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エドワード・F・ホール君、日米為替新レートで支払いを済ませる
1861年のカレーライス
19世紀中葉から20世紀に至るカレーライスの社会変革史 日本の場合
KhasyaReport 2025/04/18



参考
タウンゼント・ハリス、カレー粉を注文する


Hornetclippership
 代理店WM.T.Colman社が高速クリッパー船ホーネットの就航を知らせるカードだ。ニューヨークとサンフランシスコをたった105日!でむすぶ高速艇クリッパー、ホーネット号。この紹介カードは1855年に作られた。サンフランシスコはまだゴールドラッシュの余韻が高ぶっている。
 三本マストのクリッパーにエンジンが載り、凪で船が動かなくなったら石炭で湯を沸かしてタービンを回す。帆船からエンジン動力船に切り替わるのだ。ハイブリッドの元祖。
 ハリスとヒュースケンが日本にやって来るのはホーネット号就航の翌年注1。新大陸アメリカではホーネット号の就航二年後にホール君のように無邪気で元気で商魂たくましい若者がクリッパー船で海洋に出て地球を駆けまわった。井の中の蛙が刀を帯にさし懐にピストルを潜らせて尊王じゃ、攘夷ぜよと日本列島を這いずり回っていたころのことだ。※この広告のクリッパー船はホール君が乗った伝書鳩号ではありません。念のため。

 エドワード・F・ホールは弱冠19歳、アメリカの高速船クリッパー”伝書鳩”messenjerbird号の船荷監督人super-cargoだ。
 これから栄光の時代を迎えようとするアメリカを離れ、ホール君はボストン港から大いなる海洋への旅に出る。監督人は積載した貨物の売買をまかされる。船底には輸出商品のコットン、ウール、もろもろ雑貨、ついでに大砲まで押し込まれている。
 伝書鳩号は1856年、日本を目指しボストン港を発った。ボストン港って、そう、あのボストンの「自由の息子たちthe Sons of Liberty」が英国の交易船に積み込まれた英国製紅茶をティポットの海に放り込んだ場所。英国からの自由と開放、そして独立をここからアメリカは勝ち取った。
ボストン港を出て南下し南アメリカ南端の喜望峰を周り、そこから北上して伝書鳩号はサンフランシスコに至り、さらにサンドイッチ諸島(現・ハワイ)、グアムを経由してアメリカ総領事館の置かれた下田にやって来た。4か月ほどの航海だった。下田入港は1857年3月9日のことだった。さあ、下田にたむろする日本のバイヤーたちよ。バザールに集まれ。積み荷の品々を篤と見てアメリカ品を仕入れなさい。ホール君は交易商人として血気盛んだった。
 
 
KhasyaReport




 

 ホール君は実に自由だ。三本マストのクリッパーで海を滑る。
 1857年3月9日、下田港に停泊した伝書鳩号にヒュースケンが乗り込み、ホーマー船長とホール君を連れてアメリカ公使ハリスの許へ連れて来た。ホール君はサンドイッチ諸島領事が認めた推薦状を持っていた。注2
 下田で積み荷の商品を売りたい。函館にも寄って積み荷を売りさばき、まとまった金を手にしたらカムチャッカへ行ってアムール川で船具を扱う店を開き貿易にも取り組みたいとハリスに言った。ハリスは無鉄砲で快活な青年に好感を抱いた。彼に交渉中の日米通商条約の現在地点をこう説明した。
「アメリカから持ってきた品を下田で売る君が通商条約が適用される最初の貿易商だ。アメリカと日本が結ぶ新しい為替レートで自由に、公平に商売をする最初のアメリカ人だ」
 通商条約はまだ交渉中なんだけど成果は上がっているとハリスは自慢する。ハリスは言う。我が国のメキシコドルと日本の一分銀の交換レートを「洋銀高匁安」に導き、一分銀の相場をこれまでの三分の一にさせる。貿易を決済する相互の通貨は同種同量で交換するという無難で噓の入りようのない当たり前の原則を私が日本に認めさせるとハリスは言う。
 銀量の少ない日本の一分いちぶを、三倍量の銀で作られたアメリカのメキシコドルと同等交換だなんて、幕府がそう決めてそれでいいのだ、と踏ん反り返って、ペリー来襲の時はそれでアメリカの経理担当者二人を煙に巻いてごまかしたにしても注2、いつまでもそこに閉じ込められているわけにはいかない。
 攘夷の精神を継ぐかのように後世の通商条約研究者は言う。江戸時代に名目通貨を日本はすでに世界に先駆けて作っていた、ニホンすごい、と開国準備に追われるこの国の外交に胡麻をするが、この国の西洋五か国との幕末期貿易が実態として伸びた結果、米ドル(メキシコ・ドル)と交換する支払い用の銀が不足してまともな重さの銀を含む貨幣(貿易銀)が作れなくなっただけじゃないか。注3時代先取りのつもりの名目通貨なんてアナクロ弁護をしても世界中からそしりを買って相手にされない。いや、そうでもないか、とひとまず日本の側にも立っておこう。紙幣が、つまり紙に印刷した金額が金銀を代弁する本物の名目通貨の時代はすぐ後にやって来る。日ノ本のまばゆいニッポンすごい、先見の明だ。

 日本駐在ハリス公使は若さで突っ走るホール君に言う。
「一ドルは一分銀1枚と同じではない。一分銀3枚の価値がある。私たちのドル銀貨は日本の一分銀の三倍量の重さがある。君はペリー提督が2年前に神奈川条約で承諾してしまった一ドル=一分の交換レートに従うことはない。あれはペリー司令官の会計責任者二人が騙された。今、私が日本に居るのは貿易為替レートを正規に戻すのが大きな目的だ。1ドル=1分銀三枚。あるいは1分銀=三分の一ドルにする交渉をしている最中だ。だから下田での港湾使用料、船の改修費用、人足料など港でかかった費用の支払いは請求される金額の三分の一のハーフ・ダラーやメキシコドルで下田奉行所へ払えばいい」

 ハリス公使の助言を得てホール君は喜んだ。知らなきゃペリー提督が1年前に浦賀で日本と結んだ友好条約の取り決めの通りに三倍のドルを支払って通商する羽目になった。
 かつてインド・中国との貿易で実業家として身を立てたハリスの言は海千山千でちょっと胡散臭いけど、論旨が通って力強い。

 ハリスは若者を救う。いつでも、だれであっても。貧しくて高等教育が受けられない子供たちのために無償のアカデミーを設立したハリスの実績はニューヨークでつとに名高い。
 日本へ来る直前、ニューヨーク州の教育委員会長だったとき州立のフリー・アカデミー(学費無料の高等学校)を設立するためにハリスは奔走した。ニューヨーク州議会で熱弁をふるいフリー・アカデミー設立に反対する重鎮議員らを敵に回して教育を受ける権利の平等を訴えた注4
 あの時、ハリスは平等の理念と機会均等の実現を主張した。貧しい者には教育なんぞ授けることはないとニューヨーク市議会の重鎮は学費無料の高等学校設立のための市予算見直しを牽制する。貧者に教育はいらないとする重鎮と、教育の平等を訴えるハリスの議論は議会を越えて街の新聞紙上もにぎわせる。ハリスは投書する。学費の払えない貧しい者へも教育の門戸を開け。民主党系の新聞にハリスの投書は掲載され、ハリスの言が周知されるようになるとニューヨーク州議会が動いた。ハリスのフリー・アカデミー(教育費無料の高等学校)創設案が議会を通った。貧しいばかりに教育の場から撥ね退けられた多くの子供たちが救われた。

 タウンゼント・ハリスは民主党の論客で、キリスト教聖公会の敬虔な信徒。信念は強いがさすがに歳は老いた。持病の胃弱が増して---本人は丹毒のせいだと言うが---血を吐くこともある。病は突如、何度もやって来る。とは言え日本に上陸してもその風格は厚い。

 伝書鳩号が下田寄港の間にかかった経費は日本側下田奉行所の請求で3200ドル。ホール君はハリス公使の助言通り、その三分の一、1150ドルを日本側に支払って港を後にした。本当に。三分の一の支払いで済んだのかって、そうなんだ、それで済んだ。その時はまだ条約の批准前だったけど商行為は双方の合意で成立する。ハリスが一分と一ドルの交換比率が同等なのはおかしいと言い、日本側がその道理御尤もと1メキシコ・ドル=3分のレートに同意した。条約書調印はまだだったけど、ホール君の支払額を、その時の「悪法」1メキシコドル=一分を改訂予定の1メキシコドル=3分で下田奉行所は受け入れた。
 積み荷請負人のホール君を乗せた伝書鳩号が下田に入港したのは1857年3月9日。港を離れて箱館へ向かったのは3月29日。ハリスが米国代表として日本と日米修好通商条約(下田条約)を結んだのは1857年5月26日。法は施行されていないがハリスの後光は下田港の夜明け前の薄墨色の雲に差している。
 この話はハリスの日記に記されているのだから研究者はだれもが知っている。でも、誰もこのことに触れない。
 そう言えば同じような事態が1855年6月、下田にやって来た若いプロシア人の船荷監督人super-cargoリュードルフF.A.Lüdorfの時にも起こっている。注4-未注彼は日本政府公認の下田の特設バザールで船に積んできた商品を売りまくった。日米の関係から言えば通商条約締結前のこと。条約締結前に商売していいのって優等生たちは疑問を投げかけるかもしれないが、実際下田では通商が日常化しているのだから仕方ない。第一、下田のバザールは奉行所管轄だ。
 リュードルフは日本で陶器漆器を仕入れロサンゼルスに持ち帰り高値で捌き大きな利を得た。ホール君はその話を聞いて下田は商売のおいしい処と知り乗り込んできたのか? そんな話はもう、もちきりだったのだろうか。なんせ、ハリスは日本に赴任するからと言って下田に私用のカレー粉をカルカッタから取り寄せているぐらいなのだから。
 なんてことだろう。リュードルフが下田に滞在したのは六か月間。玉泉寺を商人宿として使っている。そう、ハリスがアメリカ仮公使館とした玉泉寺だ。晴れ晴れしい日本開国の前兆を告げる寺だ。
 なぜだろう、下田ではその後、唐人お吉のうわさ話が撒き散らかされたけど、為替レートの話をしたホール君とハリスの出会いはハリスの研究書には乗らないし、リュードルフのことも怪しい男とされるだけで歴史の王道からは外される。
 あ、言い忘れたけど、ハリスとカレーのことなど、もちろん日本の研究者は誰も話題にしない。歴史の王道にカレーライスなど登場しない、ってそれはまずい。海軍カレー陸軍カレーが日本中の駐屯地からぼこぼこ出て来たでしょ、軍が出てくるのは歴史の王道。海軍カレー陸軍カレー、これがうまいんだ。

ハリス、自身が作った「悪法」を利用して小判の利ザヤをため込む


 ハリスはずる賢い金儲けをたくらむ悪党で、自分で作った新しい金銀の交換レートで小判を買い集め何の苦も無く投資の三倍の資金を稼いでいるという告発が、後世にあちこちから湧き上がった。直木賞作家の佐藤雅美は大書「大君の通貨」でハリスの悪行を公然と陽の下に晒したが、ハリスの日記に記された次の話は「大君」にはなかったので付け加えておこう。

Saturday May 9 1857
Moriama brought me to-day $283.50, American gold, which was paid to the Japanese by the purser of the San Jacinto. I redeemed it (as he promised to do) by giving them silver for it; but, instead of paying them a silver dollar for each gold dollar, I give them a silver ichibu for each dollar of gold.

 森山は今日、サンジャシントの船長が日本人に支払ったアメリカの金貨283.50ドルを私に持って来た。私は(彼の約束通り)銀貨で償還したが、金貨1ドルにつきメキシコ銀貨1ドルを支払う代わりに、金貨1ドルにつき一分銀1枚を与えた。

 なんて悪党だ。1ドルを一分銀1枚のレートで、すまして取り換えた。違うだろう、1ドルは一分銀3枚だろう、ハリス公使。アメリカ政府があなたを通商条約締結のアメリカ特使として日本への派遣を決めたとき、ペリー総督のあやまちを正すように、1ドルは1分銀3枚のレートに正すように、と議会から要請された。なのに、日本人港湾労働者が賃金としてサンジャシント号船長から支払いを受けた米ドルを1ドル=1分銀で両替するなんて、日本人労働者は収入を三分の一減らされたことになる。どうなんだ、ハリス公使。
「だって、そのレートはペリー総督の時、日本がごちゃごちゃ言って友好条約の付帯項目で決めたんだもの。文句あるなら日本に言って」と、ハリス公使。

 でも、その二か月前の3月だぞ、ホール君にハリス公使がこう言ったぞ。
「私はペリー条約の為替レートを正しいものに変えた。1ドルは1分銀3枚だ、日本人に売った商品の決済はこのレートで計算していいんだよ。君のもうけは三倍になる」
とか吹いておいて、その二か月後の5月には1ドルは1分銀一枚に戻して、つまり日本人が損するように、天下の森山オランダ語通辞に対して為替レートを戻してる---て、悪党!
 いやハリス公使が悪党なわけじゃないな、これ。条約に従ったまでだ。ペリーが結んだ日米通商条約に徳川幕府の勘定方の汚点が仕組まれていただけじゃない? それを逆手に取った。まったく、ハリス公使ったら!

 だって、下田に公使館を構えてから日本の商人たちにずいぶんとぼられてしまってそれに腹立ったのがあるし。下田奉行所が廻してくる経費請求書の代金はすべて下田の市場価格の2倍で計算されていて、初めは訳分からないから払うしかなくて払ってたけど、下田現地での費用の支払いはすべてアメリカ政府から支給される私の手当てからの支払いだから、あんなにボラレタのも腹立った、とハリス公使。
 そうか、ハリスが怒りっぽいというのは本当のようだ。

 ところでホール君は下田で何を商ったのか。持ち込んだのはコットン、ウール、その他の雑貨。そして大砲。積み込みが雑に過ぎる。この買い手にはこの商品を、と言う時に目当ての品が下に積まれていては取り出して見せることができない。ハリス積み荷の有様に触れて、なんて下手な積み方をしてるんだと呆れている。
 下田で輸入品を物色する日本人商人が品定めにやって来たが、誰もが後ずさりした。商品の値を聞いて驚いた。どれも相場より三倍も高い。ハリスの為替レートで米国舶来品に値を付けるからアメリカ品を手中にするにはこれまでの三倍の一分銀を支払わなくてはならない。高くて買えないよ。日本の商人は誰もホール君の持ち込んだ舶来品に手を出さない。ホール君、政府公認のバザールでにぎわう下田での商売なのにかくして失敗した。
 アメリカ西海岸のワシントンを出港し、アメリカ大陸に沿って大西洋を南下し90日かけて大陸南端の喜望峰を回った。この地球の南の端から太平洋を北上してサンフランシスコに着き、そこから8日をかけてサンドイッチ諸島に至り、さらに20日前後を掛けてグアムに至る。食料と水と石炭を補給し船体に付着した貝をこすり落とし、防水材タールを塗った。船員は港町で大いに羽を伸ばし、さて、グアムから目指すのは日本の下田。およそ4か月かけた航海だった。いや、下田では値が高すぎると言われて商品をさばけなかったが箱館、そしてアムールへ行けば何とかなるさ。
 伝書鳩号がどこでどう売れるとも計れぬ商品を積んで大西洋、太平洋を突進し、挙句、下田で裁けなかった商品を積んで函館へ向かった。ホール君がハリスに告げた「函館で積み荷をさばいて資金を作ったらカムチャッカからアムール川へ行って船具商店を開く」という目論見はどうなっただろう。リュードルフとは逆の商売ルートだけど箱館には米海軍上がりのライス領事がいる。米国の捕鯨船やら商船に何かと手を尽くし面倒見のいい元軍人らしい。さて、ホール君の荷は箱館で捌けたか。 
 伝書鳩号とホール君の名を1850年台、60年代の資料から探して詳細をつかもうとしたけど果たせなかった。グーグルが始めたばかりのAIに聞いてみたが、AI先生は当時の資料集をたらい回しさせるだけでここでは役立たず、お役所仕事の典型だった。ただ、次のことは分かった。1860年代、アムール川は国際貿易の中継点で商業新聞が2点発刊されていて、清、ロシア、日本の商人が貿易業に右往左往していた。交易の新天地、アムール川。さすがグーグルAI.
 そうか、そこへ新興国アメリカの若い商人、ホール君が加わって一旗揚げようとしていたのか。タウンゼント・ハリスはその彼に「1ドル=1分銀」の旧慣習を破り、平等と公平を奏でる「1ドル=1分銀3枚」を早速伝えて、商売は情報の先取りが一番肝心と実務を指南していたのか。自由と平等とを手にしろ、そして、相手を読め。ニューヨークで教育の平等に奔走したハリスの面影が下田でホール寸を叱咤激励するハリスの姿に重なる。
 ハリスが設立の奔走したニュー・ヨークのフリー・アカデミーは現在ニュウーヨーク州立大学となり、ハリスの遺品を収集保存している。ホール君はアムール川にたどり着いたか。アムール川の交易で何を手にし、どんな事業を起こし、どんな人々との出会いが若い彼に生まれただろう。
   

下田港全景

Townsent Harris,first American envoy in Japan / William Elliot Griffis
Wilhelm Heine/iilust/Shimoda as seen from the American Grave Yard - looking towards the harbor -- artist, 1856.
/Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan : performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M.C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States by Perry, Matthew Calbraith, 1794-1858; Lilly, Lambert, 1798-1866; Jones, George, 1800-1870 Publication date 1856


注1
【ハリスとヒュースケンの日本来訪、下田上陸に関して---グリフィスのTownsent Harris,first American envoy in Japanから】
  1856年8月20日、タウンゼント・ハリスは米国総領事としてアメリカのフリゲート蒸気船セント・ジャシント号で下田に来航し、ペリー司令官が日本と結んだ友好条約により下田に居住した。
 1857年11月30日、二人は江戸に入り将軍に謁見、ハリスは将軍の許諾の下、通商条約交渉に入り1858年4月20日に条約は署名され成立した。これにより外国船が利用できる日本の港が増え、外国人貿易商に恒久的な宿泊施設が与えられ、領事は自国民に対して裁判権を行使できるようになった。条約成立後、ハリスは米国政府から駐在公使として任命され、同時にヒュースケンは公使館書記官となった。ハリスが江戸に定住したのは1859年7月2日だった。
 ヒュースケンはハリスの右腕となって働いた。通訳としてあらゆる会議に参加し、公使館書記官としてすべての文書を扱った。二人は米国だけでなく、ヨーロッパの公使たちが日本と通商交渉をする際にも関わった。
 ロシアの軍艦が下田に入港したときには壊血病に罹った船員たちを見てニンニクスープを彼らに与えるよう指示し、鶏300羽を私費で調達し軍艦に届け病の回復を早めた。このことで彼がロシアから何らかの評価を受けたかは定かでない。同年8月13日、英国のエルギン卿が4隻の軍艦を率いて下田に現れた。ハリスは直ちにヒュースケンを英国の軍艦に派遣し日本との条約交渉を手伝わせた。ヒュースケンはエルギン卿とともに江戸へ行き、幕府とのすべての交渉で通訳を務めた。このヒュースケンの尽力に感謝して、彼は女王から金の箱(ダイヤモンド付きブルーエナメル)とエルギン卿からの非常に丁寧な礼状を受けた。
 1860年9月5日の朝、オイレンブルク伯のプロシア遠征隊が江戸湾に到着すると、彼は江戸在住の外国人として乗船し、プロシアと日本の通商条約交渉ではオランダ語の条約文を策定する際に助言を惜しまなかった。本国にはこのことを報告済だが彼の自己犠牲的な彼の活動が最も栄誉ある評価を受けることは疑いの余地がない。

注2
以下はハリス日記1857年3月29日に掛けての記述から。
Monday, March 9, 1857. At nine this morning the barque again made her appearance and anchored in the outer harbor. Mr. Heusken went on board, and when he returned he brought with him Captain Homer of the Barque Messenger Bird, from Boston via the Sandwich Islands and Guam. Mr. Edward F. Hall, the supra-cargo, presented a letter of introduction written by the Hon. David L. Gregg, U. S. Commissioner to the Sandwich Islands. Captain Homer has his wife and two children on board — one an infant born at sea off the Caroline Islands.

1857年3月9日・月曜日 - 今朝9時に三本マストの帆船が再び姿を現し、港外に停泊した。ヒュースケン氏が帆船に乗り込み、戻ってきたときには帆船メッセンジャー バード号のホーマー船長を連れていました。ボストンからサンドウィッチ諸島(ハワイ)とグアムを経由して来たとのこと。積み荷請負人のエドワード F. ホール氏は、サンドウィッチ諸島の米国弁務官デビッド・ L・グレッグ氏が書いた紹介状を持っていた。ホーマー船長は妻と2人の子供を同乗させており、下の子はカロリン諸島沖で生まれたばかりの乳児だった。

Wednesday, March II, 1857- I went yesterday on board the Messenger Bird, and saw Mrs. Homer, a nice person indeed, with a bouncing baby in her arms. This home sight almost made me homesick.

1857年3月2日・水曜日 - 昨日、メッセンジャー バード号に乗り、元気いっぱいの赤ちゃんを腕に抱いたホーマー夫人を見た。この懐かしい光景に、私はホームシックになった。

Wednesday, March 25, 1857. Get a portion only of my supplies from the Messenger Bird, the remainder is stowed either quite forward or quite below a large quantity of cargo. This is bad management. A vessel on such a voyage should have her cargo so stowed that any portion of it may easily be got at, so as to be ready for trade, however small, at any port.

1857年3月25日水曜日- メッセンジャー バード号から私宛の荷物の一部を受け取った。残りの積み荷は大量の貨物のかなり前方か、貨物の下に積み込まれている。積み荷の管理がかなり下手だ。商用航海をする船は、貨物をどの港でも、どんなに少量でも簡単に取り出せるように積み込まなくてはいけない。

Sunday, March 29, 1857. The Barque Messenger Bird went to sea early this morning, bound to Hakodate and the River Amur.
1857年 3月29日・日曜日 - 三本マストのメッセンジャーバード号は今朝早く出航し、函館とアムール川に向かった。

出典/The complete journal of Townsend Harris, first American consul general and minister to Japan;by Harris, Townsend, 1804-1878; Cosenza, Mario Emilio, 1930


注3


 1850年代に発行されたアメリカの50セント銀貨。これが仮名垣魯文の「ゑひすのうわさ」に紹介されている。仮名書は銀の重さが貨幣価値を決めるという当時の国際ルールを下田で取材中に誰かから丁寧に吹き込まれたようだ。ただし、さすが仮名書、ペリー条約の時にアメリカ・ドルが不当に低く(実際の評価額の三分の一)扱われることになったことも、下田の奉行所公認バザーでは日本産品が市価の三倍以上で売りに出されていることにも触れはしない。為替レートの不当に触れたならば下田バザールの取材などできるはずもなく奉行所の牢に投げ込まれたか。
 ペリーが去り、ハリスが現れるまでの間に日米為替レートの不当を指摘した男がいる。F・A・リュードルフvon Fr. Aug. Lühdorfだ。彼は『グレタ号日本通商記』Acht Monate in Japan nach Abschluß des Vertrages von Kanagawa/1857で円の価値をドルの三倍に設定したペリー条約は明らかにアメリカ側の失敗だったと憤懣を込めて記している。

 仮名書は銀貨の説明に「異国人唱ふるにデラースともドラアーとも聞ゆるアメリカ製ノ銀トルラル表目方七匁弐分」と記しているがそれは安政五1858年六月の記事、日本とアメリカの通商条約が結ばれた時である。この記事は貿易に用いる銀貨は額面ではなく重さで通用することを踏まえている。七匁弐分は中国の光緒元寶七銭二分(品位90%)と同じ重さ(量目)。七銭二分はその広東方言が英語になって7 MACE AND 2 CANDAREENSと表記され貿易銀貨光緒元寶の裏面に刻印されている。七匁弐分は27グラム。半端な数字だがこれがポルトガルの交易ではじまる世界貿易の銀による決済、秤量貨幣の基準となった。



腰かけた姿の自由の女神をかたどったハーフ・ダラー(50cents)銀貨。魯文はこれをイギリス製のアメリカドルと紹介している。図柄が英国で発案されたことを誤認したか。この記事が下田での取材によるものならば、同様に『ゑひすのうわさ四』に掲載されている銀貨のイラストも下田で描いたものと言うことになろう。


イラストはどちらも「ゑひすのうわさ四」 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11223269 (参照 2025-04-18)から


こちらはオランダ製の銀ドルラル、目方七匁□□とある。これも貿易銀だ。アジアを最初に征したポルトガルの用いた貿易用銀貨の重さが27グラムだったことから、そのあとに続く西欧諸国も貿易決済に用いる銀貨の重量をポルトガルの銀貨に倣って鋳造した。中国の光緒元寳(七銭二分銀貨)、日本の幕末安政二朱銀、一分銀の貿易銀もこれに倣っている。ただし日本の銀貨は銀の品位を卑しめて落とし、貿易商から相手にされず貿易決済には役立たなかった。為替レートの成立も貿易銀の登場もすべては江戸時代末の出来事。下田バザールに日米の商人が現れ日露仏英の軍人漁労者が群がり国への土産物漁りに精を出しているさまは圧巻だ。日本は鎖国などしていない。
 下田バザールで商売する貿易商は長崎、下田、函館、カムチャッカ、アムール川の地を往来している。どの土地も東西交易の拠点だった。