日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.1 大航海時代 / 2.1.3 スペインの大航海

2.1.3 スペインの大航海

 図表2.1(再掲) 大航海時代

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(1) コロンブスの挑戦註213-1

コロンブスの生い立ち

クリストファー・コロンブス(英:Christopher Columbus)は、ジェノヴァ市で1451年に織物職人の家に生まれた。コロンブスはいつの頃からか、商船に乗り込んだらしいが、1476年(25歳)、乗っていた船が難船して、ポルトガルに漂着し、リスボンに行った。その後、コロンブスはリスボンのジェノヴァ人商社のためにイギリスや西アフリカ、大西洋などを航海し、熟練した航海者になった。

コロンブスの提案

コロンブスがいつごろ西廻り航海を思い立ったのかはわからないが、1483年頃にポルトガル王ジョアン2世に提案するも、採用されなかった。コロンブスは1485年スペインに移り、翌年イサベル女王に提案したが不採用、イギリスやフランスの宮廷に提案書を送ったり、ポルトガル王に再提案するも、いずれも拒否された。スペイン女王にも再提案したが1492年1月に却下。理由は、コロンブスが要求した報酬が過大だったためである。コロンブスが提示した条件は、航海に必要な資金は王室が全額負担、成功報酬は騎士の身分と提督の称号、発見した土地全部を支配する副王の地位、商品価格の10%を還元、であり、他国の王が受け入れなかった理由もこの過大な報酬にあったのであろう。

最後に救いの手を差し伸べたのは、ジェノヴァやフィレンツェの商人たちだった。彼らが航海費用の大半を負担することになり女王はやっと首を縦にふった。

{ コロンブスの航海はスペイン女王がパトロンになっておこなわれた、というのは外見だけで、実はこれはジェノヴァ人によって企画され、ジェノヴァ人、フィレンツェ人の投資によって成り立った事業といってよかろう。}(増田「大航海時代」,P60)

出航

1492年8月3日、コロンブスの船団はスペイン南西部のパロス港を出航した。乗員は約90名、船は約108トンのサンタ・マリア号、75トンのピンタ号、60トンの二―ニャ号の3隻だった。

コロンブスはいったんカナリア諸島まで南下した。当時の地図では、ジパングがカナリア諸島と同じ緯度にあるとされていたので、そこから真西に進めばジパングに着くだろうと予想した。

9月6日カナリア諸島を出帆、好天と順風に恵まれて10月12日、カリブ海のバハマ諸島で現地人がグァナハニと呼ぶ島(現サン・サルバドル)に到着した。その後、キューバとエスパニョラ島(現在、ハイチとドミニカのある島)に行き、そこに金を産出する場所があることを知る。彼はキューバは中国本土南部、エスパニョラ島はジパングであり、自分は西廻りでアジアにたどり着いた、と信じた。

1493年1月4日、旗艦サンタ・マリア号が座礁したため、コロンブスは二―ニャ号に乗ってアゾレス諸島経由で帰還した。スペイン帰着は1493年3月15日である。

 図表2.6 コロンブスの探検航路

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出典)森村「大航海時代」,Ps1308,増田「大航海時代」,P63・P67・P69、Wikipedia「クリストファー・コロンブス」などから作成

さらなる探検

コロンブスはこのあと3回の探検航海を行っている。2回目と3回目は発見した金山の開発と周辺地域の探検が目的だった。金山の開発を行ったスペイン人たちは現地人を酷使したために大混乱に陥り、コロンブスはエスパニョラ島の統治から外された。

4回目は1502年に行われたが、目的は香料諸島の探索だった。1498年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でインドに到達し、香辛料を直接ヨーロッパに運んだことに刺激され、コロンブスは西廻りで香料諸島に達しようとしたのである。彼は、キューバは中国から南に延びる巨大な半島の一部であり、その半島のどこかに香料諸島に抜ける海峡があるはずだと信じて、中米パナマあたりを航海したが、海峡をみつけることはできなかった。

1506年5月20日、コロンブスはスペインで死去、死ぬまで自分が"発見"したのは、アジアだと思っていたという。

(2)トルデシリャス条約註213-2

{ 当時のヨーロッパでは、キリスト教支配者のものでない陸地を発見した主権国家は、ローマ教皇の許可さえ受ければ新たに発見した土地の領有権を合法的に主張できるというルールがあった。}(森村「大航海時代」,Ps1507-)

スペインはルールに則ってローマ教皇に「カーボヴェルデ諸島の西100レグア(約550km)を南北に走る経線より西の陸地はスペイン領とする」という勅書を1493年5月に発行させた。これに反発したポルトガル王は、スペインと交渉し、境界となる経線をカーボヴェルデの西370レグア(約2000km)に移動し、その西はスペイン領、東はポルトガル領とすることで合意した。1494年6月に締結されたこの合意はトルデシリャス条約と呼び、スペインはアメリカ大陸に優先権を持つことができたが、西370レグアになるとブラジルの東端は経線の東になるのでポルトガルがブラジルの領有権を主張する根拠となった。

(3) マゼランの世界一周註213-3

マゼランの任命

マゼランはポルトガルの下級貴族である。1505年のインドへの航海に加わり、エジプト・インド連合艦隊との海戦やマラッカ攻略などに参加し、1513年に帰国したが、宮廷の処遇に不満を抱いていた。

この頃、スペインは西廻りでアジアに達するルートを探しており、1515年に派遣した探検隊はラプラタ河口(現在のウルグアイとアルゼンチンの国境)までたどり着いていた。次の航海者を探していた宮廷の実力者はポルトガル商人のつてからマゼランを知り、マゼランをスペインに呼び寄せた。この頃、ポルトガル人の航海技術はスペイン人のそれをはるかに上回っていた。

マゼランはスペインに移り、1518年1月スペイン国王カルロス1世に謁見した。マゼランは香料諸島がスペイン領内にあることを巧妙に説き※1、東廻りよりはるかに安いコストで香辛料を入手することができる、と説いた。カルロス1世は納得し、マゼランに艦隊を預けることを決断した。

※1 トルデシリャス条約で決められた線は大西洋上にあるが、これをそのままぐるっと廻して太平洋側に伸ばすと、香料諸島はポルトガル領になる。また、スペインからであれば東廻りで行った方が近いことはあとになってわかる。いずれも、当時それを確認する方法はなかった。

出航

マゼランの船隊は100トン級の船5隻、乗員270~280人だった。スペイン人が多かったが、ポルトガル人、イタリア人、フランス人など様々な人種が乗り込んでいた。経験豊富なポルトガル人をたくさん乗せたかったマゼランに対し、スペイン側は主導権をとるためにそれを拒否し、初めからスペイン人とポルトガル人は対立していた。

出航したのは、1519年8月10日、大西洋を南下し、ブラジルに寄ってからパタゴニアのサン・フリアン港で南半球の冬を越した。越冬中にスペイン人がクーデターを起こし、マゼランが制圧するが、スペイン人のマゼランへの反感は根強く残ることになった。

太平洋横断

1520年8月24日に航海を再開、のちにマゼラン海峡とよばれることになる南米大陸南端の海峡を11月28日に通過した。だが、ここまでに1隻は座礁し、1隻はスペイン人が乗っ取ってスペインに帰ってしまい、残り3隻で太平洋を横断することになった。

このときマゼランの頭にあった地理観は、図表2.4マルテルスの地図にあるもので、それまで右側にみえていた大陸はアジアの最東部であり、海峡を通れば香料諸島のある湾に入れるものと信じていた。だから、彼らは海峡を抜けるとまずチリの海岸沿いに北上した。しかしいつまでたっても香料諸島は現れない。そこで、現在のバルパライソ※2 付近で北西に針路を変えた。

太平洋に入ったマゼランたちは、99日間飢えに苦しみ、壊血病※3に侵されながら航海を続け、1521年3月6日グアム島に到着、3月16日にはフィリピン諸島のスルアン島、4月7日にセブ島に到着した。

※2 バルパライソ チリの首都サンティアゴの西約120km。

※3 壊血病 ビタミンC不足による疾患。初期症状は,倦怠感,皮膚蒼白・乾燥で,皮膚の点状出血が起こり,やがて歯ぐき,筋肉,粘膜,骨膜,皮下に出血が起こる。(コトバンク〔百科事典マイペディア〕)

 図表2.7 マゼランの世界一周

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出典)森村「大航海時代」,Ps2709 などから作成

無念の死

セブ島の王は好意的にマゼランを迎えた。気をよくしたマゼランはセブ島の対岸にあるマクタン島に行き、キリスト教への改宗とスペインへの服従を強制した。怒った島民はマゼランを大軍で襲い、マゼランは戦死した。

3隻の船隊は、途中で使い物にならなくなった1隻を焼き捨て、残った2隻がブルネイ経由で、ついに香料諸島のティドール島に到着した。スペインを出航してから2年3ケ月後の1521年11月8日だった。ティドール島で大量の香辛料を満載したビクトリア号は、12月21日インド洋からアフリカ南端を廻ってスペインに戻る航海に出た。

もう1隻のトリニダー号は、香辛料を積み過ぎて浸水したので、修理して4ケ月後に太平洋をパナマ目指して出航したが、逆風と食糧不足で香料諸島に引き返したところをポルトガル軍に捕縛され、3年後に乗員4人だけが帰国できた。

世界一周達成

香料諸島を出航したとき、ビクトリア号の乗員は47名だった。しかし、インド洋から大西洋に向かう長い困難な航海のあいだに少しずつその人数は減り、最終的にスペインに帰り着くことができたのは、わずか18名であった。1522年9月8日、出航してからおよそ3年1か月におよぶ"大航海"であった。

その後、いくつかのスペイン船隊が、香料諸島を目指して太平洋を西に向かっている。だが太平洋はあまりにも大きな海であり、たとえ香料諸島に到達しても、そこから東に向かう帰路は逆風と潮流のために非常に難しいことがわかってきた。スペインのカルロス1世は、ポルトガルとの香料諸島の争いに嫌気がさして1529年4月、ポルトガルに香料諸島の権利を売り渡し、かわりにフィリピン諸島の領有を主張しつづけた。

(4) スペインの植民地支配

{ スペインの海外進出は、ポルトガルと同様、東方の富に引きつけられたという動機、海外へのカトリックの布教伝道、などは共通する性格といってよい。しかし、アメリカにはアジアに匹敵するような交易は存在していなかった。スペインの進出は、はじめは貴金属や財宝を狙う略奪経済の特徴を示したが、じきに、植民地経営の形を明確にするようになる点で、既存の交易網を活用したポルトガルのアジア進出とは明確に異なっている。}(福井憲彦「近代ヨーロッパ史」,Ps194-<要約>)

アステカ帝国・インカ帝国滅亡註213-4

スペインの下級貴族フェルナンド・コルテスは、ユカタン半島の西の山奥に豊かな国(アステカ帝国)があると聞き、1519年討伐軍総勢400人で攻めたが失敗、1520年末に総勢600人に周辺部族1万人で首都を攻め、1521年8月アステカの皇帝を屈服させた。

コルテス同様、スペインの下級貴族だったフランシスコ・ピサロは1524年と26年にペルーを探検し、インカ帝国の都市を発見していた。1531年、ピサロはわずか180人ほどの手勢を連れてインカ帝国内に入り、いきなりインカの皇帝と面会、その席上で油断していた皇帝を捕縛してしまった。皇帝の身代金として、莫大な量の金銀を受け取ったが、皇帝を生かしておけば危険と判断して、1533年7月処刑した。

{ 征服者はスペイン王と協定をかわし、自分の権利を確定した上で自前の資金で遠征隊を組織した。スペイン王権が主体的に征服を行ったのではない。}(立石他「スペインの歴史を知るための50章」,P124-P125)

銀山の開発と流通註213-5

1540年代、ボリビアのポトシ、メキシコ北部のサカテカスなどに優良な銀の鉱脈が発見され、スペイン王室の管理のもと銀の採掘が始まった。そして水銀アマルガム法の導入によって銀の産出量は激増し、未曽有の量の銀が世界市場に出回ることになった。しかし、スペインに移送された銀は、スペイン王室が負っていた莫大な負債の返還にあてられたため、スペインを素通りしてヨーロッパに流入し、アジア貿易の対価として利用された。

なお、日本も16世紀後半に大銀産国になり、ポルトガルやオランダの極東貿易はこの銀によって採算をとることができた。

エンコミエンダ制による植民地支配註213-6

アメリカ大陸やカリブ海、フィリピンなど、スペインが征服した地は、すでに集住農耕文明が存在していたため、入植者にとっては先住民を排除せずに、労働力として利用した方が効率的だった。ちなみに、イギリス領北米植民地ではそのような文明がなかったため、先住民を排除して白人と黒人奴隷によって開拓が行われた。

スペインの征服地の農園や鉱山などでは、エンコミエンダ制が採用された。

{ エンコミエンダとは、スペイン国王が一定範囲の土地とそこに住む先住民を、特定の私人(スペイン人)に委託する制度である。委託された私人は、その土地と労働力を自由に利用する権限を得ると同時に、住民を保護し、文明化すなわちキリスト教へ改宗させる義務を負った。しかし、義務の方は本気で果たされなかったから、先住民は新たに持ち込まれた病気や過酷な労働のために、つぎつぎと死滅した。当初、30万人はいたといわれるカリブ海の先住民たちは1540年代には絶滅した。}(川北稔「世界システム論講義」,Ps470-<要約>)

先住民に代わる労働力としてはアフリカの黒人奴隷が利用された。

しかし、こうした封建的な制度で委託された私人は、しだいに自律的な傾向をもち本国の支配から離れる傾向をもつ。そのため、スペイン王室は官僚制による支配に移行し、エンコミエンダ制を段階的に廃止していった。


コラム アメリカ原産の作物

アメリカ原産の作物で世界中に普及したものには、次のようなものがある。今では西洋料理をはじめ様々な料理に当たり前のように使われているが、コロンブスが新大陸を「発見」したあとにヨーロッパに伝わったもので、料理のバリエーションを大きく広げたであろう。詳しくは、こちらのサイトを参照。(「世界史の窓」; アメリカ大陸原産の作物 (y-history.net))

トウモロコシ ジャガイモ サツマイモ トマト トウガラシ ピーマン カボチャ タバコ ゴム

なお、これらの作物が日本に伝わったのはゴムをのぞき、16世紀後半から17世紀にかけてである。ゴムの木がいつ日本に伝わったかはわからないが、ゴムの製造が始まったのは明治になってからである。(農林省のHP などによる)


2.1.3項の主要参考文献

2.1.3項の註釈

註213-1 コロンブスの挑戦

増田「大航海時代」,P57-P70 森村「大航海時代」,Ps1135-

註213-2 トルデシリャス条約

増田「大航海時代」,P74-P75 森村「大航海時代」,Ps1498-

{ この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか(このころはまだ難しかった)、教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。}(Wikipedia「トルデシリャス条約」)

註213-3 マゼランの世界一周

増田「大航海時代」,P86-P91 森村「大航海時代」,Ps2693- Wikipedia「フェルディナンド・マゼラン」

註213-4 アステカ帝国・インカ帝国滅亡

森村「大航海時代」,Ps2520-・Ps2997- Wikipedia「エルナン・コルテス」、「フランシスコ・ピサロ」

註213-5 銀山の開発と流通

増田「大航海時代」,P104-P106 川北稔「世界システム論講義」,Ps512-

ヨーロッパに流入したアメリカ銀は、1551-60年が3.03万kg/年、1591-1600年が27.07万kg/年、1641-50年が10.56万kg/年である。なお、「この時代の日本の銀輸出量は年間20万kgに達していた」という。(川北稔「同上」,Ps512ー)
→つまり、日本の銀の輸出量は、ヨーロッパに流入したアメリカ銀と同等規模だったようだ。

{ 大西洋貿易の根幹をなす商品は地金であった。初めのうちスペイン人は、すでにインカ人が採掘して祭儀用に用いていた金をひろい集めていただけであった。それで結構繁栄していたのである。しかも、ちょうどこれが尽きる頃になるとスペイン人は水銀アマルガムを導入して、豊富な銀鉱脈から十分な利益をあげる方法を考え出した。}(I.ウォーラーステイン「近代世界システムⅠ」,P193)

註213-6 エンコミエンダ制による植民地支配

立石他「スペインの歴史を知るための50章」,P125-P126 川北稔「世界システム論講義」,Ps469-

アメリカ大陸の人口は推定者によって違うが、1500年→1600年は大幅な減少になっている。例えば、41→15(Clark)、37→13(Biraden)、14→11.5(McEvedy&Jones)、19.75→10.35(Maddison)。単位は百万人、カッコ内は推定者名。この数字には植民者も含まれていると思われる。(Wikipedia「歴史上の推定人口」)