日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.2 西部・南部における掃討戦 / 4.2.1 南京城外西部の掃蕩戦

4.2 西部・南部における掃蕩戦

この節では、南京城の西部と南部を担当した第10軍(熊本第6師団と宇都宮第114師団など)の掃蕩戦や獲得した捕虜への対応などにつき述べる。
12月12日に中華門や雨花門を占領した第10軍は、13日から城外西部の掃蕩と南京城内南部の掃蕩を行った。第10軍は12月19日の命令をもって、南京城を離れ、第6師団は蕪湖方面に、第114師団は湖州方面にそれぞれ転進した。

図表4.2 西部・南部における事件

西部・南部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

4.2.1 南京城外西部の掃蕩戦

南京城攻撃の最左翼を受け持った歩45連隊は、敵の退路遮断のため南京城の西側から下関に進撃するため、雨花台の西側を北上していた。

(1) 新河鎮の戦闘(図表4.2①)

揚子江沿いに北上し下関に進撃する命を受けた第3大隊第11中隊は、13日早朝6時半に出発してすぐに南京城から脱出をはかる中国軍の大群に遭遇し、激しい戦闘になった。以下、「証言による南京戦史」から要約引用する。

{ 敵の大集団が、薄暗い本道を南下してくるのが見える。後から後から押しよせる敵の兵数は不明であるが、2千や3千というものではない。敵の先頭との距離は100メートルもない。軽機【軽機関銃】を据えると直ぐ射撃開始。敵は後から後から押しよせてくる。 … やがて、中隊の全正面で白兵戦が起こり、混戦となる。雲霞のような敵の大部隊が、ラッパを吹きながら突撃してくる。彼我の雄叫び、手榴弾の炸裂、戦場は叫喚の巷となった。
「中隊長、戦死」悲痛な叫び声が聞えた。小隊長が走り寄ると、中隊長は仰向けに斃れて、こめかみを射ち抜かれている。戦闘が続く。…
陽が高くなる。さしもの敵の攻撃も、時間がたつにつれて鈍ってきたようである。敵は横へ横へと移動して揚子江岸に殺到し、河に飛び込み、あるいは筏や舟で逃走を企てる。やがて銃砲声がやみ、戦闘が終わった。 … 戦闘は実に4時間も続いたのである。
第11中隊の損害と戦果は次のとおりである。
戦死:中隊長大園大尉以下16名、負傷者36名 敵の死体:参謀長以下2300名 … }(「証言による南京戦史(6)」,P9)

(2) 三叉河での戦闘(図表4.2②)

第2大隊は江東門を経て城壁沿いに湿地帯を進み、三叉河で脱出しようとする敵に遭遇し戦闘となった。そのときの第3大隊長だった成友藤夫氏の証言を要約引用する。

{ 13日払暁、折からの濃霧を衝いて前進し、敵の抵抗を撃破して三叉河(下関南方約1.5キロ)南方に進出した。… 揚子江以外に逃げ場のない、まったくの背水の陣である。敵は部落に拠り頑強に抵抗する。とくに江岸に近い三階建ての大工場に立てこもった敵が最も手剛く、窓という窓の銃眼から、撃ちまくるので始末におえない。
ちょうど折よく駆けつけてきた機関銃中隊、大隊砲小隊と配属の速射砲小隊に掩護射撃をさせ、放火したので、さすがの頑敵も抵抗を断念して、クリークの北岸に潰走したが、その大部分は、わが銃弾にたおれた。わが第一線は早速、部落を占領してクリークの南岸に進出したが、約20メートルを隔てた北岸から猛射をうけ、さらに迫撃砲弾が飛んでくる。20メートルの近距離で互いに射ち合ったのは、初めての経験であった。20分ばかり撃ち合い、敵は多数の死体を遺棄して下関方向に退却した。…
時既に薄暮、連隊命令により、現在地で態勢を整え、明14日、下関に向かう前進を準備した。この日は、朝からの混戦であったので、敵に与えた損害は勿論わからぬが、死者数百に及んだであろう。大隊も戦死10数名を出した。}(「証言による南京戦史(6)」,P8)

(3) 下関での捕虜解放(図表4.2③)

第2大隊は翌14日下関に到着すると、武器を捨てた大量の中国兵が投降してきたが、この捕虜はその場で釈放した。以下はそのときの様子である。(成友大隊長の証言)

{ 途中、敵の抵抗をうけることなく下関に到着すると、中国兵が広場一杯に溢れている。悉く丸腰である。幹部らしいものを探し出して集合を命ずると、おとなしく整列した。その数5~6000名、腰をおろさせて周囲を警戒すると、これからどんなことをされるのかと思ったのであろう。おどおどした表情の者が多かった。
そこで、「当方面の戦闘はこれで終わった。日本軍は捕虜に対しては、乱暴を加えぬ。生命は助けてやるから、揚子江を渡って郷里に帰れ」と言った。
ところが、「大人は揚子江を渡って帰れと言われるが、船がないではないか。船はどうしてくれるか」と申し出たので大笑いとなった。かれこれしているうちに、城内から第16師団が進出してきた。また、江上には数隻の駆逐艦が遡航してきて、また、威容堂々と碇泊し、その乗組員の一部が上陸してきた。折から、「江東門に下がって宿営すべき」連隊命令に接したので、第16師団に申し継いで後退した。}(「証言による南京戦史(6)」,P8)

この捕虜の多くは揚子江の中洲(江心州)に渡った。残りは三叉河を経て江東門方面に南下したが、第6師団の別の部隊に捕えられ、処刑されたものも少なくなかったようだ。(4.2.2項参照)

(4) 各派の見解

中間派及び否定派は、上記3事件を合法的なものとしている。史実派(笠原氏)は次のように述べ、この地域での死体には4.2.2項の事件を含めて非合法な殺害が含まれている、としている註421-1

{ 第6師団戦闘記録には、敗残兵、捕虜殺害を記述していないが、同師団が12月12日深夜から13日にかけて上河鎮、水西門、漢中門、江東門でおこなった残敵掃蕩戦では、下関から長江岸を上流に脱出しようとした敗残兵・難民が相当殺害されている。記されている遺棄死体12,700のうち、戦闘死した中国兵はこれほど多くはない。中国抗日戦争史学会編「南京大屠殺」に収録された生存者の証言からも、この中に集団虐殺された敗残兵、難民が多く含まれていることがわかる。}(笠原:「南京事件」,P224)

笠原氏が指摘する遺棄死体12,700は、第6師団戦時旬報に12月10日~13日の記録として記載されているもので、うち1,700は城壁及び掃蕩に伴うもの、残り11,000は「上河鎮下関」となっている(「南京戦史資料集」,P692-P693)
「上河鎮下関」方面で行われた大規模な戦闘は上記(1)新河鎮と(2)三叉河の2件で、歩45の記録によれば遺棄死体は(1)が2,300、(2)は数百であり、11,000は過大である可能性が高い。南京戦史はこの地区での戦死者数を両方合わせて約2,000と評価している(「南京戦史」,P353)。新河鎮の戦闘に参加した高橋義彦氏(第6師団配属独立山砲兵第2連隊本部附中尉)は、次のように述懐している。

{ … 夕刻頃、47iの第3大隊が救援に駆けつけてくれた。遺棄死体約2,300、水際付近に約千の数字は第3大隊が調査した数であった。
遺棄死体の服装は区々であったが、一般住民は混入しておらず、すべて武器を執った戦闘員であった。また、附近には住民は一人も居らなかった。}(「証言による南京戦史(6)」,P9)

この地域で殺害された捕虜については、4.2.2項に記載した2千人強があるが、この2千人強が殺害されたのは12月14、15日であり、戦時旬報の遺棄死体の範囲(10日~13日)には含まれない。笠原氏が主張するようにこの地域で非合法な殺害があった可能性は大きいが、少なくとも日本側記録から確認できるのは、この2千人強だけである。


4.2.1項の註釈

註421-1 史実派の犠牲者数算定

中間派は非合法とした事件の犠牲者数を積み上げて全体の犠牲者数を算出しているが、史実派は軍人、市民のそれぞれの犠牲者総数を推定したあと、各事件の犠牲者数合計や埋葬者数と大きな差がないことを確認している。そのため、個別事件の犠牲者数を明確に出していない。詳細は4.7節を参照。