日本の歴史認識慰安婦問題第2章 慰安婦システム / 2.4 慰安婦のリクルート / 2.4.4 占領地でのリクルート

2.4.4 占領地でのリクルート

図表2.7(再掲) 慰安婦のリクルート

慰安婦のリクルート

(1) 中国でのリクルート

軍人が売春宿から徴募

1944年5月25日の洛陽攻略の後、戦車第3師団のある少尉は後方参謀に呼ばれて慰安所を作れ、と指示された。トラックに塩2,3俵を積んで洛陽に行き、売春宿を2,3軒まわって10数人の女性を集めた。この将校は、同年夏、衡陽でも慰安婦徴集業務を担当し、中国人女性15名を塩と交換に売春業者から譲り受けている。(吉見:「従軍慰安婦」,P113-P114<要約>)

地元の有力者を通じて徴募

独立山砲兵第2連隊の平原大隊長は、「駐留していた前の警備隊長は治安維持会長に女を差し出すよう要求した」と聞き、「小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、場合によっては強制になっていたかもしれない」と述べている。
慰安所を作る場合、地元の有力者に協力を求めることは一般的だったが、軍の指示には逆らえず、しかも性病予防のため売春婦ではない女性を集めることが多かったので、強制的な集め方になる場合があったとみられる。(吉見:「従軍慰安婦」,P115-P116<要約>)

"討伐"の際に連行

万愛花(ワン・アイファ)は、1929年に内モンゴルで生まれたが、4歳で童養娼(トンヤンシー・身売りによる奴隷妻)として山西省の李五学家に売られた。11歳から共産党に入党し抗日運動に参加したが、1943年6月に日本軍に捕まり、逃げ出したが捕まり、を2度繰り返し、合計3回それぞれ20~26日間監禁されて輪姦された、という。秦氏は万愛花が拉致されたという村に当時駐屯していた日本軍兵士3人を探し出してこの証言について聞いたところ、元兵士たちはいずれも「そこは八路軍の最前哨ポストで民心を失ったらたちまち全滅する、そのようなことはありえない」と答えたという。(秦:「戦場の性」,P199-P204) 真相はわからない。

中国から東南アジアの軍慰安所に送られた中国人慰安婦は少なくない。華南からはかなりの中国人女性がビルマに送られている。

(2) マレー半島でのリクルート

軍人による徴募

マレー国境近くのタイ領シンゴラに上陸した第25軍の兵站将校3名は、慰安婦調達のためにバンコク出張を命じられた。そこで彼らは日本企業の駐在員に頼んで23名の娼婦を集めてもらい、性病検査に合格した3人を連れて帰った。(吉見:「従軍慰安婦」,P120<要約>)
海軍もインドネシアのスラウェシ島の慰安所で担当の将校が慰安婦を直接徴募していた。

新聞広告による募集

シンガポールの中国語新聞「昭南日報」に1942年3月、日本軍兵站が出したと見られる慰安婦募集の広告がのった。各民族の接待婦数百名を募集、年齢は17~28歳、報酬は150ドル以上、受付はラッフルズホテル、という内容だった。この広告の効果かどうかわからないが、それまでイギリス軍を相手にしていた女性が続々応募してきたという。(吉見:「従軍慰安婦」,P121<要約>)

地元の有力者への押しつけ

小さな町では駐留した日本軍が独自に女性を集めていた。以下はその典型的な例だという。

{ マレー半島のクアラピラには1942年2月28日、歩兵第11連隊第7中隊が進駐した。現地の治安維持会の会長代理だった李玉旋さんは次のように証言している。歩哨兵が女性を追いかけるのを見かけたので中隊長のところに行って善処を願い出たら、女性を連れてくるように言われた。そこで仲介業者に頼んで30歳代の女性を連れて行ったら、もっと若い女を連れてこい、とのこと。しかたなく、クアラルンプールに行き、知り合いの女性に頼んで中国人女性18人を集めて中隊に差し出した。その中には娼婦でない女性もいた。女性たちには治安維持会がお金を集めて一人1ケ月300ドルずつ支払った。}(林博史:「日本軍慰安婦問題の核心」,P103-P105<要約>)

(3) フィリピンでのリクルート

フィリピンの戦況

日本軍は1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時にフィリピンへの攻撃を開始し、1942年5月にはフィリピン全域を占領したが、フィリピン人は抗日ゲリラ集団を結成し日本軍に激しく抵抗した。

フィリピンに侵攻した第14軍は軍紀が乱れているとの定評があった。1942年5月の陸軍省会議で大山法務局長が「南方軍の犯罪件数237件、支那事変に比し少なし、第14軍には強姦多し、女が日本人向けなるを以てなり。…厳重な取り締まりで激減せり」と報告している註244-1。この報告に対して、吉見氏は「陸軍省の高官が日中戦争の時より少ないと平然と言っているのには驚かされる。"女が日本人向け"というのにはあきれるほかない」(フィリピン弁護団:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」,P13) と述べている。

フィリピンの慰安所と慰安婦

強姦の多発に対応するために設置された慰安所は、軍の標準的な慰安所ルールに基づいて運営されたものだけでなく、各部隊が駐屯地に独自に設置した慰安所が少なくなかった。慰安婦は、日本人や朝鮮人の慰安婦が中国から担当の部隊とともに移動して来たり、新たに連れて来られたりしたが、それでは足りず、現地の有力者に依頼するなどしてフィリピン人慰安婦が調達された。開設を命じられた将校の回想によれば、「各地をまわって町長たちに募集を依頼すると、生活に困っていたその道の経験ある婦女子がたちまちわんさと応募してきたので若くて健康な美人50数名を採用した」註244-2という。

しかし、部隊がローカルに設置した"慰安所"では、現地の女性を暴力的に拉致・監禁して、強姦・輪姦した事例も少なくなかった。1993年に日本政府を相手取って補償を求める裁判を起こした元フィリピン人慰安婦の証言について、弁護を担当した横田雄一弁護士は次のように述べている。{ 被害者と軍とのあいだに民間業者などが介在する余地はまったくなかった。軍の移動中における偶然の遭遇、計画的と思われる女性の自宅への襲撃、作戦行動中の強制連行など、軍の末端組織が軍事力を背景にして有無をいわせず暴力的に女性を拉致している。}(フィリピン弁護団:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」、P120)

フィリピン人元慰安婦たちの証言分析

上記「フィリピンの日本軍"慰安婦"」に収録されているフィリピン人元慰安婦19人(裁判の原告)の証言は横田弁護士の言葉を裏づけている。彼女らの「リクルート」は全員が日本兵による武力を行使するかそれを背景にした脅迫によるものである。軍の標準的なルールに基づいて運営されていたみられる慰安所に連れて行かれたのは一人だけ、11人は慰安所というより「輪姦所」と呼んだ方がいいような「私設慰安所」であり、残り7人は1日から最長3.5カ月にわたって強姦・輪姦され続けている。(同上、P41-P106を分析)

以下、二人のフィリピン人女性の証言を紹介する。

ヘンソンの証言

マリア・ロサ・ヘンソンは、1927年12月フィリピンのマニラ近郊で大地主の父と使用人の母の間に生まれた婚外子だった。1942年2月近所の人たちと薪を採りに行ったときに日本兵3人にレイプされ、その2週間後にも同じ日本軍将校に見つかり再びレイプされた。その直後、彼女は抗日人民軍のフク団に加入、伝令や物資調達を担当した。翌43年4月男性ゲリラと荷車に武器と弾薬を忍ばせて運ぶ途中、日本軍の検問所でつかまり、慰安婦にされた。44年1月、ゲリラ仲間によって救出された。ヘンソンは、慰安婦のリーダー的存在で当初アジア女性基金には反対していたが、その後気持ちが変り1996年8月、第1号として200万円の償い金を受け取った。(秦:「戦場の性」,P192-P193)

ルシア・ミサの証言

1929年5月3日ルソン島中部で小作人の家に生まれた。1944年10月のある日、朝9時ごろ、家族と朝食をとっていたら、突然銃剣を持った日本兵5人が家の中に押し入って来た。日本兵は父と母と姉を銃剣で刺し殺し、私を日本軍の駐屯地に連れ出した。そこには高床式の大きな家があり、私はその家の床下にある大部屋に入れられ。そこには14人のフィリピン人女性が詰めこまれていましたが、私は部屋の隅で連行して来た日本兵5人と別の3人に輪姦されたけど、14人の女性はそれを見ているだけだった。こうして日本兵に強姦される日が3か月間続き、1945年1月にアメリカ軍が上陸して来て解放された。(フィリピン弁護団:「フィリピンの日本軍"慰安婦"」,P77-P79)

(4) インドネシアでのリクルート

概況

インドネシアは1942年3月に日本軍が占領し軍政が開始された。慰安所はスマトラ島、ジャワ島、セレベス島、ボルネオ島など主要な島々に設置され、その数は判明しているだけで40か所弱になるという。慰安婦には朝鮮人、台湾人や中国人もいたというが、現地インドネシア人が多数送りこまれた。当初は売春婦が主体だったが、やがて一般女性も慰安婦にされ、その多くは居住地の区長などの有力者を通して集められた。有力者たちは日本軍に逆らえず、住民は有力者に従わざるをえなかったので、強制に近い状態で募集されたと推定されている。( デジタル記念館:「慰安婦問題とアジア女性基金」 )

川田文子氏のヒアリング

川田文子氏(ノンフィクション作家)は1995年秋から3回、現地で10数名の慰安婦と面接し、その結果を「インドネシアの"慰安婦"」(1997年,明石書店)という本にまとめている。慰安婦の証言は以下の4つのセクションに分けられている。慰安婦にされたり、強姦されたり、現地妻にされたのは、ほとんどが13歳から20歳のときで、他地域と比べて若い年齢で被害にあっている。

南ボルネオの慰安所(セクション1) … (同書,P11-P30)

マルディエムは13歳のとき知人から「ボルネオに行って芝居をしよう」と言われてその気になった。同じ慰安所に行ったザイナムは20歳で結婚していたが生活が苦しく「仕事はメイド、畑仕事などから選べる」という甘言にひかれて行くことにした。慰安所は南ボルネオのバンジャルマシンという所にあり、日本人が経営していた。日本人専用で、正午から午後5時までは軍人、それ以降は軍属が対象だった。性病検診は毎週土曜にあり、週一回の休日はあったが、二人とも報酬は受け取っていないと言う。
秦氏は「マルディエムは、親が身売りしたケースではないか」と述べている。(秦:「戦場の性」,P209)

西ジャワ(スカブミ)の慰安所(?)(セクション2) … (同書,P55-P90)

ここでは6人の元慰安婦の証言を紹介しているが、うち一人(13歳)は自宅に日本兵が来て拉致され強姦されて翌朝帰宅、一人(13歳)は強姦されて憲兵隊に拘束された後、ミシマ大尉の現地妻にされた、というもので、元慰安婦というより強姦の被害者といってよいだろう。

残り4人(13歳~18歳)は日本兵に脅されたり、武力を背景に強制的に連行され、私設慰安所のようなところで慰安婦をやらされている。慰安所はそれぞれ別だったようだが、いずれも建物の外に出ることは禁止された。性病検査や利用料(券や現金)のやりとりはあったという証言と見ていないという証言の両方ある。いずれの証言も日本兵の暴行を強調している。

秦氏はその女性たちが名指しした倉本部隊(独立歩兵第150大隊)の関係者にヒアリングしているが、兵舎に女を連れ込んだり長期間監禁したりするのは不可能、という回答を得ている。(秦:「戦場の性」,P210-P211)
慰安所は私設ではなく、別の民間経営の慰安所で、兵士の暴行は誇大過ぎるのかもしれない。

西ジャワ(バンドン)の慰安所(セクション3) … (同書,P92-P117)

4人の元慰安婦が証言しているが、いずれもインドネシア生まれの3人の中国人が経営していた慰安所にいたようである。リクルートは4人全員が日本兵に脅されて強制的に連れて来られているが、秦氏は「中国人経営者のために日本兵が拉致行為をやるのは不自然」(秦:「同上」,P212)と指摘している。
慰安所の生活は、午後1時から5時までが兵士、午後7時から9時までが下士官と将校、休日は週に1回、性病検診も週1回、報酬は週に5~10ルピア、と報酬は低いが勤務条件は悪くない。

インドネシアの現地妻(セクション4) … (同書,P92-P117)

4人の女性が日本軍将校や民間人の現地妻を勤めさせられた、と証言している。慰安所にいたところを現地妻として引き取られたケース、現地妻をしていて慰安所に送られたケース、現地妻にされたまま終戦を迎えて父親は帰国してしまったケース、の3通りある。3人が「現地夫」とのあいだに子どももうけている。戦争が進んで物資が不足する中、日本人将校などの現地妻になった女性は物質的には恵まれた生活をしたが、終戦後、現地の人々の反日感情をもろに受けることになった。

インドネシア人の性観念

上記スカプミの証言について回答したボゴール憲兵分隊長の谷口武次大尉は次のようにも語っている。

{ 住民は性観念がきわめてルーズで、インドネシア人、華僑、混血(ユーラシアン)の売春婦が至るところにいた。ジャカルタ川の川べりには、立ちんぼの女たちが並んで客引きをしていた。}(秦:「戦場の性」,P211)

秦氏は、性観念の程度は各人各説で地域、人種、階層、宗教がからみ一般論は困難だが、インドネシア人が概してルーズだったのは確かなようだ、としてスマトラ各地に勤務した大平文夫憲兵曹長の話を紹介している。

{ 全島で慰安婦は200名位と推定するが、他の島からの出稼ぎが多かった。農家の主婦も容易に売春婦に変身した。しかしアチェ人は売春をやらなかった。}(秦:「戦場の性」,P213)

(5) インドネシア(オランダ人慰安婦)のリクルート

オランダ政府の報告書によると戦時下のインドネシアには15万人(うち女性2万人)を超えるオランダ人が日本軍の捕虜収容所及び民間人抑留所に収容された。

スマラン慰安所事件

1944年2月、ジャワ島中部スマランの抑留所に収容されていた18~20歳のオランダ人女性35人(後に強制と認定されたのは25人)が日本軍によって連行される。そしてスマランの4か所の慰安所で3月1日から4月末までの約2カ月間、"強制的に"売春行為をさせられた。

戦後、オランダ軍のバタビア(現在のジャカルタ)軍事裁判で、慰安所を開設した南方総軍第16軍幹部候補生隊の隊長、能崎清次中将と慰安所開設の立案にかかわった池田省三大佐、岡田慶治少佐ほか13人が強制売春、強姦などの罪で裁かれた。1948年3月24日、法廷はこの事件を「人道に対する苛酷な犯罪行為」として池田大佐、岡田少佐の二人に死刑(池田はのちに懲役15年に減刑)、他も7年から20年の刑を言い渡した。(半藤一利他:「BC級裁判を読む」,P182-P192)

慰安所が2カ月で閉鎖された経緯については、陸軍中央から視察に来ていた担当官に抑留所の女性から「娘が連行されてひどいめにあっている」と訴えられで調査した結果、担当官が慰安所の即時廃止を勧告した、という説などがあるが、秦氏は、慰安所でひどい悲鳴が聞えるとの話を軍政監が聞いて「まずい、すぐやめさせろ」と怒って翌日に閉鎖命令が出た、という説が真実ではないか、と述べている。(秦:「戦場の性」,P221)
この事件は、官憲が直接強制連行した例としてよくとりあげられる。

オランダ人女性が関わった慰安所

秦氏によれば、オランダ人女性が慰安婦にされた慰安所はスマラン以外に6か所あり、それぞれ10~20人のオランダ人慰安婦がいた。日本軍は自由意思で応募したことを証するために本人のサイン付き同意書をとるようにしていたが、日本語で書かれた同意書を理解することはできなかっただろう。志願者もいたようだが、強制的に慰安婦にさせられた女性も少なくなかった。(秦:「戦場の性」,P223)


2.4.4項の註釈

註244-1 大山陸軍省法務局長の報告

本文に引用した部分につづけて次のように述べている。

{ 42年7月までの犯罪件数444件のうち第14軍が252件を占める。そして、(1)本体良い離れた分駐弱小部隊に発生しやすい、(2)数人共同し時には10数人が共同、(3)支那事変体験者に発生しやすい、と分析するが、検挙の徹底、被害者の告訴励行のせいかもしれないと注釈している。}(秦:「戦場の性」,P196)

註244-2 地元有力者を通じた徴募(フィリピン)

{ 奈良兵団に属し、北部ルソンのバヨンボン地区に駐屯した下津勇中尉は、42年5月頃札付きの部下兵士が酔って民家に侵入、妻女をレイプ(未遂)した事件で大隊長が激怒、町長を呼んで陳謝、償金を払い、本人を重営倉10日に処したと回想する。そのあと中尉は大隊長から慰安所の開設を命じられ、各地をまわって町長たちに募集を依頼すると…(以下、本文への引用文に続く)}(秦:「戦場の性」,P197)