日本の歴史認識南京事件第1章 概要 / 1.2 南京陥落後に起きたこと

1.2 南京陥落後に起きたこと

12月9日、松井司令官は投降勧告を行ったが、中国軍はこれを拒否した。10日、南京中心部を取り囲む城壁に向けて日本軍は総攻撃を開始、12日夜、中国の南京防衛軍の司令官唐生智は逃亡し、13日、南京は陥落した。陥落時の追撃戦や陥落後の市内掃蕩で捕虜や敗残兵などが殺害され、市民に対する強姦、掠奪、放火などの事件が発生した。以下は、その主な事件の概要である。

図表1.3 南京陥落後に起きたこと

南京陥落後に起きたこと

(1) 下関(シァカン)の追撃戦と捕虜殺害

南京市北部、揚子江南岸に面した港町下関から揚子江の対岸に向って小舟や即製の筏(いかだ)で逃亡する中国兵を、海軍の軍艦や陸上から銃撃、史実派によれば2万人以上が殺害された。これは正規の戦闘によるものだ、という説もある。また、投降した捕虜約2千人を銃殺や銃剣・軍刀などにより刺殺した、とされるが、否定派は合法的な殺害である、としている。

(2) 幕府山の捕虜殺害

南京市東北部にある幕府山周辺において1万4千余人(人数には諸説あり)を捕虜にし、その一部又は全部を殺害した、という事件だが、一部の捕虜は解放し残りも釈放するつもりで揚子江岸に連行したが暴動が起きたので殺害した、という説もある。

(3) 仙鶴門付近の戦闘と堯化門の捕虜

南京陥落後、中国軍は退却を開始したが、13日早朝、市の東部で日本軍の後方部隊(攻城重砲部隊、集成騎兵団)と衝突して激戦となり、日本軍の司令部も襲撃された。14日朝になって、多数の中国軍将兵が堯化門近くに駐留していた日本軍に投降し捕虜となった。この捕虜7200名は南京城内の刑務所に収容されたらしいが、最終的な処置については処刑説、釈放説、上海移送説などがある。

(4) その他の捕虜殺害事件

上記以外に、数百人から千人規模での捕虜殺害事件が数件あった。

(5) 城内安全区の掃蕩

南京城内には、市民が避難する場所として現地にいた欧米人が設置した安全区があったが、ここに崩壊した中国軍の将兵が軍服を脱ぎ捨て、民服(便衣という)に着替えて逃げ込んだ。中国軍はこうした民間人の服装をした“便衣兵”が敵を襲うゲリラ戦術を展開していたので、日本軍はこれら便衣兵を摘出して処刑した。便衣兵かどうかの見分けは、軍帽で額にできる日焼け、銃を携行するとできる手のタコ、などで判別したが、怪しいと思われる適齢男性はすべて摘出されたので、一般市民も巻き添えを食らったと言われている。安全区の掃蕩は1月まで続き、総計で1万人近くが処刑された。
否定派は、便衣兵の殺害は合法である、と主張している。

(6) 市民への強姦、掠奪、放火など

松井司令官は南京城内に入る部隊を制限し、市民や外国人には絶対に危害を加えないよう指示したが、多くの強姦や掠奪、放火が起きた。安全区の国際委員会委員長であるドイツ人ジョン・ラーベは、{ 安全区は日本兵用の売春宿になった。}と日記に記し、極東国際軍事裁判(東京裁判)では2万人もしくは2千人が強姦されたという証言註12-1がある。また、掠奪について、日本軍の中島師団長は、{ 師団司令部と表札を掲げてあるのに目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと持っていかれた。}註12-2 と嘆いている。否定派はこうした強姦や掠奪について、国際委員会が記録した事例は伝聞によるものが多く信頼できない、中国軍が攪乱のために行った、などを主張している。

(7) 百人斬り競争

上海から南京に進軍する途中で、日本軍の少尉2人が軍刀で敵を100人斬る競争をしたという記事が1937年12月の東京日日新聞に掲載された。否定派は「新聞記者のデッチあげ、アリバイもある」と主張し、肯定派は「捕虜の据え物斬り」として行われた、アリバイは偽証、と主張している。二人の少尉は、戦後行われた南京軍事法廷で死刑になった。


1.2節の註釈

註12-1 ラーベの日記と東京裁判での証言

[ラーベの日記] 12月17日の日記から抜粋

{ … アメリカ人の誰かがこんなふうに言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった」 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。… }(「南京の真実」,P138-139)

[ベイツの証言] 東京裁判速記録

{ 占領後1箇月して国際委員会委員長ラーベ氏及び其の同僚はドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったことを信じて居ると報告しました。それより私はもっとずっと内輪に見積りまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は8千件と見積もったのであります。} (「大残虐事件資料集Ⅰ」,P50)

註12-2 中島師団長の嘆き

第16師団長中島今朝吾中将の日記(12月19日)から抜粋。

{ … 師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く … }(「南京戦史資料集」,P33)