日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.8 アメリカ合衆国誕生 / 2.8.3 アメリカ独立戦争開戦

2.8.3 アメリカ独立戦争開戦

図表2.30(再掲) アメリカ合衆国独立

Efg230.webp を表示できません。Webpに対応したブラウザをご使用ください。

(1) 航海法註283-1

航海法はイギリスが自国船による貿易独占をはかるために制定した法律群の総称で、1651年から数次にわたって制定された。目的は関税収入の増加、自国産業の保護育成などであり、主としてオランダを意識したものだった。植民地への適用は最初は緩やかだったが、イギリス本国の財政が苦しくなると、これを厳密に運用しようという動きが出てきた。

主な内容は次の通りである。

これらの規制はあくまでも本国の利害に沿ったものであり、植民地側に不利益となる場合もあったので、これらの規定を遵守せずに、密貿易が盛んに行われた。密貿易によって獲得した外貨が本国製品の購入を可能にしていることもあって、本国側も厳密に対処することはなく、「有益なる怠慢」と呼ばれる状態が続くことになった。

(2) 消費革命註283-2

18世紀になると大西洋貿易は活発になり、植民地の人々の日常生活にも大きな影響を及ぼした。アジアの茶や香辛料、衣服、家庭用品などが、より多様に、より安価に入手できるようになった。その結果、1700年には本国の国内総生産のわずか4%だった植民地経済は大きく成長して1770年代には40%となり、植民地の1人当たり輸入は1720年から1770年までのあいだに50%も増大した。自由身分の植民地人の生活水準は本国より高いレベルにあった。

こうしてアメリカ市場は本国経済にとって決定的に重要な存在となった。

(3) フレンチ・インディアン戦争(七年戦争)(1754-63年)註283-3

イギリスとフランスの植民地人はオハイオ川流域の領有をめぐってこぜり合いを繰り返していたが、1754年、のちにアメリカ初代大統領となるワシントンがフランスの砦に攻撃をしかけて、戦争が始まった。初めは先住民と連携したフランス側が優勢だったが、イギリス海軍は大西洋の制海権をおさえてフランス軍への補給品などの供給を遮断した。補給を断たれたフランス軍は先住民にも見離され、イギリス軍の大艦隊と大軍に敗北して1960年に戦闘は終了した。スペインは遅まきながらフランス側で参戦してキューバなどでイギリス軍と戦ったがこれも敗れた。

この戦争は1756年にシュレージエン※1を巡って、オーストリアがフランス、ロシアと組んでプロイセン、イギリスにしかけた七年戦争(2.4.4項(5)参照)と連動して戦われたが、ヨーロッパ側は引き分けに終わり、1763年パリで講和条約を結んだ。イギリスはフランスからオハイオ川流域を含めてミシシッピ川以東を獲得し、スペインからはフロリダを獲得した。

※1 シュレージエン 現在のポーランド南西部からチェコ北東部に位置する地方で、石炭や鉄鉱石などの鉱物資源が豊富で豊かな穀倉地帯でもあり、中世以来各国が争奪戦を繰り広げた。

(4) 規制や課税の強化 註283-4

本国と植民地の共通の敵であったフランスの脅威が消えることにより、イギリスはこの戦争にかかった費用の回収を含めて植民地の税負担や規制を増やそうとしたが、植民地人は本国の要求に大手を振って逆らった。

イギリス本国は、「有益なる怠慢」をやめ、監視体制を強化して密貿易の取り締まりを始めた。1765年には本国で施行されていた印紙法を導入し、新聞などの印刷物や証書類、トランプにまで印紙を貼ることを義務づけた。植民地側は代表を送っていない本国議会による課税を批判し、「代表なくして課税なし」と叫んで抵抗運動を繰り広げた。1766年に印紙法は撤回されたが、翌1767年、紙、塗料、ガラス製品、茶など、本国や東インド会社の製品の輸入に関税を課す、いわゆる「タウンゼンド諸法」を制定した。植民地では本国の商品に対するボイコット運動が展開され、植民地の産品を使おうという動きも強まった。

(5) ボストン茶会事件と大陸会議註283-5

タウンゼンド諸法も激しい反対運動にあい、1770年4月茶税を残して撤廃された。しかし、3年後の1773年、東インド会社の経営を助けるため、茶を関税抜きで産地から北米に直送することを認めた茶法が制定された。植民地側としては茶を安く入手できるので歓迎するはずだったが、茶の密輸業者は猛反対した。

1773年末、先住民の扮装をした市民たちがボストン港に停泊していた東インド会社の商品を積んだ船を襲って、茶の入った箱300箱以上を海に投棄した。これがボストン茶会事件である。

本国議会はボストン港閉鎖など懲罰的な法律を成立させた。この事態に北米植民地全体で対応すべく、1774年9月からフィラルディアで第一次大陸会議を開催した。参加したジョージア州を除く12州は、本国製品の輸入停止などを連帯して決議、翌年に2回目の大陸会議を開催することを決定した。

(6) 開戦と第2次大陸会議註283-6

1775年4月19日、ボストン北西のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地の民兵軍が衝突し、独立戦争が始まった。この戦いでは民兵側がイギリス軍を追い返した。

1775年5月、フィラデルフィアで第二次大陸会議が開催され、大陸軍を編成して初代大統領になるジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。9月にジョージア州が参加して13州になった植民地側は、大陸会議を中央政府として戦争を遂行する。

ボストン近郊で軍事衝突が起こるなか、1775年7月に大陸会議は本国との和解を求めて国王へ請願書を送るが、国王はこれを拒否した。


2.8.3項の主要参考文献

2.8.3項の註釈

註283-1 航海法

和田「植民地から建国へ」,P66-P69 アラン「興亡のアメリカ史」,P135-P136

{ 航海法がねらったのは、①イングランドで徴収される関税歳入をできるだけふやす、②イングランド商人を富ませる通商の流れを増す、③イングランド造船業に刺激を与える、④イングランドの水夫の数をふやす、それによって海軍の兵員予備もふやす、ことであった。… 航海法はオランダ経済をおびやかし、1652年から1674年までに3度の英蘭戦争をひきおこした。}(アラン「同上」,P135-P136)

註283-2 消費革命

和田「植民地から建国へ」,P71-P76 アラン「興亡のアメリカ史」,P148-P149

{ 女性は消費革命に主導的な役割を果たした。彼女たちは輸入品のおかげで糸を紡いで布を織るという長く厳しい労働が減ったからである。流行の衣類を手に入れた中間層の女性は、自己表現し自己主張する、新しい手段をも手に入れたのだった。}(アラン「同上」,P149)

註283-3 フレンチ・インディアン戦争

アラン「興亡のアメリカ史」,P155-P160 和田「植民地から建国へ」,P92-P94 Wikipedia「フレンチ・インディアン戦争」

註283-4 規制や課税の強化

和田「植民地から建国へ」,P94-P98

{ 植民地人が富み栄えているように見えると強く受けとめていたイギリス側は、植民地人はより高い税を払って帝国を支えられるのだと主張した。多大の人命と財産を費やして、繁栄する植民地人のために大陸を安全にしてやったイギリス側にとっては、しごくまっとうな話と思えた。イギリスの納税者は、すでに植民地人よりもずっと重い税を払っていた。しかし、帝国の政策変更は、イギリス人としてのもっとも重要な権利は、自分たちが選出した代議会が採用した分以外、いかなる税も支払わないことだ、と熱烈に信じていた植民地指導者に衝撃を与えた。}(アラン「同上」、P163-P164)

註283-5 ボストン茶会事件と大陸会議

和田「植民地から建国へ」,P102-P104 Wikipedia「ボストン茶会事件」

第一次大陸会議への招待状は、ノヴァスコシアなど北方の植民地や西インド諸島の植民地にも送られた。

{ ノヴァスコシア、ニューファンドランド、ケベックは忠誠を維持した。北方に位置し、人口が少なくより周縁的な植民地であったため、イギリスの保護と市場に依存していたのである。はるか南方では、西インド諸島の砂糖プランターたちは奴隷が多数派を占めるせいでどうにも身動きできる気がせず、またイギリスの砂糖市場をあてにするあまり反乱は考えらえなかった。}(アラン「同上」、P164-P165)

註283-6 開戦と第2次大陸会議

和田「植民地から建国へ」,P107-P108