日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.3 証言や証拠の信憑性(1) / 6.3.2 目撃者のいない大虐殺!?

6.3.2 目撃者のいない大虐殺!?

図表6.10(再掲) 信憑性のない証言や証拠!?

信憑性のない証言や証拠!?

(1) 否定派の主張

田中氏は第3の論拠と第15の論拠で次のように述べる。

「累々たる死体など見た者はいない」(第3の論拠) … 「南京事件の総括」,P33-P37を要約

紅卍会の許伝音副会長は東京裁判で、「 … 私は屍体が到るところに横たわって居るのを見ましたが … 」と証言、多くの証人が南京城内は「累々たる死体の山」で横町も大通りも屍体で埋まり、「道路には二条の血の河が流れ」 「流血は膝を没し」 「死体を積み上げ、その上を自動車が走っていた」などと証言した。だが、南京に入城した幾万の将兵も、将兵と共に入城した百数十名の新聞記者やカメラマン、評論家もだれ一人こんな状況は見ていないのである。

ベイツは城内で1万2千人の男女及び子供が殺された、というが、東京日日新聞の若梅、村上両記者はそんな状況を見たとはいっていないし、世田谷区の5分の4ほどの狭い市街に1万2千もの屍骸がゴロゴロしていたならば、あちこち死体だらけで、屍臭は尋常でないはず。 歩23連隊の坂本※1大隊長は14日に中華門から入城したが死体はほとんどなかった、第10軍参謀谷田勇氏は14日午後に下関で約千人※2ほどの戦死体を見た、朝日の近藤記者、報知の二村カメラマン、などはそれほど多くの死体は見なかった、と証言している。

※1 原文の「証言による南京戦史」では"坂元"。

※2 原文は、{ 16日午後、下関埠頭において千体以上の通常人の死体を見たが、… 13日の攻略時の戦闘に際して、被弾したものと判断された。}(「証言による南京戦史(6)」,P4-P5)

「目撃者のいない"大虐殺"」(第15の論拠) … 「南京事件の総括」,P110-P125 を要約

日本の新聞記者など120人が占領と同時に南京城に入城したが、「朝日」の今井正剛記者、「東京日日新聞」で「百人斬り」の記事を書いた鈴木二郎記者を除くほかは、一人として婦女子の虐殺や一般市民および捕虜の大量殺害などは見ていないのである。読売新聞の上海特派員だった原四朗氏はこう述べている。「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ケ月後のこと。当時、軍による箝口令がしかれていたわけではない。なぜ、今ごろこんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった」 以降、同じような証言を2~3件紹介している。
つづいて、阿羅健一氏の著書「南京事件 日本人48人の証言」のうち17人の証言のエッセンスを紹介したあと、最後に「多くの従軍記者やカメラマン、作家、詩人などが口を揃えて言うごとく、「南京大虐殺」などということは、東京裁判がはじまるまで、見たことも聞いたこともない事件だったのである」としめくくっている。

(2) 史実派の反論

「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。

(3) 大量の死体の目撃者

大量の死体は、北部の下関や挹江門周辺、西部の漢中門などで多数の人に目撃されている。大量の死体を見ていない、と証言した人たちは城内を見て言っている人が多いようだが、紅卍会の記録によれば城内で収容された遺体は4,758体(図表4.23)で、城外北部や西部に較べると4分の1から3分の1くらいしかなく、しかもそれらは池や山林、空き家など目立ちにくい所にあったようだ。

北部(下関、挹江門周辺)での目撃例

下関の死体は13日の戦闘によるものと、城内で摘出した敗残兵を処刑したものの両方があり、挹江門の死体の大部分は陥落時に中国軍の督戦隊が自軍の兵士を射殺したものと思われる。

・NYタイムズのダーディン記者やシカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者は、下関での数百人の殺害シーンを目撃して新聞記事にしている。(5.1.1項(4)12月18日記事同(5)12月15日記事)

・海軍軍医大佐 秦山弘道氏の従軍日誌;{ やがて挹江門に到るや、高く聳ゆる石門のアーチ形なる通路は、高さの約3分の1は土に埋れて、これを潜るには下関側より坂をなす。徐(おもむ)ろに進む自動車は、空気を充満せるゴム袋の上に乗れるが如く、緩やかなる衝動を感じつつ軌るあり。これ、車が無数の敵屍体の埋もれる上に乗れるなりと、さもあるべし。土の総薄きところを進むに、忽ちにして土の中より肉片の沁み出づるあり }(「証言による南京戦史」(10),P32)

・ほかに、佐々木元勝野戦郵便長、第10軍参謀 吉永朴少佐、上海派遣軍 岡田酉次少佐、上海派遣軍参謀 大西一大尉、松井軍司令官付 岡田尚氏、海軍従軍画家 住谷盤根氏、その他多数の目撃証言がある。(証言内容は註632-1を参照)

西部(漢中門)での目撃事例

・ベイツは、漢中門外に3000人の死体があったことをクレーガーが目撃し、埋葬隊が確認したことを「戦争とは何か」に記録している註632-2

・歩20連隊(16師団)の牧原信夫上等兵は12月27日の日記に漢中門外に5~600の死体が放置されていたことを記している。

(注)クレーガーが目撃したのは1月上旬で、この死体は12月24日からの兵民分離によって敗残兵とみなされた人たちのもので、分離作業が進むにつれて死体が増えていったものと思われる。

城内の死体

ラーベは、ヒットラーへの上申書で次のように述べている。

{ 処刑が行われたのは、揚子江の岸か街の空地、あるいは南京におよそ3千ある小さな沼のそばでした。これらの沼はみな、程度の差はあっても投げ込まれた死体で汚染されています。… 紅卍会を通じて、私たちはひとつの沼から124体もの死体を引き上げました。どれもが紐あるいは電線で縛られていたので、一目で処刑されたのだとわかりました。}(「南京の真実」,P359)

(4) 目撃者はいない?  … 阿羅健一:「南京事件 日本人48人の証言」の分析

田中氏は阿羅氏の上記の本に掲載された多くの証言を引いて「目撃者はいない」と述べている。阿羅氏は統計的手法により調査したわけではないし、(5)で述べるように回答者の思いには複雑なものがあっただろうから、この調査結果をもって"虐殺"があったかどうかを結論づけるのは無理がある。とはいえ、48人がどのような回答をしたのかをまとめたのが図表6.10である。(グラフの元データは 註632-3 を参照)

過半数の人が「虐殺はなかった」と回答しているが、面談した37人のうちで捕虜殺害を見た人が5人、聞いた人が9人もいる。グラフではわからないが、「虐殺はなかった」と明言した人のうち2人は捕虜殺害を目撃、別の2人は聞いた、と回答していることに留意したい。

図表6.11 「南京事件 日本人48人の証言」の分析

南京事件 日本人48人の証言」の分析

注1) 48人のうち面談したのは37人で残り11人は手紙による回答になっている。

注2) グラフ1,2 虐殺があったということですが… 虐殺を見たり聞いたりしましたか? といった質問(面談相手により質問が異なる)に対する回答

"なかった": 見たり聞いたりしたことはなかった、と明確に回答した人

"回答せず": 質問に対して有り無しを明確にしなかった人

"あった": そのようものは(わずかだが)あった/聞いた/見た、と回答した人

注3) グラフ3,4 面談した人だけを対象に、捕虜殺害と市民への強姦・強奪(掠奪)を見聞したかどうかをどのように述べているか、を集計した。

注4) グラフ中の数字は回答者数。

(5) 48人の証言の信頼度

(a) 立場による証言の違い

証言はその人の立場によって異なる。秦氏は、{ 阿羅氏は兵士の証言はカットした、と述べているが、外交官、報道関係者などは現場に立ち会うことは少なく、将校は口が固く、クロの状況を語るのは応召の兵士が大多数である。その兵士も郷土の戦友会組織などから口止めされている場合はいいよどむ。}註632-4と述べている。

(b) なぜ、捕虜殺害を目撃した人が、「虐殺はなかった」と回答したのか?

「虐殺は見ていません」と回答した報知新聞の二村カメラマンは、次のように述べている。

{ 捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れて行く訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。}(「南京事件 日本人48人の証言」,P80)

この証言のように「戦争だからしかたがない」と語っている人が多数いる。当時、最前線にいた将兵の気持ちを素直に代弁しているのだろう。捕虜殺害を見たり聞いたりしてもそれが不法かどうかにかかわらず、「戦争につきもの」のことであり、「虐殺はなかった」と認識して当然なのである。

(c) 「虐殺はあった」と回答することの重さ

阿羅氏がヒアリングした人の中には、捕虜殺害や市民への暴行を見たり聞いたりしなかった人もたくさんいる。特に数日間しか滞在していない人はそうした行為を見聞きしていない可能性は高い。一方で、実際にはそれらしいことを見たり聞いたりしているのに「ない」と回答したり、有り無しを明言しなかった人も少なくないだろう。“30万虐殺”という言葉に抵抗感を持ったり、上記のように「戦争だからしかたない」と考えたり、集団や地域への帰属意識の高さから関係者に迷惑をかけたくないと思ったり、「なかった」と主張している人たちから脅迫めいた苦情を受けることへの不安、加害者という事実を認めることへの生理的な拒絶反応、… そうした複雑な思いが、回答した方々にはあったのではないだろうか。これは、回答した方々を責めているのでは決してない、ということを念のため申し添えておく。

阿羅氏は、この調査のまとめで次のように述べている。

{ 48人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。… 中国兵を処断している場面を何人かが見ている。… 南京事件と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう。といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない。それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。}(阿羅健一:「南京事件 日本人48人の証言」,P314-P315)

秦氏が指摘するように否定的な回答が期待できる人たちですら、暴虐行為を見たとか虐殺はあった、という回答がかなりあるのは、事件があったことを示唆する、と受け取るのがふつうだと思うが、そのような証言は無視して、市民への虐殺はなかった、と断言する乱暴さにはあきれる。それよりもっとひどいのは、「捕虜殺害は戦争だからしかたない」と証言する人がたくさんいるのは、捕虜殺害があっても不思議ではない価値観が普及していた証明になるが、「大騒ぎすることではない」と片づける感覚には唖然とするほかない。

(6) まとめ

大量の死体や捕虜殺害の現場を目撃した人は、ここで紹介した人以外にもたくさんいるし、捕虜殺害に加わった兵士たちの証言もあることは4章を見ていただければわかる。また、掠奪(強奪)や強姦は犯罪行為であることを誰もが知っているので、犯行は隠れて行っているはずなのに、現場を見たという証言も少なからずある。

人間には見たくない現実から目を背けようという力が無意識に働くことは否めない。さらに、事件から数十年もたっており、記憶の薄れやヒアリング時の立場などにも影響されることを考慮すべきであろう。


6.3.2項の註釈

註632-1 下関周辺での死体目撃者
註632-2 漢中門での死体目撃

ベイツは「戦争とは何か」の第3章「約束と現実」に次のように記している。

{ 中国赤十字の責任者の一人は、われわれが漢中門外に行って、多数の死体があるのを視察するよう要請した。国際委員会のクレーガー氏は城門の外へ早朝に出てみたところ、その途中でこれらの死体を自分の目で見たと私にいった。しかし、城壁の上からは見えなかったそうである。その門は今封鎖されている。埋葬隊はその地点には3000遺体があったと報告しているが、それらは大量死刑執行の後、そのままに列をなして、あるいは積み重ねたまま放置されていた。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P46-P47)

牧原信夫日記(歩20連隊第3機関銃中隊・上等兵)

{ 12月27日 … 漢中門を出た所には5,6百の死体が真っ黒に焼かれて折り重なって居た。或は黄い皮が到る所むけ見苦しい状態で散乱して居た。大きな橋を通過し更に進む。道の到る所に遺棄死体が転っていた。・・・ }(「南京戦史資料集」,P515)

註632-3 「南京事件 日本人48人の証言」回答データ

(1)面談での回答者

図表6.12 日本人48人の証言 回答一覧

日本人48人の証言 回答一覧

(注) "虐殺"有無の欄; 〇: あった △: 回答せず ×: なかった
  目撃有無の欄; 〇: 見た △: 聞いた ×: 見聞なし

※1 佐藤氏は「南京戦史資料集2」で、「88師営庭で百人くらいの敗残兵が無抵抗のまま殺害されているのを見た」、「写真を撮っていたら殺されていたよ」と述べている。阿羅氏のヒアリングでは、これを「戦闘行為の続きでしょう」と回答している。

※2 二村氏は「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れていかれるのを見た」と述べている。

※3 新井氏は「虐殺が全然なかったとはいえないが20万とかはありえない」と述べた後、「虐殺というのは東京裁判で初めて聞いた」と述べ、気持ちが揺れているようにみえる。

※4 住谷氏は、下関で捕虜を銃剣で殺すのを見て「とてもまともには見ていられない」と述べている。

(2)手紙での回答者 … 東京日日新聞 浅海記者以外は、"虐殺"はなかった、と回答

中支那方面軍参謀 吉川猛少佐、第10軍参謀 寺田雅雄中佐、第10軍参謀 仙頭俊三大尉、侍従武官 五島光蔵中佐、上海憲兵隊 岡村適三大尉、同盟通信 堀川武夫記者、朝日新聞 藤本亀記者、東京日日新聞 浅海一男記者 大阪毎日新聞 西野源記者、西本願寺 大谷光照法主、従軍作家 石川達三氏

註632-4 誰が証言するか・・・ 秦郁彦氏の経験

{ 「数千人の生存者がいると思われる兵士たちの証言は、すべて集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的になりがちだ。そのため、残念ながらそれらは最初からカットした」という 【阿羅健一氏の】 釈明には仰天した。
筆者【=秦氏】の経験では、将校は概して口が固く、報道・外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの情況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数である。その兵士も郷土の戦友会組織に属し口止め指令が行きわたっている場合は、言いよどむ傾向があった。
… 難民区の便衣狩り作戦を調査するため、実行に当った金沢歩兵第7連隊の生存者に当ったときも、戦友会経由だったせいか、なかなか率直な証言がとれず困惑した。しかし、その一人がこっそり筆者に教えてくれた他県在住の兵士二人と会え、虐殺の生々しい光景を記した日記と証言を得ることができた。…
その結果、阿羅の本は「虐殺というようなことはなかったと思います」、「見たことはない、聞いたこともなかった」、「聞いたことがないので答えようもない」式の証言ばかりがずらりと並ぶ奇観を呈している。… }(秦郁彦:「昭和史の謎を追う(上)」,P181-P182)