日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.4 ハプスブルク帝国の興亡 / 2.4.1 婚姻政策の大成功

2.4 ハプスブルク帝国の興亡

「ハプスブルク帝国」といっても、そのような名前の国家があるわけではない。神聖ローマ帝国をはじめとしてハプスブルク家が支配した地域全体をさす俗称である。

ハプスブルク家の興亡は、宗教改革の動きとほぼ重なる。宗教改革が始まった頃に覇権を確立し、いったん落ち着いた時期を経て、30年戦争後に宗教改革が一段落すると、中欧東欧のひとつの君主国として定着する。

図表2.11 ハプスブルク帝国の興亡

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2.4.1 婚姻政策の大成功

(1) ハプスブルク家の起源註241-1

スイスのチューリッヒの北西約30km、ドイツとの国境に近い山間部に1020年に築かれたハビヒツブルク=鷹の城 がある。その名はやがてハプスブルクになり、この地を支配していた貴族の名前となった。ハプスブルク家は13世紀にはチューリヒ周辺やドイツ南部にも領土を所有するようになっていた。

(2) 神聖ローマ皇帝へ註241-2

事実上、皇帝=ドイツ王が不在だった大空位時代(1250-73年 … 1.5.1項(5))の後にドイツ王に選定されたのはハプスブルク家のルドルフだった。当時、ボヘミア※1王オタカルはオーストリアを併合するなどして領土を拡大しており、ドイツ王位獲得を目指していたが、その強大な権力は諸侯の警戒するところとなり、選挙で選ばれたのは、小領主にすぎないハプスブルク家だった。

オタカルは即位したルドルフへの臣従を明らかにしなかったため、1278年ウィーン近郊マルヒフェルトで両者は激突し、オタカルは戦死する。ルドルフはオーストリアを手に入れ、ウィーンを拠点としてその周辺に勢力を拡げていった。しかし、ハプスブルク家の強大化は、諸侯の不安をあおることになり、ドイツ王の世襲はできなかった。

ハプスブルク家はルドルフ以後、時として王冠を手にしたが長続きしなかった。1452年、フリードリヒ3世が神聖ローマ皇帝を戴冠すると、1806年に神聖ローマ帝国が廃絶されるまで、ほぼハプスブルク家が皇帝位を独占することになる。

※1 ボヘミア 現在のチェコ西部・中部。

(3) 婚姻政策による領土拡大

{ その後の同家の発展は、まことに結婚政策のサクセス・ストーリーとでも言うほかない。}(坂井「ドイツ史10講」,Ps1006-) と言われるように、フリードリヒ3世とその息子のマクシミリアンによる婚姻政策の成功が、その後のハプスブルク家の繁栄につながった。

ネーデルラント※2の獲得註241-3

フリードリヒ3世は、息子マクシミリアンを当時独仏間に強大な地域権力を築きつつあったブルゴーニュ※3公国の跡継ぎ娘マリと結婚させた。1482年、マリが落馬事故で死亡すると、マクシミリアンはネーデルラント、ルクセンブルク、ブルゴーニュ地方の東半分などを手中におさめた。

※2 ネーデルラント 北部は現在のオランダ、南部はベルギー、ルクセンブルクにあたる地域。

※3 ブルゴーニュ 現在のフランス南東部、スイスとの国境付近の地域。ワインの産地で有名。

スペインの獲得註241-4

マクシミリアンは、1496年に息子フィリップをスペイン王女フアナと、翌1497年に娘マルグリートをスペイン王子フアンと、それぞれ結婚させた。ところが次期スペイン王だったフアンは結婚後半年で病死し、他の王位継承権を持つ者もあいついで亡くなったため、フアナが女王となった。しかし、フアナは精神を病み、夫のフィリップも早世したため、フアナとフィリップの息子であるカールが、1516年スペイン王カルロス1世として即位し、さらにカルロスは1519年フランス王フランソワ1世との選挙戦に勝ってカール5世として神聖ローマ皇帝を戴冠した。

図表2.12 ハプスブルク家の婚姻政策

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ボヘミア・ハンガリーの獲得註241-5

マクシミリアンは1515年、カールの弟フェルディナントと妹マリアを、それぞれボヘミア・ハンガリー王家の王女アンナ及び王子ラヨシュと婚約させた。ところが1526年、ラヨシュはオスマン帝国との戦争で戦死してしまった。ラヨシュには嫡子がなく、次の王は選挙で選ばれることになった。ボヘミアではフェルディナントがかろうじて選ばれた(1526年)が、ハンガリーはオスマン帝国の介入を招き、ウィーンを包囲(1529年)された後、オスマンの直轄領と保護領ならびにハプスブルク領に3分割されることになった(1541年)

ポルトガルの併合

カール(=スペイン王カルロス1世)はポルトガル王女イサベルと結婚、その息子フェリペ2世はカールのあとを継いでスペイン王となった。1580年ポルトガル王が嗣子のないまま死去すると、最も血縁の近い男子であるフェリペがポルトガル王も兼ねることになり、事実上、ポルトガルはその海外植民地も含めてスペインに併合された。


2.4.1項の主要参考文献

2.4.1項の註釈

註241-1 ハプスブルク家の起源

岩崎「ハプスブルク帝国」,P12-P13 加藤雅彦「ハプスブルク帝国」,P20-P28

註241-2 神聖ローマ皇帝へ

坂井「ドイツ史10講」,Ps850- 岩崎周一「ハプスブルク帝国」,P12-P13 Wikipedia「神聖ローマ帝国」,「大空位時代」

{ 大空位時代の末期、新たな十字軍編成のために強力な王を必要とした教皇グレゴリウス10世の働きかけにより、神聖ローマ皇帝の選挙は動き出した。候補にはフランス王フィリップ3世と、チェコ王オタカルがあがったが、二人とも強大すぎて諸侯は自分たちが制御できなくなることを怖れた。}(岩崎周一「ハプスブルク帝国」P20-P21<要約>)

{ これまでルードルフが国王に選出されたのは、諸侯が勢力拡大を図る都合から強力な王の登場を望まず、弱小な「貧乏伯」を良しとしたためとされてきた。…
今日では、適当な候補が見当たらない中、早晩衝突が予想されるフランス王やチェコ王に抗しうる人材と見込まれたこと、またシュタウフェン派であったため、諸侯のなかでいまだ根強い親シュタウフェン勢力からの支持が期待できることなどが評価されての選出であったと考えられている。}(同上,P22)

註241-3 ネーデルラントの獲得

坂井「ドイツ史10講」,Ps1008- Wikipedia「ブルゴーニュ公国」

婚姻が成立した要因は、ブルゴーニュ側がフランスからの独立を目指していたことが大きい。

{ (ブルゴーニュの)シャルル突進公(1433生-77没)は、自立志向が強く、ブルゴーニュを公国から王国に昇格させ、フランスと神聖ローマ帝国の間に独立勢力を築き上げることを目標としていた。
一方、フリードリヒにとっても勢力伸長著しいブルゴーニュとの提携は魅力的であった。}(岩崎周一「ハプスブルク帝国」,P71<要約>)

註241-4 スペインの獲得

坂井「ドイツ史10講」,Ps1012- 立石・内村編著「スペインの歴史を知るための50章」,P103-P104

スペインの場合もフランスとの関係が婚姻を進めさせた。

{ マクシミリアンは、フランスとの敵対関係からスペインとの関係強化をはかり、…}(坂井「ドイツ史10講」,Ps1012-)

{ アラゴン王国が勢力を伸ばしていたイタリアの覇権をめぐって、フランスとの対立が本格化した。… イタリアの覇権をめぐる西仏の戦いはイタリア戦争として16世紀中頃まで断続的につづく。}(立石・内村 同上、P103)

註241-5 ボヘミア・ハンガリーの獲得

岩崎周一「ハプスブルク帝国」,P132-P136

{ 当時、ボヘミアとハンガリーの王位は、ヤギェウォ家(ポーランドの王家)が兼ねていた。バルカンを北上するオスマン・トルコに脅かされていたヤギェウォ家は、ハプスブルク家との絆を必要とした。}(加藤雅彦「ハプスブルク帝国」,P17-P18)