日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.3 慰安所の展開 / 2.3.1 日中戦争期の展開

2.3 慰安所の展開

日本軍は1937年にはじまった日中戦争と、それに続く太平洋戦争の期間を通して、中国や東南アジアなどの占領地に次々と慰安所を設置していった。この節では各地の慰安所設置状況について述べる。

図表2.6 慰安所の展開

慰安所の展開

2.3.1 日中戦争期の展開

(1) 最初の慰安所

シベリア出兵の教訓

陸軍が初めて慰安所を作ったのは1932年だったが、その当時の陸軍幹部がシベリア出兵(1918-22)のときの性病感染率が高かったことを記億していたことが影響しているという。秦氏によれば、シベリア出兵時の性病患者は2016人(千人当たり53.9人)で、戦死者1433人、戦傷者2920人に比べて多い。しかも性病に罹っても隠す者が多かったから実数はこの何倍にもなる。(秦:「戦場の性」,P65-P68)

なお、シベリア出兵はロシア革命に干渉する戦争であったが、従軍将兵には出兵目的がわからない戦争だったので、軍紀が乱れ略奪や強姦が頻発したという。

第一次上海事変

満州事変後の1932年1月、中国軍の攻撃を受けた海軍陸戦隊を救援するため、内地から陸軍の部隊が派遣された。激戦のすえ3月初めには中国軍を退けたが、派遣軍は強姦事件などの頻発に悩まされた。派遣軍の参謀副長だった岡村寧次大佐(当時)の回想録には、次のように記されている。

{ 昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥ずかしながら慰安婦案の創設者である。昭和7年の上海事変のとき2,3の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。}(「岡村寧次大将資料 上巻」,P302)

海軍の慰安所

こうして海軍の慰安所に倣って陸軍も初の慰安所を設置することになったが、先行した海軍の慰安所は酌婦をおいた料理店を海軍専用にしたものらしく、3軒あったという。1929年に上海市は公娼制を廃止していたので、その抜け道として領事館警察が作ったもののようだ。(秦:「戦場の性」,P65)

陸軍最初の慰安所

秦氏によれば、陸軍最初の慰安所は「軍娯楽場」と名づけられ、上海の中華電気社宅を改造した場所に約80人、呉淞(ウースン)の仏教学校を改造した場所に約50人、他2ケ所に併せて約30人の慰安婦がいた。慰安婦は日本人だけでなく、朝鮮人、中国人もいたらしい。開業したのは1932年4月6日ごろのようだが、撤兵が予想外に早かったので、5月末には閉鎖されてしまった。(秦:「戦場の性」,P64-P65)

(2) 中国への本格展開

1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに8月には第二次上海事変、12月に南京攻略戦が続いて日中戦争が始まった。南京攻略(12月13日)直後には、上海~南京間の湖州、揚州などで慰安所が開設され註231-1、1938年に入ると上海や南京にも設置されていった。

楊家宅慰安所

上海の兵站病院に勤務していた麻生徹男軍医(産婦人科が専門)の回想記によれば、上海郊外の楊家宅に軍直営の慰安所がオープンしたのは1938年1月10日頃であった。北九州から来た日本人20数人、朝鮮人80人の慰安婦がいた。しかし、受付に軍服姿の下士官がすわる官僚統制式の堅苦しさから、下級兵士は利用をためらい、あまり人気がでなかったようだ。

少しあとに民間業者が経営する慰安所がオープン、建屋は粗末で衛生管理は不備だったが、民間経営らしく、門に「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサービス」というノボリを建てたので、どっと兵士が押しかけ繁昌したという。(秦:「戦場の性」.P71-P72を要約)

南京の慰安所

「占領後の最初の1ケ月の間に約2万の強姦事件が市内に発生した」(洞富雄編:「南京大虐殺事件資料集1」,P396) といわれた南京事件だが、南京陥落(12月13日)直後の19日頃には慰安所設置の準備をはじめて、1月にオープンしている註231-2。秦氏によれば、日本軍の南京特務機関の下請けで慰安婦集めをやったのは、喬鴻年という風俗関係のボスで、次々と慰安所を開いた。1938年半ばには17か所とも9か所ともいわれており、集められた慰安婦の多くは国際安全区に逃げ込んでいた食うや食わずの難民女性だったと思われる註231-3、と述べている。

漢口の慰安所

漢口は中国本土のほぼ中央に位置する大都市で、中支那派遣軍が占領したのは1938年10月26日だが、軍は南京事件の再発を恐れて、11月には早くも漢口中心部の積慶里に慰安婦300人を収容できる軍専用慰安所を開設する。隣町の武昌とあわせ500人前後の日本人・朝鮮人混成の慰安婦たちで終戦までの7年、日本軍駐屯部隊と通過兵士の需要に応じることとなった。

慰安所を管轄する兵站部が承知しないヤミの慰安所もあったらしく、慰安係長の山田中尉が偶然に見つけて入ってみると、日本人の女将が谷間の一軒家に中国女性5~6人を置いて大繁昌しているとわかった。辺地警備の末端部隊では集落の長に話をつけて供出させた中国人女性を利用する例も珍しくなかったようだ。 (秦:「戦場の性」,P90-P91を要約)

したたかな業者

山田中尉は慰安所を「必要悪」とみて、慰安婦と兵士の側にたって業者とわたりあったが、業者のなかには上級司令部の有力者と強いコネを持つ者がいて、憲兵隊、参謀部、軍医部の干渉もあり、慰安係長のポストは長続きしないというジンクスがあったらしい。(秦:「戦場の性」,P91)

同盟通信社の前田特派員はこれらの業者を次のように述べている。

{ 兵站司令部でも同様だった。蘇州や杭州やその他の町、そして南京に店を開こうという一発屋が詰めかけていたのだ。料理店を開こうとするもの、内地で女を募り慰安所を開こうとする男たちもいた。占領地での荒稼ぎが目当てだった。… 私にはこれらの抜け目ない顔付きの商人たちがハイエナのように思えた。}(前田雄二:「戦争の流れの中に」,P131)

華北の慰安所整備指示

華北の全軍を統括する北支那方面軍は強姦事件が頻発して住民の怒りをかったため、その対策として岡部直三郎方面軍参謀長は指揮下の各部隊に軍慰安所を作るよう指示した。下記は岡部参謀長の陣中日誌からの抜粋である。

{ 諸情報によるに、斯の如き強烈なる反日意識を激成せしめし原因は、各所に於ける日本軍人の強姦事件が全般に伝播し、実に予想外の深刻なる反日感情を醸成せるに在りと謂う。… 右の如く軍人個人の行為を厳重取締ると共に、一面成るべく速やかに性的慰安の設備を整え、設備の無きため不本意乍ら禁を侵す者無からしむを緊要とす。}(吉見義明編:「従軍慰安婦資料集」,P210,1938年6月 「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」(資料42))

華南の慰安所状況

日本軍は1938年10月、広東作戦により広東、広州、海南島などを占拠した。広州の第21軍司令部が1939年4月に作成した報告書によれば、慰安婦は1000名、うち第21軍が直接統制しているのは850名で、残り150名は指揮下の各部隊が郷土から呼んだ慰安婦である。(吉見:「従軍慰安婦」,P31)

専属慰安婦

上記第21軍のように郷土の縁がなくても、部隊が専属同様に彼女たちを連れ歩く習慣は珍しくなかった。武漢作戦を指揮した岡村寧次将軍は、「現在の各兵団は殆どみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第6師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は後を絶たない…」と述べている。(秦:「戦場の性」,P82)

(3) 野戦郵便長の見た慰安所

第二次上海事変や南京攻略戦に従軍した佐々木元勝野戦郵便長は、その回想録で慰安所について次のように述べている。(全文は『小資料集』--ページヘッダの「サポート」にあり--参照)

{ 上海楊樹浦通り大連碼頭近くの野戦郵便局の附近一帯も幾らか賑やかになった11月中旬、私は局附近の横路で妙な標札を見た。
「上海寮、皇軍将兵慰安所」 「ビール、サイダー、美人多数」 …
1月下旬私が杭州に行った時には、内地人、半島人、中国人の慰安所があった。2月初め南京に行った時には、鼓楼公園の近くに将校慰安所が在り、見学のために出掛けると、16,7の可愛い姑娘たちがストーブにあたっている。断髪、口紅、銀の耳環、彩色の美人絵葉書の通り洗練されたのもいるし、まるで子供でただストーブの前であたっているだけのもいる。}(佐々木元勝:「野戦郵便旗(上)」,P247)

つづいて、慰安所の出入りに関する注意書きが掲載されているが、そこには「特種な婦人に接することは道徳上好ましいことではないが、性欲を調節し脱線行為を予防して皇軍の威信を護持するために設けたのが慰安所である」と書かれていた。

(4) 関特演と満州の慰安所

関特演(関東軍特種演習)註231-4

関特演とは、1941年6月にドイツがソ連に侵攻したことに呼応し、好機を見てソ連と開戦、シベリアへ進撃する含みで北満州に兵員を大量動員して行った演習のことである。7月7日に大動員令がくだり、35万の関東軍を一気に85万に増強しようとした。結局、欧州の戦況が進展しないことや7月28日の南部仏印進駐により南進政策を優先したため、約70万になった時点で中止された。

この関特演に際して、増員分35万人に対応する慰安婦2万人を朝鮮から集めようとした。千田夏光氏はその慰安婦徴集にかかわった原善四郎少佐(後中佐)にインタビューしている。以下はその要旨である。

{ 関特演のとき兵站担当をやっていました。… 朝鮮総督府に行き依頼したように思う。… 朝鮮総督府では各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないか(面というのは日本の村にあたる) … 2万人にした根拠はわからないが、シナ事変の経験からではないか。… それに2万といわれたが、実際に集まったのは8千人くらいだった。… }(千田夏光:「従軍慰安婦」,P120-P122)

しかし、韓国で名乗り出た元慰安婦たちからは、この件に該当する証言はなく、朝鮮総督府がどのように関与したかはわかっていない。しかし、秦氏によれば原善四郎少佐の助手役だった村上貞夫曹長(のち中尉)は、「記憶では3000人くらい」で満州に到着した慰安婦たちを配置先に割りふったというから、朝鮮から満州に行った慰安婦が一定数いたことは間違いなさそうである。

満州の慰安所

関特演以前、満州には軍専用の慰安所はなく民間の遊郭を軍民で共用していたようだが、満州国の娼婦は満州国警察の調査によれば、1940年末時点で、予備軍である女給を含めて約38千人、うち日本人は35%、朝鮮人は24%、残りは現地の満州人である。

関特演を機に満蒙国境地帯を中心に軍専用の慰安所はふえていき、新京や奉天のような大都市にも開設されるようになるが、他地域と異なり、在留邦人の数が軍人より圧倒的に多かった事情もあってか、在来型の軍民共用の売春宿が主力であった。(秦:「戦場の性」,P96-P101を要約)


2.3.1項の註釈

註231-1 湖州、揚州の慰安所

吉見義明:「従軍慰安婦」,P24-P25

{ 寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す。最初4名なりしも本日より7名になりしと。未だ恐怖心ありし為、集りも悪く「サービス」も不良なる由なるも… }(第10軍参謀山崎正夫少佐の日記<12月18日付>)

{ 第三師団衛生隊の担架第三中隊は、鎮江・揚州の戦闘を経て12月18日、揚州に入城した部隊だが、ここでも入城後まもなく軍慰安所が開設されている。… 中国人女性47名を集め、緑揚旅舎という4階建ての木造家屋を使って開業させたという }(第3師団衛生隊回顧録)

註231-2 南京初の慰安所

笠原十九司・吉田裕編:「現代歴史学と南京事件」,P198-P199

同書に収録された「南京事件前後における軍慰安所の設置と運営」という吉見義明氏の論稿に、京都16師団の上等兵が1月1日に慰安所を見学したとの日記が紹介されている。

註231-3 南京の慰安所

秦郁彦:「慰安婦と戦場の性」,P76-P78

国際安全区委員長のジョン・ラーベは12月26日の日記に次のように書いている。

{ 日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニ【ミニー・ヴォートリン】は両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。}(ジョン・ラーベ:「南京の真実」,P168-P169)

註231-4 関特演の慰安婦

秦:「戦場の性」,P96-P100

吉見氏も関特演について「従軍慰安婦」P32-P33に記しているが、{ もしこれが事実であれば短期間の徴集であるため、総督府の職員が深く関わったはずである。}と、官憲の関与を期待するかのように述べている。