日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第2章 / 2.1 大航海時代 / 2.1.2 ポルトガルの大航海

2.1.2 ポルトガルの大航海

 図表2.1(再掲) 大航海時代

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(1) 先鞭をつけたポルトガル

ジェノヴァ人註212-1

14世紀に勃興したオスマン・トルコの登場は、{ ビザンツ帝国の弱みにつけ込み、東地中海で羽をのばして活動していたイタリア人たちにとって、}(増田「大航海時代」,P46) 大きな痛手だった。ヴェネツィアは何とかこらえたが、ジェノヴァは1350年からはじまったヴェネツィアとの戦争に敗れ、内紛もあって、ジェノヴァの商人などはスペインやポルトガルに移住した。ジェノヴァ人はポルトガル王と協約を結び、資金や技術を提供して大西洋の島々の経営や西アフリカでの交易に重要な役割を果たすことになる。

セウタ攻略註212-2

セウタは、北アフリカの北西端、ジブラルタルの対面にある町である。1415年7月、ポルトガルの艦隊はイスラム勢力の内戦のすきをついてセウタに襲いかかり、たちまちこれを占領した。「航海王子」と呼ばれたポルトガルのエンリケ王子は、ここを拠点に早くから西アフリカの金に目をつけていたジェノヴァ人の協力を得て、西アフリカの探検を進めた。増田氏によれば、これが「大航海時代」の始まりになる。

(2) アフリカ航路の開拓

西アフリカ沿岸航路註212-3

1419年頃から開始されたエンリケ航海王子による西アフリカ航路の探検は、まずマデイラ諸島やアゾレス諸島などに至るルートを確立し、そこへ植民を行って砂糖キビなどを生産することから始まった。ボジャドール岬以南に至るには苦労したが、1456年にはヴェルデ岬を越えた。

1460年に航海王子が莫大な負債を残して死去すると、ポルトガル王は1469年リスボンの豪商フェルナン・ゴメスと契約を結び、貿易の独占を許すかわりに航海費用を全額負担させた。ゴメスは精力的に航路を伸ばし、ギニア湾を東進してペニン王国(現在のナイジェリア)に至りさらに南下して赤道を越えた。交易も盛んになり、奴隷や金、砂糖などがヨーロッパに送られ、ヨーロッパからは真鍮、ガラス製品、織物、などが輸出された。

これをみたポルトガル王室はゴメスとの契約を打ち切り、自らが航海に乗りだしていく。

図表2.2 ポルトガルによるアフリカ航路の開拓

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出典)森村「大航海時代」,Ps591,Ps848,Ps962、Ps1628 などから作成。

プレスター・ジョンの伝説註212-4

プレスター(=司祭)・ジョン(=ヨハネス)は、東方に実在すると考えられていたキリスト教君主である。ヨーロッパ人たちはプレスター・ジョンと同盟を組むことによってイスラム勢を駆逐できると考えていた。

1486年、ペニンの東方250レグア(約1400km)にオガネーという偉大な王が住んでいる、という情報を得たポルトガル王ジョアン2世は、これこそ求めていたプレスター・ジョンにちがいない、と考えた。そして、西アフリカの奥地にいくつかの探検隊を派遣するとともに、バルトロメウ・ディアスにアフリカ南部の探検を行わせ、さらにコヴィリャンとパイヴァに地中海東部から東アフリカの調査を命じた。

喜望峰到達註212-5

ジョアン2世の命を受け、バルトロメウ・ディアスは、1487年8月、3隻の船でリスボン港を出た。クロス岬を経て、さらに南下したところで嵐に遭った。強風にあおられ、船は南へ南へと流される。嵐が収まったとき、陸地は見えない。東へ行けばいずれアフリカ大陸がみえてくるはず…、しかしいくら行っても陸地は見えない。焦りが恐怖を生みかけたとき、ディアスは針路を北にかえた。「我らは大陸の南端を越えたのかもしれない」と考えたのだ。推測は当たった。まもなく陸地が見えてきた。現在の南アフリカ共和国の南海岸だった。すでにアフリカ大陸南端の半ば以上を通過していた。

ディアスが帰る途中、目にした大きな岬はジョアン2世により「喜望峰」と名付けられた。

東アフリカ、インドの調査註212-6

東アフリカの調査を命じられたパイヴァとコヴィリャンは、1487年5月にポルトガルをたち、地中海を東に進み、途中イスラム教徒に化けてカイロから紅海の入り口アデンに達した。コヴィリャンはそこからインド西海岸のカリカットやゴアを訪問した。パイヴァはアデンからエチオピアに向かったが、エチオピアで病死した。カイロに戻ったコヴィリャンは情報収集を行い、アフリカ南端が航海できることを知った。こうした情報をジョアン王への報告書にまとめて王の派遣したユダヤ人に託し、自分はプレスター・ジョンがいるといわれたエチオピアに行ったが、帰ることはできずにその地で死んだ。

(3) バスコ・ダ・ガマの大航海註212-7

出航の決定

1488年のディアスの喜望峰到達およびコヴィリャンがもたらした東アフリカやインドの情報、さらにはトルデシリャス条約(2.1.3項(2)参照)締結により、ポルトガル王ジョアン2世はアフリカ南端経由でアジアに至る航路の開拓を決意したと思われるが、本人は健康を害して1495年に死去してしまう。あとを継いだマヌエル1世は先王の意志を継いで出航を決意し、ヴァスコ・ダ・ガマを指令官に選定した。

ヴァスコ・ダ・ガマは騎士階級に属するポルトガル人で、航海知識や経験はあるものの、なぜ彼が選定されたかはわかっていない。

出航(1497年)

ガマは、1497年7月8日にリスボンを出航した。船隊は補給船1隻を含む4隻で、乗員は諸説あるが総勢約170名程度といわれている。
喜望峰は11月22日に通過し、翌年3月2日、モザンビークに入った。つづいてマリンディ(現ケニア共和国)に寄り、ここでイスラム教徒の水先案内人を雇った。

インド到着(1498年)

1498年4月24日にマリンディを出航、ポルトガルを出てから10ケ月以上経った5月20日、インド西部マラバール海岸にあるコショウ貿易の中心地カレクト(カリカット)に到着した。

ガマは部下を連れてザモリン(領主)に会いに行き、自分はポルトガルという偉大な国の使節である、と大見得を切った。しかし、ザモリンは贈り物が貧弱だと言って、ポルトガル人を馬鹿にし、ガマたちは海賊ではないか、と疑った。いくらかの香辛料は手に入れたものの、ザモリンから要求された出国税も踏み倒し、追跡してきた約70隻の小船に大砲を見舞って退散した。

帰還(1499年)

ガマがポルトガルに帰還したのは、1499年9月9日だった。ガマの報告を聞いたポルトガル王室は武力によるインド洋征圧を決め、翌1500年以降、大船団を派遣する。

(4) ポルトガルの東方交易註212-8

インド洋の征圧(1500-10年)

1502年のガマの2度目の航海は20隻の船団でインドへ向かい、1780トンの香辛料を持ち帰った。以後、1502年から05年までの間にのべ81隻7000人が派遣された。これらの船団は香辛料の調達だけでなく、要衝に砦兼交易所をつくり、インド洋の制海権を確保することも目的だった。

ポルトガルは1505年以降も、強力な大砲を装備した大船団と大量の人を派遣し、東アフリカ、ペルシャ湾、インド西海岸などに要塞を築き、商館を設置していった。1509年にはエジプト・インドの連合艦隊を破り、アラビア海の制海権を確保、1510年にはインドのゴアを占領した。ゴアはその後長く、ポルトガル人のアジアにおける拠点となった。

マラッカから香料諸島へ(1509-12年)

ポルトガルは1509年にマラッカ王と貿易協定を結んだが、ジャワ商人などによる暴動が起こり、1511年これを制圧してマラッカを占領した。翌1512年には香料諸島(モルッカ諸島)に到達し、ついに香辛料を直接ヨーロッパに運ぶことが可能になった。

ベンガル湾から中国・日本へ(1511-43年)

次にポルトガル人が目指したのはベンガル湾だった。1517年インド南東の沿岸部にポルトガル人の居留地が作られ、1518年にスリランカのコロンボに要塞を築いた。アユタヤ王朝(タイ)やペグー王国(ミャンマー)にも使節を送っている。中国には1513年末、広東に到達したのが初だったが、上陸は許されなかった。1517年に北京に行くことはできたが海禁政策をとっていた明朝の皇帝には謁見できず、1557年、明の地方官憲の暗黙の諒解のもとにマカオ居住が認められた。

日本には1543年、種子島に漂着したのが最初で、このとき鉄砲がもたらされた。1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために訪れ、織田信長によって「南蛮貿易」が開始された。{ 日本からは主に銀が輸出されたが、多数の日本人が奴隷として連れ去れられた、という説もある。}(Wikipedia「日本とポルトガルの関係」<要約>)

ポルトガルの東方交易

ポルトガルは東アフリカから日本までの間に40以上の城塞や商館を設置し、制海権を握って交易の主導権を確保した。アメリカ大陸で行ったような植民地化する方法はとらなかった。

ただ、マラッカの西と東ではやり方がちがった。西では、軍隊が駐留し軍事的圧力をかけて貿易を独占した。アジアの船が貿易を行うときは、ポルトガル政府の許可証を必要とし、ゴア、ホルムズ、マラッカなどで関税を支払うことを求められた。対してマラッカより東では、土地の王や首長と友好関係を結び、許可証も強制されなかったし軍事的介入や抑制も行われなかった。日本との貿易もこの方式だった。

マラッカの東西で差はあるものの、ポルトガルは既成のアジア貿易網の中に割り込み、そこで支配的な地位を獲得したのである。アジアの商品をヨーロッパに持ってゆくだけでなく、アジア各地やアフリカ・アメリカの商品をアジア地域に供給することによっても利益を上げた。こうして、ポルトガルはオランダ人とイギリス人が登場する16世紀末まで、アジア・ヨーロッパ間の貿易を独占した。


コラム 大航海時代の船上生活

以下は、マゼランの航海の様子である。

積み込まれた食糧は、ビスケット(堅パン)、塩漬け肉・魚、豆類、干しブドウやイチジク、アンチョビー、チーズ、小麦粉、米、砂糖、蜂蜜、オリーブオイル、にんにく,塩、酢、ワイン、ビールなどである。真水は貴重品で一日1リットルしか配給されなかったという記録もあるが、それを補ったのがワインやビールである。

船には簡単なかまどがあり、海が穏やかなときは、温かいものも食べられたが、塩漬け肉や豆を煮込んだもので、「腐っているかのような、未開人のシチューのような味がした」という。海が荒れるとそれすらも食べられなくなる。

冷蔵設備などはないから、塩漬け肉は悪臭を放ち、ビスケットには蛆がわいた。しかし、航海途中で新鮮でうまい食事にありつけることもあった。マゼラン船隊では、ブラジル沿岸で先住民から、鶏肉、バクの肉、魚、サツマイモなどを仕入れている。また、船上で魚を釣ったり、パタゴニアではペンギンやアザラシもとらえて食べたという。

船室は、船長クラスは一応船室らしい部屋を使えたが、乗組員たちは寒いときは船倉で、暖かい地方ではデッキの上で寝た。風呂などなく、乗組員は潮風と汗でべとついた身体を海水で洗った。凪で船が止まっているときは、泳ぐ連中もいたようだ。すごい?のは衣類の洗濯である。洗濯するためには洗剤が必要だが、19世紀の初頭まで石鹸は支給されなかった。乗組員たちはなんと小便に衣類を浸し、それから海水ですすいでいた。

この時代に船にトイレはなかった。"小"はいいとして、"大"は海上に張り出した底のない箱のようなものを使用していたが、小さな船ではそれすらなく、ロープにつかまり尻を海側に突き出して排泄したらしい。嵐のなかではこのような方法は使えないので、船倉は悪臭が漂うことになる。

(森村「大航海時代」,Ps2742-、Wikipedia「フェルディナンド・マゼラン」)


2.1.2項の主要参考文献

2.1.2項の註釈

註212-1 ジェノヴァ人

増田「大航海時代」,P46-P48

{ 東地中海での交易を失ったジェノヴァ人の重要な関心のひとつは、西アフリカにおける金貿易だった。イスラム商人がサハラ砂漠を越えて北アフリカまで運んできた金を、ジェノヴァの商人は買いつけていた。ジェノヴァ人はこれをイスラム商人を通さず、金の産地から直接入手しようとしたのが、アフリカ西岸の探検航海だったのではないかと言われている。}(同上,P48)

註212-2 セウタ攻略

増田「大航海時代」,P4-P5

註212-3 西アフリカ沿岸航路の開拓

増田「大航海時代」,P49-P53 森村「大航海時代」,Ps752-,Ps832-

当時、西アフリカのボジャドール岬(カナリア諸島の40km南)から先に航海したものはいなかった。

{ ボジャドール岬から先の海では、「海水が煮えたぎって湯気がたっている」とか「水深は浅く、潮の流れは速く、一度通過したら、二度と帰ってこれない」などという伝説がささやかれていた。エンリケ王子は何度かボジャドール岬を越えるよう船乗りたちに指示したが、みんな途中で引き返してきた。1433年、エンリケはすごすごと引き返してきたエアネスに再度、南への航海を命じた。エンリケ王子に叱責されたエアネスは奮い立ち、翌年再挑戦した。ボジャドール岬の南には「煮えたぎった海」もなければ、「急流のような流れ」もなく、ただふつうの海が広がっていただけだった。}(森村「大航海時代」,Ps752-<要約>)

註212-4 プレスター・ジョンの伝説

森村「大航海時代」,Ps613-,Ps883- 増田「大航海時代」,P54

{ プレスター・ジョンの動向が最初にヨーロッパ人に伝えられたのは、1145年だ。ローマ教皇エウゲニウス3世のもとに、前年のエデッサ伯領(エルサレムに設立された十字軍諸国のひとつ)の陥落を告げに来た使者が、「報告いたします。ペルシアのはるか東方からプレスター・ジョンなるキリスト教君主が軍勢を率いて出現しました。彼らはペルシア人と戦って勝利しましたが、チグリス河をわたらず東方に引き揚げました。…」
… これは、カラ・キタイ(西遼)の軍が、カラ=ハーン朝とセルジューク=トルコの連合軍を破って、サマルカンド一帯を勢力下においた事件を誤解したものである。このあともモンゴルの襲撃をプレスター・ジョンだと思い込んだり、ついにはアフリカのエチオピア皇帝がプレスター・ジョンだという説が現れたりした。}(森村「大航海時代」,Ps619-<要約>)

註212-5 喜望峰到達

森村「大航海時代」,Ps923-  増田「大航海時代」,P55-P56

註212-6 東アフリカ、インドの調査

森村「大航海時代」,Ps962- 増田「大航海時代」,P54-P55

{ コヴィリャンはジョアン2世に宛てた報告書を作成した。
①インドのカレクト(=カリカット)には、香辛料と名のつくものはすべてそろっています。
②私はインド西海岸のカナノル、ゴアなどの港湾都市を見聞しました。
③インドへの航路について調べたところ、アフリカ東海岸のソファラかマダガスカル島からインド洋を北上すればカレクトに着くことができます。}(森村「大航海時代」,Ps1004-<要約>)

註212-7 バスコ・ダ・ガマの大航海

増田「大航海時代」,P75-P77 森村「大航海時代」,Ps1552-

{ ガマは、カレクト国王への献上品の事前確認を国王の商務員と知事に依頼した。献上品は「帯、緋色の頭巾、帽子、鉢、珊瑚の玉、油、砂糖、蜂蜜」。商務員も知事も献上品を見るや唖然とし、次いで吹き出した。「内陸各地から来る貧しい商人連中でさえ、もっとマシなものを持ってくる。国王陛下はこんなものお納めにならぬぞ」。…無理もない。カレクトは毎年600隻以上の船が来るインド洋交易の一大拠点である。ガマたちの献上品など日常品の類いであったことは容易に想像がつく。}(森村「同上」,Ps1839-)

註212-8 ポルトガルの東方交易

増田「大航海時代」,P77-P85

・1500年のインドに向かう途中でポルトガルは、ブラジルを"発見"している。

{ ガマのとった航路より10度ばかり西に偏った針路をとるという運命のいたずらによって、ブラジルを発見することになった。}(同上,P78)

・マラッカの東ではポルトガルの軍事的圧力が効かなかったのは、中国(及び日本)の軍事力が強力だったからではないだろうか。

{ ポルトガル人が中国南部で1521年と22年に、かつてインド洋においてやったように砲艦外交に訴えようとしたときには、手ひどい反撃をうけた。}(同上,P85)