日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.2 東京裁判がねつ造? / 6.2.3 中国も問題にしていない!?

6.2.3 中国も問題にしていない!?

図表6.7(再掲) 東京裁判まで誰も問題にしなかった!?

東京裁判まで誰も問題にしなかった!?

(1) 否定派の主張

田中氏は第9と第10の論拠で次のように主張する。(以下、「南京事件の総括」,P78-P89を要約)

「何應(応)欽上将の軍事報告」(第9の論拠)

国民党政府で軍政部長(国防相)を務めた何応欽将軍が8年間にわたって全国代表者会議でおこなった軍事報告をまとめた著作がある。1938年春に行った報告で「南京の失陥」の項目があり、そこには南京城攻防戦の模様が記されているが、日本軍の暴虐も“南京虐殺”もどこにも出て来ない。南京に万を越す大虐殺があったというような記録は、中国側の第一級公式史料である何応欽上将の報告にさえその片鱗も見出せない。

「中国共産党の記録にもない」(第10の論拠)

次のような文書において南京事件には触れていない。

台湾の中華民国政府も、北京の中華人民共和国政府も、"南京大屠殺"の合唱をはじめだしたのは、東京裁判や各地でのB,C級戦犯裁判がはじまってからのことである。それまでは南京事件はなかったのである。日本人ばかりでなく、中国人にとっても、南京事件は東京裁判からはじまったのである。

(2) 史実派の反論    「13のウソ」,P60-P71を要約

田中正明氏は、何応欽の報告書や中共の「抗戦中の中国軍事」に虐殺はふれられていない、として虐殺がなかったことの証明にしようとしているが、文書にはそれぞれの対象と目的があり、虐殺にふれていない当時の文献などいくらでもあげられる。

蒋介石は1938年7月7日、「日本に告げる書」を発表している。このなかで、日本軍の放火・略奪・虐殺を非難し、婦女暴行についても糾弾している。南京の名前こそ出していないが、明らかに南京での出来事を念頭に言及している註623-1のである。蒋介石は、1938年1月22日の日記に「倭寇は南京であくなき斬殺と姦淫をくり広げ … 」と書き、国民党機関紙「中央日報」の1938年12月14日(南京陥落1周年)の記事にも、日本軍が「同胞20万の血を奪った」と記している。

中国共産党の刊行物の中で最も早く南京大虐殺に言及したものは、当時武漢で発行されていた週刊誌「群衆」で、その1938年1月1日発行の「短評」欄に「人類のともに退けるべき敵軍の暴行」と題する文章が掲載され、日本軍の無紀律状態などを指摘している。また、1938年1月8日に創刊された中国共産党の機関紙「新華日報」にも南京事件は掲載されているし、中共の本拠地延安で発行されていた政府機関紙「新中華報」(1938年6月30日)でも百人斬りを含む南京虐殺が述べられている。ただ、延安への情報伝達は遅い上に正確でなかったようで、内容には誤りもある。1938年5~6月に毛沢東が南京虐殺の情報を得ていたかどうかは微妙である。

国民政府は南京陥落後、1938年10月まで武漢(武昌,漢口)に主要機関をおき、そこで日本人向けに日本語放送を行っていた。その放送を日本側が傍受し、内閣情報部が「蒋政権下の抗日デマ放送」と題する極秘資料としてまとめている。1938年3月10日の日本語放送は、「日本軍の蛮行」と題するもので南京の難民から漢口の友人に寄せられた手紙註623-2を放送、そこには南京での日本軍の暴行が記されていた。

(3) ネットでの反論

「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう”氏は、田中氏が指摘する資料を丹念に調査した結果、田中氏は南京事件の記載がない資料をとりあげているだけである、という。詳細は下記URLを参照。

①何応欽; 何応欽は自著「中日関係と世界の前途」(1977年)で、{ 南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した。}などと述べている。

②蒋介石秘録;{ 倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ。(1938年1月22日の日記)}

③宋美齢(蒋介石夫人);{ 南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました。}(宋美齢からアメリカの友人への手紙、「南京事件資料集Ⅰ」)

④中国共産党の週刊誌「群衆」; 上記(2)史実派の反論を参照

⑤アグネス・スメドレー著「中国の歌ごゑ」;{ 日本軍が南京を占領すると、彼らはおよそ二十万の市民と非武装兵を殺戮したばかりでなく、病院にまで襲いかかって、戦傷兵、医者、看護婦などを虐殺した。ぞっとするような南京虐殺の話は、すでに常識になっている。}(「中国の歌ごえ」高杉一郎訳 みすず書房 P179-P180)
田中氏は{ 南京陥落の感想は述べている … }(「南京事件の総括」,P87)と言っているが、これは「感想」ではない。

(4) まとめ

6.3.3項で北村氏が述べているように、国民党国際宣伝処は1938年春から本格的な活動を開始し、ティンパリーが編集した“What War Means(戦争とは何か)”の中国語版や独自の宣伝本である「日寇暴行実録」などを1938年夏に発刊している。こうした宣伝活動を国民政府や中国共産党の幹部が知らないはずがないのである。

「13のウソ」が述べるように、{ 文書にはそれぞれの対象と目的があり、虐殺にふれていない当時の文献などいくらでもあげられる。これらの文章のなかに南京虐殺がふれられていなかったといって、南京虐殺がなかったことの証明に全然ならないことは、小学生にもわかる道理である。}(「13のウソ」,P61<一部要約>)


6.2.3項の註釈

註623-1 蒋介石の日本に告げる書

{ … すべての国際条約と人類の正義は貴国の中国侵略軍によって乱暴に踏みにじられてしまった。そのうえ、一地区が占領されるごとに放火・略奪の後、遠くに避難できないわが無辜の人民及び負傷兵に対し、そのつど大規模な虐殺をおこなった。(中略)
とりわけ私が口にするのも耐えられないが、言わざるをえない一事は、すなわちわが婦女同胞に対する暴行である。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一堂に並べ強姦してから斬殺した。… }(「13のウソ」,P63-P64)

註623-2 国民政府の日本語放送

{ その1938年3月10日の日本語放送は、「日本軍の蛮行」と題するもので南京の難民から漢口の友人に最近寄せられた手紙によるとして、「私は昨年日本軍が南京に侵入した時から種々日本軍の暴行を受けました、日本軍は12日朝南京に入城しましたが、入城するや日本軍は家宅を捜査して家を焼き払ひ益々ひどくなって中国人を殺しました、我々難民中1万は殺され4千は捕へられ又食ふに食がなく餓死するもの一日500名に上る有様であります」 …}(「13のウソ」,P69-P70)