日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.7 暴行は中国兵のしわざ!? / 6.7.4 放火の犯人は?

6.7.4 放火の犯人は?

図表6.25(再掲) 強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

東中野氏は、「南京虐殺の徹底検証」で、ラーベの近辺に集中した放火は反日攪乱工作であった、と主張している。しかし、「再現 南京戦」では、12月20日前後に多発した火災は「便衣兵によるもの」、「日本軍は消火をこころがけていた」、とだけ述べ、なぜか反日攪乱工作は消え失せている。

(1) ラーベの近辺に集中した放火

東中野氏は次のように述べる。

{ 12月19日、ラーベは自宅の南も北も大火事と記す。12月20日も放火、1月3日は近所で3軒も放火、1月5日も放火、9日も近所で火の手が上がった。12月27日にはまだ出店していそうもない「日中合弁商店」に、ラーベが使用人と見学に行くと、待ってましたとばかりに放火が始まる。… 日記による限り、日本兵が犯人と断定できる証拠は何ひとつなかった。それでもラーベは「日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない」と推定する。ラーベを狙い撃ちするかのように上がった火の手たるや、その効果は絶大であった。}(「徹底検証」,P396)

ラーベが日記に、場所をある程度特定して書いている火災は12件あるが、そのうち"近所"と明記されているのは、12月19日、1月3日、5日、9日の4件、3日と5日は同じ火災とみられるので実質3件である。スマイス報告( 図表4.23 )によれば、安全区内の建物で放火されたのは0.6%しかないが、城内全体では13% 約4千棟も焼失している。ラーベの自宅は、安全区の東南、中山路まで300メートルほどの所にあったので、安全区外の火事がよく見えた、というだけのことであろう。
ラーベの12月21日の日記にはこう書かれている。

{ そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから掠奪、放火の順だ。}(「南京の真実」,P151)

(2) 12月20日前後に多発した火災

国際委員会の第22号文書(12月2日付)「南京市の火災についての所見」では、12月14日朝に人口密集地域である城内南部を調査したが、中国人が放火したとみられる数件の火災以外、建物の焼失はなかった、と報告している。また、19日夜に安全地帯で火災の調査を行い、2件の火災を確認、国府路の方角(安全区外)に多数の火災が望見されている。
20日の夕方フィッチとスマイスが、夜9時頃にはクレーガーとハッツが、ともに城内南部と東部を視察しYMCAの火災など多数の火災を確認している。フィッチとスマイスは下級将校に率いられた15~20名の日本兵が商店から物資を持ち出し、燃える建物を眺めている様子を目撃、クレーガーとハッツは、多数の兵士がいたが誰も火を消そうとはせず、むしろ品物を運び出していた、と報告している註674-1

(3) ソ連大使館の火事

上海派遣軍参謀長の飯沼守少将は、1月1日の日記にソ連大使館で火事が起ったが、附近は日本兵が決して入り込まない場所(だから日本兵のしわざではないだろう)と安心していたが、1月4日に特務部の岡中佐から大使館の裏に日本兵が入り込み食糧を徴発しているのを発見された、との報告を聞き、今頃食糧に窮するも不思議、大使館に入り込むも不可解と戸惑っている註674-2

(4) 関係者の証言 原文は註674-3を参照

① 野村敏明軍曹(歩35); 「これから利用する建物に放火するのは考えられない」<戦後の証言>

② 牧原信夫上等兵(歩20); <12月17日>「今夜も便衣隊の放火による火事があった」

③ 前田吉彦少尉(歩45); <12月19日>「3階建洋館から黒煙が湧き出した … 掠奪組の放火とみられる」

④ 山田栴二少将; <12月8日>「連日火災多く、皇軍らしからぬ仕業 … 諸隊に厳重注意」

⑤ 早尾軍医; <1938年?>「必要上の放火より遊戯的放火が多かった」

⑥ フィッチ; <12月20日>「兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見た」

⑦ スマイス報告; <1938年>「南京の城壁に接する市街部と東南部郊外ぞいの町村は中国軍が放火し、城内と近郊農村の多くは日本軍によって放火された」

(5) まとめ

城内の放火が起き始めたのは19日頃から、と外国人達は言う。であれば、日本軍の宿営場所は決まっており、野村軍曹の証言「これから利用する建物を焼くはずがない」は説得力に欠ける。スマイスが述べるように、城外は中国兵の清野戦術によるもの、城内は日本兵によるものと考えるのが妥当であろう。(中国人によるものもあったかもしれない)

日本兵の放火目的は掠奪や強姦の痕跡を消すためだけでなく、早尾軍医が述べるように"遊戯的放火"もかなりあったのではないだろうか。


6.7.4項の註釈

註674-1 外国人の見た火災 国際委員会第22号文書「南京市の火災についての所見」(1937年12月21日)

{… 火曜日【12月14日】の朝、… 【国際委員会の】何人かのメンバーは市の南部のドイツ人およびアメリカ人の資産の状態を調査していた。… 市の広い地域は全く焼けていなかった。
委員会のメンバー達は12月19日夜、安全地帯内での火災の調査を行った。… 平倉巷16号の1軒の家は日本兵達によって焼かれていた。… その日中、中山路と保泰街の角の建物は燃えつきた。そして、その晩、多数の火災が国府路の方角に望見された。
12月21日午後5時から6時の間、フィッチ氏とスマイス氏は保泰街を下り、南を迂回して泰平路に至り、南に進み白下路の南へと進んだ。そこまでの諸街路は、物資を満載した日本軍のトラックと自動車で道幅一杯に混み合っていた。彼らは九江路のすぐ南のクリークから始まって白下路に至る間で、15名から20名の日本兵の集団をいくつも見かけた。それらの小集団は一見下級将校に指揮されており、燃える建物を街路の両側から注視しているか、あるいは商店から物資を持ち出し、他の店では床の上で焚火をしているのが見られた。… YMCAの建物の北半分が炎に包まれているのを見た。…
20日の夜遅く、9時頃、クレーガー氏とハッツ氏は車で中正路を下って白下路に至り、それから東進して中華路に至った。しかし日本軍の歩哨に制止されて、そこから南へは進むことができなかった。YMCAの建物は、ほぼ焼け落ちようとしていた。彼らはそこで太平路まで進み、そこで方向を北に転じた。すると道路の両側で燃えている約10件の火災が目に入った。… 彼らは中山東路で方向を西に転じたが、東海路と国府路の角あたりで大きな火災を観察した。彼らが中山路と九江路の角まで来ると、九江路の北側の大きな火災を観察した。… その辺には多数の兵士がいたが、誰も火を消そうとしなかった。彼らはむしろ品物を運び出していた。}(「安全地帯の記録」,P205-P208)

※「安全地帯の記録」では12月21日となっているが、「大残虐事件資料集Ⅱ」では20日になっている。ラーベはYMCAの火災を20日の夜と書いていることから20日が正しいとみられる。

註674-2 ソ連大使館の火災 飯沼守日記より

{ 1月1日 … 今日午後ソ連大使館焼く。此処は日本兵決して入り込まさりし所なれは証拠湮滅の為自を焼きたるにあらすやと思はる。他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑あるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。唯米国のみは四囲の状勢已むを得さるも当時番人の親戚等5,60人入り込み居たる関係上敗残兵ありとの噂に依り進入したるも米大使館と判り直に引き上けたりと云ふこととす。}(「南京戦史資料集」,P231)

{ 1月4日 … 10:00過 特務部岡中佐来りソ連大使館焼失に就ての取調と米国大使館員(5日来る筈)と接衝の為来りしとて午前1:00迄話して帰る。同中佐ソ連大使館に到りし時裏手の大使かの私邸に笹沢部隊の伍長以下3名入り込み、食糧徴発中なりしと、今に到り尚食糧に窮するのも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解。}(同上,P233)

1月1日の日記からは、中国兵に責任転嫁するための工作があったことがわかる。また、1月4日の日記からは、飯沼参謀長などの軍幹部が現場の状況を把握できていない様子がうかがえる。

註674-3 放火に関する証言など

① 野村敏明軍曹(歩35);{ 「日本兵がよく放火した」と報じられているが、これは不可解である。日本軍がこれから利用しなければならない建物や、宣撫工作上からも大事な住宅などに放火するなど、とても考えられないことである。南京城内では、我々が入城する前から火災を起こしていたのである。}(「証言による南京戦史(4)」,P8)

② 牧原信夫日記(歩20);{ 12月17日 … 今夜も2,3ケ所火事があった。(便衣隊の放火によるもので、夜は外出禁止) … 12月21日 … 毎晩火事が起るが何故かと思ったら、果たせるかな支那人の一部が日本軍の居る附近に石油をまいて付火するのである。今日は1名捕えて殺す。}(「南京戦史資料集」,P513)

③ 前田吉彦日記(歩45);{ 12月19日 … 帰途ロータリーを南下して泰准へかかるころ不図道畔の3階建の洋館から突如黒煙が湧き上がりその下にチロチロと火焔が出はじめたのに気付く。今朝来るときは火の気など一つもなかったのだが、此は掠奪組の放火と首肯れた。皇軍意識なんてものはひとかけらもない彼等の行動だ。… }(「南京戦史資料集」,P468)

④ 山田栴二少将日記;{ 12月8日 … 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる仕業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、}(「南京戦史資料集2」,P333)

⑤ 早尾軍医「軍医官の戦場報告意見集」;{ 官憲の取締り行き届かざりし頃は、放火、掠奪、殺人、窃盗、強奪、強姦など、あらゆる重犯行為思うがままに行われつつありしが、取締り厳となるとともに放火は漸次数を減らしたるを見たり。必要上の放火よりは遊戯的放火の少なからざるを見たり。}(「南京難民区の百日」,P304)

⑥ フィッチ「戦争とは何か」;{ 12月20日 … 兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見ることができましたし、さらに、さきでは兵士たちは略奪品をトラックに積み込んでいました。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P36)

⑦ スマイス報告「まえがき」;{ … 南京の城壁に直接接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切なものであったかはわれわれの決定しうることではない。… 事実上、城内の焼き払いのすべてと近郊農村の焼き払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P212)