KhasyaReport Khasyabooks mini 2024-Mar-8
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KhasyaBook miniブルボン小劇場のヒュースケン8 自由のことフリーダム、マルチル khasyaReport 2024-Mar-20 open page-Tap me 登場人物 久助 物語を進行する中心人物。ニューヨークの教会でハリスと出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。現代の幕末研究者は久助をヒュースケンと呼んでいる。 治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。版元にありがちだが度々名を変える。 カン 若い漢文学者。福沢諭吉が佐倉宗五郎をマルチルと呼んで絶賛したことで宗五郎事件の新たな書下ろしを治平に依頼されている。上総サクラ藩士。 ヌイ殿 サクラ藩城代。藩主文明公は老中首座で欧米諸国との通商条約折衝を統括する外国掛兼任。多忙を極めているためヌイ殿は江戸屋敷とサクラ城を繁く通って藩主を支える。縫殿重久とも。
登場人物 久助 物語を進行する中心人物。ニューヨークの教会でハリスと出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。現代の幕末研究者は久助をヒュースケンと呼んでいる。 治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。版元にありがちだが度々名を変える。 カン 若い漢文学者。福沢諭吉が佐倉宗五郎をマルチルと呼んで絶賛したことで宗五郎事件の新たな書下ろしを治平に依頼されている。上総サクラ藩士。 ヌイ殿 サクラ藩城代。藩主文明公は老中首座で欧米諸国との通商条約折衝を統括する外国掛兼任。多忙を極めているためヌイ殿は江戸屋敷とサクラ城を繁く通って藩主を支える。縫殿重久とも。
【今回のお話に入る前に・前口上】 Liberté自由、Égalité 平等、Fraternité 連帯。フランス革命に浮かび上がるスローガン。これら三語の前にUnité, indivisibilité de la République(皆まとまれ、共和国のために)があり、これら三語の後ろにou la mort(さもなくば死)がある。革命後、ou la mortはスローガンから外れる。1848年2月27日のことだった。
夜半にモリエールの「女学者たち」を読んでいたヒュースケンは急な激しい地震に見舞われ 落ちてきた鴨居の槍にあたって気を失った。気づくとブルボン小劇場の舞台で一癖ありそうなジャポネたちとテーブルを囲んでアブサンを啜っている。テーブルには久助の似顔絵が描かれた「ゑびすのうわさ」が。 『ブルボン小劇場のヒュースケン』は「ゑびすのうわさ」のヒュースケンを下敷きにしている。 彼の記事は誤認があって好い加減、てな貶しがある。しかし、肝心なことなのでゴジックにするけど記事にうそつきの悪意や読者を欺く作為はない 。むしろ即興で仕上げた雰囲気がその絵と文の息遣いにこぼれている。
第3幕 自由 freedom of conscience 第1場 ヒュースケンが思い出す将軍謁見の日のこと 久助 タイクンに謁見してブキャナン大統領の親書を手渡したのが12月7日。その5日後、ハリス公使と私は堀田備中守の上屋敷へ行きました。何としても老中内閣に伝えたいことがあるので老中諸氏に集まっていただいた。通商条約で亜米利加が求めるのは日本との貿易ですが、両国の経済交流で両国とも大きな利益が生まれることをハリス公使は伝えたかった。 治平 金儲け? 久助 勿論。それと開港を求めて亜米利加人が日本に定住する自由と信仰の自由を得ること。島原の乱以来、宗教弾圧を続ける日本に変化を求めることでもあありました。信仰の自由は日本にとって大変革。だけど集まった老中からは信仰の自由への異論は出なかった。1587年のキリシタン追放と1612年のキリシタン禁制は1857年12月12日、堀田備中守上屋敷で解かれたのです。良心の自由を訴える人が備中守の屋敷に居たからです。 治平 良心の自由って誰だい。 カン 話の流れでわかるでしょう。文脈を追ってください、治平さん。
治平 わかってるよ。亜米利加合衆国のハリス公使だ。腹立たしいので誰だい、とちゃち淹れた。 久助 この事は大切なので日記に書いておきました。私の日本日記はオランダ女王に捧げるものだから格式が高い。(と鼻高に言うのでMが、) M 実際にキリシタン禁制が解かれたのは1873年です。ハリス公使が信教の自由を訴えようがキリシタンはご法度。隠れキリシタンは打ち首です。 久助 将軍に会う前の日にハリス公使と私は公使館でエピスコーパル(聖公会)の日曜礼拝をおこないました。公使が開いた聖書の中のイザヤ書を、声を揃えて読みました。部屋の仕切りは障子ですから声が外に漏れて役人に知らるかも。そうなれば私たちは日本から追放されるか斬首に処せられる。 ヌイ まあ、幕末とはいえそういうキリシタン禁制は変わらないから。 久助 私はキリスト教徒だけど打ち首になるどころか丁重に十字架を刻んだ墓が建てられ仏教寺院にキリシタンとして葬られた。幕府の上級役人たちも私の葬儀に加わった。切支丹の信教の自由を徳川日本政府が認めたのです。 M あなたは何かと特別扱いなんです。うるさいから。
久助 横浜には教会が建ったし、亜米利加の商人が定住して教会の日曜礼拝に通う。安政五年の横浜開港前から英語を学びたいと日本人がやって来て教会で学んでいる。安政5年の横浜開港を見据えて子供を連れて家族で亜米利加からやって来た貿易商もあった。日本で一旗揚げようとして。 ヌイ そんな具合かね。 久助 これは麻布善福寺亜米利加公使館で撮った公使館職員の写真の一部分です。ハリス公使と私の間に写っている少年は佐渡金山で下級武士として働いていた益田鷹之助の長男タカシです。 左からヒュースケン、村山滝蔵、ハリス、中央下は益田孝/豆州下田郷土史資料館蔵・「幕末写真の時代」筑摩書房1994掲載から一部を拡大・写真説明もp80
鷹之助は佐渡金山での働きぶりが認められ新設された箱館奉行所に移った。 M 箱館には亜米利加公使館の支署があります。 久助 亜米利加や露西亜の捕鯨船が箱館に寄港して船の補修や食料燃料を購入します。だから、世話をする領事が常駐しています。箱館は安政五年の開港を待たずに開港していてライスという領事が亜米利加国旗を掲げて仕事をしている。
カン 条約も待たずに亜米利加も露西亜も勝手気ままにやりたい放題ぢゃないですか。 久助 タカシの父親は奉行所で支配調べ役をするうちに我が子を開港後の日本に合わせて育てようとタカシに英語を習わせました。間もなく江戸の外国奉行支配定役に鷹之助が取り立てられ、タカシも通弁見習いとなった。私たちはタカシを亜米利加公使館に預かって公使の下に置きました。家から毎日善福寺の公使館に通いました。あの時はまだ14歳だったか。ハリス公使になついていました。元服して幕府に正式採用されてから公使館に住むようになりました。 M 14歳と言えば立派に元服している。体は小さくとも大人です。彼は父親と一緒に幕府からフランスへ派遣されたんですよ。 ヌイ 親子で同時の海外派遣は幕府が禁じているけれど。 M あの子の名を徳之進から進に変えて他人になりすまして政府派遣団に入れました。丁度パリ万国博覧会の時だった。 ヌイ 名前を変えるというのはよくやることだ。ご一新の政府になって、だから今より先のことですが、タカシ君は政府役人を辞して貿易会社を興して経済界で名を挙げる。私は御一新で城代を外され、肴町で質屋の商売を始めたがあっという間につぶした。御一新で食えなくなった武士が着物だ、鍔だ、質入れするから儲かるはずだった。
カン ヌイ殿に商売は無理だ。根っからの文系だしソロバンを知らない。お金儲けは無理だ。 ヌイ 金勘定は苦手。質屋をつぶしてからシチローの口利きで新政府に潜り込んだが中風で右手指が動かなくなって役所で祐筆の仕事もできなくなった。タカシ君は武士の身分を捨て商人になった。三井物産を立ち上げて社長にまでなって国の鉱山を買取る離れ業をやった。三池鉱山だよ。タカシ君にはいろいろ、きな臭い笑い話が渦巻くのですが。 治平 お役所のうわさ話はヌイ殿の得意分野ですな。 ヌイ 私は昔からきな臭い話を語り継ぐのが性分なんです、治平さん。先祖代々勝手掛だったから裏金のことは特に得意。御一新の直前に大金持って京へ行って長州に捕らわれた文明公をお助けしようとしたが、反対に薩長から「ヌイの首を取れ」とあちこちに立札を建てられる羽目にもなりました。偽名を使って宿を泊まり歩き同行した西村君とやっとの思いで京を逃げ出しました。 久助 私が死んでから日本はそんなことになってるのですか。 ヌイ そう、あなたが薩摩のテロリストに腹を切り刻まれてから日本は動いた。
M いや、動かされた。 ヌイ そうかもしれない。天狗党や薩摩脱藩貧乏武士が腹芸でテロを起こす時代は終わるんです。久助さん、あなたの葬儀は欧米五か国の政府とその軍が取り仕切ったそうですよ。 久助 氏の淵でワインを私についだハイネが、すべて取り仕切る、心配するな、と言っていたような。 ヌイ 我城主が言われるにはラッパと太鼓が鳴り響いて五か国が一つになって葬儀行進を見せつけた、と。 久助 ハイネ君、うまくやってくれたんだ。 ヌイ これはね、あなたが開国後の日本の進む先を決定づけたということです。久助さんを殺したテロリストを野放しにするのかと各国は激しく徳川日本政府に迫った。あなたの上司を外してね。英吉利も仏蘭西も軍艦を動かして戦を起こすとも言った。幕府は各国が要求する通商をすぐさま受け入れざるを得なくなった。 治平 むむむ(と唸って声にならず) ヌイ それからです、日本の混乱が深まるのは。御一新の勢いに乗る薩摩は英吉利の大使に切りかかり、鹿児島湾内に攻め込んできた英吉利軍艦には陸から大砲を打ち込む。市街は戦艦から報復爆撃を受けた。薩長の武力では彼らに敵うわけがない。両藩は近代戦争のやり方を英仏に教えられた。実戦で武器を使って見せてその敵に武器を売りまくるのが英吉利商人のやり口ですから。英吉利も仏蘭西も実に商売がうまい。私は商売が下手で肴町の質屋をつぶしたのに。
カン ヌイ殿、話は肝心なところに入っています。ヌイ殿の質屋の話はまた今度… ヌイ そうですか。おしいなあ。(と、アブサンをぐびり。顔をゆがめる) 第2場 フリーダム、マルチル 治平 ハリス公使は上屋敷で何をぶったのかい? ヌイ あの時亜米利加公使の演説を通訳したのは久助さんだから、久助さんに聞いてみましょう。公使は日本、がんばれ、と言っていたような。輸出をしなさい、そうすれば日本はもっと豊かになるというような。そうですよね。 久助 そうです。ハリス公使は日本には利益が生まれるのだから即刻開港して貿易を進めましょうと言いました。備中守の屋敷に集まった人たちは「日本も亜米利加に来て商売すれば利益が上がる、日本人にできない訳がない。ニッポン頑張れ」と公使が檄を飛ばすものだから盛り上がりました。英吉利のエリギン卿が戦艦を連ねて日本を襲うものならアメリカは日本を守るとも言いました。でもね、ハリス公使が備中守上屋敷で老中の人たちや外国掛の面々に真に伝えたかったのはそこではない。 ヌイ 違う?というと? 久助 フリーダムとマルチルです。 治平 ふりーだむ? マルチ--こう?
カン (のちに福沢諭吉が「学問ノススメ」でマルチルドムを礼賛するのを予知してか、カンが反応する)マルチルってマルチルドム…?マルチルドム、それだ。それなんだよ、治平さん。 治平 ふうふう、カン君、待ってくれ。聞いたことのない言葉ばかりだ。 久助 オランダ女王に捧げる私の日記ジャパン・ダイアリーには自由フリーダムという言葉が5回出てきます。 M ちょっと待ってください。日本にはまだ自由という言葉はない。10年先です、自由が出てくるのは。だから久助さんがフリーダムと言っても訳語がないから通じない。 久助 そう、日本語には「自由」がない。ペジミックだけど、これから先も未来永劫、日本に「自由」はない。 ヌイ 自由とは何でしょう? 久助 (自問して)何でしょう? ハリス公使の日記には「自由」が六回出て来るけど、それはフリーダムじゃなくてリバティです。堀田上屋敷での演説ではリバティという言葉を使わなかった。意識して使わなかった。私はフリーダムを主張する。ブルボン小劇場に私たちがいることと関係しているから。フランスのパリ。ここには死を賭けて勝ち取った市民とペイゾン自作農の自由がある。 カン 久助さん、フリーダムがなんだか説明してください。
久助 それはモノではない。テツガクの概念だと思う。日本にない概念だから説明のしようもない。 M 待って久助さん。さっきからテツガクって? そんな言葉も日本語には、まだ、ないんです。 治平 まだない、まだないって。いったい、いつになったら出てくるんだ。 【次回へ続く】 【参考文献】
Japan journal 1855-1861 Henry Heusken January 1, 1964 by Rutgers University Press Complete Journal of TOWNSEND HARRIS BY MARIO EMILIO COSENZA, PH.D. https://libsysdigi.library.illinois.edu/OCA/Books2012-12/completejournal0harr/completejournal0harr.pdf 「幕末写真の時代」小沢健志 筑摩書房1994 益田孝(前篇) 三井広報委員会 https://www.mitsuipr.com/history/columns/014/ 『ゑひすのうわさ』五,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270 (参照 2024-03-08) ※作者著作年等不明とされるが仮名垣魯文の作か -----------------
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