日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.4 ハプスブルク帝国の興亡 / 2.4.4 オーストリア帝国

2.4.4 オーストリア帝国

17世紀後半から18世紀にかけてのヨーロッパの大国は、まずルイ14世(在位1643-1715)に代表される絶対王政を完成させたフランス、次にヨーロッパ広域経済システムの頂点にたったイギリスであるが、ロシアやプロイセンが列強の仲間入りを果たしつつあった。しかし、30年戦争に敗れたハプスブルクは、スペインの王位をフランスに奪われ、神聖ローマ帝国は形骸化されて、オーストリア、ボヘミアを中心とした中欧の一君主国に一時は成り下がってしまった。しかし、17世紀末のオスマン帝国との戦いをきっかけにハンガリーやバルカン半島に勢力を伸ばし、中欧・東欧の雄としての地位を確保していった。

図表2.11(再掲) ハプスブルク帝国の興亡

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(1) スペインでの権威失墜

1640年に起きたカタルーニャとポルトガルの反乱はスペイン・ハプスブルク家に大きなダメージを与えた。カタルーニャは鎮圧したが、ポルトガルは1668年に独立した。さらに、30年戦争後も続いていたフランスとの戦争も1659年のピレネー条約で決着したものの、スペインは北カタルーニャなどをフランスに割譲することになり、権威の喪失を印象づけるものとなった。

(2) スペイン継承戦争(1701~14年)註244-1

1665年に4歳で即位したカルロス2世は心身両面に問題を抱え――近親相姦による影響だといわれている――後継者の誕生を期待することはできず、早くから次期国王の座をめぐる暗闘が繰り広げられていた。最終的に残った候補は、ルイ14世の孫フィリップと、オーストリア・ハプスブルクが推すカール大公だった。ルイ14世がプファルツ継承戦争註244-2の講和条約でスペインに対して懐柔的な態度を示したことにより、スペイン宮廷はフランス王位の継承権を放棄することを条件にフィリップを後継に指名した。

1700年11月にカルロス2世が逝去し、フィリップがブルボン朝フェリペ5世としてスペイン王に即位すると、ルイ14世はフィリップのフランス王位継承権を有効と宣言するなど、孫をヨーロッパの覇者とするための野心的行動を連発した。これに対して、オーストリア、イギリス、オランダは同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発した。

初めは同盟側が有利だったが、1711年4月にハプスブルクのカール大公がカルロス3世として神聖ローマ皇帝に選出されると、皇帝がスペイン王を兼任することを望まないイギリスやオランダは1713年、フランスと講和条約を結び、フェリペ5世はフランス王位継承権の放棄と引き換えにスペイン国王として承認を得た。こうして、およそ200年続いたハプスブルク家によるスペイン支配は終焉を迎えた。

図表2.16 スペイン・オーストリア王位継承関連家系図

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(3) 大トルコ戦争(1683-99年)註244-3

ハプスブルク直轄領であるオーストリア、ボヘミア、ハンガリーについては、30年戦争中から再カトリック化とハプスブルク家による支配が強化され、オーストリアとボヘミアについてはプロテスタントが残留したものの、ハプスブルクの支配は安定していった。しかし、ハンガリーでは反ハプスブルクを掲げる勢力が抵抗運動を続け、これをハプスブルク政府が弾圧すると、抵抗勢力はトルコに支援を求めた。

これを好機ととらえたオスマン・トルコは大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入し、ウィーンを包囲した。ウィーンは陥落寸前の危機に陥ったが、ちょうどオスマン帝国とウクライナを巡って争っていたポーランドはドイツ諸邦とともに救援にかけつけ、オスマン・トルコ軍を追い払った。

この勝利の後、ハプスブルク連合軍はオスマン軍を追って南下し、1688年にはバルカン半島の要所ベオグラードを制圧する。「プファルツ継承戦争」で中断されるが、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー全域などを獲得、東欧の大国としての地歩を築いた。

(4) オーストリア継承戦争(1740-48年)註244-4

神聖ローマ皇帝カール6世(在位1711-40)の時代は、バロック文化が花開き、ハプスブルク家が繁栄を謳歌した時代であった。カール6世に男の世継ぎはいなかったので、女性でも継承できるよう「国事詔書」を作成し公布していた。また、ハプスブルク家の直轄領(オーストリア、ボヘミア、ハンガリーなど)を女性が相続するのはよいとしても、神聖ローマ皇帝位を女性が継ぐことはできなかったので、直轄領を継承した女性の夫を皇帝とすることが決められた。

カール6世はイギリス、フランスなど主要国と交渉し、見返りを渡すことによって了解を取り付けていたが、神聖ローマ帝国内部ではバイエルン選帝侯など反対する諸侯も少なくなかった。

1740年にカール6世が死去すると、娘マリア・テレジアはオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの女王に即位したが、バイエルン選帝侯などはこの相続に反対した。こうした動きをみて動いたのが1701年に王国を設立し急速に軍事力を強化していたプロイセンだった。プロイセン王フリードリヒ2世(在位1740-86)は、マリアの相続と彼女の夫フランツの神聖ローマ皇帝位継承を承認する見返りにシュレージエン※1の割譲を要求した。

マリアがこれを拒否すると、1740年12月プロイセンは宣戦布告もせずにシュレージエンに侵攻し占領してしまった。翌1741年4月、ハプスブルク軍は反攻したがプロイセン軍に敗れ、それをみたバイエルン選帝侯はフランス、およびプロイセンなどと同盟を結び、オーストリアやボヘミアを占領して、1742年に神聖ローマ皇帝カール7世として即位した。

これに対してマリアはハンガリーの支援を得て反撃に転じ、フランス軍を撃退してバイエルンを占領した。領地を奪われたカール7世が1745年に没すると、帝位はマリアの夫フランツの手に帰した。ハプスブルク軍は再び、プロイセン軍と会戦するが、またもやプロイセンに敗れ、仲介にはいったイギリスの進言をいれて、プロイセンのシュレージエン領有を認めざるを得なかった。

ハプスブルク家はシュレージエンを失ったもののそれ以外の領地と神聖ローマ皇帝位は保持した。

※1 シュレージエン 現在のポーランド南西部からチェコ北東部に位置する地方で、石炭や鉄鉱石などの鉱物資源が豊富で豊かな穀倉地帯でもあり、中世以来各国が争奪戦を繰り広げた。

(5) 七年戦争(1756-63年)註244-5

シュレージエン奪回に執念を燃やすマリア・テレージアは、軍事力の強化や中央集権化に取り組むとともに、ロシア及び長年の宿敵だったフランスと同盟を結んだ。

1756年8月、プロイセンはザクセンを占領してハプスブルクに先制攻撃をしかけたが、間もなくロシアが参戦してくるとプロイセンは押し戻され、一時はベルリンを占領される事態にまでなった。しかし、1762年ロシアのエリザベータ女帝が亡くなると、あとを継いだピョートル3世はプロイセン王フリードリッヒ2世の賛美者だったため、突如ロシア軍をプロイセンから撤退させてしまった。

長引く戦争に双方ともに厭戦気分が漂い、1763年になると各国は個別に講和条約を結んで戦争は終結した。オーストリアはシュレージエンを回復することはできず、現状維持を約してプロイセンと講和を結んだ。結局、ヨーロッパにおける七年戦争は多大な犠牲を払ってオーストリア継承戦争の結果を再確認するだけに終わった。

しかし、海外においては勢力図が大きく書き換えられた。フランスは海外植民地でイギリス軍に完敗してカナダ、ルイジアナなどを失い、インドでの影響力も失って、国際的地位は低下しイギリスの世界制覇に道を開くことになった。


コラム スペイン衰退の要因

「太陽の沈まぬ国」と言われるほどの繁栄を誇ったスペインはなぜ、没落したのか。アメリカの社会学者で、近代世界を主として経済的側面からシステム的に捉えた名著「近代世界システム」を著したI・W・ウォーラーステインは、スペイン衰退の理由を次のように指摘している。

{ 経済地理的には16世紀の世界経済の中心に位置していながら、スペインはこのヨーロッパ世界経済を自国の支配的な社会層の利益に結びつけうる国家機構をつくらなかった。というより、つくれなかった。}(「近代世界システムⅠ」,P205)

要は、「国家の経済力を強化するための国家機構を作らなかった/作れなかった」ことが衰退の原因だとしているのだが、ウォーラーステインはその理由や背景などをいくつか指摘している。それらは、因果関係がとても複雑な関係にあるが、私なりに単純化して整理しなおしてみると次のようになる。(「近代世界システムⅠ」,P206-P210 を要約引用)

(1) 産業振興に無関心

a) もともと、スペインは農業国で商工業はわずかしかなかった。16世紀ごろから原料生産とその加工という国際分業が成立していったが、スペインは原料生産主体になり、わずかにあった商工業はすたれてしまった。

b) 富裕層は教会、宮殿などの建築や芸術活動に資金を浪費してしまい、商工業に投資しようとする者はいなかった。

c) 王も自国の産業を保護・強化する必要性を感じず、外国からの工業製品に高関税をかける、といった重商主義政策を採用しなかった。

d) 非カトリック教徒を追放したことにより、商工業に取り組む中間層が海外へ流出した。また、農民も減って農業生産も落ちた。

(2) 対外戦争や奢侈による負債の増大

a) 増大していくコストは借金によって支えた。借金はほとんど北イタリアや南ドイツなど海外の金融業者に依存した。返済は新大陸から流入する金銀に頼ったが、大量の金銀の流入は、租税を増やそうとする努力を鈍らせた。

b) 新大陸から流入する金銀は、スペイン国内を通らずに金融業者から海外市場に流出した。貴重な資本を国内で再生産して増やすことなく、海外に流れていくだけだった。

c) 政府は負債を増やし続け、債務の履行拒否を何度も繰り返した。金融業者は債権回収のため、スペイン国内の富の源泉を支配した。

(3) 人口減

16世紀前半のスペインの人口は絶対数も多く、増加しつつあった。しかし、16世紀後半になると移民、戦死、飢餓、疫病などにより減少に転じた。人口減は大きな打撃となったが、経済不振の原因ではない。

スペインはヨーロッパの中核国、すなわち資本主義世界において搾取する側の国になることはできず、ウォーラーステインが「周辺」とよぶ搾取される側に没落していく。それが逆転するのは20世紀になってスペイン人が自ら努力するようになってからのことである。

(参考文献; I.ウォーラーステイン,川北稔訳「近代世界システムⅠ」


2.4.4項の主要参考文献

2.4.4項の註釈

註244-1 スペイン継承戦争

立石・内村編著「スペインの歴史を知るための50章」,P137-P139、P151-P154 岩崎「ハプスブルク帝国」.P190-P193

フランスブルボン朝による支配に抵抗したのは、ハプスブルク、イギリスやオランダだけでなく、スペインのアラゴン、バレンシア、カタルーニャもフェリペ5世に反旗を翻し、蜂起した。フェリペ5世はこの反乱を鎮圧したが、最後まで抵抗したバルセロナが降伏したのは1714年になってからだった。(立石・内村「同上」,P153-P154<要約>)

註244-2 プファルツ継承戦争

1688年から1697年にかけて、フランス王ルイ14世がプファルツ選帝侯領(ドイツ西部、フランスとの国境付近)の継承権を主張して起こした戦争。ドイツ諸邦・英国・スペイン・オランダなどが反仏戦線を結成して戦い、ルイ14世の意図は阻止された。大同盟戦争、九年戦争ともいう。(Wikipedia「大同盟戦争」)

詳細は2.6節(5)を参照。

註244-3 第2次ウィーン包囲と大トルコ戦争

岩崎「ハプスブルク帝国」.P184-P188 Wikipedia「第二次ウィーン包囲」

註244-4 オーストリア継承戦争

坂井「ドイツ史10講」,Ps1624- 岩崎「ハプスブルク帝国」.P199-P203,P217-P218 君塚直隆「近代ヨーロッパ国際政治史」,P132-P136,P140-P145

カール6世は自分の後継について、ヨーロッパ列強に承認を求めた。スペイン、プロイセン、ロシアはすんなりと同意したが、イギリス、オランダは2つの条件をつけてきた。一つはカールの王女たちがフランス、プロイセンのいずれの王子とも結婚しないこと、もう一つはハプスブルクが東方貿易のために作ったオスタンド商業会社を解散すること、である。カールはこの2つとも認めた。オスタンド商業会社を解散することによって、ハプスブルクが東方貿易に進出する道は閉ざされた。

フランスは最後の交渉相手になったが、ちょうどポーランドの王位継承問題が起こり、1733年からフランスとハプスブルクは戦争(=ポーランド継承戦争1733-35年)をはじめた。結局、ハプスブルクがロレーヌなどを割譲するかわりに、フランスはマリア・テレジアの家督相続を認めた。(君塚「同上」、P134-P136<要約>)

註244-5 七年戦争

成瀬「近代ヨーロッパへの道」,P341-P342 柴田「フランス史10講」,P99 岩崎「ハプスブルク帝国」.P224-P225 栗生沢「図説 ロシアの歴史」,P72