日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第2章 / 2.6 近世フランス / 2.6.3 国家財政の窮迫
図表2.23(再掲) 近世フランス
図表2.24は、17-18世紀のフランス国家財政の年間歳出額をあらわしたものである。17世紀初頭1600-08年の平和な時代を1とすると、ルイ14世が親政を始めたころには5.6倍に増加し、戦争を行うたびにどんどん増加、フランス革命前夜1788年には36倍にも膨れ上がった。1788年の歳出のうち49.3%が債務返済で軍事費は26.3%である。
図表2.24 フランスの財政支出推移
出典)成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P317-P318 をもとに作表
図表2.25は、1680年のフランス国家財政の収入と支出を示したものである。1680年はルイ14世がしかけたオランダ戦争が終わり、ヴェルサイユ宮殿の建設をしている時期にあたるが、支出の52%を軍事費が占め、続いて宮廷費が30%も占めている。収入は税収入が2/3を占めているものの、残りは翌年の税の先取りや借入であり、これらの債務償還費用が年を追うごとに増加していく。
図表2.25 1680年の収入と支出
出典)成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P312-P317 をもとに作表。
収支=収入ー支出 にならないが、理由は不明。
国家が借金をする方法には次のようなものがあった。
・金融業者などからの借金; 国内外の金融業者や徴税請負人などから借り入れた。
・公債など; 市庁舎などを担保にした公債で、毎年一定の利息が支払われた。18世紀になると富くじとか新手の方法もあらわれた。
・税の前渡し; 農民や市民からの税を徴収するのは、領主や国王から委託された徴税請負人だったが、彼らは税を一括払いした上で農民や市民から徴税した。これを翌年分以降についても徴税請負人から前借りしてその利子を支払った。なお、徴税請負人が徴収すべき額より多額の税を徴収することは当然のことのように行われていた。
17世紀の初頭、フランスの人口はおよそ1400万、そのうち都市の人口は100万に満たなかった。18世紀末には総人口約2500万人、そのうち2200-2300万人が農村人口だった。農民の中には富裕な者もいれば、貧農もいたが平均的な農民が治める税は次のようなものだった。
農民は翌年の種まきのために収穫量の20%ほどを確保する必要があったので、実質的な収入は収穫量の80%になる。上記税負担は合計で40~45%になるが、実質収穫量80%に対して実質課税率は50~56%にもなる。気候不順、戦争、不況などのたびに農民の生活は困窮をきわめ、各地で農民一揆が頻発したのは無理からぬことであった。
{ きわめておおざっぱにいえば、当時のフランス社会は、各種の地代、年金、直接税(地租)を払う者と、これらを受け取る者との、二つのグループに分かれていたのである。後者は大臣を筆頭に、王の宮廷に属する人びと、貴族、僧侶、常備軍と官僚、そしてブルジョワであり、前者は国民の圧倒的大多数を占める農民、および都市の勤労者=小市民であった。}(成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P329)
ルイ14世は、ネーデルラントの獲得とスペインの統合という野望を実現できないまま、多額の負債を残して1715年に息を引き取った。
5歳で曾孫のルイ15世(在位1715-74)が即位すると、オルレアン公フィリップが摂政となり、財政再建に取り組むが十分な成果をあげることはできなかった。オルレアン公の死(1723年)後、ルイ15世の親政がはじまるが、彼は無気力で政治にあまり関心を持たなかった。
オーストリア継承戦争(1740-48年)が始まるとフランスは反オーストリア側で参戦したが、得たものは何もなかった。続いて七年戦争(1756-63年)では、ロシアとともにオーストリア側でプロイセン、イギリスと戦ったが、勝利を間近にしてロシアが離脱したことにより講和せざるをえなくなった。この戦争は、ヨーロッパ大陸だけでなく英仏の北米、カリブ海、インドなどの植民地における戦争(フレンチ・インディアン戦争など)でもあり、フランスはこれらの戦争でイギリスに完敗し、カナダ、ルイジアナ、カリブ海の一部の島など北米の植民地をほとんど失った。また、インドの拠点も失い撤退することになった。なお、オーストリア継承戦争ならびに七年戦争については2.4.4項も参照願いたい。
七年戦争後もフランスは学問・芸術ではヨーロッパで中心的地位を保っていたが、経済的・軍事的地位は大きく低下した。財政難を回復することはできず、それがフランス革命の原因の一つになっていくのである。
啓蒙(英語:Enlightenment、仏語:Lumières)とは、民衆の蒙昧さを理性によって啓(ひら)くという意味である。超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すもので、本質的な性格は懐疑と否定の批判的精神に求められる。
啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方である。方法論としては17世紀以来の自然科学的方法を重視した。理性による認識がそのまま科学的研究と結びつくと考えられ、宗教と科学の分離を促した一方、啓蒙主義に基づく自然科学や社会科学の研究は認識論に著しく接近している。
17世紀後半にイギリスで起こり、18世紀に全盛期を迎え、ハプスブルク家のマリア・テレジア(在位1740-80)、プロイセンのフリードリヒ大王(在位1740-86)、ロシアのエカチェリーナ(在位1762-96)などが採用し、フランス革命にも大きな影響を与えた。
主な思想家とその思想の超概要(又は著書)を以下に示す。
啓蒙思想というのは様々な側面をもっている。
{ フリードリヒ2世やヨーゼフ2世の政治は、一般に「啓蒙絶対主義」と呼ばれている。そこに時代の啓蒙思想の影響が見られることは事実である。しかし、 … そこには啓蒙思想と相いれない古き権力政治や古い重商主義的な要素もたくさんある。}(坂井「ドイツ史10講」(Ps1685-)
{ 【啓蒙とは】 ただの思想や主義よりも、むしろ日本語の「文明開化」の原義に近い。大航海と人文主義と科学革命によって拡大した世界のすべてを理解したいという野心であり、先端的な総合科学であり、旧態を批判する政策学だった。}(近藤「イギリス史10講」,P164-P165)
(参考文献: 柴田「フランス史10講」,P105-P107、Wikipedia「啓蒙思想」)
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P312-P323
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P323-P329
柴田「フランス史10講」,P96-P100