日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.5 近世イギリス / 2.5.3 名誉革命から植民地帝国へ

2.5.3 名誉革命から植民地帝国へ

図表2.19(再掲) 近世イギリス

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(1) 王位継承問題註253-1

チャールズ2世は婚外子を17人も産ませたが、王妃との間に嫡子はなかった。次の王は弟ジェームズが有力だったが、彼は熱心なカトリック教徒であった。これに対してプロテスタントを支持する人たちはチャールズの婚外子であるモンマス公を王位継承者として推していた。前者を支持する議員はトーリー※1、後者はホイッグ※2と呼ばれ、議会を構成する政党名になる。カトリックに近いチャールズ2世はジェームズを支持し、ホイッグを弾圧した。

1685年2月、チャールズ2世が死去しジェームズ2世が即位すると、モンマス公がプロテスタント盟主として蜂起したが、すぐに鎮圧された。ジェームズ2世は判事も大臣も州長官も更迭し、カトリックを国民に強制するという反動政治を行ったため、トーリーもホイッグも結束してこれに立ち向かうにいたった。

※1 トーリー(Tory) もとは「アイルランドの強盗」から来ている。貴族・聖職者などを支持基盤とする政党。現在の保守党の前身。

※2 ホイッグ(Whig) もとはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ている。都市の商工業者や中産階級を基盤にした政党。のちの自由党の前身。

図表2.21 ステュアート朝家系図

ステュアート朝家系図

(2) 名誉革命註253-2

1688年6月、ジェームズ2世に王子(ジェームズ老僭王)が生まれた。暴政の永久化を恐れたトーリー、ホイッグ両派は、ジェームズの娘メアリーとその夫でオランダ総督オラニエ公ウィレム(のちのウィリアム3世)を担いでクーデターを企てた。親フランスだったジェームズ排除後、大国フランスに対抗するためにオランダと組む戦略に転換する必要もあった。

1688年11月、オラニエ公ウィレムは招聘にこたえ、オランダ軍を率いてイングランドに上陸した。ウィレムの軍がロンドンに向けて進軍するうちに、失意のジェームズ2世はフランスに亡命した。

1689年2月の議会でウィリアム3世(在位1689-1702)となったウィレムとメアリ2世(在位1689-94)は、「権利の宣言」を受諾し合同君主として即位した。この「権利の宣言」は「議会の協賛あってこその王権、王の裁可あってこその議会主権」という原則が定められたもので同年12月の議会で「権利の章典」註253-3として成立し、修正を加えながら今日まで継承されている。
1689年5月には「寛容法」が成立し、プロテスタントの非国教徒については信仰の自由を認めた。

(3) ジェームズ2世の反抗註253-4

いったんフランスに亡命したジェームズ2世は、ルイ14世の支援を受けてアイルランドに上陸したが、1690年ウィリアム3世軍はこれを討伐し、ジェームズ2世は再びフランスに逃げ帰った。アイルランドはカトリックが多数派が占め、ジェームズ2世とその子孫の復位を求めるジャコバイトと呼ばれる支持者がくすぶり続けることになった。

スコットランドでもジェイムズ2世を支持する貴族が反乱を起こした。エディンバラ※3の議会はウィリアム3世とメアリ2世を国王に迎えることを選択したが、ジャコバイト勢力も生きのびることになる。

ホウィッグ史観では、1688-89年の革命を"Glorious Revolutio"――輝かしい革命、日本語では名誉革命と訳される――と呼び、専制の危機を無血クーデタで排除して議会王制を実現したことを賞賛する。しかし、「無血革命」はイングランド内だけのことだけで、スコットランドやアイルランドでは血が流された。

※3 エディンバラ スコットランドの首都。

(4) 革命後の議会政治

ピューリタン革命の前と名誉革命の後で、王の専制政治を支える一部の組織が廃止されたが、王と2院制の議会という基本的な構造は変わっていない。変わったのは王の権限が大幅に縮小され、それらの権限が議会に移ったことである。王は「君臨すれども統治せず」になり、議会が主権を握る体制になった。

議会政治註253-5

1689年以来、議会は毎年開かれるようになり、国制、税制、外交、予算、決算といった大きな問題ばかりでなく、ローカルな請願により、産業育成、道路、運河、都市空間の整備などについても審議した。
しかし、議員の構成はアンバランスで国民の声を平等に吸い上げているとは言い難かった。1793年の時点において、イングランドとウェールズから選ばれる庶民院の議員数は513人、うち421人は都市部代表でそれを選ぶ選挙人は8万4千人、対して農村部代表の議員は92人で選挙人は13万人だった。18世紀のイギリス社会ではジェントリーが政治的主導権を握っており、選挙人は財産資格によって制限されていた。選挙にあたって買収はあたりまえのように行われていた。

財政軍事国家註253-6

17世紀後半の対ルイ14世戦争から19世紀前半のナポレオン戦争まで、イギリスとフランスの間で王位継承、海外領土、通商などをめぐる戦争が続いた。イギリスはそれまで常備軍を持たなかったが、1698年から議会の承認があれば平時でも常備軍を維持できるようになった。

その費用を賄うために議会は、地租や窓税※4といった直接税や、印紙や麦芽などに課す消費税を創設し、国債の発行も行った。その結果、18世紀初頭のイギリスは関税、直接税、消費税、国債に支えられる近代的な財政軍事国家となった。

イギリスでは、大陸諸国にあった貴族の免税特権や一部貴族からの税の供出などはなく、所定の基準で上記のような税が全国民に課せられていた。イギリス市民社会の納税者たちは、政府を自らのコントロール下に置いていたから、この政府に財産を注ぎ込むことに抵抗はなかった。

※4 窓税 建物にある窓は贅沢品とみなされて、窓の数によって納税額が決められた。

(5) ジャコバイト※5問題とハノーヴァー朝註253-7

1701年にジェームズ2世が亡命先のフランスで死ぬと、ルイ14世はその長子ジェームズ(老僭王)を「ジェームズ3世」として即位を認めた。同じ1701年にスペイン継承戦争(~1713)がはじまり、英仏は戦争状態に突入した。この戦争にフランスが負けたため、「ジェームズ3世」はフランスから追放され、スコットランドで反乱を起こすが、あっけなく鎮圧された。しかし、スチュアート家の祖地スコットランドでは、ジェームズ3世の正統性を主張するジャコバイト派はその後もくすぶり続ける。

このような状勢のなか、イギリス議会はウィリアム3世の死(1702年)の前年「王位継承法」により、次のアン女王(在位1702-14)の後継はプロテスタントでジェームズ1世の孫、ハノーヴァー選帝侯妃ソフィーないし直系卑属と定めていた。

アン女王が亡くなるとソフィアの長子ゲオルグ・ルートヴィヒがジョージ1世(在位1714-27)として即位し、ハノーヴァー朝がはじまった。英語も話せないこの王のもとで、議会の多数派に立脚する責任内閣制が成立し、イギリスの立憲政治は安定したものになった。

※5 ジャコバイト 名誉革命で亡命した国王ジェームズ2世とその子孫を、正統のイギリス君主として支持した人々。名誉革命直後からアイルランド、スコットランド高地地方、北ウェールズなどに勢力を張り、… 大規模な反乱を起こした。(コトバンク〔日本百科全書〕)

(5) 植民地帝国へ註253-8

イギリスは17世紀半ばから18世紀までに北米及びインドの植民地で、ライバルのフランスやオランダとの戦争に勝利し、これらの植民地での覇権を獲得した。これらの戦争のほとんどは、ヨーロッパでの戦争と連動して行なわれた。
植民地は産業革命により生産された製品の原材料供給地であると同時に製品の供給先となり、19世紀の大英帝国の発展を支えた。

北アメリカ

第2次英蘭戦争(1665-67年)は、ネーデルラント継承戦争(1667-68年)と並行して行われ、イギリスは戦争には負けたが、ルイ14世のネーデルランド侵入に対応するため、オランダからニューネーデルランド(現在のニューヨーク州)を獲得した。
フランスとの間で戦われたウィリアム王戦争(1689-97年)、アン女王戦争(1702-13年)、ジョージ王戦争(1740-48年)はいずれも引き分けに終わったが、七年戦争と並行して戦われたフレンチ・インディアン戦争(1755-63年)では、ミシシッピ川以東とカナダを獲得し、フランスは北米大陸の植民地を失った。

インド

インド南部カーナティックにおいて英仏間で行われたカーナティック戦争は1744年から3次にわたって行われたが、フランスは敗北して1763年の七年戦争終結によるパリ条約で事実上インドから撤退することになった。


コラム 欧州広域経済システムの成立

図表2.22は、1450-1750年におけるヨーロッパ各地の小麦価格の変動をあらわしたグラフである。

図表2.22 近世ヨーロッパの小麦価格

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15世紀の各地の穀価はバラバラで、最高値(約40g)と最低値(5-6g)の差は6-8倍もあった。16世紀にインフレが進み、全体が高騰したが、最高値と最低値の幅は変わらない。17世紀に最高値が少し下がって最低値との幅が小さくなり、1750年になるとその差は約2倍にまで圧縮される。交通と商業の発達によって価格が平準化し、ヨーロッパ全域が一つの市場圏として機能しはじめたのである。

地域的に見ると、中世末に高い位置にあった地中海域の各地が17世紀から低迷する。対照的にイギリスやベルギーが高い位置に移動する。ヨーロッパ商業の中心が地中海から北西欧に移動したのである。ワルシャワなどバルト海沿岸地方は常に最低価格帯にあるが、16世紀半ばから上昇し18世紀までに穀価を底上げし、全体の幅を小さくした。この地域の地主たちは、穀物を北西欧向けに生産し、北西欧の毛織物、工芸品、図書などを購入した。北西欧を中心とする広域経済システムに統合され、ウォーラーステインのいう「近代世界システム」が形成されたのである。

(参考文献: 近藤「イギリス史10講」,P151-P153)


2.5.3項の主要参考文献

2.5.3項の註釈

註253-1 王位継承問題

近藤「同上」,P138-P140 成瀬「同上」,P277-P279

註253-2 名誉革命

近藤「同上」,P140-P143 成瀬「同上」,P366-P368

註253-3 権利章典

「人民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」として定められたもので主なものを列記する。(成瀬「同上」,P368-P369及びWikipedia「権利の章典」より要約)

註253-4 アイルランドとスコットランド

近藤「同上」,P142-P145

アイルランドの戦闘は、プファルツ継承戦争(大同盟戦争ともいう)(1688-97)の一環として戦われた。
この戦争は、欧州制覇を目指すルイ14世がプファルツ選帝侯領などに侵入することで勃発し、ドイツ諸侯、オランダ、オーストリアなどの同盟に名誉革命後のイギリスも加盟してフランスと争った。ルイ14世はフランス軍をジェームス2世とともにアイルランドに送り込み、ウィリアム3世の軍勢と戦った。1692年にはイングランドの艦隊とフランスの艦隊の間で海戦が行われ、イングランドが勝利している。(以上、Wikipedia「大同盟戦争」より)

註253-5 議会政治

成瀬「同上」,P369-P370 近藤「同上」,P158-P159

註253-6 財政軍事国家

近藤「同上」,P157-P158

註253-7 ジャコバイト問題とハノーヴァー朝

近藤「同上」,P155-P157 成瀬「同上」,P369

註253-8 植民地帝国へ

君塚直隆「近代ヨーロッパ国際政治史」,P162-P163 Wikipedia「ウィリアム王戦争」、「アン女王戦争」、「ジョージ王戦争」、「フレンチ・インディアン戦争」、「カーナティック戦争」など。