日本の歴史認識 > ヨーロッパが歩んだ道 > 第2章 / 2.4 ハプスブルク帝国の興亡 / 2.4.5 プロイセンの台頭
もともとはドイツ騎士団領だったプロイセンは、17世紀半ばにブランデンブルク選帝侯の支配下に入り、軍事力を強化した。1701年にプロイセン王国となると、軍国主義国家として富国強兵を進め、オーストリアやポーランドから領土を奪って、ヨーロッパの強国の一角を占めるようになった。
図表2.17 プロイセンの台頭
チェコ、ポーランド国境の山地からプラハ周辺を経て、デンマークのあるユトランド半島の西の付け根で北海にそそぐエルベ川(チェコ語ではラベ川)より東はスラブ人が住む領域だった。
12世紀になるとドイツ人はエルベ川を越えて植民をはじめ、バルト海沿岸地方にドイツ騎士団、ブランデンブルク、ザクセンなどの領邦国家が形成された。
15~16世紀になると、エルベ川の西では領主と農民の関係は、農民は自営農地を耕作して貢租を領主に支払うという緩やかな支配関係だったが、エルベ川の東で発達したグーツヘルシャフト(農場領主制)において、領主は広大な直営農場を農奴を使って経営し、穀物を中心とする農産品を西欧に輸出した。こうした領主(=地方貴族、のちにユンカーと呼ばれる)は国王に対しても、ある程度自立しており、君主にとっては扱いにくい存在だった。
ドイツ騎士団が進出したプロシアは1525年にプロイセン公国となり、1618年にブランデンブルク選帝侯がこの地の公位を獲得し、同君連合であるブランデンブルク・プロイセンを形成した。
父の死により1640年にブランデンブルク選帝侯となったフリードリヒ・ヴィルヘルムは軍事力によって、国力の強化を図った。30年戦争の時に集めた傭兵軍を、戦争が終わったあとも維持し、ユンカーたちに課税して軍をさらに強化した。
また、ルイ14世がナントの勅令※1を廃棄すると、フランスのユグノーを積極的に受け入れて工業の育成をはかった。こうした政策により、ブランデンブルク・プロイセンの国庫収入は彼の選帝侯就任時に比べて7倍に増加した。
※1 ナントの勅令 1598年フランス王アンリ4世が出した信仰の自由を認める勅令。詳しくは2.6.1項を参照。
次のフリードリヒ3世は、スペイン継承戦争でオーストリアを支援することを条件に神聖ローマ皇帝から「プロイセン王」の称号を獲得し、1701年プロイセン王フリードリヒ1世として戴冠式を行った。彼はルイ14世を真似た華やかな宮廷生活を営み、芸術と科学を奨励した。
1713年にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位すると、華やかな宮廷生活から富国強兵の軍国主義に転換、「私欲を捨てて国家のために奉仕する」というプロイセン精神をつくりあげた。宮廷費を切り詰めて、役人たちを安い俸給で猛烈社員のように働かせ、ちょっとした汚職も容赦せず、軍隊的規律を官僚たちに押しつけた。
軍隊の強化も徹底していた。ユンカーの子弟を幼年学校に送り込み常備軍の将校を養成、兵士は徴兵制度を作って農民から徴募した。軍事支出は国庫収入の7割以上にのぼったが、フランスのように借金には頼らず租税と王領地からの収入だけで賄った。
1740年、父フリードリヒ・ヴィルヘルムのあとを継いでプロイセン王に即位したフリードリヒ2世(在位1740-86)は、一見は芸術や哲学に心酔する教養人だが、実際は父に劣らぬしたたかな権力者、軍事指導者であった註245-7。
即位した年に神聖ローマ皇帝カール6世が没すると長女マリア・テレジアがハプスブルク家の領地を相続したが、女性が皇帝になることには反対する諸侯もでてきた。この機をとらえてフリードリヒは、鉱物資源が豊富で工業も発達していたオーストリアのシュレージエン州に侵攻して占領してしまう。オーストリアは反撃するが、プロイセンはフランスやバイエルン選帝侯と結んでこれに対抗し、シュレージエンの領有を認めさせてしまった。これがオーストリア継承戦争(1740-48年__2.4.4項(4)参照)である。
マリア・テレジアはシュレージエンの奪回を目指してフランス、ロシアと同盟するが、プロイセンは1756年オーストリアに先制攻撃をしかけた。これが七年戦争(1756-63年__2.4.4項(5)参照)である。今度はイギリス以外のヨーロッパ各国を相手にまわすことになって苦戦したが、ロシアの変心に助けられてシュレージエンを確保することができた。さらに、1772年にはロシアと組んでポーランド分割を行い、西プロイセンを獲得した。
図表2.18 プロイセンの領土拡張
(注) 成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P341 をもとに作成。
フリードリヒ2世が「大王」と呼ばれるのは、上記のような領土拡張だけではなく、「啓蒙専制君主」としての活動にもよる。彼は王太子時代に狩猟や祝宴に現を抜かすことなく、文学、歴史、哲学、自然科学の書物をよみふけり、当時の一流思想家たちとも交流した。
彼は理想の君主について、「君主は国家の第一の僕(しもべ)であり、第一の役人である。彼は国家に税金の使途を報告せねばならない」と彼自身の著書に記している。彼は、国家を王家の世襲財産と見る伝統的な国家観ではなく、国家は王個人にも王家にも超越する永続的な組織と考え、王はその国家に奉仕する筆頭役人であると考えた。しかし、一方で彼は徹底した独裁者であり、各種機関から送られてくる膨大な書類に目を通し、誰の意見も聞かずに自分自身だけで決断をくだした。
七年戦争で荒廃した国土再建のため、商工業や鉱山・森林関係の新部局を設置して産業育成を進めた。また、ユンカーに対して農民を追い立てることを禁止し、農地の開拓も進めた。しかし、これらの政策はヒューマニズムに発するものではなく、「富国強兵」という目的を達成するために、租税の増収、兵士徴募の確保を行うためであった。
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P330-P331 坂井「ドイツ史10講」,Ps1566-
坂井「ドイツ史10講」,Ps1597- 成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P330-P331
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P330-P331 坂井「ドイツ史10講」,Ps1566
{ プロイセンという国は、東方植民地時代につくられたドイツ騎士団国が宗教改革を行って世俗のプロイセン公国になったもので、その際、最後の騎士団長で最初のプロイセン公になった人が、15世紀以来ブランデンブルク選帝侯であったホーエンツォレルン家の親族であったところから、17世紀はじめにプロイセンの方の家が断絶したとき、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねるという形で結びついたという、かなり複雑ないきさつで一緒になった国である。}(坂井「同上」,Ps1570-)
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P331-P335
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P335
{ フリードリヒ3世は、華麗なる宮廷生活を好むタイプの貴族だった。彼が固執したのは国王の称号だった。ライバルのザクセン選帝侯がポーランド国王、ハノーファー選帝侯がイギリス国王(ジョージ1世)にそれぞれ就くと聞き、実力では自分の方が上であると考えていたフリードリヒは皇帝レオポルト1世に頼み込んた。折しもスぺイン王位継承問題をめぐって対仏戦争の準備に入っていた皇帝は、8000人の兵力とレオポルト父子への忠誠を条件に、1700年11月に「プロイセン国王」即位を認めた。}(君塚直隆「近代ヨーロッパ国際政治史」、P138)
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P335-P339
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P340
坂井「ドイツ史10講」,Ps1625- 成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P340-P342
成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P342-P347 坂井「ドイツ史10講」,Ps1655-
{ 18世紀後半は「啓蒙の時代」である。 … プロイセンの場合、それはカントが称賛した「言論の自由」、司法手続きの合理化や拷問の廃止、また「プロイセン一般国法典」(1794年)に結実する統一法典の編纂にもっともよく表れている。}(坂井「同上」,Ps1668-)