日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.6 近世フランス / 2.6.1 ユグノー戦争

2.6 近世フランス

フランスとハプスブルク家が西欧キリスト教圏の覇権を目指して戦ったイタリア戦争は、双方の財政破綻により終わり、各国のパワーバランスを維持する国際社会が形成された。宗教改革の影響もあってハプスブルク家が弱体化していくのに対して、フランスは絶対王政にシフトして重商主義や軍事力強化によって強国化していった。その頂点がルイ14世による絶対王政の時代だった。彼は栄華を極めたヴェルサイユ宮殿で貴族たちを服従させ、オランダやスペインの領有を目指して戦争をしかけたが、多額の借金を残しただけで、やがて植民地などの経済基盤はイギリスに奪われていった。
この節では、主としてユグノー戦争とルイ14世の治世についてとりあげる。イタリア戦争、30年戦争、七年戦争などについては、2.4節などを参照願いたい。

図表2.23 近世フランス

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2.6.1 ユグノー戦争

ユグノー戦争(1562-98年)は、フランスのプロテスタント(カルヴァン派)とカトリック貴族の間で起きた宗教戦争である。

(1) ユグノーとギーズ家註261-1

ユグノーとは、カルヴァン派のプロテスタントである。カルヴァンは祖国フランスへの布教活動を熱心に行い、迫害にもめげずフランス各地で商工業者を中心に広まっていった。1550年代になると王権の強化に反発する貴族にも賛同者が増えていった。
もともとフランスはカトリックの国であり、なかでも王の外戚にあたるギーズ公フランソワは強硬なカトリック主義者であった。対してユグノーの名門貴族にはナヴァール※1王アントワーヌなどがおり、カトリック対プロテスタント貴族の対立が激しさを増していった。

※1 ナヴァール フランス西南部、スペイン国境にある地方名。現在はバスク地方と呼ばれている。

(2) ヴァシーの虐殺と内戦勃発註261-2

1562年3月、シャンパーニュ地方のヴァシーで日曜礼拝に集まっていたプロテスタントをたまたま通りかかったギーズ公が女子供を含む60人を虐殺するという事件が起き、これをきっかけに内戦が始まった。
翌63年2月にギーズ公フランソワがオルレアン攻囲戦で戦死すると、いったん戦闘は停止するが、1567年にユグノーはドイツの支援も得て再び内戦が始まった。

(3) サン・バルテルミの虐殺註261-3

1572年8月、国王シャルル9世の妹とナヴァール王の婚礼のためにパリに集まっていたユグノーたちをギーズ公アンリらが一網打尽に殺害してしまった。犠牲者は1万人をこえるといわれている。この事件以後、ギーズ公アンリは「カトリック同盟」を結成して組織を固め、プロテスタント派もパリを脱出したナヴァール王を新指導者として結束した。

(4) カトリック同盟註261-4

シャルル9世は1574年に早世し、その弟のアンリ3世(在位1574-89)が即位し、ユグノー宥和策をとった。一方、カトリック同盟はスペインやイエズス会の協力を得て勢力を拡大していった。1588年5月、ギーズ公アンリはパリ市民と結んでアンリ3世を追い出してパリを支配するが、アンリ3世は同年末ギーズ公アンリを暗殺した。しかし、翌年1589年にはアンリ3世もイエズス会士と思われる刺客に襲われて殺害されてしまう。

アンリ3世の後を継いだのはブルボン家のナヴァール王アンリだった。カトリック側はスペイン軍を送り込んできたが、イギリスやドイツはナヴァール王を支援しカトリック同盟は内部分裂を起こした。ナヴァール王は1593年7月、カトリックに改宗し首都パリをはじめカトリック市民の支持を得て、ブルボン朝初代の王アンリ4世として即位した。

(5) ナントの勅令註261-5

アンリ4世は1595年にスペインに宣戦布告して優勢に戦闘を進めるなかで、スペインに頼っていたフランスのカトリック諸侯は、次々とアンリ4世に帰順していった。1598年5月にスペインとのあいだに講和条約が結ばれて戦争は終わった。その直前、1598年4月にアンリ4世は「ナントの勅令」を発し、ユグノーに場所の制限付きではあるが、信仰の自由を認めた。これをもってユグノー戦争も終結した。

{ 意表をついだ行動で内乱を収拾したアンリ4世は、その行動力、洞察力、人柄の点で歴代の王のなかではいまでもフランス国民に最も人気がある。しかし、フランスの再建という難事業に着手した矢先の1610年5月14日、ひとりの狂信的カトリックの手でパリの路上で暗殺された。}(柴田「フランス史10講」,P81-P82)

(6) フロンドの乱(1648-53年)註261-6

アンリ4世の死後、息子ルイ13世(在位1610-43)が9歳で即位した。これを補佐したのが「国家第一主義」の宰相リシュリーで、ハプスブルク家に対抗するため30年戦争(1618-48)に参戦した。ルイ13世が1643年に亡くなったあと、わずか4歳でルイ14世(在位1643-1715)が即位した。リシュリーは1642年に死去し、そのあとを継いで宰相となったのはマザランだった。この頃、30年戦争のために財政が大きく悪化し、金融業者からの借り入れのほか増税や官吏の俸給削減を行ったことから、反乱が起きた。「フロンド」とは当時流行していた玩具の「投石器」のことで、この内乱を揶揄したものであろう。

1648年、反乱を起こしたのは高等法院の裁判官たちだったが、ブルボン家と姻戚関係にあるコンデ公の軍に包囲されて翌年春には鎮圧された。しかし、コンデ公とマザランが対立してコンデ公が逮捕されると、コンデ公派の貴族がブルゴーニュなどで反乱を起こすが、内部分裂しマザランに鎮圧された。


2.6.1項の主要参考文献

2.6.1項の註釈

註261-1 ユグノーとギーズ家

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P164-P166 柴田「フランス史10講」,P79

註261-2 ヴァシーの虐殺と内戦勃発

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P166-P169 柴田「フランス史10講」,P80

註261-3 サン・バルテルミの虐殺

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P169-P170 柴田「フランス史10講」,P80

註261-4 カトリック同盟

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P171-P175 柴田「フランス史10講」,P81

註261-5 ナントの勅令

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P175-P176 柴田「フランス史10講」,P81

註261-6 フロンドの乱

柴田「フランス史10講」,P82-P83 成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P228-P231

{ 1648年8月、マザランが高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、民衆と法服貴族が蜂起。反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされている … ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。}(Wikipedia「フロンドの乱」)