日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.4 戦犯裁判 / 5.4.1 東京裁判

5.4 戦犯裁判

5.4.1 東京裁判

図表5.6 東京裁判

東京裁判

(1) 東京裁判とは

東京裁判は、正式名称を「極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)」といい、太平洋戦争における日本のA級戦犯を対象に行われた裁判である。A級戦犯とは、平和の罪、すなわち侵略戦争などを計画、準備、遂行した罪を問われた者であり、B級戦犯は戦争犯罪、C級戦犯は人道に対する罪で訴追された者である。C級はドイツのホロコーストを対象に設定されたカテゴリーであり、日本ではC級で罰せられた者はいない。太平洋戦争におけるBC級戦犯は、日本のほか、中国、フィリピンなど戦場になった各国の軍事法廷で裁かれた。

東京裁判は、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校で1946年5月3日に開廷し、1948年11月12日に判決の言い渡しが終了した。裁判の基準とされたのは、1945年8月8日に制定された「国際軍事裁判所憲章」をもとに1946年1月19日に作成された「極東軍事裁判所憲章」であるために、事後法での裁判と批判された。また、勝利した国の問題は問われず、東京裁判は"勝者の敗者に対する裁判"であることは間違いない。

被告

被告として訴追されたのは28人、うち3人は裁判途中で病死するなどしたため免訴となり、残った25人全員は有罪とされた。死刑になったのは7人である。被告名及び量刑については註541-1を参照。

図表5.7 東京裁判の被告者数

東京裁判の被告者数

判事

判事11人中、アメリカ、イギリス、中国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの判事6人は判決に賛成したが、5人は個別の意見を述べている。フィリピンのハラニーニャ判事は判決には同意するが「刑が一部寛大すぎる」、オーストラリアのウェッブ裁判長は「天皇の戦争責任を踏まえて被告の減刑を考慮すべき」と述べた。他の3人は判決に反対の意見書を出している。インドのパール判事は「事後法で裁くことはできないので全員無罪」などの意見を長大な意見書で発表、フランスのベルナール判事は「日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない」とし、オランダのレーリンク判事は「平和に対する罪は事後法であり、これだけで死刑にすることには反対、広田は南京事件に責任はないので無罪」などとしている。

裁判の進行

(2) 検察側

検察側立証

南京事件の検察側立証には非常に多くの証人と資料が提示された。安全区国際委員会の6人が宣誓口供書を提出し、うちベイツら4人が証言台にのぼった。中国人の被害者、目撃者として許伝音(紅卍会)ら5人が証言し、他に宣誓口供書を提出した者が10数人いた。

証拠資料として、安全区国際委員会の報告書が収録された「南京安全区档案」、スマイスが作成した「南京地区における戦争被害」、紅卍会と崇善堂の死体埋葬記録、アメリカやドイツ大使館が発信した公文書、などが提出された。

検察側最終論告

東京裁判速記録(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P339-P341)より、要約する。

(3) 弁護側

弁護側反証

弁護側証人は、外務省関係が日高参事官、石射東亜局長、軍関係は上海派遣軍の飯沼参謀長、第16師団の中沢参謀長のほか、小隊長クラスまで10人近くが証言した。大半は虐殺行為はまったくないか、わずかしかなかった、と証言したが、石射だけは現地領事館から「南京アトローシティズ」の報告を受け、外相経由で陸軍に厳重注意を申し入れた、と証言した。

証言は「松井はいい人だ」風の人格擁護の証言が多く、検察側の立証に対する有力な反証はほとんどできなかった。

松井被告の証言

松井は南京事件について宣誓口供書で、{ 興奮せる一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ひたる者ありたるならむ}(同上,P275) と述べ、一部に暴行があったことを認めており、証言台でも「この忌むべき暴行」というのは何でしたか?という検察官の質問に、「強姦、奪掠、殺人などである」と答えている。そこで、検察官の質問は、松井がこの事件をどのようにして知り、どのような対策を講じたか、責任はどこにあったのか、の3点に集中した。以下、3点のエッセンスになった質疑を記す。

①いつ誰から事件を聞いたか … (同上,P283)

検察官: あなたが南京の暴行事件について初めて聴いたのは12月17日、南京入城後、憲兵隊の指令官から聴いたと言っております。… 憲兵隊以外のほかの人から報告を受けたことがありますか。

松井: 日本の領事館に行きましたときに、日本領事からもそういう話を聴きました。

検察官: なぜあなたはただいま言ったことを宣誓口供書に入れなかったのですか。

松井: それは公式に報告を受けたわけではなく、話を聴いたということだけでしたから書きませんでした。

②どのような対策を講じたか … (同上,P285)

検察官: あなたはこういうふうな残虐行為の報告を聴いて、各部隊に命じて即時厳重なる調査・処罰をなさしめたと言っております。これらの各部隊はあなたが命令しましたところの調査の結果をまたあなたに報告してきましたか。

松井: 先刻から申すように、各部隊は直接私に報告をする関係にありません。

検察官: … あなたの部下の2人の軍司令官からどういう報告が来ましたか。

松井: それは私が翌年2月、上海を離任するまでは何等の報告を受けておりません。

検察官: あなたのところに報告せよというふうにあなたから要請したことはありますか。

松井: ありました。

検察官: その答えに何と言って来ましたか。

松井: 調査中、せっかく調査をしておりますから、調査の上で報告するということでありました。

③責任の所在は … (同上,P292)

松井: 私は方面軍司令官として、部下の各軍の作戦指揮権を与えられておりますけれども、その各軍の内部の軍隊の軍紀・風紀を直接監督する責任はもっておりませんでした。…

検察官: あなたはまさか、あなたの当時占めておりましたところの司令官という職務そのものの中に、軍紀・風紀を維持するところの権限が含まれていなかった、と言おうとしているのではありますまいね。

松井: 私は方面軍司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起ったすべての事件に対して、責任を回避するものではありませんけれども、しかし、各軍隊の将兵の軍紀・風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません。

弁護側最終弁論

東京裁判速記録(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P360-P367)より、要約する。

南京で若干の不祥事件が発生したが、それは軍事行動の際には何時でも発生するものである。検察側の証言/証拠には次のような問題があり、事件は巧妙にして誇大な宣伝によるものである。

中支那派遣軍司令官の職務は作戦指揮にあり、将兵を直接に統督管理する機能はない。軍紀・風紀の弛廃による責任も師団長が負担すべきものである。

派遣軍司令官の職務は作戦指揮にあり、将兵を直接に統督管理する機能はない。軍紀・風紀の弛廃による責任も師団長が負担すべきものである。

彼が南京で起ったことを指図したり、奨励したり、知っていたり、承認したり、黙認したりしたことを示す証拠はひとつも提出されていない。

(4) 判決

1948年11月12日、松井被告に死刑判決が言い渡された。以下は判決文の一部である。

{ … この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日にこの都市が占拠されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6,7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。… 本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても効果のあることは何もしなかった。… かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。…}(同上,P398-P399)

秦氏は次のように述べている。

{ 大筋はあっさり認めて、個別・具体的な反証を持ち出して争っていたら、のちに30万、40万という規模の“大虐殺”論争に発展することもなく、松井も死一等を減じられた可能性がある … 拙劣な法廷戦術が死命を制した。}(秦:「南京事件」,P44)

なお、松井のほかに広田弘毅も南京事件で残虐行為を止めなかった不作為の責任を問われて、死刑判決を受けている。この判決については政治的な要素が大きいとの意見がある註541-2

(5) 処刑

死刑は判決の翌月、12月23日に巣鴨拘置所で執行された。教誨師の花山信勝に松井が語った言葉を引用する。

{ 「南京事件はお恥ずかしい限りです。… 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるという意味でたいへんに嬉しい … 」(花山信勝:「平和の発見」,のち「永遠への道」にも同文を記載)

いくら達観しているように見えても、松井の心中には沸々とたぎるものがあったのだろう。法廷ではかろうじて抑えた松井も、服従しない部下の罪を代りに背負わされ、それを察知しながら監督責任を問う勝者の裁きに痛恨の情をもらさずにはいられなかったのであろう。}(秦:「南京事件」,P45-P46)


5.4.1項の註釈

註541-1 東京裁判の被告一覧  出典; 日暮吉延:「東京裁判」,P107・P254

図表5.8 東京裁判の被告一覧

東京裁判の被告一覧
註541-2 広田弘毅の死刑判決  半藤一利,保阪正康,井上亮:「東京裁判を読む」,P447-P448

保阪: 東京裁判は復讐裁判だ、と言われますが、そういう裁判であるなら文官からも死刑を出さないとバランスがとれない。いけにえであることは間違いない。…

半藤: 死刑になった7人のうちの5人までは、BC級の罪状で責任上から死刑になったと思いますよ。不作為の罪でね。そこに当てはまらないのは東条英機と広田だけです。東條は開戦責任も敗戦責任もありますから、これは別として、広田をどうしても死刑にしなきゃいけない理由はないんですよ。ただ、日本の指導者が共同謀議を行っていたという前提で言えば、とくに「国策の基準」が採り上げられるのはやむを得ないかなと思いますね。「侵略的政策」が始まっているのはそこからだものね。 

半藤: … あとの5人についてはそれぞれの国が言葉は悪いけれど、復讐の血祭にあげないと国民の腹の虫がおさまらないと思ったんじゃないですか。ビルマは木村兵太郎、南京は松井石根、満州は土居原賢二、フィリピンは武藤章、シンガポールは板垣征四郎、そこで虐殺事件がおきていますからね。それ以外の理由が考えられないんですよ。

※「国策の基準」; 1936年8月に広田内閣が決めた国防方針。軍備の拡充や大陸と南方へ進出することなどが決められた。