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ラムザイヤー論文への批判と反論 (4/4)

3. 資料参照への批判

ラムザイヤー論文には、文献の誤った引用や参照がある、との指摘があります。A.Stanley、H.Shepherd、茶谷さやか、D.Ambaras、C.S.Schiederの5人が共同でそうした誤りを調査した結果をレポートにまとめて発表しました。そのレポート「研究上の不正を理由とする撤回要求」(文献6)では10件の不具合を指摘しています。以下、そのレポートの要旨を掲げます。なお、レポートは英文なので私が日本語に意訳しています。

(1) 山崎朋子「サンダカン八番娼館」の引用誤り

ラムザイヤー氏は、「サンダカン八番娼館」の主人公おサキについて、次のように書いている。「おサキが10歳になったとき、周旋業者が来て、海外に行くなら300円を前払いする、ともちかけた。周旋業者は彼女を騙そうとしたわけではなかった。10歳の時でさえ、彼女はその仕事がどんなものであるかを知っていた」註21

しかし、「サンダカン八番娼館」において、オサキは次のように回想している。
「売春婦とは何かはわかっていたが、誰もそれを説明してくれなかった。何も知りませんでした。… 最初に顧客と性交したとき、私は抵抗し、あなたは"うそつき!”と叫びました」
また、ラムザイヤー氏は周旋業者は騙そうとしたわけではない、と記しているが、おサキは周旋業者に「海外に行けば、毎日がお祭りのようで、素敵な着物を着て、毎日好きなだけ白米を食べることができる」と言われたと話しており、ラムザイヤー氏は原書と違うことを書いている。

上記と同様に原書の主旨と異なる記述を他に2件指摘していますが、ここでは省略します。

(2) 文玉珠証言の引用誤り

ラムザイヤー論文の「3.5 慰安婦の預金」という項で、文玉珠は客からもらったチップをたくさん貯めて多額の貯金をし、ラングーンの市場で宝石を買った、という証言が引用されている。文玉珠の証言は日本語と韓国語で公開されているが、ラムザイヤー氏が引用したのは「韓国歴史研究所」という匿名のブログ投稿で構成されたサイトに掲載されているものである。歴史研究の過程で匿名のブログを引用することに問題はないが、そのような場合、読者が情報の出所を理解できるように、引用に明確なマークを付ける必要がある。この場合のようにブログに特定のイデオロギー的な方向性がある場合、これは特に重要である。

(3) ミャンマーの米軍資料(1944)からの選択的引用

ラムザイヤー氏は論文の「3.4 契約条件」という項で、米軍の資料により朝鮮の慰安婦が契約を結んだ、と述べているが、「彼女たちが騙されて来たこと」、「業者が法外な価格で衣類などを売りつけたこと」、「母国に帰ることを妨げられたこと」、などが米軍資料には記述されているのに無視した。

(筆者註)これは、批判2と3で有馬氏も同じ誤りを犯していることは、すでに述べました。

(4) 内務省資料セットからの引用誤り

ラムザイヤー論文の「3.3 契約価格」で、「上海に行く慰安婦は平均600~700円の前渡金をもらった。そのうちの一人は日本の慰安婦は700~800円の前渡金をもらい、… 日本人慰安婦は2年間で600~700円稼いだ」、と述べているが、700~800円を支払われている女性の例は見当たらない。また、水戸から上海に送られた女性の契約書に600~700円との記述があるが、これは一つの事例に過ぎないし、契約条件は書かれていない。この文書は地方で起きた問題を報告する文書であり、慰安婦全体を示すものではない。

(筆者註) 「批判4」でも説明しましたが、この資料は、群馬県、山形県、和歌山県などの警察が周旋業者からのヒアリングに基づいてその活動状況などを内務省に報告した資料です。永井氏の論稿(文献17)にその内容の一部が紹介されていますが、「水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円で契約」、「御坊町でそれぞれ前借金470円、362円を受け取った2人の女性(26歳と28歳)が上海行きに応じていた」、「供述によると、慰安所酌婦の契約条件は『上海に於ては … 2年後軍引揚と共に引揚くるものにして前借金は800円迄を出』すというもの」、といった記述が見られます。

(5) 内務省通達の引用誤り

1938年に出された内務省の通達をラムザイヤー氏は次のように引用している。「売春を目的とする女性の場合、 … 北支、中支方面に向かう者のみ認許される」 しかし、彼はここで重要な言葉を省略している。上記下線部には「暗黙のうちに認許する」という言葉が抜けている。ラムザイヤー氏は、女性への搾取を防ぐという日本政府の決意の証拠としてこれらの文書を提示しているが、これらの文書が示す政府の動機は、帝国と軍の名誉を傷つけるのを避け、銃後の士気を損なわないようにすることである。

(筆者註) 有馬氏はその著書でラムザイヤー論文全体を翻訳する際、「… 北支、中支方面に向かう者に限り当分の間之を黙認することとし …」と訳しています。原文は「approval shall be granted only to …」となっており、明らかに「認許する」です。これはミスではなく、意図的に行った改ざんとみられてもおかしくない重大なルール違反です。

(6) 慰安所従業員日記の引用誤り

ラムザイヤー氏は、慰安所で働いていた韓国人の日記に次のように記されている、という。「慰安婦は預金口座を持ち、その韓国人が口座に定期的に預金し、彼女たちは実家に送金して受領を確認する電報を受け取っていた」。この資料は(2)文玉珠の場合と同じ「韓国歴史研究所」から引用されている。資料には「受領を確認する電報を受け取っていた」とは記されていない。また、雇用主によって普通預金口座に預け入れられた強制貯蓄が、彼らが逃げるのを防ぐための戦略として使用されたことはすでに広く知られている。

(7) 武井2012の引用誤り

上海における酌婦の数について記された武井氏(2012年)の資料からの引用誤りですが、詳細は省略します。

(8) 北シナの引用誤り

1938年に天津市で受け付けた韓国人酌婦の数に関する引用の誤りですが、内容は省略します。

(9) 金富子・金栄「植民地遊郭」からの選択的引用

上記の本で著者が主張する主旨を無視し、自らの主張に都合の良い部分だけを引用している、としています。詳細は省略します。

(10) 秦「昭和史の謎を追う」の誤解と選択的引用

ラムザイヤー氏は、最後の「3.6戦争末期」のセクションで、「慰安婦を最も積極的に採用したのは戦争の最後の2年間だ、とほのめかす学者がいるが、実情はその逆…」と言ったあと、最後のセンテンスで、秦郁彦の1992年のエッセイを引用元として、「売春婦が工場にとられてしまったことから、売春宿は着実に廃業していった」、と述べている。しかし、秦は{『警視庁史』には、軍需工場地帯に臨時慰安所を設置した記述があるので、昼は工場労働、夜は慰安サービスの両方をこなしたのだろう。}註22 と書いてあり、ラムザイヤー氏の主張と矛盾する。また、最後のセンテンスは慰安所と売春宿を混同している。

(筆者註) 最後のセンテンスの原文は、下記のように売春婦(=prostitutes)が工場に取られ…ですが、有馬氏はこれを「慰安婦が工場に取られてしまったことから、… 」と訳しています。
Between the general austerity in the air and the loss of prostitutes to the factories, brothels steadily went out of business.

これまで見てきたように、有馬氏も資料の引用に際してラムザイヤ―氏と同様の誤りをいくつか犯していますが、次のように居直ります。

{ 茶谷さやかとアンバラスはラムザイヤー論文の中のおさきの例を挙げている部分を徹底的にしらべて多くのミスを見つけたと主張している。ミスと判断するのは彼と彼女の主観なので、必ず沢山みつけるだろう。
しかし、そこまでする価値のあることなのかと思う。おさきの部分は、公娼と慰安婦の部分の傍証的部分で、ここにミスがあっても根幹部分にはあまり影響がない。削除しようと思えばできるし、それでも論文は成り立つ。}(有馬,P206)

書いてあることを読み飛ばしておいて「ミスと判断するのは主観」には、あきれますが、このような誤りや改ざんは、読者に誤った印象・誤解を与えます。論文の主旨に影響するしないに関わらず、間違いは間違いとして認めて訂正すべきです。

おサキの件にしろ米軍報告書にしろ、普通に読んでいけば見逃すようなものではありません。そこには、有馬氏が批判者を非難するときによく使う「ダチョウの視点」※1もしくは、「チェリーピッキング」※2が行われていると言ってよいでしょう。

このような誤った引用や不審な参照がたくさんあるということは、論文の信頼度を低下させます。ラムザイヤー氏の論文は失格とまではいかないかもしれませんが、学術論文としての品格を落とし、その信頼性を揺るがせるものであることは間違いありません。

※1 ダチョウの視点;{ ダチョウは見たくない現実に直面すると、土のなかに頭を突っ込んでそれを見ないようにする}(有馬,P74)

※2 チェリーピッキング; { 都合のいいものだけを出してきて、それが全体であるかのように主張すること}(有馬,P194)

4. まとめ

(1) 論文の問題点

有馬氏が代弁した反論の範囲で、私なりに論文の問題点を整理すると次のようになります。

① ラムザイヤー氏は、いくつかの事実や証言などを積み上げて、それらがゲーム理論の一つのモデル「信頼できるコミットメント」に合致する、と主張します。しかし、その立証過程は当該モデルを慰安婦全体に適用するにはあまりにも弱いものです。
結論の正当性を立証するためには、合意されたことが立証できる契約書とそれが慰安婦全体に対して普遍的であることを立証するのが最も確実ですが、それを見つけるのは大変ですし、見つけてもそれに普遍性があることを証明するのは難しいでしょう。それでもここで導出した結論が正しいというのであれば、別の強力な論拠を示すしかありません。
有馬氏は根拠を示していると言いますが、彼が示す根拠は論理矛盾や史料の引用誤りなどを含んだものであり、結論を論証する根拠にはなりえません。

② 資料/史料を正しく参照・引用することは、実証性を担保してその論文の信頼性を確保する上できわめて重要なことです。指摘されたことを間違いと認めるのであれば訂正すべきだし、もし間違いでないというのであればその旨理由を示して反論すべきです。

③ 歴史学の世界に経済学のゲーム理論を適用すること自体は、歓迎すべきことだと思います。しかし、慰安婦システムの契約問題にゲーム理論を適用するのは次のような理由により問題があります。

・軍隊に対する性サービスというビジネスに対して、女性自身の意識は、ある程度同意できるレベルから強烈な拒絶反応を示す場合までその抵抗感には大きな差があるにも関わらず、「経済的原理」をもとに一律化してしまいました。

・慰安所経営者、周旋業者、親などの得失がからみあう慰安婦ビジネスの契約を、ともに経済的利益を求める慰安所経営者と慰安婦というモデルに単純化した上で導出した結論を、すべての契約に強引にあてはめてしまうという全体主義的な方法を採用しています。

(2) 実りある議論に向けて

有馬氏は最終章で、この論争は「アジェンダ※3が違う議論」だと言います。そして、{ 慰安婦問題で日本政府を非難してきた学者や評論家がどんな卑劣なテクニックで自論を正当化してきたのかを見ていこう。}といって、次のような「テクニック」を挙げています註23。1.人格攻撃、2.論文とは関係のない原理・原則・モラルで非難する、3.過去の慰安婦制度を現代の基準で非難する、4.ストローマン論法※4を用いる、5.チェリー・ピッキング、6.自分で定義を作ってそれに基づき非難する、7.レッテル貼り、決めつけ、8.イメージ操作、9.相手の出す根拠を無視する、10.一次資料などを捻じ曲げて解釈する、11.揚げ足取り

ラムザイヤー論文を批判する人たちからすれば、このようなやり方はむしろ有馬氏らラムザイヤー擁護派にあてはまること、と言いたいでしょう。このような"ののしりあい"は、引き分けに持ち込む方法としては優れていますが、非生産的です。

事実の認定は様々な議論のもとになるものですから、事実について議論することはとても大事です。ラムザイヤー論文には議論すべき事実がたくさん含まれており、事実を議論することは、ののしり合いをするより、はるかに生産的です。ラムザイヤー氏が、経済学者やそのほかの人たちの批判に対して反論するのは非現実的註24と言うのであれば、まず双方で「事実認定」について議論してみたらいかがでしょう。それは有馬氏も賛同する安倍首相の次のメッセージを実現するためにぜひとも必要なことだと思います。

{ 日本としては、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を胸に刻み続け、21世紀こそ「女性の人権」が傷つけられることのない世紀とするため、リードしていく決意」(2015年安倍晋三内閣総理大臣談話) (有馬,P45)

※3 アジェンダ; { アジェンダ、すなわち議題を設定することで、どう見るか、どう思うかをある程度コントロールできる。つまり、そのことをどう見るか、そのことについてどのようなアジェンダを設定するかが、その事柄の評価において決定的役割を果たすということだ。}(有馬,P57)

※4 ストロ―マン論法; { いってもいないことをいったとして非難するやりかた}(有馬,P23)

お疲れさまでした。トップ・メニューへ戻る


註釈

註21 この部分は、私がラムザイヤ―論文(文献1 P3-P4)から直接意訳しています。

註22 秦郁彦氏が述べている内容は、秦「昭和史の謎を追う(下)」,P481から引用しています。

註23 有馬,P188-P207

註24 有馬氏は、「卑劣なテクニック」を挙げる直前で次のように述べています。{ これらをみると、ラムザイヤーが彼らの批判に反論するのがどれだけ困難かわかるだろう。}(有馬,P189)


参考文献