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ラムザイヤー論文への批判と反論 (2/4)

2. 批判と反論

ここでは、ラムザイヤー論文への主な批判とそれに対する反論を紹介します。この論文には多くの批判が寄せられていますが、多数の賛同者(2021年5月時点で3500人以上が賛同)があり、様々な批判の多くを網羅していると思われる「"太平洋戦争における性契約"について憂慮する経済学者による連名書状」(文献5)を軸にして構成しました。

ラムザイヤー氏はこれらの批判に対して公式な反論は行っていませんが、早稲田大学教授の有馬哲夫氏(専門は公文書研究、現代史研究、メディア研究など)が、その著書で反論しています。有馬氏は、上記「連名書状」の批判に直接反論しているのではなく、様々な批判者への反論という形をとっていますが、このレポートでは「連名書状」の5つの批判に対応づけました。また、日本における慰安婦問題研究の第一人者である吉見義明氏(中央大学名誉教授、専門は日本近現代史)は、雑誌「世界」2021/5月号にラムザイヤー論文への批判を寄せていますので、批判論の補足として紹介します。

(注) 以下、「批判n」のタイトルおよびその直下の説明文は「連名書状」(文献5)から、「吉見氏の批判」は吉見氏の論稿(文献4)から、「有馬氏の反論」は有馬氏の著書(文献2)をもとに、それぞれ筆者が要約したものです。

批判1 根拠なしに状況を「契約」問題として捉えている

ラムザイヤー氏は、日本軍による女性の奴隷化を「契約」問題として捉えることで、「慰安所」にいた女性たちの間では自発的な契約関係が一般的で代表的なものだったと主張する。この仮定が筆者のモデルの中心を占めるものであるにもかかわらず、主張を正当化する証拠が論文においては提示されていない。論文では、日本で営業されていた公娼制度下の売春宿のものを引用し、正当な理由や根拠なしに世界中の慰安所について単純にこれらの前提を当てはめている。

仮に、そのような署名された契約書が存在したとしても、この問題を契約問題としてみなすことを正当化するものではない。「契約」という言葉は、人類の歴史の中で、強圧的・略奪的関係の隠れ蓑として使われてきた。

吉見氏の批判

契約がある慰安婦は、日本人女性の多くと一部の朝鮮人女性だけで、軍や業者に略取または誘拐された朝鮮人、中国人、フィリピン人など多くの女性がいた。契約がある場合も、慰安婦は契約を結んだ主体ではなく、売春婦でない女性の場合は親族と業者の間で契約され、売春婦の場合は在籍する売春宿の業者が交渉に深く関わった。また、親族側の立場が大変弱いことも考慮されていない。何より、慰安婦も娼妓・酌婦等の娼婦もその契約は人身売買の契約であり、人権侵害となる契約だった。

有馬氏の反論註1

有馬氏は、契約書をみつけられるわけがない、しかし、契約内容と慰安婦が署名したことがわかる史料はある、と言います。

a) 契約書は私文書であり、慰安婦のいた個人宅を1軒1軒回って家探しして見つけろ、というのであろうか。できないと知ってこんなことを言っているのだとしたら、これはアカデミック・ハラスメントに等しい。(有馬,P108)

b) 契約条件が明示され、女性たちが契約書に同意して署名したことが明記されている文書がある。「U.S. Office of War Information、1944. Interrogation Report No.49,Oct.1,1944 in Josei(1997:5-203)(筆者註 この文書はビルマ(現ミャンマー)のミッチナで米軍が捕虜にした朝鮮人慰安婦20名を尋問した結果の報告書です。)

この文書には朝鮮人慰安婦の契約条件――前渡金、契約期間、料金、食費や宿泊費、経営者と女性の取り分など――がはっきり示されている。これを見ると性奴隷でないことは明らかだ。そして彼女たちは同意して署名しているとも明記されている。(有馬,P109-P111)

c) 私娼や公娼の場合は、ケースバイケースで前渡金、契約期間等はばらつきが大きいが、慰安婦の場合は、軍がきちんと決めているので平準化している。つまり、一つのケースをみれば他のケースもだいたいわかる。軍は朝鮮人女性と日本人女性の契約は同等に扱っていた。(有馬,P113)

筆者の見解

上記a)のように、有馬氏は「契約書などみつけられない」と居直っていますが、実際、契約書をみつけるのはたいへんでしょう。しかし、「連名書状」が求めているのは、ラムザイヤー氏の結論――(ほとんどの)慰安婦と慰安所は合意された契約を結んでいた――を実証する史料です。それがないというならば、結論の正当性を示す別のものを提示すべきでしょう。

そこで有馬氏は、米軍の報告書の一部を引用しています。

《有馬氏の引用》

1942年5月、日本の周旋業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が勤務に応募し、2~300円の前払報酬を受領した。彼女たちの大半は無知、無学の者であった。自ら署名した契約により、前借り金の額に応じ半年から1年の仕事に従事させられた。(有馬,P109)

この資料は、アメリカ戦時情報局心理作戦班が作成した「日本人捕虜尋問報告」で、吉見氏が編集した「従軍慰安婦資料集」(文献10)アジア女性基金のHPでも公開されています。

《原典の記述》

1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、… 東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的にいえば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いの言葉は、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2,3百円の前渡金を受け取った

これらの女性のうちには「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて6か月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。(従軍慰安婦資料集,P441-P442)

筆者註 下線および太文字は筆者が加えたものです。

下線をひいた部分は有馬氏の引用と「従軍慰安婦資料集」で大きく異なります。この違いについて有馬氏は註釈で次のように述べています。{ ただし、英文の方の203頁には、慰安婦が周旋業者の甘言につられて慰安所に来たともとれる記述がある。にもかかわらず、契約書に自ら署名したともいっているので、彼女たちは甘言だということを知っていたのだ。}(有馬,P117)

実は、1942年8月に約700人の朝鮮人女性がミャンマーに渡っていることが判明しており、米軍にヒアリングされた慰安婦たちはその船に乗っていたものと思われます。それと同じ船に乗っていたと思われる朝鮮人慰安婦2人の証言があるので、甘言に関連する部分だけ抜き出します註2

・李用女: 女主人が、「金をたくさん稼げるところがあるけど日本に行かないか」と言われ、お金をたくさん儲けてよいものを食べ、よいものを着て見物もできるというので行こうと思った。

・文玉珠: 1942年7月のはじめ、友人に「お金をたくさんくれる食堂に行こうと思うんだけど、あんたも行かない?」と聞かれ、どうせならお金をたくさん稼ごうと思って承知した。… 航海中他の組の人に「どこへ行くか知っている?」と聞いたら、食堂に金を稼ぎに行くと答えたが、まもなく直面する運命は知らなかった。

李用女さんはこのとき16歳、慰安婦になるとも知らずに行ったのでしょう。文玉珠さんは、大稼ぎしたことで有名な人ですが、16歳の時に満州で慰安婦をやらされ、18歳のときにミャンマーに行っています。「まもなく直面する運命は知らなかった」という言葉は、自分はそれを知っていた、というようにもとれます。文玉珠さんのような経験者は察しがついていたかもしれませんが、未経験者は甘言をそのまま信じていた人が多かったのではないでしょうか。有馬氏の「甘言だということを知っていた」は、憶測にすぎません。

次にc)で有馬氏は、この契約条件が普遍的なもの、つまりほとんどの契約がこれと同一の条件であることを証明しようとしていると思われます。
誘拐された場合など契約がなされなかった場合を除けば、慰安婦本人がその内容を理解していたかどうかは別として、金額や期間に差はあったでしょうが同様の条件だったと思われます。ただ、朝鮮人慰安婦のなかには「年季契約」註3といわれる前借金の返済とは無関係に一定期間拘束される契約になっていたケースもあるようです。以下は、武漢の慰安係長をしていた陸軍少尉(当時)山田清吉氏の述懐です。

{ 入城当時、朝鮮人の妓たちは、まったくの奴隷で、酷使収奪されていたものを、内地人の妓同様に借金制度に切換えられた…}(山田、P78)

{ 慰安婦の中には計算にうとく単純なものもいた。働いても働いても借金が減らないという金銭関係に対する疑惑についても、これまで年期奉公の形式で前借金と引き換えに一切の自由を売り渡していた封建的雇用関係から、… ただ泣き寝入りするのが一般であった。}(山田、P82-P83)

有馬氏は、朝鮮人と日本人とは同等に扱っていた、と言いますが、上記の年季契約のほか、現地での処遇はかなり違っていました。

{ 前借金の高い内地人女性は売春を兼ねた都市部の料理屋で働き、収入の多い将校、軍属を相手にする傾向があった。若い朝鮮人女性は、前線に近い僻地で収入の低い兵士を相手に性サービスだけの薄利多売に向けられた… }(秦,P410)

契約書の提示を求めるのは、論文が導出した結論の正当性を証明するためであり、本来は論文本文に書くか、本文から容易にリンクできる形で表現されるべきことです。しかし、有馬氏は次のように参照文献を読んで自分で考えるべき、とでもいいたそうな口ぶりで批判者たちを非難します。

{ 批判者たちはラムザイヤーに「根拠を示すように」とか「資料的裏付けがあることを証明するように」とか求めている。だが、ラムザイヤーがなぜすぐに彼らの要求に応えられないのか、これまで述べたことからわかる。
つまり、米国戦争情報局文書ですでに根拠と裏付けは示している。それ以外の根拠も資料的裏付けも、日本語文献で示しているのだが、要求している人々には日本語能力がない。とすると…ラムザイヤー氏は大量の日本語文献を英語に翻訳しなければならない。}(有馬、P170-P171)

ちなみに、ラムザイヤー氏は論文で米国情報局文書を引用していますが、そこに書かれているのは、慰安婦は貯金通帳を持っていた、稼いだ金の一部を前渡金の返済にあてて、一部を慰安婦本人に支払っていた、といった内容で、「合意された契約」について語っているわけではありません。

批判2 女性たちが同意していたという仮説について

論文では「女性たちは同意していた」と明言し、若い女性たちの契約への関与は自発的だったと主張している。論文のなかでは、自発的な同意があったという信頼性のある根拠は示されていない。それらしい事例としておサキの例註4が挙げられているが、まともな法学者はこれをもって同意とはみなさないだろう。

一方で、同意がなかったという証拠は元慰安婦たちの証言や記述によってたくさんある。(以下、文玉珠と袁竹林の証言が掲載されていますが、省略します。)

吉見氏の批判

武漢兵站にいた長沢健一軍医は、ある日本人女性の性病検査を行った。女性は「兵隊さんを慰めてあげると聞いてきたのに、こんなことをさせられるとは知らなかった、帰りたい」と軍医に訴えた。
1938年末に朝鮮から中国に移送された16歳の宋神道は家出してさ迷っているとき、中年女性に騙されて周旋業者に引き渡され、武昌の慰安所に連行された。軍医に性の相手を強要された後、朝鮮から武昌迄の交通費や食事代が借金になってるからそれを払えといわれ、拒否できなくなった、と述べている。ビルマに移送された朝鮮人は、周旋業者の偽りの説明を信じて海外勤務に応じたが、ラムザイヤー氏はこの資料を引用しながら、騙したと書かれている部分を紹介していない註5

有馬氏の反論

有馬氏はこの批判について散発的に様々な反論をしていますが、以下はそれを私なりに整理したものです。

a){ 論文では、… かなりの朝鮮人女性が騙されていたことに触れた上で、問題視している。}(有馬,P36)

b){ 騙されたり、脅かされたりして慰安婦になったというが、それをしたのは日本軍ではなく、朝鮮人周旋業者だ … }(有馬,P36)

c) 慰安婦になるためには、契約書の他に承諾書、酌婦営業許可書、調査書、印鑑証明、戸籍謄本が必要だった。これらの書類を見せなければ渡航許可証をもらって慰安所のある海外に渡航することができなかった。(有馬,P37<要約>)

d) 合意には、強制されたとか、因果を含められたとか、いろいろなレヴェルがあったろうが、いったん署名したら同意したとみなされる。(有馬,P52-P53<要約>)

e) ミャンマーの米軍報告書では女性たちが契約に署名したとあるが、彼女たちは周旋業者の言葉が甘言だということを知っていた。前渡金がかなりの額なのだから、仕事の内容は察しがついていただろう。(有馬,P150<要約>)

f) 契約を承知した女性も騙された女性も、居住費などの負担、女性の取り分、年季など契約の基本部分は同じだった。つまり、ラムザイヤーの法経済学的モデルにおける分析結果は変わらない。(有馬,P129-P130<要約>)

筆者の見解

有馬氏の主張を簡単に言えば、次のようになります。

騙された女性はかなりいた。しかし、ラムザイヤー氏が導出した結論「(ほとんどの)慰安婦と慰安所は合意された契約を結んでいた」は、正しい。

このような矛盾した結果になってしまうのは、ラムザイヤー氏の論理が、「経済原理からみて慰安婦と慰安所経営者は合意できる条件で契約を締結したのだから、慰安婦はその契約に合意していたはずだ」、つまり「合意」は結論であるのに、有馬氏はその結論とは逆の「騙しはかなりあった」を前提であるかのようにしてしまったことから来ています。

そのために、c)女性は合意していたはずだ、d)何であろうと署名したら合意とみなされる、e)騙されていたことを知っていた、といった苦しい弁明をせざるをえなくなったのでしょう。騙された女性がかなりいたのであれば、ラムザイヤー氏の結論は成立しません。

付け加えれば、「騙された」との訴えに対して、相手が「騙そうとした」ことが立証されれば、その契約が成立しないのは、100年前も今も同じでしょう。
なお、b)とc)については批判4で取り上げます。

批判3 女性たちは立ち去ることができた、補償されたという想定について

論文では、女性たちは慰安所からいつでも「逃げたり、姿を消したりできることを理解していた」と述べている。また、女性たちは報奨として「気前の良い」前払い金を提供されていたと論文は主張している。しかしながら、資料と証言は圧倒的にこの主張と矛盾する。チョン・オクソンは、2回逃げようとしたが2回とも数日後につかまり、拷問された、などと証言している。
さらに、ラムザイヤー氏が主張するような「気前の良い」補償(=報酬)はほとんどなかった。挺対協註6の調査によれば192人中104人は金銭の支払いを受けていなかった。最も羽振りの良かった文玉珠は1993年になってもお金を引き出すことができなかった。

吉見氏の批判

前借金と契約年期は、女性を売買する(性買売で利益を得るために奴隷的拘束をする)ための条件であることをラムザイヤー氏は見ていない。
ラムザイヤー氏は解放の条件を「前借金の全額返済か契約期間の満了」としているが、これに加えて慰安所業者の許可と軍の許可の3つが必要だった。債務を返済しても戦況を理由に帰国を認められなかった事例もある。また、誘拐された場合などは、いつまでも拘束された女性たちがたくさんいた。
文玉珠さんが多額の貯金ができたのは、業者からの報酬でなくお客からのチップだった。彼女が貯めた金額の過半は、軍票(軍が発行する貨幣)の価値がほとんどゼロになった1945年4月以降であり、使用価値がなくなった軍票を軍人・軍属がチップとして渡したと考えられる。

有馬氏の反論

a) 慰安婦の拘束について

売春を合法としているドイツ、オランダなどで働いている女性たちは勤務先と何らかの取り決めをしていて、いつも自由に「性交を拒否できる権利」と「自由に立ち去れる権利」を行使できるわけではない。(有馬、P125)

b) 慰安婦の報酬について

{ アメリカ軍が調査したミッチナーの慰安所の慰安婦の平均月収は300~1500円(チップも結構もらっていた)だった。当時、1,2等兵の給料は5円50銭で、慰安所の料金は1円50銭だった。それでも兵士はなけなしのお金をはたいて会いに行き、慰安婦に贈り物をしていた。}(有馬,P113)

{ 経営者は … 決して女性を過度に搾取したり、年季を勝手に延ばしたりしなかった。そのようにすれば、女性がやる気を失って、お客にサービスしようとしなくなったり、収入をあげようと思わなくなったり、極端な場合は逃げてしまうことがあった。}(有馬,P51)

筆者の見解

a) 慰安婦の拘束について

私はドイツやオランダの売春宿と売春婦がどのような契約をしているかは知りませんが、売春を公認し"セックス・ワーカー"の保護を求めている「アムネスティ・インターナショナル」は、その前提として「成人間の同意に基づく性サービス」のみを対象とすることを求めています。これは、有馬氏の言う「性交を拒否できる権利」や「自由に立ち去れる権利」が売春婦にあることを示しています。詳しくは、こちら を参照ください。

b) 慰安婦の報酬について

有馬氏が取り上げたミッチナーの慰安所に関する情報は、批判1でとりあげた米軍の「日本人捕虜尋問報告」に掲載されているものです。批判1でもそうでしたが、有馬氏はここでも史料に書かれている重要な部分を無視したり曲解しています。

まず、平均月収「300~1500円」は慰安婦の稼ぎであり、このうち半額は慰安所の取り分になります註7。その半分でさえ、慰安所に物品代などとして、支払わなければならなかったのです。{ 多くの楼主は、食料その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った。}(従軍慰安婦資料集,P445)

これを裏付けるのは、武漢の兵站で慰安係長をしていた山田清吉氏の述懐です。

{ 借金返済の原簿である個人別の水揚げ帳なども、何か理由のわからない時貸しがあったり、ひどいのは兵站から公定で配給した敷布や寝巻類まで、地方の時価で書き込んであったりする。}(山田,P83)

ラムザイヤー氏の唱えるゲーム理論は、双方が経済的にウィン・ウィンの関係になることを前提にしていますが、上記のように慰安婦から搾取していた経営者がかなりいたことは確実です註8

次項「2.批判と反論 批判4」へ続く


註釈

註1 有馬氏のこの反論は、同様の質問を提示したハーバード大学ロースクール教授ソク・ジョン氏に対する回答として書かれています。

註2 韓国挺対協編「証言-強制連行された朝鮮人慰安婦たち」,1993年

李用女さんの証言はP230-P231、文玉珠さんの証言はP167-P168。

註3 拙サイト 2.5.3項 を参照。

註4 おサキの例は、山崎朋子「サンダカン八番娼館」に登場する娼婦ですが、これについては、3.資料参照への批判 で述べます。

註5 この資料は、アメリカ戦時情報局心理作戦班が作成した「日本人捕虜尋問報告 第49号」です。

註6 挺対協は、「韓国挺身隊問題協議会」。現在は「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」という名称に変っています。

註7 { 慰安婦一人の稼ぎの最高額は月に約1500円、最低額は月に約300円であったが、この慰安所の規定により、慰安婦は、最低でも月当たり150円を経営者に支払わなければならなかった。}(従軍慰安婦資料集,P460)

註8 秦氏は次のように述べています。

{ 悪質な業者のなかには、何かと名目をつけて彼女たちの稼ぎ高を強制貯蓄させ、払わなかった例もあったようだ。… 楼主の不払いは意外に多かったとも思われるが、それもまた終戦で紙くずになってしまった。}(秦,P394)
ほかにも報酬をもらえなかた慰安婦は多数いたとみられます。拙サイト2.5.3項 を参照。