「ダ」「タマイ」などのシンハラ語の形態素(助詞)をシンハラ小説から取り出し、それらの意味を洗い出す作業を宮岸哲也が行なっています。 自身で採取した文例サンプルを丁寧に整理し、シンハラ語の助詞を中心にして、主に意味の観点から解析し…… |
生成文法理論を言語の現場から検証してUG理論の正当性を追認する。そこから日本語とシンハラ語が「係り結び」という同質の要素を持つという発見がなされた。演繹的な技法の大上段から構える王道の成果でした。
このQA77では宮岸の作業に深く触れないが、「シンハラ語QA」のほかの項目や、そのほかのファイルでも彼の研究成果を紹介している。宮岸の日本語-シンハラ語に関する研究への言及はこのサイトの彼方此方に散在しているのでサイト内検索(トップ・ページ、さくいん)を利用してたずねてほしい。
この流れの傍流としてか、あるいは弁証法的な手法の新たな取り組みだったか、宮岸哲也はシンハラ語の現場から、その実に雑多で膨大なシンハラ語資料を手がかりに日本語とシンハラ語の対照研究を行っている。
たとえばそれは、「ダ」「タマイ」などのシンハラ語の助詞(不変化詞・接辞)をシンハラ小説から拾い上げ、それらの認知的な意味を洗い出す作業だった。宮岸は自身で採取した文例サンプルを丁寧に整理し、シンハラ語の助詞を中心にして解析を行った。基礎的で、しかも膨大な作業。こうした量化の作業はシンハラ語を対象として生成文法の普遍を解き明かそうとする側からは出されていない。
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…日本語の「か?」とシンハラ語の「ダ?」はYes-No疑問文に用いられる。同様に、日本語・シンハラ語共に「誰/何」などの疑問代名詞に疑問接辞の「か/ダda」を付けると「誰か・何か」といった不定代名詞になる…
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シンハラ語の「ダda」が日本語の「か」に対応すると信じるに足る理由
/p.19/Q-movement/Paul Hagstrom/Johns Hopkins University
(a) Wh疑問詞 + Q = 不定代名詞
(21) 誰か - が 本 - を 買いました。
someone-主格 book-対格 bought丁寧体
シンハラ語の「ダda」も同様の特性を持っている。平叙文で疑問詞の後に「ダda」が現れると疑問詞は不定代名詞となる。モカッダを例に挙げると、
(22) Chitra mokak da gatta.
チトラ‐が 何-疑問詞+Q 買った
何か‐を
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「シンハラ語の"ダ"が日本語の"か"に対応すると信じるに足る理由」としてハグストロムが指摘する「モカッダ」には「何?what」と「何かsomething」という二重性がある。
「モカッダ」は日本語の「何か」と対応する。疑問詞であり、また、代名詞でもある。その対応関係をシンハラ語のニパータ「ダ」と日本語の係助詞「か」の間に見出して、比較対照する作業をUG(普遍文法)の言語研究者らが行い、これが「係り結び」の発見に結びついた。
シンハラ語を母語とするシンハラ語研究者もこのことに触れている。
たとえばJ・B・ディサーナーヤカは「人間の言語」(前出)の中の「妹はどこへ言った」*というエッセイで、モカッダの意味の二重性を扱っている。
*නන්ගි කොහෙද යේ? නන්ගි කොහෙද ගියා /8.4/ 271-273 /前出
ディサーナーヤカはこの書の前書きで、「普遍文法論に刺激されてこのエッセイ集を書いた」と言っている。果たしてkakari-musubiが彼を刺激したのかは計り知れないのだが、かつてシンハラ人の誰も踏み込んだことのないユニバーサルな言語への取り組みが、シンハラ語の広範な根底を新たに照らす作業として試みられている。
日本語とシンハラ語はまったく別物である。だから…
ハグストロムは「疑問文解析」の冒頭で、日本語とシンハラ語を解析対象に選んだ理由として、「(二つの言語は)言語ファミリーとしてまったく異なる言語であり、歴史上、これら二つの言語が相互に接触したことはない」からだ、と述べている。
まったく異なる二つの言語を題材に、ある特定の決まり事で縛られた文構造を比較する。両者の特殊な文構造が一致することで言語一般の普遍性が見出されればユニバーサル文法という理論、ふたつの言語に普遍な文法現象が現れるという理論が検証されたことになる。
シンハラ語と日本語におけるWh疑問詞の移動現象と動詞語尾の対応は言語におけるユニバーサル文法(普遍文法)の存在を想定させる。しかし、日本語とシンハラ語には尚、さらに普遍性の絡むことをハグストロンは指摘していない。平叙文にも係り結びがあることを、だ。