日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.5 近世イギリス / 2.5.2 ピューリタン革命

2.5.2 ピューリタン革命

図表2.19(再掲) 近世イギリス

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(1) 権利の請願註252-1

ジェームズ1世のあとを継いだ息子チャールズ1世(在位1625-49)は、即位直後にフランス王ルイ13世の妹と結婚した。当時の国教会では、カルヴァン派の予定説・長老主義とアルミニウス派※1の恩寵普遍説・自由意思論が対立していたが、チャールズはアルミニウス派を支持したので、ピューリタン(カルヴァン派)の反発をかった。エリザベスや父ジェームズには多様性を受け入れる度量があったが、チャールズは狭量でアルミニウス主義に固執した。

1628年に戦費徴収のために召集された議会は歳出を認めるかわりに「権利の請願」註252-2を提出した。王はいったんそれを認めておきながら、議会の承認なしに税の徴収をはじめたので、1629年の庶民院は大荒れとなり、王は一方的に議会を解散すると、その後11年間にわたって議会を全く召集せず、専制的な統治を行った。

チャールズはピューリタンに弾圧を加え、イングランドでは大量のピューリタンが北アメリカの新天地に移住した。また、イングランドの国教会制を押し付けられたスコットランドでは反乱が起きた。

※1 アルミニウス派 反カルヴァン主義のプロテスタントの一派。カルヴァン派のように神の救いは人間の意志とは無関係に決定されているという予定説や指導的立場にある長老による教会運営ではなく、神の恩恵の普遍性と人間の意志の自由を主張する。(コトバンク「アルミニウス派」などより)

(2) 短期議会と長期議会註252-3

チャールズは1640年4月、戦費調達のため11年ぶりに議会を召集した。しかし、11年の間にたまった不満が爆発し、戦費の調達に応じるどころか、その失政を激しくなじったので、わずか3週間で解散させられた。これを短期議会と呼ぶ。

1640年11月、改めて議会が召集されたが、圧倒的多数の議員が王政の改善を求めて戦い、国王大権を制限するための組織改訂や一部税制の廃止などが決定された。形としては60年まで続くこの議会を「長期議会」といい、ピューリタン革命の主舞台となる。

1641年11月、王の失政を激しく攻撃する「大抗議書」が議会に提出された。そこでは、王のたび重なる悪政とこの1年間で議会が成し遂げた改革の成果、さらに今後の達成目標を204カ条にわたって列挙していた。これを見た議会の穏健派は王権擁護に転じ、「大抗議書」は159対148というわずかの差で庶民院を通過した。このことは議会が国教会体制を支持する王党派と、ピューリタンの議会派にまっぷたつに分裂したことを意味する。

(3) ピューリタン革命開始註252-4

1642年1月、チャールズはピューリタンの急進派議員5名を反逆罪に問い、みずから手勢を率いて議会に乗り込んだが、5名はロンドン市内にかくまわれていた。ロンドンは議会派の拠点となり、チャールズは王宮を脱出してはるか北のヨーク市にたてこもった。1642年6月、議会は行政・軍事・教会の支配権を要求し、7月議会軍の組織化を決議、王も8月に挙兵し議会に宣戦した。王党派がおもに北部・西部の保守的な貴族やジェントリーその配下の農民を基盤としたのに対し、議会派はロンドンを中心に商工業の発達した東・南部のジェントリー・進歩的貴族・自営農民・ブルジョアなどのピューリタンからなっていた。

最初の2年あまりは、王党派が優勢だった。1645年4月、ピューリタンの急進分子である「独立派」のクロムウェルらは、穏健な「長老派」を軍から退けて軍隊を再編、同年6月に王党派に決定的勝利をおさめて王を追いつめた。チャールズは翌46年5月にスコットランド軍に投降した。

(4) チャールズ1世処刑註252-5

議会派は長老派、独立派に加えて小農民や小市民を基盤とする「平等派(又は水平派)」と呼ばれる3勢力に分裂していたが、王制を廃止しようとは考えていなかった。チャールズはイングランド内に軟禁されていたが、1647年の末に脱け出し、スコットランドと結んで1648年3月に再び挙兵した。しかし、クロムウェルらの軍隊に蹴散らされて再び捕虜となった。

クロムウェルら独立派は1648年12月にクーデターを起こして、王の処刑を拒む長老派を議会から追放し、独立派だけで国王の裁判を行って死刑を宣告した。チャールズは1649年1月30日、断頭台の露と消えた。

(5) クロムウェルの共和国註252-6

独立派だけで構成された議会は、1649年5月にイングランドを「国民という最高権威によって統治される共和国にして自由な国家」と宣言した。クロムウェルと軍はイングランドの「平等派」を逮捕し、王領地、王党派の土地を売却した。1649年8月からアイルランドに出征し、王党派貴族を殲滅して王国と国教会を消滅させた。翌50年8月にはスコットランドも征服した。

1653年、成文憲法「統治章典」が制定され、クロムウェルが護国卿に就任、イングランド、スコットランド、アイルランドは統合されて単一の共和国になった。このクロムウェル政権の最大の課題は財政難であった。これまでイギリスの王が何とかやってこれたのは常備軍を持たなかったことが大きい。しかし、クロムウェル政権を支えるのは、大規模な常備軍だった。

クロムウェルは最初議会制をしいたが、のちに軍事独裁体制に移行し、ピューリタン的な禁欲主義が徹底された。王党派が不穏な動きを示す中で、1658年9月クロムウェルは病死した。

(6) 共和制崩壊註252-7

クロムウェルの死後、後継者に指名されていた息子のリチャード・クロムウェルが2代目護国卿に就任したが、凡庸な2代目は軍隊と議会の間にある溝を解消する力を持たず、翌1659年5月に軍により解任された。その軍も統率者を欠きバラバラの状態になった。

そうした混乱の中で、スコットランド駐屯軍司令官マンクはロンドンに入城して長期議会を再招集した。議会は1660年3月に自由な総選挙を行うことを決議して解散した。それと呼応するように、オランダに亡命中のチャールズ1世の息子チャールズ2世は「ブレタ宣言」を発して、議会の決定の受け入れ、刑事免責、財産権の保障、信教の自由を約束した。

(7) 王制復古註252-8

1660年4月末、議会はブレダの宣言を受諾し王の復位を求める決議を行った。1660年5月29日チャールズ2世は、沿道を埋めた市民が熱狂的に迎える中、ロンドンに凱旋した。ここに、王制だけでなく貴族院も国教会も3王国も復古/再興することになったが、それは絶対王政の復活ではなく、議会が主権を握った体制であった。

王は復位とともに議会を解散し、1661年5月新たな議会を招集した。「騎士議会」と呼ばれるこの議会の議員の多くは、地主貴族やジェントリー、商人やブルジョアなどであった。

革命中に没収された王領地は一部が王に返却されたが、かわりに地主たちは国王に支払うべきあらゆる封建的賦課金の廃止を確認させた。ピューリタン革命中に導入された土地所有者に査定される「地租」、及びビール・酒・茶・コーヒーなどの飲料にかかる消費税を認めた。こうした近代的租税制度により、国王と臣民のあいだに残る封建的関係はすべて廃止されることになった。

(8) チャールズ2世註252-9

チャールズ2世は、父1世と正反対の社交的で「楽しい君主」であり、父の処刑に直接関係した者以外の罪を問うことはなかった。

彼は従兄弟にあたるフランスのルイ14世から、援助金のほか愛人の女性も提供されたが、その代わりに1672年にフランスがオランダに侵攻した仏蘭戦争ではフランスを支援した。また、1662年に結婚した相手のポルトガル王女カタリナは、多額の持参金だけでなく、北アフリカのタンジール港、インドのボンベイ港のほかブラジルとインドへの自由貿易権をもたらし、イギリスの経済発展に多大な貢献をもたらした。


2.5.2項の主要参考文献

2.5.2項の註釈

註252-1 チャールズ1世の専制

近藤「同上」,P120-P124 成瀬「同上」,P256-P259

註252-2 権利の請願

以下、成瀬「同上」,P257より引用

註252-3 短期議会と長期議会

成瀬「同上」,P260-P262 近藤「同上」,P124-P125

註252-4 ピューリタン革命開始

成瀬「同上」,P262-P266 近藤「同上」,P126-P128

註252-5 チャールズ1世処刑

成瀬「同上」,P266-P267 近藤「同上」,P128-P130

註252-6 クロムウェルの共和国

成瀬「同上」,P267-P272 近藤「同上」,P132

註252-7 共和制崩壊

近藤「同上」,P132-P133 成瀬「同上」,P273-P274

註252-8 王政復古

近藤「同上」,P135-P136 成瀬「同上」,P275-P277

註252-9 チャールズ2世

近藤「同上」,P136-P138