日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.8 アメリカ合衆国誕生 / 2.8.4 アメリカ合衆国独立

2.8.4 アメリカ合衆国独立

図表2.30(再掲) アメリカ合衆国独立

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(1) 独立宣言註284-1

戦争が長期化するなか、植民地人は独立もやむなしとする一派と国王に忠誠を誓い独立に反対する一派、そのどちらとも決めかねている人々に分かれていった。1776年1月、独立論を唱えるトマス・ペインが「コモン・センス」を発刊して独立の必要性を説くと、独立を支持する世論は最高潮に達した。

同年6月、大陸会議は独立宣言起草委員会を設置し、トーマス・ジェファーソンらが起案して7月4日に採択された。独立宣言は以下のような3部構成になっているが、本国に対しては宣戦布告、各植民地に対しては臨戦態勢づくりを要請するものだった。

ここでの独立は13州がそれぞれ個別の邦として一緒に独立するというもので、それらを束ねる連邦政府が登場するのは独立後のことになる。

※1 ジョン・ロック(1632生~1704没) イギリスの哲学者。「自由主義の父」とも呼ばれ、著書「統治二論」は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言にも大きな影響を与えた。(Wikipedia「ジョン・ロック」

(2) 北部での前半戦と各国の参戦註284-2

独立戦争の前半戦はイギリス軍が優勢だった。イギリス軍は1776年8月、ドイツ軍傭兵部隊を含めた大軍をもってニューヨークを攻撃し、防衛にあたったワシントンの軍を駆逐してそこを占領した。1777年10月、ニューイングランドを孤立させることを狙ってカナダから南下してきたイギリスの大軍を植民地軍はサラトガで破った。

サラトガでのアメリカ軍勝利は独立戦争の風向きを変えた。フレンチ・インディアン戦争の報復を狙っていたフランスは1778年2月「アメリカ」と同盟条約を結び、1779年6月にはスペイン、1780年にはオランダも参戦した。さらにイギリスが「アメリカ」に対して行った海上封鎖に対抗してロシアや北欧諸国などは武装中立同盟を結成し、中立国船舶の航行と物資輸送の自由などを宣言した。各国はイギリスがこれ以上強大になることを抑えようとしたのである。

(3) 南部での後半戦註284-3

1780年5月、アメリカ軍はサウスカロライナのチャールストンで惨敗を喫するが、同年10月に南北カロライナの境界付近にあるキングスマウンテンでイギリス軍を破り、81年1月のカウペンスの戦いでも打ち破った。イギリス海軍は救援に向かおうとしたが、フランス艦隊に阻まれた。ワシントンはイギリス軍のたてこもるヨークタウンを包囲し、10月イギリス軍は降伏した。この敗北により、イギリス本国の世論は休戦に大きく傾いた。

(4) パリ講和条約註284-4

1783年9月、イギリスとアメリカの間でパリ講和条約が締結され、イギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ川以東の領土を割譲した。

同年にはイギリスとフランス、スペインとの間の講和条約も結ばれ、フランスはイギリスから若干の領土を獲得したが、莫大な戦費に見合うものではなく、これがフランス革命の遠因の一つになった。スペインはフロリダを取り返した。

図表2.34 独立時のアメリカ

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(5) 独立直後のアメリカ註284-5

独立戦争中に発足した第二次大陸会議は、連合会議として13の州※2を束ねる中央政府のような機関となり、それが独立後もしばらく続いた。このときのアメリカは各州に主権があるゆるやかな国家連合であった。しかし、経済状況の悪化への対応や州にまたがる問題の解決に連合会議は機能しなくなり、しだいに強力な中央政府を求める声が高まっていった。1787年5月にフィラデルフィアですべての州の代議員が集まり、4か月近くにわたる会議が開催された。この会議は建前上は連合規約の改正についての議論だったが、実際は国家のあり方から憲法草案の作成までを行うものだった。

※2 "州" この段階では州は独立国なので"邦"と呼ぶのが正しいが、ここではわかりやすさを優先して”州”を使用する。

(6) 憲法制定註284-6

1787年5月から始まった事実上の「憲法制定会議」には、ロードアイランドを除く12州の代表55名が集まり、ジョージ・ワシントンを議長として精力的な議論がなされ、9月に39名の議員が署名した憲法が採択された。この憲法は現在も機能している世界最古の成文憲法である。それは前文と7つのセクションから構成されていた。

できあがった憲法は直ちに連合会議から、各州(邦)の批准にまわされた。最も早かったデラウェアは1787年12月に批准し、ペンシルヴェニア、ニュージャージーと続いた。マサチューセッツなどでは人権の保護を定めた権利章典の制定を条件として批准した。1788年6月、9番目のニューハンプシャーが批准して憲法が成立すると、連合会議は新しい憲法下での運営の準備を始めた。同年6月にヴァージニア、反対が強かったニューヨークは7月に批准したが、ノースカロライナとロードアイランドは大統領選挙後まで批准が遅れた。

(7) ワシントン政権註284-7

1789年2月、各州で選ばれた選挙人は大統領選挙の票を投じた。同年4月に招集された第1回連邦議会で開票された結果、満票でジョージ・ワシントンが第1代大統領に選出された。ワシントンは1732年生まれで、生家はヴァージニア州のプランテーションを経営する中流ジェントリだった。

第1回連邦議会の重要議題は権利章典(=人権関連の条項)を憲法に追加することであった。信教・言論・出版・集会の自由、武装権、不合理な捜査や逮捕の禁止、残虐で異常な刑罰の禁止、などが盛り込まれた条項が批准にまわされ、1791年12月に成立した。

財務長官に選ばれたハミルトンは、中央銀行の設立、ドルを単位とする通貨の発行、製造業や商業を育成するための交通網の整備などを行った。これらの政策は北部諸州には支持されたが、農業中心の南部諸州からは反対された。前者は連邦派、後者は共和派としてこの対立は先鋭化した。それが如実に表れたのが債務償還問題と首都選定だった。

ハミルトンは独立戦争中に各州に積みあがった債務を連邦政府が肩代わりしようとしたが、債務額の多かった北部の州に有利になるとして南部諸州は猛反対した。結局、首都を南部に置くのとトレードオフで双方が妥協することになる。こうして新しい首都はヴァージニアとメリーランドの州境を流れるポトマック河畔に建設されることになった。1800年に首都として稼働し始めたこの町はワシントンと名付けられた。

2期8年の満期を控えたワシントンは、1796年9月、「告別演説」と呼ばれる辞任の挨拶を発表し、3期目を辞退した。これ以降、米国大統領の任期は2期までとするのが慣例になった。唯一の例外がフランクリン・ローズヴェルトで1933~45年まで12年間つとめたが、次のトルーマンのときに2期までとすることが憲法に明記された。

告別演説では、党派対立の回避、憲法中心の政治、宗教と道徳の重要性、ヨーロッパの騒乱から距離を置くこと、などを説いている。

1799年12月14日、ワシントンは肺炎のため67歳で死去した。


2.8.4項の主要参考文献

2.8.4項の註釈

註284-1 独立宣言

和田「植民地から建国へ」,P110-P113

註284-2 北部での前半戦と各国の参戦

和田「植民地から建国へ」,P122-P127

註284-3 南部での後半戦

和田「植民地から建国へ」,P127-P129 Wikipedia「アメリカ独立戦争」

註284-4 パリ講和条約

和田「植民地から建国へ」,P130

註284-5 独立直後のアメリカ

和田「植民地から建国へ」,P150-P152

註284-6 憲法制定

和田「植民地から建国へ」,P150-P160 Wikipedia「アメリカ合衆国憲法」

註284-7 ワシントン政権

和田「植民地から建国へ」,P164-P184 Wikipedia「アメリカ合衆国憲法」、「ジョージ・ワシントン」