日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.2 西部・南部における掃討戦 / 4.2.2 水西門・江東門付近の捕虜殺害

4.2.2 水西門・江東門付近の捕虜殺害

図表4.2(再掲) 西部・南部における事件

西部・南部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 中国軍兵士の証言(図表4.2④)

下関で釈放された捕虜はその後どうなったか … その捕虜であった一人の中国軍(87師)兵士"劉四海"氏は、本多勝一氏のインタビューに次のように語っている。

{ 「降伏せよ、降伏すれば殺さない」との日本軍の呼びかけに応えて、劉二等兵を含む数千人の国民党軍将兵が投降した。一か所に集められ、ヒゲが両耳からあごの下3,4センチまで下がっていた日本軍のリーダーが何かしゃべった。通訳によれば「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。
数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげてそれぞれの故郷へばらばらに出発した。劉二等兵も安徽省へ行く4~50人のグループの一員として、三叉河をへて江東門まで来た。途中、おびただしい死体が散乱し、兵隊のほか老人・子供・女性のものもあった。
江東門の近くにある模範囚監獄の前で日本兵たちと会った。下関の日本軍にいわれたとおり、白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」といった。だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員を監獄のすぐ東側の野菜畑に連行した。まわりを取り囲んだ5~60人の日本兵が、一斉に捕虜の列へ銃剣と軍刀で襲いかかってきた。劉さんは、自分に向って軍刀を斬りおろす日本兵の恐ろしい形相を見たのが記憶の最後だった。
気づいたときは暗かった。劉さんの上に折り重なって死んでいた2人をどけてその場を立ち去った。}(本多勝一:「南京への道」,P220-P222<要約>)

(2) 日本軍兵士の証言(図表4.2④)

劉四海氏の証言と状況は異なるが、次のような証言もある。以下は、歩45連隊第2大隊前田吉彦少尉の12月15日の日記である。

{ 江東門から水西門に向い約2粁石畳の上を踏んでいく途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜りが散見された。… 後日聞いたところによると14日午後第3大隊の捕虜100名を護送して水西門に辿りついた折、内地から到着した第2回補充兵が偶々居合せ好都合とばかり護送の任を彼等に委ねたのだと云う。やっぱりこの辺がまずかったのだね。何しろ内地から来たばかりでいきなりこの様な戦場の苛烈にさらされたため、些ならず逆上気味の補充兵にこの様な任務をあてがった訳だ。
原因はほんのわずかなことだったに違いない。道が狭いので両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が押されて水溜りに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかした事に決まっている。 … 「こん畜生」と叩くかこれ又突くかしたのだね。パニックが起って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃すな」「逃げるのは殺せ」と云うことになったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹き起こしたのだと云う。
第3大隊長小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降した丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない。}(「南京戦史資料集」,P464)

第2大隊が釈放した捕虜を第3大隊が殺してしまうことになったわけだが、同じような事例を歩23連隊の宇和田弥一上等兵も証言している。

{ 今日、逃げ場を失ったチャンコロ約2千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も棄ててしまって大道に蜿々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも言へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。}(秦:「南京事件」,P155 原典は「朝日新聞」昭和59年8月5日付)

(3) 各派の見解

この事件を犠牲者数のカウント対象として取り上げているのは秦氏と板倉氏だけである。「南京戦史」は、{ 釈放された捕虜の一部は … 再び後方から進出してきた日本軍の捕虜となったことと想像される。}(「南京戦史」,P227) と述べ、「証言による南京戦史」では、{ 中国兵1コ小隊ぐらいを殺したという者もある。}(「証言による南京戦史(11)」,P9) という証言を掲載しているが、犠牲者数にはカウントしていない。この事件が戦闘詳報などの公式記録や上級将校の日記などに記録されていないためかもしれない。
史実派は、4.2.1項(4)に記載のとおり、この一帯で起きた残敵掃蕩戦の犠牲者の一部と見ていると思われる。
否定派(東中野氏)は前田吉彦少尉の日記を引用し、{ 計画的な捕虜殺害ではなく、僅かの誤解と小競り合いから発砲という大惨事にいたったもので、これを戦時国際法違反と判断するのは早計すぎるであろう。}(「再現 南京事件」,P184-P186) と述べている。東中野氏はこの日記が伝聞に基づいたものである、と内容の信憑性に疑問を投げかけておきながら、前田少尉が誰かから聞いたのであろう「わずかな誤解で大惨事を惹き起こした」を結論としているのは矛盾している。東中野氏は日記の最後にある「折角投降した … 何とも弁解出来ない」を引用していないが、前田少尉は日本軍の捕虜管理責任は逃れられないと考えているに違いない。

(4) 江東門の死体橋

1982年8月6日付「新華日報」に、江東橋のたもとに住んでいた朱友才氏の証言が掲載された。

{ 1937年12月16日の午後、日本軍中島部隊は陸軍監獄に監禁されていた万にのぼる俘虜を江東門まで追い立てて集め、機関銃を掃射して虐殺した。死体は山のように折り重なり、血は流れて河を成した。翌日、日本軍は輜重を河向こうに渡すため死人であろうと生きている者であろうと見つけ次第河の中に投げ込み、橋板をわたし、これを「中島橋」と名づけた。}(「証言・南京大虐殺」,P99-P100<要約>)

洞富雄氏は、{ 江東門附近の河に大量の死体があったことは他の住民や埋葬隊員の証言などから間違いない。死体は16師団が堯化門で捕えた捕虜7200人ではないか。この捕虜を収容したのは17日となっているが、17日にこのあたりを警備していたのは第6師団(歩45)なので、16師団が虐殺したのは歩45が南京を去った12月21日以降の可能性がある。}(洞富雄:「南京大虐殺の証明」,P260-P267<要約>) と推測している。

一方、「証言による南京戦史」では、{ 陸軍監獄に捕虜を収容したのは16~17日、16師団の担当区域外、江東門には橋がかかっていて死体橋の必要性はなかった、などを指摘し、「不思議な告発記事であるが、私【畝本正巳氏】には歩45の上新河、江東門、新河鎮付近の激戦と関係があるように思われる。この激戦で多数の遺棄死体がクリークを埋めた。この光景を見、あるいは伝え聞いて"虐殺"に短絡したものとしか考えられない。}(「証言による南京戦史(8)」,P11)

真相はわからない。劉四海氏の証言にあるような捕虜殺害を見て過大に反応した証言かもしれないが、日本側記録にはない何らかの事件があった可能性もある。