日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.8 アメリカ合衆国誕生 / 2.8.1 ヨーロッパ人の植民

2.8 アメリカ合衆国誕生

17世紀初頭、イギリスは北米大陸大西洋岸に植民を開始した。先行したスペインやフランスが、ひたすら富を求めた植民であったのに対して、イギリスは貧民対策も兼ねて植民者を送り込んだ。カリブ海では砂糖、北米大陸南部ではタバコなどの商品作物を先住民やアフリカの黒人奴隷を使って栽培した。累計で1100万人を超えると言われている黒人奴隷をアメリカ大陸に運んだのは、三角貿易と呼ばれるもので、ヨーロッパ人はその貿易でも大儲けした。一方、北部植民地では造船業や海運など商工業に注力した。いずれの地域でも先住民とはときに同盟をしたり共存した場合もあったが、多くは奴隷にしたり殺して土地を奪ったりした。その結果、先住民は絶滅に近いところまで追いやられた。

18世紀になると植民地アメリカの人口は増加し、経済も発展していった。フランスとの間で起きたフレンチ・インディアン戦争にイギリスは勝利をおさめたが、多額の債務を抱え込むことになった。債務返済のため、イギリスは植民地への課税を強化したが、植民地人はこれに反発して独立戦争がはじまった。最初はイギリス軍優位だったが、フランスをはじめヨーロッパ各国が植民地側を支援するようになると、形勢は逆転し植民地側が勝利して独立を勝ち取った。人民主権、三権分立、連邦制による近代国家はフランス革命にも大きな影響を与えたが、それは白人市民による白人市民のための「自由の帝国」であった。

図表2.30 アメリカ合衆国独立

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2.8.1 ヨーロッパ人の植民

(1) 最初の移住者たち註281-1

アメリカ大陸に初めて移住してきたのは、ヨーロッパ人ではなくアジア人だった。今から約1万5千年前から1万2千年前にかけて、氷期のために水位の下がったベーリング海峡を小船に乗るか徒歩でアメリカ大陸に渡ってきた。彼らの子孫は南へ東へと広がっていき、約9千年前までに南アメリカ南端に達したとみられている。

約3千年前、メソアメリカ(中部・南部メキシコ及び中央アメリカ)の先住民は北アメリカの三大作物、トウモロコシ、カボチャ、マメ類の農耕に先駆的に取り組んだ。農耕はゆっくりと北に広がっていったが、北は農耕に不適な場所もあり、狩猟・採集・漁労も行われる場合が多かった。彼らは中南米にはアステカ帝国、インカ帝国といった優れた文明を持つ国家を作ったが、北米ではそうした国家はなく、地域単位でいくつかの部族を束ねる首長がいる集団にすぎなかった。

その頃、南北アメリカ大陸全体にはおよそ5千万から1億の人々がいて、そのうち約500万から1000万がメキシコよりも北に暮らしていた。ヨーロッパ人の入植により、先住民は疫病、植民者による暴力、戦争などにより、人口は大幅に減少した。1800年頃、現在のカナダと米国にあたる地域では、500万人のヨーロッパ系アメリカ人に対して、アフリカ系が100万人、先住民はたったの60万人にまで減少していた。

(2) ヨーロッパ人の植民開始

現在のアメリカ、カナダにあたる地域にヨーロッパ人が入植しはじめたのは、16世紀半ばから17世紀初頭にかけてで、最も早かったスペインはフロリダとニューメキシコ※1、続いてフランスはセントローレンス湾※2、オランダは現在のニューヨーク周辺、そしてイギリスはヴァージニア※3に植民地を設けた。イギリスは他の3国を圧倒する多数の植民者を送り込み、最大の植民地を保有するようになる。オランダの植民地はまもなくイギリスに吸収され、フランスとスペインの植民地もイギリスに削り取られていった。

※1 ニューメキシコ 現在のメキシコの北、西はアリゾナ州、東はテキサス州にまたがる地域。

※2 セントローレンス湾 現在のカナダの首都モントリオールの東、大西洋岸。

※3 ヴァージニア 現在のワシントンDCの南、大西洋岸。

(3) スペイン人の植民註281-2

アメリカ大陸に最初に到達したスペイン人は、まずペルーやメキシコで金や銀をみつけて莫大な利益を得た。彼らは地道に農作物を作るより、手っ取り早く多くの利益が得られる金や銀などを求めて、16世紀半ばから後半にかけてフロリダ、ミシシッピ川、リオグランデ川※4上流などアメリカ南部を探し回ったが、見つけることはできなかった。

その頃、フランスやイギリスがアメリカ東海岸に進出し始めたため、スペインはメキシコなどの既得権を守るためにフロリダとニューメキシコに軍事的な緩衝地帯として植民地を建設し、そこに、たくさんの教会をつくって布教活動を行った。先住民をキリスト教徒化し、スペイン臣民として防衛の任にあたらせるためだったが、大反乱※5(プエブロ蜂起)が起きるなどして十分な成果をあげることはできなかった。

※4 リオグランデ川 現在のアメリカ・メキシコ国境を流れる川。源流はコロラド州。

※5 プエブロ蜂起 リオグランデ川源流地方にいたプエブロ諸族が1680年に起こした大反乱。

(4) フランス人の植民註281-3

フランス人は16世紀半ばからアメリカ大陸に進出し最初はフロリダに入植したが、スペイン人に追い払われてしまったので、ターゲットを北方のセントローレンス湾岸に変えた。冬が長くて寒冷な地であったが、魚が豊富だっただけでなく、ヨーロッパ上流階層からの需要が大きく金や銀に劣らない価値のある毛皮を入手できた。インディアン狩猟者から入手したビーバー、キツネ、ラッコなどの毛皮を、ビーズ、ビン、手斧、ナイフなどのヨ―ロッパ製品と交換した。

1608年にケベックを設立、モントリオールを越えて五大湖、さらにはミシシッピ川流域まで進出したが、植民者の人口は1663年までに約3千人にしか増えなかった。フランス王権は移住者に財政支援をして移民を促進したので、1700年には15千人にまで増加したが、イギリス領アメリカの25万人には遠く及ばなかった。フランスの農民は馴染みのない遠隔地で危険にさらされるよりも国内で艱難を耐え忍ぶ方を選んだのだ。

イギリス人植民者を大西洋岸に封じ込めるため、ミシシッピ川沿いの先住民との同盟拡大を狙ってフランスは、17世紀末に新しい植民地を設けた。そこは国王ルイ14世を称えてルイジアナと名付けられた。フランス人は毛皮や奴隷との引き換えでインディアンに銃や馬を渡し、それまでスペイン人が独占してきたインディアンとの交易を横取りした。スペイン人は布教と軍駐屯地の組み合わせで先住民族を拘束したが、フランスは交易にもとづく同盟システムで打ち負かした。

(5) イギリス人の植民註281-4

アメリカ大陸で先行したスペインとフランスは、フロリダ以北ノヴァスコシア※6以南には手をつけなかった。この温帯地域は商品となる熱帯性の作物には涼しすぎ、最高級の毛皮には温暖すぎたからである。出遅れたイギリスはそこに進出することになった。

※6 ノヴァスコシア 現在のカナダ東部、大西洋に突き出た半島。

図表2.31 植民地時代のアメリカ大西洋岸

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(6) ヴァージニア(チェサピーク)への植民註281-5

イギリスは1584年から北アメリカ中部大西洋岸に探検・植民をはじめたが、先住民との不和などにより食料の調達・生産に失敗し、定住するまでには至らなかった。その地域は生涯独身を通したエリザベス女王にちなんで「ヴァージニア」と名付けられ、1606年イギリスの商人たちはヴァージニア会社を作って、本格的な植民を開始した。

1607年4月、チェサピーク湾※7のジェームズタウンと名付けられた場所に104人の移民が入植した。植民者の多くは自ら食する作物を生産することを拒否し、先住民たちから獲得しようとしたため、先住民との争いや飢餓、疫病で生命を落とす者が続出した。1607年から22年までにヴァージニア会社は1万人もの植民者を送り込んだが、1622年までに生き残ったのはそのうちの20%にすぎなかった。

しかし、先住民が栽培していたタバコに目をつけ、これをヨーロッパ向けの商品作物として栽培するようになると、ようやく生活は安定してきた。1616年にはわずか350人だった人口も1650年には13千人に急増した。1632年にはチェサピーク湾の最北部に第2の植民地「メリーランド」を設けた。

移民の4分の3は大西洋を渡る渡航費を負担できない若い貧民たちであり、彼らは年季奉公人※8として一定期間タバコ・プランター(農場主)などのもとで無給で働いた。17世紀半ば過ぎになるとイギリスの経済成長が実質賃金を押し上げ、年季奉公人の移住は減っていった。代わりの労働力として導入されたのが、黒人奴隷である。1650年には300人だった黒人奴隷は1700年までに13千人に達し、チェサピークの人口の13%になった。

※7 チェサピーク湾 現在のワシントンDCの東南部にある湾。ジェームズタウンはその湾口から西に入った所にある。

※8 年季奉公人 高額な渡航費を支弁してもらう代わりに4~7年間の労働に従事した人たちで、一種の「債務奴隷」である。貧民や若者、孤児などのほかに犯罪者もいた。年季が明けると、土地、農具、衣服などが支給され、小規模農民として独立することができたが、年季を終える前に疫病などで死亡する者も少なくなかった。(アラン「興亡のアメリカ史」,P82などより

(7) ピューリタンの植民註281-6

一般にアメリカへの移民を象徴する存在と思われているピューリタン(清教徒)の植民が行われたのは、上述のヴァージニア植民の13年後、1620年のことだった。ピューリタンはプロテスタント(カルヴァン派)の教義に忠実で、勤勉で道徳的な生活と敬虔な祈りを徹底的に追求し、イギリス国教会からの独立をめざしたので国教会から迫害された。

彼らのうちの102人が1620年メイフラワー号に乗ってイングランドを出航、マサチューセッツ湾南岸にプリマスという町を建設した。この地方はニューイングランドと呼ばれていた。1630年からはピューリタンを中心にした大移住が行われ、1640年までに約14千人が移住した。彼らは、総督や議会の議員を選出して独立した共和国のような組織体をつくり、カトリックや国教会信徒などを排除して、厳格な宗教原理に基づく「神権政治」を行った。

17世紀にほかの植民地に渡った移住者のほとんどが、若くて貧しい独身男性だったのに対して、彼らは技能をもち成功していた人々で家族で移住する人が多かった。ヴァージニアでは女性1人に対して男性4人だったが、ニューイングランドでは女性4人に対して男性6人だった。

ニューイングランドは冷涼な気候ゆえに、タバコや砂糖キビなどの栽培はできなかったので、小麦、トウモロコシ、ジャガイモ、マメ類などを生産し、牛馬羊豚などの家畜も育てた。また、鱈などの魚が豊富で商人たちは魚や余剰農産物を西インド諸島に輸出した。さらに、安価で良質な森林資源を生かして造船業とそれに連動した製材所、帆やロープ、樽などの製造業も発達した。ここに奴隷はほとんどいなかった。

(8) イギリスの植民地統治形態註281-7

スペインやフランスの植民地は初めから国王直轄地として、本国から派遣された総督などが統治したのに対して、イギリスの植民地は次のような統治形態が併存した。多くの植民地は個人や団体によって建設され、しだいに王直轄へと切り替えられていった。国王・本国政府は植民地建設のための費用をほとんど負担しなかったかわりに王領植民地といえども植民地の税負担は軽く、かなりの自治が認められていた。

下表にアメリカ独立時の13州の統治形態の推移を示す。

図表2.32 イギリスの植民地統治形態

イギリスの植民地統治形態

※ 数字は事実上の設置年

出典)和田光弘「植民地から建国へ」,P36 の表をもとに作成


2.8.1項の主要参考文献

2.8.1項の註釈

註281-1 最初の移住者たち

アラン「興亡のアメリカ史」,P13-P28 和田「植民地から建国へ」,P2-P9

註281-2 スペイン人の植民

アラン「興亡のアメリカ史」,P31-P47

註281-3 フランス人の植民

アラン「興亡のアメリカ史」,P49-P70

註281-4 イギリス人の植民

アラン「興亡のアメリカ史」,P71

北アメリカにおいてイギリス人が最初に植民地を宣言したのは、1583年のニュ-ファンドランド島だが、イギリス人が定住することはなかった。ヴァージニアは1584年から探検を開始し、1587年には100名以上の植民団がロアノーク島(チェサピークの南、現在はノース・カロライナ州)に入植したが、1590年にそこを訪問したイギリス人は入植者が全員消えていることを発見した。入植者は先住民により全員虐殺されたのか、どこかの先住民と融合して暮らしたのか、真相はいまもわかっていない。(和田「植民地から帝国へ」,P22-P27<要約>)

註281-5 ヴァージニアへの植民

アラン「興亡のアメリカ史」,P71-P87 和田「植民地から建国へ」,P27-P33

{ 健康なときも、初期植民者の多くは、自ら食する作物を栽培する労働に精を出すことを拒否した。金の探索やインディアンに無理やりトウモロコシを提供させるほうを望んだからである。植民発起人にしてからが、先住民はイングランド人を気前よく、うやうやしく歓迎するだろうと主張していたのだった。 … 現地の先住民には【食料を】提供できる余剰分がわずかしかないことを、植民者は理解していなかったのだ。}(アラン「同上」,P77)

{ 【先住民たちは】プランテーションを破壊し、男性・女性・子供347人を殺害した。… ヴァージニア人は … トウモロコシの収穫直前まで待って攻撃し、先住民の集落と作物を破壊して、生き残った者が冬そして春と飢えるのに任せた。…12年後、【先住民は】さらに凄惨な奇襲を行い、400人以上の植民者を殺害した。しかし植民者たちはその後、河川ぞいのイングランド人に捕らえられて、ジェイムズタウンの街頭で銃殺された。}(アラン「同上」,P79)

註281-6 ピューリタンの植民

アラン「興亡のアメリカ史」,P93-P101 和田「植民地から建国へ」,P44-P46

{ … 地方自治を特色とする一方で、17世紀末の【マサチューセッツの】セイラムの魔女狩りにみられるような宗教的不寛容さも併せ持ち、いわゆる「神権政治」を現出した。セイラムで生じた魔女狩りでは、… 200名以上が告発され、うち1割が刑死した。}(和田「同上」,P45-P46)

註281-7 イギリスの植民地統治形態

和田「植民地から建国へ」,P33-P37

{ 他の帝国と比べるとイングランドの君主は彼の植民地の人々に対し、権力をほとんど行使しなかった。17世紀前半当時の王権は資力にこと欠いていて、国王の特許状による許可を受けた民間の関係者たちに植民地の建設を委託していたからである。それらの特許状は、領主たちに植民地領域の地主としての権原(タイトル)のみならず、植民者を統治する権利をも授けた。}(アラン「同上」,P131)