日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.1 南京の人口は20万? / 6.1.2 難民帰還で人口急増!?

6.1.2 難民帰還で人口急増!?

図表6.2(再掲) 南京の人口は20万!?

南京の人口は20万!?

(1) 否定派の主張

田中氏は次のように述べ、南京の人口が増加したのは治安が急速に回復したことを示すもので、東京裁判や中国側の証言が示すような虐殺はなかった、と主張する。

{ 日本軍の虐殺によって、南京市民の人口が減少したというならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に急速に増加しているのである。… 南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使館等にあてた61通の公文書の中から人口問題に触れた箇所を抽出したものである。… 12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、1月14日になると増加して25万~30万となっている。以後、2月10日まで25万である。これはいったい何を意味するか。それは南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。… 正月を控えて郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである。}(「南京事件の総括」,P29) ※下線は筆者

(2) 史実派の反論

「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。

(3) 人口25万の根拠

1月14日付の国際委員会の第19号文書には、次のように記されている。

{ … 貴軍が10歳以下の子供及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。}(「南京安全地帯の記録」,P247<第19号文書>)

国際委員会は日本軍が行なった兵民分離の結果をもとに推定している。登録した16万人のほとんどは城内とその周辺の住民で郷区の住民はわずかだと思われるので、25万は城区の人口にほぼ相当するとみられる。一方、12月の文書に記載されている20万は安全区内の推定人口である。地理的範囲が異なるので、人口が増加したわけではなく、もともと安全区の外にかなりの住民がいたことを示しているだけである。

(4) 増えた人たちはどこから来た?

田中氏は、「近隣に避難していた市民が帰還しはじめた … 郊外に避難していた民衆が帰り始めた … 」、と言う。この頃南京城の城門は日本軍によって封鎖されており、自由な出入りはできなかった。否定派の東中野氏は次のように述べている。

{ … 城門は日本軍が検問していたから、城内から城外へ出ることも逆に城外から城内に入ることも事実上不可能であったからである。「城内外の通行は (略) 城内外にある家族との関係其の他を考慮し、城外近傍の者のみ其の自由を若干認めあり」とは、昭和13年1月21日、南京特務機関が提出した報告である。}(「徹底検証」,P201-P202)

このような状況で5万人もの人が城門を通って城内に入ったのだろうか。田中氏の言う近隣郊外が具体的にどこをさすのかわからないが、5万人の大部分は安全区以外の城内にいた人と考えるのが妥当である。

(5) 住民は"帰還"したのか?

「治安が回復したので帰還しはじめた」というのもおかしい。「帰還」した人たちは陥落前にそれまで住んでいた安全区を離れ、より安全な「近隣」や「郊外」に避難していたことになるが、避難できた人たちのほとんどは、陥落する何日も前に日本軍の姿も見えないような遠くの安全な場所に逃げたはずである。陥落直前まで南京城周辺に残っていた貧しい人たちには安全区への避難を呼びかけており、安全区から遠い近隣・郊外に避難するというのはどうみても不自然である。

入城が制限されていたので、城外から城内に入った人はさほど多くないかもしれないが、郷区など近隣の農村部の治安が悪化し、相対的に安全度の高い安全区に避難した可能性は否定できない。

ラーベは1月17日の日記に次のように書いている。{ 難民の数は今や約25万人と見積もられている。増えた5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。}(「南京の真実」,P216)

(6) 安全区の治安は良かった?!

安全区が他地域に比べて治安が良かったことは次の2つの数字が裏付けている。

①スマイス報告(都市部調査)の「建物の破壊と略奪状況」の調査によれば、放火又は掠奪された建物は城内全体で88%、城外では90%もあったが、安全区内では9.6%しかない。(詳しくは図表4.23を参照)

②「南京安全区档案」に掲載された事件を発生場所別にみると下表のようになっている。国際委員会の情報源は国際委員会の関係者と安全区内の難民が主であるため、特に陥落直後の安全区外の事件は限られた数しか収集できていないとみられるが、それでも1月からは安全区外での事件が増え、1月末以降は安全区外の事件の方が多くなっている。("場所不明"は安全区外が圧倒的に多いとみられる) これは、安全区から自宅に帰宅しようとした難民が帰宅途中又は自宅付近で難にあったという報告が増加しているためである(4.5.4項参照)。なお、冨澤氏も同様の分析をしている註612-1が、1月10日以降安全区外の事件が増加しているのは同じである。

図表6.4 時期別発生場所別事件数

時期別発生場所別事件数

※1 対象データは4.6.1項(1)に記載のとおりで、「南京安全区档案」の本文や他の文書に記載されている事例を含む。

※2 "場所不明"は、発生場所の記述はあるが地図などで安全区内かどうか確認できなかったもの。安全区内は詳細な地図が残っているが、区外はそうした情報がないので、区外の地名である可能性が高い。

※3 "記入なし"は、事件現場の記述がないもの。

(7) まとめ

田中氏は"南京"の地理的範囲をあいまいにしたまま話を進めたので、あたかも南京城又は南京市の外部から来た人によって人口が増えたようなイメージを読者に持たせてしまった。しかし、東中野氏が主張する日本軍による入城規制が効果をあげたとしたら、人口が増えたのではなく、もともと城内にいた人が少なくとも25万人以上いたことを明らかにしただけであり、規制の効果がさほどなかったとしたら、治安の悪い地区にいた住民が、相対的に治安の良い城内(主として安全区)に移ったためと考えるべきである。

田中氏は6.1.1項の否定論「20万人の人口で … 」では、安全区以外にほとんど住民はいなかった、としているが、1月14日の国際委員会文書で示された25万を認めるということは、安全区外を含む"南京"に少なくとも5万人以上の住民がいたことを認めていることになり、論理の矛盾である。


♪余話 ...  日本や中国の人口推移

南京事件当時、日本の人口は60~70百万人、中国の人口は約5億人であった。同時期のアメリカの人口は1.2億、世界全体では20億人ほどである。有史以来、中国はインドと並んで世界で最も人口の多い国である。

日本の人口は鎌倉時代末期(1300年頃)に約1千万人だったが、およそ5百年後の江戸時代中期には3千万人に達し、その規模のまま明治維新を迎えた。明治維新後50年ほどで6千万人まで急増したが、人口増に経済の拡大が追いつかず、多くの人々が海外への移民となって日本を脱出していった。移民先は、当初ハワイやアメリカ本土が多かったが、1924年アメリカは移民法を制定して事実上、日本からの移民を禁止した。(中国からの移民は1882年に禁止済み)

日本は新たな移民先を別な国に求めざるを得なくなり、それが満州事変の目的のひとつだった、とも言われている。

図表6.5 日中米の人口推移

日中米の人口推移

※ 1930年の数字

出典:
~1925年まで Wikipedia:「歴史上の推定地域人口」
1960年以降 国連:「World Population Prospects:The 2017 Revision」


6.1.2項の註釈

註612-1 冨澤繁信氏による場所別事件数> 冨澤繁信:「安全地帯の記録」,P25

冨澤氏の分析でも陥落後は安全区内の事件が多く、1月以降は安全区外の事件が増加している。ただし、冨澤氏は事件現場の場所が記入されていない事例も、想像力を働かせて(?)場所を設定している。

図表6.6 冨澤氏分析の時期別場所別事件数

冨澤氏の時期別場所別事件数