日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.8 アメリカ合衆国誕生 / 2.8.2 奴隷貿易と植民地の拡大

2.8.2 奴隷貿易と植民地の拡大

図表2.30(再掲) アメリカ合衆国独立

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(1) バルバドス島註282-1

1620年代から30年代初頭にかけて、西インド諸島の土地は主としてサトウキビの栽培にあてられ、イギリスの植民地の中で最も価値ある地域になった。

1650年の人口は、チェサピーク12千人、ニューイングランド23千人に対して、イングランド領西インド諸島は44千人で、そのうち3分の2はバルバドス島※1にいた。1660年までにバルバドスはイングランドで消費される砂糖のほとんどを生産した。長くてきつい作業を行うためにアフリカから大量の奴隷を輸入し、1660年には白人26千人に対して黒人27千人にもなった。

{ ヴァージニアなどの … タバコ・プランターたちが貴族的であったというなら、カリブ海の砂糖プランターたちは王様であった。砂糖プランターの多くはカリブ海には住まずイギリス本土に住んだ。… 彼らは、現地に道路も学校も公園もつくらなかった。一方、タバコ・プランターはそこまでの財力がなかったので、現地に住んだ。そして社会インフラにも投資した。}(川北稔「世界システム論講義」,Ps997-<要約>)

農園の大規模化は他の島でも進み、1713年にジャマイカの砂糖生産量はバルバドスを追い越した。
イギリスの砂糖プランターが大儲けしたのは、航海法(2.8.3項(1)参照)によりフランスなど他国からの砂糖に高額の関税がかけられたため、高価格を維持できたことにあった。これに対して国際競争力のあったタバコにはそうした保護はなくフランスなどにも輸出された。

※1 バルバドス島 カリブ海の東端、ヴェネズエラの北400kmほどのところにある小さな島。

(2) 奴隷貿易(三角貿易)註282-2

西インド諸島やアメリカ南部で利用された黒人奴隷は、三角貿易とよばれる貿易によってもたらされた。イギリスなどヨーロッパからの船は、武器や綿製品などを西アフリカに運び、これを奴隷と交換してアメリカに運び、アメリカからは砂糖やタバコ、綿花などをヨーロッパに運ぶのである。

図表2.33 三角貿易

三角貿易

出典)和田「植民地から建国へ」,P70 をもとに作成

奴隷は西アフリカの王国が内陸から集めてきて、ヨーロッパの奴隷商人に武器などと引き換えで売り渡された。アフリカからアメリカに奴隷を運ぶ船は、専用に艤装された奴隷船で、奴隷たちは、{ 衣服をはぎとられ、ヒトではなく単なるモノ=「黒い積荷」として船に詰め込まれて鎖につながれ、不衛生な環境下で苛酷な旅を強要された。自殺者も含めて死亡率は高く、不要となれば大西洋に「投棄」された。}(和田「植民地から建国へ」,P69-P70)  輸送中に10%が命を失った、という。

大西洋を越えた奴隷の数は、16世紀から19世紀のあいだに1100万人という数値が基本で、1200万~2000万人という推計もある。最盛期の18世紀で年平均5~6万人という計算になる。総数のおよそ3分の1は、ブラジルで奴隷制を維持したポルトガルのものであり、カリブ海を中心とする英仏両国領が拮抗している。

奴隷貿易で急成長をとげたリヴァプールの後背地にはマンチェスターがあり、産業革命はここから始まった。奴隷貿易で得た利益は工場をつくる資金となり、原料の綿花は三角貿易を通じてアメリカから入手し、綿織物はアメリカやアフリカなどに輸出された。奴隷貿易は産業革命の起爆剤となったのである。

(3) カロライナとジョージア註282-3

1670年、バルバドス島からあぶれたイギリス人たちが、カロライナに入植した。隣のスペイン領フロリダに対抗するため、その後も入植者を増やし、富裕な者たちがカロライナの代議会と評議会を支配した。{ 彼らは何のはばかりもなく私益を追求し、容赦なく他人を搾取することを特徴とする、バルバドス式の政治をおこなった。}(アラン「興亡のアメリカ史」,P117-P118)  彼らは先住民たちを迫害し、奴隷として西インド諸島に売り払ったりしたので1700年に15千人だった先住民は1730年までに4千人にまで激減した。

カロライナでは、インディアン奴隷や木材の交易のほか牧畜を行ったが、1690年代にコメを商品作物として開発し、奴隷を使って農地を開墾し生産した。

カロライナとフロリダの間にある「ジョージア」と名付けられた地域に、1733年「ジョージア受託者団」という団体が集めた植民者たちが入植した。彼らは負債を返済できずに投獄されていた者たちだった。植民者を更生させるため、家族が耕す小さな農場をたくさん作ること、その際に奴隷は一切使わないこと、を方針とした。しかし、植民者たちはこの方針に憤激し、「白人は奴隷を保有することにより自由になれる」と反発した。1751年、受託者団はあきらめてジョージアを王権に引き渡し、王権は奴隷制度を認めた。1775年には白人18千人に対して黒人15千人となった。

(4) 中部植民地(ニューヨーク、ペンシルヴェニアなど) 註282-4

現在ニューヨークやフィラデルフィアがある一帯は、1614年にオランダが自国の植民地として宣言し、ニューネーデルランドと名付けていた。イギリスの航海法をきっかけに始まった英蘭戦争(1652-74年)の和平条約(1674年)でイギリスはここを獲得し、ニューヨークに改名した。

国王チャールズ2世は、現在のニューヨーク州とニュージャージー州は弟ヨーク公を領主に委託し、ペンシルヴェニア州とデラウェア州は国王の借金と引き換えにウィリアム・ペンに下付した。これらの地域は、穀物の生産/輸出を特色とした。

(5) イギリスにとっての植民地註282-5

「イギリスで宗教上の迫害を受けたピューリタンが自由の国アメリカを建国した!」 こんなイメージを持っている日本人は少なくないのではないだろうか。この説の裏には、植民の多くはイギリスで中流階層にあった人たちだ、という主張があった。イギリス史が専門の川北稔氏によれば、この主張は1980年代から疑われるようになり、現在では植民者には多数の貧民や犯罪者がいた、というのが通説になっているという。ただその比率は研究者により異なっている。川北氏は「少なくとも3分の2は年季奉公人や犯罪者」。和田光弘氏は「年季奉公人は42.4%、犯罪者は11.5%」。アラン・テイラー氏は「17世紀のチェサピークへの移民のうち、自由身分でやってきたのは4分の1にすぎない」。

アメリカ人の愛国者にとっては、認めたくない事実かも知れないが、{ イギリスにとって植民地は世界商品の生産地であると同時に、社会問題の処理場でもあった。禁欲で勤勉な中流のイギリス人が自由のためにアメリカ植民地をつくったわけでは毛頭ないのである。}(川北「世界システム論講義」,Ps1342-)


2.8.2項の主要参考文献

2.8.2項の註釈

註282-1 バルバドス島

川北稔「世界システム論講義」,Ps1089- 和田「植民地から建国へ」,P69-P72

註282-2 奴隷貿易(三角貿易)

川北稔「世界システム論講義」,Ps1089- 和田「植民地から建国へ」,P69-P72

{ アフリカのイスラム圏では、奴隷はごく一般的であり、サハラや北アフリカに輸出もされていた。ブラック・アフリカ自体においてもそれはめずらしいものではなかった。}(川北「同上」,Ps1178-)

{ ヴァージニア植民地で間接的ながら初めて黒人の終身年季に法的承認を与えたとされるのが、1662年のヴァージニア議会制定法第102号で… いくつもの法律が矢継ぎばやに制定される。同年には「生まれた子どもが不自由身分なのか、自由身分なのかの判断は、母親の身分にのみ基づいてなされる」として、… 白人の血の純潔性を確保するとともに、白人男性による黒人女性の性的搾取を暗黙裡に正統化した。}(和田「同上」,P63)

{ 奴隷は白人の監督のきびしい監視と鋭い鞭のもとで、少なくとも1日12時間、週6日間労働しなければならなかった。
新しい奴隷の約4分の3は西インド諸島に向かった。ここでは砂糖プランテーションがあったが殺人的で、奴隷王は奴隷を使いつぶしては代りを入れる方が計算に合った。しかし、大陸部の植民地では奴隷王はより努力し、奴隷が生きながらえて子を作るに足る、最低限の食料と住居をあたえようとした。}(アラン「同上」,P147)

註282-3 カロライナとジョージア

アラン「興亡のアメリカ史」,P116-P128

註282-4 中部植民地(ニューヨーク、ペンシルヴェニアなど)

アラン「興亡のアメリカ史」,P132-P139 和田「植民地から建国へ」,P47-P48

当時のオランダはイギリスより裕福だったために、植民は進まなかった。

{ 大西洋を渡る移住において押出要因が引き寄せ要因よりも強く、その押し出し要因はイングランドの方が、オランダよりもずっと強かった。宗教的寛容、急成長する経済、高い生活水準に恵まれたオランダ人には、宗教戦争、内戦、経済の停滞に苦しんでいたイングランド人よりも、自国を離れる理由が少なかった。}(アラン「同上」,P135)

註282-5 イギリスにとっての植民地

川北稔「世界システム論講義」,Ps1215- 和田「植民地から建国へ」,P56-P58 アラン「興亡のアメリカ史」,P82