日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.7 近世ロシア / 2.7.1 ロマノフ朝成立

2.7 近世ロシア

13世紀には小さな町にすぎなかったモスクワは、15世紀までに周辺諸国を制覇し、モンゴルの支配も断ち切って北東ロシアのほぼ全域を統一した。16世紀になると中央集権体制を整えて、ヨーロッパの文化を吸収しつつポーランドなどの領土を侵略し、東はシベリアに至る広大な領域を確保して、列強の一角を占めるようになる。

図表2.26 近世ロシア

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2.7.1 ロマノフ朝成立

1480年にいわゆる「タタールのくびき」が終わり、モンゴルの支配から解放されると、モスクワ大公国は大公を頂点とする専制的な態勢が強くなっていく。また、この頃からヨーロッパとの交流が進み、ルネサンス文化が流入してきた。

(1) イヴァン4世(雷帝)

1533年にイヴァン4世(在位1533-84)がモスクワ大公に即位、その厳格な統治から「雷帝」と呼ばれるようになった。

行政・軍政改革と法典整備註271-1

雷帝は「選抜会議」と呼ばれる強力な政府を組織し、次のような改革を行った。

カザン併合とリヴォニア戦争註271-2

雷帝は東西に向けて領土拡大のための戦争をしかけた。東はイスラム国家、カザン・カン国※1及びアストラハン・カン国※2を征服し、ヴォルガ川の中流からカスピ海に至る下流域まで支配下においた。(1552-1556年)

西はバルト海に面するリヴォニア(現在のエストニア、ラトヴィア)に侵入(1558年)し、そこを抑えていたドイツ系のリヴォニア騎士団と戦ってあと一歩のところまでいったが、ポーランド、スウェーデン、デンマークが介入してきた。激しい戦闘が1583年まで続き、ロシアは何も得ることなく講和を結ぶことを余儀なくされた。

※1 カザン・カン国 モスクワの東方500kmほどヴォルガ川中流ニアルカザン市を首都とするトルコ人の国。

※2 アストラハン・カン国 カザン・カン国の南、ヴォルガ川下流のカスピ海北岸にあった国。

オプリーチニナ註271-3

オプリーチニナとは「別個に設けられた財産」という意味であるが、イヴァン4世は公的な国土とは別に皇帝の私的な領地をオプリーチニナとして設定し、その地において貴族・聖職者などを弾圧した。

リヴォニア戦争の実質的な敗北をイヴァン4世は貴族らの責任と主張し、自分はモスクワから退去してしまう。モスクワ市民は皇帝の復帰を懇請、皇帝は自由に悪人を処罰しやりたいように支配することを条件にモスクワに復帰した。復帰したイヴァン4世はオプリーチニナを設定し、皇帝の意志を忠実に実行する親衛隊を使って皇帝を批判する貴族らを根絶しようとした。しかし所詮貴族層を根絶することなど不可能であり、1572年にオプリーチニナは解散したが、残したものは国政の混乱、国土の疲弊だけであった。

(2) 動乱の時代註271-4

動乱の時代のはじまり

1584年、イヴァン4世が死去すると、息子フョードルがその後を継ぐが、その統治能力は低く、国政をしきったのはフョードルの后の兄ボリスであった。1598年にフョードルが世を去ると、ボリスは貴族たちを巧みに誘導して自らが皇帝に即位した。彼は有能な人物だったが、その血統は皇帝としての正統性に難があった。そこをついたのが、イヴァン4世の子ドミトリーを詐称する「偽のドミトリー」である。

「偽のドミトリー」の登場

イヴァン4世の子ドミトリーは、1591年に不慮の死を遂げていたが、偽のドミトリーは危地を乗り越えて生きのび、ポーランドに潜んでいたと名乗り出た。ポーランドの一部の貴族はこれを利用してロシアへの影響力を強めようと、1604年「偽のドミトリー」をかついでロシアに侵入し、ちょうどボリスが死去したので、その後釜の皇帝にちゃっかり居座った。しかし、1年ももたずに1605年、モスクワの貴族や市民によるクーデターで殺害された。

ポーランド軍のモスクワ占拠

「偽のドミトリー」を排除したものの、その後も僭称者が続出するなど不安定な状態が続いた。1610年、好機到来とばかりにポーランド軍がモスクワに入城してクレムリンを占拠した。これに対抗して国民義勇軍が組織され、1612年10月にモスクワの解放に成功した。

(3) ロマノフ朝成立註271-5

モスクワ解放後、ただちに国民義勇軍の指導者らによって全国会議が開催され、1613年2月イヴァン4世につながるロマノフ家のミハイルがツァーリ(皇帝)に選出され即位した。まだ16歳のミハイルが選ばれた理由は、彼の父親がポーランドに囚われていて同情をかったこと、名門貴族にとって若いツァーリは操りやすかったこと、である。ミハイルはおとなしく、敬虔な人柄であった。これからロシア革命(1917年)で君主制が断絶するまで、およそ300年間、ロマノフ朝が継続することになる。

図表2.27 初期ロマノフ朝家系図

初期ロマノフ朝家系図

再建体制と後始末註271-6

ミハイル体制で再建の中心になったのは、全国会議である。この会議はイヴァン4世期に成立した身分制議会でフランスの三部会に似た機関であるが、皇帝を牽制するというより、補完し翼賛する性格が強かった。最初に取り組まなければならなかったのは、動乱に乗じてロシアに居座っていたスウェーデンとポーランドの処置だった。この時点でロマノフ朝にはこれらの侵略勢力を追い払う力はなく、スウェーデンとは1617年、ポーランドとは1618年に休戦条約を結んだが、ポーランドとの間はその後も緊張が続く。

(4) 農奴制の確立註271-7

1648年、塩税の引き上げに怒ったモスクワ市民がクレムリンに押しかけ、増税の首謀者は罷免された。これがきっかけになって、全国会議が召集され新しい法典が決定された。

全国会議に出席していた士族たち――ロシア軍の主力を構成していた――は、領地から逃亡した農民の捜索期限5年の撤廃などを求め、都市の商工業者は外国人などを排除する独占権を要求した。新しい法典にはこれらの要求が取り入れられた。とりわけ、逃亡農民の捜索期限の撤廃は、農民を領地に拘束する農奴制を完成させるものであった。

(5) ウクライナ獲得註271-8

当時、ウクライナはポーランドの支配下にあったが、1648年ウクライナのカザーク(コサック)※3が反乱を起こした。当初はカザークが優勢だったが、しだいにポーランド軍に押されるようになり、モスクワのツァーリに支援を求めてきた。ツァーリはウクライナに対する主権をカザークに認めさせたうえで、1654年ポーランドとの開戦に踏み切り、13年間に及ぶ戦争の結果、1667年キエフを含むウクライナのドニエプル川左岸とスモレンスク※4を手に入れた。これ以降、東ヨーロッパの覇権はポーランドからロシアに移った。

※3 カザーク(露語) = コサック(英語) 南ロシア、ウクライナなどで活躍した軍事的自治組織。逃亡農民や都市貧民で構成されていた。

※4 スモレンスク モスクワの西南西、ドニエプル川の流域でベラルーシとの国境に近い地域。1605-18年のポーランドとの戦争でポーランドに占領されていた。

(6) シベリア開拓註271-9

ロシアは軍事力を背景にシベリアに領土を拡大させた。イヴァン雷帝の時代にウラル山脈を越えてシベリア・カン国を攻撃していたが、その後の東進は急で1619年にはエニセイ川を越え、1639年にはオホーツク沿岸に到達した。1648年にはのちにベーリング海峡と名づけられる地点を北極海側から南へ通過している。同じころアムール川(黒竜江)流域にも進出、清朝と摩擦を引き起こし、1689年のネルチンスク条約締結にいたる。この条約ではアムール川、ハバロフスクなどの南部は清朝領土とされたが、1858年のアイグン条約及び1860年の北京条約でアムール川左岸、ウラジオストクなどがロシア領となった。


2.7.1項の主要参考文献

2.7.1項の註釈

註271-1 行政・軍政改革と法典整備

「ロシア史」,P107-P110 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P43-P44

註271-2 カザン併合とリヴォニア戦争

「ロシア史」,P110-P112 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P44-P45

註271-3 オプリーチニナ

「ロシア史」,P112-P116 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P45-P47

{ オプリーチニナは、ツァーリのせっかちで非歴史的な思考が生んだ非現実的政策であった。それはツァーリ権力の恐ろしさを国民に叩き込んだかもしれない。… しかしそれは皇帝と臣民との間の溝を大きく広げ、皇帝権の真の強化には寄与しなかった。何より国家をいちじるしく弱体化させてしまった。}(栗生沢「同上」,P47)

註271-4 動乱の時代

「ロシア史」,P131-P141 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P47-P49

註271-5 ロマノフ朝成立

「ロシア史」,P141-P142 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P49

註271-6 再建体制と後始末

「ロシア史」,P142-P143 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P50 Wikipedia「ロシア・ポーランド戦争」

註271-7 農奴制の確立

「ロシア史」,P143-P146 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P52-P54

{ 農民は人口の圧倒的部分を占めていた。… 領主地に住む農民は、国税のほかに領主に地代そのほかの義務をおっていた。農民の税負担はいつの時代にも軽くはなかったが、とりわけモスクワ国家の形成・拡大期には重くなり、… 16世紀後半には甚だしいものとなった。農民はこれに対して逃亡という手段で応じ( … 彼らは条件のよい修道院や貴族らの大所領や世襲地に逃げ込むか、国境地帯さらには国外に逃れカザークとなった)、国家は士族、軍人層の保護のため、農民の異動を禁止することを考え始めた。}(「ロシア史」,P121-P122)

農奴とは、 封建社会の生産労働の基本的要素で、一生、領主に隷属し、領主から貸与された土地を耕作・収益し、領主への賦役・貢租の義務を負う農民。逃亡・転住・転業は厳禁され、身分的には強い束縛を受けていた。(広辞苑)

註271-8 ウクライナの獲得

「ロシア史」,P146-P148 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P51-P52

この時期、ロシアとポーランドの戦争は3回行われている。

註271-9 シベリア開拓

栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P55