日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.5 近世イギリス / 2.5.1 王権と議会

2.5 近世イギリス

16世紀初頭のイギリスの人口は425万人、大国フランスの1500万人、それとほぼ同規模と見られるハプスブルク帝国、イタリア半島の1000万人、スペイン650万人註251-1などと比べて、小さな島国であった。経済の中心はまだ北イタリアなど地中海沿岸にあり、イギリスの輸出品といえば羊毛と毛織物くらいしかなかった。しかし、イギリスは16世紀からの300年間に急速に発展する。産業を担うジェントリーと呼ばれる新興貴族が参加する議会を主体にした政治を確立、アメリカ大陸、インド、アジアなどへ進出し、産業革命によって生産性の飛躍的向上を実現することにより、世界経済のヘゲモニー(覇権)を握った。

図表2.19 近世イギリス

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2.5.1 王権と議会

(1) 中央集権化

農業を基盤とした封建制において、王と領主貴族の関係はゆるやかな主従関係であり、徴税などの行政権を行使できるのはその領地の領主だけだった。しかし、戦争に金がかかるようになり、商工業が発達してくると、安全保障や経済発展のためには、一定の財政規模が必要になってきた。こうして王を中心とした中央集権体制が形成されていくことになる。

バラ戦争の影響

バラ戦争(1455-87年)は、イングランド王の家系であるランカスター家とヨーク家の王位争いに諸侯が加わって行われた内戦である(詳細は1.6節(6)参照)。バラ戦争によって{ 軍事的・政治的勢力としての封建貴族が大幅に無力化され、逆に、財力ある商人やジェントリー地主が、一貫して国王の集権化政策に支持を与えた…}(成瀬「近代ヨーロパへの道」,P250)

イギリス国教会とジェントリーの台頭

すでに述べた(2.3.2項(1)参照)ように、イギリス国教会はヘンリー8世(在位1509-47)が王妃キャサリンを離婚して宮女アンとの再婚を望んだことによって誕生した。国教会の成立(1534年)は、イギリス内の教会がローマ教皇の支配から独立するだけでなく、イギリス王についてもイギリスが独自に決められること、つまり主権国家を宣言することも意味した。

ヘンリー8世の側近クロムウェルは、1536年から修道院の領地を次々に没収して王領とし、これを新興中産階級であるジェントリーや成り上がり貴族などに払い下げた。購入した貴族や地主は王による改革の強い支持層となり、イギリスは中世貴族とは異なる新興ジェントリーや貴族による社会となった。
せっかく修道院の没収や払い下げで膨大な収入を得ながら、ヘンリー8世は豪奢な王宮をいくつも持ち、これらの財産を使い果たした。註251-2

(2) プロテスタント化とカトリックの反動註251-3

ヘンリー8世のあとを継いだのは9歳で即位したエドワード6世(在位1547-53)である。プロテスタントである叔父のエドワード・シーモアを中心とする摂政会議は、ミサや聖職者独身制の廃止、聖像の除去などを進めた。

1553年にエドワード6世が早世すると、ヘンリ8世の娘メアリ・テューダ(在位1553-58)が王位についた。メアリは厳格なカトリック教徒で、ミサを復活させ、聖職者の結婚を禁止してプロテスタントを弾圧した。そして、1554年にはスペイン王子フェリペ(のちのフェリペ2世)と結婚したが、イギリス国内のプロテスタントはスペインに征服されるとの恐怖を抱いて各地で反乱を起こした。メアリは反乱を血の海で鎮圧し、プロテスタントの聖職者や貴族を次々と処刑した。メアリは1558年に死んだが、その5年間はイギリス人に「血まみれメアリ」として記憶された。

(3) エリザベス1世

メアリ・テューダのあとを継いだのは、ヘンリー8世がローマ教皇の反対を押し切って結婚したアンとの間に生まれた嫡子エリザベス(在位1558-1603)だった。彼女は父ヘンリー8世と同様、周囲に人を得た君主である。
エリザベスは、カトリックとピューリタン※1の「中道」としてイングランド国教会を再建し、国教会体制に反抗するカトリックやピューリタンを厳しく処罰した。註251-4

※1 ピューリタン(清教徒) 厳格なカルヴァン主義者、純粋主義のゆえ初めは蔑称としてPuritanと呼ばれた。

オランダ独立戦争の支援註251-5

たび重なる戦争の戦費を調達するため、裕福だったオランダへの課税を強化したハプスブルク家のスペイン国王フェリペ2世に反発したオランダは、1568年に独立戦争を起こした。当初、エリザベスはこの戦争に関わるつもりがなかったが、イングランドの輸出品の9割を占める毛織物と羊毛を買い上げてくれるアントワープが閉鎖されると、関わらざるをえなくなった。

しかし、まだこの当時弱小国にすぎなかったイングランドは正面からスペインと戦うのではなく、海賊を使ったゲリラ活動によってスペインをかく乱させる策に出た。オランダのウィレム公が組織した海上ゲリラ部隊「海乞食」と協力するとともにフランシス・ドレークらに私掠(敵国商船への攻撃・拿捕)の権利を与えて、スペイン植民地を荒らし回ったり、スペイン商船を襲って積み荷を掠奪させたりした。さらに、エリザベスは自身がフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワと結婚してフランスを味方にすることも、交渉させたがこれはうまくいかなかった。

一方、スペインのフェリペ2世はスコットランドのカトリック教徒やメアリ・スチュアートを支援し、エリザベスの排除を画策した。

スコットランド女王メアリ註251-6

メアリ・スチュアートは1542年、スコットランド王ジェームズ5世とフランスのカトリック強硬派ギーズ公の娘との間に生まれたが、生後すぐに父が急死しスコットランド女王に即位した。スコットランドの内乱によりフランス宮廷で育てられ、1558年にフランソワ2世と結婚したが、1560年に夫は死去し、翌年スコットランドに帰国した。

1561年ダーンリというカトリック貴族と再婚してプロテスタントの弾圧にのりだすと、プロテスタントの反乱が起こった。1568年、ダーンリとの間に生まれた1才のジェームズ(のちのイングランド王ジェームズ1世)に王位をゆずり、エリザベスを頼ってイングランドに逃れた。

エリザベスはメアリを軟禁状態にしたが、その間メアリはイングランド王位継承権を主張したり、エリザベス廃位の陰謀に加わったりしており、それをスペインは支援していた。だが、1586年に大がかりなエリザベス暗殺計画が発覚し、それにメアリが関与していたことがわかると、エリザベスは処刑を決断せざるをえなかった。メアリは1587年2月処刑された。

アルマダの海戦

この処刑への報復としてスペインは無敵艦隊(アルマダ)をイギリスに差し向けた。国家存亡の危機にエリザベスは将兵の前に白馬に乗ってあらわれ演劇的演説註251-7を行って士気を鼓舞した。このパフォーマンスや神風の影響もあって、イギリス軍は無敵艦隊をしりぞけた。(アルマダの海戦の詳細は2.4.2項(6)を参照)

産業の振興と新世界への進出

エリザベスは産業の振興や新世界への進出にも力を入れた。当時の基幹産業だった毛織物の輸出保護、外国人の通商特権の圧迫、自国船舶による穀物やワインの輸入を義務づけた航海条令の制定(1562年)、などのほか、東インド会社などの貿易法人を設置してアジアやアメリカとの交易を推進した。

{ エリザベスは、決して豊かとはいえない王室財政にもかかわらず、巧妙に官職や種々の恩典、経済上の独占権といったものをばらまいて、名誉と富を求める有力諸階層の利己心を満足させ、王への忠誠を確保することに成功した。}(成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P251)

(4) ブリテン諸島連合註251-8

1603年、江戸幕府が成立したその年にエリザベス1世が嗣子なく死去すると、血縁の最も近かったスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世(在位1603-25)として即位した。これにより、イングランド、スコットランド、アイルランドの3国が一人の君主で統治される連合国家が成立した。ただし、これは同君連合であって、それぞれの国に議会や総督府などの行政機構があった。

なお、アイルランドは中世にブリテン島から入植した領主たちがイングランドに抗していたが、ヘンリー8世の時代から征服をすすめ、エリザベスとジェームズ1世の時代に支配権を確立した。アイルランドの問題は宗派(=カトリック)もからんで20世紀まで続く。

図表2.20 テューダ朝からステュアート朝へ

テューダ朝からステュアート朝へ

(5) 王権と議会註251-9

イギリス議会の源流は、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)制定時に、王が軍用金などを徴収するときは貴族・僧侶の評議会の承認を得なければならない、と定められたことにある。はじめは、大貴族と高級聖職者による会議だったが、14世紀に貴族・聖職者から構成される上院(貴族院)と騎士・市民代表で構成される下院(庶民院)の2院制になった。百年戦争で王の財政がひっ迫しているときに、牧羊業を営む地主化した騎士や羊毛取引を行っていた商人たちが、王の課税に対して発言権を握ったことから、下院の力が強くなっていった。

エリザベスは44年余の治世の間に議会は10回しか招集せず、商業独占権を売り渡すなどして議会を通さずに金集めを行った。ジェームズ1世も22年の治世で4回しか議会を招集せず、王と議会の対立は深まっていった。


2.5.1項の主要参考文献

2.5.1項の註釈

註251-1 ヨーロッパの人口

各地域の人口は、Wikipedia「歴史上の推定地域人口」による。イギリスの人口は、イングランド、ウェールズ、スコットランドの合計である。ハプスブルク帝国は、ドイツ(9百万)、オーストリア(2百万)、チェコ・スロバキア(3百万)を合わせたものとした。

註251-2 ジェントリーの台頭とヘンリー8世

近藤「イギリス史10講」,P87-P89

{ ヘンリー8世は、… 遊び好きで、狩猟、ダンス、音楽、女性を愛し、陽気で虚栄心のさかんな「ルネサンス君主」である。… 直情径行だが周囲に人材をえて、有能な聖職者や行政官が彼を支えた。}(近藤「同上」,P81) 彼は生涯に6人の妃をもった。最初はアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベルの王女キャサリンで、のちに「血まみれメアリー」と呼ばれるメアリー1世をさずかった。次のアン・ブーリンを娶るときにローマ教皇と対立してカトリックを離れ、イギリス国教会を設立した。アンはエリザベス1世の母となったが、ヘンリーの気持ちはアンの侍女ジェーンに移った。ジェーンは待望の男子、エドワードを6世を産んだが、これもまたヘンリーに離婚された。その後さらに3人の女性を妃に迎えたが、子を残すことはなかった。

註251-3 プロテスタント化とカトリックの反動

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P148-P152 近藤「イギリス史10講」,P90-P93

註251-4 エリザベス1世

近藤「同上」,P94-P95

註251-5 オランダ独立戦争の支援

君塚直隆「近代ヨーロッパ国際政治史」,P53-P55 成瀬「同上」,P188-P189

{ 1577年から80年にかけて、フランシス・ドレークは5隻の船で世界周航に乗り出し、あちこちでスペイン植民地を荒らしまわったほか、銀を満載するスペイン商船を襲ったりして、30万ポンドをこえる莫大な分捕り品を持ち帰った。…そのころのイギリスでは、… 関税や王領地からあがる国庫収入は、女王の晩年でも30万ポンドだったというから、掠奪の「あがり」の貴重さがよくわかる。}(成瀬「同上」、P189-P190)

註251-6 スコットランド女王メアリ

近藤「同上」,P97-P98 成瀬「同上」,P187・P190 Wikipedia「メアリー(スコットランド女王)」

君塚氏は、{ (メアリは)女王自身が逡巡している間に、枢密顧問会議の許可によって処刑された。}(君塚「同上」,P59) と、エリザベスが判断する前に処刑された、と述べているが、近藤氏、成瀬氏、ならびにWikipediaは、いずれも「エリザベスは苦渋の決断をした」としている。

註251-7 エリザベスの演劇的演説

{ 将兵の前に白馬に乗って現れた女王は、こう演説した。
戦闘のさなかに参じたのは、諸君全員と生死をともにし、神のため、王国のため、人民のために一命を投げうたんがためである。わが身体こそ、かよわき女のものではあれ、わが心と肝は国王のもの、イングランド国王のものなり。… }(近藤「同上」,P98)

註251-8 ブリテン諸島連合

近藤「同上」,P102・P118

註251-9 議会と王権

成瀬「同上」,P139-P140・P253・P255 
「世界史の窓―イギリスの議会制度」 http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-015.html