日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.3 慰安所の展開 / 2.3.2 太平洋戦争期の展開

2.3.2 太平洋戦争期の展開

図表2.6(再掲) 慰安所の展開

慰安所の展開

(1) 軍主体の展開

陸軍中央の窓口明確化

1941年12月に始まった太平洋戦争では、日中戦争期に定着した慰安婦システムを継承したが、戦場が太平洋地域に広がったことにともなって需要が拡大し、慰安婦の徴募と輸送の問題を調整するために管理体制の見直しが必要になった。日中戦争期には現地軍の要請を取り次ぎ、必要な手続きを進める中央の担当部門は確定しておらず、外務省、内務省、陸海軍省などの関係部局課が場当たり的に処理していたようだ。しかし、南方占領地はほぼ全域が陸海軍の軍政下に入ったので、業者や慰安婦の統制は陸海軍に委ねられた。陸軍の場合は陸軍省人事局の恩賞課が担当部門となった。(秦:「戦場の性」,P103-P104<要約>)

慰安婦の輸送

1942年1月、慰安所開設のための関係者渡航の取り扱いについて台湾総督府から外務省に宛てた照会に対して、外務省は「此種渡航者に対し旅券を発給することは面白からざるに付き軍の証明書に依り軍用船にて渡航せしめられたし」と回答した。下線部分は最終的に削除されたが、吉見氏は「削除された文からは、軍による慰安婦送出にかかわりたくないという外務省の不快感が聞こえてくるようである」という。

陸軍省は1942年4月23日付の文書をもって、日満支より南方占領地に渡航する"陸軍軍属同要員、其の他軍関係邦人"に対して軍が選衡のうえ身分証明書を交付することとした。身分証明書の発行は原則として陸軍省だが現地司令官にも権限は分与されていたから、選衡がどこまで厳しく励行されたか疑問は残るが、一旗組の不良分子が南方へ進出するのはかなり抑制されただろう、と秦氏は述べている。

船舶輸送を担当していたのは広島に司令部を置く船舶司令部であった。女たちをつれて広島の旅館に泊まっている業者が毎日のように司令部へ顔を出して"便乗"のチャンスを待つ、というのが実態だったようである。(秦:「戦場の性」,P106-P108<要約>)

(2) 太平洋地域の慰安所

秦氏によれば、太平洋地域では激戦場か一部の離島を除き、日本軍の駐屯した地域のほぼ全域に慰安所ないし類似の施設があった。なかったのは、ガダルカナル島をふくむソロモン群島、東部ニューギニアやアリューシャン列島(アッツ、キスカ)、ギルバート諸島(マキン、タラワ)、硫黄島などの離島などだという。(秦:「戦場の性」,P116)

マレー半島、シンガポール註232-1

マレー半島ではシンガポールが陥落する1942年2月15日以前からタイなどから慰安婦を集め、マラヤ北部に慰安所を設置していた。シンガポールで陸軍報道班員として数か月過した作家の大林清は、その頃の活況について、「南方総軍報道部のある高層ビルの裏側住宅地一帯をヨシワラと称して、兵用、下士官用、下級将校用の慰安所が軒を並べ、その高地を下ると前庭のある高級住宅を接収した佐官以上用の料亭が、夜毎その前庭に佐官の黄色い旗を立てた乗用車を駐車させていた。…」と書いている。

クアラルンプールでは1942年8月頃までに7か所に16軒の慰安所を開設した。これらの慰安所に入れられた慰安婦は150人を越えていたとみられ、一番多かったのが中国人、次が朝鮮人、ほかにタイ人、ジャワ人、インド人、マレー人と中国人の混血などがいた。

小さな町で日本軍に指示された住民が慰安婦を集めて慰安所に提供した事例が確認されており、同様の事例が広くあったと思われる、と林博史氏は述べている。

フィリピン

1941年12月の対米開戦と同時に日本軍はフィリピンを攻略し、翌年1月には首都マニラを占拠、その他の島々も5月には支配下においた。占領直後から慰安所も設置されていったが、記録が残っているパナイ島イロイロ、レイテ島タクロバンなどの慰安婦は現地女性だった。軍政監部による慰安所規定が定められ、形式的には管理されていたが、各部隊による監禁輪姦の延長と言えるような慰安所もあった。(林博史:「日本軍「慰安婦」問題の核心」,P114-P115<要約>)

インドネシア

各地に慰安所が設置されていることがわかっており、軍政機関と各部隊の両者が管理する慰安所があったが、史料は極めて少ない。(林博史「日本軍「慰安婦」問題の核心」,P115-P116<要約>)

ジャワ島では、オランダ人の男とインドネシア人の女の間に生まれた混血児(ユーラシアン)が、日本軍の高級将校や高級官吏、会社重役などの妾としてかこわれた。ジャワでは軍人が少なかったせいか、占領初期には軍専用の慰安所はほとんどなく、民間の売春宿が主力だったが、1943年頃から軍専用も設置されるようになり、スマラン事件を引き起こす。(秦:「戦場の性」,P113<要約>)
スマラン事件とは、日本軍がオランダ人の抑留所にいた若い女性を強制連行して慰安婦として性サービスをさせたもので、戦後オランダが開いたBC級裁判で開設に関わった将兵13人が裁かれ、うち一人が死刑になった。(詳細は 2.4.4項(5) を参照)

ビルマ

日本軍は1942年5月までに主要作戦を終了し、各部隊が駐屯地に移動してまもなく慰安所が設置された。中国で経営していた慰安所や食堂などの業者にビルマに行くように働きかけており、その業者たちが軍の便宜を供与されて慰安婦を集めたようである。(林博史:「日本軍「慰安婦」問題の核心」,P116<要約>)

その他註232-2

・北千島ホロムシロ島の柏原には約50人の慰安婦がいた。1945年8月18日、ソ連軍の侵攻に際し、慰安婦たちはニチロ漁業の女工などと北海道に脱出したが、兵士たちはシベリアに連行された。

・東部ニューギニアにも慰安婦がいたという証言があるが、1942年夏のモレスビー攻略作戦から終戦まで極限状態に近い惨烈な戦闘の連続で、人肉を食ったような環境に慰安婦がいたとは思えない。

・インド洋のアンダマン・ニコバル島には5軒の慰安所があった。1945年3月に18人の慰安婦を送りこもうとしたが、船団は撃沈され救助された53人のなかにそれらしき女性もいたという。

(3) 日本国内の慰安所

{ 現在、日本・アメリカ・オランダの公文書によって、軍慰安所の存在が確認されている地域は、つぎのとおりである。中国、香港、マカオ、フランス領インドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、太平洋地域の東部ニューギニア地区、日本の沖縄諸島、小笠原諸島、北海道、千島列島、樺太。 … 本土決戦にそなえて大量の兵員が配置された九州や千葉県にも設置されている。・・・ 沖縄の場合、1994年2月現在で126か所(可能性のあるものを加えると131か所)が指摘されている。}(吉見:「従軍慰安婦」,P77)

秦氏は上述のように東部ニューギニアには慰安所はなかったとし、日本国内の慰安所についてはふれていない。

{ 元那覇警察署署員山川泰邦氏のエッセイ「従軍慰安婦狩り出しの裏話」(…)、… には、もともと沖縄にあった辻遊郭で、1944年7月頃から日本軍が我が物顔にふるまうようになってゆく状況と、それでは足りずに軍自ら「慰安所」を設置していった状況が回想されている。「各部隊は競うて慰安所を設置、1か所15人、1個連隊で2か所を設置、全駐屯部隊で500人の慰安婦を辻遊郭からかりだした」という。}(藤目ゆき:「慰安婦問題の本質」、P58-P59)

日本国内の慰安所は終戦が近づいてから設置されたケースが多かったと思われる。

(4) 海軍の慰安所註232-3

1942年5月30日付の文書によれば、海軍省はセレベス(スラウェシ)島のマカッサルに45名、ボルネオ(カリマンタン)島のバリクパパンに40名、マレー半島のペナンに50名、ジャワ島のスラバヤに30名の「特要員」(=慰安婦)を送ると通達している。セレベス島南部には現地徴集されたインドネシア人慰安婦が281名もおり、うち海軍関係は250名だった。海軍直営の慰安所は3軒、慰安婦の徴集と雇用契約締結を軍属がおこなった慰安所が23軒あった。慰安婦を戦地に送る際には、軍艦や海軍が管理する軍用船を使用している。

海軍は陸軍以上に中央統制が強く、慰安所も直轄的な性格であった。


2.3.2項の註釈

註232-1 マレー半島の慰安所

シンガポールの大林清氏の述懐は、秦:「戦場の性」,P112

それ以外は、林博史:「日本「慰安婦」問題の核心」,P101-P105

註232-2 その他地域

秦:「戦場の性」,P116-P117

註232-3 海軍の慰安所

吉見:「従軍慰安婦」,P71-P73