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第110回団参「大河ドラマ『べらぼう』探訪ツアー」
第111回団参「大河ドラマ『べらぼう』探訪ツアー」
要伝寺檀信徒各位
NHK放送開始100周年となる令和7年(2025)の第64作NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の放送にあわせ、下記の通り当山の第110・111回目となる団参(国内団体参詣)を企画いたしました。
江戸吉原に生まれた蔦屋重三郎やドラマの登場人物ゆかりの地を訪ねてその足跡を辿れば、作品への没入感も高まろうというものです。特に、5月には、蔦屋重三郎の229回目の命日「蔦重忌」を迎えますので、菩提寺である日蓮宗正法寺も訪ねます。
皆様のご参加をお待ちしております。
なお、要伝寺団参(団体参拝・団体参詣)についてはコチラを、団参の過去の訪問先についてはコチラをそれぞれご参照下さい。 住職
記
日程:【第1回(通算110回)】令和7年4月20日(日)12:30〜16:00(要伝寺集合・上野駅経由要伝寺解散)
【第2回(通算111回)】令和7年5月30日(金)10:00〜13:00(要伝寺集合・上野駅経由要伝寺解散)
探訪先(案):吉原神社九郎助稲荷・吉原弁財天本宮・吉原大門・江戸新吉原耕書堂(台東区吉原)、平賀源内墓(台東区橋場)、日蓮宗正法寺と蔦屋重三郎墓(台東区東浅草)、べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(台東区花川戸)、浅草寺の山東京伝机塚碑(台東区浅草)、耕書堂跡(中央区日本橋)、すみだ北斎美術館(墨田区亀沢)、誓教寺と葛飾北斎墓(台東区元浅草)、大田南畝蜀山人の碑(台東区上野公園)、台東区立したまちミュージアム〈台東区上野公園〉、東京国立博物館特別展「蔦屋重三郎」(台東区上野公園)等 *各回毎にコースは変更の予定
交通手段:マイクロバスまたはハイヤー分乗(要伝寺発・上野駅経由要伝寺着)
参加費:各回10,000円程度(開帳料・拝観料・入館料・ツアー交通費など)
2月15日は釈尊の涅槃会(ねはんえ)、16日は宗祖日蓮聖人の降誕会(ごうたんえ)にあたります。
仏陀(ぶつだ)が亡くなることを、仏教では入滅(入寂・仏滅・涅槃など)といいます。釈尊の入滅の時期については諸説あり、北伝仏教(主に大乗仏教)では紀元前383年、南伝仏教(主に部派仏教・小乗仏教)では前483年とするのが一般的です。
釈尊は、80歳の時、クシナガラ(拘尸那竭羅)の地において、二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に床を用意すると、頭を北に、右腹を下に向けて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて横たわり、涅槃に入りました。この時、一日一夜にして説いた経典が『涅槃経(ねはんぎょう)』です。
一方、日蓮聖人は、貞応元年(1222)年2月16日、安房国(現、千葉県)小湊の地で、貫名重忠・梅菊を両親として、5人兄弟の第4子として誕生したと伝えられます。
日蓮聖人の生誕については、聖人自ら多くを語られておりませんので詳らかではありませんが、古来一様に釈尊の再誕という意味もこめて、釈尊涅槃の翌日の2月16日を生誕日にあてています。
また、弘安5年10月16日(日蓮聖人歿後3日後)付の日興(にっこう)著『宗祖御遷化記録(しゅうそごせんげきろく)』によれば、世寿(せじゅ)が数え歳で61歳(満60歳)だったと記されるところから、その生誕は逆算して貞応元年(承久4年)となります。
▼TopixXIII 信長暗殺の黒幕「羽柴秀吉」説〜大河ドラマ『豊臣兄弟!』にからめて〜
令和8年(2026)放送の第65作NHK大河ドラマ「
豊臣兄弟!」は、天下人の弟で天下一の補佐役を果たした豊臣秀長を主人公(演者:仲野太賀)に、強い絆で天下統一という偉業を成し遂げた豊臣兄弟の成功譚をダイナミックに描きます。
戦国時代を描く大河ドラマは、これまでも数多く制作されてきましたが、近年で言えば、「
軍師官兵衛」「
真田丸」「
おんな城主 直虎」「
麒麟がくる」「
どうする家康」に登場した武将たちが再登場することは間違いありません。
今回は、秀吉・秀長兄弟の生涯を描くドラマである以上、同郷の出身で、同じく織田信長の臣下として功名を競い合った柴田勝家の存在が大きくクローズアップされることと予想されます。
勝家は、人望が篤く、信長配下の前田利家(「
利家とまつ〜加賀百万石物語」の主人公)から「親父殿」と呼ばれて慕われ、また明智光秀(「
麒麟がくる」の主人公)も勝家に信頼を寄せていたことが知られています。明智光秀は若い頃、越前国(現在の福井県)を治めていた朝倉義景に仕え、越前東大味(ひがしおおみ)の地で数箇年を過ごし、のちにこの地を去り、織田信長に仕えます。天正元年(1573)8月、朝倉義景と織田信長が衝突した「一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦い」の際、朝倉
家の本拠地である一乗谷からほど近かった東大味も戦禍に巻き込まれるのが必至の状況となり、この時、光秀は、柴田勝家に懇願し、東大味の民を余所の土地に避難させるという安堵状の発給を依頼しました。現在、明智神社そばの西蓮寺には、そのときに発せられた安堵状が保管され、今も東大味地区では、明智光秀とともに柴田勝家が敬愛の情をもって慕われています。
同じ信長家臣でありながら、勝家は、秀吉とは犬猿の仲であったと言われ、信長亡き後は、その険悪な関係は悪化し、天正11年(1583年)3月の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で、勝家は信長の妹お市とともに壮絶な最期を遂げます。
ところで、明智光秀と言えば、「本能寺の変」を思い浮かべる方も多いことでしょう。この史実に対して、近年、本能寺の変の真犯人のひとりとして浮上しているのが、本作『豊臣兄弟!』の兄・豊臣秀吉です。
秀吉は、数々の合戦で戦功を立てながらも、賤しい家柄のため織田家臣団の中でも下位に扱われ、傍若無人な信長のハラスメントに堪えながら忠臣振りを装っていたようです。信長には、柴田勝家・滝川一益といった実力のある譜代の家臣たちがおり、いくら「実力主義」を掲げる信長のもとでも、身分の低さ故に出世躍進が難しいと考えた秀吉は、虎視眈々と一発逆転を狙っていたはずです。
天正5年(1577)にはじまる中国攻めで、秀吉は信長に命じられ毛利輝元の勢力圏である山陽道・山陰道に派兵しますが、6箇年に及ぶ長期戦も秀吉の奸計だったかも知れません。この間、信長からたびたび叱責を受けていたようです。
この時、秀吉が、明智光秀を唆(そそのか)し、結託して西日本を手中に収めようと嗾(けしか)けて、信長暗殺を決行させたと考えるのが、秀吉黒幕説です。
天正10年(1582)6月2日に「本能寺の変」が起こり信長死去の報せが届くと、秀吉はタイミングを計ったように、敵対する毛利とすぐさま和睦を結び、「中国大返し」で都に帰還します。ありえない迅速さで対応した秀吉の行動も、信長暗殺黒幕説の根拠となっています。事実、秀吉は京方面にも多くの間諜を配していたようで、かなり早くに本能寺の凶変を知ったようです。明智光秀を討った同年6月13日のいわゆる天王山「山崎の戦い」は、実は、謀叛の罪を光秀に着せて、共謀の口封じをするためだったとも解釈できます。
「本能寺の変」黒幕説(歴史家・昭和女子大学講師 山岸良二氏提唱)は、
東洋経済オンラインにも詳しく紹介されていますので、ご参照ください。
▼TopicXII 蔦屋重三郎と東洲斎写楽〜大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」先取り〜
NHK放送開始100周年にあたる令和7(2025)年の第64作NHK大河ドラマ「
べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」は、喜多川歌麿・山東京伝・葛飾北斎・曲亭(滝沢)馬琴・十返舎一九などの若手絵師を見出し、日本文化史上最大の謎のひとつ“東洲斎写楽”を世に送り出した、江戸時代中期の出版王・蔦屋重三郎(つたや
じゅうざぶろう/1750〜97)を主人公に描かれます。
江戸時代中期を取り上げ、江戸の庶民を主人公とする大河ドラマは、恐らく本作が初めてになるでしょう。しかも、官許の遊郭吉原(新吉原)を舞台に、色里に生きた花魁たちの知られざる生活を刻銘に描写するようなドラマは、100年に及ぶNHKの放送史上、類を見ないのではないでしょうか。作品では、遊郭の艶やかさや華やかさとは裏腹の「吉原の闇」ともいえる格差や搾取の構造にもスポットを当て、市井の人々の生き様や喜怒哀楽を時代劇の中に落とし込んでいきます。
やがて吉原から城下町日本橋に出店した蔦重は、異学禁止・風俗粛正・出版統制にまで及んだ「寛政の改革」に抗って江戸文化の中心に躍進しますが、その原動力となった志とはいったい何だったのか…。様々な問題意識からドラマを観ることができるのも、本作の醍醐味と言えます。
ちなみに、蔦屋重三郎(喜多川柯理)の菩提寺は、台東区東浅草の日蓮宗正法寺で、法号は「幽玄院義山日盛信士」。墓所は震災・戦災で失われ、同寺には現在、蔦屋家の墓碑と重三郎母子顕彰碑が建っております。重三郎は、吉原や浅草を中心に活躍したところから、当山の所在する台東区がドラマの中心舞台となります。今後、台東区でも様々な事業が展開されると思いますので、ご期待下さい(区内開催の催事等については、
コチラで最新情報をご確認いただけます)。
なお、作品の謎解き部分となる「東洲斎写楽」には、これまでも以下のような諸説が提唱されていますが、果たして、ドラマではどのようなかたちで描かれるのかも、見どころのひとつです。
(1)有名絵師説
葛飾北斎、喜多川歌麿、歌川豊国、山東京伝、鳥居清政、円山応挙、谷文晁、酒井抱一などの絵師の誰かとする説。
(2)能役者・斎藤十郎兵衛説
斎藤十郎兵衛説は古くは、斎藤月岑編『
増補浮世絵類考』(1844年)などに唱えられている。近年では、「さい・とう・じゅう」を並びかえると、「とうじゅうさい(東洲斎)」となることが指摘される。
(3)版元・蔦屋重三郎説
蔦屋重三郎を写楽本人とする説。
(4)複数合作説
蔦屋重三郎がプロデュース役となり、「写楽」の名のもとに、企画を立てる者、アイデアを出す者、下絵を描く者、配色を決める者などがチームを組んで短期間に大量の版画を世に出したとする説。写楽の版画は、全4期に分類され、140点以上の作品がわずか10ヶ月の間に出版されており、なおかつ1期と4期では同じ作者とは思えないほど作風も技量も違うことが指摘されている。「写楽」は、江戸一の版元・蔦屋が打ち上げる花火であったから、北斎・歌麿・豊国といった名だたる絵師や、武士でありながら他聞を憚って能役者となった斉藤十郎兵衛らが参画していた可能性も否定できない。合作説を唱える文献としては、橋本直樹著『六人いた!
写楽〜歌麿と蔦屋がプロデュースした浮世絵軍団』 (宝島社新書、2014年) などがある。
▼TopixXI 大河ドラマ「光る君へ」〜藤原氏系図にみる日蓮聖人と紫式部の関係〜
令和6年(2024年)放送の第63作NHK大河ドラマ
「光る君へ」は、世界最古の長編小説『源氏物語』を生み出した紫式部を主人公に、きらびやかな平安貴族の世界に生まれ、変わりゆく世を自らの才能と努力で生き抜いた、ひとりの女性の愛の物語として描かれます。
藤原道長への想いを募らせ、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏「光る君」のストーリーを紡いでゆく紫式部の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。
紫式部の出自は、藤原北家の流れを汲み、道長と同じ藤原冬嗣の子孫にあたります。藤原氏の系図では、紫式部の高祖父・藤原利基の末流に連なるのが井伊家・貫名家で、ここに日蓮聖人の父・貫名重忠が名を連ねます。このことから、紫式部と日蓮聖人は遠戚にあたることがわかります。
ちなみに、貫名家の親戚にあたる井伊家には、大河ドラマ「どうする家康」に登場した井伊直政、「青天を衝け」に登場した井伊直弼がいます。また、同じ藤原氏系図には鎌倉仏教の祖師である親鸞や室町期の真宗の蓮如はじめ、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した藤原秀衡、伊東祐親、工藤祐経、曾我兄弟らの名が見えます。
系図には所説ありますので断定的なことは言えませんが、児玉幸多編『標準 日本史年表』(吉川弘文館)に基づきご紹介まで申し上げます。
▼Topic] 宮沢賢治と鶯谷国柱会館〜映画「銀河鉄道の父」より〜
宮沢賢治(1896-1933)と言えば、日本のみならず世界中の人々の心に生き続ける詩人・童話作家として有名ですが、歿後90年となる今年(2023年)、激動の時代にある私たちに生きる力を与えてくれる、映画史に残る一本が誕生しました。
タイトルは、『
銀河鉄道の父』。監督は、成島 出。出演は、役所広司(父・政次郎)・菅田将暉(長男・賢治)・森 七菜(妹・トシ)・坂井真紀(母・イチ)・田中 泯(祖父・喜助)・豊田裕大(弟・清六)ほか。原作は、直木賞作家の門井慶喜。膨大な賢治関係資料の中から賢治の父
政次郎について書かれたものを集め、笑いあり涙ありの感動の親子愛を描きます。
賢治はまた、日蓮聖人に心酔し、法華経に生きた人物としても知られます。その彼が宗教的拠り所として傾倒したのが、日蓮系信仰教団の国柱会(こくちゅうかい)でした。
明治17年(1884)に田中智学(1861-1939)によって創設された国柱会は、純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団で、大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、台東区)の鶯谷に国柱会館を創建します。実は、国柱会館は、当山(要傳寺)と言問通り(ことといどおり)を挟んだ向かい側に所在していたことが知られています(鶯谷の国柱会館については、
コチラご参照ください)。映画本編の特報でも、賢治が国柱会館を訪ねて入信する場面が告知されています。
賢治の生涯について詳しくお知りになりたければ、年譜形式でつづった伝記として、堀尾青史著『年譜宮沢賢治伝』((中央公論新社『中公文庫』、1966・1991年)をお薦めします。また、宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』、1991年)は、賢治の生涯を傍らから見つめた実弟の視線から賢治の人物像や賢治文学の諸相を語ったものとして必読の書と言えます。小説・映画と併せてお読みいただければ、作品への没入感が否が応でも高まります。
映画『銀河鉄道の父』、令和5年(2023)5月5日こどもの日、全国ロードショウ、乞うご期待!
【宮沢賢治の人物像】
宮沢賢治(1896-1933)は、日本文学に独特な世界観を開拓した詩人であり、童話作家である。質屋・古着商を営む家に生まれ、凶作や飢饉に見舞われる過酷な風土の中で育つ。18歳の時、法華経を読んで感動し、熱烈な法華信者となり、24歳の時、法華経を信奉する日蓮系信仰団体「国柱会」に入会。宗教と芸術の融合について示唆を受け、創作活動に専念するようになった。賢治の文学の根底にはこの法華経の教えがあり、これが賢治が宗教思想家と呼ばれる所以となっている。
25歳の時、県立花巻農学校の教諭になると、口語詩の制作を開始し、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表。28歳で詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費刊行する。
30歳で農学校を退職し、独居自炊の農耕生活に入る。農業青年を集めて「羅須地人協会」をつくり、農芸化学や農民芸術論の講義、レコード鑑賞、合奏練習などの文化活動を開始した。また無料で肥料設計を行うなどの献身的な活動の傍ら、農業・芸術・科学・宗教の一体化を目指すが、警察当局に目をつけられたり、結核を発病したりなどして挫折した。その後病気が一時回復して砕石工場の技師となるが再び発病し、『銀河鉄道の夜』などの膨大な未発表原稿を残して37歳で歿した。
生前は一部の詩人に高く評価されながらもほとんど無名だった。その膨大な詩と童話は、みずみずしい言語感覚、奔放な想像力、自然との交感に満ちている。そこにひそむ文明への深い洞察により、次第に多くの読者を獲得し、日本を代表する国民作家の一人となった。現在、彼の作品をもとにさまざまな絵本や映画、舞台が創作されている。
【小説に登場する主な仏教用語解説】
小説『銀河鉄道の父』の作中に用いられた仏教用語を解説します。頁数は、門井慶喜著『銀河鉄道の父』(株式会社講談社『講談社文庫』か126-2、2020年初版本、ISBN978-4-06-518381-6)の初出頁ほかとなります。
(1)浄土真宗(13・305頁)
真宗ともいう。鎌倉新仏教の一で、浄土教の一宗。専ら他力による往生を旨とする宗派で、阿弥陀如来の本願力によって極楽浄土に往生できるという。
(2)東本願寺・御影堂(13頁)
真宗本廟東本願寺。京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある真宗大谷派の総本山。親鸞(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞の御身影(ごしんえい)を安置する御影堂(ごえいどう)は、国の重要文化財に指定されている。
(3)親鸞(13・130頁)
親鸞(1173〜1262)は真宗(浄土真宗)の開祖。はじめ比叡山で修学したが、後に法然房源空(1133〜1212)の門に入って念仏に帰依した。源空の土佐流罪に際しては、還俗の上、ともに越後に配流される。赦免後、妻帯した恵信尼とともに東国常陸に赴き、また晩年は京都に戻って『教行信証』などを著している。親鸞歿後に弟子によって著された『歎異抄』は、親鸞の弟子善鸞をはじめ真宗教団内に湧き上がった異端思想を嘆いた書として知られる。
(4)なむあみだぶつ・南無阿弥陀仏・称名(13・298頁)
「阿弥陀仏に帰依(南無)します」という意味。浄土教で称える六字名号。阿弥陀如来の四十八願のうち、第十八願に往生念仏の願が示され、これを「本願(王本願)」と呼ぶが、浄土教では、「南無阿弥陀仏」という六字名号の称名念仏によって、阿弥陀如来の本願たる「往生念仏の願」にすがり、西方極楽浄土に往生することを目的とする。これを「他力本願」という。
(5)安浄寺(49頁)
花巻山安浄寺。岩手県花巻市桜木町1-46にある浄土真宗大谷派の寺院。延徳3年(1491)、蓮如の弟子弘教坊釈水堅によって創建される。宮沢家の菩提寺で、賢治の父政次郎は同寺の檀家総代も務めるほどの篤実な仏教徒であった。宮沢家は、昭和26年に日蓮宗身照寺を菩提寺として宗旨替えし墓所を移している。
(6)開経偈(123・188頁)
仏教各宗派で経を開き読誦するのに先立って唱える偈文(げもん)。「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義(無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解せん)」。なお日蓮宗では、同じ開経偈でも「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い奉ること難し。我今見聞し、受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん(以下略)」と、称える文句が異なっている。
(7)島地黙雷・島地大等(178頁)
島地黙雷(1838〜1911)は、明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。島地大等(1875〜1927)はその養嗣子(法嗣)で、黙雷亡き後は盛岡願教寺(浄土真宗)の住職となり、曹洞宗大学(現・駒澤大学)、日蓮宗大学(現・立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学(現・東京大学)でインド哲学を教えた。歿後、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行されている。宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』1991年)246頁によれば、賢治は、盛岡中学時代に
しばしば仏教の勉学のために訪れた願教寺にて島地大等と出会っている。ただし、賢治が法華経に最終的に帰依するのは、盛岡高等農林卒業の間際である。『兄のトランク』70頁に、当時の賢治の宗教観を窺い知ることのできる葉書(大正元年11月3日状)が紹介されている。
(8)報恩寺(180頁)
瑞鳩峰山報恩禅寺。岩手県盛岡市名須川町31−5にある曹洞宗の古刹。貞治元年(1362)開山、応永元年(1394)創建。本尊は釈迦如来。境内の羅漢堂にある五百羅漢で有名で、京都の9人の仏師の手により、享保16年(1731)から4年を費やして造られた。全て寄せ木造り、漆塗りで、像の中にはマルコポーロ、フビライなども見られる。大正元年11月3日付の賢治書状に「報恩寺の羅漢堂」とみえるは、同寺のことをさす。賢治は、同寺住職の尾崎文英の下にて参禅し、高農在学中も足繁く通った。宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』1991年)68・246頁参照。
(9)漢和対照妙法蓮華経(184・303頁)
島地大等編著になる法華経の原文(漢文)と書き下し(訓下文)の対照本。明治書院より1916年に発刊された。装丁が赤い表紙であったところから、通称「赤本」と呼ばれる。宮沢賢治が法華入信の機縁となったのはこの経巻に出会ったことによる。賢治の弟・清六が賢治の遺志で発行した『国訳妙法蓮華経』は、島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を校訂したものであると伝えられる。宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』1991年)246頁によれば、賢治は、盛岡中学時代に
しばしば仏教の勉学のために訪れた願教寺(浄土真宗)にて島地大等と出会っている。ただし、賢治が法華経に最終的に帰依するのは、盛岡高等農林卒業の間際である。『兄のトランク』70頁に、当時の賢治の宗教観を窺い知ることのできる葉書(大正元年11月3日状)が紹介されている。
(10)妙法蓮華経(187・188頁)
鳩摩羅什(344〜413年)によって406年に漢訳された『妙法蓮華経』全8巻(調巻によっては全7巻本も伝わる)。法華経と略す。妙法蓮華経は、梵語(サンスクリット)サッドダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma-pundarika-sutra)の漢訳。サッドは「正しい、真実の」、ダルマは「法」の意で、つまりサッドダルマは「正しい真理(の教え)」の意味。一般に「正法」と訳されるが、鳩摩羅什はこれを「妙法」と訳した。「蓮華」の原語であるプンダリー力は、正しくは「白蓮華」を意味する。妙法蓮華は妙法(サッドダルマ)と蓮華(プンダリーカ)という二つの言葉の合成語で、梵語の合成語は、後の語が前の語を修飾するため、「蓮華のようにすばらしい妙法」というのが妙法蓮華の意味である。
(11)浄土三部経(187頁)
浄土宗・浄土真宗等の依経である『無量寿経(大無量寿経・大経)』『観無量寿経(仏説観無量寿仏経・観経)』『阿弥陀経(小無量寿経・小経)』のこと。
(12)天台宗・日蓮宗(188頁)
天台宗は、中国随代に天台大師智(538〜597)が開いた仏教学派(衆派)。伝教大師最澄(767〜822)が入唐求法して日本に伝え、天台法華宗として開いた。日本天台宗の総本山は、比叡山延暦寺(滋賀県)。鎌倉時代には、源空(法然)・親鸞・道元・栄西・日蓮ら鎌倉仏教諸宗の祖を輩出している。日蓮宗は古来、法華宗、日蓮法華宗などとも呼ばれた鎌倉時代成立の宗派で、今日の宗教法人「日蓮宗」の名称は、明治9年(1876)に公許されている。宗祖は日蓮聖人(1222〜1282)、開宗は建長5年(1253)4月28日、所依の経典(依経)は『妙法蓮華経』、信仰の対象(本尊)は法華経本門の教主たる釈迦牟尼仏、総本山は身延山久遠寺(山梨県)である。
(13)極楽浄土・阿弥陀仏(190頁)
極楽浄土は、阿弥陀如来(阿弥陀仏)の住処。『仏説阿弥陀経』によれば、西方十万億土の仏土を過ぎたところに存在する浄土で、西方浄土とも称する。三塗および諸の苦難がなく、ただ快楽のみがあり、阿弥陀如来が常に住して法を説く世界。この極楽に死後往生しようというのが、浄土教である。
(14)娑婆ふさぎ(191頁)
「娑婆」は、梵語Sahaの音写。語源的には「忍ぶ」の意。忍土・堪忍土・忍界と漢訳する。この世界の衆生は内に種々の煩悩があり、外には風雨寒暑などがあって、苦悩を堪え忍ばねばならないところから、この名がある。なお、「娑婆ふさぎ(娑婆塞ぎ)」とは、生きているだけで何の役にも立たないこと。
(15)教浄寺(198頁)
擁護山無量院教浄寺。岩手県盛岡市北山1-13-25にある浄土門時宗の寺。南部五山の一。南部信長によって正慶2年(1333)青森県三戸に建立、盛岡城築城に伴い、慶長17年(1612)当地へ移転した。宮沢賢治が盛岡高等農林学校入学直前の3ヶ月を当寺にて下宿していた。
(16)南無妙法蓮華経(295・296頁)
「妙法蓮華経に帰依(南無)します」という意味。日蓮宗はじめ日蓮系教団で唱える題目。妙玄題目、玄題、七字妙題などともいう。題目を唱えることを唱題という。
(17)太鼓(295頁)
日蓮系教団で用いられる法具。太鼓の一種で、金属の丸い枠に皮を張り、持つのに便利なように柄をつけたものでその形状が団扇に似ているところから「団扇太鼓(うちわだいこ)」とも呼ばれる。据え付けの大太鼓と異なり携行が可能で、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながらこれを打ち鳴らして練り歩くことを「唱題行脚(しょうだいあんぎゃ)」などとも呼ぶ。古くは一枚張りのもので、歌川(安藤)広重の版画として知られる江戸自慢三十六興「池上本門寺会式」などにも描かれているところから、江戸時代中期頃には、かなり普及していたものと思われ、この当時から題目講中・万灯講中で広く用いられていたことがわかる。なお、両面張りの団扇太鼓もあり、これは江戸末期か明治初期のことであろうと推定されている。
(18)国柱会・田中智学(295・296頁)
国柱会は、坪内逍遥・高山樗牛・姉崎正治・北原白秋・宮沢賢治・石原莞爾らに影響を与えたことで知られる純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団である。明治17年(1884)に田中智学(1861〜1939)によって創められた。会名の由来は、日蓮聖人のことばである「日本の柱」(『開目抄』601頁)、「日本国の柱」(『撰時抄』1053頁)による。智学はもと日蓮宗の僧侶であったが、宗門改革を目指して明治13年(1880)に横浜で蓮華会を設立、明治17年(1884)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、大正3年(1914)には諸団体を統合して国柱会を結成した。賢治は、父政次郎との信仰上の葛藤に苛まれていたある日、店の火鉢にあたっていた時に棚から落ちてきた日蓮聖人の著書が背中にあたり、その瞬間、日蓮聖人から背中を押されたと感じて国柱会に入会する決意を固めたという。
(19)日蓮聖人・日蓮(296・305頁)
日蓮聖人(1222〜1282)は、鎌倉仏教の祖師のひとりで、今日の日蓮宗ならびに日蓮系諸教団の開祖。釈尊の一代仏教の真髄が法華経にあるとして、南無妙法蓮華経の題目受持を勧奨した。主著に『立正安国論』『開目抄』『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』などがある。
(20)曼陀羅・十界曼陀羅・本尊・ひげ題目(296・297頁)
曼荼羅(曼陀羅)とは、サンスクリット語のmandalaを音訳したもので、仏の世界の真理を図様化したもの。日蓮聖人は、紙本または絹本を用いて、「南無妙法蓮華経」の題目七字を中心に仏菩薩等の諸尊をしたため、これを聖人自身は「大曼荼羅(大漫荼羅)」と呼んでいる。法華経の如来寿量品で明かされた久遠実成の釈尊を本尊とし、霊鷲山虚空会での法華経の説法の場面を表顕したもの。虚空会では、釈迦・多宝の二仏が並び坐した多宝塔を中心に、諸仏(十方分身仏など)・諸菩薩(上行菩薩・弥勒菩薩など)・諸天善神(四天王・天照大神・八幡大菩薩など)等が列座し、釈尊滅後に法華経を弘める本化の菩薩たちに四句の要法(所有の法、自在の神力、秘要の蔵、甚深の事)を託す「付嘱(付属)の儀式」が展開する。日蓮聖人は、このとき釈尊より付嘱された要法こそが「南無妙法蓮華経」であると解釈し、この法華経の虚空会の儀式を殊更に重視して、久遠の釈尊による救済の世界を「大曼荼羅」として図顕した。なお、日蓮教団で「本尊」と言えば、一般的に「大曼荼羅」をさす。また、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界がしたためられた大曼荼羅を「十界勧請大曼荼羅」「十界曼荼羅」などと呼ぶ。中央に大書された題目七字は、筆の払いなどが豪快な筆致であるところから、「ひげ題目」と呼ばれる。
(21)常不軽菩薩(300頁)
『法華経』常不軽菩薩品において釈尊の本生譚として登場する菩薩で、人々の仏性を敬い礼拝すること(但行礼拝)を専らの行とした。この但行礼拝に対して瞋りの念を起す者(四衆)がいて菩薩を迫害したが、常不軽菩薩は礼拝讃歎の行を止めず、その功徳で法華経に巡り逢いついに成仏することができ、菩薩を軽賤した人々もひとたび無間地獄の大苦を受けた後、その罪を償い終わってやがて成仏することができたという。この故事に示された重要なテーマは、たとえ法華経を信仰していない者であっても、法華経と結縁(けちえん)する機会さえあれば、いずれその種が芽を咲かせ皆一同に成仏して、法華の浄土である「常寂光土(じょうじゃっこうど)」で仏陀釈尊や法華経信仰に生きた人々に面奉できることの根拠が示されていることである。
賢治の遺言は、このためにあった。
(22)天業民報(303頁)
「国柱新聞」とならび国柱会の文書伝道の主要媒体となった機関誌。東京鶯谷国柱会館の天業民報社から発刊されている。国柱会は、その創立当初から言論に文書に純正日蓮主義を鼓吹する宣伝活動を行っており、とくに文書伝道の中心をなしたのが、夥しく出版されたこれら機関誌の発行であった。
(23)妙宗式目講義録(304頁)
『本化妙宗式目大講義録』のこと。明治35年(1902)、田中智学は日蓮主義教学の組織大成をめざし、「本化妙宗式目(ほんげみょうしゅしうしきもく)」を完成し、翌年大阪の立正閣で本化宗学研究大会を開講、約200人の受講者に1年間これを講じた。門下の山川智応(1879〜1956)が筆受整記した講義録は、5巻3300頁に及び、明治37年より『本化妙宗式目大講義録』と題して8年の歳月を費して刊行された。
(24)会館(308頁)
大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、東京都台東区)の鶯谷に創建された国柱会館のこと。
(25)高知尾智耀(321・329頁)
高知尾智耀(1883〜1976)は、早稲田大学在学中、高山樗牛の文章に感銘し樗牛追悼会で田中智学の講演を聴講し、これが機縁となって明治44年(1911)に国柱会に入会。最勝閣に本化大学準備学会教授として奉職、以来国柱会理事、天業青年団幹事長、明治会講師などを歴任。智耀から「法華文学ノ創作」をすすめられた賢治は、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中した。
(26)寿量品(489頁)
『妙法蓮華経』の中心的教義が説かれる第16番目の章「如来寿量品」のこと。釈尊は、30歳(通仏教では35歳)の時にガヤ(現・ブッダガヤ)で悟りを開き80歳の時にクシナガラで入滅するという有限の寿命をもつ仏(如来)ではなく、五百億塵点劫という久遠の過去世に成仏した永遠の仏であること、その救済は眼前にいる「在世」の衆生のみならず釈尊なきあとの「滅後」の衆生に及ぶこと、そしてその永遠の世界は、この娑婆世界にこそ顕現される永遠の浄土(常寂光土)であることが説かれる。日蓮聖人は、この如来寿量品が説かれた霊鷲山虚空会(りょうじゅせんこくうえ)の説法の場面こそ、この娑婆世界にひととき姿を現した久遠の釈尊の永遠の浄土であるとして、これを「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼んだ。
(27)雨ニモマケズ(502頁)
宮沢賢治(1896〜1933)の代表作。「雨ニモマケズ」に示された「デクノボー」精神は、『法華経』に説かれる常不軽菩薩(前掲)の菩薩道を詠ったものとして世に高く評価されている。賢治は、「法華経詩人」と称されるほど熱心な法華経信仰者で、日蓮聖人の「本化の菩薩」として生きた不惜身命の志に深く感化された。そのことは、「雨ニモマケズ」手帳の詩の末尾に、南無妙法蓮華経の七字、釈迦・多宝の二仏、本化の四菩薩(一塔両尊四士の文字曼荼羅)がしたためられていることからも窺える。
この詩には、法華経の重要なテーマが幾つも鏤められている。法華経の教えの3つの柱は、(1)開会の法門(開三顕一・開迹顕本)、(2)付属の儀式、(3)菩薩行の実践であるが、釈尊は、真実の教え(正法)たる法華経を弟子や修行者たちだけのものにするのではなく、その教えの真髄を世の中に弘め、世間に還元していくことを切望し、法華経を委嘱(付属)すべく大地の底から数多くの菩薩たちを召喚した。いわゆる「本化の菩薩」と呼ばれる釈尊の久遠の弟子たちである。その上首が上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩で、彼らこそが、仏の教えをこの世に実践していく使命を帯びた4人の菩薩たち(本化の四菩薩)であった。実は、賢治の「雨ニモマケズ」の終盤で、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句には、大きな意味が込められている。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ■■■ツマラナイカラヤメロトイヒ
多くの活字本では、最後の一文には「行ッテ」の文字がない。しかし、実際に、賢治の「雨ニモマケズ」手帳を手に取ると、赤鉛筆で書き込みが加えられていて、「行ッテ」が4箇所あったことがわかる。この事実は、賢治が信仰した法華経に登場する4人の菩薩の名前に、共通して「行」という字が入っていることと無関係ではない。東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事で、賢治にとっては、「法華経」をこの世で実践することが何より大切であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからである。行動こそ、「行ッテ」なのである。
賢治が信仰した国柱会では、法華経は僧侶のような修行者たちだけのものではなく、一般庶民が進んで実践すべき教えであるとして活動を展開した。その理念に感化された賢治は、文芸を通じて法華経の教えを世の中に伝えるべく法華文学の創作に没頭した。しかし、周知の通り、賢治は、晩年、結核を患い、病の床にある日々か続いていた。行動することが大切だということ、それは自分で動くことができない賢治の切なる願いではなかったか…、そのような背景を知った上で、賢治の作品を読み返してみるのも、また味わい深い。
▼Topic\ 徳川家康ゆかりの日蓮門下寺院〜大河ドラマ「どうする家康」豆知識〜
令和5年(2023)放送のNHK大河ドラマ(第62作目)「
どうする家康」。
国を失い、父を亡くし、母と別れ、心に傷を抱えた孤独な少年が、群雄割拠する戦国時代を生き抜き、ついに天下人になるまでの試練と決断の道のりを描いた本作には、織田信長(演者:岡田准一)、明智光秀(演者:酒向芳)、豊臣秀吉(演者:ムロツヨシ)はじめ、武田信玄(演者:阿部寛)、浅井長政(演者:大貫勇輔)、今川義元(演者:野村萬斎)、柴田勝家(演者:吉原光夫)、加藤清正(演者:淵上泰史)、真田昌幸(演者:佐藤浩市)、石田三成(演者:中村七之助)と次々に現れる猛者たちが物語を盛り上げます。
ここでは、本作の主人公徳川家康(演者:松本潤)にゆかりのある日蓮系教団の寺院を紹介いたします。今後、随時更新して参りますので、お楽しみに。また、番外編として、宗派は異なりますが、要伝寺からほど近い場所にある上野寛永寺のリンクも貼っておきます。
なお、明智光秀については、令和2年放送の大河ドラマ「麒麟がくる」の関連記事(下記)も併せてご覧下さい。
■東京都
○慈雲山 瑞輪寺(ずいりんじ/東京都台東区谷中4-2-5)…日蓮宗
開山は慈雲院日新(じうんいん にっしん)、開基檀越は徳川家康。家康幼少の頃の学問教育の師範だった日新は、天正6年(1578)に身延山久遠寺17世として入山し、天正9年(1581)、甲州を領して身延山に詣でた家康と道話をする日々を重ね、将来に弘通所の地を寄せる約束を交わす。家康は天下統一の後、天正19年(1591)、学問教育に預かった謝儀をあらわし、先年の約束を果たして、日本橋馬喰町(ばくろちょう)に身延山久遠寺の布教所としで瑞輪寺を創建。その後、大火等による類焼で2度の移転を経て、現在の谷中の地に遷された。明治元年(1868)の上野戦争では悉く烏有に帰しているが、瑞輪寺は度重なる罹災を乗り越えて、その都度再建されている。
○妙祐山 幸龍寺(こうりゅうじ/東京都世田谷区北烏山5-8-1)…日蓮宗
徳川家康がまだ浜松城主であった折、徳川秀忠(のちの徳川2代将軍/演者:森崎ウィン)の乳母で、玄龍院日x(げんりゅういん にっしゅん)の檀越であった大姥局(正心院殿日幸・しょうしんいんでんにちこう)が、秀忠のために一字を建立することを家康に願い出、家康が開基となって天正7年(1579)に浜松城外に建立した。家康が駿河・江戸と居を移すたびに同寺も移され、江戸では神田湯島(のち浅草田圃)に寺域を構えた。家康の帰依は日xの祈祷修法によるものと思われる。以後、徳川将軍家の祈願寺として外護された。
■千葉県
○安国山 最福寺(さいふくじ/千葉県東金市東金1693)…顕本法華宗(現、日蓮系単立)
大同2年(807年)に伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう)により天台宗の寺院として創建。文明11年(1479)、京都妙満寺日遵(にちじゅん)の弘教により、顕本法華宗に改宗。慶長19年(1614)、当時の住持であった日善(にちぜん)は、徳川家康が鷹狩の際、休憩に使った東金御殿(とうがねごてん)で家康と会談し、その八ヶ月後の大阪冬の陣(1614年11月)の直前にも、駿府城内で家康に拝謁し対談したことが『駿府記』(慶長19年9月条)に記される。このことに因み、寺には家康と日善の対談の場面を描いた銅像が建つ。江戸時代には、家康から30石の寺領を受けた「御朱印寺」となり、法華宗妙満寺派の本山輪番上総十ヶ寺の一つであった。
■山梨県
○大野山 本遠寺(ほんのんじ/山梨県南巨摩郡身延町大野839)…日蓮宗
開山は総本山身延山久遠寺を隠退した心性院日遠(しんしょういん にちおん)、開基は徳川家康側室の養珠院お万(ようじゅいん おまん/演者:未定)。慶長13年(1608)、上野寛永寺(天台宗)とならび徳川家菩提寺となった芝増上寺(浄土宗)学僧の廓山(かくざん)と、京都妙満寺(当時、日蓮宗不受布施派)の常楽院日経(じょうらくいん
にちきょう)が江戸城で宗論を交わし、結果、日経が敗れると、家康は日蓮教団各本山に、日蓮が主張する「四箇格言」の一つ「念仏無間」は経典にない空論だという誓状を提出するよう迫った(慶長法難)。身延山22世であった日遠は、法論に不正があったことを訴え、誓状の提出を拒み再宗論を求めて抗議したため、謀反人にされ安倍川の河原で磔刑に処される事となった。これを知ったお万は、師事した日遠と共に自らも処刑されることを家康に願い出た。家康はお万の信仰心と覚悟を知り日遠を赦したという。その後、日遠は刑余の身をはばかり身延山を出て大野の庵で隠棲。お万は二人の子供、紀州の徳川頼宣(紀伊徳川家の祖、徳川吉宗の祖父/演者:未定)と水戸の徳川頼房(水戸徳川家の祖、徳川光圀の父/演者:未定)に命じて大野に大伽藍を寄進させ、かくして慶長14年(1609)本遠寺は創建された。なお、お万の父正木頼忠は、三浦義同(よしあつ)−正木時綱(通綱)−時忠−頼忠と連なる正木三浦氏の出自で、その祖先は、前作大河ドラマ「
鎌倉殿の13人」にも登場した三浦義村の娘矢部禅尼(北条泰時の初婚の妻)が佐原盛連に再嫁して産んだ加納盛時(のち三浦盛時)と伝えられる。三浦一族は、鎌倉時代宝治元年(1247)の宝治合戦(三浦氏の乱)で、北条氏の外戚安達(あだち)氏らによって滅ぼされるが、その血筋は、養珠院お万を先祖にもつ水戸徳川家へと続き、大河ドラマ「
青天を衝け」に登場した徳川慶喜まで繋がるのである。
■静岡県
○貞松山 蓮永寺(れんえいじ/静岡県静岡市葵区沓谷2-7-1)…日蓮宗
開山は、日蓮聖人の直弟子六老僧の蓮華阿闍梨日持(れんげあじゃり にちじ)。もと駿河国松野村に所在したが、日持が永仁3年(1295)に東北への布教伝道に出立すると、無住同様の様相を呈し、また甲斐武田氏の兵火にも遭って全く荒廃の情況をみた。徳川家康側室の養珠院お万(先述)がこれを歎き、家康に請うて、駿府城を守る鬼門にあたる沓谷(くつのや)郷を拝領し、松野の地から移されて再興される。
○経王山 妙法華寺(みょうほっけじ/静岡県三島市玉沢1)…日蓮宗
日蓮聖人直弟六老僧の弁阿闍梨日昭(べんあじゃり にっしょう)の開山。聖人在世当時にあっては鎌倉浜(従来説では「浜土」)の地に庵を結んでいたが、聖人歿後の弘安7年(1284)に経王山法華寺と寺号を称するようになった。その後、鎌倉材木座、高御倉小路、伊豆加殿村と移転し、15世日産(にっさん)の代に現在の玉沢の地に移され、元和7年(1621)、養珠院お万(先述)、英勝院お嘉知(えいしょういん
おかち)、徳川頼宣、徳川頼房、太田道顕、三浦為春らが大檀那となって巨額の浄財が寄せられ、大伽藍が整った。徳川家家紋「三つ葉葵」の使用を許された数少ない古刹のひとつである。
○長光山 妙恩寺(みょうおんじ/静岡県浜松市東区天龍川町179)…日蓮宗
応長元年(1311)に肥後阿闍梨日像(ひごあじゃり にちぞう)が開創し、開基は金原法橋(きんばらほっきょう・かなはらほうきょう)とされる。同寺11代日豪(にちごう)は武田家の重臣馬場美濃守の末子であったが、徳川家康・武田軍対陣の際、徳川軍が妙恩寺を本陣に使用することを許諾し、また三方ヶ原の合戦で敗れた家康が妙恩寺に身を隠し、難を逃れたという伝説(天井裏の家康伝説)も残されている。これらのことによって日豪は家康から信頼を受け、家康が浜松城に在城するようになると、寺の紋に「丸に出二つ引き」を与えられ、囲碁の友としても親交を深め、家康の後年には日豪の為に浜松城内に一宇の精舎を建立して与えた。現在の妙恩山法雲寺(静岡県浜松市中区浜松市高町300-3)がそれにあたる。
○徳永山 光長寺(こうちょうじ/静岡県沼津市岡宮1055)…法華宗本門流
法華宗四大本山の一つ。建治2年(1276)、日蓮聖人の直弟和泉阿闍梨日法(いずみあじゃり にっぽう)・蓮明阿闍梨日春(れんみょうあじゃり にっしゅん)によって建立された。9世日浄(にちじょう)の代には今川氏元(『日蓮宗事典』による。正しくは葛山氏元か)より寺領が寄進され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領の寄進を受けた。また家康が鷹狩の途中に止宿したおり、家康より網代乗輿を賜っている。
○富士山 本門寺(ほんもんじ/静岡県富士宮市西山671)…本門宗(現、日蓮系単立)
康永3年(1344)、白蓮阿闍梨日興(びゃくれんあじゃり にっこう)の弟子日代(にちだい)が、西山の地頭大内安清からの寄進を受け建立。興門派八本山の一つ。天正年間には、当地で最大勢力を誇っていた武田勝頼(演者:眞栄田郷敦)の庇護を受けていたが、同10年(1582)の武田家滅亡後は、徳川家康から諸役免除の朱印を与えられ、徳川家の庇護を受けるようになった。同寺には、顕本法華宗の僧で囲碁の名手として知られる本行院日海(ほんぎょういん
にっかい・本因坊算砂)の命により織田信長の首を葬ったと伝えられる首塚がある。
■福井県
○最初具足山 妙顕寺(みょうけんじ/福井県敦賀市元町9-18)…日蓮宗
天長2年(825)に春鴬山気比神宮寺として藤原北家の藤原武智麻呂により開かれた寺院であったが、日蓮聖人の遺命をうけ帝都弘通を目指す肥後阿闍梨(龍華樹院・りゅうげじゅいん)日像(1269-1342)が北陸開教の際に立ち寄り、当時、真言宗であった同寺の住僧覚円との問答の末、改宗した。
龍華日像は、京都に龍華具足山妙顕寺・西龍華具足山立本寺・北龍華具足山妙覚寺の所謂「龍華の三具足」と称される寺院を建立するが、敦賀妙顕寺は、北陸開教で最初に日像によって開かれた具足山であるところから、山号を「最初具足山」という。敦賀妙顕寺は、また、妙勧寺(福井県越前市)、妙泰寺(福井県南条郡)、妙興寺(福井県小浜市)とともに日像菩薩四箇聖跡と呼ばれている。
元亀元年(1570)、織田信長による朝倉攻めの遠征の際、徳川家康・木下藤吉郎(豊臣秀吉)らが金ヶ崎城・手筒山城攻めの本陣として共に妙顕寺に宿当している。
■大阪府
○広普山 妙國寺(みょうこくじ/大阪府堺市堺区材木町東4-1-4)…日蓮宗
永禄5年(1562)、日蓮宗の学僧仏心院日b(ぶっしんいん にちこう)が開山する。境内地に樹齢1100年を超える蘇鉄(ソテツ)があり、幹枝は大小120数本を数え、周囲は17m、樹高は5m以上に及び、国の天然記念物に指定されている。この大蘇鉄は、安土桃山時代、戦国武将織田信長の所望で安土城に移植されるが、毎夜「堺に帰りたい」と泣くので、信長は激怒して切り倒すことを命じた。蘇鉄は切り口から鮮血を流し大蛇のごとく悶絶し、これに恐れをなした信長は再び妙國寺に返したと伝えられる(「夜泣きの蘇鉄」伝説)。同寺は、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受けて栄華を極めながら、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣軍により火を放たれ、灰燼に化すなど度々焼失している。しかし、そうした大火をくぐり抜け生き残った霊木の蘇鉄は、厄除け・吉祥のシンボルとして崇められてきた。境内には幕末土佐藩士割腹跡の碑が立ち、他にも千利休が寄贈した六地蔵や手水鉢、徳川家康・与謝野晶子・正岡子規が蘇鉄を詠んだ歌碑も点在する。
■愛知県
○大光山 善立寺(ぜんりゅうじ/愛知県岡崎市祐金町1)…日蓮宗
応仁元年(1467)、本是院日護(ほんぜいん にちご)が創建したのが始まりと伝えられる。元々は安城の地にあり、安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せ、その後、松平清康が安祥城から岡崎城に移ると同時に寺も移り、松平家の武運長久を祈願し、松平広忠(演者:飯田基祐)より寺領を寄進された。徳川家康が菅生川で川遊びをしたとき、よくこの寺で休んだと伝えられ、境内には家康の手植えと伝えられる古名木「臥竜梅」(がりゅうばい)がある。天正18年(1590)、家康が江戸に入ると4世日得はこれに従い、江戸浅草に善立寺を遷した。
【番外編】
○東叡山 寛永寺(かんえいじ/東京都台東区上野桜木1-14-11)…天台宗
寛永寺は、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた慈眼大師天海(じげんだいし てんかい/演者:未定)によって、寛永2(1625)年、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる武蔵国上野の台地に建立された。3代山主には、後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになった。また、山主に対して、朝廷より輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜され、輪王寺宮は比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山万願寺(現、輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)と言われ、文字通り仏教界に君臨することとなる。同寺は、令和7年(2025)に創建400周年を迎える。
▼Topic[ 要傳寺檀徒の系譜(3) 〜要傳寺過去帳にみる寺檀の歴史〜
令和6年に開闢410年を迎える要傳寺には、創建以来400年間の寺檀(寺と檀家)の歴史を伝える、すべての檀信徒の過去帳が格護されています。
江戸の大火や明治の廃仏毀釈、大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等々、数々の罹災を免れ、今日までこれらの史料が伝存し得たのは、ひとえに歴代住職による格護の尽力の賜であるといっても過言ではありません。
今日、それらすべての史料は、全点を写真撮影にて保存し、記録の全件を文字情報として電子化して管理しております。当連載第3回目にあたり、これら電子化された史料の整理・分析の成果の一端を御報告いたします。
現在、当山には、@「年別過去帳」と総称される年代順(時系列)の過去帳と、A「墓籍簿」と呼ばれる檀徒各家の墓地ごとに管理された帳簿とが存在します。
@「年別過去帳」は、寛永3年(1626)から大正15年(1927)までの『元過去帳』全6巻・『霊簿』全1巻・『新寂簿』全2巻と、明治20年(1887)から平成12年(2000)までの記録を統合・整理した『年別引導霊記録』全1巻とがあり、明治・大正期の一部は年代が重複している部分もあります。これらのうち江戸期の記録には、俗名の苗字(姓)が記されないものが多く、家系を辿るのが困難な事例が多く存在します。
一方、A「墓籍簿」には明治元年から昭和20年までの『旧墓籍簿』全3巻と戦後から現在までの『新墓籍簿』全4巻とがあます。こちらは、各家の墓地ごとに埋葬された各家先祖の記録となりますので、明治期以降については、概ね家系を辿れることになります。
これら要傳寺過去帳から読み取れる情報を整理すると、以下の通りとなります。
まず過去帳の最古の記録は、寛永3年(1626)7月24日の埋葬者に遡ります。要傳寺の開闢が元和元年(1615)ですので、約10年後の記録が初見ということになります。
また、当山には、開闢以来存続する家門があり、井上家(開基檀方)、土岐家(伝・明智光秀子孫)をはじめとして、現在も4〜5家の子孫が当山に墓所を構えられています。
檀徒の生業は多様で、武家・農民・町人(職人・商人)と幅広い営みを看て取れます。
武士の家系と想定される記録としては、殿方として「井上備前守(井上秀栄)」「土岐土佐守(土岐頼勝)」、奥方(内室・局)として、「松平遠江守の内」「酒井因幡守の奥方」「井上河内守の局」「松平淡路守の局」「船越伊豫守の内」「松平伊豆守の奥」「久世出雲守の内」「太田駿河守の内」、子女として、「松平甲斐守の子息」「土岐出羽守(土岐頼清)の娘」などの記録が見えます。
一方、町人は、「屋号」で呼ばれることが多いので、職種を分別しやすいという特徴があります。当山には、屋号の刻字された墓石も数基確認できますので、墓地内を巡って散策してみるのもいいでしょう。
屋号から生業が想像できる事例としては、醴屋、荒物屋、石屋、芋屋、植木屋、団扇屋、扇屋、桶屋、駕籠屋、鍵屋、錺屋、鍛冶屋、金具師、金物屋、紙屑屋、紙屋、髪結、瓦師、煙管屋、桐屋、下駄屋、肴屋、左官、指物屋、仕立屋、鮓屋、大工、畳屋、煙草屋、足袋屋、道具屋、豆腐屋、鳶、問屋、鉈屋、人形屋、縫箔屋、塗師、花屋、百姓、袋物屋、仏師、蒔絵師、舛屋、百足屋、八百屋、家根屋、萬屋などがあります。
生業は未詳であるものの屋号が固有名詞化しているものとしては、泉屋、井筒屋、亀屋、桔梗屋、菊屋、小松屋、桜屋、下村屋、台屋、玉川屋、鶴屋、中嶋屋、二文字屋、菱屋、藤屋、鮒屋、村田屋、村松屋、吉川屋、若松屋などが見えます。どのような職業だったのでしょうか。
このほか、地名が由来になっていると思われる屋号としては、伊勢屋、温州屋、越後屋、江戸屋、近江屋、尾張屋、加賀屋、鹿島屋、上総屋、河内屋、小湊屋、相模屋、信濃屋、駿河屋、摂津屋、三浦屋、三河屋、武蔵屋、大和屋などが確認されます。
次に、檀徒の住処について江戸時代に限定して整理すると、現在の台東区に括られる旧町名として、浅草、安倍川町、池之端、上野町、御徒町、金杉、蔵前、坂本、山谷、下谷、箪笥町、長者町、鳥越、根岸、御切手町、三ノ輪、山崎町、谷中、吉原などが見えます。また文京区では、小石川、駒込、天神、根津、本郷、湯島、荒川区では、小塚原、千住、日暮里、三河島、墨田区では本所、両国、千代田区では糀町、外神田、三河町、江東区では深川、中央区では蛎殻町、神田、京橋、石町、小伝馬町、八丁堀、新宿区では牛込、港区では芝、田町などなど、御府外・下町を中心に城北・城東地区に住居を構えていた檀信徒が多いことが読み取れます。池波正太郎の時代小説でも馴染みの地名といったところでしょうか。
このほかにも、過去帳には、供養・埋葬された方々の死因についても記録されている例があります。ただし、死因については、病死・餓死・事故死の記載は少ないようです。
老衰で亡くなられたと思われる例としては、江戸時代で最も長命だった方は、安政2年(1855)歿の檀徒で、享年101才であったことが記録されています。次いで、貞享元年(1684)には90才で亡くなられた方の記録があります。現代人にも比肩する長寿の方が、当時いらしたわけです。
一方、過去帳には、悲しい過去も記録されています。戦死・戦災死・震災死の記録としては、安政2年(1855)10月2日の大地震、大正12年(1923)9月1日の関東大震災、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲等で非業の死を遂げられた方が確認され、特に戦災・震災物故者に関しては命日が事件当日に集中していることから類推されます。記録は少ないのですが、太平洋戦争下の戦地にて戦死された方の記録も残されています。
このほかにも、行方不明者については行方不明となった日が命日として記録されています。
また、法号(戒名)には水子・嬰子・孩子・童子を授けられた霊位が多く、時代が遡るほど早産・死産・流産・夭逝の幼子(特に男児)が多いことが読み取れます。
更に、寺には、無縁仏の供養も数多くなされたようで、大正期までの300年間で供養された7400霊のうち2%に相当する約160霊(ただし絶家の無縁を除く)が認められます。驚いたことに、これら無縁仏にも法号が授けられた事実が数多く散見され、歴代住職による供養がなされていることを読み取ることができます。日蓮宗の僧侶たちが、名も知らぬ者たちの生きた証を認め、その人生の最期を確りと締めくくり見届けたことは、その人を想う両親や家族たちにとって、どれほどの慰めになったことでしょう。これら過去帳の記録を辿って往事に思いを馳せることにより、我々は、当時を生きた人々を偲ぶことができるわけです。
▼TopicZ 日蓮遺文にみる北条義時の時代〜「鎌倉殿の13人」をもっと面白く〜
華やかな源平合戦、誕生する鎌倉幕府、権力を巡る男たち女たちの駆け引き…。源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男、二代執権・北条義時…。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。
合議制で政(まつりごと)を動かした義時ら13人衆のパワーゲームを描く、三谷幸喜作の予測不能エンターテインメント「
鎌倉殿の13人」は、平清盛、源頼朝、北条政子、源義経、武蔵坊弁慶といった主役級の花形が脇役で登場するなど、歴史ファンを高揚させる話題性も魅力のひとつです。
義時の生きた長寛元年(1163)から元仁元年(1224)までの歴史上の人物や出来事を、その後の時代を生きた日蓮聖人(1222〜1282)はどのように捉えていたのでしょうか。ここでは、真蹟が認められている日蓮遺文中の記述を年表形式に仕立て紹介します。大河ドラマの放送に合わせて、是非、日蓮聖人の遺文も手にとってお読み下さい。
北条義時の時代は、日蓮聖人が生きた時代の半世紀ほど前になります。当時の記録としては、源頼朝から宗尊親王までの6代に亘る将軍記『吾妻鏡』(1180年〜1266年までの記録)や、九条兼実の日記『玉葉』(1164年〜1203年までの記述)、天台僧慈円の記した鎌倉初期の史論書『愚管抄』、鎌倉中期成立とされる軍記物『承久記』のほか『平家物語』『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『水鏡』『明月記』などが知られますが、鎌倉幕府の史書として位置づけられている『吾妻鏡』ですら、将軍家側ではなく北条得宗家側の記述によるものであり、編纂当時に残る記録・伝承などに基づく部分も多いため、そこに何からの脚色がなされている可能性は否めません。
それに対して、
日蓮聖人の遺文中の記述は、出来事からさほど遠くない時代(約半世紀以内)における聖人の知識・認識として評価されるものであり、そこに登場する人物も、後に神格化・伝説化して物語として描かれていくようになった人物像ではないことが理解できます。
例えば、「鎌倉殿の13人」の作中で俳優菅田将暉が演じる源義経を例に挙げれば、義経のイメージを固定化させた文献として、南北朝時代から室町時代初期成立とされる『義経記』(ぎけいき)などが知られますが、義経伝説として文学作品等に描かれる五條大橋での武蔵坊弁慶との出会い、治承・寿永の乱(源平合戦)のクライマックスを描く鵯越の逆落とし、壇ノ浦の八艘飛びなどについては、日蓮聖人は語りません。聖人当時には、こうした伝説はまだ成立していなかったことを暗示していると思われる一方で、『日女御前御返事』1511頁では、畠山重忠を「日本第一の大力の大将」と語っており、これが鵯越にあたり畠山が馬を背負ったという故事をさすものとすれば興味深いところでもあります。
逆に、大橋太郎の故事のように、遺文中に記述があり、鎌倉光則寺など宗門に伝説が伝わる出来事について、幕府側の記録がないという事例もあります。ちなみに、幕府側や鎌倉仏教界側の記録には、日蓮聖人に関するひとつの記述も、今日まで管見の限り確認できていません。歴史から抹消されているのでしょうか。
歴史の「事実」はひとつですが、「真実」はそこに関わる人たちによって創られることを、様々な文献・資料を比較・検討することによって私たちは学ぶことができます。
ここに紹介する年表は、立正大学仏教学会発行『大崎学報』154号(1998年3月)所載の拙稿
「日蓮聖人の歴史叙述に関する編年的考察−日本史を中心に−」に依るものです。年表の原本は
こちらからダウンロードできます。
なお、下記に抜粋した「北条義時関係年表遺文対照一覧」は、和暦(西暦)、歴史的事項、立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺、2000年)出典頁の順で記載しました。※印は、真蹟遺文中にみられない歴史事項となります。
日蓮遺文の現代語訳版については、比較的新しい文献として、渡邊寶陽他編『日蓮聖人全集』全7巻(春秋社、1992〜1996年)があり、下記の出典頁と『日蓮聖人全集』等との対照を可能とする総覧が、高森大乗編『昭和定本日蓮聖人遺文諸本対照総覧』(山喜房仏書林、1998年)となります。日蓮宗教師の場合は、『日蓮宗新電子聖典』から『日蓮聖人全集』を参照できますので、ご活用ください。
日蓮遺文にみる北条義時については、川添昭二稿「日蓮と北条氏得宗−北条義時・泰時・時頼−」『日蓮教学教団史論叢』(平楽寺書店、2003年)に詳しく研究されています。
【北条義時関係年表遺文対照一覧】
仁安2年(1167) 平清盛、太政大臣となる。平氏政権樹立。…1223、1329、1708、1774頁
仁安2年(1167) 明雲、天台座主となる。…889、1328、1329、1742頁
治承元年(1177) 平重盛、内大臣となる。…1708頁
治承元年(1177) 平重盛、父清盛の後白河法皇幽閉計画を諫止。…1403頁
治承元年(1177) 延暦寺の明雲、加賀守の藤原師高と対立し、師高の父の西光に訴えられて、伊豆へ流罪。途中、大津にて延暦寺山徒が奪還し、西光の平家討伐の計画が発覚したため、赦免となる。…1303、1742頁
治承元年(1177) 後白河法皇の近臣たちにより鹿ケ谷の陰謀おこる。俊寛、平清盛政権の転覆を企てたため、藤原成親・成経・平康頼らとともに鬼界島へ流罪。…1771頁
治承3年(1179) 平重盛、歿す。…1403頁
治承3年(1179) ※平清盛、後白河法皇を幽閉(平氏政権の樹立)。…※不説
治承3年(1179) 明雲、再び天台座主となる。…1742頁
治承4年(1180) 高倉天皇と建礼門院の子、安徳天皇、3歳にて即位。…881、889頁
治承4年(1180) ※平氏打倒のため源頼政・以仁王・源頼朝・源義仲ら各地で挙兵(源平争乱勃発)。…※不説
治承4年(1180) 平清盛、延暦寺・園城寺を襲撃。平重衡、東大寺・興福寺を焼き討ち(12月)。…454、500、854、891、954、1063、1342、1774頁
養和元年(1181) 平清盛、熱病にて狂死する。…891、976、1775頁
寿永2年(1183) 平氏、源氏調伏のため延暦寺に起請を送り、延暦寺を氏寺、日吉社を氏神とせんとするが拒否される(7月)。…883、1304、1388、(1679)、1742頁
寿永2年(1183) 明雲、法住寺合戦において源義仲の襲撃にあい、落命す(11月19日)。…1303、1304、1329、1388、(1679)、1742頁
寿永2年(1183) この頃、田口成良、源氏と結託し平家打倒の一翼を担う。…1393頁
寿永3年(1184) 源頼朝、伊勢外宮に安房国東条御厨を寄進。…868頁
文治元年(1185) 源範頼・義経、壇ノ浦にて平家を滅ぼす。建礼門院の母平時子、孫の安徳天皇と心中し、平知盛も自ら海中に没する(3月24日)。…454、881、892、1030、1388、1393、(1679)、1775、1811(?)、1840頁
文治元年(1185) 源義朝を殺した長田忠致を仇とする源頼朝は、忠致が平家との戦いに戦功があったため、平家打倒を待って殺害した。…1393頁
文治元年(1185) 平重衡、源頼朝によって鎌倉に招かれ待遇されるが、南都七大寺の要求により奈良に送られ、木津川のあたりで斬られる(3月)。…1775頁
文治元年(1185) 長門壇ノ浦の戦いで捕虜となった平宗盛が京都へ護送される途中、近江国篠原にて斬殺される(6月2日)。…583、1342、1403、1775、1827頁
文治元年(1185) ※この頃、源頼朝、諸国に守護・地頭を設置(鎌倉幕府成立)。…※不説
文治元年(1185) 後鳥羽天皇即位。…881頁
文治2年(1186) 大原問答(大原談義)において、天台座主の顕真が源空の教えに帰す。…889、1032頁
文治5年(1189) 奥州の藤原泰衡、源頼朝に背いた源義経をかくまうが、幕府の圧迫に耐えかねて、衣川にて源義経・藤原忠衡を攻め殺す(4月)。その後、源頼朝により奥州藤原氏は亡ぼされる。…774、1342、1506頁
文治5年(1189) ※源頼朝、右近衛大将に任ぜられる。…※不説
建久元年(1190) 源頼朝、箱根・伊豆山両権現に詣でる(1月)。この前後に大橋太郎(九州の御家人か)、源頼朝の勘気をこうむり、鎌倉由比ヶ浜の土牢に監禁される(伝未詳)。…1171〜1176頁
建久3年(1192) ※源頼朝、征夷大将軍に任命される。…※不説
建久9年(1198) 源空『選択本願念仏集』を著す。…89、214、325、907、1031、1047、1462頁
建久9年(1198) ※源頼朝歿す。…※不説
建久9年(1198) 土御門天皇、五歳で即位。…881頁
建久9年(1198) ※後鳥羽上皇の院政はじまる。警護に西面の武士をおく。…※不説
建仁3年(1203) ※比企能員の変。能員・若狭局(第2代将軍源頼家の側室、一幡の母)・一幡(頼家の庶長子)歿す。…※不説
建仁3年(1203) ※北条時政(北条政子・義時の父)、2代将軍源頼家(源頼朝と北条政子の長男・万寿)を幽閉し、源実朝(頼朝と政子の二男・千幡)を3代将軍とする。…※不説
建仁年間(1201〜1203) 源空・大日、念仏・禅を興行す。各地に阿弥陀堂が建立される。…423、607、992、1006、1244頁
元久2年(1205) 畠山重忠、平賀朝雅(源頼朝の猶子)より謀反を企てたという疑いをかけられ北条時政と対立、北条義時の大軍を武蔵国二股川で迎え撃つが敗死する(畠山重忠の乱)。…1511頁
建永2年(1207) 念仏停止により、源空、還俗させられ土佐へ流罪。…1032頁
承元4年(1210) 順徳天皇即位。…881頁
建保元年(1213) 和田義盛、三浦義村の裏切りで北条義時に一族を亡ぼされる(和田合戦)。…926、972頁
建保元年(1213) ※北条義時が政権をにぎり、執権となる(執権政治)。…※不説
承久元年(1219) 源実朝、源頼家の遺児の公暁(頼家の二男または三男・善哉)によって暗殺され、源氏の正嫡終焉す。…1506頁
承久3年(1221) 後鳥羽上皇、真言宗に命じ幕府調伏のための十五壇秘法を行わせる(4月19日)。…681、883、889、979、1045、1089、1090、1236、1304、1388、(1679)、1842、1886、1887頁
承久3年(1221) 仁和寺の道助、関東調伏のため愛染明王法・守護経法を修す(5月2日、6月8日)。…884、1304頁
承久3年(1221) 承久の乱、勃発(5月14日)。後鳥羽上皇、北条義時追討の命令を発し、討幕の兵をあげる。…219、683、1045、1304、1878頁
承久3年(1221) 京都守護の伊賀光季(伊賀朝光の長男、二階堂行政の孫、伊賀の方の兄)、後鳥羽上皇の倒幕計画に反対したため公家方の攻撃を受け、高辻京極の家にて屠腹焚死す(5月15日)。…1886頁
承久3年(1221) 鎌倉にて騒動おこるといわれる(5月19・20日)。因みに、『承久記』によれば、5月19日は、尼将軍北条政子が御家人を鼓舞し、「最期の詞(ことば)」を演説した日でもある。…1886頁
承久3年(1221) 北条泰時(頼時)・時房(時連)を大将とする東海道軍・東山道軍・北陸道軍が編成され、京都へ向かう(5月21日)。…683、1886頁
承久3年(1221) 美濃に派遣された藤原秀康・三浦胤義(三浦義村の弟)らの上皇軍、大津にて幕府軍に一掃される(6月5日)。…683頁
承久3年(1221) 宇治川の合戦(6月13日)。上皇軍、防御線を突破される(6月14日)。幕府軍、京都を占領(6月15日)。…683、1886頁
承久3年(1221) 承久の乱終結。後鳥羽上皇、隠岐に、土御門上皇、阿波に、順徳上皇、佐渡に配流。また仲恭天皇廃位(7月11日)。…219、685、881、882、972、976、979、981、1045、1068、1090、1223、1236、1329、1388、1467、(1679)、1842、1848、1879、1888頁
承久3年(1221) 仁和寺道助の侍童、勢多迦丸、斬首される(7月11日)。…981、1236、1304頁
貞応元年(1222) 日蓮誕生。…不説
元仁元年(1224) 念仏禁止の勅宣・御教書発令。…219頁
▼TopicY NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場人物と日蓮聖人の周辺
第61作目となるNHK大河ドラマ「
鎌倉殿の13人」(令和4年放送)。平安末から鎌倉前期を舞台に鎌倉幕府誕生の過程で繰り広げられる権力闘争と、その勝者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描く本作には、同じ鎌倉時代を生きた日蓮聖人の門弟とその周辺人物の関係者たちが出演しています。主な人物を以下に紹介します。
なお登場人物の系譜や家系には諸説あるため、紹介する続柄は断定するものではないことを付記しておきます。
(1)北条義時(ほうじょう よしとき/1163〜1224) 演者・小栗旬
本作の主人公。鎌倉幕府第2代執権。日蓮聖人が『立正安国論』を上奏した第5代執権北条時頼(1227〜1263)の曾祖父、第8代執権北条時宗(1251〜1284)の高祖父にあたる。
法華経に熱心な信仰を捧げ、天照大神を祀る伊勢神宮に安房国東条郷より御厨を寄進し、八幡大菩薩を奉る鶴岡八幡宮を鎌倉に造営して幕府を開いた源頼朝と、これを扶けた北条義時とを、日蓮聖人は高く評価している。これは、天照・八幡の百王守護に背いて南都北嶺の寺々を焼いた平清盛や、邪法の祈祷によって滅亡した平家一門に対する評価と実に対照的である。
特に、承久の乱では、邪法に頼って義時を調伏せんとした上皇軍を義時が敗った事実を取り上げて、承久の乱は、王と臣の世法の上の争いではなく、邪法としからざるものとの仏法上の争いであると捉えている。日蓮聖人は、義時以降の北条氏を「国主」と是認したので、以降、執権を国家諫暁の対象とした。
(2)伊東祐親(いとう すけちか/〜1182) 演者・浅野和之
平安時代末の武将であり、伊豆国伊東の豪族。工藤氏6代目、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫、河津氏の祖、北条義時の祖父。平家に仕え、その威光を後ろ盾に頭角を現す。伯父の伊東佑次の子工藤祐経は従兄にあたる。
安元2年(1176)、工藤祐経の襲撃を受け、嫡男の河津祐泰を誅されるが、その仇を討った佑成(曽我十郎)・時致(曽我五カ)の物語は『曽我物語』として語り継がれている。
(3)工藤祐経(くどう すけつね/1147〜1193) 演者・坪倉由幸
伊東家の嫡男であったが、後見人であった伊東祐親の裏切りに合い、伊東の地を追われる。
日蓮聖人の高弟「六老僧」の筆頭弁阿闍梨日昭(1221〜1323)からは祖父にあたり、日昭の父は印東祐昭(いんとう すけあき)、母が工藤祐経の長女であると伝えられる。また、工藤祐経の孫伊東祐光(すけみつ/生没年未詳)は、伊豆国伊東の地頭として、伊豆流罪に処された日蓮聖人の身柄を預かった。
一説に工藤家の一族には、小松原法難で殉教した工藤吉隆(1233〜1264)がいたと推測されているが確証はない。因みに、日昭の姉と池上康光の間に生まれたのが池上宗仲・宗長兄弟で、また妹の妙朗と印東(平賀)有国の間に日朗、妙朗と平賀忠治の間に日像がおり、いずれも日昭からは甥にあたることになる。
(4)比企能員(ひき よしかず/〜1203) 演者・佐藤二朗
武蔵の有力武士で、源頼朝の乳母である比企尼の養子。頼朝の側近となるが、のちに北条氏と対立する。
日蓮信者の妙本(生没年未詳)の夫でもあり、ふたりの間に比企大学三郎能本(よしもと/〜1286)が生まれている。能員・妙本の息女若狭局(のちの讃岐局)は鎌倉幕府第2代征夷大将軍源頼家の側室となり、一幡(いちまん)を産んだが、この一幡を巡って後に将軍職の継承問題が起り、比企氏と北条氏との権力政争となる。その結果、建仁3年(1203)、能員は北条時政に謀殺され、その一門も北条氏によって一幡と共に滅ぼされた。若狭局も一幡の後を追って自死したという。
能員の遺子比企能本は、日蓮聖人の鎌倉弘通の時に帰依し、父母の追善のため文応元年(1260)に法華堂(のちの比企谷妙本寺)を建てた。
(5)安達盛長(あだち もりなが/1135〜1200) 演者・野添義弘
鎌倉幕府の御家人、安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。その孫にあたる安達泰盛(やすもり/1231〜1285)は、第8代執権北条時宗の妻の父で、のちの北条貞時の外祖父にあたる(大河ドラマ「北条時宗」では柳葉敏郎が演じる)。
泰盛は、書を通じて親交のあった日蓮信者の大学三郎(比企能本)とともに、龍口法難にあたり得宗被官の平頼綱によって捕らえられた日蓮聖人の窮地を救うべく助命運動を行ったとされる。聖人歿後には平頼綱と敵対し、弘安8年(1285)の霜月騒動でその一族は滅ぼされるが、永仁2年(1294)、孫の北条貞時(北条時宗の子)が仇討ちを果たし、頼綱一族も滅ぼされた。これらの内乱騒動が幕府崩壊を加速させることとなる。
(6)千葉常胤(ちば つねたね/1118〜1201) 演者・岡本信人
下総国(千葉県)の雄族で、鎌倉幕府草創期の有力御家人。千葉氏第3代当主。治承・寿永の乱(源平合戦)には見事な勲功をたて、下総国の守護職に補せられた。また武蔵、上総、伊賀(三重県)、肥前(長崎)などに地頭職を与えられ、一族が全国的に広がっていく基をなした。
日蓮聖人が房総で布教活動を展開したのは、千葉氏第8代当主の千葉頼胤(よりたね/〜1274)の時代である。日蓮聖人の大檀越富木常忍(とき じょうにん/1216〜1299)は、この頼胤の被官として重きをなした人物で、守護の周囲に多くの信者を創出するなど、重要な役割を果した。
九州大学の川添昭二氏によれば、日蓮聖人は、富木氏を通じて、九州千葉氏から幕府の対蒙古政策の進展や、文永・弘安の役の速報を収集していた可能性が高いという(川添昭二著『日蓮とその時代』〈山喜房仏書林・1999年〉、同『日蓮と鎌倉文化』〈平楽寺書店・2002年〉、同『中世・近世博多史論』〈海鳥社・2008年〉ほか往見)。
(7)文覚(もんがく/生没年不詳)〓演者・市川猿之助
文覚は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する北面の武士で、京都高雄山の真言宗神護寺の僧。俗名は遠藤盛遠(もりとお)。弟子に上覚、孫弟子に栂尾明恵(とがのおみょうえ)らがいる。『平家物語』によれば、神護寺の再興を後白河天皇(演者・西田敏行)に強訴したため伊豆国に配流され、同じく伊豆に流された源頼朝と知り合い、頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して平家追倒の兵を挙げるよう促したという。京都伏見区戀塚寺近くに地名の残る「赤池」の名の由来となった「袈裟御前」との横恋慕の物語は、人形浄瑠璃などに演じられ知られている。
六牙院日潮(1674〜1748)の『本化別頭仏祖統紀』によると、この遠藤盛遠の曾孫が、同じく北面の武士であった遠藤為盛(1189〜1279)であるという。為盛は、順徳上皇に仕え、承久3年(1221)の承久の乱で上皇と共に佐渡に渡った。上皇崩御の後に出家して阿仏房(あぶつぼう)と名乗り、文永8年(1271)佐渡流罪となった日蓮聖人と出会っている。詳細は、上田本昌稿「阿仏房について」『印度学仏教学研究』26巻1号(1977年12月)を参照。
(8)畠山重忠(はたけやま しげただ/1164〜1205) 演者・中川大志
武蔵国の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して活躍、幕府創業の功臣として重きをなした。存命中から知勇兼備の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。頼朝の歿後、初代執権北条時政の謀略によって討伐される(畠山重忠の乱)。
日蓮聖人の直弟子(六老僧)のひとり白蓮阿闍梨日興筆『産湯相承事』によれば、日蓮聖人の母梅菊(うめぎく)は「畠山の一類」といわれる。近年の研究では、畠山重忠の初婚の女性が、足立遠元の娘菊の前で、ふたりの間に生まれたのが梅菊であるとも考えられている(石川修道稿「宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察」『現代宗教研究』42号・2008年)。
なお、日蓮聖人の門弟には畠山一族の血縁者が名を連ね、六牙院日潮筆『本化別頭仏祖統紀』等によれば、畠山(印東)祐昭と工藤祐経の娘は、池上康光の室となり池上宗仲・宗長を産み、妹は平賀有国の室となり大国阿闍梨日朗を産んだと伝わる。また、畠山祐昭と工藤祐経の娘の間に生まれた男児が弁阿闍梨日昭と伝えられる。
(9)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/1180〜1239) 演者・尾上凛・菊井りひと(幼少期)/尾上松也
高倉天皇の第四皇子。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。文武両道で、『新古今和歌集』の編纂でも知られる。鎌倉時代の承久3年(1221)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、上皇軍は幕府軍に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は阿波、順徳上皇は佐渡へ配流、仲恭天皇は廃位となった(承久の乱)。
後鳥羽上皇は、延応元年(1239)に隠岐で崩御するが、一説に、この後鳥羽上皇の愛妾となった白拍子の亀菊(かめぎく)の子が、日蓮聖人であったとする説(皇胤説・皇統説)が唱えられている。日蓮聖人の出自を巡っては諸説あるが、廣野観順氏によれば、承久の乱で隠岐に配流された後鳥羽上皇は、我が子を身籠もった亀菊を、幕府の刺客から逃すために隠岐を離れさせており、その翌年の承久4年(貞応元年)に日蓮聖人が誕生していることを指摘する(廣野観順著『法剣数珠丸考及聖祖皇統説への一勘検』〈ニチレン出版・2000年〉往見)。
立正大学の伊藤瑞叡氏によれば、その後、幼少の薬王丸(のちの日蓮聖人)は、安房国小湊の西蓮寺という天台宗寺院の近くで、雪(ゆき)あるいは雪女(ゆきめ)と名乗る乳母(めのと)に養育された(法華仏教文化総合研究会編『日蓮聖人の御出自に関する三つの仮説』〈『法華学報』別冊特集1号・1994年〉、同『日蓮聖人と弟子檀那もう一つの伝承説』〈『法華学報』別冊特集2号・1995年〉ほか往見)。同寺は、幼少の聖人が道善房とともに12年間過ごした霊跡に指定されており、現在も同寺の境内に、雪女の供養のために建てられた「妙宗信女塔」という宝篋印塔(ほうきょういんとう)が伝わる(「薬王丸御乳母妙宗信女塔」の刻字あり)。同寺の所伝では、聖人は乳母の雪が歿した2ヶ月後、天福元年(1233)5月、12歳の時、同寺住持道善房に導かれ、清澄寺へと入山したといい、これが「十二入山」の真実であったという。
ちなみに、後鳥羽院の形見として日蓮聖人に譲られたのが、兵庫県尼崎本興寺蔵の重文「数珠丸(太刀 銘恒次)」であったと伝えられる。また、日蓮聖人の大檀越富木常忍の父土岐光行は、後鳥羽院の宮中出仕者、母は源実朝(千幡)の側近と伝えられるが、その本領地は、後鳥羽院が配流された隠岐(島根県)の近く因幡国(鳥取県)法美郡富城で、兄の土岐光定は隠岐守であるとも言われるなど、偶然にしては後鳥羽院と日蓮聖人の接点は多い。
(10)名越朝時(なごえ ともとき/1193〜1245) 演者・橋悠悟(少年期)/西本たける
名越北条氏の祖。北条義時の嫡男(比企朝宗の娘姫の前との子)であったが、義時側室の阿波局(伝未詳・諸説あり。ドラマでは伊東祐親の娘八重にあてる)が産んだ庶長子の北条泰時(頼時)が3代執権になると、朝時は嫡流を外されて、祖父北条時政の屋敷であった名越亭(現在の鎌倉安国論寺の近傍にあったか。鎌倉市教育委員会編『鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書』28〈2012年〉等往見)を与えられた。
この名越北条朝時の妻が日蓮聖人の信者となり、のちに龍口法難にて退転した「名越の尼」であると考えられている(橋俊隆著『日蓮聖人の歩みと教え』全5部〈円山妙覚寺御遺文勉強会・2010〜2015年〉ほか往見)。
また朝時の嫡男が、名越光時で、光時は5代執権北条時頼を廃しようと画策したため、所領を没収され、伊豆江間郷へ配流となった。光時の子は、江間太郎親時、江間次郎盛時と、以後、江間(江馬)氏を称している。この名越光時や江間(江馬)氏らに執事として親子代々仕えたのが、四条頼員と四条頼基である。特に四条頼基は、鎌倉桑ヶ谷で施療所を営んでいたとされる名医で、鎌倉における有力檀越として日蓮聖人を外護したことで知られる。
(11)平盛綱(たいらの もりつな/生歿年未詳) 演者・きづき
鎌倉幕府の執権北条氏の家令。のち北条得宗家の御内人で、鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時に仕えた平頼綱(へいの よりつな)を養子として迎えている。平頼綱は、文永8年(1271)9月、日蓮聖人を鎌倉龍口頸の座で斬罪に処せんとした時(龍口法難)の侍所所司。日蓮聖人歿後の弘安8年(1285)、霜月騒動を起こして安達泰盛(前掲)を滅ぼすが、永仁2年(1294)、泰盛孫の北条貞時(北条時宗の子)に仇討ちされ、頼綱一族も滅ぼされた。二度の元寇と、これらの内乱騒動が、幕府崩壊の引き金となり、元弘3年/正慶2年(1333)、鎌倉幕府は滅亡する。
▼行学道場「御遺文で学ぶ日蓮聖人の人物と教え」講演動画配信
去る令和3年10月から全6回に亘るリレー方式オンライン講演会として開催されている、全国日蓮宗青年会行学道場「御遺文で学ぶ日蓮聖人の人物と教え」。当山住職も、初回と最終回の講演を担当しております。
この度、第1回の講演記録が、下記のサイトよりご視聴いただけますので、ご案内申し上げます。
なお、第1回(令和3年10月28日)講演「日蓮聖人遺文概説〜御遺文の読み方〜」では、日蓮聖人の書かれた著述・書状等の全体像の概論と、その読み方・扱い方の留意点について解説します。また、第6回(令和4年3月2日)講演「日蓮聖人の人物像〜その魅力に迫る〜」では、最新の脳科学(脳機能論)に基づいて日蓮聖人の思想と行動を分析し、聖人の魅力を10の側面から探求します。
記
(1)第1回「日蓮聖人遺文概説〜御遺文の読み方〜」
講座録画(youtube限定公開)
講座録音(音声のみ)
講演配付資料
講演スライド画像(PDF)
(2)第6回「日蓮聖人の人物像〜その魅力に迫る〜」
講座録画(youtube限定公開)
講座録音(音声のみ)
講演スライド画像(PDF)
▼講演×講談×高座説教「一晩de祖師伝 語り紡ぐ日蓮聖人のご生涯」動画配信
去る令和3年2月15日に全国日蓮宗青年会主催により宗祖降誕800年特別企画としてオンライン開催された《講演×講談×高座説教》「一晩de祖師伝 語り紡ぐ日蓮聖人のご生涯」。
本企画では、当山住職も、「絵伝でたどる日蓮聖人のご生涯」と題して講演を行い、当山檀信徒有志の御聴講をいただいて、多くの反響を頂戴しました。
当日の収録動画は、
こちら(https://youtu.be/xQv96JJg00I)にて公開配信されておりますので、是非ご視聴ください。
▼TopicX NHK大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨
記念すべき第60作目となった大河ドラマ「
青天を衝け」(令和3年放送)。
人類史上無類の繊細かつ豊潤な文化を熟成させた江戸時代が終焉を迎え、欧米列強に対抗するための欧化に涙ぐましい努力を重ねながら国力をつけて、堂々たる「近代」国家へと生まれ変わった日本。しかし、忘れてはいけないのは、かくして制度は一新したものの、明治時代を築いた精神は封建時代に確立した武士道そのものだったことです。名実ともに武士の自覚をもった真正のエリートたちによって明治維新は断行されました。それは、決して江戸時代以前の価値観や精神性を否定するものではなかったのです。
幕末から新時代の荒波を生き抜いた渋沢栄一の生涯を描く本作には、高森聖一こと当山第38世要中院日妙上人の祖父と伝えられる川路聖謨(かわじとしあきら)も登場します。川路聖謨(1801〜68)は、豊後国(大分県)日田の生まれ。佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、勘定奉行、外国奉行などを歴任した江戸時代の幕臣で、嘉永6年(1853)ロシア使節プチャーチンの来航に際し、翌年長崎で交渉にあたり、安政元年(1855)伊豆下田で日露和親条約を結びました。川路は日本が不利な立場にならないよう、交渉では毅然とした態度をとったと伝えられます。その比類なき外交手腕や、誠実で情愛深く、機知に富んだ魅力的な人柄は、しばしば時代小説に描かれています。
川路は引退後、中風(ちゅうぶ)による下半身不随や弟の井上清直の死去など不幸が続きました。戊申戦争の際、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸無血開城が定まったことを知らなかった川路は、肢体不随の身にて倒幕軍に捕らえられれば幕府側の交渉が不利になることを危惧し、慶應4年(1868)、自邸にて割腹の上、ピストル自殺しました。今日、東京上野池之端の日蓮宗大正寺にその墓所があります。
高森家の所伝では、当山38世要中院日妙(高森聖一/1900,7,7〜1982,7,29)上人の父で、東松山神戸妙昌寺36世・栃木佐野妙顕寺40世・葛飾堀切妙源寺35世・谷中瑞輪寺43世を歴任した輪中院日澄(
高森玄碩/1861,5,7〜1941,7,26)上人は、川路聖謨の庶子と伝えられ、7歳の時に聖謨が歿すると、山梨県東八代郡の高森幸兵衛家に養子として引き取られたといいます。19歳の時に、同じ山梨県の日蓮宗総本山身延山久遠寺74世吉川日鑑(きっかわ
にちかん/〜1886)上人について出家、ついで22歳の時、中山法華経寺117世・第17代日蓮宗管長を務めた梨羽日鐶(なしば にちかん/〜1913)上人に師事しました。現在知られている川路家の系図には玄碩の名は見えませんが、その昔、武士が自害した際には、供養のため一族から僧侶を出さなければならないという風習があったと言われ、このため系図には記されなかったのかも知れません。
なお、玄碩師は、明治8年(1875)創刊の仏教新聞『明教新誌』4190号(明治31・1898年10月18日)・4191号(同10月20日)・4193号(同10月24日)・4195号(同10月28日)・4196号(同10月30日)・4198号(同11月4日)・4199号(同11月6日)に「寺院濫用論」に関する連載を投稿し、4201号(同11月10日)・4202号(同11月12日)には、師を評した記事や寄書きが掲載されています。
ご参考までに川路聖謨関連の文献・資料類の一部を下記にご紹介します。川路聖謨については、史料・学術書に始まり、小説・漫画(手塚治虫・みなもと太郎)・古典落語(3代目桂米朝「鹿政談」)・講談(6代目神田伯山「鹿政談」)に至るまで幅広い分野で取り上げられておりますが、とりわけ吉川弘文館人物叢書の『川路聖謨』をお薦めします。
記
【史料・資料等】
川路寛堂編述『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館、1903年/マツノ書店、2014年)
藤井貞文・川田貞夫校注『長崎日記・下田日記』 (平凡社『東洋文庫』124、1968年)
川田貞夫校注『島根のすさみ―佐渡奉行在勤日記』 (平凡社『東洋文庫』226、1973年)
川田貞夫校注『東洋金鴻―英国留学生への通信』 (平凡社『東洋文庫』343、1978年)
川田貞夫著『川路聖謨』 (吉川弘文館『人物叢書』214、1997年)
山田三川著『想古録1 近世人物逸話集』 (平凡社『東洋文庫』632、1998年)
山田三川著『想古録2 近世人物逸話集』 (平凡社『東洋文庫』634、1998年)
大口勇次郎監修『勘定奉行・川路聖謨関係史料』全6巻(ゆまに書房『江戸幕府勘定所未刊史料集』、2015年)
【伝記・小説・創作等】
中野好夫著『中野好夫』(筑摩書房『ちくま日本文学全集』55、1993年)
手塚治虫作『陽だまりの樹』全8巻(小学館『小学館文庫』、1995年)
吉村昭著『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』上下巻 (講談社、1996年)
佐藤雅美著『立身出世―官僚川路聖謨の生涯』(文藝春秋、1997年)
佐藤雅美著『官僚川路聖謨の生涯』(文春文庫、2000年)
氏家幹人著『江戸奇人伝―旗本・川路家の人びと』 (平凡社『平凡社新書』88、2001年)
渋谿いそみ著『川路聖謨と異国船時代』(国書刊行会、2001年)
みなもと太郎作『風雲児たち』全20巻(リイド社、2002年〜2003年)
みなもと太郎作『風雲児たち』幕末編全34巻(リイド社、2002年〜2020年)
植木静山著『ロシアから来た黒船―幕末の北方領土交渉』(扶桑社、2005年)
木國雄著『この国のために─川路聖謨』全2巻(鳥影社、2013年)
出久根達郎著『桜奉行 幕末奈良を再生した男 川路聖謨』(養徳社、2016年)
匂坂ゆり著『川路聖謨とプチャーチン 今蘚える幕末の日露外交史』(桜美林大学北東アジア総合研究所、2016年)
藤田覚著『勘定奉行の江戸時代』(筑摩書房『ちくま新書』1309、2018年)
出久根達郎著『花のなごり―奈良奉行・川路聖謨―』(養徳社、2021年)
黒田高弘編『近代奈良の発展に尽力した川路聖謨&渋沢栄一』(一般社団法人なら文化交流機構『月刊大和路ならら』274号、2021年)
▼TopicW 要傳寺檀徒の系譜(2)〜NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に寄せて〜
令和最初の大河ドラマとして放送封切りとなった「
麒麟がくる」(令和2年放送)、その主人公の明智光秀と当山の土岐家の関係について紹介します。
平成24(2016)年11月21日に放送されたTBSテレビ「7時にあいましょう〜真田・秀吉・西郷…偉人の末裔ご対面SP」は、タレントでナレーターなども務めるクリス・ペプラーさんが、当山檀徒の土岐家の出自で、同家が明智光秀(1528?-1582)の子孫にあたることを実証する番組でした。一説に、明智家は「本能寺の変」ののち、子孫を守るため、姓を明智家本家の「土岐」に改めたと伝えられます。
要伝寺の過去帳には、万治3年(1659)3月19日歿の土岐八良左ヱ門頼成の記録を初見として、昭和26年(1951)歿の第11代(旧墓標によれば第9代か)まで土岐姓を名乗る家系が続いていたことが知られます。頼成は、土岐頼勝の孫、頼直の二男にあたる人物で、『断家譜』巻1「土岐」の系図によれば、谷中の長耀山感応寺にて葬送されたことが記録されています。感応寺は、日蓮系教団のうちの不受不施派に属する寺院であったため禁制宗門として江戸幕府から弾圧を受け、元禄11年(1698)に天台宗に改宗し、現在の護国山天王寺となりました。因みに、要伝寺もかつては小湊誕生寺を本山とする不受不施派の寺院でした。
要伝寺の過去帳には、続いて寛文6年(1666)10月14日歿の土岐頼勝(頼次の二男)、貞享2年(1685)歿の頼直(頼勝の長男)の記録がみえ、『断家譜』(前掲書)によれば、両者ともに駒篭(駒込)養源寺にて葬送されたと記されます。養源寺も土岐一族の菩提寺のひとつにあたります。この寛文6年に歿した土岐頼勝(要伝寺の土岐家過去帳の最初に記載のある土岐頼成の祖父)こそが、土岐頼次(美濃国守護大名の土岐頼藝の二男)の嫡男で、その実父が明智光秀ではないかと推理されています。
当山の過去帳には続いて、頼永(頼清の長男)、頼清(頼直の長男)、頼恭(頼清の三男)、頼行(頼清の四男)の順に記録がみえ、いずれも『断家譜』の記載と合致しています。過去帳に俗名が確認できる範囲で世代順で列記すれば、頼勝の代以降、頼直・頼清・頼成・頼永・頼恭・頼行と代々要伝寺にて供養されてきたことが読み取れます。このほかにも俗名未詳の多くの土岐一族が過去帳には記載されおり、その中には『断家譜』の土岐家系図に連なる人物も含まれると思います。
『断家譜』では頼行以後の記載はありませんが、頼行以降も「子孫存続」と付記され、当山には、その後も土岐家は絶家とならずに存続し、戦後まで土岐姓を名乗る一族が墓地を管理していました。
明智憲三郎氏の研究(
本能寺の変「明智憲三郎的世界 天下布文!」)では、要伝寺にて供養されている土岐頼勝こそが明智光秀の実子であり、かつて土岐家の家臣で織田家に仕えていた美濃国の稲葉一鉄(良通)という人物の助けを得て、土岐頼次の養子として預けられたと推理しています。 (平成31年4月8日)
*国立国会図書館次世代システム開発研究室
次世代デジタルライブラリーでも土岐頼勝の史料を披閲できます。
▼TopicV 要傳寺檀徒の系譜(1)〜うなぎの名店・大和屋〜
池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場する、上野山下(やました)仏店(ほとけだな)の「大和屋」。
当山檀徒の先祖で、江戸時代の元禄期(1688〜1704)から幕末までの間に上野山下町の地で鰻の蒲焼き所を商っていた「大和屋」の実態について、『雑誌うえの』第719号(上野のれん会、平成31年3月発行)に「うなぎの名店・大和屋」(上野寛永寺長臈 浦井正明氏稿)と題する記事が紹介されました。本稿の発表にあたっては、当家の現当主の許可をいただき、当山から筆者に情報を提供しました。
要伝寺に現存する当家墓地の墓標には、延享2年(1745)に埋葬された人物の法号(ただし一文字だけの略記)を初見としますが、寺の過去帳には対応する記録がなく、墓の竿石銘から谷中安立寺14世・上野徳大寺18世・中山法華経寺96世・京都本圀寺37世・京都本法寺43世を歴任した本妙院日要(〜1837)によって供養されたであろうことが推察されます。
要伝寺の過去帳(年別過去帳)で確認が取れるのは、15世玄寿院日近(〜1800)代の明和5年(1768)年以降のことになり、記録では、当主は代々「大和屋利右衛門」を名乗っていたことが読み取れます。
大和屋の存在は、江戸のミシュランガイドと言われる
『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』などの文献史料では知られていましたが、江戸食文化研究の分野でも詳細がわからず、当山の記録が、新たな歴史の1ページに書き加えられることになりました。上方の鰻文化が江戸に伝わった最初期の記録としても、貴重なものとなります。
ちなみに、
『江戸名所図会』巻6「上野山下」の場面にも、啓運寺の近くに「うなぎや」の文字が見えます。これが大和屋を指し示すか否かは定かではありませんが、浦井氏談では、仏店(ほとけだな)の地名がこのあたりに該当するそうですので、興味深い史料と言えるでしょう。 (平成31年3月1日)
※尚、大和屋については、岡田村雄編・林若吉校訂
『紫草』(集古会、1916年)、西原柳雨著
『川柳江戸名物』(春陽堂、1926年)の記事も併せてご参照ください。
▼TopicU 国柱会館の所在地を示す新資料
明治17年(1884)に田中智学によって創められた国柱会は、坪内逍遥・高山樗牛・姉崎正治・植中直斎・北原白秋・宮沢賢治・石原莞爾・牧口常三郎・武見太郎らに影響を与えたことで知られる、純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団です。現在、東京都江戸川区にある国柱会は、大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、台東区)の鶯谷に国柱会館を創建します。実は、国柱会館は、当山(要傳寺)と言問通りを挟んだ向かい側に所在していたことが知られているのですが、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失したこともあってか、その正確な位置については詳らかでない部分がありました。
このたび、新たな史料が確認されましたので、ご報告いたします。
史料の1点目は、昭和10年(1935)版の『地籍簿』(『復刻版 東京地籍図』台東区編、不二出版、2011年)で、これには、国柱会の出版部局にあたる「株式会社 天業民報社」の名がみえ、その住所が「下谷区上桜木町1」(正しくは「下谷区上野桜木町1」)であることが読み取れます。
2点目は、同じ昭和10年11月作図になる『下谷区火災保険地図』で、その「下谷区32」には、「天業民報社」の建物の構造を輪郭で示した図面が確認されます。国柱会本部提供の写真数点と照らし合わせても、1000人収容できたと伝える講堂を擁した複雑な構造の建物の様子や広い前庭が見て取れます。この「天業民報社」と記載のある建物が、まさに初期の「国柱会館」にあたります。
次に、史料の3点目、写真集『台東区』(DECO『昭和の東京』2、2013)には、凌雲橋(新坂)の下から鶯谷駅を見上げるかたちで昭和43年(1968)に撮影された写真が掲載されており、左側路地の入り口に門柱らしき構造物が確認できます。『下谷区火災保険地図』にみえる昭和10年頃の天業民報社の施設には、この門を正門として出入りするような構造も読み取れるのです。写真が撮影された半年前に、国柱会は、現在の江戸川区一之江の本部に活動の拠点を移したことになっているのですが、東京大空襲で焼けた昭和20年以降の当地での国柱会館の施設の状況については残念ながら定かではありません。昭和27年(1952)の『火災保険地図』には施設の名称は確認できません。
また、『全面航空地図 全住宅案内地図帳』(1966年)には「田桂会」の表記で図に落とされた建物がありますが、これが国柱会を指し示すか否か明確でないこと、施設の規模が小すぎること、立地場所が不自然なことなどが気にかかります。果たして、昭和40年代当時の様子を示す資料となるのでしょうか。このほか、小沢俊郎編『賢治地理』(学芸書林、1975年)所載の奥田弘氏の論文「宮沢賢治の東京における足跡」にも「国柱会館」の大まかな位置関係を示した地図が挿入されていますが、この度の新発見史料ほど厳密な記録は、管見の限り確認できません。
なお、戦後の国柱会館の実態に関して、当山檀徒で昭和初期創業の鶯谷萬屋酒店の長恒男氏談によれば、戦後も同地に新たに建築された施設があったとのこと。
今回の発見について、文献・史料の画像は著作権の関係で、本サイトには転載できませんが、台東区立中央図書館にすべて所蔵されておりますので、実際に手にとって閲覧が可能です。
この度の調査に当たっては、上野寛永寺長臈 浦井正明氏、宗教法人国柱会賽主 田中壮谷氏、同理事 森山真治氏、根岸子規庵元館長 奥村雅夫氏、台東区立中央図書館郷土資料調査室専門員 平野惠氏、鶯谷萬屋酒店 長恒男氏の御教示をいただきましたことを付記しておきます。 (平成30年11月29日)
▼TopicT 富岡製糸所長 速水堅曹について〜NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に寄せて〜
幕末の動乱を生きた吉田松陰の妹 文(ふみ)と松下村塾に集う若き志士たちの物語を描いたNHK大河ドラマ「
花燃ゆ」(平成27年放送)。
ドラマ舞台のひとつとなった富岡製糸場(富岡製糸所)には、当山第39世蓮中院日宏(高森宏之)上人内室 泰子刀自の曾祖父にあたる速水堅曹(1839-1913)が第3代・第5代所長(場長)を務めました。速水は、日本各地から集まった工女たちの労働環境の整備に尽瘁し、工女が仕事のかたわら読み書きや算術などを学ぶための夜学を開きます。国の模範工場で技術と知識を身につけた工女たちは、それぞれの国に製糸技術を持ち帰り、指導者となって地域の絹産業の発展に貢献しました。
速水堅曹と高森家の関係についての詳細は、当山発行の『法住』39号(平成28年1月号)の記事「富岡製糸所長 速水堅曹について」(富岡製糸場世界遺産伝道師 速水美智子氏寄稿)を往見ください。
尚、国立国会図書館次世代システム開発研究室の
次世代デジタルライブラリーでも、速水堅曹関係文書を閲覧できます。