将棋から学ぶ事
永田 敏男私は、将棋が好きで・機会あるごとに指しています。今は、メール将棋にはまっています。
いろいろな話題を少しずつ加えながら、1手ずつ書いて、メールを介して相手とやり取りするわけです。
対局中にも、相手の人と、情報を交わしたり、冗談を行ったり、思わぬ苦労話を話し合ったり、楽しい対局を続けています。
好きだから「強い」とは限りません。その証拠には、このところ勝ちに恵まれず、自らの棋力の弱さにやや落ち込んでもいます。
皆さんは、将棋の盤面をご存知でしょうか?王様を真ん中にして、両側に金・銀を従え、機動力抜群の角・飛車が、両端近くで、相手の陣地を伺っています。
将棋は、考えて見れば戦争です。しかし、兵力は全く同じです。
初めには、王様が、威厳のある態度で構えて、進軍して行くわけですが、私のように頭が弱いと、最後は惨めな最後をとげます。
将棋の対局をしていて、いつも思うことですが、イラクとアメリカの泥沼化した戦いです。恨み骨髄に達するほどの戦意は、もう留まるところを知らない状態になってしまいました。
戦争とは、もちろんルールもなければ、相手の人権などは虫けら同然に扱われます。爆弾を積んで突入し、命を捨てて自爆。神出鬼没にテロ集団の攻撃、「もう、いいかげんに止めてくれ」と思うのは私だけでしょうか?。
人類の存在する限り戦争はなくならないでしょう。個人間でも、喧嘩や争いが絶えないように。歴史は、戦いとともに作られたといっても過言ではないでしょう。
命の大事さは、自分自らが、縛られて銃の前に立たされたことを考えれば、それを奪うことなどとうていできないはずです。
そうかといって、理不尽に人を殺したり、人権を押さえつけたりするものを、これも裁かずにはおけないでしょう。
国同士でも、アメリカは、原水爆を持ち合わせても良いが、イランや北朝鮮はいけないとか、他の大国の持つのは黙認するとか、これも判断に苦しむ事柄です。
そうかといって、アメリカが、「アメリカは原爆を廃棄するから、皆廃棄してくれ」という話し合いが実現したとする。すると、どこか小さな国が、謀反を起こして原爆を持ち、思わぬ惨敗を受けるかも知れません。
国の中においても、国が暴力団に「銃は撤廃するから、お前たちも廃棄してくれ」といっても、それは無理な話でしょう。
元へ戻って、将棋の戦いの素晴らしさは、ルールのあることです。人の人権を抑圧したり、命を奪ったりする戦争にルールは無理でしょうか。
それは、確かに無理です。ルールは、力の均衡が保たれないと無理でしょう。
私が、最終的に考えることは、やはり「集団的防衛」ということだろうと思います。
ヨーロッパがeuになり、アジアが、まだ不完全ながらaseanというように、共動防衛を考えていけば、経済面も・軍事面も、そしてなにより力の均衡の上に確立されるルールができると信じます。
国内の事件も、イラクの果てしないテロも、なんとか早く大事な命が守られる日がくることを祈らずにはいられません。
こんな文章!誰が読んでくれるでしょうね。「君は、総理大臣になるつもりか」と笑う人もあるでしょう。それはとうぜん、かくいう私でさえもむなしく笑っています。
しかし、私の病むに病まれぬ思いを書いてみました。考えてみれば、この原稿を書かなければならないという、崇高な義務感を果たした所以でもあります。