ハウキャッチェム(英:Howcatchem)< 倒叙


バークレー・ルネサンス → サンフランシスコ・ルネサンス




ハートフォード才人(英:Hartford Wits

 18世紀後半、米コネチカット州ハートフォードにおいて、イェール大学のOBや教員で構成された文学者集団。「コネチカット才人」とも呼ばれる。彼らは当時の社会や政治を風刺し、前近代的なイェール大学の教育システムを批判したが、その姿勢は当時は極めてリベラルに映ったため、批判も少なくはなかった。グループの中心的人物は聖職者兼政治家兼詩人であり、イェール大学学長も務めたティモシー・ドワイト(Dwight)である。その他の構成員としては、J.トランブル(Trumbull)L.ホプキンス(Hopkins)Th.ドワイト(J.ドワイトの弟)、J.バーロー(Barlow)D,ハンフリーズ(Humphreys)などが挙げられる。社会に批判的な態度を取った彼らだったが、後に陸軍に志願する者も少なくはなく、ハンフリーズはアメリカ独立戦争時(1775-1883)にはジョージ・ワシントン指揮下の陸軍大佐にまで昇進した。



ハードボイルド(英:Hardboiled

 1920年台のアメリカで生み出されたミステリの一分野。「固ゆで卵」の意味で、感情を露にせず、難局に立ち至っても的確な行動で事態を打開していく冷徹な主人公がその最大特徴である。1920年に創刊したパルプ・マガジン「ブラック・マスク」に作品を発表したハメット(『マルタの鷹』[1930])、チャンドラー(『大いなる眠り』[1939])などがこうした様式の小説で一世を風靡した。ハードボイルドは多数の作品がハリウッドで映画化され、ハンフリー・ボガードなどが演じた主人公には「トレンチ・コート、ソフト帽、咥え煙草、バーボン・ウィスキー」といったガジェットが定番となり、後にはそのパロディーさえ現れた。ハードボイルドは文体を指す用語としても用いられ、その際は反道徳的行為に対しても一切の批判を加えず冷徹に描き切る客観的文体を意味する。こうした文体を使用した作品としてはヘミングウェイの初期短編群が嚆矢とされるが、ジェームズ・M・ケインの『郵便配達夫は2度ベルを鳴らす』(1934)はハードボイルド文体を駆使した小説として名高い。


バール形式(独:Barform

 中世ドイツにおいてミンネゼンガー職匠歌人が主に用いた詩形。最小3行の詩行からなり、1行目と2行目は”Aufgesang”(前節)と呼ばれ、どちらも同様の韻律を持つ(1行目を”Stollen”または”Gesätz“2行目を“Gegenstollen“または »Gebäude“と呼ぶ)。3行目は“Abgesang“ (後節)と呼ばれ、韻律的には前2つのStollenとは何の関連も持たない。即ち、基本的な詩形はA-A-Bとなる。Abgesangの後、別な韻律を持つ連(2行単位)が付け加えられることも稀ではない。例として、フィリップ・ニコライ作曲のコラール(多くのコラール[ルター派教会の讃美歌]はバール形式を取る)“Wachet auf, ruft uns die Stimme“(「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」:1599:後のバッハ作曲によるカンタータで有名)を挙げる。

  Wachet auf, ruft uns die Stimme (Stollen)
 der Wächter sehr hoch auf der Zinne,  (Gegenstollen:ここまでAufgesang)
 wach auf du Stadt Jerusalem. (Abgesang)
 Mitternacht heißt diese Stunde (Stollen)
 sie rufen uns mit hellem Munde (Gegenstollen:ここまでAufgesang)
 Wo seid ihr klugen Jungfrauen?  (Abgesang)
 Wohlauf, der Bräutgam kommt, 
 steht auf, die Lampen nehmt.(この2行は別の韻律)
(後略)

Stollenの最小単位は1行だが、2行をひとまとまりとする場合もある。
 
このように、バール形式はもともと詩形として生まれたものだが、実際には歌唱されることが常であったため、現在はA-A-Bの旋律形式に対する音楽用語として主に取り扱われている。特に近代において、リヒャルト・ヴァーグナーが自らの「楽劇」にバール形式を多用したことから、この傾向は強まった。


バーレスク(英:Burlesque

 崇高且つ高尚な既存の作品について、その精神やスタイルを茶化し卑俗化した一種のパロディ作品。「悪ふざけ」を意味するイタリア語 “ burla ”に由来する。この名称自体は、16世紀中頃のイタリア風刺詩人フランチェスコ・ベルニ(Berni)の風刺詩を中心とする詩集『バーレスク集』( Opere burlesche:1548-1555 ) に初めて現れる。フランスでは17世紀中盤に「ビュルレスク(Burlesque)」という名称で、パスティーシュを多用し古典を茶化した作品群が生まれ、P.スカロン(Scarron) の『ドン・ジャフェ・ダルメニー』(1653)でその頂点を迎えた。イギリスにもシェイクスピア『真夏の夜の夢』(1600)でのピュラモスとティスベによる結婚式の劇中劇や、F.ボーモント(Beaumont)による『燃えるすりこぎ騎士団』(The Knight of the Burning Pestle:1613)の劇中劇を嚆矢として17世紀に伝わった後、とりわけ演劇分野で発展し、バッキンガム公爵『舞台稽古』(1671)や、J.ゲイ(Gay)『乞食オペラ』(1728)、或いはR.B.シェリダン(Sheridan)『批評家』(1779)といった戯曲に結実した。特に『乞食オペラ』は、高尚さを旨としたイタリア・オペラ(オペラ・セリア)を庶民向けにスタイル変更(庶民主役、卑俗な筋、英語使用、レチタティーボ[叙唱]廃止)し、当時の政治状況を風刺した音楽劇で、ドイツ・オーストリアにおいても、モーツァルト『魔笛』(1791)に代表される「ジングシュピール(歌芝居)」の創出に影響を与えた。イギリスではその後、19世紀転換期にかけて、エクストラヴァガンツァ的要素を強め、音楽やパントマイムを伴った一種の笑劇として、特にロンドン・ストランド劇場を中心にJ.R.プランシェ(Planché) や、ヘンリー J. バイロン(Byron) らが、上品さが売り物のロンドン演劇に対し、意図的に卑俗性を強調した「ヴィクトリア朝風バーレスク(又はヴィクトリア朝風メロドラマ)」を生み出した。アメリカでは20世紀に入り、ヴォードヴィルと結びつき、ストリップティーズやモダンダンスを取り入れたニュー・バーレスクが誕生した。ニュー・バーレスクは、20世紀前半に全盛期を迎え、その性的な際どさから官憲の弾圧を受けた結果一時期衰退したが、21世紀に入りリバイバルして現在に至る。

 

パイアン(希:Παιάν / 羅:paean

 古代ギリシア文学における合唱形式のオード(頌歌)の一種。音楽用語としては、「ピーアン」と呼ばれる。[
癒すもの」を意味するパイアンとは、もともと医療の神であり、『イリアス』
(8世紀中盤)でも言及されているが、この神がオードの直接の由来かどうかは不明である。しかし上記の神は後の古代ギリシア文学ではアポロンと同一視されるようになり、その結果パイアンは、「アポロン賛歌」の装いを纏うようになった。ただ、前4世紀頃には、広く神々を賛美する歌に変貌し、対象はゼウスやポセイドンやアスクレピオス(アポロンの子、医療の神)や、更にはディオニュソスにまで広がるようになった。(ディオニュソスに対しては、他方ではディオニュソス礼賛に特化された合唱賛歌「ディテュランボス」が前5世紀まで隆盛を誇った。)歌中では、「ヒエー、パイアーン」という呼び掛けが繰り返される。その後は、賛美対象を更に英雄や偉人にまで広げ、最終的にヘレニズム時代には、式典や行進や凱旋や祝勝饗宴などの晴れがましい場において、「勝利の凱歌」として歌われるようになった。代表的な詩人として、ディテュランボスでも有名な、前5世紀に活躍したピンダロス(Pindaros)やバッキュリデス(Bakkhylides)が挙げられる。現代においても、「パイアン調」という用語は、荘厳で賛美的な内容の詩歌や、古典主義的な音楽に対して用いられる。


廃墟文学Trümmerliteratur

 ドイツの第二次世界大戦敗戦直後から始まる、戦時中のファシズムと戦禍によるトラウマを主な題材とし、同時に新生ドイツへの期待も表現した文学潮流。ドイツの無条件降伏日である194558日を「零時」とした歴史観に基づき、「零時文学」(Literatur der Stunde Null)とも呼ばれる。その主体となったのは、戦地より帰還したり、収容所に収容されていた若手作家たちであった。廃墟文学を担った代表的作家集団としてグルッペ47が挙げられるが、会創設の原点が、アメリカの収容所で発行された雑誌「叫び」であった点が象徴的である。同文学は、ナチス文学はもとより、戦時中の国外・国内亡命者の文学やそれ以前の文学潮流からの脱却を図り、簡素な言葉での「真実」の表現を目指し、作家たちには文芸や美の世界に閉じ籠ることのない、常に社会にコミットした創作態度が求められた。その意味で、キリスト教思想がその背景に横たわっていたことも事実である。同文学の基本は短編小説であり(特に、ヴォルフガング・ボルヒェルトは数ページに過ぎない「掌編小説」を執筆した)、それまでは余り顧みられなかった海外の文学、とりわけハードボイルドで名高いアメリカ文学(ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナーなど)やサルトルに代表されるフランス実存主義の影響を受けた点も特筆される。廃墟文学作家としての明確な基準はないが、廃墟文学的作品を残した著名作家としては、ハインリッヒ・ベル、ギュンター・アイヒ、ハンス・エーリヒ・ノサック、アルフレート・アンデルシュ、エーヒリ・ケストナー、ヴォルフガング・ヴァイラウフらが挙げられる。特にヴァイラウフは廃墟文学を更に先鋭化した「皆伐文学」を提唱したことで知られる。
 廃墟文学は、ドイツの戦後復興が進み、戦禍が徐々に忘れ去られると共に衰退した。


バイロン的人物(英:Byronic hero

 イギリス詩人バイロンには多くの女性が恋したが、その内のひとりキャロライン・ラムは、詩人を「気違いで、悪党で、知り合うのも危険」と評した。同様の人物がバイロン作品には幾度も登場し、「バイロン的人物」として後の文学の人物形成に大きな影響を与えた。バイロン的人物は教養があり、貴族的な気品を持ち、行動力に富むが、行動する目的は自分自身のためであり、自分を絶対視し周囲を暗愚な群集と見なす点は倣岸極まりない。彼は結局社会のアウトサイダーとして失敗するのである。こうした人物は詩人の半自伝的物語詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』(1812)に初めて登場する。以降『不信者』(1813)、『海賊』(1814)、『ララ』(1814)、『マンフレッド』(1817)などでバイロン的人物が詠われた。直後のロマン主義ゴシック小説は破天荒さや超自然性を好んだため、バイロン的人物は新たなアンチヒーローとして歓迎された。この影響のもとに、ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ(1831)のフロロ、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』(1847)のロチェスター、エミリーブロンテ『嵐が丘』(1847)のヒースクリフ、それにデュマ・ペール『モンテ・クリスト伯(1844-46)のダンテといった斬新な人物が生まれたといえる。バイロン的人物は現代に至るまで「悪魔的魅力に富んだ危険な人物」としてその人気は衰えず、ファム・ファタールと結びついて女性の人物形成にも取り入れられている。
 

ハウプト・ウント・シュターツアクツィオーネン (独:Haupt- und Staatsaktionen)

 17世紀後半から18世紀前半のドイツ・オーストリアにおいて、旅回りの劇団によって上演された大衆政治劇。ハウプトアクツィオーネンとは幕間劇に対する「主演目」の演劇、シュターツアクツィオーネンとは、歴史や政治を題材とする演劇を指すが、啓蒙主義文学評論家ゴットシェートはこうした大衆劇を批判交じりに表題のごとく命名した。演目は100年ほど遡るイギリス喜劇団同様、シェイクスピアやマーロウやカルデロン、或いはグリューフィウスやローエンシュタインらの名作が種本に選ばれ、興業主が筋を簡略化し言語を粗野な日常語に直して上演された。劇の世界は宮廷に移され、戴冠式や謁見式や祝典といった華麗な場面や、謀略や処刑や亡霊といった刺激的な要素が必ず折り込まれた(これがシュターツアクツィオーネン[国家的行為]と名付けられた所以である)。だが劇は深刻になることもなく、再三に亙り道化役のハンスヴルストが登場し、下卑た即興芝居で周囲を茶化しまくり、お定まりの勧善懲悪で幕を閉じる。劇の本体はすなわち即興で演じられるため、上演用の台本が部分的に現存するのみである(ハンスヴルスト第一人者のシュトラニツキーが演じた台本がウィーンに残されている)。本劇は、ハンスヴルストの完成をもってヴィーン民衆劇の基礎形成に寄与し、役者の身振りや所作といった身体的な演劇技術の発展にも少なからぬ影響を与えた。
 

パスティーシュ (仏:Pastiche)

もともとは「混ぜ物をしたパイ料理」(Pastiche)の意から、他人のモティーフを組み合わせて描いた模倣画を意味した。その後1819世紀になると、新たな台本に他作のテーマを流用したオペラを指すようになる。近代文学においては、オリジナル作品や過去の文学潮流の様々なスタイルや手法を取り入れ、意図的に模倣した作品を指す。したがって、非芸術的な動機や、独創性の欠如からなされる同様の手法は、「盗作」や「剽窃」と考えるべきである。一方、マンの選ばれし人』(1851)やプルースト『パスティーシュとメレンゲ』(1919)、などに現れる「非意図的パスティーシュ」(Pastiche involuntaire)は、既存スタイルの意図的なパロディー、或いは独自スタイルを発展させる過程として高く評価し得る。パスティーシュによる有名作品はプルースト:『ルモワーヌ事件』(1908)、クノー:『文体練習』(1947)など。我が国では、パスティーシュを多用する作家として、清水義範が知られている。
 


バゾッシュ(仏:Basoche

 パリの「パレ・ド・ジュスティス」(「司法宮」)を本拠地とした演劇集団。その起源は中世にまで遡り、法曹関係者(弁護士、判事、廷吏、法学生等)により構成された。名称は、ラテン語の「バシリカ(聖堂)」に由来し、座長は「バゾッシュ王」(”Roi de la Basoche”)と呼ばれた。バゾッシュは13世紀後半にフランス王フィリップ3世から宗教劇上演の勅許を得、アレゴリーを用いた道徳劇を上演したが、後にはソチ笑劇といったコミカルな劇も演じるようになった。ルイ12世(14621515)時代には、国王の庇護のもとに全盛期を迎え、同じくソチ上演で鳴らした「アンファン・サン・スーシ」、及び受難劇を得意演目とした「コンフレリ・ド・ラ・パッシオン」と民衆の人気を争った。しかしその後、彼らの演劇には国家に対する辛辣な風刺も含まれていたため、上記2劇団同様度々上演が禁止されるようになり、ついに1540年、フランソワ1世により上演勅許そのものが取り消されるに至った。その後も団体は残存するが、革命時代の1791年、政府通達により解散した。
 現在「バゾッシュ」とは、フランス語で「法曹団」そのものを意味する。

 


パタフィジック (仏:'Pataphysique)

 アルフレッド・ジャリが『フォーストロール博士言行録』(1911)の中で定義した哲学。「形而上学に-それ自身の内面にも外面にも-追加され、形而上学が物理学を超越した分野に広がるが如く、形而上学を超越して広がる学問」とされる。つまりは現代科学に対する痛烈なナンセンス・パロディーである(名称にアポストロフィーがつく点も、ひとつの「遊び」と解し得る)。しかし、ジャリの死後になってパタフィジックに対する関心は高まり、1948年には「コレージュ・ド・パタフィジック」なる結社がパリに結成され、レーモン・クノー、ボリス・ヴィアン、ウジェーヌ・イヨネスコ、マルセル・デュシャン、マックス・エルンストらが参加する。クノーは、60年にはフランソワ・ル・リヨネと共に前衛文学集団「ウリポを結成するが、参加した者の多くはコレージュ・ド・パタフィジックのメンバーだった。パタフィジックは60年代には全ヨーロッパや南米にも伝播し、美術や音楽を含めて芸術の広範な分野に影響を及ぼした。蓋しパタフィジックというパロディー学問を奉じたコレージュ・ド・パタフィジックは、現代の我が国における「と学会」や「路上観察学会」といったパロディー学会の走りともいえよう。ただ、パタフィジックはウリポの理論的支柱(しかし明確な理論は不明)でもあり、「反小説」、「反文学」を標榜したその最高の結実は、クノー『地下鉄のザジ』(1959)に認めることができる。
 

発展小説(独:Entwicklungsroman)<教養小説


パトス(希:πάθος / 英:Pathos

 英語名ペーソス。論理学では、演説において聴衆を説得する3手段のうちの、聴衆の感情に訴える手段を指すが(他はエトス[演説者の徳を強調して訴える]とロゴス[論理で訴える])、文学においてはアリストテレス『詩学(前335に挙げられた悲劇の3大要素のひとつである「苦難」を指す。他のふたつであるペリペティア(逆転)とアナグノリシス(認知)が到来した後、主人公が身を滅ぼしたり、苦しんだりする行為のことで、代表的なパトスの使用例に、実父の王を殺し実母を犯したことを知る(ペリペティアとアナグノリシスの到来)主人公が、自らの目をつぶし乞食となる(パトス)『オイディプス王』(前427頃)がある。

ハマルティア(希:ἁμαρτία / 英:Hamartia)

 古代ギリシア文学用語では、主人公の状況に対する誤解や誤った態度を指し、アリストテレス『詩学(前335によれば、悲劇の筋を深刻化させる原因となる。ハマルティアの原意は「的をはずす」という意味であり、道徳的な過ちではないが、無知や思慮不足、あるいは慢心(ヒュブリスによる過失である以上、行為者の責任であることに変わりはない。典型的なハマルティアの使用例としては、それとは知らず実父である先王を殺害し、実母を犯した主人公を描く『オイディプス王』(前427頃)が挙げられる。
 

ハムレット型(英:Hamlet type

 シェイクスピアの悲劇『ハムレット』(1601)の主人公の如く、何かにつけ思索を巡らし悩み続け、慎重な余りに思い切った行動を取ることができない性格を指す。優柔不断型。対立するタイプに猪突猛進のドン・キホーテ型があり、ツルゲーネフが1860年に行った講演『ハムレットとドン・キホーテ』の中で、人間の代表的な2タイプとして提唱した。
 

バラード(仏:Ballade

 南フランスの舞踊歌から派生し、13世紀から14世紀にかけてフランスで整備された詩形。10音節10行詩(または8音節8行詩)が3節続いた後、5行(または4行)のリフレインが伴う。バラードはシャルチエ(Chartier)やクレマン・マロ(Marot)といった詩人が秀作を生み出したが、中でもフランソワ・ヴィヨン(Villon)の数々の作品は(『運命のバラード』[1461]、『絞首罪人のバラード』[1463]、『遺言詩集』[1461/62]に収められた『古の貴女を讃えるバラード』など)、バラードの最高傑作とされる。16世紀以降はすたれたが、19世紀末から20世紀に入ると、アポリネール(Apollinaire)やラフォルグ(Laforgue)やフォール(Fort)など、風刺や実験文学的要素も加味しながら、その伝統は現代においても途絶えてはいない。現在「バラード」というと、大半が「バラッド」の意味で使用されている。

バラッド(英:Ballad

 「物語詩」と訳され、韻文で物語を歌う詩を指す。詩形を指すわけではなく、「バラード」と混同してはならない。詠唱されることが前提であり、丁度我が国の『平家物語』(14世紀初頭)も典型的なバラッドと呼ぶことができよう。テーマは民間伝承や歴史的物語が好まれる。その起源は15世紀にまで遡り、スペインで流行したロマンセもこのジャンルに属するが、非識字率の高かったスコットランドで特に発達した(この地方の中世バラッドは「辺境バラッド」とも呼ばれる)。イギリス中世バラッドの代表的な作品は、「エドワード」、「チェヴィ・チェイス」、「三羽のカラス」(ヴァリエーションとして「二羽のカラス」も有名)、「スカボロー・フェア」、「ランダル卿」などであるが、ほとんどの作品が作者未詳である。その後バラッドは識字率の向上に伴い、印刷された「ブロードサイド・バラッド」の形式をとるようになり、民衆本である「チャップブック」などを媒介して民間に浸透したが、そのため本来の旋律的な節回しは失われた。ロマン主義時代に民話や説話が評価されると、バラッドは本格的な文学にも採り上げられるようになり、いわゆる「文学バラッド」が登場する。
 そうした文学バラッドの先駆けが、前ロマン派詩人トマス・パーシーの『古英詩拾遺集』(
1765)であるが、このバラッド集はワーズワス、コールリッジ、スコットらの関心を引き、後にロマン主義時代の幕開けを告げるワーズワスとコールリッジの『叙情歌謡集』(1798)、或いはスコットの『スコットランド辺境吟唱歌集』(1802)へとつながる。他にもゲーテの『魔王』(1782)や『魔法使いの弟子』(1797)などが名高いが、詠唱から発生したバラッドは、音楽にも盛んに取り入れられ、上記の2作品もシューベルトとデュカスによって楽曲化されている。特に詠唱的な旋律を持つピアノ曲が(誤称であるが)「バラード」と呼ばれ、ショパンやブラームスによる作品が存在する。また、「ゲッティンゲンの森の詩社」に属するヘルティとその友ビュルガーは伝承によらないバラッド「芸術バラッド」(„Kunstballade“)を創作し、以降に引き継がれた。因みに、ジョン・ゲイの『乞食オペラ』(1728)や、その現代版として書かれたブレヒトの『三文オペラ』(1928)などは、従来の崇高な世界を描くオペラの滑稽な風刺として、卑近な題材を民謡を交えた旋律で歌うオペラであり、「バラッド・オペラ」と呼ばれている。
 

パラフレーズ(英:Paraphrase

 ある文章や語句を別の表現で言い換えること。その際、もともとの意味を損なわぬことが肝要であり、このようにして様々なパラフレーズが文学では可能である。例えば散文を韻文に直したり、その逆であったり、古文を現代文に直したり、更に最も自由なパラフレーズとして、作品の意図のみを汲み取って別の設定で新しい作品を書く場合が挙げられる(翻案)。ただ、梗概など、作品を短くまとめる作業はパラフレーズとはいわない。
 

薔薇物語(仏:Roman de la Rose

 2200行余りの韻文からなる恋愛物語。フランス中世文学中最高の作品のひとつ。前編とその4倍以上の行数からなる後編に分かれ、後編はジャン・ド・マンが1280年頃、前編はマン曰くギョーム・ド・ロリスなる人物が1230年頃に執筆したというが、彼についての詳細は全く不明である。物語の全編は夢の世界であり、主人公である「私」が薔薇に恋し、様々な困難を経てこの恋を成就させる物語を描く。「私」以外の登場人物は皆、「愛」や「羨望」や「若さ」や「理性」といったアレゴリーであり、「薔薇」そのものも「女性」を象徴している。「一人称小説」、「アレゴリー」そして「夢の描写」という手法は、従来から存在したが、これらを同時に使用した作品は本作が最初である。貴族だったロリスによる前編は貴族階級向けで、理想の愛を当時の騎士道における「ミンネ」(気高い貴婦人へ捧げる騎士たちの無私の恋慕)と同等視しているが、後編を著したマンは市民階級出身であり、物語も市民向けに書かれたため、愛を絶対視する宮廷文学的態度からは距離を置き、理性的、批判的に愛情や女性という存在を捉えている。本作は夢の描写やアレゴリーの使用など、以降のフランス文学に多大な影響を与え、チョーサーにより翻訳された英語版(15世紀末)により、イギリス文学にも少なからぬ影響を与えた。
 本作に関してはまた、1399年、『愛神への書簡詩』の中で女流小説家クリスティーネ・ド・ピザン(フランス最初の職業女流作家とされる)がマンによる後編の女性蔑視と反公序良俗性を批判し、そこからフランス初の文学論争といわれる「薔薇物語論争」が生じたことで有名である。ピザンにはパリ大学総長で神学者のジャン・ジェルソンが加勢し、それに対してジャン・ド・モントルーユやコル兄弟(ゴンチェ、ピエール)など、文人官僚であった王室秘書官たちがマン擁護に回った。この論争は、テクスト外から豊富な例証を示したピザン側の勝利という形になるが(擁護派は高級官僚であったため、論争を十分行うだけの時間的余裕もなかった)、現在では、最初期のフェミニズム論争として注目に値し、また養護派が取ったテクスト原典重視の批評態度も、後の文芸批評を大きく先取りするものである。この論争は、視点を様々に変え、今日も尚継続されている。
 13世紀初めに物語作者ジャン・ルナールも『ばら物語』と題する5635行の物語を著したが、本作と区別するために、約200年後に文献学者クロード・フォーシェにより、主人公の名を取った『ギヨーム・ド・ドール』という別名が付けられた。
 因みに、ウンベルト・エーコの処女小説『薔薇の名前』(1980)の題名は、百科全書的に用いられた本作からとったものである。


パラレリズム(英:Parallelism / 仏:Parallélisme / 独:Parallelismus

 文や句の先頭或いは最中において、同じ句や語を繰り返すことにより、また、複数の文や句を同じ構造にすることにより、印象を強めようとする修辞技法。韻文、散文、詩歌、戯曲、小説、演説等を問わず、古来より極めて多種多様に用いられてきた技法であるが、その原型はヘブライ語旧約聖書(特に詩編)に認められる。

 In a democracy we are all equal before the law. (民主主義では、我々は皆法の前に平等であり)

   In a dictatorship we are all equal before the police.  (独裁制では、我々は皆警察の前に平等である)

この例のように、同じ数の音節や単語を並べるパラレリズムを、アイソコロン(Isocolon: 同数節)と呼び、2語、3語、4語からなるアイソコロンを、特に「バイコロン」、「トリコロン」、「テトラコロン」と呼ぶ。代表的なトリコロンに、カエサルの有名な言葉 “Veni, vidi, vici”(来た、見た、勝った) がある。

 ヘブライ語聖書では、2文からなるパラレリズムにより、ひとつの概念が表現されること(”parallelismus membrorum”)が多かったため、後世の翻訳作業の際には、文中の誤字や破損部分が、パラレリズムを構成するもう一方の文章から類推し得る場合が多々あった。
 
パラレリズムはまた、「同義的パラレリズム」(
”Synonymous parallelism”:前文で使用された語と別の同義の語を用いて一つの概念を表現する)、「反意的パラレリズム」(Antithetic parallelism”:前文で使用された語と対義的な語を用いて、結果的に一つの概念を表現する)、「総合的パラレリズム」(”Synthetic parallelism:前文とは別の言い回しで一つの概念を表現する)、「両極的パラレリズム」(”Polar parallelism”:前後の文で両極端の語を使うことによって、全体を表現する)、そして「交差的パラレリズム」(”Chiastic parallelism”4行以上の文で構成され、AB / B’A’という具合に対応関係が反転[交差]する。)に分類できる。

同義的パラレリズムの例:「主が仰せになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ。(詩編、339

反意的パラレリズムの例:「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。」(詩編、3422

総合的パラレリズムの例:「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)渡すことなくあなたの慈しみ生きる者墓穴見させず詩編1610(前文での私[ダビデ]のみならず、後文では聖徒たちにも復活が到来することを暗示する。尚、「わたし」と「慈しみ生きる者」を同一人物に捉えた場合は、同義的パラレリズムと見なし得る。)

両極的パラレリズムの例:「わたしの神よ、昼は呼び求めても答えてくださらない。/夜も黙ることをお許しにならない。」(詩編、223(昼と夜に言及することで、「常に」という状態を表現する。)

交差的パラレリズムの例:「私の魂は主を待ち望みます。(A)/ 見張りが朝を待つにもまして(B)/ 見張りが朝を待つにもまして。(B’)/ イスラエルよ、主を待ち望め。(A’)」(詩編、13067

パラレリズムは、諺でも昔から多用されてきた。

例:So many men, so many minds.(十人十色)

  Out of sight, out of mind.(去る者日々に疎し。)

 

パルス・プロ・トト(羅:pars pro toto

 比喩の一種である提喩において、部分(下位)概念が全体(上位)概念をたとえる手法。例は以下の通り:
「ひとつ屋根の下で」=「屋根」がその全体である「家(家庭)」を比喩。
「彼は球界を代表する左腕である。」=「左腕」が「左腕投手」を比喩。
「牛3頭」=「頭」は牛の「体全体」を比喩。
「お茶でも飲もうか?」=「お茶」とは「ソフトドリンク全般」のたとえ。
「ジョン・ブル」=「ジョン・ブル」はイギリスのアレゴリーで「イギリス人全体を比喩」。
この逆の例として、全体(上位)概念が部分(下位)概念をたとえる手法をトートゥム・プロ・パルテと呼ぶ。


パルナス派(仏:Parnasse

 ロマン主義の反動として、芸術のための芸術を標榜し、19世紀後半に結成されたフランスの詩人集団。「高踏派」と訳され、彼らの文学を「パルナシアニスム」あるいは「高踏主義」と呼ぶ。この名称は、出版業者アルフォンス・ルメールが1866年に出した彼らのアンソロジーを、ギリシア神話におけるミューズの集う山パルナッソス山に因み『現代パルナス派詩集』と題したことに由来する。パルナス派はグループで明確なマニフェストを発表することはなかったが、ロマン主義の感傷性を否定し、完璧な詩形式と正確な絵画性を備えた前衛詩を模索した。その文学理論を最も端的に著したのはヴェルレールの評論『呪われた詩人たち』(1884)であるとされる。ルコント・ド・リールを中心とした集団は、他の著名詩人としてテオフィル・ゴーチェ、シュリ・プリュドム、フランソワ・コペ、ジョゼ=マリヤ・ド・エレディヤなどが挙げられるが、後半には集団から身を離すが、ヴェルレーヌとマラルメもパルナス派の代表的詩人に加えるべきであろう。1880年代後半に象徴主義が顕在化するに従い勢力を失った。
 

パルプ・マガジン(英:Pulp magazine

 1920年代から50年代にかけてのアメリカで発行された通俗的な小説を主体とする大衆雑誌。紙質も粗悪なためこう命名されたが、ザ・パルプスとも、パルプ・フィクションとも呼ばれる。サイズは概ねB5版程度、100ページ強という分量だった。その嚆矢はフランク・ムンゼイが1894年から既存の雑誌を刷新して発行開始した月刊誌「アーゴシー」であるとされる。代表誌としては、「ブラック・マスク」(ハメットやチャンドラーがハードボイルド小説を発表して絶大な人気を誇った)、「ウィアード・テールス」(怪奇・ファンタジーSF小説と専門とし、特に「ヒロイック・ファンタジー」の草分けともいえるロバート・E・ハワードの『コナン・シリーズ』はこの雑誌に掲載された[1932])、「アメージング・ストーリーズ」(世界最初のSF誌[1926])などが有名である。パルプ・マガジンには後に高名となる作家達も多数寄稿していたが、現在はスキャンダラスで扇情的な小説を掲載する大衆娯楽誌という評価が下されている。囚われの身となった半裸の美女がヒーローの救出を待つ場を描いたカバーイラストは、これらの雑誌の代表的視覚的イメージとなった。
 

バロック(仏:Baroque / 伊:Barocco / 独:Barock

 ルネサンス啓蒙主義の間を埋める形で、17世紀初頭から18世紀前半にかけて流行した芸術様式。ポルトガル語の “Barroco”(「歪んだ真珠」)から名付けられたといわれ、古代風の均整のとれた様式から離れ、混沌や逸脱を特徴とし、過度な装飾や動的な構成を多用した。この様式は長らく否定的に評価されてきたが、19世紀半ばに美術史家ブルクハルトにより再評価され現代に至っている。バロック様式が語られるのは、主に造形美術、あるいは音楽の分野に対してであるが、文学においては、確立した絶対主義と新興の市民階級の相克により緊張を孕んだ世界観を表現するべく、修辞や比喩に技巧を凝らし、過度な装飾を施した変則的な作品について、一般的にこの様式が当てはめられる(「マニエリスム」という呼称を使用する場合もある)。
 最も早い例としてセルバンテスを挙げる場合もあるが、彼がバロックに属するか、はたまたルネサンスに属するかは流動的である。少なくともスペインにおける代表的バロック作家としてはカルデロン・デ・ラ・バルカ(『人生は夢』
[1636])を挙げるべきであろう。また、イタリアの詩人マリーノ(『アドーネ』[1623])はその奇想天外で華麗な装飾に溢れた修辞で「マリニズモ」と呼ばれる文学流派を形成し、他国にも少なからぬ影響を及ぼした。フランスやイギリスには明確なバロック文学は現れなかったが(フランスにおけるプレシオジテ文学や、イギリスの舞台芸術にはバロックの影響が見受けられる)、ドイツにおいてバロックは更に発達を遂げ、「シュヴルスト」(”Schwulst”:「大げさな」という意味)という形容を伴う、誇張した文体と数奇で陰鬱な設定を施された非常に特徴的な作品が、ローエンシュタイン(『アルミニウス』[1689/90])やホフマン・フォン・ホフマンスヴァルダウ(『墓碑銘』[1663])らによってもたらされた。グリューフィウス(『ホリビリクリブリファクス』:喜劇[1663])や、グリンメルスハウゼン(『ジンプリチシムス・トイチュの冒険[阿呆物語] [1668])もドイツ・バロック文学を完成した作家として重要である。 
 

パングラム(英:Pangram / 仏:Pangramme / 独:Pangramm

「全ての文字」という意のギリシア語より由来する言語的遊戯で、各国語の字母全てを使用し文章を作る技法。同じ文字を複数回使用することも許されるが、出来るだけ少ない文字数で整然とした意味を持つ文章がより高く評価される。英語における究極のパングラムは、従って26文字からなる文章で、これを「完全パングラム」と呼ぶ。以下に有名なパングラムを挙げる。
(英語)The quick brown fox jumps over the lazy dog.
   (すばしっこい茶色のはのろまなを飛び越える。)
(フランス語)Portez ce vieux whisky au juge blond qui fume. 
      (この古いウィスキーをタバコを吸っている金髪の判事に持って行きなさい。)
(ドイツ語)Franz jagt im komplett verwahrlosten Taxi quer durch Bayern.
 (フランツはまるで手入れのされていないタクシーに乗り、バイエルン中を走り回る。)
(ロシア語)Съешь ещё этих мягких французских булок, да выпей чаю.
   (この軟らかいフランスパンからまだいくつか食べて、お茶を飲みなさい。)
我が国の「いろは歌」はこの点で、完成度の極めて高い完全パングラムといえよう。パングラムの対極にある言語的遊戯技法が、特定の文字を使用せずに作文するリポグラムである。
 

犯罪小説  ミステリ

 

パントミーモス(希:παντόμίμος / 羅:Pantomimus

 身振りや顔真似で様々な事柄や感情や思考を表現する舞台芸。その大元は、紀元前4世紀のギリシア・ローマ時代に求めることができ、元来は一人の男性演者が様々な仮面をかぶり、歌唱や朗読に合わせて無言で演じる劇であった。だが古代ローマが皇帝時代(前27284)に入ると、ミーモスと並ぶ舞台芸として、ピュラデス(Pylades)が悲劇的な作品、バテュッルス(Bathyllus)がコミカルな作品を演じ、パントミーモスは芸術の域にまで到達した。ところが女優も起用され、時にエロティックな演出もなされたパントミーモスに対するキリスト教徒の批判は激しく、526年にはついに上演禁止処分となった。パントミームスはそれまで全ローマに広がっており、その人気はミーモスと共に通常の悲劇を優に凌ぐものであったため、古典悲劇の衰退をもたらす一因となったと考えられている。中世ではジョングルールたちがパントミーモスを引き継ぎ、神秘劇などにも応用されたが、とりわけ16世紀イタリアに成立し、全ヨーロッパに広がったコンメディア・デッラルテはパントミーモス的要素を多分に有した即興劇である。以降、18世紀から19世紀にかけてノヴェール(フランス)(Noverre)やエマ・ハミルトン(イギリス)やヘンデル=シュッツ(ドイツ)(Hendel-Schütz)らがパントミームスを応用した近代舞踊を創出し、現代では、バレエやレヴューやサーカスの道化など、「パントマイム」として大衆の人気を博している。
 

ビアンセアンス(仏:Bienséance

 戯曲創作上の規範のひとつ。フランス宮廷で創案され、全ヨーロッパ宮廷の規範となった宮廷人の礼儀作法を「エチケット」と称するが、文学においても特にフランス古典主義文学が重視した「礼節」を「ビアンセアンス」という。即ち、劇場とは紳士・淑女の集う気品ある場所なのであるから、登場人物は身分に応じた話し方、振舞い方をしなければならず、作品自体も品位ある節度を保たなければならないという創作上の不文律である。1630年以降のフランス文学においてビアンセアンスは文芸批評の重要な基準となり、それまでは比較的自由に描写されていた(武器による暴力的な)殺人や性的描写といった場面も「公序良俗に反する」と見なされ、舞台で直接演じられることは殆どなくなった。ビアンセアンスと、「ブレサンブランス真実らしく見える物語の展開)」及び「身分規範」と「三一致の法則」がフランス古典主義の主たる文学的規範となり、それは19世紀前半まで影響を及ぼした。
 

ビーダーマイヤー(独:Biedermeier

 ナポレオン体制終結から3月革命にかけて(1815-48)厳しい反動政治が支配したオーストリアとドイツで生まれた芸術・生活風潮。これほどの反動政治体制が敷かれなかった他国では見られない独特の風潮である。政治・社会からは逃避し、小市民的な幸福を生活の中に見出そうとした。ロマン主義にも一種逃避的な傾向は否定できないが、ビーダーマイヤーは空想や過去の世界には眼を向けず、簡素で目立たぬ安定した世界を希求し、ロマン主義が有した風刺性も持たず、ひたすら足元の現実を見つめた。一方、同時期には、逆に政治・社会性を強く打ち出した「3月革命前期」の文学運動も登場した。「ビーダーマイヤー」の名は、作家アイヒロットと医師クスマウル(彼は著名な医学者で、世界で初めて金属管を用い胃内部を観察した)が当時の流行詩人ザウターを揶揄して1855年に発表した通俗的な詩集の架空作者名に由来する。彼らが紹介した作者「ビーダーマイヤー氏」は村の小学校教師で(ザウターも実際に小学校教師だった)、自分の小さな家と小さな庭、そして小学校教師という平凡な生活をこの世の幸せと感じているという。すなわちこの名称は当時の芸術風潮の価値を否定してつけられたものだったが、20世紀に入り市民階級が社会の主役となると、ビーダーマイヤー時代の芸術が評価されるようになる。確かにビーダーマイヤーは特権階級ではない一般市民階級を対象とした初めての芸術運動であり、そのためそれまでは余り重視されなかった小道具である家具や工芸といった分野に大きな影響を及ぼした。また、育児や家庭の重視など、生活全般に関係した運動である。
 文学におけるビーダーマイヤーは運動として明確には区別しにくく、この時代にビーダーマイヤー的要素(自然への憧憬、家庭内の愛情、非政治・社会性)を含む作品を多く書いた作家として、ネストロイ(『悪霊ルンバツィヴァガブンドゥス あるいは放蕩三人組』[1833])、ゴットヘルフ(『黒い蜘蛛』[1842])、リュッケルト(『歌日記』[1846-54])、グリルパルツァー(『哀れな辻音楽師』[1848])、メーリケ(『旅の日のモーツァルト』[1855])、シュティフター(『晩夏』[1857])などが挙げられよう。だが彼らの作品は逃避として小市民世界を描いたわけではなく、外界とは一線を画する人間の内面と克明に描写し、時には風刺性を有した点で既にビーダーマイヤーを克服していたといえる。ビーダーマイヤー的と評される作家の多くはロマン主義以前の作家と異なり上流階級出身者が少なく、また地方都市に住み静かな執筆活動を行った。ビーダーマイヤーはシュティフターをもって終結したとされ、その後のシュトルムやフォンターネなど「市民的リアリズム」(別名「詩的リアリズム」)へ受け継がれた(シュティフターを市民的リアリズム作家に数える意見もある)。




ビート・ゼネレーション(英:Beat Generation

 1940年代後半から60年代中盤にかけて若者たちの間に流行した文学運動。他の文学運動と異なり、生活様式や世界観・人生観の刷新志向が伴った。この運動の実践者は「ビートニク(Beatnik)或いは「ビート・ライター(Beat Writer)と称され、物質的・経済的に裏打ちされた伝統西洋文化を否定し、その反動として瞑想的な東洋文化に多大な興味を示し、LGBTを含む性の解放やドラッグの享楽を礼賛し、根本的な人間存在の本質を探求しようとした。その実態は、先鋭的・前衛的なボヘミアンとも換言し得る。ただ、彼らの文学は、イギリス・ロマン主義(シェリー[Shelley]、ブレイク[Blake]、キーツ[Keats]、ワーズワス[Wordsworth])、フランス・シュールレアリズム(アルトー[Artaud]、ブルトン[Breton]、ボードレール[Baudelaire])並びに実存主義(カミュ[Camus]、サルトル[Sartre])、アメリカ・モダニズム文学(スタイン[Stein]、ヘミングウェイ[Hemingway])、更にはホイットマン(Whitman)やポー(Poe)など古典的なアメリカ作家の文学をも下地としている。代表的な作家として、ジャック・ケルアック(Kerouac)や、アレン・ギンズバーグ(Ginsberg)や、ウィリアム・S・バロウズ(Burroughs)らが挙げられ、特にケルアックの自伝的小説『オン・ザ・ロード』(1957)は、ビートニクたちのバイブル的存在となった。また、ギンズバーグ、バロウズそれぞれの代表作『吠える、その他』(詩集:1956)『裸のランチ』(小説:1959)は、そのエロチックな描写故に訴追されたが、無罪を勝ち取ったことで、アメリカ出版界の自由度の向上に貢献した。ビート・ゼネレーションは、第二次世界大戦後初の「文明批評的サブカルチャー」として多くの亜流を生み、ヒッピーやイッピー(青年国際党)運動に多大な影響を与えた。音楽界でもビートルズやボブ・ディランは明らかにビートニクの影響を受けており、サイバーパンクポエトリー・スラムもその影響下にあった。
 彼らは1950年代半ばまでニューヨークに集ったが、その後ケルアックとギンズバーグがサンフランシスコに移り住み、当地で以前より同傾向の文芸改革を試みていたケネス・レックスロス(Rexroth)と共に文学改革運動を継続した。1955年に当地で行われたビート・ゼネレーションによる記念碑的詩の朗読会「シックス・ギャラリー朗読会」(ここでギンズバーグの『吠える』が初披露された)を契機として、サンフランシスコに拠点を移したこの運動は「サンフランシスコ・ルネサンス」と称され、レックスロスは「ビート・ゼネレーション育ての親」と呼ばれる。

 

ピカレスク小説(西:Novella picaresca / 英:Picaresque novel

 

「悪漢小説」とも呼ばれる。「ピカロ(悪漢)」である主人公の自伝を中心とした小説。主人公は悪漢とはいうものの、殺人を犯すような極悪非道の悪人ではなく、悪知恵に長けユーモアの精神も併せ持ったアウトローという設定が好まれる。その源流は帝政ローマ時代の作家ペトロニウス(Petronius)の『サテュリコン』(1世紀頃)や、同じくアプレイウス(Apuleius)の『変身物語』(通称『黄金の驢馬』:170年頃)にまで遡るが、16世紀スペインにおいて飛躍的に発展した。14世紀から16世紀にかけてスペインで流行した騎士道物語は至高の高潔性を追い求める高貴な人間を描いた一種の理想小説であるが、庶民の道徳的、宗教的退廃を描いたピカレスク小説は、そのアンチテーゼともいえよう。最初のピカレスク小説は、作者不詳の『ラサリーリョ・デ・トルメスとその幸運と逆境の生涯』(1554)である。この小説は、下層社会出身の主人公が様々な苦難を切り抜け人生の幸福を掴む一代記であり、教養小説一人称小説といったピカレスク小説本来の特徴を既に備えている。だが、主人公をはっきり「ピカロ」と呼んだのは、その半世紀後に現れ空前の人気を呼んだマテオ・アレマン(Mateo Alemán)の『ピカロ:グスマン・デ・アルファラーチェの生涯』(1599)であり、以降ピカレスク小説というジャンルが確立し、ロペス・デ=ウペダ(Lopez De Ubeda)『悪女フスティナ』(1605)やビセンテ・エスピネル(Vicente Espinel)『従士マルコス・デ・オブレゴン』(1618)、或いはフランシスコ・ゴメス・デ・ケベード(Francisco Gómez de Quevedo)『ペテン師ドン・パブロスの生涯』(1626)などが生まれた。『ドン・キホーテ』(1605-1615)にもピカレスク小説的要素は含まれている。その後、スペインにおいてピカレスク小説は一世を風靡するが、17世紀後半にはほぼ衰退する。その原因に関しては、16世紀より始まったカトリック教会内での改革運動である「対抗宗教改革」をピカレスク小説の原動力とみる説が有力である。すなわち、ピカレスク小説は悪漢を主人公としながらも、それらを反面教師として最終的にはカトリック的教訓を伝えることを目的としていたという見方である。だが、『変身物語』や『ラサリーリョ』や『グスマン・デ・アルファラーチェ』などには明確に社会風刺の一面も垣間見える。ピカレスク小説は他国にも影響を与え、イギリスではトマス・ナッシュ(Thomas Nashe)『不運な旅人』(1594)やデフォー(Defoe)『モル・フランダーズ』(1722)、フィールディング(Fielding)『トム・ジョーンズ』(1749)、フランスではシャルル・ソレル(Charles Sorel)『フランシヨン滑稽物語』(1622-33)やルサージュ(Lesage)『ジル・ブラース物語』(171535)、ドイツではグリンメルスハウゼン(Grimmelshausen)『ジンプリチシムス・トイチュの冒険(阿呆物語)1668)などが有名である。その後、ピカレスク小説は「うそ物語」や「旅行記」などともクロスオーバーし、現代に至るまで文学に大きな影響を与えている。(マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』[1884]、トーマス・マン『詐欺師フェーリス・クルルの告白』[1954]、グラス『ブリキの太鼓』[1959]など)「ハードボイルド」に代表されるミステリにおいてもピカレスク小説の影響は見逃せない。

 


悲喜劇(英:Tragicomedy / 仏:Tragicomédie / 独:Tragikomödie

 悲劇と喜劇の要素を併せ持つ戯曲作品。創案は古く、前4世紀から3世紀にかけて南イタリアで上演されていた「笑う悲劇」の流れを受け、ローマ詩人プラウトゥス〈Plautusが神話のパロディーとして書いた『アンフィトルオ』(2世紀初頭)の「口上」中で初めて言及された。ただ、ここでは「王や神々の登場する『滑稽な芝居』を『喜劇』と呼ぶのは憚られる」(王や神々は古来「身分規範」により「悲劇」の登場人物と決まっていた)ため「悲喜劇」と称したに過ぎない。即ち、『アンフィトルオ』は内容からいえば純然たる喜劇である。対して、中世ヨーロッパ文学においては、悲喜劇は所々喜劇的場面を持つ悲劇という捉えられ方をされていた。ただ結末は悲劇特有の破滅を避け、ハッピーエンドとなることが求められた。この規範はイタリア詩人バッティスタ・グァリーニ〈Battista Guarini1590年に発表し人気を博した『忠実なる牧人』と、その創作手法をまとめた『悲喜劇詩概論』(1601)でヨーロッパにほぼ定着したとされる。またこの点は古代ギリシア劇も同様で、エウリピデスが度々用いたデウス・エクス・マキナ」などは正に悲喜劇用の結末である。
 悲喜劇はイギリスにおいて、
16世紀後半から17世紀前半にかけてジョン・フレッチャー〈John Fletcherの『貞節な女羊飼い』〈The Faithful Shepherdess(1609) や、シェイクスビア晩年の後期ロマンス劇などで広がりを見せ、グァリーニの影響のもとに牧歌的・ロマン主義的な雰囲気を加味し、後のメロドラマの雛形となっていった。しかし本格的な興隆を見せたのは1630年代以降のフランスである。アレクサンドル・アルディ〈Alexandre Hardy〉やジャン・ド・ロトルー〈Jean de Rotrou〉等の作品に続いて37年にコルネイユが『ル・シッド』を発表。ル・シッド論争」を巻き起こし、古典主義の台頭と共に悲喜劇という文学ジャンルの存在を大衆に強く印象付けた。ここでの悲喜劇は、貴人たちの世界を三一致の法則を守りながらベースを悲劇とする古典主義的なものだが、ロマン主義時代になると、古典主義的規範である「身分規範」による悲劇と喜劇の境界が曖昧となり、その嚆矢とされ「→エルナニ戦争」を引き起こしたユゴー『エルナニ』〈1830〉は、喜劇と悲劇が混在した戯曲である。同様にロマン主義の代表的作家であるクライストやビュヒナーの悲劇作品にも喜劇的場面が散見される。更に近代になると、ハウプトマン『鼠』(1911)のごとく、二つの大きな筋を扱い、一方はハッピーエンド、他方は悲劇的結末を迎えながら副題に「ベルリン悲喜劇」と掲げる極めて自由な作品が現れる。レッシングが「真面目さが笑いを呼び、痛みが喜びを呼ぶ」と形容した悲喜劇の特徴は、現代にあっては悲劇・喜劇の別なく劇そのものが有する本質となっているが、その真髄といえば、チェーホフ〈Anton Tchekhovの戯曲群に認めることができよう。即ち、現代の演劇は、筋を持つ限りにおいて、これすべて悲喜劇であるという解釈も成り立つのである。
 


非線形の語り口(英:Nonlinear narrative

 物語を語るにあたり、時系列を破りながら語る手法。物語を最初からではなく、途中から語り始める「イン・メディアス・レス」は、古代ギリシアの叙事詩において慣例となっていたが、その他にも、物語の途中で回想シーンを挟む「フラッシュバック」、逆に未来を先取りして描く「フラッシュフォワード」、小説中に別の物語を挟む「紋中紋」、劇の場合は「劇中劇」などといった手法が挙げられる。作品としては、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセィア』(紀元前8世紀中盤) に始まり、『マハーバーラタ』や『千夜一夜物語』などアジアの古典でも使用され、スターン『トリストラム・シャンディ』(175967ブロンテ『嵐が丘』(1847)、ジョイス『ユリシーズ』や(1922)『フィネガンズ・ウェイク』などで今世紀に至るまで様々な作家により効果的に使用されている。とりわけ、映画やテレビドラマなど映像作品では多用され、その黎明期であるサイレント映画D.W.グリフィス『イントレランス』(1916) においても使用されている。中でも最も効果的にこの手法を用いた作品のひとつにO.ウェルズ『市民ケーン』(1941) が挙げられる。また、ミステリにおいては、最後の謎解き場面を描くにあたり、この手法は絶対不可欠なものとなっている。

 

比喩(英・仏:Trope / 独:Tropus

 物事を、本来それを表す語句を用いる代わりに別の語句を用いて表現する修辞技法。つまり、「ことばのあや」や、「もののたとえ」であり、学術的には「転義法」と呼ばれる。比喩は大きく分類して「直喩」、「陰喩」、「換喩」、「提喩」、「アレゴリー」などに分けられるが、その境界はしばしば曖昧となる。
 


ヒュブリス(希:ὕβρις / 英:Hubris

 古代ギリシア悲劇でしばしば描かれた登場人物たちの自信過剰による慢心。それにより彼らは道徳的な境界を逸脱し、神(「ネメシス」)の戒めを忘れ、その結果天罰に近い災厄に陥る。ヒュブリスは文学用語以外にも「不遜」、「傲慢」、「思い上がり」の意味で普通名詞化しており、この形容は『オデュッセイア』(8世紀頃)でオデッセウスの妻に言い寄る求婚者たちなどに当てはまる。
 

ピュリキオス(希:πυρρίχιος  / 羅:Pyrrhichius / 英:Pyrrhic

 英語名ピュリック。アクセントのない短音節(抑格)がふたつ連なり("υ υ")韻脚を形成する詩の詩脚。「短短格」とも訳され、スポンディオスの丁度逆の形である。古代ギリシア文学発祥の詩脚のひとつで、詩脚中最も短い。しかし独立して用いられることはなく、スポンディオスなど他の詩脚と併用されるのが常である。近代詩においてもアルフレッド・テニスン(『イン・メモリアル』[1849])などが使用している。
 

表現主義(独:Expressionismus

 20世紀初頭に、主にドイツで発達した芸術様式。印象主義Impressionismus)と単語的には正反対の意味かとも思われるが、対立した概念と捉えるべきではなく、印象主義は作者が感じる事象の瞬間的印象を描き、表現主義は現前する事象を捻じ曲げてでも作者個人の内面を表現しようとした様式であるといえる。表現主義は印象主義にやや遅れて現れ、象徴主義未来派ダダイズムと並んでモダニズム文学の根幹を形成した。その主領域は造形美術であり、ヘッケルやキルヒナーの主導でドレスデンに設立された美術集団「ブリュッケ」や、カンディンスキーやマルクに率いられミュンヘンで活躍した「青騎士」などが有名だが、文学においては明確な姿を現すものではない。しかし扱う題材が造形美術と共通しており、例えば不安、憤怒、堕落、終末、狂気、陶酔、戦争、死、大都市などが頻繁に取り扱われ、従来の文学潮流にも増して醜悪なもの、病的なもの、倒錯したものを求める傾向が見られる。代表的作家にエルンスト・トラー(『群集 人間』[戯曲:1920])、ゲオルク・カイザー(『カレーの市民』[戯曲:1913])、フランツ・ヴェルフェル(『世界の友』[詩集:1911])、カール・シュテルンハイム(『ペチコート』[戯曲:1911])、ゲオルク・ハイム(『オフィーリア』[詩:1911])、ゴットフリート・ベン(『死体公示所』[詩集:1912]、エルンスト・シュタードラー(『出発』[詩集:1914])ヨハネス・R・ベッヒャー(『滅亡と勝利』[詩集:1914])などがおり、感情の吐露ともいえる美術から派生した様式であるだけに詩や戯曲に典型的な作品が多い。
 また、ブレヒト、ケストナー、マン、ボルヒェルト、カフカ、フリッシュらには、当初表現主義の影響を受けていた形跡が見受けられる。その最盛期は一般的に
1910年から20年までの間と言われ、特に第一次世界大戦を迎えるにあたって、多くの表現主義作家たちは革命的時代変革を待望する余り、未来派同様、戦争の到来を賛美し、しかしその悲惨な結末に一層の厭世観を深めた。ただ、トラーやヴェルフェルやベッヒャーなど、平和な新時代の到来を希求する作家たちもいたが、彼らの希望はナチスの台頭と共に費え、彼らの芸術も「退廃芸術」の烙印を押されるに至る。もっとも、1925年以降、めぼしい表現主義的作品はもはや書かれなかったため、ナチズムがこの運動の終結に決定的役割を果たしたのかどうかは疑問である。彼らの活動は、結局挫折の形を取って幕を閉じることとなるが、第二次世界大戦以降のドイツ文学再生に一定の指針を与えたことは間違いない。
 

秒刻体(独:Sekundenstil

 自然主義で用いられた実験的な文体。改行を繰り返す短文により、秒刻みに時間と空間を描写しようとする。その際、語られる時間と語る時間は同じ長さになることが理想であり、事物は砂粒ひとつに至るまで事細かに描写される。当然このような手法を取ると、短編並みの内容しかない作品が大長編に相当する分量を有することになるため、作中時間をところどころ省略するか、もともと短時間に起きた出来事を描写するしかない。この手法の目的は、文学作品をひとつの実験と、作者をその客観的な観察者とみなした自然主義において、作者の主観をできるだけ排除しようとするためであった。秒刻体は1889年に発表されたホルツ/シュラーフの『パパ・ハムレット』で用いられ、相応の注目を集めたが、その実態は小説でありながら、会話や独白部分が多くを占め、状況説明の文章はドラマのト書きのような体裁を示している。秒刻体を用いた習作を二人の作家は、この後数作発表するが、自然主義全体を特徴付ける文体には発展しなかった。
 

氷山理論(英:Iceberg Theory

 ヘミングウェイが唱えた小説理論。その内容は以下のとおり。
 「もし散文作家が、自分が何を書いているのか十分に理解しているとするならば、自分や読者に明らかなことは省くべきである。小説家が必要十分にだけ書けば、読者は省かれた部分を、作家が原稿に書き込んだかのごとく強烈に受け止めるものである。氷山は8分の一だけ水面に出ているからこそ、悠然と動いているのだ。」(『午後の死』[1932]より)
 ヘミングウェイによれば、小説のテクスト内で省かれた情報(サブテクスト)こそが、氷山の水中部分のように物語の基盤を支えているのである。ヘミングウェイの作品が氷山理論に貫かれているのはいうまでもないが、この理論は後にハードボイルドでも盛んに取り入れられるようになる。
 


開かれた結末(英:Open-ended narrative

 小説や戯曲において、話の一応の決着がついていない結末。古くはスターンが『トリストラム・シャンディ』(1713-1768)や『センチメンタル・ジャーニー』(1768)で、何の前触れもなく突然終わる小説を書き、読者を驚かせたが、「奇書」とも呼ばれるこれらの作品には、もともと系統だった筋はない。「開かれた結末」が戦略的に用いられるのは20世紀に入ってからで、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(1939)では、作品最後の単語”the”(ピリオド無し)が、作品冒頭の単語”riverrun”(小文字)にそのまま続くことが可能で、作品が終わることなく永遠に循環することを暗示する。同年にブレヒトが発表した『セチュアンの善人』では、叙事的演劇を特徴づける異化効果としてこの手法が用いられており、観客各自に作品の最終的な完成が委ねられている(しかし、そこには観客に現実社会への批判精神を持たせる意図が窺える)。その後、ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952)を始めとして、不条理劇ではごく一般的な手法となった。現代の演劇上演では、古典的な作品にもこの結末を取り入れ、多様な解釈を試みようとする場合が少なくない。
 

ヒロイック・カプレットHeroic couplet)→ 英雄対句

 

ファウスト伝説(独:Fauststoff

 「ドクトル・ヨハネス・ファウストゥス」が、悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ話。このエピソードは中世に実在した錬金術師ヨハン・ゲオルク・ファウスト(1480?-1540?)の数奇な人生を下敷きとしているが、人類に火をもたらしたプロメテウス、人形に命を吹き込んだピグマリオンなどの神話上の人物、或いは地獄に堕ちる猟色家ドン・ジュアンやコンメディア・デッラルテにおける気取り屋ドットーレなど、が「ファウスト的人物」としてファウスト伝説の形成に寄与している。当初、中世精神社会を支配していたカトリック的謙遜から自らを解放するルネサンス的存在としてファウストは注目されたが、そこには実際の人物が有した異端でいかがわしいペテン師のイメージがつきまとっていた。彼の最初の評伝となるヨハン・シュピース(Spies)『ヨハン・ファウスト博士の伝記』(1587)がこの見解をヨーロッパ中に広めたと考えられる。だがその約5年後にイギリスで初演されたクリストファー・マーロウ(Marlowe)作『フォースタス博士』では、ファウストの内面的葛藤に対する作者の共感も示されており、文学的題材としてのファウスト像に一層の深みを与えた。
 マーロウ作品は、
イギリス喜劇団により伝説の発祥地ドイツにも紹介されたが、ドイツではその後もしばらくファウストは大衆演劇や人形劇で好まれる喜劇的魔術師像の域を出なかった。しかし18世紀中盤にさしかかると、ファウストは肯定的な見方をされるようになり、G.E.レッシング(Lessing)は『最新の文学に関する書簡集17』(1759)の中で、ファウストを知識欲旺盛な啓蒙的人物と捉えている。更にシュトゥルム・ウント・ドランにあっては、彼は精神的冒険世界への強い意志を持った破壊的人物として礼賛された。そしてゲーテ(Goethe)のライフワークとなった『ファウスト第1部』(1808)『ファウスト第2部』(1832)は、ファウスト伝説の集大成ともいえる極めて高い文学性を有した韻文劇だが、ファウストに誘惑された娘マルガレーテやファウスト自身が地獄に堕ちず救済される点に大きな特徴がある。ただ、終幕合唱での「すべての移ろい易きものは、およそ比喩に過ぎない」という台詞が示すように、ここでも伝説が本来有していた「ヴァニタス(空虚なるもの)」としてのファウスト像は維持されている。ファウスト伝説は、以降もトーマス・マン(Mann)が舞台を現代に置き換えた『ファウストゥス博士』(1947)で現代市民社会を批判するなど、今尚文学的重要性を失ってはいない。
 因みに、グノー作曲によるオペラ版「ファウスト」(1859)も有名だが、ゲーテの『ファウスト第1部』を基に作られたオペラであるにも関わらず、フランス語上演となっている。内容的にもゲーテ版からはしばしば逸脱するため、ドイツ国内で上演する際には、「マルガレーテ」(作品内での役名はマルグリート)と題される場合も近年まで少なくはなかった。
 

ファースト・フォリオ(英:First Folio

 シェイクスピア没より7年後の1623年に発行された『シェイクスピア戯曲全集』初版本。学術上の略称はF1と呼ばれる。現在シェイクスピア作と見なされている戯曲39(37)作品の内、36作品が収められている。正式な題名は、「ウィリアム・シェイクスピア氏の喜劇、史劇及び悲劇」」("Mr William Shakespeare's Comedies, Histories and Tragedies")。「フォリオ」とは全紙を二つ折りにしたサイズで、34×21cm程度の大きさとなる(省略記号は[2]。因みに四つ折版は「クォート[4]」、八つ折版は「オクターボ[8]」と呼ばれる)。シェイクスピア戯曲全集は、この後3度フォリオ版で出版され([F2]1632年、[F3]1663年、[F4]1685年)、その初版がファースト・フォリオである。それまでフォリオ版は通常神学や法学などの「高尚な」専門書出版に使用されるサイズであったが、大衆娯楽と目されていたシェイクスピア劇がフォリオ版で出された事実は、文学においても画期的な出来事であった。『お気に召すまま』(1599)や『ジュリアス・シーザー』(1599)や『マクベス』(1606)や『ヘンリー8世』1613など18作品がここで初めて印刷され、残りの18作品もより信頼され得る校訂となっている。
 シェイクスピアは自筆原稿を全く残していないため、ファースト・フォリオがなければ、シェイクスピア作品中
18作品が現代に伝わらなかった可能性が大きい。そうした意味も含めて、ファースト・フォリオは「世界で最も貴重な文芸書」のひとつといえよう(2006年にロンドンのオークションに出品された完本は、約6億円の値がついた)。当時1ポンド(当時の労働者の約2週間分の収入)の定価で1000部印刷されたが、現存するのは230部程度であり、その内145部はアメリカ(内79部は世界のシェイクスピア研究のメッカともいえるワシントンの「フォルジャー・シェイクスピア図書館」所蔵)、44部はイギリスの所蔵と判明しているが、我が国でも甲南女子大や明星大並びに京都外国語大に所蔵されている。ただ、ファースト・フォリオは、扉にある有名なシェイクスピア肖像画などページが欠落し、後に複写で補充したものなどが殆どで、出版当時の形をそのまま保っている「完本」は、世界で20部程度といわれている。
 

ファブリヨー(仏:Fabliau

 12世紀末から14世紀初頭にかけて北フランスで流行した韻文による笑い話。150編余りが現存する。「ファブリヨー」とは「寓話」(fable)の派生語であるが、作者不詳の作品は8音節数百行で構成される。恐らくジョングルールメネストレルといった旅芸人たちが即興的に語ったものであろう。内容は他愛のないコメディで、筋は簡潔、しばしばスカトロ話や卑猥な話題も取り上げられる。登場人物は社会のほぼ全ての階層に渡るが、妻を寝取られた夫、吝嗇家の僧侶、愚鈍な農民などが登場する点は他の笑い話と大差ない。
(ファブリヨーの一例:「雪ん子」)
 ある行商人が2年間の不在の後帰宅すると、妻は子供を生んだばかりだった。誰の子かと彼が問い詰めると、妻は雪の日に夫を思いながら降ってくる雪片を飲み込んだら妊娠したのだと答える。夫はその言葉を信用した様子で子供が15になるまで育てるが、その後夫はその子を連れてジェノアへ行商に行き、そこで子供を奴隷に売り飛ばしてしまう。一人で帰宅した夫に妻が理由を尋ねると彼はこう答えた。イタリアの日差しは強く、雪から生まれた子供はその熱で溶けてしまったのだ、と。
ファブリヨーは、16世紀には興味を失われ、散文の説話にとって代わられるが、モリエールや、ラ・フォンテーヌやヴォルテールに影響を与えたとされている。
 

ファム・ファタール(仏:Famme Fatale

 男の人生を左右する「宿命の女」の意。ファム・ファタールとなる女は、その性的魅力により男を魅了し、それにより男はしばしば社会的名誉や富を失い不幸に陥るが、また時にはそれら世俗的幸福を超越した無上の快楽を男にもたらしもする。その原形は、既に『ギルガメシュ叙事詩』(前16世紀以降)中で「半獣人間」エンキドゥを仇敵ギルガメシュの許へと導く娼婦や、旧約聖書においてアダムを誘惑するエヴァ、或いはサムソンの力をそいだデリラに現れている。更にギリシア神話では、プロメテウスの弟エピメテウスに取り入り妻となり、彼の家にあった大甕を開け人間にあらゆる災いをもたらしたパンドラがおり、「傾城の美女」として「トロイ戦争」の原因を引き起こしたヘレネ(トロイ戦争)やエジプト最後の女王となったクレオパトラもファム・ファタールと見なせよう。この種の女性は以来重要モティーフとして多くの文学に取り上げられるが、近代におけるファム・ファタールには「気まぐれな支配者」的性向もしばしば認められる。代表的な例として、カルメン(メリメ:『カルメン』[1849])、ナナ(ゾラ:『ナナ』[1880])、サロメ(ワイルド:『サロメ』[1893])、ハンネ(ハウプトマン:『御者ヘンシェル』[1898])、ロリータ(ナボコフ『ロリータ』[1955)などが挙げられよう。
 

ファンタジー(英:Fantasy

 「幻想文学」と訳される場合もある。空想性を特に重視した文学はこれすべて「ファンタジー」の要素を有するといえるが、文学ジャンルとしてのファンタジーについては明確な定義は下せず、また、SFとの関係についてもどちらが上部ジャンルに位置しているのかが明白ではない。すなわち、ファンタジーの本質である「空想譚」の歴史は当然の如く古代にまで遡り、そこに科学性を加味したものがSFであるともいえるが、「クラークの第三法則」などにより、既に文学ジャンルとして確立したSFからファンタジーというジャンルが派生したとも考えうる。(事実、「ファンタジー」という名称は「SF」よりはるかに伝統が浅く、『指輪物語』以降市民権を得た観がある。)
 しかしいずれにせよ、ファンタジーの源流は、『ギルガメシュ叙事詩』(20世紀以前)や『イリアス』(8世紀以降)などの神話類、あるいは聖書の黙示録にも求めることができよう。この源流は中世において『ベオウルフ』(8-9世紀)や「アーサー王伝説」(12世紀)や『ニーベルンゲンの歌』(13世紀初頭)などを経て西欧的な原型を整え、寓話や民話、ユートピア文学旅行文学冒険小説ロビンソナーデうそ物語妖精物語そして児童文学などの空想性を取り込み発展していく。近代では、L.F.ボーム(Baum)『オズの魔法使い』(1900) に始まり、20世紀に入り急速に発展したSFが「ヒロイック・ファンタジー」(バローズ「火星シリーズ」[1912-43]など)を生み出すと共に、ファンタジーは文学ジャンルとして認識され始めた。中でもファンタジーの確立に大きく寄与した作品は、J.R.R.トールキン(Tolkien)『指輪物語』(1954"The Lord of the Rings") 及びU.K.=グウィン(Le Guin)『ゲド戦記』(1968-2001:"Earthsea Cycle")である。これらの作品の背景となった魔法や剣や指輪が支配する古代・中世的架空世界は以降ファンタジーの基本的な要素となり、現代においても尚、文学はおろか映画やゲームにもアレンジされ、ローリング(Rowling)の「ハリー・ポッター」シリーズ(1997-)が文学史上最大のベストセラーを記録するなど、その人気は留まるところを知らない。
 


ファン・ド・シエクル(仏:Fin de siècle

 1880年から1910年までの約30年間に流行した芸術・文学潮流。フランス語で「世紀末」の意だが、文学では「世紀転換期文学」と解釈する方が正しい。その文学は退廃的傾向が強かったため、フランスでは特に「デカダンス」と同義と見られる。「ファン・ド・シエクル」の名称は、1886年仏雑誌「ル・デカダン」で初めて用いられ、当初はフランスの世情を反映した潮流であったが、直に第一世界大戦前までのヨーロッパ全体の雰囲気を包摂する潮流となる。19世紀末には、自然科学思想(特に遺伝学説)に基づいた徹底的なリアリズムを追求する余り、社会の恥部を抉り出そうとする自然主義や、人間の深層心理を解明しようとするフロイト心理学、社会の工業化や職業選択の自由化、更には教会勢力の衰退や、社会進化論やニーチェによる市民社会批判などが複雑に絡み合い、世紀末の終末観も加わって、芸術家たちの間には無力感からくる社会からの逃避傾向や芸術至上主義・耽美主義的傾向が広がっていた。そこから派生してくる生活スタイルがボヘミアンであり、ダンディズム(洒落た服装や言動に殊更こだわることで、脱世俗性による承認欲求を満足させようとする運動)であり、スノビズム(知識をひけらかす気取り屋の性向)であり、彼らは「俗物」や「小市民」たちを軽蔑した。芸術思潮としては、短期間流行した自然主義のアンチテーゼとして、象徴主義や神秘主義が台頭したが、かたやフランスでは、産業革命と都市の発達を背景とした開放的で華やかなベル・エポックが花開くなど、ファン・ド・シエクルには様々な潮流が発生し、統一感には乏しい。
 フランスでは、1886年に風俗劇「ファン・ド・シエクル」がヒットしたことで、この用語が民衆に広まり、文学では象徴主義が隆盛を極めた(ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー並びにベルギー人ではあるがフランス語で創作したメーテルリンク)。また、「パルナス派(高踏派)」の影響を受けたアナトール・フランスや批評家ポール・ブールジェもこの時代を代表する文学者である。この時代には海外への視野も急激に広がり、「エグゾチスム(異国趣味)」や「ジャポニスム(日本主義)」も流行した。この時代に脚光を浴びた題材として特筆すべきは、テオフィル・ゴーチェがサロメを「ファム・ファタール(宿命の女)」と表現したような、男と運命的な出会いをし、その妖艶な魅力で男を惑わし、破滅へと導く謎めいた女性像が挙げられる。
 イギリスにおけるこの時代を代表する作家は、オスカー・ワイルド(『ドリアン・グレイの肖像』[1890]、『サロメ』[1893])に尽きるが、彼の師であり、耽美主義的美術評論集『ルネサンスの歴史研究』(1873)で現代に繋がるルネサンス観を確立したウォルター・ペイターや、正にデカダン詩人として当時大変な人気を博した詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンも注目に値する。
 オーストリアでは、「若きウィーン派」と呼ばれる作家たち(ホーフマンスタール、シュニッツラー、バールら)が耽美主義・印象主義的作品を発表する。ただ、ホーフマンスタールが1902年に発表した書簡体小説『チャンドス卿の手紙』は、美的文章を書けず、書く意思も潰えた主人公を扱い、耽美主義を含め、爛熟したヨーロッパ文化の行き詰まりを予告した点で、革命的な作品と見なされている。
 
ドイツには、典型的な耽美主義、高踏派の詩人集団「ゲオルゲ・クライス」を主導したシュテファン・ゲオルゲ、芸術家小説に新境地を開いた若きトーマス・マン、それに自然主義の申し子から180度転身し、新ロマン主義象徴主義的作品で国民的作家の地位を不動にしたゲルハルト・ハウプトマンらが現れた。この他、ロシアでは象徴主義の代表的詩人ブリューソフや日露戦争敗北を契機に革命論者となった詩人且つ思想家メレシュコフスキー、イタリアでは著名な象徴主義詩人でありながら、政治活動家としてファシズム台頭の先鞭をつけたガブリエーレ・ダンヌンツィオが特筆される。

 


風刺文学(羅:Satura / 英:Satire / 仏:Satire / 独:Satire

 社会や国家や、時にはそうした中で特権を受けている者たちなどを、別の話や舞台や登場人物を用いて当てこすり、皮肉る文学。戯曲と詩の形式が最も古く、戯曲では前5世紀ギリシアのアリストパネスの登場で、風刺劇は既に大成していた観がある。ソフィストを皮肉った『雲』(423)や、女たちのセックス・ストライキという刺激的な題材でペロポネソス戦争を批判した『女の平和』(411)は、現代でも高く評価される傑作である。一方、風刺詩の源流は古代ギリシア哲学のキュニコス派(犬儒派:「シニカル」の語源となった)に認められ、これに属した(ガダラの)メニッポス(3世紀前半)が、散文と韻文の混交文体からなり、人間の偏狭な考えや態度を茶化した「メニッポス風風刺(Menippean satire)」を作り上げた(しかし、彼の作品はその全てが現在失われている)。
 彼に続いて古代ローマ詩人ルキリウスが前
2世紀後半に風刺詩(サトゥラ)を確立し前1世紀後半のホラティウスへと継承された。彼の風刺詩は、「ホラティウス風風刺(Horatian satire)」と呼ばれ、やはり社会ではなく人間の愚行を、ユーモラスで機知に富んだ筆致で穏やかに揶揄した。その姿勢は、哲学色を深め、ペルシウスへと引き継がれる。その後、1世紀後半から2世紀にかけて現れたユウェナリスは、「健全な精神は健全な肉体に宿る」(という願望。古来より「宿るものである」と誤解され続け、ドイツのギムナジウムの建学理念にもなった。)や、「パンとサーカス」(愚民政治を営む上での必須アイテム。即ちパン[食料]とサーカス[娯楽]を与えておけば民衆は政治に興味を失う意。)といった名言を残し、警句によって社会を痛烈に罵倒しながらも教訓に溢れる「ユウェナリス風風刺(Juvenalian satire)」を生み出した。古代の風刺詩は、概ねこの3派に代表される。
 
また、古代ローマ社会を間接的に告発したペトロニウスの退廃的な作品『サテュリコン』(
1世紀頃)が先鞭をつけた風刺小説の分野では、2世紀後半にはメニッポスの後継者として公言して憚らない(サモサタの)ルキアノスが現れ、荒唐無稽な月旅行譚を描いた『本当の話』(この題自体が皮肉となっている)で当時の詩人や哲学者を痛烈に揶揄した。この作品はSFユートピア文学の先駆と見なすことも可能であろう。
 中世において風刺文学はやや衰退し、
寓話の手法が主に用いられた。その代表作は12世紀から13世紀にかけて北フランスで作られ、封建社会を動物世界を借りて皮肉った『ルナール狐物語』である。寓話についてはその後、ラ・フォンテーヌ『寓話詩』(1668)やクルィロフ『寓話』(1825-34)を経てボルヘス『幻獣辞典』(1957)に至るまでその風刺文学としての系譜が続いている。精神の解放を標榜するルネサンス以降には風刺文学も再び興隆を見せ、ブラントの『阿呆船』(1494)やラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-52)などが先鞭をつけ、モリエールのフランス古典主義喜劇群やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』1726)、ボーマルシェ『フィガロの結婚』(1778)などの傑作を生み出した。
 
19世紀以降では、官僚の腐敗を風刺したゴーゴリの『検察官』(1836)、急速に成長したアメリカ資本主義の歪みを批判したマーク・トウェインの『金メッキ時代(1873)などが名高いが、人間的尊厳を失った未来社会を描くハクスリーの『すばらしい新世界』(1932)、ソ連に代表される全体主義社会を批判したオーウェルの『1984(1949)などといった反ユートピアを描くディストピア文学も一種の風刺文学といえる。また、カフカやカミュやイヨネスコに代表される不条理文学にも強い風刺性が認められる。社会をあらん限りに風刺したフロベールの『紋切り型辞典』(1910)やビアスの『悪魔の辞典』(1911)は風刺文学のひとつの到達点と見なしえよう。総じて、芸術性の高い文学作品は多かれ少なかれ社会批判性を伴うのが常であるため、風刺性を一切指摘し得ない文学作品の方がむしろ少数派といえるが、サン=テグジュペリの『星の王子様』(1943)など、その風刺性を巡り論争となる場合も少なくない。




風俗喜劇英:Comedy of manners

「風習喜劇」とも呼ばれる王政復古期(16601710)のイギリスで成立した演劇ジャンル。上流社会の風習やマナー、特に男女の色恋沙汰を、ストック・キャラクターを用いながら、ウィットや機智に溢れる洗練された台詞回しで風刺した。風俗喜劇的なストックキャラクターの源流は、古くは古代ギリシアの「新喜劇(323260 BC)時代を代表するメナンドロスの喜劇や、ホラティウスの『風刺詩』に認められ、古代ローマ時代の劇作家プラウトゥスやテレンティウスに受け継がれた。このジャンルにおいて中世以降のヨーロッパで最初の成功を収めた作家は『女房学校』(1662)、『タルチュフ』(1664)、『人間嫌い』(1666)などを残したフランスの喜劇作家モリエールである。イギリスでも、シェークスピアの『空騒ぎ』(1600)をこのジャンルでの嚆矢と見なす向きがあるが、本格的な隆盛期を迎えたのは17世紀後半である。代表作としては、W.ウィチャリーの『田舎女房』(1675)W.コングリーヴの『世の習い』(1700)G.ファーカーの『洒落者たちの策略』(1707)などが挙げられる。王政復古期以降は一時衰えるも、O.ゴールドスミス『負けるが勝ち』(1773)R.B.シェリダン『悪口学校』(1777)などでその技巧的な筋立てと洗練された警句が復活し、O.ワイルドやW.S.モームやN.カワードやA.エイクボーンを経て現代戯曲やテレビドラマにまで連なっている。実際の舞台は、客間一場面だけで劇を終える場合も多かったため、特に19世紀後半からの作品は「客間喜劇」drawing-room comedyと呼ばれ場合もある。


 

フェアタン(英・仏・: Feuilleton

 「フェアタン」とは、英語とドイツ語では「新聞の文芸欄」、フランス語にあっては更に「新聞小説」という意味も加わる。文芸欄の概念は、フェアタンの名称が生まれる前から存在し、書評や劇評は、当初より新聞にとり重要な記事であったが、この名称が生まれたのは、18世紀初頭のフランス紙「ジョルナル・デ・デバ」に演劇情報その他が別組として追加され、筆者ジュリアン・ルイ・ジェフロイがそれをフェアタンと名付けたことによる。この記事はたちまち評判を呼び、フェアタンは他の有力紙にも広がった。当時のフェアタンは今日のように別紙立てではなく、政治面などの下に太線を挟んでより小さい字で掲載された。フェアタンとは「紙切れ」または「葉っぱ」の意であるが、事実フェアタン部分は当時切り取られ、スクラップすることも流行した。内容としては、書評や劇評の他、非政治的なゴシップ、最近のファッション、エピグラムや言葉遊びといった些細な文学作品も載せられた。現代のフェアタンは、文学・芸術的記事に特化され、政治紙面、経済紙面、地方紙面、スポーツ紙面に次ぐ5番目の重要紙面として一般紙には不可欠な存在となっている。文芸欄としてのフェアタンという名称は、ドイツやロシアにも波及しそれぞれの発展を見たが、イギリスには定着しなかった。イギリスにおける文芸欄は”literary column”と呼ばれ、英語でフェアタンといえば、新聞小説の一話を指す。
 新聞小説はデフォー『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719)をその嚆矢とし、イギリスで発展するが、19世紀に入るとフランスでも流行し、バルザック『老嬢』(1836)を皮切りに様々な連載小説が新聞を賑わし、デュマ・ペール『三銃士』(1844)、『モンテ・クリスト伯』(1845-46)など、後世に残る成功作も生まれた。当時新聞小説がこぞって掲載された理由は二つある。ひとつは掲載新聞の売り上げに直結するからであって、その証拠として、『パリの秘密』(1842-43)により掲載紙である「デバ」紙の売り上げを飛躍的に伸ばし、その後も人気新聞小説作家の名を縦にしたウージェーヌ・シューの例がある。もうひとつの理由としては、記事の手軽な埋め草として連載小説が重用された点が挙げられる。そのため新聞小説の内容は、大衆の嗜好に迎合するべく、荒唐無稽な勧善懲悪物語に堕する傾向があった。しかしその後程なくして、新聞小説は社会性を減じ、暗黒小説メロドラマなど娯楽性をより強めた興味本位の創作態度が余りに目に付くようになり衰退し、現在に至っている。
 

フェアプレイ(英: Fair Play

 謎解きが最大の目的であるミステリにおいて、作品に描かれた事象を参考にした推理のみで十分謎が解けるように執筆する作者の創作態度。ミステリがジャンルとして確立するのはドイル(Doyle)の「シャーロック・ホームズ」シリーズ(18871927)からであるとされるが、この時点では登場人物とりわけ探偵の性格・心理描写や緊張感のある物語展開に力点が置かれ、事件の謎解きが厳密に追及されることはなかった。ところが「シャーロック・ホームズ」シリーズが終了した翌年に、ミステリ創作に関する「ノックスの十戒」及び「ヴァン・ダインの20」が発表され、特に後者の第1則が「事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。」と謳ったように、1920年代に入りフェアプレイが注目され始める。フェアプレイは「本格推理小説」の必須条件とみなされ、クロフツ(Crofts)『樽』(1920)、フィルポッツ(Phillpotts)『赤毛のレドメイン家』(1922)、ヴァン・ダイン(Van Dine)『グリーン家殺人事件』(1928)など理詰めの謎解きを身上とした秀作が生み出された。更にエラリー・クイーン(Ellery Queen)は、フェアプレイの証として、『ローマ帽子の謎』(1929)で、作品後半の謎解き部分が始まる前に、事件解決への手掛かりは全て描写したと言明し、「読者への挑戦状」なる口上を挿入した。クイーンは、その後『スペイン岬の謎』(1935)まで続く「国名シリーズ」と呼ばれた一連の作品群のうち8作で「読者への挑戦状」を記載し(『シャム双子の謎』[1933]のみ記載無し)、ミステリにおけるフェアプレイ重視の気風はここで最高潮に達した観がある。アガサ・クリスティ(Agatha Christie)が『アクロイド殺し』(1926)で用いた叙述トリックを巡って繰り広げられたフェアプレイ論争も、この時代ならではの事件といえよう。その後、証拠の真偽は結局作者しか知り得ぬ以上、探偵の推理も恣意性を免れないとして、フェアプレイそのものの本質が疑われるなど、以前ほどミステリにおけるフェアプレイが喧伝されることはなくなった。
 

フェリブリージュ(仏:Félibrige

 1854年にフランス南部アヴィニョンのフォンセグーニュ城で結成された文学結社。トルヴァドゥール文学の再評価を通じて、それまで二月革命後の中央集権的な施政により排斥されていたプロヴァンス語(南オック語)とプロヴァンス文学の復興を目指した。当初の創立メンバーは、F.ミストラル(Mistral)Th.オーバネル(Aubanel)J.ルマニーユ(Roumanille)J.ブリュネ(Brunet)P.ジエラ(Giéra)A.タヴァン(Tavan)A.マチュー(Mathieu)7人である。彼らはプロヴァンス語による作品を次々と発表したが(特にミストラルの恋愛叙事詩『ミレイオ』[1859]は名高く、彼はこの作品により1904年にノーベル文学賞を受賞した)、本結社最大の業績としては、正統プロヴァンス語の保護を目的として1855年に創刊した「プロヴァンス年鑑」(L'Armana Prouvençau:家庭暦、文学作品、地方情報等を掲載した総合誌)が挙げられる。フェリブリージュは文化・芸術活動のみならず、政治的な色彩を帯び、プロヴァンスや北イタリア、更にはスペイン・カタルーニャ地方を包含するラテン民族による連邦国家建国を企図するも結局挫折するが(オーバネルはこの結社の方向に異を唱え、脱会する)、その後の地方独立運動の先駆けとなったことは確かである。今日、このフェリブリージュ運動は、プロヴァンス・カタルーニャ全域に広がり、8つの地域にプロヴァンス語による文学サークルが結成されている。その機関誌として、「プロヴァンス年鑑」の他に、学術誌として1870年に創刊された「ロマンス語雑誌」(Revue des Langues romanes)や、1919年創刊の雑誌「愉快な知識」(Lo Gai Saber)は、現在も尚発行され続けている。

 

復讐悲劇(英: Revenge tragedy

 エリザベス朝演劇及びそれに続くジェームズ1世時代のイギリス演劇(15581625)において流行した悲劇ジャンル。その原型は既に古代ローマの詩人セネカが悲劇の一種として創作しているが(『テュエステース』[紀元元年前半])、その影響を受けた復讐悲劇が示した特徴としては、

○仇が王侯など高位者。
○復讐者(多くは犠牲者の子か親)が主人公となるが、彼の主な葛藤は、高位者の仇に復讐するべきか、どう復讐すればいいのかという悩み。
○復讐者のもとに犠牲者の亡霊が現れる。
○劇中に(見せかけも含めて)狂人がしばしば登場。
○劇の進行と共に周囲の者が死んでいき、最後には復讐者も含めて殆どの主要登場人物が死に絶える。
○復讐者の行為は私闘であり、最後には断罪される。

などが挙げられる。この悲劇ジャンルを確立させた作品はトマス・キッドの『スペインの悲劇』
(1587)であるとされているが、彼はシェイクスピアにも影響を与え、『タイタス・アンドロニカス』(1590)及び『ハムレット』(1601)といった作品は典型的な復讐悲劇といえよう。 他にマーロウの『タンバレン大王』(1587)やターナーorミドルトンの『復讐者の悲劇』(1606)が代表作に挙げられるが、復讐悲劇は文学的内容よりも、その凄惨な場面故に当時の民衆の人気を博していた側面も否定できない。
 

武勲詩(仏:Chanson de geste

 中世フランスにおいて、歴史的武人の武勲を称揚するために書かれた叙事詩ジョングルールたちにより吟唱された。題材は8世紀ないし9世紀の歴史的事件から採られ、3つの詩群(サイクル)に大別される。すなわち、『ローランの歌』(11世紀後半)に始まるフランク国王シャルルマーニュ(カール)を主人公とする「シャルルマーニュ詩群」、『ギヨームの歌』(12世紀初頭)や『ルイの戴冠』(12世紀半ば)に端を発するシャルルマーニュのいとこであるトゥルーズ伯ギヨーム・ドランジュ(またはギヨーム・ド・ジェローヌ)の業績を描いた「ギヨーム・ドランジュ詩群」、そして12世紀後半より現れた、王に反逆し最後には敗北する諸侯たちを描く「反逆諸侯詩群」である。その他の少数派として、ロレーヌ地域伝来の歴史的出来事を描く「ロレーヌ詩群」や十字軍を扱う「十字軍詩群」も知られており、武勲詩は全体で約80確認されている。以上の解説は狭義の武勲詩であるが、広く解釈すると『イリアス』や『オデュッセイア』(前8世紀以降)を始めとして、スペインの『わがシッドの歌』(12世紀末-13世紀初頭)やドイツの『ニーベルンゲンの歌』(13世紀初頭)などの英雄叙事詩も武勲詩に数える場合がある。
 

不条理劇(仏:Théâtre de l'absurde / Theatre of the Absurd

 1950年代から60年代にかけて仏英を中心に台頭した不条理な内容の創作劇。作家・評論家マーティン・エスリンの論説集『不条理劇』(1961)に規定され、演劇ジャンルとして確立した。その先駆は1896年に初演されたアルフレッド・ジャリ『ユピュ王』(「糞ったれ!」という台詞で劇が開始する)とされる。アリストテレスの『詩学』(前335を土台に長年の伝統を築いてきた文学の概念を根底から覆す、革新的な文学の創出は、既に20世紀前半からダダイズム未来派表現主義、或いはシュルレアリスムにより企てられ、20世紀中盤に勃興した実存主義は、カミュ(『嘔吐』[1938])を始めとして人間存在の「不条理性」の表出に務めた。しかし、文体や台詞そのものは整然とした言語であったし、そもそも演劇に関しては、「一定の物語性を持つ芝居」の概念を打ち破る作品はまだほとんど見られなかった。不条理劇はそうした中、因果律に基いた劇の進行を考慮しない不条理な内容に加え、演劇形式も起承転結を全く無視し、台詞さえも時に支離滅裂で理解不能な状態に陥る。代表的作品としては、ウジェーヌ・イヨネスコ『禿の女歌手』(1950:平凡な中流家庭の他愛もない会話が、次第に脈絡を失い、最後には単なる音声の叫びあいで終わる。)、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952:二人の男がゴドーなる人物をただ待つ話。会話も全くまとまりはなく、ゴドーは結局来ない。)、アルチュール・アダモフ『襲来』(1949)などが挙げられる。演劇の持つ魅力が、理解しうる物語の展開や感情表現のみにあるわけではないことを観客に気づかせた点で、不条理劇の果たした役割は大きい。その意味で不条理劇は一過性の演劇潮流ではなく、以来伝統的演劇のアンチテーゼとして、現代もその重要性を失ってはいない。
 

フーダニット、ハウダニット、ホワイダニット (英:Whodunit, Howdunit, Whydunit)

 ミステリにおいて、事件の解決に必要な3つの要素を指す用語。すなわち、フーダニット=誰が(犯人)、ハウダニット(犯行方法)=どのように、ホワイダニット(犯行動機)=どうして、犯罪を起こしたかの3点である。このうち通常のミステリでは、フーダニットとハウダニットを究明する過程に重点が置かれ、ホワイダニットは犯人判明後に明らかになる場合が多い。しかし我が国のワイドドラマのように、操作中にホワイダニットが徐々に解明され、犯人逮捕へと繋がる例もあるが、その場合はサスペンス色が強くなる。また、これら3点が作品前半で提示される倒叙ミステリにおいては、「ハウキャッチェム(Howcatchem:捜査方法)=どうやって彼らを捕まえるか、が事件解決の最大の要素となる。
 

復活祭劇(独:Osterspiel / Easter drama

 ドイツで発達した宗教劇の一種。キリストの復活を描く劇で、宗教劇中最も早期に成立した。キリスト教のミサで歌われていた聖歌で頻繁に唱えられていた「キリエ エレイソン」(「主よ哀れみたまえ」)の間に補足説明の歌詞(交誦:トロープス)が歌われるようになり、それが寸劇へと発展する。その最古の例が、スイスのザンクト・ガレン修道院に10世紀から伝わる手稿『誰を探しているのか(クエム・クエリティス)であり、キリスト復活後の墓でイエスを探すマリアたちと天使の問答を描く劇形式の交誦集である。この文献は宗教劇、わけても復活祭劇の萌芽を示すのみならず、ヨーロッパ中世演劇の開始をも示唆するものとして極めて重要である。
 復活祭劇は以降、マグダラのマリアの前に姿を現すキリストや、二人の使徒の競争(ヨハネ福音書、
204)の場面などを加え内容を整え、12世紀にはほぼ完全に成立した。この時期には、劇は聖書を読めぬ民衆にキリストの復活を視覚的に解説する目的で、ミサの最中に教会の中で男性市民により演じられた(しかし使用言語はラテン語だった)。13世紀に入ると、ドイツ語版の復活祭劇が登場し、上演場所も教会の外に求めるようになる。興行主体は教会から市民の手に移り、キリストに対するユダヤ人たちの断罪や、復活や昇天、それに続く最後の審判での阿鼻叫喚の場面などといった主な場面をより劇的に脚色するようになり、宗教的教訓色を薄め、娯楽的要素が強調された劇が民衆の人気を集めるようになった。こうして描写時期も拡張され大型化した復活祭劇は、15世紀には受難劇に吸収(あるいは融合)されてゆき、聖書への回帰が叫ばれた16世紀前半の宗教改革期以降衰退した。
 

ブランクヴァース(英:Blank verse

 詩の韻律のひとつ。無韻詩と訳される。イアンボスと同様「弱強格」で、5歩格(ペンタメトロス)が一般的だが、頭韻・脚韻を含め押韻しないことを最大の特徴とする。名称から分かるとおり古代ギリシア文学を発祥とせず、英語詩で発達した稀な韻律である。16世紀中頃からイタリア文学よりヒントを得てイギリス文学に現れ始めるが、確認されている最初の作品は、1554年に出されたサリー伯ヘンリー・ハワードによるウェルギリウス『アエネイス』の英訳である。この押韻のない比較的自由な形式を文学的に開花させた作家は17世紀のクリストファー・マーロウーやベン・ジョンソンであり、更にシェイクスピアが自らの戯曲群を執筆するにあたり大きな武器とした。そしてジョン・ミルトンの『失楽園』(1667)でほぼ完成した感がある。ブランクヴァースは韻律としては極めて自由であるため、様々なヴァリエーションを持つが、シェイクスピア『ハムレット』(1601)での著名な台詞 To be or not to be, that is the question”(太字が強音節)も、前半部はブランクヴァースで、後半はトロカイオス調「強弱格」の「破格」が続くとするのが一般的である(後半部分もブランクヴァースで発音する場合がある)
 このように、
17世紀イギリス文学において最高の韻律形式となったブランクヴァースは、18世紀になると余り使用されなくなるが、ワーズワス(『叙情詩集』[1798 /1800])やキーツ(『ハイペリオン』[1820:未完])やシェリー(『鎖を解かれたプロメテウス』[1820])などにより見事に復興され、現代に至っている。ブランクヴァースはフランスではほとんど採用されなかったが、ドイツでは18世紀後半レッシング(『賢者ナータン』[1779])やゲーテ(『タウリス島のイフィゲーニエ』[1786])などにより本格的に使用された。ブランクヴァースはシェイクスピア劇の本質を形成する韻律であるため、この韻律を表現できない日本語などでは、表現できる言語に比較して翻訳上の不利は免れない。
 

フラッシュ・フィクション(英:Flash Fiction

 短編小説におけるサイズ別による一分野。概ね1000語から2000語の小説を指すが、数百語程度のものでも「フラッシュ・フィクション」(和名では「掌編小説」)と呼ばれる場合がある。2000語以上になると、「ショート・ストーリー」と呼ぶのが一般的である。極めて単語数の限られた小説ながら、一般小説と同様の構造(主人公、対立者、コンフリクト、紛糾、解決)を持とうとするが、当然のごとくスペースの制約から、こうした要素が暗示的に描写される場合も多い。その端的な例が、「6単語小説」である。
 フラッシュ・フィクションは、『イソップ童話集』(6世紀) にその起源を認めることができ、啓蒙主義時代にドイツで流行した『暦物語』もその亜種である。戦後には、W.ボルヒェルト(Borchert)1946年から47年にかけて数多くの戦後ドイツの荒廃を描いたフラッシュ・フィクションを著し、「掌編小説作家」としての名声を不動のものにしたが、特に近年、1990年代初頭にアンソロジーが出版されるなど愛好されるようになった。更にSNSの普及により、多彩なオンライン小説が生まれるなか、ツイッターは全角140文字、半角280文字まで入力できるため、欧米では280字以内で、我が国では140字以内で構成される「ツイッター小説」が脚光を浴びた。こうしたごく短い小説を「ナノフィクション」或いは「マイクロフィクション」と呼ぶ場合もある。


フランス装(仏:Brochage / 独:Broschure

 第二次世界大戦前まで主にフランスとドイツで行われていた製本方式。「仮綴装」とも呼ばれる。本体ページ部分は糸綴じで、それを大型の用紙で包み、糊を使わず周囲を折り込んで本体部分に装着し、仮の表紙とする。読者は書籍購入後、それぞれ好みの表紙を用いて改めて装丁し、完成本とする。しかし古書市場には、最終的な装丁を施していない刊本も多数流通している。読者の個人的嗜好に沿った装丁が可能となるため、特に文芸書ではフランス装が好まれ、現代でも稀に発行される場合がある。これとは別に、通常大型の紙を折り畳んで作られるページの端が裁断されておらず、ページはあたかも「袋綴じ」のように繋がる製本方式がある。こうした本はペーパーナイフを使ってページを切りながら読み、通読後ページ端をカットして揃え、表紙も新装して完本とするのだが、正式には「アンカット装」と呼ばれるこの製本方式がフランス装と混同される場合も多い。また、長期間分冊として発行され続ける辞典等においては、分冊がこのアンカット装で発行され、一定の分冊が発行された時点で版元より正式な表紙が発売され、読者が装丁を行う方式が現在も定着している。アンカット装の名残は我が国の「文庫本」にも残っている。「岩波文庫」や「新潮文庫」など伝統ある文庫では、「天」が揃えられていないが、これはアンカット装における最終装丁の前の状態を模したひとつの「装飾」であるといわれている。




フリードリヒスハーゲン詩人サークル(独:Friedrichshagener Dichterkreis

 1888年から89年にかけて、ベルリン郊外ミュッゲル湖畔の小邑フリードリヒスハーゲンに集った自然主義作家集団。めぼしい人物としては、L.アンドレアス‐サロメ(Andreas-Salomé)R.デーメル(Dehmel)M.ハルベ(Halbe)M.ハルデン(Harden)、ハルト兄弟(Hart)P.ヒレ(Hille)、フィドゥス(Fidus)P.カンプマイヤー(Kampffmeyer)F.ホレンダー(Hollaender)G.ランダウアー(Landauer)E.ラスカー‐シューラー(Lasker-Schüler)J.H.マッケイ(Mackay)Ch.モルゲンシュテルン(Morgenstern)E.ミューザム(Mühsam)R.シュタイナー(Steiner)F.ヴェーデキント(Wedekind)など、その後自然主義とは全く袂を分かつ作家たちも多く含まれる。 彼らは主に、当地に居を構えたヴィルヘルム・ベルシェ(Wilhelm Bölsche)とブルーノ・ヴィレ(Bruno Wille)の家を会合の場としていたが、それは「ドゥルヒ」のような定期な例会などではなく、任意に集った者たちが、共に散歩をしたり、カフェで寛いだりしながら、自然発生的に起こる文学論議や芸術論議を楽しみ、時に話題は自然科学や時の政治にも及ぶものだった。
 1885年から当地の近隣にあったエルクナーに居住していたG.ハウプトマン(Hauptmann)のもとを、ハルト兄弟ら自然主義作家たちはしばしば訪れていたが、新興産業都市ベルリンの影の部分を抉り出そうとする自然主義を推し進める一方、作家たちは汚れのない自然でのボヘミアン生活に憧れていたのである。そうしてフリードリヒスハーゲンに形成された詩人サークルの評判は国外にも広がり、北欧からも少なからぬ作家たちが参加した。彼らを結び付けていたものは、共通の文学・芸術観というよりも、素朴な友情であったというべきであろう。もっとも、集団内では、ハルト兄弟やベルシェをリーダーとする文学志向派と、ヴィレやカンプマイヤーに率いられる政治志向派(労働運動派)に分派していた。(後者は、1890年に「自由舞台」から分離独立し、ドイツ初の労働者向け劇場である「自由民衆劇場(Freie Volksbühne)」を設立する。)ただ、自然と一体化した生活を志向する彼らの理念からは、1893年にベルリン北部オラニエンブルクにドイツ初の菜食主義者集落である「エデン非営利果物栽培集落(Eden Gemeinnützige Obstbau-Siedlung)が誕生し、1900年以降にはハルト兄弟やランダウアーらが無政府・無宗教・共産主義コミューンである「ノイエ・ゲマインシャフト(Neue Gemeinschaft)」をベルリン中央部のシュラハテンゼーに設立した。

 

 

フリーメイソン(英:Freemasonry / 仏:FrancMaçonnerie / Freimaurerei

 中世から現代に至る世界的な親睦団体。「自由石工」と訳される団体であるフリーメイソンの起源は諸説あるが、最も有力なものは、中世イギリスにおける石工組合から発展したという説である。当時、聖堂や宮殿や城塞の建材となった石を加工する石工の社会的地位は高く、様々な特権を与えられた上に工事現場に従い国内を自由に旅行する権利も与えられていた。そうした彼らは諸地方に活動拠点(ロッジ)を形成し同じロッジの仲間の技術や慣習・伝統を継承する目的で、暗号を交えた言葉やロッジ入会の儀式などが導入されたとする。フリーメイソンの基本理念は、崇高な宗教心に基づいた道徳律の遵守であるが、宗教の別は問わない。また、理性や自由博愛精神も重視された。(従ってフランスの建国理念「自由・博愛・平等」には、フリーメイソン思想が色濃く認められる。)
 こうした思想は啓蒙主義時代のヨーロッパで歓迎され、啓蒙君主を中心に会員数を急速に伸ばしたが、その中には文学者を始めとする芸術家たちも多く含まれ、彼らの作品に多大な影響を与えた。それらの作品は啓蒙主義にも属するが、一般的な特徴として世界市民性、人間性の尊重、寛容性、隣人愛などの傾向を持つ。代表的な文学者会員としては、ドイル、チャーチル、ラクロ、ルソー、ベンジャミン・フランクリン、ゲーテ、レッシング、シラーなどが挙げられ、影響を受けた作品ではドイルの『恐怖の谷』(
1914-15:第二部にフリーメイソン的結社「自由民団」が描かれる)や、トルストイの『戦争と平和』(1865-69:第二部において主人公ピエールやボリスがフリーメイソンに入会し、会合の様子が描かれる)などが有名であるが、とりわけベートーヴェンの交響曲第九番終楽章で歌われるシラー作『歓喜に寄す』(1803)はフリーメイソン的理念を歌い上げた作品とされ、国籍を超えた人間精神の賛歌としてヨーロッパ連合(EU)のテーマ・ソング的存在となっている。
 

ブルー・ストッキング会(英:Blue Stockings Society

 18世紀中頃のイギリスで脚光を浴びた知的女性集団。「青鞜会」と訳される。女流作家エリザベス・モンタギュー〈Elizabeth Montagu〉が1750年頃ロンドンで開いた文芸サロンに出入りした主に女性からなる知識人たちを指す。一説では、主要な男性参加者であるベンジャミン・シュティリングフリート〈Benjamin Stillingfleet〉は、よそ行き用である黒絹のストッキングが経済的に買えず、代わりに羊毛の青い靴下をはいて会に参加していたため、会はじきに「ブルー・ストッキング」と呼ばれるようになったという。会に参加した女性たちは、サロンのお決まりであったトランプ遊びなどにはさして興味を示さず、主に文学・美術談義を繰り広げ、ひいては女性に対する教育の拡大と女性の社会参画(当時の女性は大学には入れず、子育てを中心とした専業主婦が大半だった)を求める態度を共有した。
 定期的な参加者として、エリザベス・ヴィジー〈
Elizabeth Vesey〉、ハンナ・モア〈Hannah More〉、ファニー・バーニー〈Frances Burney〉、キャサリン・マコーレイ〈Catherine Macaulay〉、へスター・シャポーネ〈HesterChapone〉など30名近くに及ぶが、これらの女性たちは皆、(女性道徳的)著作を手がけ、女性の社会進出の礎となった。また、既述したシュティリングフリートと同様、男性の参加者もおり、中でもディヴィッド・ギャリック〈David Garrick〉(俳優)、ホラス・ウォルポール(「ゴシック小説」の創始者)、サミュエル・ジョンソンらも会を通じて教養ある女性との交流を楽しんだ。「ブルー・ストッキング会」は、親睦団体に過ぎず、明確な会是も持ってはいなかったが、フェミニズム運動の萌芽として後世に与えた影響は無視できない。爾来、英語の”bluestocking”、フランス語のbas-bleusドイツ語の”Blauestrumpf”という単語は、いずれも「文学趣味の女性」の意味を持つようになったが、ここには「気取り屋の女」という否定的な意味も含まれている。我が国にもこの会の影響は及び、明治末期(1911)に平塚らいてうが創刊した文芸誌「青鞜」は、日本にフェミニズムを紹介した初めての試みといえる。また、1969年よりアメリカを中心に始まったより過激なウーマンリブ運動を「レッドストッキングス」と呼ぶ。



ブルームズベリーグループ(英:Bloomsbury Group

1905年から第二次世界大戦期まで、ロンドン中心部のブルームズベリー地区に結成され、20世紀前半のイギリス文化に大きな影響を与えた芸術・文化サークル。「ブルームズベリーセット」或いは「ブルームズベリーズ」と呼ばれることもある。主なメンバーはヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)、その姉で画家のヴァネッサ(Vanessa Bell)、その兄で夭逝したトビー(Thoby Stephen)、その弟で精神分析家のエイドリアン(Adrian Stephen)、ヴァージニアの夫で出版人のレナード・ウルフ(Leonard Sidney Woolf)、小説家E.M.フォースター(Forster)、画家ロジャー・フライ(Roger Fry)、評論家リットン・ストレイチー(Lytton Strachey)、文芸評論家デズモンド・マッカーシー(Desmond MacCarthy)とその妻の画家マリー、詩人ルパート・ブルック(Rupert Brooke)、経済学者ケインズ(John Maynard Keynes)、彫刻家スティーブン・トムリン(Stephen Tomlin)、画家ダンカン・グラント(Duncan Grant)、などが挙げられる。このグループ結成のきっかけは、上記のウルフたち4兄妹が、父親の死去に伴い1904年にブルームズベリー地区ゴードンスクェア46番地に引っ越したことにある。彼らの家が以降グループの集会場となり、ここでグループは朗読会や討論会や展覧会など様々な催しを企画した。上記のメンバーは、グラントとマリーを除き皆ケンブリッジ大学の学生であり、特にフォースターやフライ、ストレイチー、マッカーシー、ケインズ、トムリン、レナード・ウルフは大学の知的エリートソサエティである「ケンブリッジ使徒会(Cambridge Apostles)」メンバーにも選ばれている。グループ加入は、使徒会のようにメンバーの推薦を必要とはしないが、両者には議論を中心に据えたリベラルな気風が共通している。グループは統一した宣言を出すことなどなかったが、その左派的平和主義や同性愛への理解など、文芸や造形美術以外の分野でも、同時代以降のイギリス思潮に少なからぬ影響を与えた。(グループのメンバーには、ウルフやケインズ、それにバートランド・ラッセル[Bertrand Russell]など、後世に多大な影響を与えた者が多く、それをグループの業績と見る向きもある。)
 ただ、このグループが最も世間の耳目を引いた出来事は、
1910年に起きた「ドレッドノート悪戯事件(偽エチオピア皇帝事件)」であろう。この事件は、ウルフ(当時はヴァージニア・スティーブン)ら6名のグループメンバーが、同じケンブリッジ大生ではありながら「悪戯」を趣味とするホレス・ド・ヴィアー・コール(Horace de Vere Cole:非メンバー)の首謀のもと、エチオピア王族の一員であると偽称して当時のイギリス海軍をまんまと欺き、旗艦ドレッドノートを「視察」したスキャンダルである。この事件で、イギリス海軍は世間から嘲笑されたが、彼らの行動を罰する法規がなかったため、正式に処罰されることもなかった。一方、彼らが視察中に発した意味不明の感嘆詞「ブンガブンガ」は、当時の流行語となった。

 

 

プレイヤッド派(仏:La Pléiade

 ピエール・ド・ロンサール(Ronsard)を中心に形成された7人のフランス詩人グループの呼称。「プレイヤード派」、「七星詩派」などとも呼ばれる。その呼称は、紀元前3世紀頃、古代アレクサンドリアの7人の詩人たちが、ギリシア神話中の「プレイアデス」(アトラスの子で、星座となった美しい7人の娘たち)になぞらえられたのに因む。その始動はジョアシャン・デュ・ベレー『フランス語の擁護と顕揚』の出版(1549)が直接の契機とされる。この書でベレーは、これからのフランス詩は俗語文学であった過去と決別し、古代ギリシア・ローマ詩やイタリア詩に比肩すべき気品と格調を備えるべきと唱えた。この書の趣旨に賛同し当初は「ブリガード(Brigade)」(部隊)と自称していた青年詩人集団が、1556年ロンサールが名づけた「プレイヤッド」と呼ばれるようになった。そのメンバーには変動があり、ロンサールが何度か発表した7人のリストの内、不動であるのは、ロンサール/ジョアシャン・デュ・ベレー(Bellay)/ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ(Baïf)/ポンチュス・ド・チヤール(Tyard)/エチエンヌ・ジョデル(Jodelle)であり、他にはジャン=バスチエ・ド・ラ・ペリューズ(Péruse)/レミ・ベロー(Belleau)ギヨーム・デ・ゾーテル(des Autels)/ジャック・ペルチエ(Peletier)・デュ・マン/ジャン・ドラ(Dorat)などが時に応じて追加された。1550年代からの約10年間に彼らは抒情詩を中心として際立った成果を残したが、その多くは、ソネットアレクサンドランで書かれている。また、彼らは時の国王フランソワ1世の求めに応じて、標準フランス語の確立と洗練に携わった。主な著作にロンサール『オード集』(1550-52),デュ・ベレー『オリーブ』(1549)、チヤール『恋の過ち』(1549)、ジョデル『囚われのクレオパトラ』(1553:悲劇)などがある。彼らの業績はフランス古典主義の成立と共に忘れられたが、19世紀に入り再評価され、現在フランスの代表的出版社であるガリマール社が出す、このグループの名を冠した一大古典叢書「プレイヤッド叢書」は余りにも有名である。
 

プレシオジテ(仏:Préciosité

 17世紀中頃よりフランス上流社会に流行した優雅で上品な作法や会話を最重要視する価値観。また、そうした価値観を、技巧を凝らして表現した文章。当時盛んに開かれた文芸サロンにおいては、言葉使いや立ち振る舞いにおいて極度に洗練された形式が尊ばれ、そうしたサロンに出入りする作家たちの文学にも影響を与えた。サロンの中での文学は専ら純然たる娯楽の手段と見なされたので、肩のこらぬ短詩や短文形式の文学が好まれたが、技巧をちりばめたそれらの作品はマニエリスム文学の一流派を形成し、バロック文学の一種と見なすことも可能である。プレシオジテに凝り固まった女性は「プレシューズ」(”Précieuses”)と呼ばれ、こうした女性を揶揄した作品が、却って当時の文学を華やかに彩っているが(モリエール『滑稽な才女たち』[1659]、ソメーズ『プレシューズ大辞典』[1661]、ボアロー=デプレオー『風刺詩集』[1666]など)、プレシューズじみた登場人物が繰り広げる純粋な恋愛を扱った文学が数多く書かれた。中でも影響を与えたものとしては、デュルフェ『アストレ』(160728)、やスキュデリー嬢『クレリー』(165460)などが挙げられ、それらの作品は、牧人小説古典主義とも境を接している。また、ラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』(1678)は、フランス最初の心理小説として特筆されるべき作品だが、宮廷を舞台にした美貌の貴婦人の恋愛譚という設定にはプレシオジテ的傾向も強い。
 

ブレサンブランス(仏:Vraisemblance

戯曲創作上の規範のひとつ。「真実らしさ」と訳され、「ビアンセアンス(創作上のエチケット)」や「身分規範」、或いは「三一致の法則」と共に、フランス古典主義における重要な文学規範とされた。もともとは、アリストテレス『詩学』(前335)第9章で唱えられた創作者の基本姿勢:「詩人の仕事は、実際に起こった出来事を語ることではなく、起こるであろうような出来事を、即ち、もっともな成り行きで起こり得る出来事を語ることである。」の考えに基づいた規範である。つまり、物語の筋の自然な展開を是とし、不自然な展開を否とする態度である。「ル・シッド論争」で取り上げられた議論のひとつに、「シメーヌが父の仇であるロドリーゴと結婚するのは、物語の展開上不自然である」というアカデミー・フランセーズからの批判があったが、この意見こそ、ブレサンブランス重視の古典主義的立場を表す好例である。しかし、「事実は小説よりも奇なり」(バイロン)や、「事実は時として決して真実らしくないことがある」(ニコラ・ボワロー〈Nicolas Boileau〉)などの言葉が示すように、物語の展開には無限の可能性があるのだが、ブレサンブランスは往々にして創作の足かせとなり、多様な作品の出現を阻害したことも事実である。
 

プロタゴニスト(希:πρωταγωνιστής / 英: Protagonist

 古代ギリシア演劇における第1の役柄を指す用語。第2の役がいる場合はデウテラゴニスト、第3の役はトリタゴニストと呼ばれる。それに対してプロタゴニストの計画を阻もうとする者をアンタゴニスト(敵対者)という。古代ギリシア演劇ではプロタゴニストとアンタゴニストの2名だけで演劇が上演されていた。今日では、プロタゴニストは単に文学や映画の主役の意味で用いられている。詳細はアンタゴニストの項を参照。
 

プロット(英:Plot

 物語を作るにあたっての設定・枠組みを指す。すなわち、「いつ、どこで、誰が、どうして、何をして、どうなる」のか決める作業を「プロットを設定する」といい、物語を構想する上での基本的な作業となる。更に詳細なプロットとしては、登場人物の相関関係、物語世界の背景、使用される小道具・大道具なども含まれる。これらのプロットが組み合わさり、ひとつの流れとなって語られたものが「ストーリー」であるが、ストーリーの部分的なまとまりをプロットと呼ぶ場合もあり、その点でいえば、「起承転結」や「序破急」もプロットの配置手法と考えることができる。
 


プロローグ(英・仏:Prologue / 独:Prolog

 ギリシア語におけるPro-(前の)logos(言葉)の合成語であり、元々は古代ギリシア劇で、コロスが登場する前に役者が現れ前口上を述べる「プロロゴス」を指す。ルネサンス期には、演劇の冒頭に前口上役が現れ劇の内容を風刺も込めて紹介する形に一般化した。これが近現代演劇における「序幕」へと発展するが、中にはゲーテ『ファウスト第一部』(1808)の如く、プロローグ「献辞」の後に改めて「序幕」を設定する作品もある。更にプロローグは近代の小説や詩集における「前書き」や「序文」として定着した。内容に関して、古代ギリシア・ローマ時代の叙事詩におけるプロローグは、『イリアス』(前8世紀以降)の如く神への訴えが一般的であったが、中世演劇における作品内容への導入機能を経て、読者への呼びかけ或いは挑発(セルバンテス『ドン・キホーテ』[1605-1615])、伏線として一見無関係な話の設置(ホーソーン『緋文字』[1850]における序章「税関」)など、多種多様なプロローグが認められる。また、イン・メディアス・レス枠物語で物語全体を先取りする話を冒頭に置く場合も、冒頭部分がプロローグと捉え得る場合がある。映画やテレビドラマでは、テーマ音楽を背景にタイトルが表示される前に、一定時間作品の冒頭部分が上映・放映される手法(オープニング)が現在では一般的で、これも一種のプロローグと見なし得る。対概念として、作品末尾に置かれる「エピローグ」がある。

 

文学カフェ(仏:Café littéraire / 独:Literaturcafé

 カフェ(コーヒーハウス)は、16世紀半ば(1554)にオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブールにおいて開店したものを嚆矢とするが、17世紀にはヨーロッパに伝わり、ベネチア(1647)、ロンドン(1652)、アムステルダム(1663)、パリ(1672)、ブレーメン(1673)などに次々とカフェがオープンした(ただ、これらのカフェの詳細は不明)。カフェは新聞や雑誌が常備され、情報の集積地になると同時に、常連客たちのサロンとして、時の言論文化を担う場所ともなった。特にファン・ド・シエクルにおける都市では、作家を始めとする芸術家が集うカフェは「文学カフェ」として文学の重要なトポスとなる。こうした文学カフェがとりわけ発達したのは、世紀転換期ウィーンであるが、時代を問わず他都市にも文学カフェがあり、以下に代表的な店を挙げる。

カフェ・グリーンシュタイドゥル(Café Griensteidl:ウィーン)

   1847年に薬剤師H. グリーンシュタイドゥルにより開店。当初からF.グリルパルツァーなどの作家が贔屓としたが、世紀転換期には若きウィーン派H.バール、H.v.ホフマンスタール、A.シュニッツラー、K.クラウス、S.ツヴァイク、P.アルテンベルク)がここに集った。同時にイドゥナの作家たちも出入りした。ウィーン世紀末文学を象徴する文学カフェで、「誇大妄想カフェ(Café Größenwahn)」の異名を取った。1891年、ここで23歳のステファン・ゲオルゲが18歳のホフマンスタールに話しかけ、ファン・ド・シエクルの作家間交流でも特に注目を浴びた両者の関係が始まる。1897年の閉店後は、作家たちは「カフェ・ツェントラール」にその拠点を移した。

カフェ・ツェントラール(Café Central:ウィーン)

   1876年開店。22か国語に亘る新聞を250紙常備。常連客:S.フロイト、E.フリーデル、H.v.ホフマンスタール、A.ロース(カフェ・ムゼーウム内装を設計)A.シュニッツラー、R.ムージル、S.ツヴァイク、A.ポルガー、P.アルテンベルク(この店を「自宅住所」と公言していた)L.トロツキー(この店でいつもチェスをしており、店自体も「チェス大学」と呼ばれていた)など。1943年に爆撃による損傷で閉店したが、1975年に修復され再オープンし、現在はウィーンの観光スポットとなっている。

カフェ・ムゼーウム(Café Museum:ウィーン)

   1899年開店。その名は美術史博物館の裏に位置したことからつけられた。前述の2店に比して、ロース設計による機能性を追求したシンプルな内装で異彩を放ち、後のカフェ建築に大きな影響を与えた。常連客:P.アルテンベルク、K.クラウス、F. ヴェルフェル、G.トラークル、R.ムージル、J.ロート、A.ベルク、H.ブロッホ、E.カネッティ、G.クリムト、O.ココシュカなど。数度の改装を経て現在も200以上の席を持つ大規模カフェとして存続し、定期的に開かれる朗読会で文学カフェの伝統を守っている。

カフェ・バウム(Zum Arabischen Coffe Baum:ライプツィヒ)

   パリのカフェ・プロコープと並びヨーロッパで最古の文学カフェのひとつ。既に16世紀の半ばから飲食を提供していたが、1711年からドイツで初めてコーヒーを提供したことで知られる。そのため店名に「アラビアの」という形容詞を冠し異国情緒を強調している。常連客:J.C.ゴットシェト、G.E.レッシング、J.W.ゲーテ、E.T.A.ホフマン、E.ケストナー、またライプツィヒの土地柄で音楽家も数多く出入りし、G.Ph.テレマン、J.S.バッハ、R.シューマン、F.リスト、R.ヴァーグナー、E.グリークらが常連客だった。とりわけシューマンは、当時の秘密結社ブームの影響を受け、E.T.A.ホフマンがベルリンに結成した文学結社「ゼラピオン同人」に倣い、音楽結社「ダビデ同盟」(Davidsbündler:メンデルスゾーンも参加)1833年に結成し、ニックネームを名のった会員たちがここで例会を開いた。ナポレオンも解放戦争の決戦である「ライプツィヒの戦い」(1813)の際にここを訪れている。

カフェ・プロコープ(Café Procope:パリ)

   1686年開店。ヨーロッパ最古の文学カフェのひとつ。パリで最初に開店したカフェであるが、その成功が当地にカフェ文化を花咲かせる契機となった。アイスクリームをパリで最初に提供した店としても知られる。ウィーンとは若干異なり、ここでは政治談議が盛んに行われ、特に啓蒙主義哲学者の溜まり場となったが、コメディ・フランセーズの向かいに位置していたこともあり、文学者や芸術家の出入りも絶えなかった。常連客:ヴォルテール、ルソー、ディドロ―、ボーマルシェ、バルザック、ユゴー、ヴェルレーヌ、アナトール・フランス、A.v.フンボルト、ミュッセ、ジュルジュ・サンド、そしてナポレオン、更にはロベスピエール、ダントン、マラーらフランス革命の中心人物たちもここを会合の場としていた。そのせいもあり、王政復古後は、反政府的な文化人がここに集ったため、官憲に監視されたカフェでもあった。現在も営業中。

ドゥ・マゴ(Les Deux Magots:パリ)

   1812年に東洋(主に中国)の物品を扱う雑貨店として開店、1873年にサン・ジェルマン・デ・プレに移転した後、1885年頃にカフェへと衣替えした。「ドゥ・マゴ」とは2体の中国製陶製人形の意で、店内には開店当初から同様の人形(座像)が飾られている。常連客:ヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー、O.ワイルド、ヘミングウェイ、ジッド、プレヴェール、アポリネール、サルトル、ボーボワール、また、ブルトン、アラゴンら、ダダイストシュルレアリストの溜まり場ともなった。ここには画家もよく集い、モネ、ルノアール、シスレーらの印象派やレジェやピカソやジェコメッティなどキュビズムやシュルレアリスムの画家たちも通った。1933年、権威主義的な「ゴンクール賞」に対抗して、常連客たちの出資による、「ドゥ・マゴ賞」が創設され、以来毎年国内の有望新人作家に贈られている(初回の受賞者はレーモン・クノー)。我が国でも1989年に系列店が渋谷に開店し、1991年からは「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」が創設され国内の主要な文学賞のひとつとなっている。

カフェ・ド・フロール(Café de Flore:パリ)

   1887年開店。その名は、向かいにあったフローラ(花と春の女神)像に由来する。所在地がサン・ジェルマン・デ・プレであり、ドゥ・マゴと近接していたため、常連客はほぼ重複しているが、特にシャルル・モーラスは1920年代にこの店の階上に住んでいた。J.ボールドウィンが処女作『山にのぼりて告げよ』(1953)をここで書いたことも知られている。第二次世界大戦後は、実存主義の一大拠点となり、サルトルの『存在と無』(1943)は大部分がここで書かれ、1964年に彼はここで記者会見を行い、ノーベル賞辞退を発表した。1994年より、「ドゥ・マゴ」同様、若手新進作家が対象の「フロール賞」を授与している。

カフェ・ヒホン(Café Gijón :マドリード)

   1888年開店。開店当初は小さな店だったが、スペイン内戦後に文学カフェとして多くの文人や芸術家の集う店となった。常連客:ヘミングウェイ、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ベニート・ペレス・ガルドス、カミーロ・ホセ・セラなど。テルトゥーリア(スペイン語圏文化人の常連客会合)が開催された代表的なカフェである。

文学カフェ(Литературное кафе:サンクトペテルブルク)

   フランス人店主がサンクトペテルブルク最初のカフェ兼菓子店として1816年開店。検閲が厳しかった当時のロシアで、無検閲の外国新聞・雑誌を多数取り揃えていたため、程なく多くの文筆業者やジャーナリストが集まるようになる。近くに住むプーシキンも常連客の一人だったが、彼は1837127(旧暦)午後4時にこの店で介添人と落ち合い、決闘の場に向かい、痛手を負った結果、その2日後にこの世を去った。他の常連客としてドストエフスキー、レールモントフ、ツルゲーネフ、ネクラーソフらがいるが、チャイコフスキーは1893年、ここで生水を飲んだためコレラに罹患し死亡したという説が有力である。

アンティコ・カフェ・グレコ(Antico Caffè Greco:ローマ)

   1760年開店。ベネチアのカフェ・フローリアンに次ぎイタリアで2番目に古いカフェである。創業者がギリシア人であったため、「グレコ(ギリシア人)」と名付けられた。デミタス・カップを開発したことで有名。スペイン広場の近くにあり、近隣にフランスとスペインの外交施設や多くのホテルがあったため、外国人作家がよく出入りした。常連客:ゲーテ、バイロン、スタンダール、キーツ、アンデルセン、マリア・サンブラーノ、R.ワーグナーなど。E.T.A.ホフマンは、『ブランビラ王女』(1820)3章及び7章で、カフェ・グレコを描いている。1953年には国の重要文化財に指定された。


文学賞(英:Literary award / 仏:Prix littéraire / Literaturpreis

 文学者を称える行為は、古くは古代ギリシアにまで遡り、優れた詩人に月桂樹の冠が授与される風習があった。この風習は中世には西欧各国で「桂冠詩人」という制度に整備され、イギリスでは現在も存続している。中世ドイツにおける宮廷詩人たちの歌合戦や、フランスにおけるトルバドゥールたちの詩歌競技会もその先駆形態と呼べ、以降も著名な文学者には勲章が授与されてきたが、1900年にノーベル文学賞が創設されると、各国に文学賞が次々と創設された。それらの賞は国家が贈呈するものと、個別の機関が贈呈するものに分かれるが、各国の代表的な文学賞は以下のとおりである。

フランス:「ゴンクール賞」:フランスの作家ゴンクール兄弟に因んで1903年に創設。アカデミー ・ゴンクールにより選考・贈呈される。独創的なフランス語散文作家に贈られるが、新人に贈られる場合が多い。名誉の授与のみを目的とし、賞金が極めて小額(10ユーロ[千数百円])であることでも有名である。

アメリカ:「ピューリッツァー賞フィクション部門、詩部門、演劇部門」:新聞王ジョゼフ・ピューリッツァーの寄付金により1917年に創設され、現在21の部門からなる賞の3部門。アメリカ人作家による優れた作品に贈られる。

ドイツ: 「ゲオルク・ビュヒナー賞」:戯曲家ビュヒナーに因んで1923年に創設。ドイツ語で著作する作家に贈られる。受賞者は講演することが原則となっている。
「グルッペ47賞」:1947年に結成された作家集会「グルッペ47」がメンバーの投票により選出した文学賞。1950年から67年にかけて10回しか授与されなかったが、ハインリッヒ・ベルやギュンター・グラスなど、後のノーベル文学賞作家を含めたドイツを代表する作家たちが新人時代に受賞している。

イタリア:「ストレーガ賞」:酒造会社ストレーガ社が1947年より主催する文学賞。イタリア人作家に贈られる。

イギリス:「ブッカー賞」:ゴンクール賞を模範に1968年に創設。イギリス連邦及びアイルランド国籍作家による長編小説に贈られる。比較的浅い歴史にも関わらず高い権威を獲得しているのは、選考委員が毎年代わるなど、徹底した公平性を維持しているためである。

スペイン:「セルバンテス賞」:1976年に創設され、スペイン語文学に貢献した作家に授与されるスペイン最高の
文学賞。

チェコ: 「フランツ・カフカ賞」:国籍・言語は問わず、民族文化に貢献した作家に贈られる。2001年に制定された新しい賞であり、賞金もさして高額ではなく(120万円)、その権威は他の文学賞ほどではないが、受賞直後にノーベル文学賞を受賞する作家が多いことで注目度の高い文学賞となっている。

ソ連:「スターリン賞」:1939年に創立。ソビエト連邦政府が授与した国家賞。他にも音楽、絵画、バレエ部門などを設けていた。設立当初は優れた作家たちが受賞していたが、「雪解け」以降のスターリン批判が始まると、評価の分かれる作家もしばしば受賞するようになり、1961年を最後に廃止された。

その他に、アメリカで授与される「ヒューゴー賞」(1953年創設のSFを対象とする文学賞)、「ネビュラ賞」(1965年創設のファンタジー小説を対象とする文学賞)などが有名である。
 文学賞は近年、作品の話題作りに授与されるケースも目立ち、またノーベル文学賞などは、政治的に利用される気配がないともいえない。文学の衰退が叫ばれる中、文学賞は増加しており、その本質的意義を見直す段階に差し掛かっているといえよう。


ブンガブンガ(英独仏:Bunga bunga

 1910年、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)ら「ブルームズベリーグループ」に属する大学生たちが起こした大規模な「悪戯」である「ドレッドノート悪戯事件(偽エチオピア皇帝事件)」(学生たちがエチオピア王族であると偽称して、当時のイギリス海軍の旗艦「ドレッドノート」を視察した事件)の際、扮装した学生たちが、艦内の設備に驚く度に発した感嘆の台詞。元々はオーストラリアの原住民が名付けた同国東部の地名であるとされるが、学生たちは悪戯の信憑性を高めるために用いただけで意味不明である。この言葉はナンセンスな掛け声として当時の流行語となったが、その1世紀後の2010年、当時のイタリア首相シルヴィオ・ベルルスコーニが開いた乱交パーティーを指す言葉として再び脚光を浴びた。以降は明確な意味はやはり曖昧なまま、性的なニュアンスを多分に含む爛熟した文化を指す呼称として、楽曲名や店名や商品名に使用されるなど、大衆社会に浸透している。

 

文芸共和国République des lettres

 国家間の国境を超え、共通した真の文芸により学者・文学者によるひとつの共同体を構築しようとした1718世紀の構想。当時のヨーロッパは政治・宗教的に著しく分断されており、文芸に対する弾圧も激しかった。そこで人文主義者たちは、文芸や人文科学により支えられた民主的且つ自由で平等な共同体を夢想した。この名称は17世紀後半に啓蒙主義文筆家ピエール・ベールにより出版された文芸誌『文芸共和国便り』(現在も刊行中)から採られ、その最大の成果は政治や宗教の垣根を超え、当時のあらゆる知識を結集・網羅したディドロ及びダランベール監修の『百科全書』(1777)である。この概念は、19世紀前半にゲーテが唱える「世界文学」にも通じるものだが、その後に興隆する国民文学運動により色あせた。マラルメも1875に雑誌「文芸共和国」を創刊し、彼を中心として一種の文芸共和国が形成されたこともある。このように、ロマン主義象徴主義写実主義を経て現代でも国家問題に関し、フランスの作家たちが他国の状況に較べ、より積極的に関与しようとする態度(ゾラ、カミュ、サルトルなど)は、文芸共和国の構想にもその系譜を見出すことができよう。
 

文芸サロン(仏:Salon littéraire / Literarischer Salon

 17世紀フランスに始まり20世紀前半まで存続した文学者・芸術家たちのサークル。上流階層の女性が主宰し、定期的に会合を持った。サロンでは上品で洗練された会話が楽しまれ、特に文学者は歓迎され、文学談義や新作の朗読などが盛んに行われた。(わが国と異なり、「朗読会」が現在も欧米文学界での重要な催しである一因は文芸サロンの存在にある。)その原型は、13世紀に詩人たちをパレルモに集めた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の宮廷や、ルネサンス期にミケランジェロやダビンチらをフィレンツェに集めたメディチ家に見られるが、近代文芸サロンは、1600年初頭、台頭してきた市民階級が絶対主義のもとでも自己を主張するべく開催されるようになった。その始まりは、ランブイエ侯爵夫人がパリ、ルーブル宮近くの私邸(ランブイエ館)に1607年から各界の名士たちを招き始めたサークルとされる(常連客にマレルブ、コルネイユ、ラ・ファイエット夫人など)。サロンは男性主体の宮廷とは異なり、富裕貴族層の女主人(サロニエール)が主催する会で、階級を超えた自由な意見交換が可能であり、啓蒙主義の推進に寄与し、結果的にフランス革命を引き起こす原動力の一つともなった。また、女性にとっては知的刺激を受ける場として大学を代替する存在にもなり得た。
 代表的な文芸サロンとしては、フランス、パリでは
1652年より始まるスキュデリー嬢のサロン(彼女はランブイエ侯爵夫人のサロンの常連であり、侯爵夫人のサロンを引き継ぐ形となった彼女のサロンは、杓子定規な上品さ[プレシオジテ]を更に強め、外部からは 「気取り屋」とも揶揄された)、ラ・サブリエール夫人(ラ・フォンテーヌを支援)のサロン、或いはイタリア・ローマで、反マニエリスム運動を主導したアルカディア協会の母体となる元スウェーデン女王クリスチーナのサロンなどがあり、18世紀に入るとジョフリン夫人(百科全書の発行に寄与:常連客にモンテスキュー、マルモンテルなど)、ランベール夫人(常連客にディドロ、ダランベールら百科全書派)、タンシン夫人(ランベール夫人のサロン出席者を夫人の死後引き取る。常連客にモンテスキュー、フォントネルなど)、スタール夫人18世紀末に人気を集めた母ネッケール夫人のサロンで育ち、その交友関係から知ったドイツ・ロマン主義をフランスに紹介した。移住先のスイス・コペでもサロン活動に熱中した)らのサロンなどが挙げられよう。文芸サロンでの洗練された言語使用は、フランス語の正書法確立も推進したと考えられる。18世紀転換期のロマン主義時代に盛んとなったドイツのサロンでは、主催者にはユダヤ人女性が多く、ヘンリエッテ・ヘルツ17801803開設:参加者にブレンターノ、フンボルト兄弟、シュライエルマッヒャー、F.シュレーゲルなど)ラエル・ファルンハーゲン17901806 / 18201833開設:彼女はヘルツのサロンの常連客だった。参加者にジャン・パウル、ティーク、フンボルト兄弟、フーケー、ベッティーナ・フォン・アルニムなど)らのサロンが殊の外名高い。
 

文芸評論(英:Literary criticism / 仏:Critique littéraire / Literaturkritik

 文学作品の評論全般のこと。文学について、その構造や機能を文学理論を用いて分析する文学研究とは趣を異にする。小学生が物語についてまとめる感想文から、懸賞論文に入選するような極めて思索的な評論文までその範囲は非常に広い。その分野は、概ね個々の作品を論じる「作品論」と、特定の作家を論じる「作家論」に大別されるが、文学史的な視点から広く文芸思潮を論じるものもある。文芸評論は、既にアリストテレスの『詩学(前335において現れており、長い歴史を誇るが、近代にあっては18世紀イギリスにその源流が認められよう。当時は自らの美意識に照らし合わせ、作家の意図を探ることに眼目が置かれた印象批評的な手法が大勢を占めたが、20世紀に入るとフォルマリズムやニュー・クリティシズムなどが台頭することにより、作品そのものの存在形態を客観的に考察する傾向が生じ、やがてそれらの手法は文学理論を形成して評論とは一線を画していった。オーソドックスな文芸評論はしかし、現在も書評の形で新聞や雑誌やネットといったメディアを通じて盛んに行われている。
 

文芸復興 → ルネサンス

 

文献学(独:Philologie / Philology

 文献の検証を主たる手段とした文学及び語学研究の総称。尚、歴史研究や哲学研究の手法としても文献学と呼ばれることがある(ドイツのテオドール・モムゼンはその文献学的歴史研究により1902年にノーベル文学賞を受賞した)。名称の語源はギリシア語「フィロロゴス(言葉への愛)」に由来する。その発祥は啓蒙主義時代における古代ギリシア・ローマ文学研究であり、写本を比較分析することにより、失われた原典をできるだけ忠実に再現しようとする「本文批判」を軸とした古代文献学が盛んに研究された。以来、聖書や現代作家にいたるまで、オリジナルの原典を模索する研究はヨーロッパ文学研究の伝統のひとつとなっている。語学分野における文献学的研究の最大の成果は、比較言語学の分野でもたらされ、各ヨーロッパ言語及びサンスクリット語の比較により、それらの言語の原型である「インド・ヨーロッパ祖語」を構想したことであった。現代における文献学の主な分野は、「古代文献学(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、聖書)」、「ヨーロッパ文献学(各国語)」、「オリエント文献学(東洋、中近東、アフリカの言語)」、「アメリカ・オセアニア文献学」、「比較文学・言語学」などが挙げられる。文献学の手法はあくまで文献を客観的に分析することにあり、文学・語学研究における初めての自然科学的研究手法の導入といえる。従って近代の文学研究で一般的となった印象批評とは一線を画する。そうした自然科学的手法の最たるものは、作者不詳の文学作品に用いられる単語の平均的文字数や特有の言い回しの頻度、或いは全体の語彙数などを計量的に算出して作品の包括的特徴を導き出し、作者を特定しようとする「計量文献学」と呼ばれる研究手法である。この手法は近年、特にシェイクスピア作品の同定・分析に用いられた。



ペーパーバック(英:Paperback

 ソフトカバーの廉価版冊子。雑誌や文庫も広義には含まれるが、一般的には約18センチ×11センチのサイズの単行本を指す場合が多い。1900年代前半に登場し、それまでは高価であった本のイメージを一新した。その先駆けは、1908年にカール・クリストフ・トラウゴット・タウヒニッツがライプチヒで刊行したギリシア・ラテン古典集である。その後、1841年に息子のクリスティアン・ベルンハルトが英語版の「英米作家集」を刊行して爆発的な人気を得た。その後約100年間、廉価版単行本市場はタウヒニッツ社が独占するが、1932年にハンブルクのアルバトロス社が誕生。本格的なペーパーバックを刊行する。しかし、35年にはアレン・レーンがロンドンで「ペンギン・ブックス」の刊行を開始し、アルバトロスとの競合に勝利した。「ペンギン・ブックス」は当時のタバコ1箱の価格(6ペンス)でヘミングウェイやアガサ・クリスティ等同時代作家の作品を出版し、書籍店ではなく、新聞売店や小売チェーン店で販売することにより人気を博し、現在は「ペンギン・ランダムハウス社」として世界最大の出版社に成長している。「ペンギン・ブックス」の登場により、ペーパーバックが独立した書籍分野として認知されたといえよう。この他、アメリカでは1839年にサイモン・アンド・シャスター社が最初のペーパーバックを出版し、1966年からは「ポケットブックス」シリーズとして同国の代表的ペーパーバックに育て上げたが、それ以前に同国ではパルプ・マガジンの伝統がある。現代では、ペーパーバック=娯楽小説という認識が一般的であり、その点で、ドイツのレクラム文庫(1867創刊)フランスのクセジュ文庫1941年創刊)、或いは我が国の岩波文庫(1927年創刊)などは廉価版叢書の代表的なものだが、サイズや出版方針から見て純粋なペーバーバックとは見なされていない。


ヘクサメトロス(希:ξάμετρον / 英・独:Hexameter

 韻文詩において6つの詩脚からなる詩形。「6歩格」と訳される。『イリアス』、『オデュッセイア』(前8世紀以降)、『アエネイス』(29-19)といった古代ギリシア・ローマ文学を代表し、英雄を扱った叙事詩がこの詩形で書かれているため、時に「英雄詩形」とも呼ばれる。(ホラティウス[Horatius]『詩論』[前19年頃]も文芸理論書ながらこの詩形で書かれている。)この他にもオウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(1-8)がヘクサメトロスで書かれており、当時用いられた代表的な詩形であった。詩脚は基本的にダクテュロス(長短短格)で構成されるが、アクセントとしてスポンディオス(長長格)やトロカイオス(長短格:特に行末)に置き換えられる場合も多い。ただ5詩脚目だけは必ずダクテュロスとなった。基本的には以下のリズムとなる。

υ υ | υ υ |υ υ | υ υ | υ υ|υ(-は長音、υは短音)

ギリシア・ローマ文学でこのように花開いたヘクサメトロスだが、フランス文学やスペイン文学には、これらの言語の単語が概ね語末にアクセントを持つ関係上全く馴染まなかった(その代わりアレクサンドランが発達した)。イギリス文学でも主要な詩形とはならず、ジョージ・チャップマン(George Chapman)による『イリアス』の翻訳(1611)はアレクサンドランで書かれ、イギリス最大の叙事詩と見なされるミルトン(Milton)の『失楽園』(1667)ブランクヴァースで書かれている。ドライデン(Dryden)やポープも古典的叙事詩を訳したが(ドライデン訳『アエネイス』[1697]/ポープ(Dryden)訳『イリアス』『オデュッセイア』[1715-26])その際に使用された韻律詩形は英雄対句である。一方ドイツにおいてヘクサメトロスはクロプシュトック(Klopstock)の大作『メシアス』(1748-73)で使用され、見事に復興を遂げた。(この作品によってドイツ叙事詩の主流詩形がアレクサンドランからヘクサメトロスに交替したといわれる。)ホメロスの訳者として名を残すフォス(Voss)もこの詩形を利用した。その後もゲーテ(Goethe)『ヘルマンとドロテア』(1797)やヘッベル(Hebbel)『母と子』(1859)、更にはハウプトマン(Hauptmann)『ティル・オイゲンシュピーゲル』(1928)など、現代にまでヘクサメトロスの伝統は継承されている。19世紀に入り、イギリスにおいてもドイツの影響でこの詩形による作詩が試みられるようになり(コールリッジ[Coleridge]、テニソン[Tennyson]など)、アメリカではロングフェロー(Longfellow)が『ヘルマンとドロテア』を範に取り、叙事詩『エヴァンジェリン:アカディの話 (1847)をヘクサメトロスで詠じている。



ペトラルキズム(伊:Petrarchismo

 16世紀イタリアで発祥し、その後全ヨーロッパに広まった抒情詩の作風。「ペトラルカ詩風」と和訳される。ペトラルカの恋愛抒情詩群『カンツォニエーレ(14世紀後半)は、その後のイタリア文学に絶大な影響を与えたが、とりわけ16世紀になると、ペトラルカの作風を模した恋愛詩が競うように市民の間で作られ、彼の人物や生き様までもが崇拝の対象となり、正に社会現象とも呼びうる「ペトラルカブーム」が訪れた。当時の知識人は、詩人に限らず抒情詩を物したが、その多くが『カンツォニエーレ』の影響を受けたものだった。
 ペトラルキズムは、詩形を指す用語ではなく、作風を指すが、主な特徴としては、コンツェッティ(後のバロック文学の特徴ともなった奇抜で凝った語呂合わせや比喩)をちりばめた洗練された詩句、美しい響き、撞着語法(矛盾した単語の組み合わせ)、交錯配列法ABBAといった同類の語群等の交錯した配置)などが挙げられる。分けても、女性崇拝、無償の愛、或いは愛の苦しみ等を抒情溢れる美文で歌い上げた点が特筆される。その結果、ペトラルカが崇拝した女性ラウラ、更に遡ってダンテが『神曲』(13世紀) の中で賛美したベアトリーチェが、後の世でも女性の究極の姿と見なされるに至る。詩人においても、ペトラルキズムの影響を受けた作家としては、国内ではピエトロ・ベンボ、ルドヴィーコ・アリオスト、ベルナルド・タッソ、ルイージ・アラマンニ、ピエトロ・アレティーノなどが挙げられるが、ペトラルキズム最大の主題が「愛」であったため、この領域では女流詩人たちが殊更活躍した。ペスカーラ侯爵夫人ヴィットリア・コロンナ、コレッジョ公爵夫人ヴェロニカ・ガンバラ、或いは高級娼婦でありながらその美貌と教養で名をはせ、フランス国王アンリ3世の訪問さえ受けたヴェロニカ・フランコらが有名である。また、1503年頃から詩作を開始したと伝えられるミケランジェロは、ヴィットリア・コロンナを思慕したこともあり、その詩は遥かに彫刻家としての苦悩に満ちてはいるものの、やはり女性への賛美を歌う限りペトラルキズムと無縁とは言えない。イタリア国外に目を向けると、スペインでは、ファン・ボスカン、フェルナンド・デ・エレーラ、ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ、フランスでは、クレマン・マロ、モーリス・セーヴ、ルイーズ・ラベ、プレイヤッド派、ドイツでは、マルティン・オーピッツ、ヨハン・リスト、アンゲルス・シレジウス、イギリスではトマス・ワイアット、サリー伯ヘンリー・ハワード、フィリップ・シドニー、エドマンド・スペンサー、そしてシェイクスピアなど、現代に至るまで実に広範な影響が認められる。




ペニー・ガフ(英:Penny gaff

 1830年頃から1870年頃までイギリスで流行した大衆劇場。パブや広間の片隅にスペースさえあれば、ピアノを持ち込み、コント、ダンス、歌、演劇など、あらゆる卑近な大衆娯楽が主にメロドラマの形式で演じられた。特にニューゲート・ノヴェルで扱われる犯罪者たちの物語は好まれ、「脱獄王」ジャック・シェパードや、レッド・バーン・マーダー(赤納屋殺人事件:1827年に地主の息子ウィリアム・コーダーが、子持ちの年上の女性と結婚の約束をし、駆け落ちしようと赤い屋根の納屋に呼び出し殺害し、納屋の床下に埋めた事件)などは定番となっていた。見世物興業も行われ、後世でも語り草となった「エレファントマン」ことジョセフ・メリックは、ペニー・ガフで見世物となっている。入場料はもともと1ペニーで、これが名前の由来だが、人気を呼ぶにつれて会場も巨大化(1000人規模)し、料金も2~3ペニーとなった。



ペリペティアπεριπέτεια / Peripeteia)

 「どんでん返し」又は「逆転」の意味を持つ古代ギリシア悲劇用語。主人公が幸福から不幸へと転げ落ちる宿命的転回点を指す。アリストテレスは『詩学(前335中で、ペリペティアをアナグノリシス」(認知)や「パトス」(苦難)と並んで悲劇の基本的な3大要素と位置づけている(第11章)。古典的な5幕劇においてペリペティアは第3幕末に、3幕劇であれば第2幕末か3幕冒頭に置かれるのが普通であり、その際「過ちの発見」であるアナグノリシスと結びつくとより一層の劇的効果をもたらすとされる。
 最も有名なペリペティアは、ソポクレス『オイディプス王』(前427頃)でのオイディプスが、追い求めていた父殺しの犯人は自分であり、自分の妃が実の母であったことを知った(アナグノリシス)後、我が目を突いて盲目の乞食となる結末であろう。
 


ペンギン・ブックス(英:Penguin Books

イギリスの出版業者アレン・レーンが1935年に「ペンギン社」をロンドンに設立すると共に、広く一般国民に文学を提供することを目的として発刊したペーパーバック・シリーズ。ロンドン動物園のものとされるペンギンがトレードマークである。アガサ・クリスティやアンドレ・マルローやアーネスト・ヘミングウェイといった作家の作品を書籍店ではなく、新聞販売所や小売チェーン店を通じて6ペンスという廉価で刊行・販売し、大衆の人気を博した。1937年からは、ノンフィクションや一般教養書のシリーズである「ペリカン・ブックス」を創刊する。(岩波書店は、レクラム文庫を模範として1927年に「岩波文庫」を発刊したが、対して1938年に発刊した「岩波新書」はこの「ペリカン・ブックス」を範に取り、サイズも模したものとなっている。)第二次世界大戦後には、古典文学を網羅する「ペンギン・クラシックス」シリーズを発刊し、その後は自然科学分野の古典を集めた「ペンギン・ネイチャー・クラシックス」や20世紀の名作を集めた「ペンギン・モダン・クラシックス」など、シリーズの充実を図っている。
 とりわけ世間の注目を浴びた事件が、1960年にこのシリーズで発行されたロレンス『チャタレイ夫人の恋人』に対する訴訟事件である。当時、内容が猥褻であるとされ、検閲された状態でしか発行されていなかった当該作品をペンギン社は初めて無修正で発行し、猥褻文書として告訴されるが、最終的に無罪を勝ち取り、以来当該作品は検閲抜きで発行を許されるようになった。現在のペンギン社は、2013年に米ランダムハウス社と合併し世界最大の出版社「ペンギン・ランダムハウス社」となり、本社をニューヨークに置いている。



ペンタメトロス(希:πεντμετρος / 英:Pentameter

 韻文詩において5つの詩脚からなる詩形。「5歩格」と訳される。古代ギリシア・ローマ文学では以下のリズムとなる。 
υ υ | υ υ | || υ υ | υ υ | (-は長音、υは短音、||は単語の切れ目[カエスーラ]
すなわち、基本的には、ダクテュロス2つに長音節ひとつというユニットが、二つ重なる詩形である。従って、「ペンタ(5)」とはいうものの、長音は6回現れることになる。この詩形は、エレゲイア(エレジー)の二行目として、一行目の同じくダクテュロスからなるヘクサメトロスに続いて用いられた。ペンタメトロスは、16世紀以降、イギリス文学において、特にイアンビック(弱強格)・ペンタメーターとして詩歌や劇に用いられ復活した。シェイクスピアやミルトンや後のワーズワスやキーツなどの使用により、英雄対句ブランクヴァースにも用いられたこの詩形は、イギリス文学で代表的な詩形のひとつとなった。ブランクヴァースの項で紹介したシェイクスピア『ハムレット』(1601)の名台詞は、ペンタメトロスの変化形である。
To be / or not / to be,/ that is / the question (太字が強音節)
つまり、この台詞では4詩脚目がイアンボスの代わりにトロカイオスに置き代えられ、最後に弱音節がひとつ追加されているわけである。ドイツでは18世紀の後半からイギリスの例にならい、ペンタメトロスが導入され、ディスティヒョンなどヘクサメトロスとも併用されることにより、それまでアレクサンドランが有していた支配的立場を奪い取ることとなった。
 


ボヴァリスム(仏・英:Bovarysme

 フロベールの小説『ボヴァリー夫人』(1857)に関連して、フランスの哲学者ゴルティエ〈Jules de Gaultier1902年に出した著作『ボヴァリスム-フロベール作品における心理学-』で命名した文学的モティーフ。平凡な田舎医者の妻エマ・ボヴァリーは、読書では癒しきれぬ過度の空想癖に侵され、小市民的な地方生活からなる日常を克服できなくなる。その結果、彼女は不倫を柱とした様々な現実逃避(エスカピスム:escapism)行動を重ねた挙句、自殺するに至る。すなわち、自分を自分以外の第三者と捉え、夢想に耽り現実を正視できず踏み誤る態度をボヴァリスムと呼ぶが、一般にはより小説に近い意味合いで、フランスの小説家ぺナックが「読者の権利10ヵ条」の中で唱えた「小説に書いてあることに染まりやすい病気」の意味で使用されることも多く、そうしたボヴァリズムに侵された最も有名な人物は、騎士道物語を読み過ぎて自らを騎士と思い込み、遍歴の旅に出るドン・キホーテ(『ドン・キホーテ』[1605-1615])である
 

冒険小説(英:Adventure novel / 仏:Roman d’aventure

 主人公の行う様々な冒険を描く小説。冒険小説は、ジャンルとして確立していない古代から遡ることができ、その源流は『ギルガメシュ叙事詩』(前16世紀以降)やホメロスの『オデュッセイア』(8世紀頃)に求めることができる。更には中世の聖杯伝説や騎士道物語などは典型的な冒険小説とみなしうる。また、16世紀にスペインで流行したピカレスク小説も反社会的な主人公の冒険を描いた冒険小説の直接の先駆とみなせよう。反社会性・脱社会性は、この後冒険小説の重要な要素となる。旅行文学うそ物語ホラー小説SFユートピア文学なども冒険小説とオーバーラップする部分が少なくない。主人公の遍歴を描く教養小説も一種の冒険小説と解釈することが可能であろう。冒険小説が西欧で本格的な発展を見せ、独立したジャンルとして確立するのは、デフォーの『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』(1719)が成立する18世紀以降であり、この小説が契機となって生まれたロビンゾナーデは、冒険小説の重要な下位ジャンルとなった。そして19世紀に入り、ジャーナリズムの発達と共にフェアタン(新聞連載小説)が生まれ、『ロビンソン・クルーソー』で先鞭をつけていた冒険小説は格好のジャンルとして歓迎された。シューの『パリの秘密』(1842-43)や、デュマ・ペール『三銃士』(1844)は、フェアタンで最も成功した冒険小説である。同時にヨーロッパにおける植民地政策の中、冒険小説は異郷趣味を伴い更に発展を遂げ、空想科学世界での冒険を描いたヴェルヌ(『海底二万里』[1870])や、アメリカ西部やオリエントを舞台とする活劇を描いたカール・マイ(『ヴィネトゥ』[1878])などの出現でその流行は頂点を迎えた。この時点で、冒険小説は大衆向き娯楽小説の烙印を押されていたものの、児童文学的傾向を強め、ヴェルヌの諸作品の他、フレデリック・マリアット『ニュー・フォレストの子供たち』(1847)やライダー・ハガード『ソロモン王の洞窟』(1885)などは非常な人気を集めた。現代において冒険小説は児童文学にファンタジーの要素を加味し更に発展を続け、トールキン『指輪物語』(1954/55)ル=グィン『ゲド戦記』(1968-2001)などは新たな冒険小説の次元を開拓している。
 

蓬髪派スカピリアトゥーラ

 


抱擁韻 押韻


ポエトリー・スラム(英:Poetry-Slam

 20世紀末より世界に広まった新形式の詩の朗読競技会。アメリカの詩人マーク・スミスが「従来の詩は、構造化されすぎて息苦しい」として、1984年にシカゴのライブハウスで開いたものが嚆矢とされる。競技者は、制限時間内(概ね数分)に楽器・小道具等を使わず、自らの声のみで自作の詩を吟じ、観客から選ばれた審査員や、時には観客自身の拍手で順位を決定する。詩の内容は抒情詩、叙事詩、ラップ、喜劇等何でも許容されるが、競技者には大仰な身振りも許される極めてエンターティンメント性の高い朗読会である。現在は主要国ごとに選手権大会を開いているが、その代表者たちが集い競う「ヨーロッパ・ポエトリー・スラム選手権」並びに「ポエトリー・スラム・ワールドカップ」が毎年開催されている。我が国でも、同様の詩の朗読競技会として「詩のボクシング」が1997年より開催されている。



牧人小説(伊:Novella pastoreccia / 西:Novela pastoral / 仏:Roman pastoral

 16世紀から17世紀にかけてのバロック時代に、ピカレスク小説と共にヨーロッパで流行した小説形式。牧人の若い男女が主人公で、彼らが美しい自然の中で貞節でありながらも惹かれ合う姿を描いた一種のユートピア文学ともいえよう。ローマ詩人ウェルギリウス(Vergilius)の『牧歌』(37)を古典的な模範とし、牧人の理想郷アルカディアを謳う作品が多いが、最初の成功作としては、イタリア詩人サンナザーロ(Jacopo Sannazaro)の『アルカディア』(1504)が挙げられよう。更にスペインにおいてはモンテマヨル(Jorgo de Montemayor)『ディアナ』(1558:古代イタリアの女神ディアナも牧人小説ではアルカディアに並び重要なトポスである)ロペ・デ・ベガ(Lope Félix de Vega Carpio)『アルカディア』(1598)セルバンテス(Cervantes)『ガラテア』(1585)、イギリスでは軍人詩人フィリップ・シドニー(Philip Sydney)の『アーケイディア』(1590)などが生まれ、フランスではオノレ・デュルフェ(Honoré d'Urfé)による60巻に亙る大長編小説『アストレー』(1607-27)が人気を博し、同時代の小説や演劇に少なからぬ影響を与えた。牧人小説の筋は平易で、牧人たちは当時の貴族をモデルとしており、当初情熱的に愛し合うが、様々な障害を経て理性を取り戻し、最後には離別するのが一般的である。牧人小説は40編以上書かれたが、17世紀中頃には完全に衰退した。また、小説ではないが1590年にイタリアで出版されたグァリーニの悲喜劇『忠実なる牧人』はヨーロッパ中で大変な人気を博し、演劇への牧人小説的要素の導入に大きく寄与したといえる(牧歌劇)。
 

墓地派(英:Graveyard poets

 イギリスにおいて18世紀前半から中盤にかけて現れた前ロマン派詩人たちの一派。人間の運命についてなされる陰鬱な瞑想性が彼らの詩情の大きな特徴であり、「骸骨」、「棺」、「墓碑銘」、「蛆虫」などという墓地にまつわる題材を好んで描いた。古英詩や、民謡にも深い関心を示し、本格的なロマン主義の到来を導いたが、後のゴシック小説にも直接繋がることで、ホラー小説の一源流となった。その代表者はトマス・グレイ(『墓畔の哀歌』[1751])とエドワード・ヤング(『不満、別名夜想』[174245])であるが、他にもブレア(『墓場』[1743])、コリンズ(『トムソンの死を詠めるオード』[1749])、マクファーソン(『オシアン詩集』[1765])、パーシー(『古英詩拾遺集』[編集:1765])、チャタートン(『慈悲についてのバラッド』[1770])などが挙げられ、ジェイムズ・トムソン(『四季』[1730])も加えられる場合がある。
 

牧歌(希:βουκολική / 羅:bucolica / 英:Pastoral / 仏:Pastorale / 独:Schäferdichtung

 田園を背景に牧人たちの恋物語を描いた古代ギリシアを発祥とする詩歌。「田園詩」とも呼ばれる。ルネサンス及びバロック時代のヨーロッパ詩歌の一大ジャンルとなった。その名称は「牛飼い」を意味するギリシア語”Bukoros”に由来する。ヘレニズム時代の詩人テオクリトス(Theokritos)が創始し、彼の詩『エイデュリオン』(eidyllion)(小景詩:前290275頃)は描かれた田園生活の素朴さと使用されたダクテュロスの洗練さの取り合わせが広く人気を呼んだ。その後はウェルギリウス(Vergilius)が『牧歌』(前37頃)の中で初めて「アルカディア」という牧人の楽園を導入し、牧歌における典型的な「ロークス・アモーエヌス(愛らしい場所)」の概念を確立した。アルカディアは以降西洋文化における理想郷として中世の牧人小説牧歌劇でも不可欠なトポスとなる。また、聖書によれば、イエスの誕生を真っ先に天使から告げられた民が羊飼いであったことも、キリスト教社会における牧人の特別視に繋がっている。さて「牧人」という概念は、中世に入ると過度に装飾された宮廷社会の対極にある純朴な世界として、逆に宮廷人の憧れを呼び、仮面舞踏会(マスカレード)などではとりわけ好まれた変装姿となる。それと共に牧歌は14世紀以降、イタリアのペトラルカ(Petrarca)やポンターヌス(Pontanus)らによって復興され、全ヨーロッパに広がった。フランスでのロンサール(Ronsard)やデポルト(Desportes)やベロー(Belleau)、ドイツでのフレミング(Fleming)やオーピッツ(Opitz)など、各国で牧歌は書かれたが、特にイギリスで黄金時代を迎えた。イギリス最初の牧歌はバークレー(Barclay)の『田園詩』(151314)であるが、スペンサー(Spenser)112月まで12の牧歌からなる『羊飼いの暦』(1579)でほぼ完成の域に達した。更にミルトン(Milton)による友人の死に捧げた『リシダス』(1637)は、牧歌とエレジーの融合という新たな境地を開いた。その後はポープ(Pope)『牧歌』(1709)など18世紀前半まで牧歌の伝統は受け継がれるが、後に衰退し、現代では散発的に創作されるに留まっている。
 


牧歌劇(伊:Dramma pastorale / 英:Pastoral play

 16世紀中頃にイタリアで生まれた演劇。その前に作られていた牧人小説の内容をそのまま戯曲化したもので、牧人劇同様古代ギリシア・ローマ文学の牧歌を模範としている。「牧人の対話」である牧歌は中世においても創作され、主に悲劇や喜劇の幕間の余興として、上演されていたが、ポリツィアーノ(Angelo Poliziano)1494年に著した『オルぺウス物語』で世俗演劇としての牧歌劇の原型を提示した。16世紀に入ると、牧人小説に牽引される形で、特にイタリア北部フェラーラの宮廷の詩人たちが牧歌劇を創作し、牧人の世界を背景に崇高な愛を謳ったトルクァート・タッソ(Torquato Tasso)の『アミンタ』(1573)はイタリア最高の牧歌劇と讃えられた。タッソを凌駕せんとバッティスタ・グァリーニ(Battista Guarini)が書き上げた『忠実なる牧人』(1590)は、悲劇要素も喜劇要素も併せ持つ牧歌劇で、高い人気を誇ったが、同時にヨーロッパに悲喜劇成立の足掛かりをつけた作品でもある。牧歌劇は英独仏各国にも伝播し、イギリスではリリー(John Lyly)が『ユーフュイーズ』(157880)で「ユーフュイズム」という比喩に富んだ優雅な文体を創出し、シェイクスピアにも影響を与えた(『お気に召すまま』[1599])。ドイツではグリューフィウス(Andreas Gryphius)が『惚れた幽霊、惚れられたいばら娘』(1660)で先鞭をつけ、バロック期に牧歌劇が興隆し、ゲーテも作品を残した(『想われ人の気まぐれ』[1779])。フランスではデュルフェ(Honoré d'Urfé)の牧人小説『アストレー』(160727)が人気を博し、彼を模範にラカンの『牧歌劇』(1625)やメレの『シルヴィ』(1626)が生まれ、その影響は所謂古典主義三大作家であるコルネイユ、ラシーヌ、モリエールにまで及んだ。
 


ボヘミアン(英:Bohemian / 仏・独:Bohème

 19世紀以降、意図的に都会生活から身を離し、金銭欲や名誉欲といった物欲にも無頓着な姿勢を貫きながら、自由気ままな生活を送った人々、特に芸術家たちの呼称。その名称は15世紀以降から確認されており、城壁に囲まれた都市に住まず、住居不定のジプシー(ロマ)たちがボヘミア地方発祥であったためこう呼ばれた。(中世では、城壁外に住む人間は、賤民の一種と見なされた。)近代におけるボヘミアン芸術家の嚆矢は、1830年代のパリのカルチェラタンやモンマルトルに集ったロマン主義を奉じる画家たちや作家たちと見なし得る。テオフィル・ゴーチェ(Gautier)やジェラール・ド・ネルヴァル(Nerval)らがその代表的な例だが、若い学生たちも加わった、彼らの多くは富裕な家庭の出身で、親が属するブルジョワジーへの反抗から自由奔放なボヘミアン生活を送ったが、それは学生時代や青年期のみに限られた場合も少なくなかった。こうしたボヘミアンを最初に扱った文学作品は、バルザック(Balzac)の『人間喜劇』中の短編『ボエームの王』(1840)である。1851年には、A.ミュルジェール(Murger)が複数のボヘミアンたちの生活を無秩序に点描した小説『ボエーム生活の情景』を著した。バルザック作品同様この小説もさして注目はされなかったが、後に作品を基にプッチーニが曲をつけたオペラ「ラ・ボエーム」(1896)が人気を博し、「ボヘミアン」という言葉は完全な市民権を得るようになった。
 19世紀中盤よりこの呼称はブルジョワへの道を閉ざされた、或いは市民社会への参画を自ら拒んだ芸術家たちに向けられるようになり、その典型としてA.ランボー(Rimbaud)P.ヴェルレーヌ(Verlaine)が挙げられるが、彼らは既にロマン主義詩人ではなく、デカダンスの色彩を帯びた象徴主義詩人に数えられる。
 パリに続いてヨーロッパ各都市(ロンドン、ミュンヘン[シュヴァービンク]、ベルリン等)にボヘミアンは現れたが、ミラノに現れた一団は、特に「スカピリアトゥーラ」と呼ばれ文学刷新を強く希求した。代表的なボヘミアン作家としては、イギリスではR.L.スティーブンソン(Stevenson)O.ワイルド(Wilde)、ドイツでは特に19世紀末のベルリン自然主義作家たち(O.J.ビーアバウム[Bierbaum]が小説『シュティルペ』[Stilpe:1897]で、彼らの生態を活写している)が挙げられ、アメリカでは、ランボーの影響を受けたH.ミラーが小説『プレクサス』(1949)でアメリカでのボヘミアン生活を描いている。第二次世界大戦後も反都市生活を標榜するボヘミアンの存在は一定の支持を得、ビート・ジェネレーションやヒッピー文化にその影響は色濃く認められる一方、アルコールやドラッグやセックスに節操を示さぬ集団として、否定的な見方も存在する。

 

ホメロスの居眠り詩論




ホメロス問題(独:Homerische Frage / 英:Homeric Question

 ホメロスの正体と、その著作について、とりわけ二大叙事詩『イリアス』及び『オデュッセイア』(前8世紀以降)が、これほどの大作であるにも関わらず(『イリアス』約15000行、『オデュッセイア』約12000行)、盲目であったと伝わるホメロス一人の手によるものかどうかを巡る諸問題。他に、「ホメロスは実在の人物か否か」、「これらの叙事詩は、口承伝説の記述か、それとも創作物か」、「これらの叙事詩は単一の伝説から生まれたのか、それとも次第次第にエピソードを加え完成されたのか」などといった問題が古代より提起され、とりわけ1819世紀に渡り集中的に研究された。
 ホメロスについての文献学的考察は、古代においては前2世紀から3世紀にかけて、特にアレキサンドリア図書館を中心に隆盛を迎えた。『イリアス』と『オデュッセイア』に対し最も古い原典批判を行ったのは、前4世紀から2世紀にかけてアレクサンドリア図書館の歴代館長を務めたエフェソスのゼノドトス(Zenodotos)、ビザンティウムのアリストファネス(Aristophanes)、サモトラケのアリスタルコス(Aristarchos)らの「アレクサンドリア学派」を構成する文献学者たちである。彼らの厳密な校訂作業により、両叙事詩においてホメロス作が疑わしい部分は削除された。ただ、三者共、両叙事詩が一人の詩人ホメロスによって生み出されたことは信じて疑わなかった。この考えに初めて異を唱えた学派が前2世紀のクセノン(Xenon)やヘラニコス(Hellanikos)に代表される急進的なコリゾンテン学派(分離派)である。彼らは、アリスタルコスと活発な論争を展開したが、最終的にはアリスタルコスが唱えるホメロス単一作者説が古代の文献学者間では通説となった。ただ、ホメロスの手によらぬエピソードが前三者の手により混入していることが認められた両叙事詩については、その後作品の構造分析も進んだ結果、前6世紀頃のアテネの僭主ペイシストラトス(Peisistratos)の命により様々な伝承を結集し、現在の作品の輪郭が形成されたという説が支配的になった。
 この他、紀元前にホメロス作と考えられていた作品は複数ある。エフェソスのカリーノス(Kallinos)は、『テーバイス』を詩人の作とし、ヘロドトス(Herodotos)は、『キュプリア』と『エピゴノイ』を詩人に帰し、アリストテレスは滑稽詩『マルギーテース』をホメロス作と断じ、ツキジデス(Thukydides)は読んで字のごとく『ホメロス風賛歌』を詩人の手によるとし、『イリアス』のパロディである喜劇詩『蛙鼠(あそ)合戦』もホメロス作と考えられていた。しかし、前3世紀頃には、これらの詩は皆ホメロス作ではないとされ、二大叙事詩のみが彼の真作とされた。現在、これらの作品の内、『テーバイス』と『エピゴノイ』は、「テーバイ圏」として、『キュプリア』は、『イリアス』及び『オデュッセイア』と共に「トロイア圏」としてテーバイやトロイアの伝説を扱う「叙事詩環」に数えられる。
 1世紀頃には、ユダヤ人歴史家のフラウィウス・ヨセフス(Josephus)が、ホメロスの時代にギリシア人は字をまだ持っておらず、そのためホメロスは記憶に頼って二大叙事詩を残したので、作品内に辻褄の合わぬ部分が多く生じた、と唱えるが、この後論争は暫く沈静化する。
 長い沈静期間を経て、ホメロス問題が再び脚光を浴びるのは、14世紀のペトラルカ(Petrarca)が両叙事詩を再紹介してからであるが、近代に至りこの問題は古典文献学上の一大テーマとして盛んに考究された。その契機は、1795年にF.A.ヴォルフ(Wolf)が『ホメロス序説』(Prolegomena ad Homerum)を著したことによる。彼は、ホメロスの時代にはまだ文字が存在しなかったという説を前提に、あれだけの長大な叙事詩を彼一人が口述のみで伝承できる筈がなく、複数の人間が作り出した短いエピソードを、ホメロスが、自ら織りなすストーリーに沿って編み直した、と唱えた。また、ホメロスの後も、彼の後継者たち(ホメーリダイ)が彼の描いた輪郭に従って作品に更に肉付けを施し、最終的にペイシストラトスがそれらの変更を整理し、決定稿を生み出したと主張したのである。
 古代からの通説を比較的踏襲しているヴォルフ説に対し、約
40年後に反論を唱えたのがK.ラハマン(Lachmann)である。彼は、ヘルダーに始まり、ブレンターノやグリムによって発展を見たロマン主義的文学観、即ち言語やバラッド(物語詩)は民族精神の所産であるとの説に則り、『イリアス』を個々のバラッド的詩歌に分類し、それぞれが民族精神の産物であるとして、ホメロスの存在を否定したのである。その分析手法は、ゲルマン叙事詩『ニーベルンゲンの歌』(13世紀初頭)研究に用いられたものであった。ラハマンの手法は、その後のA.キルヒホフ(Kirchhoff)により、『オデュッセイア』分析にも応用され、当時は一般的な賛同を得たが、両叙事詩における単一作者説を完全に否定する彼らの説には、著名な古典文献学者であったK.レーアス(Lehrs)F.G.ヴェルカー(Welcker)K.O.ミュラー(Müller)らが作品に対するホメロスの統合力を認め反論したのも尤もである。
 ヴォルフが自説の根拠のひとつとした「ホメロスの時代にはまだ文字は存在していなかった」という説は、1871年には出土品の発見から間違いであったことが証明され、その点からも、長大な両叙事詩を1人の人間が口承のみで作ることはできない、というヴォルフの前提は崩れており、またラハマン説に対する反駁にもなっている。ただ、この問題を最終的に解決するために必要な原典は最早存在せず、手がかりとする写本も、最古のものはアレクサンドリア学派の残した写本である。その後の写本は多数に上るが、(オリジナルに近いという意味ではなく)最も信用し得る写本は、今も尚、アリスタルコスの校訂版であると考えられ、新たな資料の発見による問題解決の劇的な進展は望めそうにない。従って、現代においても、ホメロス問題は最終的な解決を見てはいない。ただ、少なくとも、様々なエピソードを含む両叙事詩には、エピソード間には屡々矛盾が存在するものの、それらを纏め上げる統一的な意志が認められ、その意志はホメロスという(実在していたかどうかは分からない)詩人に帰するが、『イリアス』、『オデュッセイア』それぞれに別の「ホメロス」なる作者がいたのではないかとする説が、現在では有力である。


ホラー小説(英:Horror fiction / 独:Horrorliteratur

 怪奇小説とも呼ばれ、超自然的な題材を描き、読者に不安や恐怖を与えることを目的とした小説ジャンル。現代文学においては往々にしてSFファンタジー、そして時にはミステリの分野とも重複する場合がある。特に現代では、外面的な怪奇さを追い求める以上に人物の心理的恐怖を描き出そうとする作品が流行しており、そのようなホラー小説を「サイコホラー」と呼んだりする。ホラー小説の起源は遠く古代ローマ時代にまで遡り、アプレイウス『変身物語』(通称『黄金の驢馬』:170年頃)に求める説が一般的である。もっとも、ホメロス『オデュッセイア』(8世紀頃)ウェルギリウス『アエネイス』(29-19)やペトロニウス『サテュリコン』(1世紀頃)、あるいはルカヌスの『ファルサリア』(61-65 )などにもホラー小説的描写は見受けられる。古代ローマ以外では『ギルガメシュ叙事詩』(前16世紀以降)、『ベオウルフ』(8-9世紀)、『エッダ』(9-13世紀)、『アイスランド・サガ』12-14世紀)、ダンテ『神曲』(1307-21)などがホラー小説の著名な雛形として認められよう。以降はシェイクスピアやゲーテの作品にもこうした要素は往々にして見られ、ロマン主義ではE.T.A.ホフマンなどが作品に好んで盛り込んだ。中でも近年、グリム兄弟の『子供と家庭のための童話集』(1812-57)が、ホラー小説的に読まれていることは興味深い。                                                            
 純粋なホラー小説の系譜としては、18世紀中頃のイギリスに、先行した啓蒙主義への反動として現れた前ロマン派の詩人たちの一派に「骸骨」、「棺」、「墓碑銘」などに殊更の興味を示す「墓地派」詩人が現れ、その後のゴシック小説へ連なる系譜が直系と考えられる(墓地派詩人の代表的存在であるトマス・グレイは、ゴシック小説の創始者と目されるホラス・ウォルポールの友人である)。ゴシック小説はホラー小説の一分野と位置づけられるが、その中世的で鬱蒼とした雰囲気、野蛮と狂気の混在した状況、高い教養を持つが分裂した心理を持ち悪へ走る主人公などは、その後のホラー小説で盛んに取り入れらる要素となった。代表的作品として、ウォルポール『オトアルト城』(1764)、ラドクリフ『ユードルフォの謎』(1794)、ルイス『修道僧』(1796)、ポリドリ『吸血鬼』(1816:吸血鬼モティーフを扱った最初の作品であるが、このモティーフの代表作はストーカーの『ドラキュラ』[1897]である)、シェリー『フランケンシュタイン』(1818)、マチューリン『さまよえるメルモス』(1820)そしてスティーブンソン(『ジキル博士とハイド氏』[1886])などが挙げられる。とりわけポーは、『壜のなかの手記』(1833)、『アッシャー家の崩壊』(1839)、『赤死病の仮面』(1841)、『黒猫』(1843)などの小説でアメリカ・ホラー小説の開祖とされ、同時に現代にも通用するサイコホラー的題材を扱っている。
 

ホラティウス風風刺風刺文学


ポリフォニー(英:Polyphony

 本来は音楽用語であり、ルネサンス期に栄えた「多声音楽」を指す用語だが、文学、特に小説においては、従来作品に強く表れていた作者の世界観、主義主張が遥か後方へと退き、登場人物たちは作者の思想的くびきを解かれ、それぞれが独自の主張を「多声的に」行うことによって、多次元的な人間社会をよりダイナミックに表現する技法である。
 この理論は、1929年、ロシアの文芸批評家ミハイル・バフチンがその著書『ドストエフスキーの詩学』の中で唱えたものである。彼によると、ドストエフスキー作品の登場人物たちは各自独立した人格を備えており、彼らが行う真の対話によって描き出される社会こそ、唯一の真理など存在しない、多面的解釈の可能な現実社会であるとする。
 ドストエフスキーにあっては、登場人物たちは作者の恣意的造形を受けず、その個性は度重なる出会いと対話により形作られ、変容し、完結することがない。こうしたバフチンの理論は後の賛否を呼ぶが、作者とテキストや、作者と登場人物の関係を定義し直した点において、後のイギリスでウィムサットとビアズリーが唱えた「意図の誤謬」や、フランスでバルトやフーコーが唱えた「作者の死」に通じるもので、ニュークリティシズムの先鞭をつけた理論とも捉え得る。


ポルトレ(仏:Portrait

 文学版ポートレートとも呼ぶべきもので、客観的描写に務める伝記とは異なり、人物の表面や性格を様々な資料や逸話を駆使しながら描くことにより、更に深層心理部における人格表現に迫ろうとする手法。特にフランス文学で好まれ、その名手としてサント・ブーヴ(『ポール・ロワイヤル』[1840-59])が挙げられる。ドイツ語文学においても、S.ツヴァイクはポルトレを駆使し歴史的人物を扱った様々な傑作を残した(『マリー・アントワネット』[1933]、『メアリー・スチュアート』[1935]など)。
 

翻案Adaptation

 ある文学(芸術)作品を別のメディア・ジャンルの作品に移し変えること。翻案元はシェイクスピア作品など有名な古典的作品であることが多く、最も多く見られる翻案先は映画である(デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』[1845-46]は最も頻繁に映画化された小説であるといわれている)。しかしその他にも、オペラ、ミュージカル、バレエ、漫画、テレビドラマ、コンピュータゲームなど、様々な翻案先が考えられる。中には、T.S.エリオットの詩集『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』(1939)を原作としたブロードウェイ・ミュージカル「キャッツ」が大ヒットしたように、翻案先が翻案元より遥かに成功する場合もまま見受けられる。
 

本文批評(英:Textual criticism / 独:Textkritik

 原典批評とも称する。文学研究や文献学の一分野で、ある作品の原文(オリジナル)が失われてしまった場合、現存している複数の写本や刊本を参考にして、オリジナルに最も近い文章(原テクスト[Urtext]或いはアーキタイプ[Archetype])を構築すること。そうして構築されたテクストを「原イリアス」などと呼ぶ。本文批評の具体的な作業としては、写本・刊本の発掘、それらの成立年代・地域の推定、筆写者・編者の特定、文献間の類似点・相違点の洗い出し、本人執筆箇所の補充・他人が加筆した箇所の削除、成立当初の語の読み方を類推、原テクストへ至る幾つかの代表的文献ヴァージョンの決定、などがある。本文批評にとって、主資料となる写本・刊本が少ない、或いは例えば『イリアス』(前8世紀以降)のように、時代的に数世紀隔たったものしか残っていない、という事態は勿論不利となるが、逆に『新約聖書』のように、2万点以上の文献が残っている場合も、ノイズが多すぎて作業に困難をきたす。本文批評は既に古代における聖書研究やホメロス研究から開始されたが、中世ではイタリアやドイツで発展し、特にユダヤ教徒が聖書の原テクスト構築に努力した。現在の本文批評は、19世紀以降の近代文献学により進歩し、古典を含め中世以降の同一作品原稿が複数存在する作家のテクストも様々な比較分析がなされている。本文批評の実質的な目的は、こうして作品の原テクストを「批評版(Critical edition/ Kritische Ausgabe)」として刊行することで、ある意味実社会と最も直接的に結びついた文学研究分野と呼べるかもしれない。