日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.7 暴行は中国兵のしわざ!? / 6.7.1 反日攪乱工作隊

6.7 暴行は中国兵のしわざ!?

東中野氏は「南京虐殺の徹底検証」と「再現 南京戦」で、安全区には中国軍が反日攪乱の命を帯びて紛れ込み、掠奪や強姦などの噂を流したり、みずから実行してそれを日本軍のしわざであるかのように装ったりした、と傍証を含めて多数の論拠を提示する。この節では、この"反日攪乱工作隊"全般に関する事項について6.7.1項にまとめ、強姦、掠奪など犯罪ごとの議論について6.7.2項以降に整理した。

図表6.25 強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

強姦・掠奪などは中国兵のしわざ!?

6.7.1 反日攪乱工作隊

東中野氏は「反日攪乱工作隊」が存在したことを、新聞記事など複数の史料をもとに主張する。以下、東中野氏が論拠とした史料のうち主なものについて、史料ごとに検証する。なお、検証に当り、6.2.3項で紹介した“ゆう”氏のサイトを参考にさせていただいた。

(1) ニューヨーク・タイムズの記事(1938年1月4日)

東中野氏の主張

{ … 「元支那軍将校が避難民のなかに ―― 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」と題する記事は次のように言う。… 【《~~》が新聞記事からの引用】
《 南京の金陵女子大学に … 残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちはこの大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人たちや他の外国人のいる前で自白した。… 》 }(「徹底検証」,P275)

筆者注: この事件は(3)で述べる「王新倫事件」のことである。

笠原氏の反論

{ 記事のタイトル原文は、“Ex-Chinese Officers among U.S. Refugees, Colonel and His Aides Admit Blaming the Japanese for Crimes in Nanking” これを私【笠原氏】が訳せば「アメリカ人施設の難民の中に元中国軍の将校――大佐と彼の部下は、南京において悪事を日本軍のせいにしたことを認める」となる。東中野氏の訳は、大佐一味が南京全域で"反日攪乱工作"をしたと決めつけるための訳である。… 自分たちで匿って自分たちで発見し、心底から当惑した、というのも陳腐な訳である。…
この情報の出所は日本軍憲兵隊と推定される。この時点で南京には英・米・独の大使館員や新聞記者はいなかったから、この情報を上海に送信できるのは日本当局だけだった」(「13のウソ」,P203-P205 要約)

(2) チャイナ・プレスの記事(1938年1月25日)

東中野氏の主張

{ 上海でアメリカ人の発行するチャイナ・プレス(1938年1月25日号)も同じことを報じている。… 12月28日現在で、外国大使館や建物から支那軍の将校23名と下士官54名、兵卒1498名が摘発された。これは、12月24日からの住民登録の結果でもあった。つづけて、チャイナ・プレス1月25日号はその前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。
《 その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ)がいた。彼は陳弥(チェンミィ)と名乗って、国際避難民地帯の第4部門のグループを指揮していた。また、前第88師の副師長馬跑香(マーポーシャン)中将や、南京警察の高官密信喜(ミシンシ)もいると言われている。馬中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた、と言われる。また、安全地帯には黄安(フワンアン)大尉のほか、17人が、機関銃1丁、ライフル17丁を持ってかくまわれ、王信労と3人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》…
注意すべきは、支那軍将兵たちは強姦の話を撒き散らしただけではなかった。それを証明すべく、自ら「強姦に携わった」か、強姦未遂に携わったことである。… }(「徹底検証」,P276-P277)

笠原氏の反論

{ この記事はその前日に公表された「南京日本軍憲兵隊の報告書」を引用したものである。… この報告があった頃、潜伏していた中国軍将兵が武力抵抗を試みて失敗する事件が何度か起こり、元将兵が摘発された事件が発生している。この記事はそうしたグループを摘発したときのものであろう。… 難民にも気付かれないように用心深く潜伏していた元将兵たちが、当時にあっては可能性も未知数な国際的非難を呼び起こすために、自分たちの存在を日本軍側に知られ、難民に密告される危険を冒してまで"強姦"をしてみせたという東中野氏の"反日攪乱工作隊"説の発想は、現実を無視した"妄想"といえるものである。}(「13のウソ」,P206-P209<要約>)

<筆者補足> 上記の憲兵隊の報告はニューヨーク・タイムズも報じている。兵民分離により摘出された中国軍将兵の数や発見された武器の種類と量、それらの高級将校は外国の大使館などにいたこと、その大使館はどの国のものか日本の報道官は明かさなかったこと、などを報じているが、王信労(=王新倫)についてはふれていない註671-1

(3) 王新倫事件

ニューヨーク・タイムズ(1月4日)の記事に登場する"大佐"は、チャイナ・プレスに登場する"王信労"のことで、彼らが逮捕されたことは、国際委員会の第28号文書(1937年12月31日2時30分)に「王新倫事件についての会談の覚書」として記録されている。以下はその要旨である。(原文は 註671-2 を参照)  なお、王信労と王新倫は同一人物である。

出席者: 徐博士、呉国珍氏(第6区住宅主任)、M.S.ベイツ博士、ルイス.S.C.スマイス博士

・呉国珍氏は王新倫が住宅委員のスタッフになってから知り合った。養蚕館の責任者は任則賢だったが、あまり有能でなかったので王新倫を補助としてつけた。

・任則賢が王に嫉妬し、憲兵隊にこのことを通報した。

・王は他の4人が銃を埋めた、と兵士に話した。

・ベイツによれば、金銭問題で元大尉と王との間にトラブルがあった。王は強姦をしたとの話もあるが、呉はそれを否定した。

・ベイツは、王がもし元兵士だったら我々は介入できないが、二人の使用人については身元を引き受ける、と述べた。 }

ベイツは日本大使館への手紙註671-3で、連行された4人のうち2人は金陵大学の使用人で1人は難民、王は「保安隊にいたとされている」と書いている。

この事件は、中国人同士のトラブルがもとで一方が他方を日本軍に密告し、道連れに数人の市民が連行された、という事件であるようだ。王が強姦したかどうかもはっきりしない。

(4) マッカラムの日記

東中野氏の主張

{ 支那人の中から、強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。東京裁判に提出されたマッカラムの1938年1月の日記は、「支那人の或る者は容易に掠奪・強姦及び焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すら致します」というふうに記す。}(「徹底検証」,P277)

笠原氏の反論

東中野氏は以下のように欺瞞的な引用の仕方をする。 【下記の下線部分だけを引用】

《 1938年1月8日――今、日本兵は安全地帯における我々の努力を信用せぬように試みております。彼らは貧賤な支那人を脅迫して、我々が云ったことを否認させようとします。支那人の或る者は容易に掠奪・強姦及び焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すら致します。我々は今、狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考えます。… 》

… 日本軍の特務機関関係者が、貧しい人々を金品で買収し、かつ「言う通りにしなければ命を保障しない」といった類の脅迫をして、安全区委員会の抗議している日本軍の暴行は、実は中国軍が行なったものだと証言するように迫り、実際にそれに従った難民、中国人がいたことを書いている。

(「13のウソ」,P211)

日本側が中国人を買収して、犯人は中国人であると証言させようとしたことは、ドイツの外交文書などにも書かれている註671-4。また、買収したかどうかわからないが、上海派遣軍参謀長飯沼少将は同様の工作を行ったことを日記に記している註674-2<ページ外>

(5) 将校をかくまったラーベ

東中野氏はラーベが将校を匿った2つの事例を述べる。(註641-1の表でNo.8,9,10に相当する)

1つは龍大佐と周大佐の事例で、{ 12月12日20時、唐生智逃亡の頃、龍大佐と周大佐がラーベを再訪する。そして「ここに避難させてもらえないか」と頼んだ。ラーベは良心の呵責を覚えることなく、敵兵を匿うのである。… 龍大佐が「私と周の2人が負傷者の面倒を見るために残されました」と語っていたように、彼らは上官の唐生智の指示により計画的に残されたのである。}(「徹底検証」,P391-P392)

2つは、{ 陥落以来、羅福祥(本名は汪漢萬)を匿っていたことを、翌年2月22日の日記に71日ぶりに記す。その日の忠実な記録を日記と考えるならば、ラーベの日記は必ずしもその種の日記ではない。後で自己の体験を、ある観点から注意深く取捨し、再構成しながら書いた、目的志向的な日記であった。… ラーベはドイツに帰国する際、汪漢萬を使用人と偽って汽船に同乗させ、香港への逃亡を援助した。高級将校の潜伏と逃亡を幇助し、自己を凱旋兵と同一視するラーベ、それはまた中立地帯委員長の理性の倒錯を示す。}(「徹底検証」,P391-P392)

ラーベがかくまった二人が"反日攪乱工作隊"とどういう関係があるか東中野氏は述べていないが、ふつうの人がこの日記を読めば、ラーベは人道的観点でこれらの中国将兵を自宅に置いただけと理解するだろう。

(6) まとめ

「南京安全区档案」に報告されているだけでも事件の数は400件を超える。その多くを"日本兵を装ってしかける"には、かなり大きな組織でなければできないが、そのような組織が存在したという形跡はない。仮にそうした組織があったとすれば、結果的にその活動は大成功だったのだから、組織の関係者から自慢話が漏れてきても不思議でないが、それもない。

王新倫らが憲兵隊につかまったとき、日本軍に徹底的に追及されただろうが、チャイナ・プレスに発表した簡単な記事だけで終わっている。もし、東中野氏が言うような活動が行われていたら、日本軍はもっと大々的に発表して日本の新聞にも書かせ、国際委員会にも何らかの連絡があったはずだが、そうした形跡もない。

このように"反日攪乱工作隊"に関する直接的な痕跡は日本軍憲兵隊の発表以外にはなく、東中野氏の主張は憶測に過ぎな、と断言できる。中国人がどさくさに紛れて掠奪や強姦などをはたらいた可能性はあるが、組織的な活動はなかった、と言ってよいだろう。

東中野氏は「南京虐殺の徹底検証」では、"反日攪乱隊"という言葉を多用しているが、「再現 南京戦」では一言も使っていない。さすがに"反日攪乱隊"のような組織は非現実的とでも思ったのだろうか?


6.7.1項の註釈

註671-1 1月24日のニューヨーク・タイムズ記事

{ … 今晩、日本陸軍司令部は14日前に南京駐屯の憲兵部隊から受領したと称する報告を発表した。同報告は一月前の情況を扱っており、最後の日付は12月28日である。
本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの安全区に中国軍将校23名、下士官54名、兵士1498名が隠れていた。その内の一部は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これら高級将校の一部は、大使館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難していたことが、とくに強調された。
これらの平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。某国大使館近くと特に曖昧に言及された一防空壕の捜索では、軽砲1、機関銃34、小銃弾420,000、手榴弾7,000、砲弾500、迫撃砲2,000が発見された。
記者側から質問を浴びせられて、日本の報道官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入ったものであることを認め、いずれかの非中立的な外国が紛糾を起こしたと示唆しようというのではない、と言った。その大使館の国名を挙げるよう強く求められたが、報道官はこう言って返答を避けた。「この問題については皆さん自身の回答にお任せしましょう」 さらにアメリカ大使館が関係しているかどうかと尋ねられても、彼の答えは「その点については触れないほうが良いと思う」というものであった。1月中、とりわけ15日以降の南京の情況についての情報を求められたが、日本の報道官は、まったく知らないと断言した。}(「南京事件資料集Ⅰ」,P443-P444)

註671-2 第28号文書: 王新倫事件についての会談の覚書(1937年12月31日2時30分)

{ 出席者 C.Y.徐博士(住宅委員長)、呉国珍氏(第6区住宅主任)、M.S.ベイツ博士(南京大学緊急委員会委員長)、ルイス.S.C.スマイス博士(国際委員会書記)

1. (省略)

2. 第6地区主任の呉国珍氏は、この男、王新倫をよく知らなかった。が、彼らは同郷であり、王が住宅委員のスタッフになってから知り合うようになった。養蚕館の元責任者は呉の父親が任命したが、名を任則賢※1Ren Tze-Chienといった。彼はあまり有能でなかったので、王新倫に彼を助けるよう依頼した。

3. 呉氏は王が南京市警察の警部であったことは知っている。

4. 任則賢が王に嫉妬し、憲兵隊にこのことを通報した。任則賢は今も養蚕館にいる。

5. 呉の言うには他の4人が銃を埋めた。王は兵士に対し、この4人が銃を埋めたと説明した。

6. ベイツ曰く、中国語の書類に署名をした男が言うには、このことが起る前にリエンチャン大尉※2がおり、(呉はルーチャン大佐※2だと主張)、金銭問題でこの元大尉と王との間にトラブルが起こった。後にこの元大尉は日本軍の仲間となり、昨日養蚕館から妻を引き上げさせた。「田中氏は、昨日私(ベイツ)に王もあそこで強姦をしていたと言った」呉は王が強姦したことは否定した。

7. 徐博士がこれに対する我々のとるべき態度を問うた。ベイツの意見では、もし王が元兵士なら我々は介入できない。軍隊の問題である。彼はよそ者としてここへ来た。しかし、二人の使用人については我々(南京大学委員会)は身元を引き受け、他の者達はこの件に関係した難民達を含めて喜んで身元を引き受けた。

8. 徐博士は日本大使館に報告のために出かけた。       L.スマイス }(「安全地帯の記録」,P217-P219)

※1 冨澤氏は"則賢"と訳しているが、「大残虐事件資料集Ⅱ」,P177 では、"任則賢"としている。

※2 冨澤氏は"リエンチャン"と"ルーチャン"を人名のように訳しているが、大残虐事件資料集では"リエンチャン"は大尉、"ルーチャン"は大佐の意となっている。

註671-3 ベイツ、リッグスから日本大使館への手紙(1937年12月30日)

{ 午後2時頃、金銀街6号の金陵大学蚕桑系の建物に憲兵隊将校および兵士が来ました。彼らはWC(便所)の後ろに小銃6、拳銃3~5およびそばで見た人たちによれば機関銃の部分と思われるものを発見しました。人々によればこれらの銃は敗残兵によって投げ捨てられたもので、面倒を避けるために埋められたものだと言います。憲兵隊は以下の男4人を連行しました。陳嵋(または王興龍)、楊広発、王二(通称)、姜銘珠。彼らについて言うと、陳嵋(王興龍)はいくらか教養のある人で、難民の世話に自発的に当っていました。今日、この事件が発生するまで何も悪い情報はなかったのですが、いま彼は保安隊に勤務していたと言われています。楊広発は金陵大学蚕桑系の職員 ・・・ 王二は蚕桑系の門番で私たちは保証できます。姜銘珠は ・・・ 難民の息子です。・・・ おそらく、中国敗残兵が大量の銃を投げ捨てた後、人々が驚いて埋めたり、池に投じたりしたのでしょう。もし憲兵が池を調べたら、大量の武器を発見すると思われます。}(「南京事件資料集Ⅰ」,P146))

註671-4 中国人を買収したとみられる文書

「ドイツ外交官の見た南京事件」,P89

{ 資料23 報告 駐華ドイツ大使館(漢口)宛 発信者 ローゼン(南京) 1938年1月13日南京ドイツ大使館分館
・・・ 大使邸ではいくつかの中国の蒔絵が日本兵に盗まれた。その後、日本のある領事館警官が現われて、中国人が犯人であると証言させるため、大使邸のクーリーに50ドルを手渡した。かれは殺されるのを恐れて金を受け取ったが、その後ドイツ人の庇護を頼りに真実を語った。・・・}

ベイツの手紙(1月10日) <戦争とは何か> 「大残虐事件資料集Ⅱ」,P51

{ 金陵大学の正規の職員と使用人は、実際数は非常に少なかったのですが、目ざましい働きをしました。国際委員会がいそいで集めた奉仕員も多数いますが、なかにはかなり不純な動機からやってきた者もいます。密告、脅迫、それに日本側が買収してスパイにすることもあったということは、今となって書き添えなければなりません。}