日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.5 慰安婦の生活 / 2.5.3 報酬

2.5.3 報酬

図表2.11(再掲) 慰安婦たちの生活状況

慰安婦たちの生活状況

(1) 証言にみる報酬の受領状況

挺対協の分析では、「慰安婦に対する料金の支払いは大部分なされなかった。… 軍人の相手をした対価としてお金や軍票をもらったと証言しているのは3人だけ」註253-1としているが、挺対協「証言」に掲載された朝鮮人慰安婦の証言を筆者が分析してみると、少なくとも半数は支払いをする意思があり、残りも慰安所経営者にしかるべく手段で訴えれば報酬を受領できた可能性があると思われる。

図表2.13は、朝鮮人慰安婦19人(2回行った人がいるので20件分)の証言をもとに慰安婦が報酬をもらったかどうかと兵士たちが料金を支払ったかどうかを整理したものである。兵士は支払いをしたとみられるのに、報酬を受け取っていない、という人が6人もいる。

図表2.13 朝鮮人慰安婦の証言にみる報酬

朝鮮人慰安婦の証言にみる報酬

兵士が現金なり券なりで利用料を払っているのは16件である。兵士が利用料を支払っている場合、慰安所の経営者には収入があったはずで、前借金の返済に充当するか、一部を本人に分配することはできたはずである。しかし、このような仕組みを知らないと経営者にあしらわれてしまう可能性がある。例えば、次のような証言がある。

{ こうして2年たつと、そこでの事情がどんなふうになっているのかよくわかるようになりました。親しくしていた女が「あんたは契約期限が過ぎたから好きなようにしてもいいんだよ」と耳打ちしてくれました。ある日、酒を一升買ってきて飲み、くだをまきました。経営者はそれを見て憲兵隊に言いつけると言いましたが、「言いつけるなら言いつけろ。私も言いつけてやる。契約期間が過ぎたことも、みんな知ってるんだ。おまえたちが虐待したことを全部言いつけてやる」と脅かしてやりました。それからは私の所に来る軍人を一人も受けませんでした。… ある日ある男から「他の所に行く気はないか?いいところ紹介するよ」と言われました。あたしが了解すると、数日後、他のところを紹介してくれました。その日に荷物を移し、移った家で生活を始めました。前の家を出るとき、契約期間を過ぎた分を計算して金を受けとりました。}(証言者:李英淑 挺対協:「証言」,P78-P79)

(2) 報酬がないケース

報酬を受け取れないケースは次の3つのいずれかである。

a) 経営者がネコババして支払わない

b) 年季契約になっている

c) 軍による拉致、強姦と重なりあう「私物」的なもの(2.2.1項のタイプA2)

c)は末端の部隊が、現地の女性などを拉致・監禁して性サービスを強制するもので、朝鮮人慰安婦にはほとんど該当しないのではないかと思われる。

b)は次の証言にあるように、給料は一切支払わずに一定期間働かせることによって借金を返済させる契約形態で、朝鮮人慰安婦はこの契約が多かったかもしれない。

{ サイパンの娼家には17,8の年季娘が二人いた。年季娘というのは、抱えるとき渡したお金で5年とか8年とかつとめさせ、小遣いももらえず、お客からもらったものを小遣いにしていた。だから田舎娘でないと、年季娘なんかにはならなかった。}(玉井紀子:「日の丸を腰に巻いて」、P42<高梨タカの証言>)

漢口で慰安係長をしていた山田清吉氏は次のように回想している。b)の契約の問題とa)の経営者による搾取の問題があったことがうかがえる。

{ 慰安婦の中には計算に疎く単純なものもいた。働いても働いても借金が減らないという金銭関係に対する疑惑についても、これまで年期奉公の形式で前借金とひきかえに一切の自由を売り渡していた封建的雇用関係から、これを直接に質してみることなどは思いもよらなかった。ただ黙って泣き寝入りするのが一般であった。軍はこうした弱い立場にある慰安婦たちにかわって、そういう不明朗な点を解明し、もし誤りがあれば直ちに訂正を命じる――ということを私は言明した … また、借金返済の原簿である個人別の水揚帳なども、何か理由のわからない時貸しがあったり、ひどいのは兵站から公定で配給した敷布や寝間着類まで、地方の時価で書き込んであったりする。そういう点を問いつめると全く申開きのできない楼主もいた。そこで今後は水揚帳はすべて兵站経理の証印をうけさせることにした。}(山田清吉:「武漢兵站」,P82-P83)

軍は慰安婦に利用料の4~5割を支払うように指導していたが、図表2.14はその場合のお金の流れを示したものである。

図表2.14 お金の流れ

お金の流れ

※1 軍が前借金を負担することもあった。

※2 楼主(慰安所経営者)は衣料・化粧品等を慰安婦に法外な値段で売りつけることがあった。

この図は高梨タカが解説してくれる。これは一般の娼館の場合だが、慰安所の場合、娼婦の取り分が5~6割とやや多くなるが、それ以外はほぼこれと同じであろう。

{ 玉代2円もらっても、7分は料理屋の取り分で、それが部屋代とかご飯代とか前借の利息になるんだわね。そして、残りの3分がわたしらの取り分で、それで前借の500円やいろいろかかったお金を埋めあわせていく。化粧品や着物を買う時には、また帳場から借りる。湯銭、髪結賃、チリ紙だって全部帳場で立て替えてもらうんです。この帳場が、つけ掛けといって高くつけるんだ。税金もあるし、前借がぬけるどころか、ますます太っちゃう。}(同上,P22-P23)

※ 玉代は売春の対価、料理屋は娼館のこと

軍からの金銭的支援は慰安所の経営者のみならず慰安婦にとっても大きかったようである。

{ 私の店は海軍省のもとで働いた。私たちは楽で借金もすぐなくなり、毎日働いた帳面は一週間ごとに司令部で検閲する。私たちの裏のほうに横須賀の店があった。それは民間で出して居る故、私たち一時部隊が帰るときも借金がなくならず、後に残った人も居たと思う。}(広田和子:「従軍慰安婦・看護婦」、P28-P29)

娼婦経験者であれば当然のように知っていた契約内容を未成年の娼婦未経験者が知るはずもない。慰安所の報酬や契約の仕組みを教えずに、それを利用してボロ儲けをたくらんだ業者の問題だが、そうした業者を指導しなかった軍の不作為も指摘できよう。

(3) 貯金した慰安婦たち

文玉珠の場合

まったくお金をもらえなかった慰安婦がいる中で、しっかり貯金した慰安婦もいた。まずは挺対協の証言集に掲載されている文玉珠の証言から紹介する。

{ 母親が亡くなったので葬式の費用に金を送りたいと頼み、いくらかのお金を家に送ったこともありました。… 私の通帳にはそれでもまだお金がかなりたくさんありましたが、ビルマのどこかで通帳をなくしてしまいました。… 私はお金を貯めるために本当に努力しました。… 誕生日のパーティや送別会のときに日本人慰安婦といっしょに私を呼んでくれました。上手に相手をつとめると彼らはチップをはずんでくれるので、私はこの金を使わずに貯金しました。}(挺対協:「証言」,P175)

吉見義明氏はこの貯金について次のように述べる。

{ 文玉珠の軍事郵便貯金原簿が熊本貯金事務センターに残っていたことがあきらかになっている。… 貯金額は1943年3月から1945年9月までで2万6551円だった。彼女はこのほかに故郷の父母に5000円を送金したという。}(吉見義明:「従軍慰安婦」、P146-P147)

当時の2万6千円を現在の価値に直すと4~13百万になる註253-2

連合軍による尋問調書

ビルマ・ミッチナの慰安所の経営者や慰安婦を捕虜として尋問した連合軍の調書が残っている。

{ M739※1の施設では、慰安婦一人の稼ぎ※2の最高額は月に約1500円、最低額は月に約300円であったが、この慰安所の規定により、慰安婦は、最低でも月当たり150円を経営者に支払わなければならなかった。}(吉見義明:「従軍慰安婦資料集」,P460)

※1 M739は捕虜のコードネームで朝鮮で料理店を経営していたが商売が不振になり朝鮮人慰安婦を連れてビルマに来た、という日本人男性。

※2 ここでいう"稼ぎ"は、売上額であろう。最低150円を経営者に支払うと言っているので、この慰安所の慰安婦の取り分は5割と思われる。この慰安所の料金は兵が1回1円50銭、下士官3円、将校5円だったから、平均一人2円として最高は月に750人、最低150人相手したことになる。

温泉旅館を買った日本人慰安婦

{ 彼女は北九州の小料理屋の下働きをしているとき、誘われるまま慰安婦となり、昭和13年6月杭州慰安所に行った。半月足らずで前借金を返したが、慰安婦はやめず、南京の上流の九江にある慰安所、ついで漢口の慰安所と移り黙々と金を蓄えた。漢口は昭和15年4月。ここで蓄えた資金を基に自ら慰安所を開き、キャバレーも開いた。…
ところが昭和20年春、彼女は参謀から言われた。「このあたりが潮時だぞ」日本に帰った方がいい、という忠告である。・・・ 彼女はこの忠告を彼女なりに、戦場から戦場を渡り歩いて来たカンにより判断、その場で全財産を売り払い換金し、日本へ帰って来た。
帰国した彼女は伊豆の某温泉で旅館を買った。空襲が激しくなり国内の不動産がタダ同然になっていた時代である。そこへまもなく敗戦。彼女は現在、名前をあげればすぐそれとわかる大旅館の女将になっている。}(千田夏光:「従軍慰安婦」,P250-P251)


2.5.3項の註釈

註253-1 慰安婦に対する支払い

{ 本調査の結果は慰安婦に対する料金の支払いが大部分なされなかったことを示している。軍人の相手をした対価としてお金や軍票をもらったと証言したのは、3人だけであった。…}(挺対協:「証言」、P34)

→ 筆者の調査では対価をもらったのは5人。挺対協の3人が誰かわからないが、筆者がもらったとしている次の二人をもらっていないとしているのではないか。

李英淑: 最初の慰安所はおそらく年季契約で年季があけたあとの分を精算してもらっている。2回目の慰安所では経営者と折半。

李相玉: 他の女は給料を受け取っていたが、本人は服や化粧品などの分を差し引かれるのでもらっていない、と言っている。法外な値段で服や化粧品を買わされているのだろうが、対価をもらっていないわけではない。

註253-2 26千円の現代価値

1945年の26,000円は、2017年の4,060,947円(CPI)、13,038,013円(GDP) にあたる。

CPI: 消費者物価指数をもとに換算、GDP:GDPデフレーターによる換算

(出典: 「日本円貨幣価値計算機」 )