日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.3 幕府山の捕虜 / 4.3.5 各派の主張

4.3.5 各派の主張

図表4.3(再掲) 幕府山の捕虜

幕府山の捕虜

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

この事件に関する論争の焦点は次の2点である。以下、この2点を中心に各派の主張を整理する。

なお、この項では「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう”氏の調査結果を参考にさせていただいた。詳細は、 こちら を参照。

(1) 史実派

「皇軍兵士たち」や「栗原証言」など主として現場にいた将兵たちの証言を根拠に、{ 山田支隊の約2万人の大量捕虜は軍命令により、命令に忠実な兵士たちによって非戦闘員を含む全員が虐殺され、長江に流された。}(「13のウソ」,P155)としている。
犠牲者数を2万としたのは、捕虜を収容した14日の時点ですでに14,777名がカウントされ、その後も続々と投降する者がいた、また「皇軍兵士たち」で証言している多くの将兵が捕虜は2万人以上としている、などだと思われる。

※捕虜の数が日記に記載された17人中9人が2万人以上、残り8人が1万5~8千人となっている。

(2) 中間派(秦氏)

秦氏はその著書「南京事件」で、朝日新聞記事、鈴木明氏の山田旅団長ヒアリング、栗原伍長証言、その他史料をもとに事件の経緯などを解説したあと、{ 山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間に連れ出さなかったのか、後手にしばった捕虜が反乱を起こせるのか、について納得の行く説明はない。}(「南京事件」,P148) と書き、釈放説に疑問を呈している。
犠牲者数については、{ 端数までついているので、正確にカウントしたかに思えるが、実数は8千ぐらい(「ふくしま・戦争と人間 Ⅰ白虎篇」)との説もある。}(同P141) として8千人と推定している。

(3) 中間派(南京戦史)

南京戦史資料集2で、「幕府山附近での捕虜処分について――その総合的観察」として、「その全体像を描くことは困難である」として、その理由を次のように述べている。以下要約して引用する。

1.戦闘詳報、陣中日記など公的記録が発見されていないので、捕虜処分が目的なのか、解放目的で連行中の突発事故なのか断定できない。

2.連行前に捕虜に「解放する」と告げたことは事実と思われるが、第一次資料であっても南京戦後60年に近い現在、その真偽を断ずることは不可能に近い。

3.16,17日の2回事件のあったことが察せられるが、山田、両角日記、栗原証言、いずれにもそれを窺わせる記述はない。3者とも触れていない理由は何だったのか?

4.当初の捕虜数は1万4~5千と記されているが、我に10倍近い捕虜を収容し、監視し、連行しそのことごとくを射殺するなど果たして可能であったのか。脱出した数が多かったことは飯沼・上村日記からも察せられるが、収容数、処分数などの実数は不明である。2千に足らぬ連隊員が「大虐殺」のために忙殺されている様子は窺えない。 (以上、「南京戦史資料集2」,資料解説P13 より要約引用)

犠牲者数については、南京城北方に取り残された中国軍将兵の数(推定値)をもとに、{ 捕虜の総数は14日降伏当初においても6~8千人程度であろう。}(「南京戦史」,P327)とし、このうち半数が逃亡、半数が処断されたとみて、犠牲者数を3千人としている。

幹部の日記はある程度信頼しているようだが、下級将校や兵士の日記などはほとんど信頼していないようだ。偕行社という団体の性格からすればやむをえないだろう。しかし、次のような疑問がある。

(4) 否定派(東中野氏)

東中野氏は、1998年の「南京虐殺の徹底検証」,2007年の「再現 南京戦」のいずれも両角説をもとに一部捕虜殺害を認めているがそれは合法的なものであった、と主張している。「再現 南京戦」の内容をもとにそのシナリオをまとめれば、「捕虜は当初1万5千余いたが、民間人を解放して8千になり、火事で逃亡して残り4千になり、うち2千を16日に処罰、17日に残りを解放しようとしたが一部は逃亡、一部は射殺した」 となる。

17日の「処刑」が解放目的であることの根拠について、「徹底検証」では秦氏の指摘(なぜ昼間でないのか)や「皇軍兵士たち」の証言への反論註435-1などを根拠にしているが、「再現」では更に多くの状況証拠をあげている。以下、その主なものを記す。

①夜間に草鞋州(注.八卦洲の別名)に解放したのは日本軍と衝突する危険を避けたからである。(「再現 南京戦」,P167)

→ 小野氏は虐殺が夜間に行われた理由として{ 虐殺の準備・捕虜の連行・虐殺の実施という全過程の秘密保持のためである。}(「13のウソ」,P150)と述べているが、これは秦氏の指摘と同じ趣旨で、他人に見られたくないことは夜やる、のである。
また、両角手記では夕方に集結終了の報告を受けたのに、銃殺を開始したのが深夜12時となっており、東中野氏もそのシナリオに乗っているが、兵士らの証言によれば深夜12時は銃殺が終り刺殺を行っていた時間である。

②日本軍の兵士が死んだのは味方の銃弾によるもので、処刑が目的であれば起きえなかった。(「再現 南京戦」,P172)

→目的が何であれ、不慮の事故は起きる。小野氏によれば次のような証言がある。{ なんらかの事情で何名かの整理兵が鉄条網の外に出られず、捕虜とともに銃殺された。死者の一人である少尉は銃撃のあと、軍刀で捕虜の試し斬りを始めたところ、捕虜に刀を奪われ殺されたという。}(「13のウソ」,P151-P152)

③両角連隊長の言葉 「解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう」とは、両角部隊が捕虜を解放したという事実がなければ、発せない言葉である。(「再現 南京戦」,P172)

④捕虜収容時、日本軍は捕虜に向って「皇軍はお前たちを殺さぬ」と宣言している。(同上,P174)

⑤殺害しようとしているのならば捕虜のために必死になって食糧を調達するはずがない(同上,P175)

⑥もし不法な殺害だったならば、逃げた捕虜が政府に実態を伝え、国民党宣伝部は格好の宣伝材料として利用したはずだが、その形跡はない。(同上,P178)

そして最後にこうしめくくる。{ 命令があったという確証はなかった。組織的な不法殺害という明確な証拠もなかった。にもかかわらず、一つの短い記述だけを以て、虐殺の証拠と判断することは速断にすぎよう。}(同上,P179)

確かに「組織的な不法殺害」という明確な証拠はない。しかし、東中野氏があげている状況証拠だけで、目的は"解放"であったと断言するのも"速断"にすぎよう。次のような疑問は、この事件が限りなくクロ、つまり不法殺害である可能性を示唆している。

(a) 「銃殺」に参加した多くの兵士たちは、機関銃掃射後に死体に火をつけ、動く者を刺殺したと証言している。解放目的であれば、そんなことをする必要はないはずである。

(b) 東中野説によれば、17日の時点ですでに1万1千人もの捕虜が逃亡している。残りの2千人をわざわざ危険で面倒な移動をさせるまでもなくその場で解放すれば済むことではないか。

(c) 捕虜を渡すための舟が十分な数だけ用意できたという証言はない。捕虜を舟に乗せた、という証言もない。栗原氏は「舟は遠ざけて」と証言している。

(d) 死体を運ぶために使用したレの字型に切った木の枝を、あらかじめ用意していた可能性が高い。詳細は 註435-2 を参照。

(e) 2千人――逃亡者もいたのでもっと少ないはず――の死体始末に丸2日もかかるとは思えない。

仮に釈放目的で連行し騒動が起きたので殺害したとしても、いったん収容した捕虜を適切に管理する責任があるはずで、100%無罪ということはありえないのではないだろうか。


4.3.5項の註釈

註435-1 東中野氏の「徹底検証」における主張

(1) なぜ夜間に処刑したのか … 「徹底検証」,P139-P140から要約引用

註435-2 死体運搬に使った木の枝

栗原利一氏は、スケッチ3の説明文に「 … 柳の枝をかぎにして一人一人ひきじって川の流れに流した」と書いている。(註434-1<ページ外>参照 ) レの字又はY字型にした枝を死体にひっかけて引きずったのであろう。この枝をあらかじめ用意した、という証言が日本側、中国側それぞれからある。

歩65機関銃中隊 箭内亭三郎准尉の証言

{ 確か南京入城式のあった日でしたが、… 機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、ノコギリやナタを持って、4キロか5キロほど歩いて河川敷に出かけたのです。… ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです。… 逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。… 切り倒した柳の木や雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。}(阿部輝朗:「南京の氷雨」,P98-P99)

→捕虜はこの木や枝を拾って暴動を起こした、と箭内氏は述べているが、万が一のために機関銃まで用意したのに、凶器になるおそれがある木や枝を捕虜の手の届く場所に放置したというのは考えられない。

釼先銘(中国軍工兵大隊長)の手記

釼先銘氏は南京陥落後、僧に変装して幕府山下揚子江岸にあった寺に隠れて、日本軍の行動を見ていた。その様子を「還俗記」として刊行している。 { 3日目の夕方、数十名の日本兵が来て、石榴園の樹枝をすべて切って持ち去っていった。なんのためであろうか。… 石榴園の樹枝は大叉子を作って死体を江流に押し流すために切っていったのだった。}(阿部輝朗:「南京の氷雨」,P124-P125)