日本の歴史認識南京事件第8章 まとめ / 8.2 原因分析 / 8.2.2 直接的な原因(2)

8.2.2 直接的な原因(2)

ここでは、識者が指摘する直接的な原因のうち、捕虜殺害、市民の巻き込み、市民への暴行の3つに共通の原因について紹介する。

図表8.2(再掲) 識者が指摘する事件の原因

識者が指摘する原因

下表は、上表中の直接原因(共通)部分を指摘した文献を一覧表に整理したものである。

図表8.5 関連文献リスト(共通の直接原因)

関連文献リスト(共通)

※1 略字は識者名(図表8.4参照) 「天皇の軍隊…」は、吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」をさす。

※2 「記事」は、「出典」に記載された内容の特徴的な部分だけを要約したものである。

上表「出典」欄の左端略字は、その原因を提示している識者を表す。なお、図表8.4には他の項(8.2.1)などで登場する識者も含まれている。

図表8.4(再掲) 識者略称一覧

識者略称一覧

(1) 中国人への憎悪

戦争のときに敵国を侮蔑したり憎悪をあおることはよく行われることで、その意味でこれを原因とするのは適当ではないかもしれないが、秦氏は次のように述べている。

{ 指揮官としての腕の見せどころは、兵士の悪魔性を封じ込めながら、そのエネルギーを戦場で爆発させるように誘導するところにあった。… 南京の戦場ではそのバランスが狂い、ついで軍紀の急速な崩壊を招来した。しかも下級指揮官ばかりでなくトップレベルの指揮官まで巻き込まれてしまったところが、ほかに例を見ない特徴であろうか。}(秦:「南京事件」,P221-P222)

以下のような複数の要因により、中国人への侮蔑が入り混じった激しい憎悪感情が一線の将兵の間に発生し、それを指揮官がうまくコントロールできなかった。

(共1a) 上海戦の悪戦苦闘  《 松、吉 》

松井大将は「支那事変日誌抜粋」で、上海戦以来の悪戦苦闘が将兵の敵愾心を強烈にしたと述べている註822-1。また、吉田氏は次のように指摘する。

{ 一般的にいって激しい戦闘の連続は戦友を次々に失ってゆく兵士たちの敵愾心を高揚させ敵に対する報復の念を強める。日本軍の場合、こうした一般的事情に加えて中国人に対する蔑視感や中国の抗戦力に対する過小評価が根強かっただけに、中国軍民の予期せぬ激しい抵抗に直面したとき、敵愾心の押さえがきかぬまでに異常に亢進し、これが兵士をすさまじい殺人機械に変貌させる大きなバネとなったのである。}(「天皇の軍隊と南京事件」,P43)

(共1b) 中国軍のゲリラ戦術  《 松、吉 》

松井大将は「支那事変日誌抜粋」で、便衣兵による抵抗が軍民の区別をつけがたくしたことが市民を巻き込む原因のひとつになった、と述べる註822-2。また、吉田氏によれば第10軍が杭州湾に上陸する直前に「支那住民に対する注意」と題する指示を出し、支那住民にはスパイを勤めたり、日本兵に危害を加えたりする者がいるので、十分注意をするとともにこうした行為を認めたら断乎たる処置を執るべし、との指示を出している註33-3<ページ外>。そのせいか、「逃げる者は射殺」と証言する兵士註452-1<ページ外>もいた。

しかし、ゲリラ戦を中国側の責任として片付けるわけにはいくまい。アウェイで戦争をするときにゲリラ戦を覚悟しなければならないのは、過去の戦史をみても明らかだ。日本は沖縄戦で市民をゲリラ戦に使い、本土決戦でも一般国民を巻き込んだ戦いを計画していたし、アメリカはベトナムでゲリラ戦をしかけられ敗退している。
南京事件当時の参謀本部作戦課長だった河辺虎四朗によれば満州事変後の満州でもゲリラ戦に悩まされ、これを克服するのは「社会の安堵感の普及」つまり民衆の信頼を勝ち取ることしかない註822-3、と述べている。

(共1c) 中国人を侮蔑  《 松、藤、吉 》

松井大将は入城式後に各軍、師団の参謀長に軍紀風紀の粛正について訓辞し、その中で「支那人に対する軽侮の念がこの事変を生起させた、支那人の軽侮は誤りである」といった趣旨を述べていることが12月18日の飯沼日記註822-4に記されている。
日本人にこのような中国人に対する侮蔑感が現われた経緯について吉田氏は、色川大吉の指摘を引用して「日露戦争で勝利した後、経済的にも軍事的にも先進国の仲間入りをしたことを意識し、それまで畏敬の念をもっていた中国人を侮蔑するようになった」と述べている註822-5

(2) 軍紀頽廃

軍紀頽廃が市民への暴行や捕虜殺害の原因になったことは間違いない。1938年1月4日付で陸軍幕僚長(=参謀総長)の名前で松井大将宛に送られた「軍紀・風紀に関する件」では、軍紀・風紀の維持を困難にした要因として「迅速なる作戦の推移」と「部隊の実情等」をあげている註822-6。「迅速なる作戦」は「急激な進軍」とそれによってもたらされた徴発への依存など、「部隊の実情」は予後備兵が多いことをさしているとみられる。軍紀の乱れた原因はほかにもいろいろありそうだ。

(共2a) 予後備兵の増加  《 山、秦、藤、吉 》

戦争が急激に拡大し兵力の増強が必要となったため、現役を退いた予備役、後備役の兵を召集せざるをえなくなった。こうした兵について陸軍士官学校出身で終戦時は歩兵大隊長だった藤原彰氏は次のように述べている。

{ 年齢の高い者は30歳代後半になっており、体力の低下はまぬかれない。… この時代のことなので、多くの者は妻があり、子どもも3人も4人もあって、一家をささえており、後顧の憂いの多い階層である。また同じ隊の将校や下士官が年下であったり、現役時代の後輩であったりすることもあって、上官と部下の関係がかならずしも額面どおりにいかない場合もあり、厳正な軍紀がたもちにくい面も多かったといえる。}(藤原彰:「南京の日本軍」,P90)

また、13師団の山田栴二少将も予後備兵のだらしなさを嘆いている。

{ 予後備兵のだらしなさ 1.敬礼せず 2.服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く 3.武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ 4.行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曳く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤 5.不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪 }(「南京戦史資料集2」,P334 <山田栴二日記12月24日>)

※叉銃(さじゅう); 銃口付近を頂点に複数の銃を組み合わせ三角錐状に立てること

(共2b) 志気の低下  《 藤、吉 》

吉田氏及び藤原氏は、志気や戦意の低下が軍紀の乱れる原因のひとつになったという。吉田氏は上海在勤の一等書記官田尻愛義の回想録を引用して、{ 日本軍の志気は低調そのもので中国軍の方が高い。捕虜をみても、大和魂は先方に乗り移った感がする … }(「天皇の軍隊と南京事件」,P36)と述べる。中国軍から見ても日本軍の志気は低かった。(3.5節余話「中国軍からみた日本軍」) なぜ志気が低下したのか、吉田・藤原両氏は予後備兵の増加、上海戦の苦闘、戦争目的が不明確、などをその原因としている。

(共2c) 徴発は諸悪の根源  《 山、早、秦、藤、吉 》

早尾逓雄陸軍軍医中尉は上海・南京戦で頻発した事件を調査した報告書で、徴発が市民暴行のきっかけになったことを指摘し( 6.7.3項(5) )、山田栴二少将も同様の指摘をしている( 4.5.2項(7) )
秦氏は、徴発が諸悪の根源だったことを指摘する指揮官クラスも少なくなかったという。

{ 砲兵旅団長として華中に出征した澄田睞四朗少将は、次のように述べている。「上司から命令したのが《徴発》であり、然らざるものが《掠奪》だなどという理屈が兵隊さんに呑み込める道理はない。兵士達はこんなことから、… 良心の麻痺を来して、軍紀風紀の頽廃を生じ、遂に放火、殺人(強姦)果ては虐殺なども、さほどの悪業とは、思わないような心境に立至ったと推するのは、筆者の僻目だろうか」(『任官60周年陸士第24期生小史』)(秦:「南京事件」,P220)

(共2d) 強姦に甘い刑法  《 吉 》

南京事件当時の陸軍刑法では、強姦罪は「略奪の罪」の中に包含されており、掠奪に伴って起こる強姦以外は問題にしないかのような規定になっていた。また、当時の強姦罪は親告罪であったため、被害者の申告がないと罰せられなかった。1942年になって陸軍刑法が改正され、強姦罪は独立の項目となって強姦にともなう殺傷を取り締まる旨が明確にされた註822-7

岡村寧次大将は武漢攻略前の1938年8月、憲兵隊長から輪姦事件を取り調べたところ被害者が告訴しないから、強姦罪は成立しないので不起訴とするとの報告を受け、憲兵隊長を叱咤し厳重に処分するよう指示している。その後、岡村大将は阿南陸軍次官に強姦罪の改正を強く求め、その結果1942年になってやっと改正が実現した註822-8

(共2e) 時代に逆行した兵士管理  《 吉 》

明治になってからの初等教育の普及や大正デモクラシーの影響で兵士の知的レベルが向上して自律的な思想を持つようになり、軍隊内の生活規則も兵士の自覚を前提としたものに改められた。その後、共産主義運動の活発化、満州事変勃発などにより、「天皇の軍隊=皇軍」としての意識徹底を図るため兵士の管理・監視体制が再び強化されたが、かえって兵士の反発をかうようになった。

{ 1934年には、再度、軍隊内務書の改正が行われ、… 兵士に対する管理・監視を強化することが確認された … この時期の天皇制軍隊は、兵士自身がすでに軍紀に盲目的に服従する存在ではなくなっているにもかかわらず、いわば時代の流れに逆行する形で、兵士に一方的な管理・監視体制の強化と天皇親率の軍隊であるという大義の強調とによって、軍紀を保持しようとした。換言すれば、天皇制軍隊は大正デモクラシー状況をくぐりぬけてきた兵士たちの内面的忠誠を獲得する新たな理念と組織原理を十全な形ではつくりだせなかったのである。}(「天皇の軍隊と南京事件」,P195-P198)

※軍隊内務書; 兵営内の生活に関する一種の管理規定書(同上P193)


8.2.2項の註釈

註822-1 松井大将「支那事変日誌抜粋」における原因分析

{ 我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。是れ思ふに
一.上海上陸以来の悪戦苦闘が著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
二.急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと
等に起因するも亦予始め各部隊長の監督至らさりし責を免る能はす。}「南京戦史資料集」,P48)

註822-2 松井大将「支那事変日誌抜粋」におけるゲリラ戦術の影響

{ 敗走せる支那兵か其武装を棄て、所謂「便衣隊」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からさりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然其一般良民に累を及ほすもの尠からさりしを認む。}(「南京戦史資料集」,P48)

註822-3 ゲリラ戦対策

{ 関東軍は … 討伐一点張りの主義を排して、日満軍官民の共同協力によって、武力示威と宣撫工作との節調、民生安定の社会的諸策等、それらが相互に相作用することにより、「匪民分離」の策を進め、匪団を孤立無援の状態に誘導することに努めた。
古今東西ともに、ゲリラの掃滅は大きな難事業といわれているが、私一個の体験は、あのような情勢下における対ゲリラ戦では、結局、治世の浸透と、文化の浸潤等による社会の安堵感が普及することによって、決勝が得られるものであることを感銘させた。}(「河邉虎四朗回想録」,P63)

註822-4 松井大将の訓示

{12月18日 午前2:00より首都飯店にて参謀長会同。… 司令官より老婆心として談話。
【支那人を】武威に懼服せしむると共に皇軍に心服せしめ日支一体の必要を感せしむる以外出征の目的達成の途なし。之か為2,3注意を倍莅し度い。軍紀風紀の粛正。支那人に対する軽侮の念多し之か禍を為し今日の事変を生起したるとも言ひ得、… 漢民族殊に支那人を個人的に観るときは気力、経済力共に侮るへからさる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結力なかりしに在り、故に之を加うれは恐るへき力を成す。而して現今之か実を結ひつつあり、軽侮するは誤りなるを銘心せよ。国際関係に対する自分の信念としては支那人には和く親切に英米其他諸外国に対しては正しくと言ふに在り … 以上将校には伝えられたし。}(「南京事件資料集」,P218-P219 <飯沼日記>)

註822-5 中国人への侮蔑意識

{ 日本の一般民衆の中国人観に質的ともいうべき変化をもたらしたのは、日清、日露戦争の国民的体験であった。とくに色川大吉が指摘しているように、日露戦争の影響は大きく、この戦争によって、「朝鮮、満州の戦場に出ていった100万という日本人大衆が、おそらく有史以来はじめてのスケールで直接に中国民衆に接し、これまで畏敬の念さえ持ってきたかれらに対し、はっきりした侮蔑意識を確認して帰ってきた」。そしてその侮蔑意識の背景には「明治維新ー文明開化」(近代化過程)を通過して、経済的にも文化的にも軍事的にも先進し、優越した"日本という国の一環"であるという鮮烈な自己認識が、倒錯した形で示されていた」のである。(色川大吉「日露戦争と兵士の意識」)(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P186)

註822-6 参謀総長 「軍紀・風紀に関する件」(要望)

{ 遡て一般の情特に迅速なる作戦の推移或は部隊の実情等に考へ及ぶ時は森厳なる軍紀、節制ある風紀の維持等を困難ならしむる幾多の素因を認め得べし従て露見する主要の犯則不軌等を挙げて直に之を外征部隊の責に帰一すべからざるは克く此を知る }(「南京戦史資料集」,P565)

註822-7 陸軍刑法における強姦罪

{ 日本軍の軍法規自体が強姦に対して「寛容」であったことである。… 当時の陸軍刑法には独立した強姦罪の規定がなく、「掠奪の罪」の中に強姦罪が包含されていたにすぎない。すなわち、陸軍刑法第86条は、「戦地又は帝国軍の占領地に於て住民の財物を掠奪したる者は1年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すに当り婦女を強姦したるときは無期又は7年以上の懲役に処す」としていたのである。略奪に随伴して起る強姦以外は問題にしないと言わんばかりの規定である。この陸軍刑法が改正され、「戦地又は帝国軍の占領地に於て婦女を強姦したる者は無期または1年以上の懲役に処す。前項の罪を犯す者人を傷したるときは無期または3年以上の懲役に処し、死に到したるときは死刑又は無期若は7年以上の懲役に処す」という形で強姦罪が独立の項目となり、強姦にともなう殺傷をも取り締まる趣旨を明確にしたのは、実に1942年2月のことであった。}(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」,P86)

註822-8 岡村寧次大将と強姦罪

{ 8月23日五十嵐憲兵隊長報告のため来訪、小池口における上等兵以下3名の輪姦事件を取り調べたところ、娘は大なる抵抗もせず、また告訴もしないから、親告罪たる強姦罪は成立せず、よって不起訴とするを至当とするとの意見を平然として述べた。同列した軍法務部長もまた同じ意見を述ぶ。
それに対し、私は叱咤して云った。強姦罪が親告罪であることぐらいは予もこれを知っている。… 憲兵は須らく被害者をみな親告せしめよ、そうして犯人はみな厳重に処分すべしと。
… しかしその後も各地でやはり強姦が頻発し、しかも示談が少くなく、その示談金が到る処日本金の15円に統一されているという珍妙な現象を聞いた … 内地に帰還した昭和15年3月26日、阿南陸軍次官に対し、この戦地強姦罪設定の意見を強く述べたところ正義の士である阿南は、直に同意し、改正に着手すべしと答えた … }(「岡村寧次大将資料(上巻)」,P301)