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小学生の頃から日本の歴史が大好きで、特に戦国時代のことを知ることがとてもおもしろかったです。
それがいつの間にか城のことが大好きになり旅行などをすると、必ず城を見学していました。
ここにあげる100名城だけでなく、名も知れない城址を訪ねることもしています。
特に石垣の美しさ、堅固さ、天守の壮大さなどに興味を持っています。
「日本100名城」は、日本城郭協会が財団法人となって40周年を迎える記念事業として、文部科学省・文化庁の後援で選定した城です。
NO | 都道府県 | 城名 | よみ | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 北海道 | 根室半島チャシ群跡 | ねろむはんとうちゃしぐんあと | 国の史跡 |
2 | 五稜郭 | ごりょうかく | 国の特別史跡 | |
3 | 松前城 | まつまえじょう | 国の史跡 | |
4 | 青森県 | 弘前城 | ひろさきじょう | 国の史跡・現存天守 |
5 | 根城 | ねじょう | 国の史跡 | |
6 | 岩手県 | 盛岡城 | もりかおじょう | 国の史跡 |
7 | 宮城県 | 多賀城 | たがじょう | 国の特別史跡・日本三大史跡 |
8 | 仙台城 | せんだいじょう | 国の史跡 | |
9 | 秋田県 | 久保田城 | くぼたじょう | 市の文化財 |
10 | 山形県 | 山形城 | やまがたじょう | 国の史跡 |
11 | 福島県 | 二本松城 | にほんまつじょう | 国の史跡 |
12 | 岩手 | 若松城 | わかまつじょう | 国の史跡 |
13 | 白河小峰城 | しらかわこみねじょう | 市の史跡 | |
14 | 茨城県 | 水戸城 | みとじょう | 国の特別史跡 |
15 | 栃木県 | 足利氏館 | あしかがしやかた | 国の史跡 |
16 | 群馬県 | 箕輪城 | みのわじょう | 国の史跡 |
17 | 金山城 | かなやまじょう | 国の史跡 | |
18 | 埼玉県 | 鉢形城 | はちがたじょう | 国の史跡 |
19 | 川越城 | かわごえじょう | 県の指定史跡 | |
20 | 千葉県 | 佐倉城 | さくらじょう | 市の指定史跡 |
21 | 東京都 | 江戸城 | えどじょう | 国の特別史跡 |
22 | 八王子城 | はちおうじじょう | 国の史跡・日本五大山岳城 | |
23 | 神奈川県 | 小田原城 | おだわらじょう | 国の史跡 |
24 | 山梨県 | 武田氏館 | たけだしやかた | 国の史跡 |
25 | 甲府城 | こうふじょう | 県の指定史跡 | |
26 | 長野県 | 松代城 | まつしろじょう | 国の史跡 |
27 | 上田城 | うえだじょう | 国の史跡 | |
28 | 小諸城 | こもろじょう | 国指定の重要文化財 | |
29 | 松本城 | まつもとじょう | 国宝・国の史跡・現存天守 | |
30 | 高遠城 | たかとうじょう | 国の史跡 | |
31 | 新潟県 | 新発田城 | しばたじょう | 国の史跡 |
32 | 春日山城 | かすがやまじょう | 国の史跡・日本五大山岳城 | |
33 | 富山県 | 高岡城 | たかおかじょう | 県の指定史跡 |
34 | 石川県 | 七尾城 | ななおじょう | 国の史跡・日本五大山岳城 |
35 | 金沢城 | かなざわじょう | 国の史跡 | |
36 | 福井県 | 丸岡城 | まるおかじょう | 国の重要文化財・現存天守 |
37 | 一乗谷城 | いちじょうだにじょう | 国の特別史跡・特別名勝 | |
38 | 岐阜県 | 岩村城 | いわむらじょう | 三大山城・県の指定文化財 |
39 | 岐阜城 | ぎふじょう | 市の指定史跡 | |
40 | 静岡県 | 山中城 | やまなかじょう | 国の史跡 |
41 | 駿河城 | するがじょう | 市の文化財 | |
42 | 掛川城 | かけがわじょう | 国の重要文化財 | |
43 | 愛知県 | 犬山城 | いぬやまじょう | 国宝・現存天守 |
44 | 名古屋城 | なごやじょう | 国の特別史跡・三名城 | |
45 | 岡崎城 | おかざきじょう | 市の指定史跡 | |
46 | 長篠城 | ながしのじょう | 国の史跡 | |
47 | 三重県 | 伊賀上野城 | いがうえのじょう | 国の史跡 |
48 | 松坂城 | まつざかじょう | 県の指定史跡 | |
49 | 滋賀県 | 小谷城 | おだにじょう | 国の史跡・日本五大山岳城 |
50 | 彦根城 | ひこねじょう | 国宝・現存天守 | |
51 | 安土城 | あづちじょぅ | 国の特別史跡 | |
52 | 観音寺城 | かんのんじじょう | 国の史跡・日本五大山城 | |
53 | 京都府 | 二条城 | にじょうじょう | 世界遺産・国宝 |
54 | 大阪府 | 大阪城 | おおさかじょう | 国の特別史跡・三名城 |
55 | 千早城 | ちはやじょう | 国の史跡 | |
56 | 兵庫県 | 竹田城 | たけだじょう | 国の史跡 |
57 | 篠山城 | ささやまじょう | 国の史跡 | |
58 | 明石城 | あかしじょう | 国の史跡 | |
59 | 姫路城 | ひめじじょう | 世界遺産・国宝・三大平山城・ | |
60 | 赤穂城 | あこうじょう | 国の史跡・名勝 | |
61 | 奈良県 | 高取城 | たかとりじょう | 国の史跡・三大山城 |
62 | 和歌山県 | 和歌山城 | わかやまじょう | 国の史跡 |
63 | 鳥取県 | 鳥取城 | とっとりじょう | 国の史跡 |
64 | 島根県 | 松江城 | まつえじょう | 国の史跡・現存天守 |
65 | 月山富田城 | がっさんとだじょう | 国の史跡・日本五大山岳城 | |
66 | 津和野城 | つわのじょう | 国の史跡 | |
67 | 岡山県 | 津山城 | つやまじょう | 国の史跡・三大平山城 |
68 | 備中松山城 | びっちゅうまつやまじょう | 国の史跡・現存天守・三大山城 | |
69 | 鬼ノ城 | きのじょう | 国の史跡 | |
70 | 岡山城 | おかやまじょう | 国の史跡・名勝 | |
71 | 福山城 | ふくやまじょう | 国の史跡 | |
72 | 吉田郡山城 | よしだこおりやまじょう | 国の史跡 | |
73 | 広島城 | ひろしまじょう | 国の史跡 | |
74 | 山口県 | 岩国城 | いわくにじょう | 国の重要文化財 |
75 | 萩城 | はぎじょう | 国の史跡 | |
76 | 徳島県 | 徳島城 | とくしまじょう | 国の史跡・名勝 |
77 | 香川県 | 高松城 | たかまつじょう | 国の史跡・三大水城 |
78 | 丸亀城 | まるがめじょう | 国の史跡・現存天守 | |
79 | 愛媛県 | 今治城 | いまばりじょう | 県の指定史跡・三大水城 |
80 | 湯築城 | ゆづきじょう | 国の史跡 | |
81 | 松山城 | まつやまじょう | 国の史跡・現存天守・三大平山城 | |
82 | 大洲城 | おおすじょう | 県の指定史跡 | |
83 | 宇和島城 | うわじまじょう | 国の史跡・現存天守 | |
84 | 高知県 | 高知城 | こうちじょう | 国の史跡・現存天守 |
85 | 福岡県 | 福岡城 | ふくおかじょう | 国の史跡 |
86 | 大野城 | おおのじょう | 国の特別史跡 | |
87 | 佐賀県 | 名護屋城 | なごやじょう | 国の特別史跡 |
88 | 吉野ヶ里遺跡 | よしのがりいせき | 国の特別史跡 | |
89 | 佐賀城 | 佐賀城 | 県の指定史跡 | |
90 | 長崎県 | 平戸城 | ひらどじょう | |
91 | 島原城 | しまばらじょう | 市の指定史跡 | |
92 | 熊本県 | 熊本城 | くまもとじょう | 国の重要文化財・三名城 |
93 | 人吉城 | ひとよしじょう | 国の史跡 | |
94 | 大分県 | 大分府内城 | おおいたふないじょう | 県の指定史跡 |
95 | 岡城 | おかじょう | 国の史跡 | |
96 | 宮崎県 | 飫肥城 | おびじょう | 市の指定史跡 |
97 | 鹿児島県 | 鹿児島城 | かごしまじょう | 県の指定史跡 |
98 | 沖縄県 | 今帰仁城 | なきじんぐすく | 世界遺産・国の史跡 |
99 | 中城城 | なかぐすくじょう | 世界遺産・国の史跡 | |
100 | 首里城 | しゅりじょう | 世界遺産・国の史跡 |
それでは、登城した城を北海道から順に紹介していきます。
五稜郭 登城回数1回
江戸幕府が函館奉行所の防備を固めるはために創った城です。
星形をした西洋式の土塁の変わった城です。
明治維新の「函館戦争」で激戦になった舞台です。
五稜郭タワーに登ると不思議な城の景観を楽しむことができます。
弘前城 登城回数1回
津軽地方を治めていた津軽氏の居城として創った城です。
この城の天守閣は辰巳櫓を三重に改築したものです。
関東・東北地方で唯一の現存天守です。
仙台城 登城回数2回
伊達政宗が2年をかけて作った城です
天守閣は築かれませんでしたが、堂々とした本丸御殿がありました。
建物は明治と昭和の大空襲でほとんどが焼失してしまいました。
仙台城というより、青葉山といった方が知名度があるところてす。
会津若松城 登城回数3回
芦名氏の黒川城を蒲生氏郷が改修して創られた城です。
その後は加藤氏、保科氏などにより大規模な改修が行われました。
東北地方屈指の名城です。
戊辰戦争では、新政府軍との戦いに1ヶ月以上も篭城した堅固な城です。
白河小峰城 登城回数1回
名築城家の丹羽長重によって10万石の居城として創られた城です。
戊辰戦争で、奥羽列藩同盟と新政府軍の激戦地として有名なところです。
東北地方の石垣作りの名城の一つです。
城復元ブームの先駆けとなった完全復元天守があります。
足利氏館 登城回数1回
城というより、名前のとおり館そのままです。
足利尊氏の祖先の足利義兼が創った城です。
かつての武士の居館の典型の方形館の形状をしています。
すぐそばに、有名な足利学校もあります。
江戸城 登城回数1回
扇谷上杉氏の家臣大田道灌によって築かれた城です。
そして、徳川家康にり現在の本格的近世城郭の江戸城の改築されたものです。
その後3代にわたり、天下普請により徳川将軍の居城として壮大な城になりました。
天守は3回立て替えられたが、現在は焼失して再建されていない。
小田原城 登城回数3回
大森氏により築城されたが、北条早雲が入城してから本格的な城になったものです。
後北条氏の拠点となり、上杉謙信・武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城でした。
しかし、豊臣秀吉の来襲により周囲を包囲され開城したとされています。
この時に、有名な何事もきめられたない会議を延々することを「小田原評定」というそうです。
武田氏館 登城回数2回
ここも城というより、名前のとおり館そのままです。
武田信玄の父武田信虎により築かれた城です。
有名な武田節の一節の「人は石垣、人は城」の精神が表れている城です。
その後、子供の武田勝頼が近くに「新府城」を築きました。新府城はなかなか堅固な城です。
甲府城 登城回数1回
浅野長政によって武田氏滅亡後、築城された城です。
徳川綱吉の側用人の柳沢吉保もここの城主になっていました。
その際、城の拡張と修築が行われました。
天主台の野面積み石垣は当時の高い石垣築造技術を伝えています。
松代城 登城回数2回
武田信玄が北信濃を支配するために築城した城です。
築城当時は海津城と呼ばれていました。
真田幸村の兄の信之が城主となり、松代城と改められました。
太鼓門や太鼓門前橋などが復元されています。
上田城 登城回数5回
真田昌幸が千曲川の分流の尼が淵の丘上に築いた城です。
この城は、徳川家康に攻められても落とさせることはありませでした。
上田城の堅城ぶりと真田武士の気概を天下に示しました。
また、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍をここで迎え撃ち、関ヶ原の戦いに遅れさせたことは有名です。
小諸城 登城回数3回
山本勘助が拡張整備した城として有名です。
現存する大手門、三の門は国重要文化財となっています。
城郭部が城下町より低い位置にあるため「穴城」とも言われています。
島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で有名な城です。
松本城 登城回数7回
小笠原氏が築いた深志城が前進とされています。
徳川家康の家臣の石川和正が松本城と改称した城です。
石川氏により近代城郭の普請と城下町づくりが始められました。
この天守は姫路城とともに2基しか現存していない五重天守として非常に貴重なものです。
高遠城 登城回数1回
武田信玄に滅ぼされた高遠氏の城です。
幅が広く深い本丸空堀や土塁は戦国時代の城の姿を彷彿させるものです。
武田勝頼の弟の仁科盛信が城主の時、織田信長に攻められて落城しました。
ヒガクザクラが城址に植えられ、中央アルプスの景観とあいまった桜の名所として有名な城です。
高岡城 登城回数1回
加賀前田藩の2代当主の前田利長により築城された城です。
縄張りはキリシタン大名として有名な高山右近によるものです。
一国一城令が出されたので、未完成のまま建物は破却されました。
現在は、桜、紅葉、雪景色と四季折々の景色が楽しめる城です。
七尾城 登城回数1回
能登守護畠山氏の居城として標高300mの要害に築城された城です。
「七尾」の名は城が「七つの尾根」にまたがっているからだといわれている。
本丸天守台から見渡す山々は絶景です。
畠山氏からこの城を奪った上杉謙信はその眺めのよさに感嘆したい言われている。
金沢城 登城回数3回
加賀一向一揆の拠点であった地を、織田信長の家来佐久間盛政が築城した城です。
加賀に入封した前田利家が加賀支配の拠点として近世城郭へと改修したものです。
ここの縄張りもキリシタン大名として有名な高山右近によるものです。
残念ながら、天守は江戸時代に落雷により焼失しました。
丸岡城 登城回数5回
柴田勝家の甥の勝豊が築いた城です。
天守は現存する最古のものであるといわれています。
天守の屋根瓦は笏谷石製で、天守に石瓦を使用した現在例はこの城だけです。
石垣が使われたのは、瓦が凍結して破損することを防ぐための知恵といわれています。
一乗谷城 登城回数2回
戦国大名朝倉氏の館でけでなく城下町と4つの山城を指している城です。
一乗谷川沿いの天然の要害を拠点としています。
一乗谷には2つの城戸にはまさまれた約1.7kmま細長い城下町が全国に先駆けて形成された。
織田信長により灰燼と帰したが、現在は武家屋敷や町屋が復元されています。
岩村城 登城回数1回
近世山城の代表で、標高717mの日本一高い地に築かれた城です。
近世城郭における日本三大山城といわれています。
また、霧が多く発生するため別名霧ヶ城と呼ばれています。
戦国時代、女城主の城としても有名です。
岐阜城 登城回数7回
鎌倉時代に二階堂氏により築城された城です。
斎藤道三が山城部分の稲葉山城と城下町を整備した。
その後、織田信長が攻め落とし岐阜城と改ためて居城として整備した。
明治時代に我が国で最初の観光目的の天守が再建されたが焼失し、あらたに昭和31年に再建された
駿府城 登城回数5回
今川氏の館があったところに徳川家康が築城した城です。
隠居した家康が城を改築して過ごした城でもある。
天守は、江戸時代に出火で焼失してからは再建されていない。
二の丸東御門、辰巳櫓、本丸堀の一部が復元公開されています。
掛川城 登城回数3回
最初の掛川城は古城と呼ばれていました。
山内一豊が入封して、近世城郭へと大改築しました。
現存する二の丸御殿は幕末に再建された貴重な建築物であります。
平成になり、天守が木造で再建されました。
犬山城 登城回数6回
織田信長の叔父信康によって築かれた城です。
古調をたたえた望楼型天守が現存する城です。
本丸の背後は木曽川によって守られており、「後堅固」の構えになっています。
国宝なのに平成16年まで個人所有(成瀬氏)であったが、現在は財団法人の所有になっています。
名古屋城 登城回数5回
元々は「那古野」と呼ばれており、今川氏の支城だったところです。
徳川家康が西国の外様大名に天下普請を命じて創らせた城です。
豊臣秀頼をけん制する意図があり、広大な縄張りで最大級の要塞のていを成しています。
五重の天守には金の鯱が載っており「尾張名古屋は城でもつ」と謳われるまでになりました。
岡崎城 登城回数3回
土豪の西郷氏が創築し、家康の祖父清康により改築が行われた城です。
徳川家康はここで生まれ、桶狭間の戦い後に戻り、ここを拠点に三河を統一しました。
家康が浜松城に本拠を移すと、後に信長の命により切腹させられた長男の信康が主となった城です。
明治に天守は取り壊されたが、昭和になり再建された。
長篠城 登城回数3回
宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城された城です。
断崖が城壁となり天然の要害の地になっています。
武田勝頼の猛攻に耐え抜いた堅城です。
長篠の戦いの際の鳥居強右衛門の逸話でも有名な城です。
伊賀上野城 登城回数2回
筒井定次が築いた城です。
築城の名手藤堂高虎が家康の命を受けて大改修をして、敷地を3倍にして豊臣秀頼に備えようとした城です。
五重の天守を計画していたが、建造中に暴風雨で倒壊しその後再建されなかった。
本丸には石垣技術の粋を極めた日本有数の高石垣がそびえ立っています。
松坂城 登城回数1回
築城の名手といわれた蒲生氏郷によって築城された城です。
安土城とよく似た縄張りや建物構成をもつ城でした。
本丸には三重の天守をはじめ多くの櫓が建てられ曲輪に豪快な石垣が築かれていました。
氏郷は信長の楽市楽座を見倣うなどして松坂の城下町を整備して伊勢商人の本拠地として栄えさせました。
彦根城 登城回数1回
徳川四天王の一人井伊直政の子の直継が彦根山を城地として築いた城です。
徳川家康の支援を受けて天下普請によって築城されました。
リユースの城で、石田三成の居城だった佐和山城ゃ大津城など周辺の廃城から用材や石材を調達して創りました。
三重三階、華麗な装飾を施された天守は城郭国宝の第1号に指定されました。
安土城 登城回数1回
織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖湖畔の標高198mに築城した城です。
五重七階の豪快な天主や総石垣の普請など以後の城づくりに計り知れない影響を与えました。
本能寺の変後、天主を中心とした建造物はすべて焼失しました。
安土城だけなぜか「天守」ではなく、「天主」と表記します。
観音寺城 登城回数1回
六角氏の居城として築城された城です。
織田信長が上洛する際、近隣の城を猛攻するすさまじさに六角義賢はこの城を捨てて逃げ出したそうです。
その後、廃城になったとされています。
主郭部に築かれた高石垣は、日本の城で初めて本格的に導入されたもので、安土城の先駆をなすものとされています。
二条城 登城回数2回
徳川家康が京都における儀礼施設として築いた城です。
家康は、実際にこの城で征夷大将軍拝賀の儀式を行っています。
天守は江戸時代に落雷で焼失したが、二の丸御殿はそのまま現存しています。
平成になって「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されました。
大阪城 登城回数3回
豊臣秀吉が天下取りの拠点として水運の利に恵まれた上町台地に築城した城です。
五重八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦など豪華な望楼型天守でした。
大阪夏の陣で豊臣大阪城は、天守とともに炎上してしまいました。
その後、豊臣大阪城の縄張りの上に盛土をし新たに石垣を積みなおして徳川大阪城を築城しました。
姫路城 登城回数3回
姫路城の創築は南北朝時代の初期としてされています。
羽柴秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭として姫路城と改称しました。
その後、池田輝政が五重六階地下一階の大天守に3基の小天守を結んだ天守群を中心に大城郭を築きました。
別名、白鷺城といわれ平成になって日本を代表する城として世界遺産に登録されました。
赤穂城 登城回数1回
浅野長直が要害の地にあった陣屋を近世城郭として築城しました。
甲州流軍学と山鹿流軍学を取り入れ、折れを多用した縄張りが特徴の城てす。
天守台は築かれたが、幕府の許可が下りず天守は築かれなかった。
赤穂浪士で有名な浅野家の居城でした。すぐ近くに大石神社があります。
和歌山城 登城回数1回
羽柴秀長が紀ノ川と和歌川に挟まれた標高48mの小山に居館を築いたのが始まりです。
徳川頼宣が御三家にふさわしい城にするために大拡張を行いました。
二の丸、砂の丸などの曲輪や庭園を造成し、現在の姿が完成しました。
三重三階の大天守と小天守、乾門、二の門などが多聞櫓で結ばれた連立式天守でしが、天守は焼失し再建されました。
鳥取城 登城回数1回
戦国時代の後半に標高263mの久松山山頂に築かれた城です。
羽柴秀吉が大軍で兵糧攻めにし城将吉川経家が将兵の助命を条件に自害したことで有名です。
池田家の居城となり、山城と麓の近世城郭と縄張りを整備しました。
昭和の鳥取大地震で天守台などの石垣が崩壊しましたが、現在復元工事が行われています。
松江城 登城回数3回
堀尾吉春が宍道湖を見下ろす標高28mの亀田山に築城した城です。
外観五重六階の天守は現存12天守のひとつです。
極めて実践的な天守で、板張り部分のいたるところに石落としや狭間が設けられなど防備面で工夫されいます
月山富田城 登城回数1回
平安末期または鎌倉初期に築城された城といわれています。
富田川に面した標高197mの月山を利用した山城です。
戦国大名の尼子氏代々の居城でしたが、毛利元就に攻められ1年半に及ぶ籠城の末開城し尼子氏は滅亡しました。
堀尾吉春が入城したが、慶長になって松江に居城を移し廃城となりました。
津和野城 登城回数2回
鎌倉幕府の命により築城された城です。
小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城でした。
その後、津和野の町並みを見下ろす標高200mの城山山頂を削って三重天守を建て近世山城へと大改築しました。
現在は山城の石垣として屈指とされる壮大な高石垣が残り、櫓2基が城下に現存しています。
備中松山城 登城回数1回
秋葉重信によって築城された城です。
城のある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利氏の城塞として機能していました。
小堀氏、水谷氏などの改修により近世三大山城として、4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山に建っています。
二重二階の天守は現存する天守の中で最小であるが、日本一高いところに建っています。
岡山城 登城回数1回
金光氏の居城であったが、宇喜多直家が略奪した城です。
その子の秀家が豊臣政権の有力大名にふさわしい城にすべき大改修しました。
金箔瓦を使用し五重六階の複雑な構造を持つ前期望楼型の天守で、外壁には黒い下見板が張られ、そのい色から「烏城」とも呼ばれています。
向かいには回遊式の大名庭園の後楽園があります。
岩国城 登城回数1回
吉川広家が岩国に転封され、山陽道の東を固める要衝の地に築いたのがこの城です。
錦川に面した横山山頂の城郭部分と山麓にある居館から構成されています。
居館と城下はアーチ型五連の木橋で有名な「錦帯橋」で結ばれています。
天守は四重六階で、三階よりも四階、五階よりも六階を大きく張り出した特異な形式の「南蛮造」で建てられていました。
萩城 登城回数1回
毛利輝元が日本海に突き出た標高143mの指月山に築いた城です。
指月山山頂に詰丸、麓に幅広い水堀で区切られた本丸、二の丸、三の丸が配置されていました。
海と指月山を背後の守りとした毛利氏の堅城です。
現在は天守台、石垣、堀のみとなり建物は残っていません。
徳島城 登城回数1回
蜂須賀家正が、吉野川河川の標高62mの渭山に築城した城です。
山頂の本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸と麓の本丸御殿からの縄張りです。
渭山に築かれた蜂須賀氏の阿波支配の拠点城郭です。
城内の石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって築かれています。
松山城城 登城回数3回
加藤善嘉明が伊予を与えられ、標高132mの勝山山頂に本丸をおいた平山城です。
本丸の天守曲輪を構成する建物の多くは火災により焼失しました。
天守も一度焼失したが、1852年に再建されそれが現在に残っています。
一見して門の存在がわからない「隠門」や戸が設けられていない「戸無門」があります。
高知城 登城回数4回
大高坂山に南北朝時代に築かれた平山城です。
山内一豊が掛川より入封し、四重六階の天守を建て近世城郭として大改修が行われました。
現存する天守は1727年の大火で焼失後、1747年に望楼型天守として再建されたものです。
天守に接続している本丸御殿は全国でも数少ない現存する御殿で大変貴重です。
福崎丘陵に黒田孝高・長政の親子によって慶長時代に築かれた平山城です。
黒田氏の領国経営の拠点となった大城郭で、明治まで黒田氏の居城となっところです。。
幅50mを超える内堀で本丸、二の丸、東二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造で、大天守、小天守が連なる天守台が築かれました。
城内は多数の櫓、曲輪が要所要所に建てられていたが、現在は南の丸多聞櫓、伝潮見櫓などごくわずかしか残っていません。
名護屋城 登城回数1回
大陸出兵のために朝鮮半島に近い東松浦半島北端に豊臣秀吉が築かせた平山城です。
戦のための城とはいいながら、城域は17万uに及び金箔瓦を使用した五重の天守も建てられました。
本丸から三の丸まで多くの高石垣で構築され曲輪が多く配されており、とらかく城の壮大さに圧倒されます。
現在は各曲輪を累々と巡る石垣のみが残されているが、天守台からの眺望は360度の大パノラマで玄界灘の絶景が広がっています。
佐賀城 登城回数1回
戦国大名の龍造寺氏の居城であった村中城を、鍋島氏が拡張して築造した平城です。
幅50m以上もある堀は石垣ではなく土塁で築かれています。城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられています。
本丸正門である鯱の門は天保期の現存建物で、堂々たる構えの門であります。
移築復元された御座間や東堀を除いてほぼ完全な形で残る水堀もこの城のみどころです。
島原城 登城回数1回
松倉重政によって九州外様大名への押さえとして築かれた巨大天守の平城です。
城は南から北へ本丸、二の丸、三の丸が並ぶ連郭式の縄張りでした。
五重五階の破風を持たない天守を中心に3基の三重櫓が立ち、平櫓は33基もありました。
昭和になり、西三重櫓を再建したのを皮切りに天守、巽三重櫓、丑寅三重櫓が再建され、本丸の景観が素晴らしい城です。
飫肥城城 登城回数1回
飫肥市の北部市街の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。
関ケ原合戦後に徳川家康から領地を安堵された伊東祐実が大改修を行い、近世城郭として体裁を整えた城です。
城は標高20mのシラス台地にあり、西から南に流れる酒谷川を堀として、本丸、中の丸、松尾の丸など多くの曲輪に分かれていました。
再建された大手門や松尾の丸に残る苔むした石垣などが、飫肥杉の木立ちとも相まって独特な風情をかもし出しています。
鹿児島城 登城回数1回
島津家久が標高107mの城山東麓に築いた平城です。
城山を背後におき、中世以来の館造りを踏襲した城構えで島津77万石の居城でした。
本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンブルな縄張りで、御楼門以外に天守も櫓もない珍しい城です。
本丸を巡る石垣や、二の丸との間の石垣などは、切込接で積まれた美しい石垣です。
岡城 登城回数1回
標高325mの天神山に築かれた山城です。
中川秀成が入封し、高石垣を多用した近世城郭として大拡張を行いました。
本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿が創られました。
この地で過ごしたことのある瀧廉太郎の「荒城の月」は、この岡城址がイメージになっているといわれています。
今帰仁城 登城回数1回
沖縄本島北部の丘陵上に13世紀から14世紀にかけて創られた山城です。
本丸、大隅、志慶真門郭など10の曲輪を構えていた北山王の居城でした。
1609年に薩摩軍に攻められ炎上し廃城となりました。
城址には1.5kmにも及ぶ壮大な石垣が当時のまま残っており、平成になって世界文化遺産に登録されました。
首里城 登城回数3回
琉球王国の栄華を伝える華麗な王城です。
城は東西約400m、南北300mの規模を誇り内郭と外郭で構成されています。
正殿は外観・内部とも豪華な装飾が施されおり、琉球王国の全盛期を彷彿させる華麗さがあります。
平成になって世界文化遺産に登録されました。
3月21日(月)から3月23日(水)にかけて「青春18きっぷ」を利用して久しぶりに百名城を訪れました。
明石城、姫路城、広島城、福山城、彦根城の五城に登城しました。
3月21日(月)
始発に乗って約5時間かけて明石城に到着しました。
明石城 登城回数1回
徳川家康の曾孫で明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた平山城です。
連郭式の縄張りの中心にある本丸に巨大な天守台が築かれたが天守は建てられることはなかった珍しい城です。
天守台は、熊本城と同じくらいの巨大なものです。
坤櫓 | 巽櫓 |
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坤櫓(左)と巽櫓(右) | 天守台 |
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明石城から約1時間かけて姫路城に到着しました。
姫路城 登城回数4回
三連休の最後の日なのか天守閣の見学には1時間以上の待ち時間なので天守閣は
諦めて他のところをゆっくりと見学しました。
特別に今年の3月から11月まで内堀の和船による乗船体験ができるので、乗ってみました。
16人乗りの人数制限があり、何と最後の一人でラッキーでした。
いろいろな角度からの天守閣 | |
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黒田官兵衛の時代の石垣 |
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内堀和船 | 船上からの天守閣 |
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3月22日(火)
昨日は倉敷に泊まり、倉敷から約3時間かけて広島城に到着しました。
広島城 登城回数1回
太田川河口の三角州に城下町を含めて毛利輝元が築いた典型的な平城です。
その後福島正則が入場し外堀や外郭の整備をして広島城を完成させました。
望楼型の五重五階の大天守に小天守を2基連ねた連立式天守をはじめ、数多くの櫓が建ち並んでいました。
原爆によってそのほとんどが倒壊しましたが、その後天守閣だけが再建されました。
御門橋表御門 | 二の丸 |
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天守閣 | |
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広島城から約2時間かけて福山城に到着しました。
福山城 登城回数1回
水野勝成が海陸地の要衝地である芦田川のデルタ地帯に築いた平山城です。
伏見城から移築されたとされる「伏見櫓」が現存しています。鉄筋御門は重要文化財です。
天守は五重六階地下一階の層塔型で、北面の外壁が防御のため鉄板で覆われていた唯一のものです。
昭和の空襲で焼失してしまいましたが、その後再建されました。
石垣 | 鉄筋御門 |
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伏見櫓 | 天守閣 |
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3月23日(水)
昨日は赤穂に泊まり、赤穂から約4時間かけて彦根城に到着しました。
彦根城 登城回数1回
井伊直継により、磯山の地に築かれた平山城です。天守は国宝です。
また、現存12天守の一つです。二重の堀に囲まれた城郭は昔の姿をとどめている所が随所にみられます。
表門から坂道を登ったところに廊下橋を中央に天秤のように左右対称の天秤櫓は他の城には見られないものです。
その他にも西の丸三重櫓や太鼓門櫓などの重要文化財がたくさんあります。
天秤櫓 | 西の丸 |
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太鼓門櫓 | 天守閣 |
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坂井市古城マラソンに参加しましたが、大会会場の目の前に丸岡城がありました。
表彰式まで時間があったので登城しました。
丸岡城 登城回数6回
現存天守の12城の一つです。現存天守の中で最も古い建築であるといわれています。
望楼型天守で二重三階です。階段は非常に傾斜があり大変登りにくいです。
天守 | 天守の登り口 |
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あかぎ大沼白樺マラソンに参加するため前橋に来たので、久しぶりに百名城に登城しました。
1年ぶりの百名城の登城です。
箕輪城 登城回数1回
山上に多数の曲輪が展開した巨大な平山城です。
城地は東西500m、南北1100mもありますが、建物は現在、復元された門が一つあるのみです。
徳川四天王で有名な井伊直政が城主だった城です。
本丸跡 | 二の丸跡 |
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土橋 | 復元された門 |
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ねんりんピック秋田の参加後、盛岡城が近くにあるので立ち寄りました。
盛岡城 登城回数1回
東北では珍しく花崗岩の高石垣がそびえたつ平山城です。
南部氏が北上川と中津川の合流地点の丘上に築き上げた堅城です。
現在は建物はなく、石垣のみが残っています。
会津若松城と白河小峰城とともに東北の石垣づくりの三大名城の一つです。
本丸の石垣 | 二の丸の石垣 |
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空堀と廊下橋 | |
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上田古戦場マラソンに参加するため上田市に来たので上田城と小諸城に登城しました。
上田城 登城回数6回
あの有名な真田氏の居城で真田幸村の父昌幸が築城した城です。
この城で徳川の大群の攻撃を2度にわたって退けたことで有名です。
特に関ケ原に向かう徳川秀忠を退けて、結果的に秀忠が関ケ原の戦いに遅れて参戦できなかったことで有名です。
東虎口櫓門 | 真田石 |
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真田神社 | 真田井戸 |
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本丸跡 | 西櫓 |
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小諸城 登城回数4回
信濃守護小笠原氏の流れをくむ大井光忠が築いた鍋蓋城を武田信玄が拡張整備した城です。
現在の姿は仙石秀久により大改造され出来上がったものです。
三の門に掲げられた額の「懐古園」の方が有名かもしれません。
島崎藤村の作詞で有名な「小諸なる古城のほとり」のモデルの城です。
大手門 | 三の門 |
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二の丸跡 | 懐古神社 |
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天守台跡 | 天守台の石垣 |
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鳴沢紅葉マラソンに参加するため山梨に来たので武田氏館と甲府城に登城しました。
武田氏館 登城回数3回
現在は武田神社になっています。信玄の父信虎によって築かれた平城です。
その後、信玄・勝頼と3代にわたり約60年間続いた城というより館です。
「武田節」で歌われている躑躅ヶ崎はここを歌ったものです。
「武田節」で有名な節は、人は石垣人は城です。
神橘 | 参道 |
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拝殿 | 姫の井戸 |
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甲府城 登城回数2回
武田氏滅亡後に、浅野長政によって築かれた平山城です。
ここの高石垣は、東日本では最大級のもので、野面積みで築かれています。
関ケ原の戦い後は徳川一門により支配されていました。
遊亀橋 | 中の門跡 |
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復元された櫓門 | 本丸跡 |
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天守台跡 | 復元された稲荷櫓 |
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米山山麓ロードレースに参加するため新潟県上越市に来たので春日山城に登城しました。
春日山城 登城回数1回
上杉謙信が居城とした戦国の巨大山城です。
越後護代長尾為影とその子の長尾景虎(上杉謙信)が本格的に整備強化して戦国時代有数の
難攻不落の城となったものです。
石垣は用いられず、土塁や空堀で築かれ春日山全体に多くの曲輪や屋敷を配置した巨大な山城です。
春日山城址ものがたり館 | |
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監物堀と土塁 | |
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上杉謙信像 | |
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三ノ丸跡 | 二ノ丸跡 |
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天守閣跡 | |
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本丸跡 | |
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毘沙門堂跡 | 直江屋敷跡跡 |
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千貫門跡 | 空堀 |
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小豆島オリーブマラソンに参加するため四国に来たので今治城と丸亀城に登城しました。
今治城 登城回数1回
築城の名人の藤堂高虎が渾身の縄張り術で築いた城です。。
日本三大水城の一つで、革新的な技術を導入して後に城の手本とされた名城です。
その技術の一つが層塔型天守と幅の広い犬走です。
城の中心部の堀と石垣はほぼ完全に当時の姿を遺しています。
北隅櫓と本丸 | |
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犬走り | |
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西隅櫓 | 南隅櫓 |
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御金櫓 | 武具櫓 |
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山里櫓 | 山里櫓と天守 |
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桝形 | 鉄御門 |
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藤堂高虎像 | |
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天守 | 天守からの眺め |
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瀬戸内海からの海水の流入口 | |
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丸亀城 登城回数3回
丸亀平野の標高66mの亀山に生駒親正・一正が築いた城です。
初重目の下見板張、二重目の唐破風、三重目の格子窓が天守としての格式を高めています。
海を睨んで築かれた風格のある三重の天守が現存しています。
亀山を三段の高石垣が巡る讃岐の要塞です。
高さ日本一の石垣で「石の城」として全国的にも有名です。
大手門から見上げる天守は威厳に満ちその天守は今も色あせることなく自然と調和しています。
大手門からの天守 | 石垣と天守 |
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大手一の門 | 大手二の門 |
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見返り坂 | |
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打ち込みハギと切り込みハギの石垣 | |
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丸亀城では珍しい野面積みの石垣 | |
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天守 | 天守からの眺め |
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石垣と天守 | |
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小豆島オリーブマラソンの帰りに高松城に登城しました。
高松城 登城回数3回
生駒親正が讃岐一国を与えられ、瀬戸内海に面した地に築いた城で玉藻城とも呼ばれています。
海水を取り入れた幅の広い水堀が本丸や二の丸、三の丸を巡る本格的な海城です。
内堀に島のように浮かぶ本丸の天守は、三重四階地下一階の南蛮造と呼ばれる形式でした。
城跡には、月見櫓や艮櫓などが残っています。
真鯛も泳いでいると言われる日本三大水城の一つです。
簾櫓 | 二ノ丸跡 |
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鞘橋 | 内堀 |
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天守台 | |
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桜御門 | 艮櫓 |
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鹿櫓 | 月見櫓・水手御門・渡櫓 |
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瀬戸内海との水門 | |
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塩原温泉湯けむりマラソン出場の途中に寄り道をして金山城と足利市館城に登城しました。
金山城 登城回数1回
麓の金山城跡ガイダンス施設を見学しました。金山城の知識を得るのに大変参考になりました。無料です。
標高235mの金山山頂に築城された山城です。新田義貞氏の後裔の岩松家純が築城しました。
戦国時代に武田氏、上杉氏、後北条氏などに攻められましたが、そのたびに撃退して切り抜けました。
城は実城、西城、北城などからなり東西南北数kmに及ぶ巨大な山城です。
実城後には、新田義貞が祭られている新田神社があります。
石垣から石敷きの通路まで、城のほぼすべてが石垣づくりである関東でも希有な城です。
発掘調査を元に石敷きの通路、日の池、大手虎口などが復元されました。
駐車場までの帰り道で金山城のボランティアの方と話をする機会がありました。
建物などはないもない山城ですが、5月の連休中は駐車場が終始満杯の状態だったそうです。
どの箇所が良かったですが、聞かれたので迷わず大手虎口と答えました。また、日本の城の中で
一番好きな城は聞かれたので、これも迷わず備前名護屋城と答えました。
金山城跡ガイダンス施設 | |
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西堀切 | 物見台虎口 |
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物見台 | 大手虎口 |
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日ノ池 | 土塁石垣 |
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新田神社のある実城 | |
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足利氏館 登城回数1回
中世の地方武士の典型的な居館の跡です。足利尊氏の祖先の足利義兼が築城した平城です。
名前の通り城というより、館跡といった方がわかりやすいです。現在は、鑁阿寺の境内になっています。
水堀と土塁に囲まれた方形館の館跡が唯一の城跡を感じる遺構です。
足利尊氏像 | |
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鑁阿寺楼門 | 鑁阿寺西門 |
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土塁と堀 | |
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AOMORIマラソン出場のために青森に来たので、少し足を延ばして弘前城に登城しました。
弘前城 登城回数2回
江戸時代以前からの天守が現存しているのは全国で12城で現存12天守といわれています。弘前城もその一つです。
あと現存12天守で登城していないのは、宇和島城だけです。来年の今治シティマラソンの出場のついでに登城しようと思っています。
東北地方では唯一現存している天守が、現在石垣の修理のため天守台から移動しているのでぜひそれを見たいと思い登城しました。
天守は独立式の層塔型で、三重三階です。堀の外側から見た表は破風や狭間がありますが、裏は破風や狭間が全くない珍しいものです。
桜の名所で、次は桜の時期にまた登城したいと思います。
追手門 | |
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未申櫓 | 辰巳櫓 |
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天守があった天守台 | |
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移動された天守の表 | 移動された天守の裏 |
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修理中の石垣 | |
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ひろしまクロスカントリーに出場するために岡山県を通るので途中で、津山城に登城しました。
津山城 登城回数1回
森忠正(森蘭丸の弟)が13年の歳月を要して築いた平山城です。高さ50mの鶴山に総石垣でひな壇のように3段または4段に
重ねた曲輪を築き、「一二三段」と呼ばれています。このように巧妙に積み上げた石垣の線と構造は他に例のないものです。
山頂に本丸をおき、五重の層塔型天守がありそれを囲むように櫓と門を配した輪郭式の城です。建物は明治にすべて取り壊されましたが、
築城400年を記念して平成17年に備中櫓が再建されました。現在は、西日本随一の桜の名所として多くの人が花見に訪れます。
ここの魅力は城跡に残る累々と巡る高石垣と、多くの櫓台と天守台です。
三ノ丸石垣 | 三ノ丸 |
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二ノ丸からの備中櫓 | |
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本丸への階段 | |
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備中櫓 | 備中櫓の矢狭間 |
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天守閣跡 | 天守台 |
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天守台にあるハート型の石跡 | 小天守台 |
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急勾配の石垣 | 算木積みの石垣 |
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一関国際ハーフマラソンン出場のために岩手に来たので、少し足を延ばして盛岡城に登城しました。
盛岡城 登城回数2回
北上川と中津川の合流地点の丘陵地を利用して岩手南部氏20万石の居城として築城されました。東北地方には珍しい総石垣造りの
城で、すべて盛岡産の花崗岩を用いていることも特徴の一つです。本丸と二ノ丸、三ノ丸を並列した連郭式の代表的な城です。
石垣の見事さは、会津若松城、白河小峰城とともに東北の石垣造りの三大名城です。また、石垣の積み方の野面積み、打込接、切込接の
三種類を見ることが出来ます。その他に石垣の強度を強める算木積みも見ることが出来ます。
江戸時代初期の石垣 | 江戸時代中期の石垣 |
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算木積みの石垣 | 築城当時の石垣 |
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腰曲輪の石垣 | 二重櫓跡の石垣 |
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本丸跡 | |
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本丸と二ノ丸の石垣 | 渡雲橋 |
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二ノ丸跡 | 三ノ丸跡 |
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鶴ヶ池 | 亀ヶ池 |
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山形まるごとマラソンン出場のために山形市に来たので、山形城に登城しました。
山形城 登城回数1回
羽州探題として山形に築城したのが、最上家の初代となる斯波兼頼でした。現在の城郭の原型を築いたのが最上義光と言われています。
本丸、二ノ丸、三ノ丸の3重の堀と土塁の輪郭式の平城です。堀は石垣よりも土塁の割合が多く、石垣造りはあまり得意ではなかったようです。
現在は、本丸と二ノ丸が霞城公園として整備されています。山形城は別名霞城と呼ばれています。これは長谷堂合戦で城郭が霧で隠れたことに
由来しているようです。また霞ヶ城とも言われています。。
南門 | 坤櫓跡 |
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西門 | 二ノ丸土塁と堀 |
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北門 | 山形城址碑 |
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本丸の空堀 | |
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本丸一文字門石垣・大手橋・高麗門 | 高麗門の内側 |
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巽櫓跡 | 最上義光騎馬像 |
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二ノ丸東大手門 | 大手門桝形 |
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野々市じょんがらの里マラソンン出場のために金沢市に来たので、金沢城に登城しました。
金沢城 登城回数1回
犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城です。
前田利家が加賀支配の拠点として近世城郭へと改修しました。基本的な縄張りはキリシタン大名として有名な高山右近
と言われています。菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の優美な姿は金沢城を代表するものです。
石川門、河北門、橋爪門は金沢城の三大門として凛々しい姿を見ることが出来ます。また、石垣の博物館と言われるほど
野面積み、打込接ぎ、切込接ぎのいろいろな技法を見ることでができます。
前田利家像 | 石川門 |
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菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 | 橋爪門 |
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河北門 | 極楽橋 |
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三十間長屋 | 長屋の内部|
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石川門石垣 | 菱櫓石垣 |
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内堀石垣 | 土門橋石垣 |
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三十間長屋石垣 | 鉄門石垣 |
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戌亥櫓跡 | 鶴丸倉庫 |
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戌亥櫓跡 | 鶴丸倉庫 |
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東の丸石垣 | 金沢城最古の野面積み石垣 |
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東の丸石垣 | 金沢城最古の野面積み石垣 |
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色々な刻印のある石 | |
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京都旅行に来たので、、二条城に登城しました。
二条城 登城回数3回
徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の宿泊所として築城した輪郭式の平城です。
徳川家光のとき、天皇の行幸を仰ぐため本丸御殿と白亜の五重天守が作られ、現在の規模となりました。
また、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもあります。
本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を明治時代に移築したもので、徳川家の二条城とは無関係の建物です。現在は
修復中でその姿を見ることはできません。平成6年に、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。
東南南隅櫓 | 東大手門 |
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外堀の様子 | |
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唐門 | 二の丸御殿 |
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二の丸庭園 | 東橋|
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内堀の様子 | 内堀石垣 |
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修理中の本丸御殿 | 西南土蔵 |
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天守閣跡の石垣 | |
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南中仕切門 | 桃山門 |
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南門 | 番所 |
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水郷の里マラソン出場のため、滋賀県に来たので安土城に登城しました。
安土城 登城回数2回
織田信長が「天下統一」の拠点の城として丹羽長秀を普請奉行にして、築城した平山城です。
琵琶湖湖畔の標高198mの安土山に1576年から3年かけてようやく天主が完成しましたが、
わずか3年後に本能寺の変の混乱の中、原因不明の火事で天主などを焼失してしまいました。
安土城は他の城と違って、なぜか「天守」ではなく「天主」と呼ばれています。金、朱、黒などに彩られた
五重七階の豪壮な天主で、その後の城づくりにはかり知れない影響を与えた城でもあります。
安土駅前の信長像 | 大手道 |
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羽柴秀吉邸跡 | |
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前田利家邸跡 | 徳川家康邸跡(ハ見寺借本堂) |
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織田信澄邸跡 | 森蘭丸邸跡 |
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黒金門跡 | 仏足石 |
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二の丸跡 | 本丸跡 |
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天主閣跡 | |
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天主閣からの琵琶湖 | 天主閣からの安土の街並み |
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ほこたハーフマラソン出場のため、茨木県に来たので水戸城に登城しました。
水戸城 登城回数1回
那珂川と千波湖に挟まれた台地築かれた典型的な連郭式の平山です。佐竹義宜が近世城郭に改修し
その後徳川家康の11男頼房が大幅に改修し、徳川御三家水戸藩の居城としました。
この城は土の城と言われ、石垣を一切使用せず土塁によって城が築かれています。
水戸城で唯一現存するのは、水戸第一高校内の敷地にある藥医門だけです。
城に興味のない人はここが城跡とは思もわずに通り過ぎるところです。
水戸駅前の水戸黄門像 | |
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本丸土塁跡 | 二の丸土塁跡 |
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坂下門 | 薬医門 |
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杉山門 | 樹齢400年以上の大シイ |
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三階櫓跡 | 彰考館跡 |
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水戸第二中学校の門 | 師範学校跡 |
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整備中の大手門 | 藩校の弘道館 |
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星の郷ふれあい健康マラソン出場のため、岡山県に来たので岡山城に登城しました。
岡山城 登城回数2回
岡山城は、旭川の西の丘陵に平山城として築かれました。金光氏の居城があった所を
宇喜多直家に略奪され、その子の秀家が57万石にふさわしい城に大改修しました。
天主は金箔瓦を用い五重六階の複雑な望楼型天守で金の鯱を多用しています。
天主の外壁には下見板張りが張られ黒漆が塗られていたので、その色から
「烏城」の別名がつけられています。
月見櫓 | 月見櫓の石垣 |
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内堀 | 大手門跡 |
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鉄門跡 | 不明門 |
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天主の礎石 | 六十一雁木上門 |
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中の段 | 廊下門 |
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天主閣 | 天主閣の鯱 |
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天主閣の石垣 | 天主閣の一階部分 |
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都農尾鈴マラソン出場のため、宮崎県に来たので飫肥城に登城しました。
飫肥城 登城回数2回
飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと
言われています。戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていました。その後伊東氏が
城主となり、島津氏との間で城をめぐる戦いが繰り広げられました。関ケ原の戦い後は徳川氏より領地を安堵され、
伊東祐実が大改修を行い、近世城郭としての体勢を整えた城です。丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。
大手門 | 内側虎口 |
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本丸に続く石段と飫肥杉 | 松尾の丸御殿 |
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本丸跡にある小学校 | 旧本丸に続く石段 |
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旧本丸跡 | 空堀 |
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都農尾鈴マラソンの帰りに、大分県に来たので大分府内城に登城しました。
大分府内城 登城回数1回
慶長2年福原直高が府内に築城を開始し、同4年に望楼型の四重天守が築かれました。関ケ原の戦い後
竹中重利が創建当初の天守を新式の層塔型天守へと改めるなどの大改修を行った。北側は海、東側は大分川に
面した縄張りで本丸、二ノ丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配されています。多くの建物は寛保3年に出火により
焼失し、現存の建物は宗門櫓と人質櫓のみです。
西の丸隅櫓 | 改修中の宗門櫓 |
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着到櫓 | 大手門 |
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内堀 | イルミネーション用の仮想天主 |
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天守台 | 人質櫓 |
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廊下橋 | 廊下橋の内部 |
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赤穂ウルトラマラソンで、兵庫県赤穂市に来たので赤穂城に登城しました。
赤穂城 登城回数2回
慶安元年浅野長直が築城を開始し、寛文元年に築かれました。天守は残念ながら幕府の許可が下りず築かれませんでした。
甲州流軍学と山鹿流軍楽学を取り入れた特徴的な縄張りの城です。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸は梯郭式になっており
近世城郭では非常に珍しい変形輪郭式の平城です。また、折れを多用した石垣も極めて特徴的です。
また、城内には赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る赤穂神社があります。
大手門 | 大手門内枡形 |
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東隅櫓 | 三之丸塩屋門 |
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大石良雄宅跡 | 赤穂神社 |
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二之丸石垣 | 二之丸庭園 |
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本丸門 | 本丸門枡形 |
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本丸庭園 | 天守台 |
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本丸厩口門 | 横矢枡形 |
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天領日田ひなまつり健康マラソンで、九州に来たので福岡城に登城しました。
福岡城 登城回数2回
福岡城は、関ヶ原合戦の功により筑前52万石与えられた黒田長政・如水によって、慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて
築城された梯郭式の平山城です。別名は形が鶴が舞っている姿に似ているということで、舞鶴城と言われています。
本丸、二の丸、三の丸を層状に配置して、5mから15mの石垣を複雑に積み上げ、その延長距離は3km以上あります。
江戸時代からの状態をよく残していて、野面積みから打込接までいろいろな種類の石垣の積み方を見ることができます。
地下鉄工事の時に見つかった外堀の石垣 | |
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上之橋御門跡 | むかし探訪館 |
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東御門跡 | 扇坂 |
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表御門跡 | 修復中の石垣 |
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二の丸跡 | 本丸御殿跡 |
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小天守台 | 天守台 |
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埋門跡 | 大天守台跡 |
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武具櫓跡 | 裏御門跡 |
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多聞櫓内側 | 多聞櫓外側 |
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桐木坂 | 松の木坂御門足 |
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名島門 | 長屋門 |
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潮見櫓 | 下之橋御門 |
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長良川ロングディスタンス大会で岐阜市にきたので、岐阜城に登城しました。
岐阜城 登城回数8回
岐阜城は、鎌倉時代に二階堂氏により金華山山頂に築城された典型的な山城です。その後、戦国時代に斎藤道三が稲葉山城
として城下町を含めて整備しました。それを美濃支配を目指した織田信長が攻め落とし、地名を井口から岐阜に改めて
岐阜城と改めました。山頂部に居住屋敷、山麓に居館を設けて整備しました。しかし、関ヶ原合戦の際、信長の孫秀信が
西軍に味方したため、東軍の池田輝政に攻められて落城しました。現在の天守は昭和31年に再建されたものです。
天下第一の門 | 上格子門跡 |
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馬場跡 | 駒返しの岩 |
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二の丸門 | 下台所跡 |
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軍用井戸 | 天守の東斜面の石垣 |
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岐阜城天守 | |
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天守からの眺め | 本丸井戸 |
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信長居館跡 | |
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居館の庭園 | |
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板垣退助像(ここが遭難の地)「板垣死すとも自由は死せず」 | |
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萩・石見空港マラソン大会出場のため山口県に来たので、萩城に登城しました。
萩城 登城回数1回
関ヶ原合戦の敗戦で、西軍の総大将の毛利輝元は、長門・周防2国に移封され日本海に面した萩に築城を開始しました。
萩城は143mの指月山の山頂に詰丸、麓に幅広の水堀で区切られた本丸、二の丸、三の丸が配置され指月城とも呼ばれています。
天守台石垣は扇の勾配と呼ばれる反りを持っいます。かつてはそこに五重天守が建てられていました。海と指月山を背後の守り
とした堅城で、城郭の構造は指月山山麓の平城の部分と山頂の山城の部分とを合わせた平山城です。
現在は天守台や石垣、堀のみとなり、建物は残っていません。
二の丸南門跡 | 二の丸の毛利輝元像 |
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塩矢倉跡 | 本丸橋 |
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本丸跡 | 天守閣跡 |
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天守台と礎石 | |
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詰の城の指月山と登山道 | |
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大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地の志都岐山神社 | 旧厚狭毛利家萩屋敷跡 |
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萩・石見空港マラソン大会出場のため島根県に来たので、津和野城に登城しました。
津和野城 登城回数1回
津和野城は1295年ころ、鎌倉幕府が吉見頼行に築かせたと言われています。小規模な曲輪を連ねた典型的な山城
です。山頂には壮大な石垣が累々と残る全国屈指の山城であり、特に三の丸跡から見る三十間台などの高石垣の光景は
圧巻です。関ヶ原合戦後、坂崎成正が、比高200mの山頂を削平して、三重天守を建て近世山城へ大改築しました。
また、三十間台から見る城下町の街並み素晴らしい眺めです。
津和野城に登城するための観光リフト | 堀切(吉見氏時代) |
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出丸 | 東門跡 |
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台所櫓の石垣 | 台所跡 |
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南櫓門跡 | |
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三の丸跡 | |
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三十間台石垣 | 三十間台跡 |
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天守台跡 | 太鼓丸跡 |
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津和野城からの津和野の街並み | |
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紀の川万葉の里マラソン大会出場のため和歌山県に来たので、和歌山城に登城しました。
和歌山城 登城回数2回
豊臣秀吉が弟の秀長に命じて虎伏山に創建した梯郭式の平山城です。藤堂高虎が普請奉行を勤め、最初に手掛けて
本格的な近世城郭です。その後、桑山氏が城主になり、関ヶ原合戦の後、浅野幸長が城主になり城の大規模な増築を
行いました。連立式天守を建て、本丸、二の丸、西の丸を造営し、大手を岡口門から一の橋の門に変え本町通を大手筋
として城下町を整備しました。その後元和5年、徳川家康の十男頼宣が入国し、御三家紀州藩が成立しました。
一の橋大手門 | 伏虎像 |
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二の丸跡 | 裏坂 |
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本丸御殿跡 | 表坂 |
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岡口門 | 不明門 |
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新裏坂 | 特別に開いていた埋門 |
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天守閣 | |
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御橋廊下 | 御橋廊下の中 |
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石材の変わり目 | 一中門跡の石垣 |
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不明門跡付近の高石垣 | 砂の丸高石垣 |
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石垣の変遷が分かる場所 | 新裏坂の石垣 |
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石垣の刻印 | |
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天守台石垣 | 鶴の渓の石垣 |
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野馬追の里健康マラソン大会出場のため宮城県に来たので、仙台城に登城しました。
仙台城 登城回数3回
仙台城は初代仙台藩の藩主伊達政宗によって築城された平山城です。東と南が広瀬川と滝の口渓谷の断崖、西が険しい
山に囲まれた天然の要害で、石垣は主に本丸の周りに築かれました。天守は築かれませんでしたが、本丸は62万石の
大藩にふさわしく、桃山文化の集大成というべき本丸御殿の建物が建ち並んでいました。しかし、明治時代に破却され
さらに昭和20年の空襲で焼失してしまいました。現在は大手門脇櫓のみが再建されています。また修復整備が完成した
本丸跡の北側北面の高石垣は切込接による実に見事なものです。
大手門北側土塀 | 大手門脇櫓 | |
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中門跡(修復中でした) | 沢門跡 | |
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本丸北壁石垣 | 本丸北西石垣 | |
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仙台城見聞館 | 本丸詰門跡 | |
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大広間跡 | 西門跡 | |
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本丸跡 | 埋門跡 | |
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巽櫓跡 | 伊達政宗像 | |
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清水門跡 | 巽門跡 | |
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堀跡 | 子門跡 | |
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切込接の石垣見本 | 打込接の石垣見本/td> | |
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野馬追の里健康マラソン大会出場のため宮城県に来たので、多賀城に登城しました。
多賀城 登城回数1回
多賀城は、東北地方を治めた古代律令国家の平山城です。城の中でも城柵と呼ばれ、織豊期以降の城とはまったくイメージが
違い、天守などは存在しません。周囲に築地や木柵を巡らせていました。築地とは柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、
屋根を瓦で葺 (ふ) いた塀または古くは、土だけをつき固めた土塀のことをいいます。多賀城は陸奥国府と鎮守府を兼ねた城柵で
行政と軍事の拠点で、約900m四方のいびつな四角形をしています。中央部に正殿を中心に配置された政庁がありました。
館前遺跡 多賀城に赴任してきた国司の邸宅跡と言われています | 政庁跡 |
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政庁南路 | 政庁復元模型 |
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正殿跡 | 石敷広場跡 |
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多賀城碑 | 築地塀と櫓跡 |
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宿毛マラソン大会出場のため四国に来たので、湯築城に登城しました。
湯築城 登城回数2回
湯築城は家臣団屋敷を城内に取り込んだ先駆的な平山城です。大きな堀と土塁が最大の特徴で、丘陵頂部の曲輪にある展望台からは
広大な松山平野を一望できます。築城当初は中央の丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に周囲に外堀を築き、二重の堀と
二重の土塁を巡らせた平山城になりました。外堀と内堀との間の平地部の西側は家臣団居住区、東側は庭園区をともなう上級武士
居住区とみられています。福島正則が伊予の大名として入部したのち、湯築城は廃城となったようです。しかし、城郭の堀や土塁など
縄張り遺構が良好に残っています。
搦手入り口 | 外堀 |
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外堀土塁 | 湯築城資料館 |
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武家屋敷1 | 内部1 |
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内部2 | 武家屋敷2 |
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内堀 | 内堀土塁 |
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土塁内部 | ごみ捨て穴 |
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庭園 | 大手門口 |
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石造湯釜 | 本壇 |
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山頂部からの市内展望 | 山頂部からみた松山城 |
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宿毛マラソン大会出場のため四国に来たので、松山城に登城しました。
松山城 登城回数4回
標高132mの勝山山頂に本丸、麓に二の丸と三の丸を設けた広大な平山城です。連郭式で、本壇には天守と小天守や隅櫓が結ばれた連立式天守
です。賤ケ岳の七本槍の一人として有名な加藤嘉明が、関ヶ原合戦の戦功により伊予20万石を与えられ1602年に築城を開始しました。
その後、蒲生忠知が二の丸を完成させ、1635年に松平定行が伊予松山15万石に封じられ三重の連立式天守を築造しました。
山上に広がる本丸では複雑な構成をした天守群をはじめ、数多くの櫓や門を見ることができます。一見して門の存在がわからない隠門や、戸口が
設けられていない戸無門、現存する望楼型二重櫓として貴重な野原櫓などがあります。
二の丸入り口 | 庭園入り口 |
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槻門跡 | 二の丸石垣 |
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二の丸 | |
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黒門口登山道 | 大手門跡 |
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太鼓櫓 | 戸無門 |
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筒井門 | 隠門 |
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隠門続櫓 | 太鼓口 |
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井戸 | 馬具櫓 |
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紫竹門東塀 | 一ノ門 |
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二ノ門 | 天神櫓 |
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三ノ門 | 筋鉄門東塀 |
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筋鉄門 | 小天守 |
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多聞櫓 | 南隅櫓 |
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十間廊下 | 北隅櫓 |
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大天守 | 本丸広場 |
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仕切門内塀 | 内門 |
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野原櫓 | 乾櫓 |
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紫竹門 | 天守台石垣 |
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天守群 | |
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宿毛マラソン大会出場のため四国に来たので、大洲城に登城しました。
大洲城 登城回数1回
肱川を望む42mの地蔵ヶ岳に築かれた平山城です。肱川の水を利用した広大な内堀と外堀が城内を巡っいます。大洲城の始まりは
14世紀に宇都宮豊房の築城に始まるとされています。その後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と城主が入れ代わり、加藤氏の入封後
は明治維新まで加藤氏の世襲となっていました。山頂に位置する本丸上段は多聞櫓に囲まれ、四重四階の層塔型天守が台所櫓と高欄櫓を
従える連結式天守がそびえたっていました。しかし、明治時代に天守が取り壊されましたが、平成16年、大洲市制50周年記念に
古写真や天守雛形などを基にして木造で再建されました。
三の丸南隅櫓 | 南隅櫓の内部 |
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下台所 | 二の丸御殿跡 |
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天守群 | |
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御門番長屋 | 天守台石垣 |
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かま櫓跡 | 暗がり門跡 |
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本丸廻り櫓跡 | 北の菱御門跡 |
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苧綿櫓 | 花頭窓 |
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天守からの肱川 | 天守群 |
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宿毛マラソン大会出場のため四国に来たので、宇和島城に登城しました。
宇和島城 登城回数1回
宇和島城は藤堂高虎によって6年の歳月を費やして築いた水城の性格を併せ持った平山城です。その後、富田氏を経て伊達政宗の庶長子秀宗が入り
明治維新まで伊達氏が続きました。創建時の天守は望楼型であったが、1666年に建てられた2代目天守は層塔型で千鳥破風や唐破風などに飾られた
装飾性の高いもので、現存12天守の一つです。天守は三重三階の総塗籠で、唐破風造りの玄関を持ち、一重目に比翼千鳥破風、二重目に千鳥破風、
三重目に軒唐破風と装飾性に富んでいます。
上り立ち門 | 式部丸跡 |
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代右衛門丸石垣 | |
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藤兵衛丸石垣 | 長門丸跡 |
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本丸石垣 | |
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二之丸跡 | |
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本丸跡 | |
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天守 | |
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武者窓 | 井戸丸跡 |
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三の丸跡 | 武家長屋門 |
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天守からの展望 | |
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湖池山マラソン大会出場のため鳥取に来たので、鳥取城に登城しました。
鳥取城 登城回数1回
天文年間、標高263mの久松山に築城された山城でした。羽柴秀吉が大群で兵糧攻めにし、城将の吉川経家が将兵の助命を条件に自害したことで、
有名な城です。その後、大改修が行われ山頂の戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)という縄張りになり平山城へと変化しました。
池田家の32万石の居城として江戸時代に、山上ノ丸に二重天守、山下の丸に三階櫓が建造されました。
吉川経家像 | 擬宝珠橋と中ノ門 |
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三の丸跡 | |
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天球丸の巻石垣 | 登城路 |
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表御門跡 | 天球丸 |
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山下の丸から山上の丸への登城路 | |
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山上の丸の本丸跡 | 山上の丸の二之丸跡 |
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車井戸 | 天守台石垣 |
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天守台からの鳥取砂丘と市街地 | |
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二の丸跡 | 三重櫓跡 |
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登石垣 | お左近の手水鉢 |
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西坂下御門 | 仁風閣(城内にある国の重要文化財) |
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今治シティマラソン大会出場のため今治市に来たので、今治城に登城しました。
今治城 登城回数2回
今治城は瀬戸内海に面した海城で三大海城の一つに数えられ、「吹揚の浜」と呼ばれる砂丘地帯に築城されています。築城名手として名高い
藤堂高虎によって慶長7年から築城を開始して約6年の歳月をかけて完成したと言われています。今治城は内堀の幅が50〜70mもある広い/p>
水路と石垣の高さが9〜13mもある高石垣が特徴です。また、石垣の周りにある細長い平地の「犬走り」も他の城にはない特徴です。この
「犬走り」は地盤を強化するために設けられたと考えられます。創建時の五層六階の天守は、各階を順次に小さくして積み上げる史上初の
層塔型天守でした。
鉄御門 | 武具櫓 |
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勘兵衛石/td> | 藤堂高虎像/td> |
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堀 | 城内にある吹揚神社 |
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御金櫓 | 山里櫓 |
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石垣と犬走り | |
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天守 | |
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天守からの眺め | |
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天守と山里櫓 | |
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寺泊シーサイドマラソン大会出場のため長岡市に来たので、少し足を延ばして新発田城に登城しました。
新発田城 登城回数1回
新発田重家が本拠地とした館跡に溝口秀勝が慶長3年に築城を開始して、56年後の承應3年に完成した平城です。周囲を沼沢地に囲まれ
瓢箪型をした特異な縄張りで、本丸が船のような形をしているので「船形城」とも言われています。三階櫓はじめ本丸表門や旧二之丸隅櫓
に用いられている壁は海鼠壁で、寒冷地の城によく見られるものです。本丸には実質上の天守として、屋根がT字型をした三階櫓が築かれ
ています。T字型の屋根には全国唯一3匹の鯱が載る非常に特徴のある櫓です。
辰巳櫓 | |
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本丸表門 | |
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旧二の丸隅櫓 | 隅櫓の内部 |
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3つの鯱を持つ三階櫓 | |
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切り込み接布積み石垣 | 堀 |
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長崎ベイマラソン大会出場のため九州に来たので、途中で少し足を延ばして大野城に登城しました。
大野城 登城回数1回
大野城は宇美町・大宰府市・大野城市にまたがる四王寺山にある古代山城です。663年百済を救済するために唐・新羅軍との白村江の戦い
に敗れてしまいました。その後、日本侵攻が想定されたため、大宰府政庁防衛するため水城とともに築かれました。四王寺山の尾根や谷部を
約8kmにも及ぶ長大な土塁(版築土塁)で囲んだ巨大な山城です。一部では石垣もあり、百間・大石垣・北石垣などがあります。特に百間石垣
は180mにも及ぶ立派な石垣です。古代の山城のスケールを実感することができる城です。
大宰府口城門 | 鏡池 |
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増長天礎石群 | 尾花礎石群 |
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山頂からの眺め | クロカネ岩城門 |
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百間石垣 | |
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北石垣 | 小石垣 |
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山道 | |
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唐津市相知ロードレース大会出場のため佐賀県に来たので、帰り道に吉野ヶ里遺跡に登城しました。
吉野ヶ里遺跡 登城回数1回
吉野ヶ里遺跡は城というイメージはありませんが、日本の城の起源とされる環濠集落です。吉野ヶ里は弥生時代前期から後期にかけての環濠集落
で背振山地から筑紫平野に舌状に伸びた台地上に営まれていました。環濠集落とは周囲に堀をめぐらせた集落の総称で大陸から渡来人によって
もたらされたと考えられています。とくに吉野ヶ里では、後期の環濠において突出部がつくられ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡が発見
されています。現在遺跡は整備が進み物見櫓、主祭殿などの建物が復元されています。
逆茂木 | 北墳丘墓 |
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環濠 | |
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祠堂 | 甕棺墓列 |
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北内郭 | 高床住居 |
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竪穴住居 | 主祭殿 |
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集会の館 | 市長の住居 |
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南内郭 | |
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市の倉 | 市楼 |
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南のムラ | 祭壇 |
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維新の里萩城下町マラソン大会出場のため山口県萩市に来たので、萩城に登城しました。
萩城 登城回数2回
関ヶ原合戦の敗戦で、西軍の総大将の毛利輝元は、長門・周防2国に移封され日本海に面した萩に築城を開始しました。
萩城は143mの指月山の山頂に詰丸、麓に幅広の水堀で区切られた本丸、二の丸、三の丸が配置され指月城とも呼ばれています。
天守台石垣は扇の勾配と呼ばれる反りを持っいます。かつてはそこに五重天守が建てられていました。海と指月山を背後の守り
とした堅城で、城郭の構造は指月山山麓の平城の部分と山頂の山城の部分とを合わせた平山城です。
現在は天守台や石垣、堀のみとなり、建物は残っていません。今回は詰の城の指月山の山城に登城しました。
また、城下町も散策しました。
北の総門 | 旧益田家物見櫓 |
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旧周布家長屋門 | 城下町の通り |
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東門跡 | 外堀 |
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毛利輝元像 | 南門跡 |
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八間矢倉跡 | 本丸門跡 |
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天守台 | 天守閣跡 |
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内堀 | |
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指月山 | 詰丸跡 |
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詰丸への登山道 | 要害門 |
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二の丸跡 | 二の丸跡からの眺め |
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本丸門跡 | |
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吉野川市リバーサイドハーフマラソン大会出場のため徳島県に来たので、徳島城に登城しました。
徳島城 登城回数1回
豊臣秀吉から阿波の国を与えらた蜂須賀家正が、吉野川河口の標高62mの渭山に築城した平山城です。山頂部の本丸や東二の丸、
西の二の丸、西の三の丸からなる詰の城部分と本丸御殿があった麓の御屋敷と呼ばれた部分からなっています。縄張りは戦国時代
を思わせるものです。城内を巡る石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって築かれており、徳島城の特色の一つです。
「御屋敷」には表御殿庭園が造られ、現在も当時のままの姿が残り、国の名勝庭園で指定されています。平成元年に城の大手門
にあたる鷲の門が復元再建されました。
鷲の門 | 堀と石垣 |
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下乗橋 | 舌石 |
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太鼓櫓跡 | 黒門枡形 |
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蜂須賀家正像 | 本丸への階段 |
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西三の丸跡跡 | 帳櫓跡跡 |
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西二の丸跡 | 弓櫓の石垣 |
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弓櫓跡 | 本丸跡 |
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本丸からの眺め | 本丸東石垣 |
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東二の丸跡 | 天守跡 |
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数寄屋橋 | 御殿庭園 |
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東村つつじマラソン大会出場のため沖縄県に来たので、中城城に登城しました。
中城城 登城回数1回
中城城は、14世紀後半に先中城按司によって築かれた山城で、15世紀後半に護佐丸が増築した城です。城は石灰岩丘陵上に
築かれ、北東から南西にかけて6つの郭が並んでいます。西側の門が本来の正門と考えられており、石造りの門の上に木造の櫓が
あったと思われます。この門をくぐり、南の郭を経てアーチ門を抜けると高い石垣に囲まれた西の郭にでます。この築城技術を
見て、幕末に訪れたペリー艦隊の島内探検隊がその美しさや堅固さを絶賛したと伝わっています。現在、城跡には建物はありませんが、
石垣や石造アーチなどが残り、平成12年に世界文化遺産に登録されました。
正門まで運んでくれるカート | 正門 |
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南の郭入り口 | 拝所 |
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一の郭門 | 一の郭 |
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一の郭石垣 | 一の郭からの眺め |
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正殿跡 | |
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二の郭門 | 二の郭 |
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三の郭門 | 三の郭 |
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北の郭 | 裏門 |
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東村つつじマラソン大会出場のため沖縄県に来たので、今帰仁城に登城しました。
今帰仁城 登城回数1回
今帰仁城は沖縄本島北部に位置する丘陵上に築城された山城です。城の創建ははっきりとしていませんが、13世紀末らか14世紀に
かけて造られ古期石灰岩を利用した石垣が積まれています。15聖子前半に城域が拡張され本丸、大隅、志慶真門郭など10の郭から
なる現在の姿になったと言われています。1383年に怕尼芝が城主になってその後3代にわたって北山王を名乗ってこの地を統治しました。
その後、尚氏の攻撃に耐えたが調略により陥落して尚氏のものとなりましたが、1609年薩摩郡に攻められて炎上し廃城となりました。城跡はには
1.5Kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っており、平成12年に世界文化遺産に登録されました。
平郎門 | 旧道 |
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大庭 | 御内原 |
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御嶽 | 火の神 |
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主郭 | |
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志慶真門郭 | |
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大隅郭 | 外郭 |
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沖縄県の東村つつじマラソン大会出場した後、午後に首里城に登城しました。
首里城 登城回数3回
首里城の縄張りが完成したのは尚真王と尚清王の時代の15世紀から16世紀にかけてです。城は東西約400m、南北200mの規模を
誇り、内郭と外郭で構成されている平山城です。内郭は御庭を中心とした行政空間、その南側の「京の内」という祭祀空間、東側の「御内原」
という居住空間からなり、正殿、南殿、北殿など主な建物は内郭にありました。内郭の東側を包むように外郭があります。首里城は平成4年に
正殿など城の建物が再建され、平成12年に世界文化遺産に登録されました。しかし、2019年10月31日の未明に正殿、北殿、南殿が
全焼してしまいました。現在、復元中です。令和8年(2026年)に正殿が復元再建される予定です。北殿、南殿はその後に復元予定です。
守礼門 | 園比屋武御嶽石門 |
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歓会門 | 瑞泉門 |
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漏刻門 | 市街地の眺め |
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廣福門 | 奉神門 |
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倉庫に描かれた正殿の絵 | 修復作業場 |
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世誇殿 | 東のアザナ |
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白銀門 | 首里城からの眺め |
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女官居室 | 淑順門 |
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右掖門 | 久慶門 |
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石垣 | |
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福岡小郡ハーフマラソンで、福岡県に来たので福岡城に登城しました。
福岡城 登城回数3回
福岡城は、関ヶ原合戦の功により筑前52万石与えられた黒田長政・如水によって、慶長6年(1601)から7年の歳月をかけて
築城された梯郭式の平山城です。別名は形が鶴が舞っている姿に似ているということで、舞鶴城と言われています。
本丸、二の丸、三の丸を層状に配置して、5mから15mの石垣を複雑に積み上げ、その延長距離は3km以上あります。
江戸時代からの状態をよく残していて、野面積みから打込接までいろいろな種類の石垣の積み方を見ることができます。
地下鉄工事の時に見つかった外堀の石垣 | |
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上之橋御門跡 | むかし探訪館 |
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東御門跡 | 扇坂 |
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表御門跡 | 修復中の石垣 |
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二の丸跡 | 本丸御殿跡 |
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小天守台 | 天守台 |
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埋門跡 | 大天守台跡 |
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武具櫓跡 | 裏御門跡 |
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多聞櫓内側 | 多聞櫓外側 |
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桐木坂 | 松の木坂御門足 |
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名島門 | 長屋門 |
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潮見櫓 | 下之橋御門 |
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福岡県の柳川健康マラソン大会出場する前に、佐賀城に登城しました。
佐賀城 登城回数2回
戦国大名の龍造寺氏の居城であった村中城を、鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造した平城です。周りを幅の広い堀で囲まれた典型的な平城で
城内には本丸・二の丸・三の丸・西の丸のほか、家臣たちの屋敷地も配されていました。本丸正門である鯱の門は天保期の現存建物で、堂々たる
構えの門です。移築復元された御座間や東堀を除いてほぼ完全な形で残る水堀もこの城のみどころです。平成16年に本丸御殿の一部が木造復元
され、佐賀城歴史資料館として開館しました。>
鯱の門 | |
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堀 | |
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西側土塁石垣 | |
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天守台 | 天守跡 |
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南西隅櫓台 | |
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御殿 | 隅櫓台跡 |
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鍋島直正像 | 石製樋管 |
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熊本県の芦北うたせマラソン大会出場した後、午後に人吉城に登城しました。
人吉城 登城回数1回
人吉城は、1198年、人吉荘の地頭の相良長頼が築城した平山城です。1589年に相良長毎が大改修を開始して、本丸、二の丸などの詰めの城
部分や御館部分を竣工し、寛永年間に石垣が完成した。また、球磨川を外堀として多くの船着き場を設けて、積極的に川の水運を取り入れていました。
1862年の火災を契機に武者返しをつけた西洋式石垣を導入した。最上段の石を突き出した「武者返し」は、五稜郭にも見られる幕末期の築城技術の
一つです。石垣の上部に石材を突き出す技法を「撥出」という。平成5年に隅櫓・長塀・多聞櫓が復元整備されました。
多聞櫓 | 隅櫓 |
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長塀 | |
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御館入口 | 内堀 |
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三の丸石垣 | 三の丸跡 |
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二の丸石垣 | 二の丸跡 |
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本丸への階段 | 本丸虎口 |
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本丸跡 | 本丸からの眺め |
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撥出(武者返石垣) | |
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熊本県の芦北うたせマラソン大会出場した後、鹿児島で宿泊して鹿児島城に登城しました。
鹿児島城 登城回数1回
鹿児島城は、島津家久が標高107mの城山山麓に築いた平山城です。1601年に築城工事を開始、その後約10年後に完成しました。城山を
背後におき、中世以来の館造りを踏襲した城構えでした。本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張りで御楼門以外に天守も櫓もありません
でした。これは戦国期に領内に設置された多くの支城が外敵の侵入を防ぐことで、本城を要塞化する必要がなかったためである。本丸に政庁と藩主の
居館、表書院などがおかれ、二の丸には世継ぎや側室などの居館や庭園が設けられた。本丸北東面の石垣は、北東が鬼門にあたるため、鬼門除けとして
石垣の隅を欠いています。
御楼門 | |
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本丸石垣 | |
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堀と御楼門 | |
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亀甲積み | 金場取残積み |
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枡形虎口 | 本丸北東面の石垣 |
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二の丸跡 | 天璋院像 |
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私学校跡 | 西南戦争の銃弾跡 |
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さくら湖マラソン出場するため福島県に来たので二本松城城に登城しました。
二本松城 登城回数1回
標高345mの白旗ケ峰に1414年に畠山満泰が築いた山城です。その後、蒲生氏が入ると石垣を用いた城郭として改修され、1627年に入った
加藤氏により現在の近世城郭の姿に大改修されました。1643年に丹羽光重が二本松藩10万石で入城し、城内の建造物や石垣などの新築・修改修
を行うとともに城下町の整備を行い、以後、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められて
落城し、建物はすべて焼き払われた。このとき守備についていた二本松少年隊が戦死した悲劇は有名です。
旧二本松藩戒石銘碑 | 二本松少年隊像 |
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箕輪門 | 多聞櫓 |
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三ノ丸下段 | 三ノ丸上段 |
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るり池 | 洗心亭 |
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傘松 | 搦手門跡 |
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本丸石垣 | 本丸虎口 |
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本丸跡 | 天守台 |
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西隅櫓 | 本丸からの眺め |
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野面積み石垣 | 日影の井戸 |
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城内路 | |
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月山富田城 登城回数2回
標高190mの月山を中心に、飯梨川に向かって馬蹄形に伸びる丘陵上に多数の防御施設を配した広大な山城です。戦国大名の尼子氏歴代の居城として栄え
尼子氏が毛利氏の攻撃を受けて滅亡した後には、毛利氏の山陰地方支配の拠点となりました。さらに吉川広家が城主となって以降は、主要な石垣を築き
瓦葺きの櫓や土塀を建てるなど、中世城郭から近世城郭へと大きく変貌し、その後の城主となった堀尾氏が松江城を築城して本拠を移すまで、出雲国の
中心地として繁栄しました。主家尼子氏が滅亡してその再興を諦めずに戦いに挑み続けた山中鹿ノ介<が、三日月に祈った「願わくば我に七難八苦を与え/p>
給え」は有名な言葉です。
馬乗馬場 | 千畳平 |
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千畳平石垣 | 山中鹿之助像 |
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太鼓壇 | 花の壇 |
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花の壇復元建物 | 花の壇からの本丸 |
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山中御殿平 | 石垣 |
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虎口 | 石垣の中にあったハートマークの石 |
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三ノ丸跡 | 三ノ丸石垣 |
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二ノ丸跡 | 二ノ丸石垣 |
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本丸跡 | 本丸跡にある勝日高守神社 |
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七曲り | 大堀切 |
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鬼ノ城 登城回数1回
総社平野を見下ろす標高約400mの鬼城山に築かれた神籠石系の古代山城です。「日本書紀」などに記載のない謎の城ですが、長年の発掘調査の成果や
他の古代山城との比較などから7世紀の築城との見方が強いです。城外には南と東は断崖絶壁で、山の8〜9合目を城壁を取り囲み、長さ2.8Kmに
及んでいます。城壁は基本的に版築土塁ですが、6カ所に水門や、目立つ部分には高石垣が築かれています。水門のほかに南北東西4か所の城門跡が
確認され、このうち西門周辺では版築土塁、高石垣、角楼などが復元整備されています。
復元西門 | |
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城壁 | 西門から眺め |
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敷石 | 内側列石 |
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第4水門跡 | 南門からの眺め |
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南門跡 | 東門跡 |
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屏風折れ石垣 | 土塁 |
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北門跡 | 角楼 |
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久保田城 登城回数1回
源氏の名門、佐竹氏12代の居城で、複数の曲輪を備えた神明山の丘陵に築かれた平城です。石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした土づくりの城です。
天守ははじめから作られず、1880年の大火で御物頭番所以外の本丸建物はほとんど焼失しました。
現在、城址は千秋公園として整備され,御隅櫓と表門などが復興されています。
外堀 | 内堀 |
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二の丸跡 | 長坂門跡 |
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御物頭御番所 | 表門(一の門) |
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本丸跡 | 佐竹義堯銅像 |
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埋門跡 | 多門長屋跡 |
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御隅櫓 | |
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御隅櫓からの秋田市内の景色 | |
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帯曲輪跡 | 裏門跡 |
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胡月池 | 裏門跡 |
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根城 登城回数1回
根城は、1334年に南部師行により、馬淵川南岸の川岸段丘上に築城された平山城です。1627年まで
領地替えにより使われなくなるまでの約300年間、八戸地方の中心でした。本丸、中館、東善寺、岡前館、
沢里館の5つの曲輪から構成されていましたが、現在は本丸、中館、東善寺の3つの曲輪が現存しています。
本丸には主館、上馬屋、中馬屋、工房、鍛冶公房、板倉、番所なとが木造復元されています。
東善寺曲輪跡 | 東善寺曲輪堀 |
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中館曲輪跡 | 中館曲輪堀跡 |
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主殿 | |
東門 | 納屋 |
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上馬屋 | 主殿 |
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主殿内部 | |
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北門 | 中馬屋 |
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下馬屋跡 | 物見櫓 |
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番所 | 常御殿跡 |
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野鍛冶場 | 鍛冶公房 |
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板倉 | 奥御殿跡 |
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西門 | 南部師行銅像 |
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盛岡城 登城回数3回
盛岡城は、南部藩南部氏の居城です。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された
連郭式平山城です。本丸の北側に二の丸が配され、さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配されています。
本丸に天守台が築かれましたが、幕府への遠慮から天守は築かれませんでした。天守台に御三階櫓が建造され代用とされました。
盛岡城は会津若松鶴ヶ城、白河小峰城と共に東北三大石垣名城に数えられる総石垣づくりの美しい城です。
盛岡城の中には「石川啄木」が読んだ歌碑があります。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
江戸時代元和期の石垣 | 一番高い石垣 |
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寺勾配の石垣 | 唯一現存建物の彦蔵 |
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廊下橋跡 | 本丸門跡 |
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本丸跡 | 天守台跡 |
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淡路丸跡 | 腰曲輪跡 |
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吹上門跡 | 本丸南西部石垣 |
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補修跡(三角錐の石積み) | 二の丸跡 |
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石川啄木歌碑 | 三の丸跡 |
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烏帽子岩 | 一番古い石垣(野面積み) |
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石垣にならなかった残念石 | 排水のための蛇口 |
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吹上坂 | 渡雲橋 |
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会津若松城府マラソン大会出場のため福島県会津若松市に来たので、会津若松城に登城しました。
会津若松城 登城回数4回
戊辰戦争を戦い抜いた奥州屈指の堅城の平山城です。室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が文禄元年から改修し、名称を黒川から
若松に改めました。また、東日本では初の本格的な層塔型の天守を建て「鶴ヶ城」と命名しました。その後も蒲生氏や加藤氏によって空堀を、
水堀に変えたり天守を5重にするなど大規模な改修が行われ、東北屈指の名城となりました。慶応4年の戊辰戦争では新政府軍の一か月に及ぶ/p>
猛攻に耐え、難攻不落の名城として知られようになりました。土井晩翠作詞の「荒城の月」のモデルはこの会津若松城ともいわれています。
また、戊辰戦争の籠城戦では新島八重がスペンサー銃で戦ったことも有名です。
北出丸石垣 | 北出丸桝形 |
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北出丸跡 | 武徳殿 |
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太鼓門跡 | 西出丸跡 |
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鐘撞堂 | 天守 |
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天守石垣 | |
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走り長屋内部 | 千飯櫓 |
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走り長屋と天守 | 本丸跡 |
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表門 | 茶室麟閣 |
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三階櫓跡 | 廊下橋 |
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二の丸跡 | 三の丸跡 |
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新島八重像 | 土井晩翠像 |
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水郷の里マラソン大会出場のため滋賀県に来たので、彦根城に登城しました。
彦根城 登城回数2回
彦根城は琵琶湖に臨む井伊家14代の平山城の堅城です。徳川四天王の一人、井伊直政が琵琶湖畔の磯山の地に城を築こうとしたことに
始まります。築城は直政が死んだため計画のみに終わったが、その意志を継いで子の直継が彦根山(金亀山)を城地として定めて、慶長
12年に天守などの主要部を完成させた。築城は天下普請で行われ、佐和山城や大津城など周辺の廃城から用材や石材などを調達して
急ピッチで進められた。しかし、城下町のなどの完成には20年あまりの歳月を要した。
屋形船から見た石垣・門跡 | |
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佐和口多聞櫓 | 馬屋 |
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内堀 | 本丸への登城坂 |
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廊下橋 | 天秤櫓 |
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太鼓門 | 天守 |
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天守からの眺め | |
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三重櫓 | 三重櫓からの眺め |
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玄宮園 | |
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井伊直弼が青年時代を過ごした埋木舎 | >|
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井伊直弼像 | 井伊直政像 |
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伊賀上野シティマラソン大会出場のため三重県伊賀市に来たので、伊賀上野城に登城しました。
伊賀上野城 登城回数3回
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184mの丘に建てられた平山城です。北には服部川と柘植川、
南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にあります。かつて上野城の場所には要塞としても
利用された平楽寺や仁木氏館がありました。織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の
戦いの際に脇坂安治によって落城させられた。天正13年(1585年) に筒井定次によって改修を受け、慶長16年(1611年)に徳川家康の命を
負って藤堂高虎が改修しました。長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30mの石垣は見ごたえがあります。
東内堀 | 城代屋敷跡 |
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城代屋敷表門跡 | 城代屋敷石垣 |
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台所門跡 | 大納戸蔵跡 |
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本丸跡 | 本丸大手門跡 |
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天守・小天守 | 天守石垣 |
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高石垣 | |
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高石垣 | |
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西内堀 | 白鳳門 |
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宝塚ハーフマラソン大会出場のため近畿地方に来たので、大阪城に登城しました。
大阪城 登城回数4回
大阪城は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とすべき、天正11年から慶長3年まで約15年かけて築城した
平山城です。五重八階、黒漆塗りの下見板張りと金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守でした。しかし、その遺構は現在ほとんどが埋没している。
それは徳川秀忠が徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大阪城の縄張りの上に盛土をし、石垣を新たに積みなおして城を築いたためです。
そして、秀吉の天守を上回る白漆喰総塗籠の徳川大阪城天守を寛永3年に完成させました。しかし、この天守も寛文5年に焼失してしまいました。
その後昭和6年に3代目天守が豊臣大阪城天守を模して、徳川大阪城の天守台上に建てられました。
東外堀 | 高石垣と天守 |
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西外堀と乾櫓 | 南外堀と高石垣 |
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千貫櫓 | 大手門 |
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桝形 | 本丸東面石垣 |
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一番櫓 | 桜門 |
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蛸石 | 天守 |
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金蔵 | 秀頼・淀殿自刃の地 |
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肥後石 | 御座船から石垣 |
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御座船から石垣 | 御座船からの天守 |
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いちのみやパークマラソン大会出場のため愛知県に来たので、名古屋城に登城しました。
名古屋城 登城回数6回
名古屋城が築かれた地はもともとは「那古野」と呼ばれ今川氏の支城がありました。ここに徳川家康が慶長15年に西国の外様大名たちに大々的に天下普請
を命じて築城されました。名古屋城の築城は大阪城の豊臣秀頼をけん制する意図があったようです。広大な縄張りに、天守・小天守を中心に多くの多聞櫓と
櫓を建て並べた最大級の要塞が完成されました。五重の天守には金の鯱が載って「尾張名古屋は城でもつ」と謳われるまでになりました。尾張初代藩主として
家康の九男義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。昭和五年に国宝に指定されましたが、昭和20年の名古屋空襲により
本丸のほとんどを焼失しました。昭和34年に市民の声にもとづいて、鉄筋コンクリート造りの天守閣が再建されました。
正門 | 名古屋城のカヤ |
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西南隅櫓 | 天守 |
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入口跡 | 西北隅櫓 |
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天守礎石 | 石積みの刻印 |
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天守と小天守 | 本丸御殿 |
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本丸表二之門 | 清正石引の像 |
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東南隅櫓 | 那古野城跡の石碑 |
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みさとシティハーフマラソン大会出場のため埼玉県に来たので、川越城に登城しました。
川越城 登城回数1回
川越城は、扇谷上杉持朝が1457年に太田道灌・道真親子に命じて築城した平城です。1590年に徳川家康が江戸に入ると、重臣の酒井重忠をこの城に
配置しました。その後も幕府の有力な大名が川越に配置されました。江戸の大手は「小田原城」、搦手は「川越城」といわれるほど重要な城だったようです。
本丸御殿は日本でも数少ない現存する御殿の遺構として貴重です。本丸御殿の玄関は銅板葺の大唐破風屋根をそなえ、内部には6部屋が残っています。また、
本丸御殿の脇には家老詰所も移築復元されています。本丸の隣の天神曲輪には「お城の天神さま」といわれる三芳野神社があります。この神社はわらべ唄の
「とおりゃんせ」発祥の地といわれています。♪♪とおりゃんせとおりゃんせ ここはどこのほそみちじゃ てんじんさまのほそみちじゃ・・・♪♪
また、城下町の跡には観光名所の「時の鐘」があります。
太田道灌像 | 鉤の手 |
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本丸門跡 | 本丸御殿 |
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家老詰所 | 庭園 |
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三芳野神社の参拝道 | 田曲輪門跡 |
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富士見櫓跡 | 南大手門跡 |
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中ノ門跡 | 中ノ門堀 |
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時の鐘 | |
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読売犬山ハーフマラソン大会出場のため犬山市に来たので、犬山城に登城しました。
犬山城 登城回数7回
犬山城は1537年、織田信長の叔父にあたる織田信康が木曽川沿いの標高88mの丘陵上に築いた平山城です。城の縄張りは天守の建つ本丸から南へ
杉の丸、桐の丸、松の丸を連郭式に並べたものです。本丸の背後は木曽川によって守られていて、いわゆる「後堅固」の構えになっています。天守は
あまり大きくありませんが、東面の正面に入母屋破風、3階の南北には唐破風があり4階の華頭窓も含めて見ごたえのある意匠になっています。
木曽川の畔からの城の眺めの美しさは、漢詩にちなんで「白帝城」の別名があります。城主は目まぐるしく交代したが、1617年尾張徳川家の付家老の
成瀬氏が城主になりました。その後明治になって政府が城の修理・整備を条件に成瀬氏に譲渡して個人所有という珍しい形態でした。しかし、平成16年に
財団法人犬山城白帝文庫の所有になりました。
城下町風景 | 大手門跡 |
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本丸 | 石落とし |
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付け櫓 | 石垣 |
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唐破風 | 廻り縁 |
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天守からの眺め | |
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小田原尊久マラソン大会出場のため小田原市に来たので、小田原城に登城しました。
小田原城 登城回数4回
初期の小田原城は15世紀ごろに大森氏が築いた平山城です。城の存在がはっきりとするのは北条早雲が1495年に入城してからです。後北条氏の
拠点となり、上杉謙信や武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城でした。その後、豊臣秀吉の侵攻に備えて、城下町全体を含む全長9Kmに及ぶ大規模な
総構えが築かれました。しかし秀吉軍の圧倒的な兵力によって開城を余儀なくされました。江戸時代には徳川の譜代大名大久保氏によって近世城郭と
して整備されました。「東海道の喉元を抑える城」として東海道筋の関東入り口の要衝を占めた堅城でした。
馬出門 | 二の丸隅櫓 |
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馬屋曲輪内門 | 馬屋曲輪二重櫓跡 |
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銅門 | 常盤木門 |
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本丸 | 本丸内の巨松 |
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天守 | |
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天守からの眺め | |
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日本大正村クロスカントリー大会出場のため恵那市に来たので、途中岩村城に登城しました。
岩村城 登城回数2回
岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城です。城は江戸諸藩の府城の中でも
最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、
別名「霧ケ城」ともよばれています。織田信長の叔母おやつが善政を敷き、最後まで領民を守ったと伝えられ ていることから「女城主の里」と呼ばれています。
太鼓櫓 | 藩校知新館 |
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藤坂 | 初門跡 |
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一の門跡 | 畳橋跡 |
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霧ケ井 | 菱櫓跡 |
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六段壁 | |
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長局埋門跡 | 本丸 |
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天守からの眺め | |
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佐倉マラソン大会出場のため千葉県佐倉市に来たので、佐倉城に登城しました。
佐倉城 登城回数1回
もともと千葉氏が築城していたが未完成のままだったものを、土井利勝が家康の命で築城をはじめ完成させた平山城です。椎木門跡の前面には角馬出の遺構が
はっきりと残っています。鹿島台地の西端の川や急崖に囲まれた要害の地で石垣を用いず、すべて土塁で曲輪や掘割などを構築しています。土井利勝以後も
江戸の背後を固める城として代々譜代大名の居城となっていました。佐倉城で唯一建物として残っている薬医門が西出丸と城外を繋ぐ道沿いに建てられています。
現在は城址公園として整備されています。幕末の佐倉藩主で老中として日米通商条約の幕府側責任者として調印に尽力した堀田正睦像か公園内にあります。
太鼓櫓 | 藩校知新館 |
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藤坂 | 初門跡 |
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一の門跡 | 畳橋跡 |
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霧ケ井 | 菱櫓跡 |
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六段壁 | |
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長局埋門跡 | 本丸 |
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天守からの眺め | |
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ねんりんピック鳥取に参加するために、鳥取県に来たので鳥取城に登城しました。
鳥取城 登城回数2回
鳥取城は、歴史的に著名な羽柴(後の豊臣)秀吉の兵糧攻めの舞台になり、江戸時代には国内12番目の石高を誇った鳥取藩三十二万石の居城となりました。
その歴史の長さから、中世から近世に至る多様な城の姿を残し、日本城郭の歴史を物語る「城郭の博物館」と呼ばれています。
現在は建物の大部分が取り壊され、主に石垣や天守台が残されています。
最近では江戸時代の姿を取り戻すために復元計画が策定され、メインエントランスとなる橋と大手門が復元されました。
擬宝珠橋 | 堀 |
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北ノ御門跡 | 西坂下御門 |
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二ノ丸石垣 | 巻石垣 |
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表御門跡 | 天球丸 |
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三階隅櫓跡 | 登石垣 |
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ねんりんピック鳥取に参加し、その帰路で途中下車して姫路城に登城しました。
姫路城 登城回数4回
1333年に播磨国の守護・赤松則村(のりむら)が姫山に縄張りをし、1346年に次男貞範(さだのり)が築城したことが始まりです。
この当時は防御のための盛り土である土塁を築いただけの山城だったと言われています。
赤松氏ののちに、西国統治の重要拠点として1580年に羽柴(豊臣)秀吉が3層の天守閣を築き始めました。
当時は現在の白亜の天守とは真逆の真っ黒のお城だったそうです。
そして、関ヶ原の戦いが勃発した翌年の1601年、新たに城主となった池田輝政が姫路城の大改築を開始します。
改築を経て1609年に完成したのが、「白鷺城」としてお馴染みの真っ白な姫路城です。
姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構です。
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、
大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている
三の丸跡 | 大手門 |
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三の丸広場からの天守 | 大天守 |
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菱の門 | いの門 |
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ろの門 | はの門 |
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本丸からの天守群 | 西の丸からの天守群 |
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百陂L下 | 改修前の西心柱 |
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