現存]:伝レスケス作):

       ヘクトルの死、「トロイアの木馬」エピソード前編。

『イリオスの陥落』(2巻[10行現存]:伝ミレトスのアルクティノス作):

       「トロイアの木馬」エピソード後編。ラオコーンの災厄、小アイアスの死などを描く。

『ノストイ』(5巻[5行半現存]:伝トロイゼンのアギアス又はエウメロス又はホメロス作):

       『オデュッセイア』と同様の、ギリシア軍のギリシアへの帰国物語。

『オデュッセイア』(24巻)

『テレゴニア』(2巻[2行現存]:伝キュレネのエウガモン又はラケダイモンのキナイトン作):

       オデュッセウスの帰国後の冒険と不慮の死を描く。

上記の叙事詩はすべて、「英雄詩形」と称されるダクテュロスヘクサメトロス(長短短6歩格)で書かれている。後世の評価は、アリストテレスを始め、『イリアス』と『オデュッセイア』に較べ、他の6作は質・量的に劣るという判断で共通している。ただ、ホメロスは他の6作を参考に2大叙事詩を物したのではないかとという説もあり、これらの叙事詩環から影響を受け成立した後世の作品も存在する。(例:アイスキュロス『オレスティア』[『ノストイ』より]、ヴェルギリウス『アエネーイス』[『イリオスの陥落』より]、オウィディウス『変身物語』[『小イリアス』より])
 前述のフォティオスは、『ビブリオテカ』内で、この叙事詩環にテーバイの神話的歴史事件を扱う叙事詩群4作を加えていた。その叙事詩群とは、『オイディポディア』、『テーバイス』、『エピゴノイ』、『アルクメオーニス』の4作だが、スフィンクスの謎を解くオィディプスや、テーバイ攻めの七将や、テーバイ陥落がテーマとなっており、後のギリシア悲劇の題材ともなっている。これらの叙事詩群を、現在では特に上述の「トロイア圏」と対比させ、「テーバイ圏」と称する場合が多い。


叙事的演劇Episches Theater

 1920年代半ばにベルトルト・ブレヒトとエルビン・ピスカートアによって始められた演劇形式。従来は対照的なジャンルであった戯曲と叙事詩を融合させ、演劇に叙事詩の持つ「物語る」機能を付加し、観客に社会批判的な鑑賞態度を持たせることを目指した。アリストテレスによる戯曲の詩的目的とは、それを見ることにより「恐れと共感」を感じた観客内にカタルシル(浄化作用)を生じさせることであったが、叙事的演劇は、様々な異化効果同時並列舞台、帯状流れ舞台、回り舞台、映像映写、字幕、挿入歌)を用いて、観客が劇の登場人物に感情移入(同化)することを阻み、舞台上の出来事を動かしがたい悲劇的宿命とは捉えさせず、よりよい社会(特にマルクス主義)への批評眼を育ませようとする(ブレヒトにおいては役者も役柄を離れ、幕前で観客に話し掛けたりし、役柄への同化を阻まれた)。ブレヒトはこの意味で自らの戯曲を「非アリストテレス的」と呼び、それまでのアリストテレス的演劇は現実世界から目を背け、美的錯覚を喚起するものとして批判した。従って伝統的な演劇形式(5幕構成、起承転結、ペリペティアカタストロフなど)も否定され、ブレヒト作品にはしばしば未決着な「開かれた結末」が見られる(『セチュアンの善人』[1939]など)。資本主義社会での矛盾(資本家による搾取や戦争)を糾弾する叙事的演劇は、マルクス主義演劇の一種ともいえるが、その具体的な異化効果手法は、以降の現代演劇に少なからぬ影響を及ぼした。ただ、後年にはブレヒトも演劇が持つ感情同化の魅力を部分的に認め、「感情同化と舞台からの距離化が更なる高みで融合した新たな演劇表現」としての「弁証法的演劇」を提唱している。
 

叙述トリック(英:Narrative Tricks

 ミステリで多用される読者を欺くために仕掛けられた語りの手法。語られた人物、場所、時間などを読者が自然と誤読するような語り方をいう。騙されるのは当然のごとく読者のみで、一般的に登場人物たちが叙述トリックによって騙されることはない。この手法で語る語り手は、「信用できない語り手」の一種といえる。登場人物が誤解していたことを、あたかも事実のように語る手法(「彼は事件現場からトムが逃げ去るのを目撃した」と語っても、「トムには実は双子の兄がおり、逃げ去ったのはこの兄だった」のが真相だった)や、クリスティ『アクロイド殺し』(1926)のように、犯人である一人称の語り手が、都合の悪いことは伏せて、さも客観的に語る手法などがこのトリックだが、これは、「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの20では禁止されており、ミステリが常に直面してきた「フェアプレイ」に深く関わる問題である。
 

ジョングルール(仏:Jongleur

 10世紀から15世紀にかけて、フランス中世に活躍した吟遊詩人。「ふざけ者」を指すラテン語joculatorを語源とする。ジョングルールは吟遊詩人であってもトルバドゥールトルヴェールとは異なり、自ら作曲や作詞はしないとされている(しかし、その境界は曖昧である)。彼らは遍歴の旅芸人であり、各地の祝祭に出向いて武勲詩ファブリヨーなどといった口承文学作品、歌、あるいは大道芸やパントマイム(パントミーモス)を披露して生計を立てた。メネストレルも同様の旅芸人であるが、ジョングルールは誰の庇護も受けていないことを特徴とする。13世紀頃が彼らの黄金時代で、組合を作るなどしてその勢力を伸ばし技術も高めたが、彼らが社会的差別を受けるアウトサイダーであることは変わらなかった。



詩論(羅:Ars Poetica

 古代ローマ時代にヴェルギリウスと並び称された詩人ホラティウスが前19年頃に著した文芸理論書。アリストテレスの『詩学(前335)と並んで、後世のヨーロッパ古典主義に最も大きな影響を与えた書物のひとつである。ただ、『詩学』が論文形式を取り、客観的な論理展開に意を尽くしている一方、本書は元老院議員ピソとその息子たちに宛てたヘクサメトロスの書簡体形式で綴られており、作者が実際の体験を交え語った肩の凝らない文芸指南書となっている。「詩論」と呼ばれてはいるが、重点は演劇に置かれ、前半は観客を楽しませるための戯曲創作法について、そして後半はそのための詩人の在り方についてがテーマとなっている。(「詩論」という題名は、作者がつけたものではなく、古代ローマの修辞学者クインティリアヌスの修辞学教本『弁論家の教育』[Institutio Oratoria:弁論家の教育:95頃]で名づけられた書名である。)

 本書で唱えられた用語の内、特に以下の4つが有名。

〇“ab ovo”と 〇“in medias res”:本書中でホラティウスは「理想的な詩人は、トロイア戦争を双子の卵から(ab ovo)から始めるのではなく、読者をすぐさま事件の真っただ中(in medias res)に導く者である。」と主張した。ホメロスは、『イリアス』(8世紀以降)で、トロイア戦争を9年経過した時点から描き始め、戦争の発端であるパリスによるヘレナの誘拐は、第3歌において初めて開陳される。「双子の卵」とは、白鳥の姿に変身したゼウスが女神レダに産ませた卵のことで、この卵からヘレネとクリュタイムネストラが生まれたことを指す。物語を中途から語りだす技法は、以降語りの定跡として現代まで幅広く応用されているが、そのアンチテーゼとして有名な小説が、スターンの『トリストラムシャンディ』(1760-67)である。この小説では、本筋にあまり関係のない些末な出来事が延々と語られ、主人公がなかなか登場しないという、イン・メディアス・レスの真逆の語りを敢えて行っている。因みに、ホラティウスが『風刺詩』(35-34)で残した、同じくab ovoを用いた熟語 ab ovo usque ad mala”(「卵からリンゴまで」:「最初から最後まで」の意。古代ローマの正餐は卵で始まりリンゴで締め括られたことから。)も、現在は慣用句となっている。

〇“Quandoque bonus dormitat Homerus” :「優れたホメロスも時折居眠りをする」 我が国の諺にいう「弘法も筆の誤り」であり、既に英語の諺として定着しているが、「ホメロスほどの大詩人であっても凡作を書く場合がある」と解釈できる。

〇“ut pictura poesis”:「詩は絵の如く」:ルネサンスやバロック時代の文学論や芸術論に大きな影響を与えた句である(芸術論では、「絵は詩の如く」と読み替えられた)。この後に続く文章は、「あるものは近づけば近づくほど人の心を捉え、またあるものは遠ざかれば遠ざかるほど同様になる。」とあり、非常に暗示的な表現であるため、後世では様々な論議を呼んだ。最低限の解釈として、文学と絵画の類似性を論じたものと解することができようが、この点に関しては、レッシングが「ラオコーン問題」で「時間芸術」たる文学と、「空間芸術」たる絵画の差異を論じて異議を唱えた。

 


新喜劇(希:Νέα κωμωδία / 英:New Comedy)

 古代ギリシア喜劇(古代アッティカ喜劇)が正式に認知されたのは、それまで悲劇のみが奉納上演されてきた「古代ディオニュソス祭」に、喜劇も上演されるようになった紀元前486年からとされる。この古代ギリシア喜劇を大きく「古喜劇」と「新喜劇」 に分け、「新喜劇」時代は、アレクサンダー大王が死去した紀元前323年から、同260年頃まで続いたとされる。大王統治時代の終焉と共に、言論の自由が失われ、古喜劇が得意とした政治や支配者への辛辣な風刺は影を潜めるようになった。代わって新喜劇は、ストック・キャラクターを更に多彩に用いながら、平凡な市民社会を、しかしながらより洗練されたアッティカ方言やプロットで、諦念感も混じった冷やかな警句を交えて描き上げた。創始者はシラクサのピレーモーンと目されており、その他にシノーペーのディーピロスが名高いが、この両者の作品は一篇も完全には残っておらず、表題や断片やプラウトゥスの数篇の翻案劇によってその著作の一面を伺うのみである。一方、新喜劇最大の作家であるメナンドロスの著作は、20世紀に入り写本が発見され、『サモスの女』、『髪を切られる女』、『人間嫌い』(共に313316 BC頃上演と推定)など数篇が現代に伝わっている。

 

新旧論争(仏:Querelle des Anciens et des Modernes

 17世紀後半から18世紀にかけて、フランスで行われた文学・芸術論争。「古今論争」とも訳される。古代ギリシア・ローマ文学を絶対視すべきかどうかが争点となった。古典主義の最盛期であった17世紀にも、その後半からキリスト教文化やフランス語文化を古典文化に劣らぬものとするナショナリズムが現われるが、論争の直接の発端は、16871月に、ルイ14世の病気快癒を寿ぎアカデミー・フランセーズで発表されたペローの詩であった。彼はそこでルイ14世の治世をアウグストゥス統治下の古代ローマ時代に比肩し得ると讃え、「古代は敬意を払うべきものではであるが、崇拝するべきものではない」と唱えたのである。この主張にアカデミー会員ボアローが即座に反論し、古代文学に至上の価値を置くラシーヌ、ラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエールら「古代派」と、近代文学の優位性を説くペロー、フォントネル、サン=ソルランら「近代派」が激しい論争を展開した。論争は、文学は模倣(ミメーシス)を旨とする(古代派)か、天才的創造を旨とする(近代派)かの議論にまで先鋭化し、フォントネルとラ・ブリュイエールが二人共アカデミー会員になるなど、学術界も両派に二分されたが、1694年に神学者(大)アルノーの仲介で両陣営は和解した。
 だが
1713年、ラ・モットが「ホメロスの誤りを正す」として、1799年に当時の高名な古典学者ダシエ夫人が仏語訳していた『イリアス』の韻文抄訳を発表すると、夫人は翌年『趣味の堕落の原因について』を著し、ホメロスの絶対的崇高性を認めないラ・モットを批判することにより、新旧論争は再燃した。フェネロンら他の作家を巻き込み、後に「ホメロス論争」と呼ばれたこの論争(ホメロス作品の成立過程を議論する所謂「ホメロス問題」とは異なる)も、1716年には両人の和解により収束する。ただ、古典主義一辺倒だった当時のフランス文学に風穴を開け、後の啓蒙主義や、更にはロマン主義への展開に筋道をつけたこの論争の功績は、少なからぬものがあろう。
 

神秘劇 (英:Mystery play / 仏:Mystère

 イギリスやフランスで発達した宗教劇の一種。「聖史劇」とも訳される。一般に聖人の生涯や新旧約聖書の内容を戯曲化した演劇を指すが、厳密には聖人の生涯を描く劇を「奇跡劇(Miracle play)」と呼んで区別する場合もある。用語の起源は「神秘」に由来するものではなく、中世の職業組合(ギルド)の職人が演じたため、職業組合を意味する”Mistery”と名づけられたもので、本来は「職業組合劇」とでも訳すべき用語である。神秘劇の誕生は復活祭劇のそれと軌を一にしており、10世紀、それまで「キリエ エレイソン」(ギリシア語で「主よ哀れみたまえ」の意)の呼びかけと、間に挟まれた補足説明の歌詞(交誦:トロープス)の掛け合いで進行した聖歌が発達し、キリスト復活後の墓でイエスを探すマリアたちと天使の問答を描く劇『誰を探しているのか(クエム・クエリティス)』が成立し、神秘劇の先駆けとなった。その後の発展で、神秘劇は、聖書の各場面を、関連するギルドがそれぞれ演じる形態となり(例えば「ノアの箱舟」は大工ギルドが、「最後の晩餐」はパン屋ギルドが演じるなど)、聖書の全場面を演じる宗教劇として大規模化していった(各場面を集成した神秘劇群を「サイクル」と称し、イギリスの5集を始めとして複数がヨーロッパに現存している)。15世紀から16世紀にかけて神秘劇は全盛期を迎えるが、その時代には出演者も数百を数え、数日間に亙る上演が行われるようになった。この頃の神秘劇は、受難劇とほぼ同様の上演内容・形式となるが、本来の神秘劇は祝祭でのパレードの際、移動する山車の上にしつらえられた移動舞台で上演されることが多かった。神秘劇はその後フランスでは宗教劇にそぐわぬ程豪華さを増したため、またイギリスではそのカトリック的内容(聖母の過度の神聖視など)からイギリス国教会に疎まれ、16世紀中頃には衰退した。現在もスペインの都市エルチェで、聖母の被昇天を描く神秘劇が毎年市民の手で上演され続け、ユネスコ世界無形遺産に登録されている。
 

新批評  ニュー・クリティシズム

 

人物再登場法Retour des personages

 バルザックにより創案された小説技法で、ある小説の登場人物が別の小説にも登場してくる技法。この技法を駆使してバルザックは未完の作品集『人間喜劇(1842-1850)を書き上げた。たとえば、「私生活状況」中の『ゴリオ爺さん』(1835:この作品が本技法の用いられた最初の作品とされる)の主人公の一人である貧乏学生ラスティニヤックは、後の「パリ生活風景」中の従妹ベット(1845)や、「政治性格情景」中の『アルシの代議士』(1847)などに登場し、野心家の権化として伯爵にまで成り上がるのだが、『人間喜劇』全91編中、都合28作品という最多の作品に再登場する人物となっている。こうした再登場人物は、全登場人物が2000人以上と言われる『人間喜劇』にあっては600人に上る。つまり、『人間喜劇』は本技法を用いて19世紀前半のフランス社会全体をより包括的・有機的に描こうとしたわけだが、同じく連作小説で第二帝政期のフランス社会を描こうと試みたゾラの『ルーゴン・マッカール叢書(1870-93)でもこの技法が(遙かに消極的にではあるが)用いられた。現代において本技法は再び脚光を浴びており、特にSFの分野では、アシモフやハインラインが統一した未来社会の人物として複数の作品に同じ人物を登場させ、スティーブン・キングは長編小説『ダーク・タワー』(1982-2004)に自身の他作品を関連(リンク)させ、雄大な作品世界の構築を試みている。こうしたのSFでの単一の空想世界を舞台にした人物再登場法を特に「スター・システム」と呼ぶ。また映画やテレビドラマなどでは、ある人気作品の脇役を、新たに主役に据えて制作された派生作品を、「スピンオフ作品」と呼ぶ。
 


新フランス評論(仏:La Nouvelle Revue Française

 190811月に創刊し、中断を挟み現在も刊行中ののフランス文芸誌。創刊時の同人は、A.ジッド(Gide:第2代編集長)J.コポー(Copeau)J.シュランベルジェ(Schlumberger)6人の作家・評論家であり、”NRF”或いは”N.R.F.”(「エネレフ」)と略される。(NRFは出版人G.ガリマールが出版したが、ここから現在の仏大手文芸出版社であるガリマール社が誕生し、ガリマール社は、現在に至るまで会社のロゴを”nrf”としている。)それまでの印象批評に対して文学を「科学」的に取り扱おうとする態度(E.ゾラ[Zola]、I.テーヌ[Taine]J.E.ルナン[Renan]、G.ランソン[Lanson]など)と、またそうした態度への反発から、1899年にCh.モーラス[Maurras]により創刊された「アクション・フランセーズ」を機関誌とする反近代、極右、国家主義的文芸批評態度との葛藤を克服するべく、新たな文芸批評を模索した。NRFではジッド、P.ヴァレリー(Valéry)R.ロラン(Rolland)P.クローデル(Claudel)J.ジロドゥ(Giraudoux)F.ジャム(Jammes)R.M.デュ・ガール(du Gard)G.デュアメル(Duhamel)J.ロマン(Romains)S.-J.ペルス(Perse)V.ラルボー(Larbaud)J.コクトー(Cocteau)A.アルトー(Artaud)A.ブルトン(Breton)A.マルロー(Malraux)R.クノー(Queneau)ら、当時のフランス新進作家の多くが寄稿し、「フランスモダニズム文学の揺り籠」と称されたが、とりわけJ.リヴィエール(Rivière:第3代編集長)B.クレミュー(Crémieux)R.フェルナンデス(Fernandez)そしてA.チボーデ(Thibaudet)らの評論は、両大戦間のフランス文芸批評をリードした。NRFは、当時仏文壇に渦巻いていたキュビズム、ダダイズムシュルレアリスム等の様々な文芸潮流を、偏することなく紹介し、時に建設的な議論も展開した。J.P.サルトル(Sartre)など、後に盛名を馳せる作家の処女作が本誌に掲載された例も稀ではない。ただ、M.プルーストが『失われた時を求めて』の第1篇『スワン家の方へ』(1912)NRFに送った際にジッドはその価値を認めず、出版を拒否したが、後にジッドはこの一件を自分の生涯最大の過ちと認め、プルーストに謝罪している(第2編以降はガリマール社から刊行)。
 第二次世界大戦中の独軍占領期には、雑誌と出版社の存続を条件に、親独作家P.D.ラ・ロシェル(La Rochelle)1940年から43年まで編集長となり、ユダヤ人作家や共産主義作家を排除する編集方針を取ったが、仏インテリ層の反発を懸念した独占領政府は、それ以上の干渉はしなかった。ただその内実は、ラ・ロシェルの前任であった第5代編集長のJ.ポーラン(Paulhan)が本誌の政治的中立を保とうと尽力し、掲載が叶わなかった作家を他の媒体に紹介するなど、初期対独レジスタンス運動の一翼を担った。(彼が1941年に逮捕された際には、逆にラ・ロシェルの介入により釈放されている。)
 1944年のフランス解放の後、NRFはそれまでの親独方針を咎めたL.アラゴン(Aragon)を中心とする共産主義メンバーの意向を受け53年まで休刊する。(ラ・ロシェルは捕縛を恐れ、45年に自殺した。)53年よりNRFは、編集長に復帰したポーランとM.アルラン(Arland)のもと、独軍占領体制以前の姿に戻るべく、Nouvelle NRF “(新新フランス評論)と改名し再刊され、程なく往時の勢いを取り戻した。59年からは再びNRFの旧名に戻り季刊誌として発行されている。


人文主義(伊:Humanesimo / 仏:Humanisme / 英:Humanism / 独:Humanismus

 硬直化した中世キリスト教的世界観から自らを解放し、古代ギリシア・ローマ時代の古典を研究することにより人間本来のあり方を模索したルネサンス期の文化運動。中世キリスト教的世界観は、ひたすら神を中心に据え、人間は神の栄光に奉仕する付属的存在と捉えられたが、人文主義は人間自体を対象に「人間とは何か、その真の姿は何か」と考え続けた点に特徴がある。そのモットーは「寛容」、「非暴力」、「信条の自由」であり、模範をを古代ギリシア・ローマ時代に求めた。最初の人文主義者は14世紀のペトラルカとされ、彼やボッカチオは当時発見されつつあったキケロなど古代作家の文献研究を進めた。これが後の「古代文献学」へと発展し、15世紀にはホメロスやプラトンの原典写本が発見され、古代ギリシア文学研究が大いに進んだ。その結果、中世キリスト教社会とは異なる古代の人間中心社会が知られるところとなったのである。更に、15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍したエラスムスは、1516年に出版したギリシア語訳『改訂版新約聖書』により、中世キリスト教においては絶対的存在であったラテン語訳『ヴルガタ聖書』に批判を加えた。当時の権威者層を徹底的に風刺した彼の『痴愚神礼賛』(1511)や、ラブレーによる『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(153252)などの風刺文学も人文主義思想が極端に現れた例といえよう。また、『痴愚神礼賛』に触発され、トマス・モアの『ユートピア』(1516)が執筆されるわけだが、ユートピア文学の成立にも従って人文主義が一役買ったことになる。こうした人間中心主義を標榜する人文主義はルネサンス運動に適合し、ピコ・デッラ・ミランドラの『人間の尊厳についての演説』(1486)などに見られるように、人間の意志の自由を高らかに謳い上げた。これらの思想・文学作品を人文主義者たちは専らラテン語で著したが、当時もラテン語は使用され続けてはいたものの、中世に入り語彙も語法も俗化し大きく変質してしまっていた。しかし人文主義者たちの使用したラテン語は、古代文献学の成果を踏まえ、古典の文法や語彙を規範とするオリジナルなもので、彼らによって再び浄化されたラテン語で書かれた文学を「新ラテン文学」という。人文主義は宗教的信条ではないため、16世紀前半に生じた宗教改革運動において、改革派に明白に加担したわけではないが、思想的にはエラスムスの提唱した福音主義に共鳴し、改革派に近い。ただ、闘争を人間精神から自由を奪う根源と見なす人文主義はカトリックへの攻撃も好まず(ラブレーやカステリヨンやモンテーニュは再三両派の和合を説いた)、その結果、カトリックからは弾圧され、改革派からも批判される立場となった。すなわち、当時の宗教的対立を背景とした精神社会を変革する直接的な原動力にはなり得なかったのである。先に紹介した人文主義を契機とする風刺文学やユートピア文学、或いは自己の領域にのみ留まり極めて内省的な随想録であるモンテーニュの『エセー』(1580)などは、その意味で一種の逃避といえるかもしれないが、人間の尊厳を重視する態度は後の文学に大きな影響を与えた。
 

新聞小説 フェアタン

 

深夜叢書 ミニュイ社

信用できない語り手(英:Unreliable narrator

 アメリカの文芸評論家ウェイン・ブースが、『フィクションの修辞学』(1961)の中で定義した語り手の種類。物語の進行役である語り手の発言の信頼性を落とし、意図的に読者の混乱を引き起こそうとする手法である。信用できない語り手を用いる背景としては、語り手が子供である(トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』[1884])、語り手が精神的問題を抱えている(キイス『アルジャーノンに花束を』[1959])などが考えられるが、特にミステリにおいては、作者が読者を迷わせるためひとつの叙述トリックとしてこの手法を使うことがある(クリスティ『アクロイド殺人事件』[1926])。更に枠物語を導入した作品の語り手が信用できなくなる場合は、枠内の物語全体がベールに包まれたような距離感を与える効果をもたらす(コンラッド『闇の奥』[1899])。
 語り手が信用を失うにあたっては、悪意の有無からも大別され、上述の「ハックルベリー・フィン」や「アルジャーノン」、或いはカズオ・イシグロの『日の名残り』(1989)などは、語り手が幼稚であったり、精神障害であったり、過去の記憶が曖昧だったりする「善意の語り手」であるのに対し、「アクロイド」や、R.スターン『トリストラム・シャンディ』(175967)などのように、犯人を意図的に隠すためだったり、筋そのものを混乱させるために登場する語り手は、「悪意ある語り手」といえる。
 

心理分析小説(仏:Roman d’analyse

 外面的な物語よりも、人物たちの内面的な心理描写を重視する小説を「心理小説」(仏:roman psychologique)と呼ぶが、この文学の伝統は古典から始まるもので、特殊な文学ジャンルと呼べるほどではない。例えばウェルギリウスの『アエネイス』(29-19)は、範に取ったホメロス以上に人物の心理面描写に努めている。だが心理小説の本格的な発展は、敬虔主義(儀式の束縛から脱し、人間個人の内面的な信仰心を宗教の本質とする思想)や感傷主義が登場し、個性がより尊重され出した17世紀後半から18世紀中盤にかけてである。リチャードソン(『パミラ-報われた美徳-』[1740]、『クラリッサ』[1747/48])や、ルソー(『ジュリもしくは新エロイーズ』[1759])や、ゲーテ(『若きヴェルターの悩み』[1774])の「書簡体小説」は、形式上心理描写を特に重視し、ドイツ文学ではほぼ同時期に生まれた「教養小説」もカール・フィリップ・モーリッツ『アントン・ライザー』(1785)など、成長していく主人公の内面を丹念に描く態度を取った。その後も心理小説は益々の発展を見せ、文学において心理描写は不可欠な要素となるが、フランス文学においては特に「心理分析小説」と呼ばれる小説ジャンルが確立する。これはクレティアン・ド・トロワの騎士物語からの伝統を有する小説ジャンルで、恋愛を通じた心理描写(愛・嫉妬)や社会的・道徳的状況と個人的情念のせめぎ合いに揺れる人間心理を描こうとするものである。その嚆矢はラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』(1678)とされるが、プレヴォー『マノン・レスコー』(1731)、ラクロ『危険な関係』(1782)、スタンダール『赤と黒』(1830)、ブールジェ『弟子』(1889)、ジッド『狭き門』(1909)、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(1924)など、フランス文学はこのジャンルの秀作を続々と生み出し、最終的にはプルースト『失われた時を求めて』(1913-27)にその集大成を見た。
 

新ロマン主義(英:Neo-romanticism / 独:Neuromantik

 19世紀末に現れた文学潮流。潮流全体の輪郭は非常に曖昧で、全体像を掴むことは困難だが、少なくとも自らを自然主義及びモダニズム文学に対立する運動と考え、ロマン主義的文学への回帰を模索した。影響を受けた文学は、同時代の象徴主義デカダンスであり、とりわけ印象主義や世紀末文学、あるいはユーゲンドシュティールとは近しい関係にあり、これらの文学運動とは互いに影響し合う関係にある。新ロマン主義は異国情緒や中世趣味に富み、伝説や神話や御伽話など、不思議で奇妙なもの、魔術的なものを好む傾向にある。その他にも、感情の強調、音楽的な文体、文体形式へのこだわり、耽美主義的傾向、自由奔放な夢想、更にはか弱いものへの共感などが主に共通して見受けられる特徴である。この文学潮流を支えた代表的な出版社は、オイゲン・ディーデリクス社(ライプツィヒ/イエナ)であった。ルイス・キャロル(『不思議の国のアリス』[1865])、イェイツ(『葦間の風』[1899])、ハウスマン(『シュロプシャーの若者』[1896])、ラーゲルレーヴ(『ニルスの不思議な度』[1906-07])、ハムスン(『牧神』[1894])、ゲオルゲ(『アルガバール』[1892])、ヘッセ(『荒野の狼』[1927])などがこの潮流に近い作家とされているが、殊に後のノーベル文学賞作家ゲルハルト・ハウプトマンは、典型的な自然主義(『日の出前』[1889]、『職工』[1892]から新ロマン主義(『ハンネレの昇天』[1893]、『沈鐘』[1896])へと突如として方向転換し、成功した作家として特異な存在である。
 


スカピリアトゥーラ(伊:Scapigliatura

 イタリア・ミラノで、1860年から1880年にかけて、毛髪を伸びるに任せ、服装にも頓着せず、自由気ままな生活を送った主にロンバルディア出身の芸術家たちによるサークルの名称。「蓬髪派」と訳され、フランスの「ボエーム」、イギリスの「ボヘミアン」と同義である。名称は、C.アリーギ(Arrighi)1858年に発表した小説「ミラノのスカピリアトゥーラ」に由来する。1866年には、サークルの機関誌として「ロ・スカピリアート」が創刊され、ボイト兄弟(Boito)G.ロヴァーニ(Rovani)C.ドッシ(Dossi)F.ファッチョ(Faccio:音楽家)V.ビニャーミ(Bignami:画家)A.モルべり(Morbelli:画家)G.セガンティーニ(Segantini:画家)G.P.ダ・ヴォルペード(da Volpedo:画家)らが参画した。また、スカピリアトゥーラの後にイタリアで勃興した「ヴェリズモ」の中心的作家であったジョヴァンニ・ヴェルガ(Verga)も、青年期には当サークルに出入りしている。
 統一国家成立後、イタリア、特に北イタリアは飛躍的な経済成長を遂げるが、付随して発生した諸問題‐労働者の貧困、風紀紊乱、犯罪の増加等‐を前に、彼らはボードレールやランボーといったフランスの破滅型ボヘミアン、或いはノヴァーリスやヘルダーリンやハイネといったドイツ・ロマン主義詩人たちを範に取り、都会的生活に背を向け、性やドラッグの解放を希求し、文学の刷新を目指した。ただ、文学的には殊更下層社会を題材に取り上げたこと以外見るべき点は少なく、ボイト兄弟を始めとして著名な作家も早々に身を離し、直後のヴェリズモに比較して、スカピリアトゥーラは結果として皮相的な文学刷新運動に留まった感がある。

 

スター・システム 人物再登場法


スタージョンの法則(英:Sturgeon's Law

アメリカのSF作家シオドア・スタージョンが述べた格言。二つあり、「常に絶対的なものは存在しない。」という言葉と、「すべてのものはその90パーセントがガラクタである。」という言葉である。スタージョン自身は、1972年の対談で、前者を本来の「スタージョンの法則」、後者を「スタージョンの暴露(Sturgeon's Revelation)」と定義づけたが、現在一般に流布しているスタージョンの法則とは後者を指す。後者の格言は、外部からの当時のSFに対する批判:「SFの90パーセントはガラクタである」を切り返して唱えられたものであり、その結論としては、「故にSFと一般文学に価値的差異は存在しない」という定義が導かれうる。この法則は、しばしば「名作を生み出すためには、膨大な量の駄作が生まれなければならない」とも解釈される。



スタンザ(伊・英:Stanza / 仏:Stance / 独:Stanze

 定型詩における基本的な構成単位。「思考に部屋を与える」という意図で、イタリア語の「部屋」を語源とする。一定の押韻を含んだ詩行群からなり、「詩節」又は「連」と訳され、散文の「段落」にあたる。スタンザ間に空白やインデントを設ける場合もあるが、必ずしも必要ではない
 狭義では様々な行数の詩節を指し、ボッカチオが初めてその詩作に使用した「オッターヴァ・リーマ(伊:
Ottava rima/英:オクターブ)」はその代表的なものである。このスタンザは、イアンボスペンタメトロスからなる8行連句で、abababccの押韻形式を持つ。その後、アリオストの『狂えるオルランド』(1532)やタッソの『エルサレム解放』(1581)により、近世イタリア語叙事詩においてオッターヴァ・リーマは定番となった。他国にはあまり波及しなかったが、イギリスにおいてバイロンが叙事詩『ドン・ジュアン』(1824)でオクターブを使用している。
 この他の代表的なスタンザとしては、ダンテが『神曲』(1304-21)で初めて使用したとされ、aba/bcb/cdc/dedと押韻していく3行連句の「テルツァ・リーマ」や、G.チョーサーが叙事詩『トロイラスとクリセイダ』(1382-85)で初めて使用し、15世紀にはスコットランドのジェイムス1世が使用したことにより名づけられた「ライム・ロイヤル」(帝王韻律:別名「チョーサー連」)がある。このスタンザは、オクターブと同じくイアンボス・ペンタメトロスからなる7行連句でababbccという押韻形式を取る。また、イアンボス・ペンタメトロス2行連句として、同じくチョーサーが物語詩『善女物語』(1372-86)で初めて試みた「英雄対句(ヒロイック・カプレット)」や、イアンボス9行連句で8行目まではペンタメトロス、最終行がアレクサンドランとなりababbcbccと押韻する「スペンサー連」(E.スペンサーが『妖精の女王』[1590]で使用)も有名である。

 

スチームパンク(英:Steampunk

 SFの一ジャンル。蒸気機関を主動力とした文明が極度に発達した科学技術社会を描いた文学。従ってスチームパンクの世界では機関車のみならず航空機や飛行船やコンピュータまでもが蒸気機関で駆動する(そうした機械の素材は従来どおり鉄や銅や真鍮や木材である)。時代的には19世紀後半から20世紀前半までの設定が多く、作品全体がレトロな情景に包み込まれている(こうした過去において空想された懐古趣味的な未来を「レトロ・フューチャー」という)。すなわち、スチームパンクは、機械文明が高度化したものの現代の実社会とは別な方向へと発達した架空の平行社会を描き出すのである。人間と機械工学の融合を描くスチームパンクは、電子技術と人間の融合を謳ったサイバーパンクのアンチテーゼといえよう。霊魂や人造人間といったオカルト的な要素も見受けられる。その先駆けはヴェルヌの『海底二万里』(1870)を始めとするSF作品やウェルズの作品とされるが、ジャンルとしては恐らく1980年代終わり頃にKW・ジーターにより提唱され、ギブスン/スターリングの『ディファレンス・エンジン』(1990:ディファレンス・エンジンとは機械式計算機のことであり、スチームパンクの重要なガジェットのひとつである)の登場で、改めてジャンルとして確立した。他にロバーツ『パヴァーヌ』(1968)、ラッカー『空洞地球』(1990)、ホールバイン『ノーチラス号の冒険』(1993)、フォード『ジェイン・エア事件』(2001)などが知られている。
 

ストック・キャラクター(英:Stock character / 伊:Personaggio tipo

 演劇における類型化された登場人物。その起源はアリストパネスに代表される古代ギリシア喜劇にまで遡る。古代ギリシア喜劇では、主に3種類のストック・キャラクター、すなわちアラゾン(alazon:自分を偉そうに見せるほら吹き)、エイロン(eiron:自己卑下者。アラゾンと絡み、下手に出て彼をやり込める。アイロニー[皮肉]の語源)、ボモロコス(bomolochus: 道化者。後の宮廷道化師の原型)が登場する。ストック・キャラクターは性格の誇張により、風刺的喜劇にも盛んに利用されたが、悲劇とは無縁である。こうした人物造形は、古くは古代ギリシア・ローマ時代の道化喜劇であるミーモスアテルラナで用いられたが、更に大きく発展するのは、16世紀ルネサンス期のイタリアにおけるコンメディア・デッラルテにおいてであり、30種以上のストック・キャラクターが類似した状況(ストック・シチュエーション)の中で即興的な喜劇を繰り広げた。これらの人物造形手法は後のシェイクスピアやモリエールの喜劇にも大きな影響を与えた(シェイクスピアやモリエールが創出した有名なストック・キャラクターとして、『ヘンリー4世』(1598)や『ウィンザーの陽気な女房たち』(1602)に登場する、でっぷりと太り、お調子者で女性に目がなく最後には大失敗する「フォルスタッフ」、或いは『タルチュフ』[1664]の主人公である俗物のペテン師「タルチュフ」が挙げられよう)。コンメディア・デッラルテの登場人物の多くは、その性格を類型化する意味で仮面をつけていたが、我が国の仮面劇である「能」においてもストック・キャラクターが活用されている点は同様である。現代の我が国で最も親しまれているストック・キャラクターは、落語の「熊さん」、「八っつあん」、「与太郎」、「角のご隠居」であろうが、近代以降、ストック・キャラクターは喜劇から娯楽小説へと登場の場を広げ、ミステリスペース・オペラエアポート・ノヴェルなどには類型化された人物が頻繁に登場する。

                             

          スピンオフ作品 人物再登場法

 

スペース・オペラ(英:Space opera)< SF

 

スペンサー連Spenserian stanza )<スタンザ

スポンディオス(希:σπονδεος / 羅:spondeus英:Spondee / 独:Spondeus

 英語名スポンデー。アクセントを持つ長音節(揚格)がふたつ連なり韻脚を形成する詩の詩脚。「長長格」とも訳され、ピュリキオス(短短格)の丁度逆の形である。すべてアクセントのある音節で詩を構成するのは無理であるため、ダクテュロス(長短短格)アナパイストス(短短長格) を補完・代替する詩脚として使用される場合が多い。この点においてはピュリキオスと同様である。6歩格(ヘクサメトロス)では、詩行が単調に流れることを避けるために4韻脚目に現れることが多い。近代では英語詩で主に用いられたが、英語詩を模倣してきたドイツ語詩には、単語にどうしても長短のアクセントがつくドイツ語の性格上、スポンディオスはあまり馴染まなかった。
 

ズボン役(独:Hosenrolle / 英:Breeches role トラヴェスティ

 

聖餐神秘劇(西:Autos sacramentales

 スペインに発達した宗教劇の一種。聖体の秘蹟を讃える内容であり、美徳や悪徳、或いは誠意や希望や死などが登場するアレゴリー劇である点は道徳劇に近い。聖体祭の行列と共に役者を乗せた山車が練り歩き、要所で停止し劇を上演した。この形式は、「トリオンフォ(王侯が都市に入城する際の凱旋行進)」における活人画にも共通点を見出すことができるし、イギリスの神秘劇も同じ方法で上演されていた。13世紀頃より簡素な対話による同傾向の寸劇は演じられていたが、16世紀前半にティルソ・デ・モリーナ及びポルトガル人のジル・ヴィセンテらが数々の”Auto”(一幕劇)を創作して聖餐神秘劇は確立した。その後、多作で知られる劇作家ロペ・デ・ベガが400もの劇(現在は殆ど消失)を著してこのジャンルの興隆を示し、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『大世界劇場』〈El gran teatro del mundo (1655)を筆頭とする70以上の聖餐神秘劇群で全盛期を迎える。人間の人生をひとつの「劇場」と見なす『大世界劇場』は、人生の様々な要素(知恵、慈悲、富、貧困など)が登場するアレゴリー劇で、今世紀に至るまでスイスのアインジーデルン市で野外劇として定期的に上演されている類稀なスペイン・バロック演劇である。その後誇張や虚飾に走った聖餐神秘劇は1765年、国王カルロス3世の命により上演禁止となったが、その後も地方の町村では暫く上演され続けた。
 

聖史劇 神秘劇

青春小説(Coming-of-age novel)<教養小説

 

清新体派(伊:Dolce Stil Novo

 13世紀後半から14世紀初頭にかけてイタリア中部から北部、とりわけフィレンツェで流行した文学運動。シチリア派トルバドゥールに影響を受けた恋愛抒情詩を生み出した。その命名は、ダンテによる(神曲』煉獄篇第24歌)。清新体派は、プラトン主義の理想的愛と騎士道における無私の愛(ミンネ)を、比喩と象徴を駆使しながら、洗練された詩句で歌い上げた。主に用いられた詩形は、ソネットカンツォーネである。詩歌は詩人自らの体験を歌うものではなく、非常に内省的なものとなり、崇拝される女性の美しさは、現世を超越した天上の存在(天使、神の花嫁)に例えられ賛美された。特筆されるのは、高貴な女性のみならず、市井にある女性の気高い心も賛美したことで、この点において、宮廷愛を主に歌ったシチリア派とは趣を異にする。これは、中世イタリアで発達した「都市共和国(コムーネ)」に既に見られる市民階級の台頭を示しており、後の人文主義ルネサンスの勃興を暗示するものである。この流派の著名詩人は、創始者と見なされているグイド・グイニツェッリであり、彼の言葉”Al cor gentil rempaira sempre amore”(「気高い心にはいつも愛が宿る」)は、「気高い心」の持ち主を貴族に限定しない清新体派を象徴する言葉である。他にグイド・カヴァルカンティ、チノ・ダ・ピストイア、ディノ・フレスコバルディらが挙げられるが、ダンテをもって流派最高の詩人と見なす点については異論を俟たない。ベアトリーチェへの無償の愛を歌った詩集『新生(Vita nuova)』(1293)は清新体派の最高傑作であり、更には彼女を「永遠の淑女」として神格化しながら、実在の人物や自らの境遇も織り込んだ彼の『神曲』(1304-21)は、同派からの新たな展開であると見なせよう。

 

セイチェント ドゥエチェント


青年フランス派(仏:Jeunes-France

 ロマン派作家集団「セナクル」が解散した後に、その活動を継続した先鋭的若手ロマン派作家グループ。1831830日付日刊紙「フィガロ」上で命名された。「小ロマン派」(Petits romantiques)とも称され、メンバーは「プチ・セナクル」とも重複していた。主要なメンバーとしては、ボレル、ネルヴァル、ゴーチェがおり、「エルナニ戦争」の際、彼ら青年フランス派がコメディー・フランセーズに押しかけ、古典派の怒号と野次を喝采でもって鎮圧したことで知られる。


聖杯(英:Grail / 仏:Graal / 独:Gral

 キリストが最後の晩餐において用いた器。十字架上のキリストのわき腹を突いた際に用いられた聖槍(ロンギヌスの槍)と共に、キリスト教における数多くの聖遺物の中心的存在である。キリストが磔刑に処せられた後、その血をアリマタヤのヨセフがこの器に少量たらし、その後器はブリテン島に運ばれたとされる。若さと富と幸福をもたらす神秘な力を秘めた聖杯は、聖槍と共に容易に近づけない聖杯城で漁夫王及び聖杯の騎士たちに守られており、選ばれたごく少数の者にその姿を現す。この器(時には光り輝く石の姿でも出現する)を捜し求める騎士たちの遍歴を描く物語は、「聖杯伝説」として中世より様々な作品を生み出してきた。その先駆けは、クレチティアン・ド・トロワ『ペルスヴァル、あるいは聖杯の物語』(1190)及びロベール・ド・ボロン『聖杯物語』(12世紀末)とされ、これ以降、聖杯は「アーサー王伝説」と緊密に結びつき、アーサー王のもとに集う円卓の騎士たちが聖杯を求め遍歴するという図式が確立する。クレチティアン・ド・トロワを参考に、ドイツではヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが『バルチヴァール』(1212)を書き聖杯伝説を洗練化するが、以降の聖杯伝説は、トーマス・マロリー『アーサー王の死』(1470)など、「アーサー王伝説」とほぼ重複する。近代では、アーサー王伝説を題材としたテニスン『国王牧歌』(1856-1885)により、聖杯伝説はイギリスに広く知られるに至った。ただし、現代では、映画『インディ・ジョーンズ・最後の聖戦』(1989)やダン・ブラウン『ダビンチ・コード』(2003)など、聖杯がアーサー王伝説とは独立した神秘的アイテムとして使用される例も見られる。

世界文学Weltliteratur

 ゲーテが晩年の著作『世界文学』(1827)で提唱した文学概念。各国・各民族の精神に囚われない普遍的な精神から創作された文学を指す。単に世界的に読まれている作品を世界文学とするわけではなく、普遍的な芸術的価値を有するのか、各国の文学にあまねく影響を与え得る作品であるかが、世界文学の基準となる。新国家アメリカの建国など、当時は世界が急速に拡大しつつあった時代であり、そうした新時代に対応する新たな文学像をゲーテは求めたのである。その構想は、イスラムやインドや中国の文学も視野に入れたものだったが、実際にどの作品を世界文学と認定するかに関しては判断する術などなく、その後現れる国民文学運動の前に忘れられる。ただ、今日創作される文学作品は、発達した流通網により世界中でほぼ同時に読まれ、各国の文学に影響を与えることが可能となった。そのため、各国の風土や文化に深く根差す作品よりも、国際間に共通した文学性を追い求める作品が、書籍市場により求められる状況となっている。従って、ゲーテの意味する概念は現代においてようやく実現されつつあるといってよい。


セナクル(仏:Cénacle

 1827年に結成されたフランスのロマン主義文学者グループ。V. ユゴー(Hugo)が主導し、メンバーをパリ、ノートルダム・デ・シャン通りにある自宅に集め、作品の朗読会を開いた。主なメンバーにバルザック(Balzac)、大デュマ(Dumas)、ラマルティーヌ(Lamartine)、ネルヴァル(Nerval)、ゴーチェ(Gautier)、サント=ブーヴ(Sainte-Beuve)、ヴィニー(Vigny)、ミュッセ(Musset)、画家ドラクロワ(Delacroix)などがおり、文学界のみならず、政界や宗教界からの抵抗に対峙しロマン主義の流布に務めた。(政治的挫折をひとつの契機とするドイツ・ロマン主義は文学運動に政治性を持ち込まなかったのに較べ、フランス・ロマン主義運動は政治性も併せ持っていた)セナクル結成に至るまでには以下の4段階が認められる。

1.若きユゴー兄弟(ヴィクトルとその兄アベルとウジェーヌ)が発行した雑誌「文学保守」(Le Conservateur litteraire:181921)に新進作家たちが寄稿。

2.1822年頃にエティエンヌ=ジャン・ドレクリューズ(Delescluze)のサロンに集った作家たち(スタンダール、メリメ、ジャン=ジャック・アンペール等)

3.「フランス詩神」(La Muse française :182324)を機関誌として、1823年から24年頃までエミール・デシャンの家に集まった作家たち(ユゴ-、ヴィニー、ラマルティーヌ、アレクサンドル・スーメ、アレクサンドル・ギロー、ノディエ等)

4.「フランス詩神」が廃刊した後、ノディエが館長を務めるパリのアルスナル図書館に集った作家たち。3.の作家たちに加え大デュマ、ネルヴァル、ゴーチェ、バルザック、ドラクロワら後のセナクルのメンバーも参加する。この集団を「第1セナクル」と呼ぶ場合もある。

セナクルは、ロマン主義を標榜する戦闘的な芸術家集団と見なされ、その典型的な事件が1830年に起きた「エルナニ戦争」である。ただ、エルナニ戦争に「勝利」した後は、自然消滅の形となり、その後のネルヴァルやゴーチェの挑発的な活動が「プチ・セナクル」と呼ばれる場合もある。因みに、H.ヘッセ(Hesse)が友人L.フィンク(Finckh)1897年にドイツ・チュービンゲンで結成した文学サークルも「プチ・セナクル」と名乗った。



ゼラピオン同人(独:Serapionsbrüder

 E.T.A.ホフマンが1814年、ベルリンに結成したロマン主義文学結社。同人たちは文学・芸術談義を行うべく、定期的にホフマンの自宅に集った。会の名の由来は、最初の集会日(1012)がたまたま聖セラフィーノ・ダ・モンテグラナロの祝祭日(命日)だったことによる。(そのため、当初の名称は「ゼラフィーネン同人(Seraphinenbrüder)」とされていた。)主な同人としては、A.v.シャミッソー、F.フーケ、D.F.コレフ、J.E.ヒッツィッヒらが挙げられる。このうち、シャミッソーが1815年に北東航路探検隊に加わり出発してしまったため、会は休会状態となるが、18年には、定例集会を再開した。その際の最初の集会日は1114日で、これはイスラム教徒との宗教戦争の際、非暴力を貫き、捕虜の身代わりとしてアルジェで殉教した聖ゼラピオンの祝祭日であったため、彼の精神に倣い、この時より会は「ゼラピオン同人」と改名した。
 ホフマンの文学観は、「あらゆる模倣や写実を廃し、外見を詩歌により写し出すのではなく、詩人内部に沸き起こるイメージを、外界の助けを一切借りず、詩的表現により造形化する。」というものだが、ホフマンはこの主張を、後に著す短編集『ゼラピオン同人集』
(181921)の中に登場する(ゼラピオン同人をモデルとする)架空の文学者たちの議論の中で「ゼラピオン原理」(「各々は、声高く朗誦する前に、伝えたいものを本当に見据えたのか吟味するように。少なくとも、各々の内面に沸き起こったイメージを、あらゆる姿や、色や、光と影を伴いしっかりと捉え、本当にそれに揺さぶられたのならば、外の世界へと描くよう心掛けるように」)(『ゼラピオン同人集』第1巻第1節)として明確に打ち出している。


ゼラピオン同人(ペトログラード)(露:Серапионовы братья / 英:Serapion Brothers

 1921年にソ連・ペトログラードで結成された若手文学者集団。約100年前のE.T.A.ホフマンによる「ゼラピオン同人」を範に取った。メンバーは、ニコライ・チーホノフ、ヴェニアミン・カヴェーリン、ミハイル・ゾーシチェンコ、レフ・ルンツ、フセボロド・イワーノフ、ニコライ・ニキーチン、イリヤ・グルーズジェフ、コンスタンチン・フェージン、ウラジーミル・ポズネル、ミハイル・スロニムスキー、そして唯一の女性としてエリザベータ・ポロンスカヤの11名である。同人の結成以降、新入会員は受け付けなかったが、関心のある者は陪席を許された。彼らはマキシム・ゴーリキーの(財政面も含めた)庇護を受け、定例会を開き、朗読や、文学談議や、時には反革命作家エヴゲーニイ・ザミャーチンやアクメイズムの主導者ニコライ・グミリョーフによるセミナーを開いたりした。会には規約がなく、同人たちの文学は共通した傾向というものを持たなかったが、そもそも彼らのモットーが、「強制や制限を嫌い、他人の書きぶりを踏襲することに反対する」ことである以上、それも当然のことであった。ただ彼らの数少ない共通項としては、革命への共感と、反社会主義リアリズムが挙げられよう。そのため、彼らは社会主義リアリズムの代表的作家であったゴーリキーの援助は受けながら、彼の文学を「時代遅れ」として評価はしていなかった。このリアリズムを否定するという点が、ホフマンの「ゼラピオン同人」とも共通している。ゼラピオン同人は余りに若く愚直であり、結成後数冊の作品を出したのみで、数年後にはペトログラードを去る者もいて休会状態となる。1926年と29年には再興の動きもあったが結局成功はしなかった。


前景化(英:Foregrounding

 もともとは認識論の用語であり、対象を認識するにあたって特定の側面を強調して捉える手法を指す。(その逆は「背景化」である。)例えば、陸上競技決勝(8人出場)で8位となった場合、この状況の肯定的側面を前景化すると「8位入賞」又は「ファイナリスト」、否定的側面を前景化すると「決勝最下位」と表現されよう。この用語が、ロシア・フォルマリズムにおいて文学批評に用いられるようになった。すなわち、文学が文学たりえている要因は、文学テクストが表現する内容によるのではなく、斬新な比喩、特異なアクセント、韻律、造語、特徴ある構文などという言語的異化手法によるのであり、これらの言語的特性が前景化された文学テクストを理解するプロセスが、文学の鑑賞の本質であるとされた。
 

前ロマン派(英:Pre-Romantic

 イギリス文学におけるロマン主義は、1798年のワーズワスとコールリッジによる『叙情歌謡集』出版により始まるとされるが、それ以前にロマン主義的作風(中世趣味、伝奇的雰囲気、自然や田園生活の重視、異国情緒など)を示した作家たちを指す。自然界を擬人化したJ.トムソン(『四季』[1730])、霊魂の不滅を謳い、グレイと並び「墓地派詩人」と呼ばれたE.ヤング(『不満、別名夜想』[174245])、当時正統派であったポープの古典主義に奔放なロマン主義的熱情で対抗しようとしたW.コリンズ(『オード 情景と寓意』[1746])、墓地をモティーフとした哀歌で知られるトマス・グレイ(『墓畔の哀歌』[1751])、『古英詩拾遺集』(1765)のパーシー、スコットランド情緒を巧みに謳い挙げたR.バーンズ(『詩集-おもにスコットランド方言による』[1791])などが代表的な詩人だが、他にもチャタートン、W.クーパー、W.ブレイク、ウォートンらが前ロマン派詩人として、来るべきロマン主義を先導した。


ソープ・オペラ(英:Soap opera

 アメリカ発祥のテレビ・ラジオの連続ドラマ。平日昼の時間帯を中心に主婦層を対象として毎日放映される。内容としては不倫、犯罪などを扱った軽いサスペンス物が多いが、制作費は安く抑えられ、脚本家も複数おり、その製作態度は夜のドラマよりも概して安易である。しかし人気の出た作品は、シリーズ化され延々と続く場合もある。名称の由来は、主婦層が購買ターゲットとなる石鹸・洗剤会社がスポンサーとなるケースが多かったためであるが、この傾向は、我が国のソープ・オペラ(昼ドラマ)においても見受けられる。
 

ソチ(仏:Sotie

 15世紀から16世紀にかけてフランスで流行した茶番劇。道徳劇笑劇と並び、フランス・ルネサンス期に演劇ギルドにより上演された演劇ジャンルのひとつである。阿呆劇とも呼ばれる。驢馬の耳を生やし道化杖を持った「ソ」(sot)と呼ばれる阿呆を中心とした寓意劇で、時には「世間」や「個人」といったアレゴリー(寓意)も登場し、滑稽な身振りやあからさまな台詞で観客の笑いを誘った。「アンファン・サン・スーシ (Enfants sans souci:無憂児組劇団)」と呼ばれる演劇ギルドが独占的に上演したが、後に道徳劇上演を旨としたギルド「バゾッシュ ( Basoche:法曹劇団)」によっても上演されるようになった。1540年には当局より上演禁止となり、17世紀前半には次第に衰退したが、ドイツに伝わったソチは謝肉祭劇と融合して更に発展を続けた。
 
因みにA.ジッド(Gide)は、自分の小説を「レシ」と「ソチ」に二分し、『狭き門』(1909) や『田園交響曲』(1919) のように、作者の分身である一人称の語り手によって、普通の直線的な叙述で描かれる小説を「レシ(Récit:物語)、『法王庁の抜け穴』(1914) のように諧謔性を有した風刺的小説を「ソチ」と規定している。
 

素朴文学と情感文学(独:Naive und sentimentalische Dichtung

 シラーがその美学論文集『素朴文学と情感文学について』の中で主張した理論。文学のタイプを大きく2つに分類した。彼によると、自然そのものであって、現実をありのままに表現する素朴詩人と、文明化のために自然を失い、人間性の分裂と対立を経験し、自然を理念や理想として追求する情感詩人がおり、素朴詩人はホメロスを代表とする古代ギリシア文学に多く、情感詩人は近代詩人の特徴であるとする。詩人が表現しようとする世界は、常に理想と現実の世界であるが、素朴詩人はそれがもとから一体化しているため内面的に葛藤はない。しかし、現実を常に理想として受け入れるため、卑俗な現実に近づきすぎる危険がある。対して情感詩人は分離した理想と現実の関係を描こうとするが、ここには3通りのアプローチが認められる。つまり、理想と現実の矛盾を描こうとすると、それは風刺文学になり、理想と現実の調和を描こうとすると、それは牧歌的文学となり、理想と現実それぞれに心が引かれる文学を描こうとすると(これが近代の高級な文学の本質をなすものだが)それは哀歌的文学になるのである。だが、情感的詩人が常に理想と現実のギャップに直面し続けると、えてしてそれらを超越した夢想的作品に走る危険性も生じる。度を越したロマン主義などはこれに該当するだろう。この「素朴」と、「情感」という概念は、文学よりもむしろ音楽に当てはめてみたときに理解しやすくなる。そこではモーツァルトがまさしく「素朴音楽家」の代表となる。彼の音楽は聴いていてどこにも耳に障るところがなく、「自然」そのものであるが、音楽の持つ美しさと喜びが素直に表現され、全体として極めて高度な芸術性を有している。バッハも同じである。対してベートーベンや特にブラームスなどは「情感音楽家」と見なしうるだろう。彼らの音楽には現実の前に苦悩する人間の心が表現され、それが聴くものの心を打つのである。その意味で、現代において「素朴」な芸術家が現れる可能性はほとんどないと言ってよい。
 

ソネット(伊:Sonetto / 英・仏:Sonnet

 定型詩の一形式。「小音曲」の意。14行からなる。13世紀前半に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のシチリア宮廷に集った「シチリア派」で創案されたと推定されているが、実際の創案者はシチリア派で指導的立場にあったジャコモ・ダ・レンティーニとされる。起承転結を表現する42連と32連から構成されるが、初期ソネットの押韻は、ABAB、ABAB、CDE、CDE(また後半CDC、DCD)であり、その後ソネットが北イタリアに波及すると、トスカナ風押韻ABBA、ABBA、CDC、DCDも現れ、ダンテもこれを用いた。特に、4行連の第1行と第4行、第2行と第3行を押韻するスタイルは、現代でも一般的である。その後ペトラルカやボッカチオもソネットを用い詩作したが、とりわけソネットが大部分を占めるペトラルカの詩集『カンツォニエーレ(14世紀)は、以降のヨーロッパ文学に多大な影響を与え、多くの模倣(「ペトラルキズモ」:ミケランジェロもその一人)を生み出した。ソネットが恋愛詩に最も適した詩形と解釈されたのもペトラルキズモの影響である。
 ソネットは
16世紀には全ヨーロッパに広がり、特にフランスではデュ・ベレー(『オリーブ』[1549])やロンサール(『恋愛詩集』[1552])などプレイヤッド派詩人たちがフランス風ソネ(ABBA、ABBA、CCD、EDEまたはEED)を完成させた。その後フランスにおけるソネは一時衰退したが、19世紀にはサント・ブーヴによって再発見され、ボードレール(『悪の華』[1857-68])、マラルメ、ヴェルレーヌらが優れたソネット詩を残した。イギリスにおいては、シェイクスピアの『ソネット集』(1609)によって「シェイクスピア風ソネット」が完成した(ABAB、CDCD、EFEF、GG)。その後「スペンサー風ソネット」(ABAB、BCBC、CDCD、EE)も現れる(16世紀後半)。以降、ミルトン、ワーズワス、キーツなどがソネット詩作にいそしむが、とりわけブラウニングの恋愛詩集『ポルトガル語からのソネット』(1850)が名高い。ドイツではゲーテからロマン主義にかけてソネットは最も利用された抒情詩詩形となり、ゲオルクやホーフマンスタールを経てリルケの『オルフェウスへのソネット』(1923)に結実する。ドイツでは特に、解放戦争時やナチス政権下で政治的内容のソネットも書かれた。ソネットは古来詩形の中で最も好まれたもののひとつであるが、その均整のとれたスタイルは現代ヨーロッパにあっても愛好者が絶えておらず、様々に行数、押韻を変化させた作品が今も尚作られている。