日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第2章 / 2.7 近世ロシア / 2.7.2 ロシア帝国
図表2.26(再掲) 近世ロシア
1676年に父アレクセイが死去、跡を継いだ異母兄フョードルも1682年に死去し、異母兄イヴァン5世との共同皇帝として10才で即位したが、実権はイヴァンと同母姉のソフィアが握った。ソフィアは1687年と1689年に行われたクリミア遠征に失敗したことから失脚した。1694年母が死去すると22才になったピョートルは統治をはじめ、1696年兄イヴァンが死去して単独の親政を開始した。
翌1697年春、300人からなる大使節団をヨーロッパへ派遣し、自らも偽名で参加した。目的は反オスマン同盟結成の可能性をさぐることであったが、実質的には西欧の先進的な技術を吸収することであった。視察は16カ月に及んだが、オランダとイギリスではそれぞれ4カ月に渡って造船所、博物館、劇場、病院などを見学した。帰国に際して、海事関係者をはじめ現地で雇い入れた900人もの専門家を連れ帰った。モスクワに帰還すると、ピョートルは出迎えた貴族らのあごひげをそり落とし、西欧風の服の着用を強制、暦もユリウス暦に変更した。こうしてロシアとその軍隊の西欧化・近代化に着手した。
後述の大北方戦争を行いつつ、ピョートルはロシアを西欧諸国に対抗しうる強力な絶対主義国家に改造すべく次のような改革を進めた。
こうした改革により、軍事力、経済力が強化されヨーロッパの大国としての地位を獲得したが、一方で急激な改革は農民や市民だけでなく、貴族や聖職者たちにもその負担が押しつけられ、反乱や蜂起、農民の逃亡などがたえなかった。
ピョートルは1696年にドン川河口のアゾフ要塞を奪還して黒海への出入口を確保したが、黒海をわが海にするためにはオスマン・トルコを攻略する必要があった。しかし、ヨーロッパ視察の結果、オスマン攻略は困難と判断し、バルト海を狙う戦略に変更した。ロシアのバルト海出口にあたる地域(現在のエストニア、サンクトペテルブルク方面)を抑えていたのは、当時北欧の覇者といわれたスウェーデンであった。
ピョートルは、ポーランド、デンマークと同盟し、オスマン帝国とも講和した上で、1700年スウェーデンと交戦状態に入った。1709年のスウェーデンとの会戦でスウェーデン軍は敗れてスウェーデン王はトルコに逃れた。その後、王を受け入れたオスマンの宣戦布告を受けて窮地に陥ることもあったが、1714年の海戦でスウェーデン艦隊を破ってバルト海の制海権を奪った。1721年イギリスの仲介でニスタット条約が締結され、ロシアはバルト海東岸地方を獲得し、バルト海への出口を確保した。また、1703年からバルト海貿易の拠点としてサンクトペテルブルクを建設し、1712年に完成すると首都をここに移した。
北方戦争により、スウェーデンやポーランドは弱体化し、北ヨーロッパの覇権はロシアに移った。
図表2.28 ロシアの領土拡大(1462-1796年)
出典)栗生沢「ロシアの歴史」,P77 などを参考に作成。
ピョートルは1722年、後継者は現皇帝が指名できる、という法を発令するが、本人は後継者を指名することなく亡くなった。この指名制度により、皇帝の側近や有力貴族らが後継者選定に影響力を行使できることになった。ピョートルの次の皇帝はその妻エカチェリーナ1世(在位1725-27)であったが、彼女は新興貴族が近衛部隊を動かして即位させたものだった。これ以降、エカチェリーナ2世(在位1762-96)までの7人の皇帝のうち4人が女帝で、3人が男性だがいずれも在位期間は短かく3人合計しても4年にしかならなかった。
この期間に貴族の軍や国家への奉仕義務はしだいに軽減され、1762年には「貴族の解放令」が出されて国家勤務の義務から解放され、勤務をするかどうかを貴族自身が選択できるようになった。
国政に関する貴族の発言権も回復した。例えば貴族たちは、アンナ帝(在位1730-40)の即位にあたって、再婚しないこと、国政は貴族で構成する最高枢密院に委ねること、などを誓約させた。アンナは即位後、この誓約を破棄したが、それができたのは別の貴族グループの支援があってのことだった。
ピョートル3世(在位1761-62)の父はドイツ貴族、母はピョートル大帝の娘アンナで、ドイツ人の血が入っている。また、エカチェリーナ2世(在位1762-96)はピョートルの妃だがドイツ貴族の家に生まれた生粋のドイツ人である。ピョートルは叔母のエリザヴェータ帝(在位1741-61)に指名されて即位した。
ピョートル3世が即位した1761年は、ちょうど七年戦争の真っ最中で、ロシアはオーストリア側についてプロイセンと戦っていた。プロイセンはベルリンを占拠されるなど敗色濃厚だったが、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝するピョートルは突如ロシア軍にプロイセンからの撤退を命じた。ロシアが犠牲を払って得た領地を獲得することはできず、ピョートルは宮廷や軍の評判を著しく落とした。1762年6月、王妃エカチェリーナを担ぐ部隊がクーデターを起こしてピョートルは退位させられ、まもなく殺害された。
こうしてロシアにおける最後の女帝エカチェリーナ2世が誕生した。
エカチェリーナは1744年にドイツからロシアにやってきて1745年に16才でピョートル3世と結婚した。夫がプロイセン好みを隠さなかったのに対して、エカチェリーナはロシアに来るなりロシア正教に改宗してロシア語を学び、ロシアの慣習に溶け込むことにつとめた。二人の仲はよくなかった。1762年のクーデターに彼女がどの程度かかわったかは不明である。
彼女は早くからヴォルテールやモンテスキューなどの思想家の著作に親しんでおり、そうした啓蒙思想を利用しながら改革を進めようとした。彼女はまず新しい法典を編纂するための委員会を召集し、自ら長文の「訓令」を与えた。それは、君主権の絶対性を主張する一方、市民の自由、法の前での平等などの法治主義を掲げたものであった。委員会は結果をまとめることができないまま、1768年に始まったオスマンとの戦争のために中断したまま再開されることはなかった。
農奴制は西欧諸国では中世末から近代にかけて消滅したり廃止されたが、ロシアでは17世紀に法的に完成し、18世紀には強化された。
アンナ帝(在位1730-40)の時代、農奴は土地所有権や法的契約関係を結ぶ権利を否定されていたが、エリザヴェータ帝(在位1741-61)の時代になると農奴は領主の私有財産として扱われるにいたった。エカチェリーナ2世は寵臣らに広大な国有地を賜与し、約100万人といわれる農民を農奴に変えた。領主に農奴を無期限に懲役に送る権利を与えたり、農奴が領主を告訴する権利が否認され、文字通りの奴隷になっていった。
エカチェリーナは「訓令」のなかで、農奴制の緩和を図ろうとしたが、委員会では貴族たちの強い反対にあった。モスクワ県では1751年から73年のあいだに216件の蜂起が起こり、農民による領主殺害事件が112件を数えた。このような状勢のなかで、1773~75年カザーク(=コサック)のプガチョフが指揮した大規模な反乱が起きた。
ロシア南部ドン川流域のカザークだったプガチョフは、ピョートル3世を僭称してヤイク(現在のウクライナ)の人々に自由の回復を約束した。プガチョフの呼びかけに共鳴したカザーク、農民などが反乱軍に参加し、南ロシア一帯を占拠した。政府軍は最初反乱軍の鎮圧に手間取ったが、1774年8月に反乱軍を破り、プガチョフは仲間の裏切りで捕えられて1795年1月処刑された。
反乱鎮圧後、反乱の原因を地方行政の弱さとみたエカチェリーナは、県の数を増やして行政区分を細分化し、皇帝が任命する知事や副知事を派遣した。また、地方行政・司法における貴族の役割が拡大され、皇帝と貴族が一体となって統治する体制が整えられた。
ポーランドは17世紀初頭にはモスクワを占領するほどの実力を持つ大国であったが、17世紀半ばにスウェーデンの侵攻をうけて国力は衰え、ロシアの勢力下に入るようになっていた。1764年、エカチェリーナは元愛人のスタニスワフ・ポニャトフスキーをポーランド王位につけた。一方、プロイセンはポーランドがロシアに奪われるのを警戒してオーストリアとともに、ロシアにポーランドの分割を提唱した。エカチェリーナはプロイセン・オーストリアと協議して1772年ポーランドを分割した。その後1793年、95年にも分割が行われ、ポーランドはヨーロッパの政治地図から消えた。これらの分割により、ロシアはベラルーシ、ウクライナなどを獲得した。
1768年にウクライナで起きた反乱をきっかけにして始まったロシアとオスマン・トルコの第一次露土戦争(1768-74年)および、クリミア半島の領有をめぐって争われた第二次露土戦争(1787-91年)にロシアは勝利し、黒海北岸、クリミア半島、ドニエプル川の西方などを獲得した。ロシアは黒海艦隊を創設して黒海をロシアの海に変えた。
ロシアはまだ農業主体の社会であったが、ウラルにはたくさんの工場が設立され、製鉄を中心とする一大鉱工業地帯に成長しつつあった。南部では農業生産も立ち上がり始めた。かくして、ロシアの人口は新たに獲得した領土の分も含めると1646年からの150年間で5倍以上に増加した。しかし、国民の大半を占める農民の多くは農奴化され、貴族たちの所有物として徹底的に搾取された。
図表2.29 17-18世紀のロシアの人口
エカチェリーナは、病院を建設したり、信仰の自由を認めたり、教育、文芸、出版などを奨励したりした。しかし、1789年にフランス革命が起こり、93年にルイ16世が処刑されると、革命思想に対する敵視が強まり、農奴制を批判した作家は流刑になり、風刺雑誌の発行者は投獄された。
「ロシア史」,P158-P161 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P58-P61
「ロシア史」,P164-P177 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P63-P67
{ 1703年から始められた首都サンクト・ペテルブルクの建設の際には、毎年数万人の農奴が各地から強制的に集められたが、彼らは路銀はおろか海抜ゼロメートルの湿地帯での作業に対しても十分な食糧も与えられず、飢えと寒さ、激しい気温の変化、また疫病から次々と倒れていった。その数を10万人と見積もる学者もいる。新首都はまさに「人骨の上に建てられた都市」であった。}(栗生沢「同上」,P67)
栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P61-P62 「ロシア史」,P161-P164 Wikipedia「ピョートル1世」
栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P68-P72 「ロシア史」,P177-P182
栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P72-P73 Wikipedia「ピョートル3世」
「ロシア史」,P185-P188 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P72-P74
エカチェリーナ2世への評価は、「ロシア史」ではやや否定的なのに対して、「図説」では好意的である。
栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P71-P72
「ロシア史」,P189-P194 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P74-P75
「ロシア史」,P194-P197 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P75-P76
「ロシア史」,P196-P197 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P75
「ロシア史」,P193・P197-P200 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P76-P78